「ミネソタの風(総集編)戦争と平和」 上村敏文

「戦争と平和」  上村 敏文

今回の2年間の留学は、セプテンバーイレブンに始まり、イラクへの攻撃で終わる事になり、必然的に「戦争と平和」をテーマに考えざるを得ませんでした。日米の報道の温度差を比較しつつ、キリスト教神学について、思いを馳せている事を徒然にしたためてみたいと思います。

 
戦争について
全世界、そして多くのアメリカ国内の反戦運動にも関わらず、イラクを攻撃してしまったホワイトハウスへの怒り、絶望、悲嘆は一言では言い表わす事ができません。そして、アメリカの報道を見ていますと、あまりにも一方的で、憤慨してしまいます。アメリカの兵士が亡くなると、大きく取り上げ、イラクの人々が何百人、何千人とミサイル攻撃の下で亡くなっている事実にはほとんど触れない。セントポールでも、ベトナム反戦運動を上回る抗議デモが行われたにも関わらず、ある新聞は、全くその事実すらも掲載されていない。(驚きました)

戦争支持率が7割と報道されていますが、一体どのような調査をしているのか? 少なくとも、ミネソタの街には家の前、車等いたるところに、Do not Attack Iraq(イラクを攻撃するな)というポスターが張られています。戦争支持のポスターも戦争が始まってからちらほらとは見かけるようになりましたが、それでも少数です。イラクへの攻撃が開始されてしまった日、Luther Seminaryのクラスでは泣き出してしまう学生もいました。

野上の義父が持って来て下さった文芸春秋(2002、10月号)には、アメリカ不信が特集されていました。その中で、「それでも私は親米を貫く」と阿川尚之(駐米公使、前慶応大学教授)の記事の中に「ミネソタでノルウェー系アメリカ人の農場で見るアメリカは、まったくといっていいほど異なる」(p264)、と書いておられます。

 
キリスト教と戦争
キリスト教倫理の講議の中で、私が「アメリカがネイティブアメリカンの土地を奪ったのと、日本がアジアを植民地化していったのとどのような違いがありますか」と真正面から質問した所、その教授は「変わらない」と答えられた。

その後、私もいろいろと考えてみました。日本は天皇の名の下、日本書紀に典拠する「八紘一宇」をスローガンに、大平洋戦争を始めていきました。「宇」とは屋根ということであり、世界を一つ屋根のもとに、欧米に植民地化されたアジアを、日本的価値観によって統合していくことを、理論的に正当化しようとしました。あるインドネシアの牧師先生の話の中で「日本軍が欧米の軍隊を破ったのは、大きな驚きでした。我々は、欧米に支配されているのが当たり前のように思っていたからです。」その後、日本軍が欧米に変わって支配をしてしまったわけですが、、、。

アメリカはといえば、Godの御名において、自由、平等、幸福を天賦の人権として建国しました。アメリカ合衆国をある人はGod’s promised landと言います。あちこちにはためく星条旗を見つつ、この旗(像)のもとでどれだけの数の人間が亡くなったのかと私は複雑な気持ちになります。懇意にしているアイスランドの家族と、今回の戦争についていろいろ話してみたら、多くの点で、私が考えていることと一致しました。アイスランドでは、土曜日の午後2時に、クラクションでも鍋でも、一斉に音を鳴らし、戦争に抗議しているそうです。

かつてモンテスキューが「キリスト教国ほど戦争をしている国はない」と言っているように、この新興国アメリカは、北米、ハワイ(1898)、フィリピン (1899、1946独立)と領土を戦争により広げていっています。第二次戦争中にでさえ、あるアメリカ人弁護士が「日米戦争は日本がしかけたものではない。ルーズヴェルトがわざと日本に戦争をはじめさせたものだ」(前出文芸春秋p265)というエピソードを紹介しています。。今回のイラクとのゴリ押しの開戦を見ていると、なる程と思わせられるものがあります。戦争をすると決めたら、何が何でも始めてしまう、凄まじいまでのエネルギー!

アメリカ人はジャスティフィケーション(正当化)という言葉が非常に好きなようです。問題は、何に基づいたジャスティフィケーションであるかということになりますが、これが、どうやら聖書ということになりそうです。ブッシュ大統領は対イラクは宗教戦争ではないと言いつつ、「十字軍」と思わず言ってしまったり、Godの御名を絶えず、枕詞のように置く以上、その演説を聞く者は、キリスト教の国が、イスラムの国であるイラクを攻撃する事を、宗教戦争と思ってしまってもしかたがないようにも思う程です。

旧約聖書(預言書)のフレットハイム教授の時間に、エゼキエルを読みましたが、クラスが重い雰囲気に包まれました。ここには、詳しく述べるスペースがありませんが、テーマは「神の怒り」です。ちなみに7章を、時間のある方は読んでみて下さい。どのようにお感じになるか、、、。

「意思決定の理論」という分野があります。「囚人のジレンマ」というゲーム理論もその一つです。簡略すると、相手(共犯者)の行動のいかんによって自分の利益(懲罰)に違いを生ずるという制約条件がある場合、相手(共犯者)の情報が入って来ないがゆえに、自己の選択にジレンマが生ずるというものです。現在のアメリカが、そういうジレンマに陥ってしまっているようにも思えます。民主主義を支える、情報があまりにも偏り、制御されてしまっている。心ある人は、インターネットや、外国の報道をチェックするようになりつつあるようです。

 
衆人愛敬としてのキリスト教
世阿弥は、すぐれた能とは、どんな人が観ても素晴らしいと思うようでなければ、本物ではない、と言っています。これは、非常に優れた洞察だと思います。世阿弥自身はといえば、芸術の「高み」を追求し、大衆というよりは、むしろ武家社会、貴族社会の中に受け入れられて行く世界を築き上げて行きました。

現在のキリスト教にも、同様のことが言えるかもしれません。小山先生もおっしゃっておられましたが、ギリシア哲学、ヨーロッパでの宗教改革、啓蒙主義等を経験した、キリスト教は、理解するのに並み大抵のことではありません。私自身もアメリカで七転八倒して、ようやく玄関に入れたかなと思う程です。北森神学も、日本で読んでいてもあまりピンと来ませんでしたが、欧米社会の中で学ぶ事により、何が主眼であるかがようやく見えてきたくらいです。

その点、タンザニアでは、欧米から独立してから、急速に「衆人愛敬」のキリスト教が育っているように感じました。粗末な教会が、喜びに溢れています。そして、何よりも子供達が元気です。

書きたい事は、山積しておりますが、あとは、帰国してからじっくりと報告させて頂きたいと思います。この紙面を借りて、皆様の祈り、そして応援に心より感謝すると同時に、日本の情報を、新聞を切り抜いて、毎週のように送り続けてくれた山口の父に感謝します。

 

(むさしのだより 2003年 5月号より)