教会と歴史

教会と歴史(19) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




 (承前)それぞれが歴史的な経過を経てきています。その中でキリスト教会は人間的な愚かしさや誤りにも関わらず、委ねられた福音の力を伝え、又その力が教会を保ってきたわけです。迫害を受けた時代から、一挙にローマ帝国全体を包み込む教会になって行く。その中で信仰的な確かめがなされ、また教会と社会、あるいは国家との関係はたえず課題として残ってきたわけです。そのような中での十六世紀の宗教改革の展開があったのです。しかもいわば宗教改革の余波として、イエズス会は日本に伝道にやって来ました。中世のローマ教会有り様が、当時の日本人をしてそれが信仰的なものか、侵略的なものかという疑いを持つようにさせたとも言えます。しかし、宗教改革は西方の教会の問題です。そして批判にもかかわらず、西方の教会に伝えられた信仰の伝統を、プロテスタント教会は受け継いでいます。ルーテル教会の礼拝や讃美歌などでも大体西方の伝統の中にあるわけです。確かな信仰の歴史とそれによる現在の私たちの信仰の構築、そして沢山の人間的な問題とを歴史を省みる中で見分けて行かなくてはならないでしょう。(完)

教会と歴史(18) 石居 正己



むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。



(承前)改革期より大分前になりますが、1077年のカノッサの事件は象徴的でした。教皇グレゴリウス7世と皇帝ハインリッヒ4世が主導権争いをしました。ハインリッヒ4世は武力を背景に教皇に反対して、勝ったと思ったのですが、翌朝目が覚めてみると、自分の側にいた人々はみな教皇側についている。教皇は霊的と実際的な指導権をもっていたわけで、そのこの世的な力に反対してごちゃごちゃ言ってみたが、いざとなるとその霊的指導権に従う信仰的な気持ちが働いたのでしょう。反対してみたけれども、肝心な時に仲間がついて来なくなったので、ハインリッヒ4世はカノッサというイタリアの奥地の山中に教皇が泊まっていた修道院の門前で三日三晩、雪の積もる中に裸足で立って許しを乞うたのです。

 教皇を初めとする教会が直接的にこの世の力を主張すると、都合の悪いことが起こったり、衝突してしまうことになります。そういう直中で宗教改革は起こりました。もっとも名目的にはとにかく、改革以前の教皇庁は全ヨーロッパを指導する唯一の力として存在していたというわけでもありません。改革からつい100年前の15世紀の初めには、教皇が3人もいた時があったのです。教皇を主張する人と、それに反対する人と、穏健な会議で選ばれた人と、一人しかないはずの教皇位を3人の人が争った時さえありました。教皇権の信仰的な意味での確立はむしろずっと後に定まったと言ってもよいのです。歴史の一時代のことで現代を考えてはならないと同様に、現在のことで過去のことを考えてもならないわけです。(続く)

(1997年 8月)

教会と歴史(17) 石居 正己

 3、教会とこの世の問題

 ただし、国家との関わりは現在でも問題となります。もともと国家の圧力から逃れて神秘主義的になったとか、国家に従属しすぎたのではないかという反省があるのですが、現在では国家に批判的になるときっと政府からまた押さえつけられるに違いないからです。それが東方での大きな課題です。西方では、むしろ教会が主導権を取りました。というのは、五世紀にフン族の王アッティラがローマを攻めようとしたとき、これと交渉してローマを保ったのがローマの司教でした。ローマの司教は西方の文化を守る役割を果たしたといえます。国は滅びても、教会はそれだけの実力を持ち、国家を越えて文化的な指導をすることが出来たのです。そして各地の高位聖職者を任命したのはローマ教皇でした。

 その教会は7世紀ころからそれぞれに「教会領」を持つようになります。日本の場合にも似た現象を見ることができます。お宮に寄進された土地があり、あるいは神戸(こうべ、ごうど、かんべ)と呼ばれた家は特定のお宮の直属の氏子で、領主にでなくお宮に税金を払うといった制度がありました。有力な寺社はそうした領地を、寺社領として持つようになったのですが、同じようなことが西欧の教会でもありました。

 宗教改革の時期には、神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶのに7名の選帝侯がいました。一番有力な殿様の7名が選挙して次の皇帝を選んだわけです。ルターがいたのはザクセン選帝侯領ですが、その7名の中の3人は「宗教的諸侯」でした。宗教的諸侯というのは、大司教として教会の指導をするばかりでなく実際上領主としての地位をも持っていた人々です。ルターが一番ぶつかった相手のひとりであるマインツの大司教もそうでした。そればかりでなく、各地の教会がそれぞれ教会領を持っていると、その地域の殿様はそこからは税金を取れないばかりか、その土地の税金はローマ教皇庁へ行ってしまうことになります。敬虔な昔の人々が一番よい土地を教会に献上したでしょうから、領主たちは身中によその領地を抱えていることになる。そういうことから、高位聖職者はその土地で選ばせてくれというので、教皇に対して皇帝はいわゆる叙任権を争うのです。(続く)

(1997年 7月)

教会と歴史(16) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




 2.東西教会の分裂

 ところが、それに余り賛成しなかった人々もおりました。それはコンスタンティノポリスの大主教を始めとする東方教会の指導者たちでありました。コンスタンティノポリスと言えば今のトルコのイスタンブールです。ローマ皇帝はローマから此処に都を移しましたし、東方にはエルサレムやパウロたちが懸命に伝道した地方が含まれます。ローマより古い伝統を誇る東方の教会は、いろいろな実際的なやり方も西方と違いましたし、より古い伝統を継ぐという自負もあったのでしょう。ローマの主導権に反対して、7、8世紀の頃からごたごたが続きましたが、11世紀には東西の教会が別れてしまいます。西方の教会はローマを中心としました。東方の教会はその国々でまとまりをもっているようになりました。私たちは東方教会のことを「ギリシャ正教」と呼んだりしていますが、狭い意味ではギリシャ正教会はギリシャの教会です。広い意味で使う「ギリシャ正教」の中にはロシア正教会も入ります。具体的な教会のまとまりとしては、ギリシャはギリシャ、ロシアはロシアというように、それぞれ頭になる指導者がいます。ただギリシャ的な伝統を引いているという意味で、広い用語が使われる場合もあるのです。

 一般的に言えば、東方教会は神秘主義的で礼拝儀礼を重んじます。礼拝の度毎に、キリストの一代記を演じています。日本の東方教会と言えば、お茶の水にあるニコライ堂が思いだされるのですが、たいへん保守的な面があって、明治初期の翻訳語をそのまま用いていて、たいへん分り難いのですが、同じようにいたします。東方の必ずしも教育も行き渡らなかった地方で、あるいは迫害も受けた中で、彼らは礼拝の中でキリストの一代記を演ずることによって、人々の心にイエスさまの出来事を再現させたのです。単に覚えるというだけでなく、それに自分たちも与っていったわけです。また東方教会では具体的な特徴として、画像を使います。イコンという特別な手法で描かれた板絵です。板絵と言っても必ずしも平板なものでなくて、凹凸のあるものにしてあるのですが。それを通して聖書の出来事、あるいは信仰の先達たちの歩みを記憶するというわけです。実際的には、いくらか迷信的に受け取られている傾きもないわけではありません。こうした仕方で、民衆の心に深い影響を与えてきたわけです。共産主義の政権の時代は長い歴史のひとつのエピソードに過ぎないのかもしれません。いつもいろいろな問題の中を潜り抜けて来たのです。今は政権が変わって、猛烈な勢いでその力を回復して来ているようです。(続く)

(1997年 6月)

教会と歴史(15) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




 (承前)このような信仰の告白と、その信仰が基とした聖書の正典、そして教会の教職制が定まって、教会が具体的な姿を取り、世界に広まって行くことが出来るようになりました。そしてこれらのものは、互いにむすびあっています。いまでは聖書を読もうと思えば、どこででも本屋さんに行って買ってくることが出来ます。ところが、ちょっと大きな本屋さんには、聖書の「講義」という表題で、しかもキリスト教の人でない、新興宗教の著者が書いていた書物があったりします。聖書と言う書物はキリスト教の土台ですが、しかし書物である限り、誰でも読めるし、それぞれに理解も出来ます。しかし、教会では、私たちは、こういう筋道で聖書を読みます、もともとこういう信仰を伝えたのですから、という筋道を示してくれるのが信仰告白あるいは信条と呼ばれるものです。一番基本的なものは使徒信条であったり、ニケア信条であったりするわけです。

 私たちの信仰は、これで正しい十分な信仰だというような線を引くことができません。それでも前よりは少しましになったか、と考えたりしているにすぎません。そのような私たちが、少し先輩の人が自分流の勝手なことを言っているのを聞かされたりすると、ついそれが本当かなと、思ってみたりします。それぞれに自らの信仰の言い表し方はありますが、それが直ちに私にとって良いとは限らない。誰でもが勝手なことを言いだすと、その時のご当人には大切な告白であったとしても、一般的な言い方でない時もあるわけです。やはり一定の筋道があって、それに沿って聖書を読んでいく必要があるし、私たちの信仰はこういうふうに養って進んで行くものだということを導いてくれる人がないと困ることになる。それで教職制と言うことが教会の中で考えられるようになりました。

 こうして正典である聖書と、信仰告白と、教職制という三つのことが出来て、歴史的なキリスト教会が形成されてきます。さらにこのような教会のあり方をしっかりコントロールしてまとまりを付けておこうということになります。現代風に言えば、教会のアイデンティティを守ろうとするわけです。しかし、それをどのようにするかによっては、問題も出てきます。諸々の教会の一致を確立しようとして、ローマの司教を中心に考えて出来たのが、「ローマ教会」でありました。ペテロやパウロの殉教の地であり、歴史的にローマ帝国に代わって力を持つようになったローマの司教、すなわちローマ教皇のもとに全体の教会をまとめておこうとしたのです。(続く)

教会と歴史(14) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




D 教会の歴史の歩みの中で

1 迫害の時代からキリスト教会の確立へ

長い歴史でありますから、大急ぎで幾つかのことだけ申します。年表の紀元70年を見て下さると、この年ローマ軍によってエルサレムは陥落します。その際に、折角出来ていたエルサレムの小さな教会の人々はバラバラになって逃げて行ったわけです。しかし、それで駄目になったかというと、むしろ逃げて行った先で伝道しました。神様のなさることは本当に不思議です。逃げなくてはならなくなって、かえって伝道が広まったとも言えるのです。もちろんその先で、ローマの文化との接触の中で、教会は長い間ひどく苦労もしました。迫害を受けたのです。

もっともわが国での迫害の場合も似ていますが、必ずしもずっと一様に迫害されたわけではありません。地方によって、また時期によって、ひどく迫害された時も、ある程度容認された場合もあるようですが、少なくとも公式には全体的に迫害の時代を経験します。その中で教会の在り方とか、礼拝の仕方が決まって来るのです 。うっかりすると捕まってしまうというような状況だから、自分たちはどういうふうに礼拝し、生きなくてはならないのか、必要な事柄とそれに命を掛けてよいようにしておこうとする中での形成です。

その迫害も313年にコンスタンティヌス大帝が寛容令を出してキリスト教がローマ帝国の中で許容されるようになります。皇帝ももはやキリスト者たちを無視出来なくなったわけです。ところがそれまで締め付けられていたのが、公に許されるようになると、いったい何が起こったか。好機逸すべからずと伝道し、勢力を広げる前に、教会の中でのいろいろな間違った信仰を整理しなくてはならなかったのです。それぞれの地方で間違った教えが噴出してきたからです。そのために教会は最初の世界会議をニケアという町で開いて、「私たちの信仰はこれだ」と基本線を確認しあったのです。それがニケア信条です。

聖餐式のある礼拝ではニケア信条によって私たちの信仰の告白をします。長い迫害の時代が終わると、外に対して団結していた教会の中に、それぞれ自己流の信仰理解が出てきた。それに対して教会の自己確認をした大切な告白です。迫害のあとも生々しい司教たち、教会の代表者たちが、当時の全世界から、恐らくある者は脚を引きずり、手を吊って集まり、自分たちの信仰はこれだと確認しあったわけです。厳密に言うと、私たちが今日用いているニケア信条は、 年にコンスタンティノポリスでの教会会議で定まったもの、正式には「ニケア・コンスタンティノポリス信条」と言われるものを基礎にしています。しかしそれも基になったのはニケア信条ですから、少し曖昧に「ニケア信条」とよびならわし、礼拝の中での告白のひとつに用いられて来ています。

その中での「かなめ」となった言葉、いわゆる「キーワード」は、キリストが父なる神と「同質」のお方であったということです。本質的に同じ、「同質」という言葉もわかりにくい言葉ですし、「同じ」でもよいのですが、しかしこの言葉を巡っての論議が厳しくなされました。イエスさまは神さまに似たものか、それとも神さまご自身といってよいのか。イエスさまは、私たちと同行の信仰者か、私たちがそれに向かって祈るべき相手かという問題であったとも言えます。質的に同じと言う言葉を「ホモウシオス」と言いましたが、似たものを表わす「ホモイウシオス」の主張と対立しました。ギリシャ文字のイオタ(ι)を入れるか入れないかの差でしたが、少し大袈裟に言えば全世界の教会は「イオタ」ひとつで真っ二つに分かれたとされる位でした。結局アタナシウスという人の主張した「キリストは神と同質」ということが通って、ニケア信条に採り入れられました。(続く)

教会と歴史(13) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




(承前)もともと詩編は、巡礼をしてやってきた人々がとうとう最後にエルサレムに着いた。そして城門を開いて下さいと呼び掛けている。それに対してエルサレムの城壁の中から「あぁ、よくいらっしゃいました。祝福がありますように、主のみ名を慕って来た人々に」と、内側から祭司たちだか先に到着した人々か知りませんが応じている、そのように内外で歌い交わしているわけです。ところが新約聖書にもこのところが引かれています。マタイ21章という大事なところです。エルサレムにイエスさまが最後にお入りになったときの記事です。9節には「群衆はイエスの前に行く者も後ろに従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ、主のみ名によってこられる方に祝福があるように。いと高きところにホサナ』」とあります。118篇の詩編が引かれているのですが、しかし状況は全く違って、ひっくり返っています。詩編は祭司がやってくる巡礼たちを神殿の中から迎えています。ところがマタイでは神の側からイエスさまがやっておいでになる。エルサレムの人々は神からのみ子を歓迎して迎えるための歌として、この歌が使われているのです。

 外的な神殿の中から、後からくる人を迎えるのでなく、神殿のあるエルサレムにむしろ外から神のみ子がやっておいでになる。それを私たちの内におむかえしましょうと言っているのです。しかも23章を見て下さると、終わりの部分に「言っておくが、お前たちは『主のみ名によって来られる方に祝福があるように』と言う時まで、今から後、決して私を見ることはない」と記されています。いわばイエスさまはエルサレムのために嘆き、怒っているのです。

 私たちがなにげなく歌っているところも、詩編の言い方と新約の受け取り方は違う。そして主イエスは同じ言葉で嘆いておられる。私たちは「歌っていますよ、イエスさま。ちゃんと歌っています。どうぞ来て下さい」というつもりで聖餐式の中で歌うのです。とすると古い詩編の言葉を受け継ぎながら、その後の受け取り方を踏まえ、長い教会の礼拝の歴史の中で伝えられてきた気持ちを受け取って行かなくてはならない。そして今の私たちの信仰の告白として歌っているわけです。それだけの作業を、実に一挙にやっていると言えます。そうであれば、やはり少し具体的に歴史のことも知らなくてはならないということになるでしょう。(続く)

(1996年10月)

教会と歴史(12) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




(承前)グロリア・イン・エキセルシスの歌い方の注意には、交唱、応唱、斉唱の何れでもよいとされています。この歌い方も、詩篇以来の、旧約時代からの歌い方なのです。曲は時代と共に変化しても、その方法は受け継がれています。その中で歴史的な積み重ねがあります。

 例えば聖餐式のサンクトウスのところですが、「聖なる、聖なる、聖なるかな、万軍の主。主の栄光天地に満つ。天にはホサナ、主のみ名によって来られる方を讃えよ。天にはホサナ」と歌います。正確にはイザヤ書6章に基づくサンクトウスとベネディクトウスが歌われています。ベネディクトウスの「天にはホサナ、主のみ名によって来られる方を讃えよ。天にはホサナ」というのは、もともと詩篇110篇の言葉です。その26節には「祝福あれ、主のみ名によってくる人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」とあります。ところが、全体を見ると、状況が全く違うのです。(続く)

(1996年 9月)

教会と歴史(11) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




(承前)もちろんこれは、教会を何と定義するかということにもよります。エウセビオスは、キリストを中心に考えたのですし、ルターは教会の働きを主体に見ました。私たちが考えているのは、差し当たり「イエス・キリストを神の子、救い主と信じ、そしてその福音を宣べ伝えて行く信徒の集まり」を教会ということが出来ましょう。そうすればやはり聖霊降臨のあたりから、具体的には始まったと考えてよいだろうと思います。私たちが考えるときには、いろいろな条件が前提にされているのです。

 そして、いずれにしても長い神の働きによる教会の歴史のもとに私たちは生きているのであり、歴史を伝えるさまざまな材料をいっぱい積み重ねた中で礼拝をしています。さらに、その礼拝の中で私たちはいつもイエス・キリストと同時的になります。十九世紀の半ばにデンマークの信仰者セーレン・キェルケゴールという人は「信仰というのは、キリストとの同時性のことである」というようなことを申しました。二千年前の人だからと言って、或いは二千年前からずうっとこのように伝えられてきたからと、ただ鵜呑みにしてはならない。イエスさまといえば、後ろに後光の差した、光のわっかを付けたお方、偉いに決まっている、神さまの子だから何をされても不思議はないなどと、簡単に片づけてはならない。私たちが本当にあの時、あの場所にいたらどうだっただろう。あれはナザレの大工の子ではないかと、自分も言わなかっただろうか。そういうことを私たちは真面目に考えていかなくてはならない。具体的な状況の中であの弟子たちと共に「イエスさま、あなたはキリスト、神のみ子、救い主です」と告白出来るのか。それを私たちは聞かれているのだ。そういう意味で、主と同時的に生きることが信仰である、というのです。

  私たちは、いろいろな場合に無意識的に、実はそうしています。讃美歌の中を見てみますと「久しく待ちにし主はきませり、主は、主はきませり」。いったい私たちは何を待ってきていたのか。いやこれは二千年前の話ではないのか。あるいは教会讃美歌34番の、有名なパウル・ゲルハルトの歌によって、「われ今馬ぶねのかたえに立ち、きたりて賜物捧げまつる」と私たちも歌うのですが、教会堂の椅子に座っていて、別にまぶねの側にいるわけでもない。それでも素直にそう思って歌っているわけですね。「今日イエス君は甦れり」と復活の讃美歌を高らかに歌う時も、よく考えてみると「今日」は随分昔の今日でしかないのだけれども、そんな理屈は言わない。私たちは信仰の歴史を積み重ねた下にいて、しかもそれを突き抜けて、「イエスさまと一緒」の時を私たちのうちにもっているわけです。

 そういう仕方を聖書、あるいは教会は受け継いできているわけであります。しかも特定の期節にそうするだけでない。毎週礼拝で歌う「グロリア・イン・エクセルシス」は、「天には栄光神に、地には平和み心にかなう人に」というあのクリスマスの天使の歌を繰り返しているのです。式文に書いてあるから、その通り、オルガンがなって司式者が「天には栄光神に」と歌ったら「地には平和」と応唱するのだというだけではいけない。ときどきその本来の意味を思い出さなくてはならないでしょう。もちろん、半ば機械的に歌うことが出来るのは、私たちの助けでもあります。いつも、ことごとに、ひとつひとつの礼拝の言葉を考えて、心を込めていたら疲れてしまいます。しかし、私たちが用いている式文も讃美歌も大変なことを伝え、また繰り返し出来事として私たちの中に起こしているのです。そして時々はそのことを思い出さなくてはならない。(続く)

(1996年 8月)

教会と歴史(10) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




 (承前)宗教改革者ルターも、少し違った角度から教会の始まりをのべています。神さまが最初の人アダムをお造りになったとき、「園のどの木からも取ってたべてよい。但し善悪を知る木の実は決して食べてはいけない」と言われました。それからエバが造られた話が出てきます。創世記の3章を見ると、エバのもとに蛇がやって来て、「園のどの木からも食べてはいけないと神は言われたのか」と尋ねます。エバは蛇に答えました。「私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない、触れてもいけない。死んではいけないから、と言われました」と答えています。ルターはそこを説いて、神さまが直接に言われたのは、アダムに対してで、まだエバのいない時であった。ところがエバは神様の命令を知っている。神さまのもとに、神さまに信頼する人々がいて、神さまから聞いた言葉を伝えている。これが教会でなくて何であろうか、というようなことを言っています。だからルターはここまで教会を遡って考えているのであり、それ以来教会は常にあるとしていると言えます。(続く)

(1996年 7月)

教会と歴史(9) 石居 正己



むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。



 C 教会の歴史の時

 私たちは教会の歴史の中にありますが、その教会の歴史はそもそも何処から始まるのでしょうか。教会学校の先生たちは、やがて来るペンテコステに、「今日は教会のお誕生日です」ときっと言うのでしょうが、それは全く正しいことではあっても、少し注意もしなくてはなりません。

 いっとう最初に教会の歴史を書いたのは、4世紀の初めのエウセビオスという人で、ギリシャ語で立派な書物を著しました。現在では日本語にも訳されています。ところが彼が教会の歴史を何処から書き始めたかというと、「先在のロゴス」というところからです。ヨハネ福音書の冒頭にあるように、ロゴス(言)としてのキリストは世の初めからあったと言われます。この書物の中で彼が書き伝えたいと思ったのは、「救い主の時代から私たちの時代まで連綿と続いて来た時と、聖なる使徒たちの継承、教会の歴史の中で記録されている多くの重要な出来事とその性格、云々」と言い始め、「何よりも先ず私たちの救い主にして主、神のキリストなるイエスの受肉の初めから話を進めたいと思う」と続けて、出てくるのはヨハネ福音書の第一章なのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によってなった。」つまり実は天地創造の初めから教会の歴史はあるというのです。(続く)

(1996年5月)

教会と歴史(8) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




 (承前)礼拝の中で私たちは信仰の告白をします。聖餐式の時はニケヤ信条を用いますが、これは325年ニケヤという町で開催された教会の会議で出来た信仰告白です。使徒信条は、もともと使徒たちの信条(Apostoles’ Creed)と呼ばれたものです。長いこと、十二使徒たちが各地に伝道に散らされて行く前に、各人が一つづつの節を持ち寄って作ったと信じられていました。もちろんそれは歴史的に正確ではありませんが、しかし、その大体の文は紀元二世紀の後半まで遡ることが出来ます。

 ですから、私たちが使徒信条を告白する時には、2世紀の信仰者たちと共に、ニケヤ信条を告白する時には4世紀の人々と共に、自分の信仰を言い表していることになります。そういう古い柱や梁を組み合わせた礼拝式の中に私たちはいます。歴史をただ横に眺めて、いろいろな知識を考えるのではなくて、信仰の歴史の積み重なりの下に私たちは生きているのであり、私たちの信仰と礼拝が成り立っていることを考えていかなくてはなりません。(続く)
(96年2月号)

教会と歴史(7) 石居 正己



むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。



 (承前)教会讃美歌の499番の譜の左肩作詞者の欄をみて下さると、Apostolic Constitutions, 3rd cent. とあります。これは『使徒教憲』あるいは『使徒憲章』と呼ばれるごく古くからの教会の決まりを集めたものです。だいたい3世紀にまとめられたとされています。長い間の言い伝えでは、これはローマのクレメンスによったものとされました。ローマのクレメンスと言えば一世紀の人で、ローマの二代目、あるいは三代目の司教といわれています。つまりペテロのすぐ次の指導者というわけです。歴史的に正確かどうか疑問ですが、それでも少なくととも3世紀のものとされているのですから、それくらい古い伝承であることは確かです。そしてこの499番の譜の右の肩、作曲者のところには Genevan Psaltar とかいてあります。これは宗教改革時代ですね。ルターとともに改革の主要な流れを形づくったスイスのカルヴァンの教会では、詩篇に曲をつけて歌いました。その詩篇の歌の曲の一つが取られているということを表しています。そうすると、なにげなく歌う499番の讃美歌は歌詞も曲も、たいへんな歴史を背負っているものであるといわねばなりません。(続く)

(1995年12月)

教会と歴史(6) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




(承前)聖餐式の式文には「私たちの主イエス・キリストは苦しみを受ける前日」という言葉で始まるいわゆる設定の言葉があります。多くの場合一つしか用いられませんが、式文の中にはこの設定辞は三つあげてあります。第一のものは、聖書の言葉によるとされます。しかし「私たちの主イエス・キリストは、苦しみを受ける前日、パンを取り、感謝し、これを割き、弟子たちに与えて言われました。『取って食べなさい。これはあなたがたのために与える私のからだである。私の記念のためにこれを行いなさい』」という言葉をその通りの形で聖書に見つけることは出来ません。第一コリント11章のパウロが伝えている言葉を土台にして、福音書の言葉をアレンジしたものです。直接には宗教改革の際のルターの式文を基にしてあります。なにげなく、あれは聖書の言葉と思っているが、聖書自身いろいろな表現を伝えていて、それがまとめられたものであり、16世紀に使われたものが生きているわけですから、この言葉自体にイエス・キリストの十字架の出来事、それを伝えた長い歴史が入っていると言えます。

 それから第二の設定辞「聖なるみ心を成就し、云々」という、第一の言葉を含んだ少し長いのがあります。これは紀元3世紀のヒッポリトウスというギリシャの人が書いた『使徒伝承』という書物に残されている典礼式文を基にしています。第三のものも第一の聖書に基づく言葉を含んでいますが、直接には1974年に出版されたアメリカのルーテル教会の式文の言葉を土台にしてあります。もちろん用いられた言葉は、例えば「主よ、来てください」という呼び掛けは聖書の言葉です、最近の研究はそれが聖餐式に用いられたことを明らかにしているのですから、新しいとばかりは言えません。

 すると、聖餐の設定辞だけでも、実は長い礼拝の歴史の流れを受け継いでいることになります。この時代のもの、あの時代のものというのではなく、いろいろな時代を重ねた信仰者の歴史を受け継いで、そのもとに私たちがいるのです。(続く)

(1995年10月)

教会と歴史(5) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




 (承前)民俗学で有名な柳田国男さんと歴史学者の家永三郎さんとが対談された記録がありますが、家永先生は歴史家ですから、文書の資料になっていないと、取り上げるわけにいかないという。柳田先生は民俗学の立場から、そんなことはない、書かれていない歴史があると言う。それは人々の生活習慣や、どういうお祭があるとか、どういう時にどういう歌を歌うか、踊るか、といったことから読み取らなくてはならないということになるのです。それらの事は、その人たちに伝えられた歴史だというのです。ですから、政治支配で歴史の色分けをするだけでなく、その下に生きた庶民の歴史を見なくてはならない。その歴史は区分ではなくて、むしろ時代時代が重なって伝えられています。

 教会の場合もある意味で同じような側面をもっています。教会の政治や神学思想の歴史というだけでなく、実際の信徒の信仰の歴史を見なくてはならない。その大事な歴史の堆積が、私たちに身近かな礼拝や讃美の中にも伝えられているのです。私たちの教会の建物は何十年かしか経っていなくても、私たちが守っている礼拝の中には、実は見てごらん、これは2千年前のあるいは旧約時代の3千年前の柱です、ここに掛けられたものは千年前のものです、といったものが実に沢山あるのです。(続く)

(1995年 9月)

教会と歴史(4) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




(承前)ところが武家社会とされる江戸時代でも、侍は日本全体の人口からすると、7パーセントから10パーセント位であったといわれています。明治になってからのいわゆる士族の数もそのようなものです。もちろん江戸時代の侍は、もともとは職業軍人だったわけですが、それだけではなくて、政治はもちろん官僚機構全体を抑えていたし、当時の歴史全体がその影響下にありました。そしてそれはせいぜい人口の1割ばかりの人間がやっていたことです。

 江戸の末期にはことに町人がずいぶん勢力を持つようになりましたが、人口の大多数の農民はどうしていたのか、資料がありません。農民の思想が文書に現れるのは、ずっと新しい二宮尊徳あたりのことであって、その考えもやったことも、殆ど全く文書にはなっていないのです。(続く)

(1995年 7月)

教会と歴史(3) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




(承前)多分それに似たことで、皇帝の蔵に収めて頂いたということで、お経が権威付けになったりしたわけです。しかしそれが本当にお釈迦さんの説教、或いはお釈迦さんのことを直接に記したものかどうかは、大変疑問で、よく分かっておりません。歴史的な確実さということは、余り問題にされていないのです。

そういうことと比べて考えると、「キリスト教はうんと歴史にこだわっているな」という気がするのです。聖書も部分的にはいろいろ検討されてきた面がありますしその解釈については異なる意見もありますが、しかしキリスト教会はみんながこれを基礎にしています。それは仏教において、法華経を主たる経典にする教派、阿弥陀経を主にしている所などと、直接の基にするお経が必ずしも同じでないことと比べると大変違います。

訳は違う場合がありますが、キリスト教会はカトリックに行こうと正教会に行こうと、どこに行っても同じ聖書を基本にします。それはキリスト教の大変大切な特徴といってよいでしょう。つまり聖書が「正典」であるからです。歴史における神様の働きを基とするから、それを伝える聖書が基となる。その聖書を歴史的に取り扱ってきたというわけです。

B.歴史的建造物としての教会とその礼拝

昔の歴史の時間には、奈良時代、平安時代、あるいは江戸時代などと、時代を区分けして、それぞれ違う色で塗ったりして、年号や出来事を書いたりしたものです。いまはどのように学んでいるのか知りませんが。しかしその時代区分はたいてい政治の区分です。都がどこにあったとか、誰が政治の実権を握っていたかとかということになります。(続く)

(1995年 6月)

教会と歴史(2) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




(承前)聖書は正典と呼ばれますが、正典という言葉は、canon といって、もともとは尺度を現します。これが信仰の基礎、根拠という意味にほかなりません。それを教会が現在の形に定めたのは、大体四世紀頃ですがそれからずっと同じ聖書が基となっているわけです。もちろん、聖書が各国語に翻訳されてきましたし、それぞれの時代により確かなもとの姿を回復する作業は続けられますが、基本的には私たちが今日もっている聖書が伝えられてきたのです。

 例えば私たちがよく知っている神道の中には、正典と呼ばれるものはありません。むしろ儀式や儀礼、祝詞といったものが彼らの信仰の軸になっているといって良いのです。仏教には沢山のお経がありますね。大体三千部位のお経があるとされています。それは一切経とか大蔵経とか言われます。大蔵経と言うのはある時期の中国で皇帝の蔵に収められたものを、そのように呼んだようです。以前のわが国でも、「賜天覧、台覧」といった言葉がれいれいしく書物の最初の頁に印刷されていた場合がありました。天皇陛下や皇后陛下にご覧頂きましたという事が、その本の権威付けになったりしたわけです。(続く)

(1995年 5月)

教会と歴史(1) 石居 正己




むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。




A.教会がなぜ歴史を重んじるのか

「教会と歴史」という主題ですが、なぜ教会が歴史的なものか、歴史にこだわるかを第一に考えておかなくてはいけないと思います。つまり、世の信仰の中には、歴史にあまり関わりのないもの、また関わらなくてもよい型の信仰もあるわけです。深く神秘的に考えたり、非常な修行を積んで、神的な世界に沈潜していく、そしてそのことによって神さまとの交わりを持つことが出来るように考えている場合には、あまり歴史との関わりがなくてもよい、あるいは関わるべきでないということになるかもしれません。キリスト教会が歴史に関わるというのは、私たちが聖書を基にしているということが第一の理由です。旧新約聖書は大体1000年位の間かかって書かれており、神さまの働きがどのように人々に現れたかを記録しています。いろいろな出来事の頂点に主イエス・キリストの出来事があります。その事がしかも歴史を通して私たちにまで伝わってきています。それはとても特徴ある出来事といってよいわけです。

(1995年 4月)