説教 「善きサマリア人~聖書の読み方」 大柴 譲治

ルカ 10:25-37

本日は有名な「善きサマリア人の譬え」をご一緒に読みながら、聖書の重層的な読み方を味わいたいと思います。「聖書って本当におもしろい!」という思いをご一緒に共有できたらと願います。

九学でのアンケート~実存的な読み方

今から14年ほど前、私が神学生として熊本の神水教会でインターンをしていた時のことです。九州学院と九州女学院という高校で聖書の授業を何回か受け持ちました。その時にこの「善きサマリア人の譬え」を用いて授業をしました。最初に紙を配って二つの質問を出します。第一問「あなたはこの物語の中の登場人物のだれに一番自分は近いと思いますか」、第二問「それはどうしてですか」。それに答えてもらうのです。皆さんはどう答えますか。

高校生たちの答えはなかなかおもしろいものでした。一番多かったのはサマリア人で、全体の三分の一強ほどでしょうか。やはり困った人を見たらほっておけないからという理由でした。次は三分の一弱が自分は祭司かレビ人であり、なかなか自分のスケジュールを変更してまで困っている人を見ても助けることはできないと答えてくれました。あとは数人ずつ、「自分は宿屋の主人だ。お金をもらえば助けてあげることができるだろう」とか、「自分は強盗だ、いつも人を傷つけてしまう」とか、「自分はロバだ。重荷を背負わされて歩いている」というおもしろい答えまでありました。また、3人ほどの生徒は「自分は傷ついた旅人だ。苦しみの中に倒れているような毎日だから」と答えてくれました。そのように見てくると、私たちはこの物語の中の登場人物の一人ひとりに当てはまるようにも思えてきます。

聖書的なコンテクスト

ここで簡単に聖書の文脈と当時の状況を説明しておきます。ルカ10章の最初で主は72人を派遣して神の国を宣べ伝える。弟子たちはやがて帰ってきて報告します。それを祝福した後で主は、主イエスがどういう存在であり神の国というものが何を意味しているかを全く理解していない二人の人物に出会う。一人は律法学者、もう一人はマルタという名の女性です。 一人は「行って、おこなう」べき存在であり、一人は「座って、聞く」べき存在です。

祭司とレビ人というのは当時エルサレム神殿で宗教的祭儀に与っていました。レビ人は祭司の補佐的な役割を果たしていた。それに対してサマリヤ人というのは、本来は同じ祖先を持つのですが、近親憎悪と言いましょうか、当時ユダヤ人からは徹底的に忌み嫌われていた存在です。彼等はBC722年のアッシリアによる征服後に、この地を支配していたアッシリア人とユダヤ人との間に生まれた者たちの子孫です。神殿とエルサレムの再建に反対して彼らはゲリジム山の上に自分たちの礼拝の場を設けました。宗教混淆的要素を持つサマリヤ人は正統派ユダヤ教の儀式からすれば不浄な汚れた存在、社会的には見捨てられた者、宗教的には異教徒ということになります。「サマリア人」という名前を口にするのも汚らわしいと思われていた様子が、律法学者が最後に「サマリア人です」と答えないで「その人を助けた人です」とわざと回りくどい言い方をしたことからも分かります。

この譬えですが、おそらくイエスさまの時代にはこれと同じようなことが実際にあって、当時の人々の話題になっていたのだと思われます。強盗も強盗に襲われた旅人も、祭司もレビ人も、一人のサマリア人以外はおそらくユダヤ人です。エルサレムからエリコに下ってゆく道はくねくねと曲がりくねっていて見通しが悪く、しばしば追い剥ぎが出没しました。祭司とレビ人はいずれも宗教家ですから、律法を厳密に守らなければならない立場にあった。エリコは「祭司の町」とも呼ばれ、祭司たちの住居がありました。彼らはおそらく追い剥ぎに襲われた旅人を見て気の毒に思ったに違いありません。しかし彼らは、おそらく二つの理由から、その傷ついた旅人を助けなかった。一つは、倒れたふりをして追い剥ぎが次のカモをねらっているかもしれないと考えたからです。それは彼らの常套手段でした。二つ目はもっと重要で決定的な理由です。律法には汚れたものに近寄ってはならないとあるからです。血を流しているものや死体などには近寄ってはならなかった。近寄ると一定の清めの期間は汚れてしまい、彼らは自分の宗教的な義務を果たすことができなかったからです(レビ21:1,民数19:11)。旅人は既に死んでいるように見えた。ですから彼らはこのような理由から、二人とも一番遠い「道の向こう側を通って行った」のです。

神を愛することと隣人を愛することの不可分性

そのように見てまいりますと、ここでは律法を守ることと隣人を愛することが切り離されていることが分かります。律法遵守が優先されている。神を愛するということ(垂直方向における愛)と隣人を愛するということ(水平方向における愛)が分離されている。イエスさまはそこを問題とするのです。パウロが言うように、たとえ山を動かすほどの信仰があっても愛がなければ一切は無益なのです(1コリント13:1-3)。具体的な愛だけがすべてに意味を与えると言ってもよい。サマリア人はそれに対して隣人を愛し抜く。彼にとってはユダヤ人とサマリア人の壁など関係ない。彼は「深い憐れみ」を持つ。語られていませんが、おそらくそれはサマリア人自身が神の深い憐れみ(愛)を感じながら日々生きていたからでありましょう。彼は水平の愛と垂直の愛をクロスさせていて分離していない。

この譬えが語られた状況を思い起こしてください。一人の律法学者がイエスのもとに来て「イエスを試そうとして」問います。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」やりとりが続きます。 「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」事柄は「永遠の生命」という重大問題です。

実は、後半にも前半と同じ「問いと答え」構造が出てきます。「私の隣人とは誰ですか」「あなたはこの三人の中で、だれが追い剥ぎに襲われた人の隣人となったと思うか」「その人を助けた人です」「行って、あなたも同じようにしなさい」。この「問い」「問い」「答え」「答え」という二組の「問いと答え」という構造がとても重要です。律法学者は自分の質問への正解を初めから知っていた。主は彼の答えに対して全面的な肯定を表明する。では、この会話のどこが悪いのか。ここには二つの優れた問いと二つの優れた答えがあり、意見の一致した二人の人物がいる。さらに何が問われうるのか。実は、このようなことすべてが間違っているのです。正しい答えを得ているということは、必ずしもその人が神を知っているということを意味しない。 要は、正しい答えを知っていることではなく、正しい答えを生きること、つまり愛を実行することが大切なのです。神学的な議論ではなく、具体的に愛を生きることが肝要なのです。

律法学者は自分を正当化しようとして言います。「では、わたしの隣人とはだれですか」と。これも答えは明らかでした。彼にとっての隣人とはユダヤ人のことなのです。それは自明な事柄でした。彼はこれまで正しく隣人を選択し、隣人愛を実践してきたという自負を持っていたに違いありません。ところがイエスさまは仰天するようなことをおっしゃった。祭司やレビ人のような熱心で律法に忠実な宗教家ではなくて、口にするのも汚らわしい不敬なサマリア人のことを義としたのです。 「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスさまの問いかけは決定的でした。「その人を助けた人です」という答えの中に、律法学者の苦い心情が手に取るように伝わってきます。主は命じます。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。愛とは知識ではなく実践なのです。

ここで「誰が私の隣人か」という律法学者の問いが、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったか」という問いに逆転させられていることに注意したいと思います。前者は私中心ですが、後者は弱い立場に置かれた者が中心です。誰が「私の」隣人であるかという自己中心的で静的な問いが、私が「誰の」隣人となるかという小さい者を中心とした動的でダイナミックな問いに変えられている。自分の周りに自分の隣人を捜すのではなく、自分が隣人となってゆくことが求められている。私たちもキリスト者として主からそのようなチャレンジを受けているのです。

「善きサマリア人」=主イエス・キリスト=「傷ついた癒し人」

しかし、この譬えをそのように道徳的・倫理的な隣人愛の勧めとして読むだけでは、理解は不十分であると言わなければなりません。この譬えは私たちにもっとずっと深いことを示しているからです。

ルーテル学院大学の人間成長とカウンセリング研究所の公開講演会でアメリカから招かれた高名な先生が以前にこのようなことをおっしゃっておられました。あるカリフォルニアの牧師会で、サマリア人の譬えを用いて先の二つの質問をしたところ、ほとんどの牧師たちが自分は祭司でありレビ人に近いと答えたそうです。よきサマリア人とはなれないでいる自分に罪悪感を持っていた。なすべきことは分かっていてもそれを行うことができない、そのような苦しみを牧師たちは感じていたのです。しかし、その先生はおっしゃいました。この譬えはしかしそのような私たちに対しても語りかけられているのではないか。強盗に襲われて傷つけられ、半殺しの目にあって血をどくどく流しながら倒れて死にかかっている私たち。そのような私たちに、よきサマリア人として深い憐れみをもって近づいてきてくださり、傷を介抱してくださるお方がいる。それこそ私たちの主イエス・キリストではないか。私たちはこのお方の深い憐れみのゆえにもう一度新しく生命を回復され、新しい歩みを踏み出してゆくことができるのである、と。私はこのお話にいたく心動かされました。そのように読むときに私たちはイエスさまの譬えの奥深さを知るのです。

さらにもう一歩踏み込んで言うならば、主ご自身、強盗に襲われて傷ついた旅人のような姿であのゴルゴダの十字架の上にかかってくださったということを私たちは知っています。主はご自身の傷によって人々を癒す「傷ついた癒し人」なのです。主は人々を徹底的に愛し抜くことの中に父なる神への愛をも貫いた。水平の愛と垂直の愛がクロスするところにキリストのクロス(十字架)が立っています。

(1998年7月19日)