説教 「ザアカイの喜び」  大柴 譲治牧師

ルカによる福音書 19: 1-10

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

召天者記念主日にあたって

本日私たちは全聖徒主日、召天者を記念する主日を守っております。毎年11月1日が全聖徒の日なのですが、それに合わせて11月の第一日曜日に、私たちの教会に関わりのあった方々で天に召された方を記念する礼拝を守っているのです。皆さまがお手持ちの週報にはこの教会の76年の歴史の中で天に移されてゆかれた162名の召天者の方々のお名前が記されていますし、聖卓の前には99名の召天者のお写真が収められたアルバムが置かれています。

昨年の全聖徒主日からこの一年間に天に召された方々が5名おられます。2月3日に根本ヨシ姉が83歳で、4月2日には蒔田きみ子姉が90歳で、5月25日には清水すず姉が93歳で、8月22日には室岡弘通兄が70歳で、8月27日には玉江祐子姉が47歳で、この地上でのご生涯を終えて天へと移されて行かれました。地上に残されたご家族は深い悲しみと別離の寂しさとを味わわなければなりませんでしたが、私たちは天に召された者たちが、私たちには見えないかたちではあれ、今もなお神さまの懐に生きているということを信じております。

このキリストの食卓には、見えるこちら側には私たち生ける者が集いますが、向こう側には見えない聖徒の群れが集っていると信じております。キリストは生ける者と死せる者の両方の救い主であり、今日もこの後で聖餐式が守られますが、この聖餐式は終わりの日の祝宴の先取りであると私たちは信じているのです。

その日には、ヨハネ黙示録が告げているように、光の都エルサレムに私たちも招き入れられることが約束されています。「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る」(黙示録21:22-26)。

私たちは私たちにつながる愛する者たちが、神さまの恵みによって私たちのただ中にあってこの地上に生き、神さまを信じてすべてを主イエス・キリストに委ねていったことを覚えつつ、本日与えられたみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。

ザアカイの喜び

本日の福音書の日課はあの「ザアカイの物語」です。たいへんによく知られた物語です。ザアカイはエリコに住んでいます。彼は徴税人の頭で、金持ちでした。しかしユダヤ人たちからは嫌われていたことが分かります。背が低かったので群衆に遮られてイエスを見ることができなかったとありますが、それは恐らくローマのために徴税人として働くザアカイに対する反感がそうさせたとも考えられます。ザアカイは異邦人のために働く汚れた裏切り者でもありました。ザアカイという彼の名前自体もザカリアというヘブル名のギリシャ語短縮形であるということから、彼がユダヤ人社会の中でどんなに周辺に追いやられていたか、つまはじきにされていたかが分かりましょう。

そんなザアカイにイエスは呼びかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」これはすばらしい招きの言葉です。社会から見捨てられ、交わりから排除されていた者がキリストとの交わりの中に入れられる!ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えますが、どれほど大きな喜びに包まれたことでしょうか。交わりを断たれていた者が、再び交わりを見出すのです。孤立して孤独であった者が、主によって連帯の喜びの中に引き入れられるのです。

ルカ福音書は、15章の失われた羊や銀貨、放蕩息子のたとえのみならずその全体が、失われた者がイエスさまによって見出されることの喜びをくり返し宣言しています。その基調音は喜びであり、その中心は天の祝宴、つまり聖餐式の喜びです。

私たちはザアカイの気持ちがよく分かります。私たち自身もイエスさまと出会うことがどれほど大きな喜びであり、慰めであるかを体験的に知っているからです。深い悲しみや絶望、行き詰まりや孤独、罪と恥の痛みの中で、私たちも人生において主イエス・キリストに出会ったのです。キリストは「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と私たちの名前を呼んで、私たちの貧しい心の家に泊まってくださるお方です。

キリストと出会う喜びは、どんなに悲しみや罪の苦しみが私たちを襲ってきても、もはや消え去ることのない喜びです。主が私に目を留め、主が私の心を滞在場所に選び、主が私に恵みを豊かに注いでくださった。それは私を通して主のみ業が現れるためです。

召天者たちのご生涯は、私たちのただ中にあって、今もなお輝いています。私たちの前には依然として死が大きく乗り越えることができない壁として立ちはだかっているように見えますが、召天者たちの生と死は、死が終わりではないということを証ししています。死は究極的なものではない。キリストの復活の生命こそが究極的なものであり、死はそれに至るための一つの通過点にしかすぎないのです。

パウロは言っています。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と(ローマ14:8)。生きるにしても死ぬにしてもキリストがすべてであり、このお方に私たちはすべてを委ねて行くのです。ここに尽きることのない喜びがある。そしてこの喜びから私たちを引き離す力を持ったものは何も存在しないのです。パウロがローマ書8章の終わりで次のように語る通りです。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:35ー39)。

今日は島田療育センターから三人の兄弟姉妹が礼拝に参加されています。ヨハンナ・ヘンシェル先生のお名前も召天者のお名前の中にありますが、ヘンシェルママもそのようなキリストの愛に捉えられ、その喜びを分かち合うためにドイツから日本へと来られたのです。そして文字どおり「日本の土」になるまで島田療育センターに関わり、キリストの愛をその実践を通して示されたことを私たちは知っています。

そしてザアカイがキリストに出会う喜びによって新しい生き方へと造り替えられたように、私たちもキリストと出会うと、そのあまりのすばらしさ、うれしさにそれまでとは全く違った生命の次元へと招き入れられるのです。「ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』」(8節)。ここではザアカイが「立ち上がった」という点が大切です。キリストと出会った者は、それまでの古い生き方を捨てて新しい生き方へと立ち上がるのです。キリストへの服従の人生へと立ち上がって入って行くのです。

イエスさまはそのようなザアカイの言葉を聞いて決定的な事柄を宣言します。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(9-10節)。「人の子」とはイエスさまがご自身を呼ぶ時に特徴的な言い方ですが、ご自分は「失われたものを探し出して救うために来た」のだとご自身の使命(ミッション)を宣言しておられます。これが福音です。罪と死と生きることの虚無感の中に失われていた私たち、死んでいた私たちを見出し、喜びへと回復してくださるために主は来られたのです。キリストと出会い、キリストを信じ、キリストに服従する喜びの人生を始めるとき、私たちもまた「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだ」というキリストの声を聞くことが許されるのです。パウロの言葉を借りて言うならば、キリストと出会った時、私たちはこう言うことができる。「今や恵みの時、今日こそ救いの日」(2コリント6:2)と!

聖餐式への招き

ただいまから聖餐式に与ります。洗礼を受けるということ、キリストを救い主として告白するということは、死によっても終わることのないキリストと共なる喜びの人生に入るということです。主は言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25)。

すべての者が主の招きに与っています。召天者記念主日にあたり、私たちもまた天の喜びの列に加えていただきたいのです。キリストに従う人生だけがそのようなまことの喜びを与えてくれるのです。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますようお祈りします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年11月04日 召天者記念主日 礼拝説教)