説教 「主人と僕の関係」  大柴 譲治牧師

ルカによる福音書 19:11-27

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

二つのたとえが一つに

たいへんに厳しい響きのある本日のイエスさまのたとえを、私たちはどのように理解すればよいでしょうか。そこには二つの主題があるようです。あるいは、もともと二つのたとえであったものをルカが一つにまとめたのかもしれません。

第一のたとえの意図は、11節の後半にある言葉から分かります。「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」そこには「メシアと仰がれるイエスがエルサレムにいよいよ入ってゆかれる!さあ、待ちに待った神の国の到来だ!」と騒ぎ立つ群衆がいたことが分かります。そしてこのたとえはそのような群衆に向かって語られている。「神の国はすぐには来ない。まず人の子(イエス)は王位を受けるために遠い国に旅立たなければならないのだ」と語られているのです。神の国が目に見える形で到来するのは終わりの日まで待たなければならない。

実際にこのたとえの背景には現実の王位継承を巡る出来事があったようです。ヘロデの息子アケラオは紀元前4年に父の遺言によってユダヤの君主となりましたが、ローマ皇帝から父王の後継者となることの承認を受けるためにローマに旅行します。時を同じくしてユダヤ人の使節団がローマを訪れ、ヘロデ家の統治を廃してユダヤを帝国の直轄とするよう陳情したのですが、アケラオはローマの承認を勝ち得るのです。アケラオは実際は「王」ではなく「行政長官(代官)」(四分封主の上の位)を得たに過ぎなかったのですが、彼はこの称号のもとに事実上王と同じ権力を揮ったといわれています。しかし結局アケラオは、10年の統治の後に早くも、臣下の絶え間のない苦情のゆえに、位と領土を失い、紀元6年にガリヤに追放されることになるのです。14節の「国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」という言葉や、27節の「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」という過激な言葉は、そのようなアケラオの歴史を彷彿とさせるものです。

第一のたとえが群衆に向かって語られているのに対し、第二のたとえは主人が10人の僕に1ムナずつ渡して商売をするようにと命じる物語で、弟子たちに向かって語られています。そこでは僕として主人に委ねられたものに忠実に励むべきことが求められている。

1ムナとは100デナリオン、価値としては当時の労働者のおよそ三ヶ月分の賃金に相当しました。主人が旅から帰ってきてみると、一人の僕はそれを元手に10ムナに増やし、二人目は5ムナに増やしていました。しかし三番目の僕は、主人の命に背いて、預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい主人を怖れて、布に包んでしまっておいただけでした。彼は恐れのために手も足も出なかったのです。

自分の世界に閉じこもるということ

21節によると、その不忠実な僕は主人に対して徹底的に悪いイメージを抱いていています。そのような僕に対して主人は言うのです。「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか」(22節)。

僕は主人に対して信頼関係を持っていなかった。ただ主人を恐れ、震えながら服従していただけなのです。ですから彼は、いろいろ考えたのでしょうが、結局恐れのために萎縮して何もできなかった。恐れというものは私たちを閉じこもらせます。私たちに自分らしさを失わせ、私たちに冒険やリスクを犯すことをできなくさせる。

この自らの怖れの中に閉じこもって何もできなくなることを「閉じこもり」または「引きこもり」と言います。実は、私たち人間は安全な場所でないと自らの固い心の殼を開くことはできない。なぜなら殼を開けば私たちは自分が容易に傷ついてしまうことを知っているからです。感受性の豊かな柔らかな心ほど傷つきやすいものであると思います。いったん傷ついた心は、外の世界の非情さに耐えられず、安全な場所、かつていた母親の胎内に戻ろうとするもののようです。

考えてみれば、私たちはこれまで傷つかなかったことがあったでしょうか。幼い頃から私たちの心は繰り返し傷ついてきたのではなかったか。何度も何度も私たちは傷ついてきた体験を持っています。そのような体験を重ねることのなかで、私たちは自分の心が傷つかないように外界に対する無関心を裝ったり、心に鎧甲をかぶることを学んできたのではないか。一々傷ついていたら仕事にならないし、人生の荒波を乗り越えてゆくことはできないからです。

私たちは一人残らず、赤ちゃんだった時があります。赤ちゃんにとっては泣くことが仕事です。オギャーオギャーと大声で泣き叫んだ体験を持っているはずなのですが、大人になってからは誰もそのようなことはなかったかのように生きています。しかし涙を流すということは、病的な涙というものも確かにありますが、一般に言って、人間性を回復するためにとても大切な事柄だと思われます。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさいとパウロは奨めていますが、泣いたり笑ったり、喜怒哀楽の表情を自然にそしてダイナミックに外に対して表現できる人は、生き方が安定しています。悲しいときに泣けない苦しみ、嬉しいときに笑えない苦しみといったものがあって、これはまことに辛い。眠たいのに眠れない苦しみと同じではないかと私は想像します。自分の固い殼の中に入って生きているのです。誰にも心を開かず、外に対しては機会のように無表情になって、自分だけの奥深い世界で生きている。その世界だけが安全だからです。傷つかずに生きてゆくことができるからです。しかしそれは本当に孤独な生き方だと思います。

私たちには確かに逃れの場が必要でありましょう。7月に小泉潤総会議長はよきサマリア人のたとえを引いて、「教会は宿屋だ」と言われました。癒しと慰めの場としての教会、宿屋としての教会が現代社会には必要なのです。癒され、傷を乗り越えてゆく力が与えられるからこそ、私たちは閉じこもりの世界から現実の世界へと戻ってくることができる。そのような力はどこで与えられるのか。それは子供が親の温かいまなざしの中で安心して自分自身を開いてゆくことができるように、神さまの愛のまなざしを私たちは必要としているのではないか。小さい頃、私たちは公園などで我を忘れて遊んでいて、ふと心配になって親の方を振り向いて、そこに親のまなざしがあることを確認して安心してもう一度遊びに戻ってゆくことができるように、私たちは人生の要所要所で神さまのまなざし、神さまの愛を確認する必要があるのではないでしょうか。教会という場所は、礼拝という場は、そのような神の私たち一人ひとりに対する暖かなまなざしを確認する場所ではないかと思えてなりません。

もちろん、子供たちに対して、危ない場所や危ない遊びはその危険性を厳しく注意する配慮が親には必要です。ある時には神さまは私たちに対して厳しい怒りを表されるかも知れない。それはもしかするとあの不忠実な僕が感じたような、「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」という思いを私たちの中に引き起こすかも知れません。しかしそれは神さまが私たちを愛するがゆえに、ほっておけないために、そして私たちを危険から守ろうとしてそのような厳しさを示しておられるのだということを私たちは知らなければならないのです。「神の慈愛と峻厳とは見よ」とローマ11:22に語られている通りです。

僕は主人のあわれみの深さにこそ目を留めるべきであり、それに信頼すべきであったのです。しかし彼は主人の厳しさだけを恐れ、自分の中に閉じこもってしまっていた。1ムナを布に包んでしまっておいたというのは、まさにそのような自閉的な世界に閉じこもっていて怖れのゆえに一歩もでようとしなかった人間の姿を示しています。そして、そこには私たち一人ひとりの姿が描かれているのです。闇の中で光を恐れ、恐れとおののきの中に閉じこもっていた私たちです。

実はこう言うと驚かれるかも知れませんが、自己肥大化も、自己神格化も、自分の中に閉じこもること、引きこもることの一つのヴァリアータ(変形)でしかないのです。それらは、恐れとおののきの中に、他者との関わりを持たずに孤立して生きているという点では全く同じなのです。全く虚無の中に孤立しているという点で同じなのです。すべてを支配しているのは恐れであり、絶望なのです。

たとえの指し示すもの

このたとえはエルサレムで何が起きるのかということに関連を持っています。主イエスはエルサレムで十字架にかかられた。恐れとおののきの中で自分の中に閉じこもらざるをえないでいる私たちをそこから解放し、もう一度私たちを神との本来の関係に招き入れるために主は十字架にかかってくださった。神さまの愛のまなざしが私たちを捉えて放さないことを主の十字架は私たちに証ししています。この神の愛が私たちを変えてくださるのです。

主人を恐れて何もできないでいた僕が、主人の深い愛と憐れみと自己犠牲とに気づくとき、そこに信頼関係が樹立し、ある者は1ムナを10倍に、ある者は5倍に増やすことができる者に造り替えられてゆく。第三の僕が第一、第二の僕へと変えられてゆく。そのような神の新たな創造の物語として本日のたとえを読んでゆきたいと思います。新しい一週間をそのような神さまの恵みのみ業を心に刻みつつ、歩んでまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようお祈りします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年11月11日 聖霊降臨後第23主日 礼拝説教)