たより巻頭言「究極的な事柄」 大柴 譲治

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(コヘレトの言葉3:11)。

「先生、人生は神さまと出会うためにあるのではないかと思うのです」。「もしかすると間違っているかもしれませんが」とはにかみつつ私に語ってくださったご婦人がおられます。そして続けられました。「そして神に仕えるということは身近な隣人に仕えるということなのでしょうね」。これは私が最近で最も感銘を受けたやりとりの一つです。

 ガンとの闘病の中でこの方は、親しい友人を通してキリストを信じる信仰に導かれ、昨年のクリスマスに受洗されました。冒頭の言葉は、衰えゆく体力の中で、しかし笑顔とともに語られた言葉でもあります。残される家族にもそのことを知って欲しいという切なる祈りがその背後には込められています。

 コヘレトの言葉は、死すべき私たちには、その有限性にもかかわらず、永遠を思う心が与えられていると語ります。たとえ死がどんなに強く、圧倒的な力をもって迫ってきたとしても、それは究極的な事柄ではない。死を越えた「神と共なる永遠の生命」こそが究極的な事柄なのです。主のご復活はそれを示しています。信仰はそのように、死によっても失われることのない希望を与えます。もちろん、だからといって私たちから苦しみや悲しみがなくなるというわけではありません。かつて老哲学者マルチン・ブーバーは言いました。「私は死は怖くない。けれども死ぬのは怖い」と。正直な言葉だと思います。しかしそのような弱さの中で、信仰は私たちに希望を与えてくれる。その力によって私たちは生も死もすべてを神さまに委ねてゆくことができるのです。

 「人生は神さまと出会うためにある」。これは究極的な事柄を捉えた一つの信仰告白です。この方の白鳥の歌と言ってもよい。苦しい息の中ですべてを神さまの御手に委ねてゆこうとされている一人の信仰者と、その闘病生活を支え続けているご家族のために祈ります。また、悲しみのうちにあるすべての人々のために祈ります。神さまのみわざがお一人おひとりの上に現れますように。アーメン。