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Live配信:2020年6月7日 主日礼拝 説教 「 父・子・聖霊 」 浅野 直樹 牧師

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Live配信:2020年5月31日 主日礼拝 説教 「 イエスを証する者 」 浅野 直樹 牧師

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【音声版・テキスト 】2020年5月31日 説教「イエスを証する者」浅野直樹牧師

聖霊降臨祭礼拝聖書箇所:ヨハネによる福音書7章37~39節



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本日の礼拝は聖霊降臨祭・ペンテコステの礼拝です。本来ですと、教会の三大祝祭日の一つですので、皆で集い、大いに祝いたいところですが、ご承知のように、今年はそうもいきませんでした。非常事態宣言は解除されましたが、都内での新規感染者数は徐々に増えて来ており、再開の判断についても悩ましいところです。

ともかく、現代においては、このような形(それぞれの場所)ではありますが、共に礼拝の恵みに与ることができるのも、文明の利器の恩恵を受けているからだと、ひしひしと感じております。しかし、一方で、文明の利器があるから、お茶の間でも礼拝堂にいるのと遜色のない臨場感を味わえるから礼拝が、信仰生活が成立するのか、といえば、そうでもないことを覚えるのです。そこに、聖霊の働きがあるから。

この聖霊の働きは、見たり、知覚できたりするものでは必ずしもありませんが、聖書が記しますように…、̶̶本日の第二の朗読で読みましたコリントの信徒への手紙1 12章3節にこう記されています。「ここであなたがたに言っておきたい。「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」̶̶

 

聖霊によらなければ信仰的な事柄は何一つ起こらないからです。聖霊の働きがあるからこそ、礼拝になる。そこが礼拝の場になる。賛美、祈りがなされ、信仰の告白が起こって行く。み言葉と触れ合い、心が動かされ、出来事となる。そこで私たちは赦しを経験し、癒され、養われて行く。たとえ、そうとは感じられなくとも、聖霊の働きをいちいち確認できなくとも、それが起こっている。なぜならば、イエスさまがそう約束してくださっているからです。聖霊を遣わすと。私たちはそれを信じる。そのことをもう一度確認しながら、聖霊降臨祭を共々に祝いたいと思う。

今、それぞれの場にあっても、聖霊の恵みが豊かにあるのだということを、しっかりと受け止めていただきたい、と思います。今朝の第一の朗読は、聖霊降臨の出来事を記した、良く知られた箇所でした。ここで聖霊降臨の出来事が劇的な出来事であったことが分かるのですが、しかし、その特徴とするところは、現代人にもよく理解できることだと思います。ここに記されている聖霊降臨の出来事は「言葉」と非常に密接に結び付けられているからです。まず、聖霊が降ってきた様子を「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。

ジョット”ペンテコステ”GIOTTO di Bondone”Pentecost”1310-18 National Gallery, London



聖霊は「炎の舌」のような姿で現れた、と言います。この「舌」は、言葉を発する時の大変重要な器官の一つです。言葉を発することができなかった人をイエスさまが癒された時に、「舌のもつれが解け」たとある通りです。言葉を明瞭に話すためには、「舌」の自由な活動が必要不可欠だと考えられていた訳です。

そして、そんな聖霊に満たされた弟子たちは、そこで何をしたのか、と言えば、「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。その後に、様々な国名が記されていますが、それは、当時知られていた「世界中」と言っても良いでしょう。世界中の言葉で「神の偉大な業を語って」いった訳です。つまり、世界宣教です。

振り返ってみますと、私は多くの宣教師の方々と良い交わりを持たせていただくことができました。私が15歳の時にはじめて行った教会は、ドイツ人の女性宣教師がはじめられた教会でした。特に選んでそこに行った、というのではなく、たまたま家から一番近くの教会がそこだったからです。もっとも一番近いと言っても、自転車で片道1時間弱かかりましたが…。以前も言いましたように、私が育ったのは随分と田舎だったので、昭和五十年代半ばでは、いわゆる「外国人」は非常に珍しい存在でした。

私自身、おそらく、その時が「外国人」との最初の出会いだったでしょう。もともと興味があって教会を訪れたのですが、正直、その宣教師の物珍しさ、と言いますか、欧米に対するちょっとした憧れも手伝って、足繁く通ったものです。もっとも、その宣教師には心配ばかりをかけてしまって、今では大変申し訳なくも思っています。そして、牧師になるために最初に赴任し
た教会も、ホッテンバッハというドイツ人宣教師が創設された教会でした。

『同盟福音基督教会』といった団体に属する教会でしたが、非常にユニークな先生で地域では名物宣教師でした。結局、2年間一緒に働かせて頂くことになりました。先生の話はいつも興味深いものばかりでしたが、特に、宣教師として日本にやって来られた頃の話は、忘れがたい話となりました。先生は年代としては、私よりも30歳ほど上で、子どもの頃から宣教師を目指し、20代で船に乗って日本にやって来られました。

当時、昭和三十年代は、やはりまだ船での移動で、何ヶ月もかけてやって来られたのです。貨客船に乗って未知なる世界に。その間に、なんども嵐に遭われたそうです。中には、何十キロもある重い荷物が、室内を水平に飛んでいくような凄まじいシケにも遭われたとか。「その時には、流石に死ぬかと思ったよ」とカラカラと笑いながら話してくださいました。私にとって、この先生と共に働くことができた2年間は、本当に幸いな時だったと思っています。

その他にも、同じドイツ人宣教師にも、アメリカ人宣教師にも、本当に多くの宣教師たちに良くして頂きました。正直に言いまして、やはり宣教師たちは魅力的です。先ほどのホッテンバッハ先生の例にもありますように、ある意味、命をかけてやって来られているからです。それだけの覚悟、情熱、愛を持っておられる。日本のために。日本人のために。福音によって何としてでも救われてほしい。そのためならば、あのパウロのように、何でもしよう。そういった気概がある。それは、単に強さだけではありません。芯の強さがありつつも、途方も無い優しさがあります。

本当に「人間の出来が違う」、と思ってしまう。それは、紛れも無い事実でしょう。少なくとも、私が出会って来た宣教師の方々の大半はそうでした。だからこそ、魅力的でもあるし、その人柄に惹かれてしまう…。それは、紛れも無い事実。確かに、そうだと思う。しかし、それだけではないはずです。なぜ、有難いのか。それは、私たちの国の言葉で福音を伝えてくれたからです。

宣教師たちは、私たちの国の言葉で、自分たちが育ってきた国の言葉で、ではなく、わざわざ難しい外国語を、特に日本語は難しいと言われる訳ですが、その難しい言葉を熱心に、懸命に覚えて、たとえ最初は片言であったとしても、事実、最初に出会った宣教師の方の書く文章は、お世辞にも上手とは言えませんでしたが、それでも、自分の国の言葉で聞くことができる。いいえ、私たち日本人とは明らかに違った国の、文化の人々が、一所懸命に日本語で語ってくれる。そこに、私たちは神さまの業を見たのではないか。無意識のうちにも見ているのではないか。そう思うのです。

ジャン・コロンブ”聖霊降臨”15世紀写本 Jean Colombe,1485-1486 Pentecost



確かに私たちは、宣教師の方々の恩恵を決して忘れてはいけないし、感謝してもし尽くせないのですが、しかし、これも率直に言って、宣教師の方々だけでも不十分といった思いも正直あります。それは、「言葉」とは、分かれば良い、理解できれば良い、といったものだけではないからです。言葉とは、その言葉の持つ正しい意味さえ理解できれば良い、ということではありません。言葉には、含みがあります。その背後にある思いがあります。

どちらとも受け取ることができる印象もあります。自国民でさえ「言葉」の難しさを感じる。しかも、それが外国語となると、なかなか上手くいかないのも事実でしょう。
宣教師の方々自身がそのもどかしさを一番感じておられるのかもしれません。ともかく、やはりその国の人々が語ることが一番だと思います。私自身、到底あらゆる面で宣教師の方々に敵う者ではありませんが、自分の国の言葉で福音を伝えることができる。そこに、唯一の利点を見出してもいます。

ともかく、自分の国の言葉で福音を聞くことができることが大切なのです。そのために、宣教師たちは多くの犠牲を払い日本に来られ、日本人牧師たちも欠けを感じながらも努力を積み重ねている。そして、そんな自分の国の言葉で福音を、神さまの偉大な御業を人々に、その国の人々に聞かせるために、聖霊の働きはある。今日の、この聖霊降臨の出来事は、そのことを私たちに伝えてくれているのではないか。そう思うのです。

自分の国の言葉で、理解できる、分かる言葉で、同じ文化を、生活を共有している言葉で福音を聞くことができる。この聖霊の働きが大切なのです。そこで、聖霊を受けた、聖霊に満たされた弟子のペトロはエルサレムの町に住む、あるいは滞在していた人々に、その人々が分かる、理解できる言葉で、弟子たちを代表して語りかけました。

それは、内容から言っても「説教」と言っても良いでしょう。つまり、特別に選ばれた人が聖霊に満たされて、人々に説教したことになります。これも、良く分かります。しかし、そのペトロは、その説教の中で旧約聖書を引用しながら、こう語りました。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。

すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。ペトロは、この聖霊降臨の出来事は、この旧約聖書の言葉が実現するものだった、と語ります。つまり、聖霊降臨の出来事は、聖霊が与えられるという出来事は、ここで堂々と説教するペトロや弟子たちのような、特別な人たちに限らない、と言うのです。

老いも若きも、男も女も聖霊を受け、ある者は預言し、ある者は幻を見、ある者は夢を見る、と言う。ここでも、皆が皆、預言するのではありません。それぞれの役割がある。違っていたっていい。しかし、何れにしても、聖霊が降るのは事実なのです。そして、今日の箇所で言われていることは、先ほどから言ってきましたように、聖霊の働きの主なるものの一つとして、自分たちの国の言葉で神さまの偉大な御業、つまり、これを福音と言って良いと思いますが、福音を語る、伝える、ということなのです。

そして、同じ国の言葉ということは、分かってもらえなければ意味がないということでもあるでしょうから、日本語を使っていても、訳のわからない高度な、高尚な言葉ではなく、いわゆる「神学用語」や「専門用語」などではなくて、自分が理解し伝えられる言葉で語る、伝える、ということでもあるのではないか。そう思うのです。

キリスト者全ての元に聖霊は降られます。イエスさまがそう約束してくださったからです。しかし、聖霊を受けたからといって、皆が皆、宣教師になったり説教者になる必要はありません。しかし、聖霊の恩恵は、自分の言葉で神さまの恵みを語ることができることなのだ、ということも忘れないで頂きたいのです。皆さんの上に聖霊の豊かな恵みがあり
ますようにお祈りいたします。



《祈り》
・首都圏も含めて、日本中で緊急事態宣言が解除され、人の動きが戻ってきました。そのせいでもあるのか、北九州市では第二波とも言われる感染拡大が起こり、東京でも徐々にではありますが、新規感染者の数が増えてきています。経済との両立という非常に難しい舵取りが迫られていますが、なおも一人一人が意識を持ち、対策をしながら、必要な経済活動も行なっていけるように、特に、経済的困窮者が急増し、新型コロナではなく、貧困で命の危機に晒されている方々も増えていますので、どうぞ良き導きを与えてくださいますようにお願いいたします。

また、医療体制の脆弱なアフリカ諸国やインド、あるいは南アメリカの国々などでも感染拡大が広がっています。もともと衛生面においても、また栄養面においても、十分とは言えない方々も多くいらっしゃいますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な援助も行われますようにお願いいたします。

あるいは、難民キャンプなどの感染リスクも非常に懸念されています。どうぞ憐れんでください。また、リスクのある中で懸命に働いておられる方々も多くおられますので、どうぞそれらの方々をもお守りくださり、遠く離れた私たちですが、出来ることもしていけるように、お導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・ワクチンや薬の開発も待たれています。大国同士の覇権争いの道具になるのではなく、国際協力のもと、速やかに開発され、貧しい国々の人々にも届けられますようにお導きください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・コロナ鬱や虐待、DV被害者なども出ないようにもお助けください。

・先の中国で行われました全人代で「国家安全法」成立が採決され、今後香港では苦しい立場に置かれることが懸念されています。不当な理由で拘束されたり、より一層自由と民主主義が制限されていくかもしれません。多くの市民が香港からの脱出を画策しているとも聞きます。どうぞ憐れんでくださり、不当なことが行われませんようにお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【音声・テキスト 】2020年5月24日 説教「上を見上げて」浅野直樹牧師

主の昇天主日礼拝説教



「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように、思い出す 春の日 一人ぽっちの夜」。
ご存知のように、坂本九さんの大ヒットソング。名曲です。私自身は知らなかったのですが、作詞をされたのは、あの永六輔さんのようです。続けて、この曲はこう歌います。「上を向いて歩こう にじんだ星をかぞえて 思い出す 夏の日 一人ぽっちの夜。幸せは雲の上に 幸せは空の上に 上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら 歩く 一人ぽっちの夜」。

何があったのかは分かりませんが、この主人公はある春の日に、涙を流すような思いの中にあったようです。寂しかったのか、悲しかったのか。本来「春」と言えば、喜びに満ちた季節なのに、それとは裏腹に、たった一人、涙をこらえて上を向いて歩いていました。そう、最初は、涙がこぼれないように、これ以上、みっともない、惨めな思いにはなるまい、と思い、必死な思いで溢れる涙を抑えて上をみていたのかもしれない。

しかし、次第に思いが変わっていったように思います。上を見ていると、抑えていた涙で滲んだ星が見えて来た。なんだか、その星の存在に心が吸い込まれていったのでしょう。上を見上げていると、心の変化を感じるようになった。そうだ、自分にも活力に満ちたかんかん照りの夏の日差しのような時があったではないか。大切な人と一緒に行った盆踊り。一緒に見上げて歓声を上げていた打ち上げ花火。

そうだ、自分にも幸せと思える日々が確かにあったのだ。幸せは、雲の上に、空の上にある。だから、もう涙を流すまいとして上を見上げるのではなくて、幸せを感じるために上を向いて歩いて行こう。泣きながら…。そう、この涙はそんな気づきによる喜びの涙に変わっていたのかもしれません。同じ一人ぽっちの夜の風景なのに、全く違うものに変えられていた。

上を向いて、喜びの涙を噛み締めながら、たとえ一人ぽっちという現実は変わらなくとも、幸せを見つめて歩いていく。これは、私の勝手な解釈かもしれませんが、そんな思いを、この歌から感じさせられます。なぜならば、私もまた、上を向くからです。私は、自身の趣味を「ぼ~と、空を、雲を眺めること」と言って来ていますが、それは、最初っからそういった嗜好があったからではありませんでした。ある時、空を(上を)見上げたからです。

涙をこぼすまい、ということでは必ずしもありませんでしたが、やはり悲しくて、辛くて、心がどうにも落ち着かなかった時に、何気無しに空を見上げたのです。その空の青さが、雲の何とも言えない穏やかな造形美が、私の心を救ってくれた。そんな経験があった。だから、今では、何でもない時にも空を見る。雲を見る。そうすると、心が落ち着くし、なんだか幸せな気分にもなれる。

そういった経験、皆さんにもお有りになるのではないでしょうか。上を向くことによって、何だか救われた、といった経験が。だから、あの歌はあんなにも共感を生んで、大ヒットとなったのではないか。個人的には、そう思っています。

今日は、イエスさまの昇天主日の礼拝です。ご存知のように、キリスト者が亡くなられた時、「召天された」という言い方がなされます。この「昇天」と「召天」は、「音」としては同じように聞こえますが、漢字の表記が違っているように、意味は全く異なるものです。キリスト者の「召天」の場合は、天に召されると書かれているように、死んだ者が天に…、つまり神さまのところに召されることを意味します。対して、イエスさまの「昇天」は、天に昇るとありますように、まさしく天に、つまり神さまのところに、神さまの領域に「生きたまま」で昇られたということです。

ですから、使徒信条などの信仰告白には「天に上り、神の右に座し」(神さまと共におられる)と告白されるわけです。ともかく、十字架で死なれ、三日目に復活されたイエスさまは、40日に渡って弟子たちと過ごされ後、「生きたまま」で天に昇って、帰っていかれました。このことは、福音書としては今日のルカ福音書だけに記されていることです。同じルカが著者だと考えられている使徒言行録(これは、ルカ福音書の続編と考えられていますが)1章9節にこう記されています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」。

改めてこの箇所を読んだとき、この時の弟子たちの気持ちはどうだったのだろう、と思いました。あまりのことに呆然と立ち尽くすようにして上を見上げていたのか。それとも、目を凝らして、この瞬間を一瞬たりとも見逃さまいとして凝視していたのか。
なぜならば、ここには悲しみがないからです。弟子たちの中に、悲しいそぶりが見えないからです。何故なんだろう。これは、今生の別れです。もう二度と、この世でイエスさまとお会いすることができない。

そんな別れであるはずなのに、悲しみが見えてこないのはなぜか。実は、この今生の別れという意味では、弟子たちは二度経験していることになります。一度目は、イエスさまがあの十字架の上で死んでしまい、墓に葬られたことによります。少なくとも、復活を信じることができなかった弟子たちにとっては、まさに今生の別れの時だったでしょう。それは、あまりにも突然で、衝撃的で、絶望的でした。全ての気力を失うほどに、彼らは失意のどん底を経験したのです。

もちろん、後悔もあったでしょう。特に、イエスさまのことを三度も否んでしまったペトロにおいては、どれほどのことだったでしょう。「死んでお詫びしたい」とでも思っていたのかもしれない。そんな彼らのところに、不意に、そう、まさに不意に復活のイエスさまが来られました。「あなたがたに平和があるように」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。



まさに、救いです。弟子たちは、その出会いで、どれほど救われたことか。そんなイエスさまと、再び別れなければならない。今生の別れをしなければならない。普通に考えれば、悲しんで当たり前でしょう。しかし、どうも様子が違う。そこに、何が起こったのだろうと思うのです。

昔、『いま、会いにゆきます』という映画を見ました。竹内結子と中村獅童が主演をした映画です。竹内結子が演じる女性が、幼い子どもを残して死んでしまいます。その出産が非常に難産だったようで、その影響もあってのことでした。そして、心無い大人たちのつぶやきを聞いたその子どもは、心に深い傷をもつことになります。中村獅童演じるお父さんは、ちょっと障害を持っているようで、残された父子の生活もなかなかうまくいかず、失敗と奮闘の毎日でした。

そんな中、一年が過ぎ、この親子は不思議と亡き妻、母と会うことになる。実は、亡くなった女性が現れたのではなく、その女性の若い頃の自分がタイムスリップをしてやってきたのでした。そんな女性は6週間後、将来がどうなるのかを知りながら、つまり、難産の上に命を落とすことを知りながら、彼女の現実世界に戻って行き、結婚をし、子どもを産むことを決意します。ともかく、そんな不思議な三人の出会いによって、お互いの心が少しづつ救われていく。今生の別れに備えられていく。自分のせいで命を落としてしまったのではないか、と恐れていた子どもの心が癒されていく。

自分の命と引き替えてもいいほどに愛されていたのだ、と気付かされていく。そういったストーリーだったと思います。同じように、とは言いませんが、弟子たちにとっても、あの40日間は、本当に素晴らしい、幸いな時だったのでしょう。少なくとも、今度の今生の別れは、突然でも、衝撃的でも、絶望的でもなかった。喜んで送ることができた。そんな、40日間だったと思うのです。

Transfiguration『キリストの変容』 ラファエロ・サンティ,Musei Vaticani



弟子たちは、天に昇られるイエスさまを見上げていました。自分たちの元を離れ、天に帰られるイエスさまを、じっと見上げていました。天に昇られ、見えなくなったのに、なおも、イエスさまが帰られた「天」をじっと見つめていました。その時の様子を、ルカ福
音書ではこのように記されています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。天に上げられたイエスさを、弟子たちは「伏し拝み」、「大喜び」でエルサレムに帰り、いつも神殿で神さまを褒め称えていた、と言います。それが、この度の今生の別れの結果なのです。

復活のイエスさまと出会い、弟子たちは本当に救われました。そして、その復活のイエスさまと共に過ごした40日間の歩みは、至福の時でした。なおもイエスさまから意味を教えていただき、イエスさまに赦され、愛されていることを常に実感して生きることがで
きたからです。そして、イエスさまは、お帰りになるべき天に昇っていかれた。そのお姿は、まさに神の子、メシア・救い主であることを、ますます確信させていったことでしょう。

だからこそ、弟子たちは喜べた。伏し拝んだ。常に神さまを賛美し続けられた。私たちも、そうではないか。イエスさまの十字架、復活、そして昇天。これらを通して、なおも確信に至っていくのではないか。もちろん、来主日祝う聖霊降臨祭を抜きにしては考えられないことですが、その上で、これらの事柄が私たちにますます信仰の確信を、喜びを与えてくれるものになるのではないか。そう思うのです。

 

「上を向いて歩こう」。それは、私たちにとっては、単に涙をこぼさないためのものではないなずです。上を向く。天を向く。その私たちの視線の先には、イエスさまがおられる。天に昇られ、今も神さまの右に座しておられるイエスさまを私たちは見上げる。だか
らこそ、涙がこぼれないのです。泣きたくなる時、イエスさまを見上げるからこそ、私たちの涙を拭ってくださる方を天に見いだすことができるからこそ、私たちは歩いていける。

悲しみの中にあっても、苦しみの中にあっても、失意の中にあっても、すぐにでもそれらが全て取っ払われてしまわなくとも、天には違ったものが、見えていなかったものが、幸いが見え出してくる。そうではないでしょうか。

その上で、この言葉も忘れてはいけないのだと思う。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あ
なたがたはこれらのことの証人となる」。この復活のイエスさまから託された宣教についても、私たちはしっかりと心に留めなければならないでしょう。

そのことは、次週お話しすることになるかと思いますが、ともかく、イエスさまが天に昇られた、ということは、私たちにとって幸いなことなのです。そのことをしっかりと胸に抱いて、天を(上を)見上げて、これからも歩んで行きたいと思います。

 
《祈り》
・首都圏、一都三県と北海道以外は非常事態宣言が解除されました。経済的な逼迫状況を考えると仕方がないことですが、制限が緩められ、人の行き来が戻ってくると、感染の広がりがやはり心配になります。これまで日本では欧米諸国とは比較にならないほど押さえ込めていますが、それには、手洗いうがいなどの衛生面などの意識の高さや、マスクの着用、また上からの指示に従うという国民性など、いろいろな要因によるとも言われています。

あるいは、単に運が良かっただけ、といった指摘もあります。確かに、気が緩めば、これまで以上の大きな波が来ないとも言えません。どうぞ、これからも一人一人が「うつらない。うつさない」といった意識をもって生活していけるようにお導きくださいますようお願いいたします。

また、医療体制の脆弱なアフリカ諸国やインド、あるいは南アメリカの国々などでも広がっていると懸念されています。もともと衛生面においても、また栄養面においても、十分とは言えない方々も多くいらっしゃいますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な援助
も行われますようにお願いいたします。

あるいは、難民キャンプなどの感染リスクも非常に懸念されています。弱い立場の人々に、特にこういった疫病は襲っていきますので、どうぞお助けくださいますようにお願いいたします。また、そういった中で懸命に働いておられる方々もお守りくださり、遠く離
れた私たちですが、私たちにできることもしていけるように、お導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・ワクチンや薬の開発も待たれています。大国同士の覇権争いの道具になるのではなく、国際協力のもと、速やかに開発され、貧しい国々の人々にも届けられますようにお導きください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・コロナ鬱や虐待、DV被害者なども出ないようにもお助けください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン

-週報- 2020年 5月17日 復活節 第六主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 祈り A.ギルマン

初めの歌  3( あめつちのみ神をば )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
すべての良きものの源である神(さま。
あなたの聖なる息吹を与えて、正しいことを考え、それを実行できるように導いてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読 使徒言行録  17:22-31( 新約 248頁)

第2 の朗読  ペトロの手紙一  3:13-22( 新約 432頁 )

福音書の朗読 ヨハネによる福音書  14:15-21( 新約 197頁 )

みことばのうた 242( なやむものよ われにこよ )

説教 「 いつも共にいる 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 312( いつくしみふかき )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  532( ひとたびは しにしみも )


後  奏 主よ 人の望みの喜びよ  J.S.バッハ

* 前奏・後奏(中山康子 選曲)

【音声・テキスト 】2020年5月17日 説教「いつも共にいる」浅野直樹牧師

復活節第六主日
聖書箇所:ヨハネによる福音書14章15~21節



 

今日の箇所には、「聖霊」(「弁護者」、あるいは「真理の霊」という言い方でしたが)が登場して参りました。
早いもので、今年もあと2週間で聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えます。とは言いましても、今の状態だと、皆で集まって祝うというのは、ちょっと難しいかもしれません。たとえ非常事態宣言が解除されたとしても、「すぐにでも」とはなかなかいかないと思う
からです。

思い起こせば、このような形式での礼拝となったのは3月29日の礼拝からでした。その後、受難主日からはじまる受難週、聖金曜日礼拝、復活祭、そして今度は聖霊降臨祭と、教会としてはもっとも大切なそれらの記念日に共々に集うことができないというのは、まさに前代未聞の非常事態と言えるでしょう。多くの方々から「礼拝に行きたいのに」といった声が聞かれるように、これはまことに辛く残念なことです。

しかし、そのような中にあっても、聖霊はいつも働いていてくださいます。共々に集うことができずにいても、聖霊の働きはいっときたりとも止まっていることはありません。私たち一人一人の心の中に、時の流れ・歴史の中に、世界の中に、いちいちそれらを見聞きしたり、感じ取ることができなくとも、聖霊の働きは確かにある。そのことを、私たちは忘れてはいけないのだと思います。
今日の日課の中で、このようなイエスさまの言葉が記されていました。



「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。本当に慰めに満ちたことばだと思います。この「みなしごにはしておかない」の「みなしご」という言葉を聞くと、私の世代の方々は『みなしごハッチ』を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。正式には『昆虫物語 みなしごハッチ』といい、タツノコプロ制作のアニメーションです。調べてみますと、最初に放送されたのは、昭和45年とありますので、私が見たのはおそらく再放送だったと思います。

昆虫の世界が舞台で、主人公は「ハッチ」というミツバチの子どもです。この「ハッチ」、まだタマゴだったころ、自分たちの巣がスズメバチに襲われてしまい、お母さん(女王蜂)と生き別れになってしまいます。

そして、数々の冒険をしながらお母さんに会いに行く、というのがストーリーになるのですが、とにかく、いろいろとひどい目に合う。命の危険にも合う。そういった時、寂しくなって「お母さん」と涙を流すわけです。そして、ついにお母さん(女王蜂)に合うことになる。「ハッチ」も女王蜂もワンワンと泣き出します。その再会シーンに子ども心ながらに胸が熱くなったことを覚えています。

この物語は、「ハッチ」が数々の冒険の中で成長をし、立派になってお母さんと再会するといった、ちょっとした成長物語になっていますが、物語冒頭の「寂しさ」「不安感」「喪失感」などといったものが、この「みなしご」といった立ち位置には付いて回るものなのでしょう。私自身の記憶を遡っても「まいご」といった記憶が無いもので実感が乏しいのですが、自分の子どもたちが迷子になってしまったときに、見つけた時の「安堵感」の表情は、今でもよく覚えています。この「みなしご」と「まいご」とを同列に置くことはできないと思いますけれども、その解決における「安堵・安心感」といったことには変わりはないのだと思うのです。



先週は、そのことには触れませんでしたが、先週の日課も、また今週の日課も、いわゆる「告別説教」と言われる箇所です。別れの説教、別れのことば…。イエスさまは直ぐにでも十字架で死んでしまわれることになる。そのことを深く自覚されていたイエスさま
は、また愛する弟子たちを残して旅立たなければならないことを案じておられたイエスさは、時間が許す限り、できるだけ弟子たちを整えようとされて、力付けようとされて、この最後の言葉を語っていかれたワケです。

弟子たちも、そんな雰囲気を察していたのでしょうか。あるいは、そのお言葉の端々からも伝わってきていたのかもしれない。だから、先週の日課である14章1節で「心を騒がせるな」と言われたわけです。弟子たちの心がざわついていた、騒いでいたからです。不安と恐れで、心が波立っていた…。

イエスさまが死んでしまう。イエスさまと別れなければならない。これは、弟子たちにとっては、まさに「みなしご」になるような思いでした。なぜならば、イエスさまこそが安心の源だったからです。子どもにとって親とはどんな存在か。もちろん、親にもいろい
ろな務めがあるでしょうが、まず第一は子どもの存在を守るということでしょう。この子が元気に生きてくれるだけで良い。

幼い子を持つ親は、大抵そう思うものです。そんな子どもたちも大きくなると、生きることが、成長することが当たり前のように感じられて、その存在自体だけでは物足りなくなり、変な期待や欲を寄せるようになる。すると、本来の「居てくれるだけで嬉しい」、「生きてくれるだけで良い」という存在自体の有り難さが薄れてしまい、いろいろと親子の対立も起こってくるようになる。

ともかく、まだ幼くて、力の加減次第ではすぐにでも死んでしまうほどに儚い存在である赤子の頃は、とにかく「生きること」だけを願う。その存在自体が尊くて、愛らしく思う。それが、親心。そのために、昼夜を問わず、身を削って必死になって子育てをするワケです。だからこそ、子どもは安心する。自分を大切に生かし、育ててくれる人たちだからこそ、信頼して、安心して委ねることができる。不安なときにもいつも側にいてくれるから、悲しい時には慰めてくれるから、怖い思いをした時にはきゅっと抱きしめてくれるから、困った時にはいつも助けてくれるから、温かく、微笑んで見つめてくれるから、安心できる。

それが、ある意味、今までの弟子たちの姿でもあったワケです。イエスさまがいつもいてくださるから大丈夫。安心できる。でも、そのイエスさまがいなくなってしまわれる。どこかに行ってしまわれる。どうしよう。弟子たちの困惑も当然でしょう。あるいは、それは、ここにいたイエスさまの直接的な弟子たちに限らないのかもしれません。

イエスさまが天に昇られた後に出来た教会は、この弟子たちのようには直接的にはイエスさまにお会いすることなどできないからです。もちろん、私たちだってそうです。イエスさまがいない。不在である。いつも共にいてくださると約束してくださったのに、とてもそうは思えない。不安だ。この先、どうしたらいいのだ。

このヨハネ福音書が記されたヨハネの教会は、当時、迫害に遭っていたと言われています。この教会の人たちにとっては、この「みなしご」はまさに自分たちのことを指していると思ったのかもしれません。いつも一緒にいてくださると約束してくださったではあり
ませんか。どうしていてくださらないのですか。答えてくださらないのですか。助けてくださらないのですか。慰めてはくださらないのですか。癒してはくださらないのですか。

私たちのことを放って、どこに行ってしまわれたのですか。確かに、そうです。弟子たちだけではありません。私たちもまた、「みなしご」になってしまったと思える時がくる。イエスさまはどこかに行ってしまわれて、私たちは一人、不安の中に取り残されてしまった。そうとしか思えない時もある。あの『FOOTPRINTS』の詩人のようにです。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません』」。

私たちにも、この詩人の気持ちが良く分かると思います。いつも一緒にいてくださると約束してくださったのに、「みなしご」になってしまったかのような気持ちです。しかし、イエスさまはこう語られます。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。いっとき…、そう、いっときはイエスさまがいなくなってしまわれたかのように思えるような時が来るでしょう。どこかに行ってしまい、一人残された「みなしご」のような気持ちに、不安な気持ちに苛まれるような時もあるでしょう。

しかし、イエスさまはそうはさせない、とおっしゃいます。「みなしごにはしておかない」とおっしゃいます。また「戻って来る」とおっしゃいます。しかも、その間でさえも、ほんのいっときの間であっても、「みなしご」にしておかないように、聖霊を遣わす、とおっしゃってくださる。イエスさまのことを教え、思い起こさせる聖霊を、あなたがたのところに、その心の中に遣わす、とおっしゃってくださいました。だからこそ、あの詩人も気づけたのです。

「主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」(マーガレット・F・パワーズ)。聖霊がいてくださったからこそ、聖霊を遣わしてくださったからこそ、見えていなかったものが見え出し、気づき得なかったことに気づくことができた。あの時も、この時にも、確かにイエスさまは共にいてくださったのだ、と。私は決して「みなしご」ではなかったのだ、と。それは、本当に幸いなことです。



人生を根底から変えてしまうほどに。あの「ハッチ」が夢にまで見たお母さんと出会えた喜びのように。私は、第一ペトロ1章8節以下の言葉が大好きです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」

これほど、聖霊の働きを言い表しているものはないのではないかと思っています。この目で見たことがなく見てもいないのに、信じ、愛し、喜んでいる。聖霊によってイエスさまを知って、その約束を信じて、救われて、心から安心できているからです。

私は、決してひとりぼっちではない。「みなしご」ではない。いつでも、どこにでも、たとえ死の先にあってもイエスさまが共にいてくださる。これほど心強いことはない。そう思える。信じていける。それは、私たちの掛け替えのない財産だと思います。

 

《祈り》
・全国的には新規感染者数も減って、非常事態宣言が解除になった地域も多いようですが、気の緩みから第二第三の波も心配されています。一人一人が「うつらない。うつさない」といった自覚をもって、これからの生活においても注意していくことができますよう
に、どうぞお導きください。また、医療体制の脆弱なアフリカ諸国やインドなどでも非常な勢いで広がっていると懸念されています。

もともと衛生面においても、また栄養面においても、十分とは言えない方々も多くいらっしゃいますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な援助も行われますようにお願いいたします。

あるいは、難民キャンプなどの感染リスクも非常に懸念されています。弱い立場の人々に、特にこういった疫病は襲っていきますので、どうぞお助けくださいますようにお願いいたします。また、そういった中で懸命に働いておられる方々もお守りくださり、遠く離
れた私たちですが、私たちにできることもしていけるように、お導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・緊急事態宣言の延長のために、まだ学校に行くことのできない学生、子どもたちが多くいます。どうぞ、それらの子どもたちの学ぶ機会が奪われませんように。将来に不安を抱えることがありませんように、どうぞお助けください。

・本当にこのコロナの問題で、世界中で人の悪感情が噴出しています。それにより、対立が起こったり、また傷つけ合うことが起こってしまっていますが、どうぞ憐れんでくださり、思いやりの心を取り戻すことができますようにお導きください。また、虐待やDV被
害者などもお救いくださいますようにお願いいたします。

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン



 ※『奇跡の漁り』(ロイヤル・コレクション所蔵、ヴィクトリア&アルバート博物館展示)
ラファエロ・サンティ1515年 

-週報- 2020年 5月10日 復活節 第五主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 天にいますわれらの父よ  D.ブクステフーデ

初めの歌  12( めぐみゆたけき主を )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
み民の心をひとつにされる神(さま。

あなたの掟を愛する心、あなたの約束への切なる望みを私たちに興し、激しく
変動するこの世界の中でも、動くことのない喜びを与えてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読 使徒言行録 7:55-60( 新約 227頁)

第2 の朗読  ペトロの手紙一 2:2-10( 新約 429頁 )

福音書の朗読 ヨハネによる福音書 14:1-14( 新約 196頁 )

みことばのうた 234A( 昔主イエスの 播きたまいし )

説教 「 イエスさまが示される道 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 298( やすかれ、わがこころよ )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 494( わがゆくみち )


後奏 いと高きにある神にのみ栄光あれ  A.ギルマン

* 前奏・後奏(萩森英明選曲)

【テキスト・音声 】2020年 5月10日(日)10:30  説 教:「イエスさまが示される道 」浅野 直樹 牧師

復活節第五主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書14章1~14節

Live版はこちらから



今日の福音書の日課の中で、イエスさまはこうおっしゃっておられました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。

最近、いろんなことを考えます。皆さんも恐らくそうではないか、と思います。その一つに、普段の何気ない生活・日常の大切さ、というのがあります。これは、以前にもお話したあの3・11の時にも経験しました「当たり前の日常生活の有り難さ」とは、ちょっと意味合いが違うものです。言い方を変えれば、「平時」の生活・日常の大切さ、ということです。

つまり、その「平時」が「いざ」というときと、どのように結びついているだろうか、ということです。例えるならば、普段から災害などにどのように備えているのか(備蓄とか訓練とか)といったことと同じようにです。今回、私たちは、世界規模の「いざ」(重大な局面)に直面している訳ですが、当然、私たちの人生には、この「いざ」ということがつきものでもあるからです。

私は、反省をしています。私たちは今、テレビのニュース等で「平時」にはあまり見られなかった嫌なものを見聞きすることが増えました。虐待、DV、自粛警察と言われる人々による嫌がらせ、差別的な発言、悪意に満ちた書き込み、コロナ鬱等々…。「平時」にはごく限られた人々の問題だと思っていたものが、不安や苛立ち、『心の騒ぎ』からより広がりを見せているように思います。そういった報道を見聞きするたびに、もっと伝道すべきだった、と反省する。

もちろん、伝道したからといって、これらの問題が綺麗さっぱりなくなるとは思っていません。一所懸命に伝道したって、聞き耳を立ててくれる人は本当にごくごく少数です。それでも、反省がない訳ではない。聞いてくれなくても、「いざ」という時のために、もっともっと伝道に励むべきだったと反省する。ともかく、この「いざ」という時のためにも、「平時」…、普段の何気ない生活・日常が大切なのだと、改めて噛み締めています。

しかし、同時に、この「いざ」という危機的な状況もまた大切な時なのであろう、と思うのです。なぜならば、この「いざ」という時でなければ開かれない扉があるからです。
使徒パウロは『コリントの信徒への手紙2』の中でこのように自身の経験を語っています。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これから
も救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。あのパウロでさえも、絶体絶命の危機的な状況の中でこそ神さまに頼ることを学んだ、と言っているかのようです。

以前、死の克服こそ聖書が語る最大のメッセージだと私自身は考えていると言いました。確かに、そうなのですが、実はちょっと不正確でもあります。もっと正確に言えば、神さまとの和解、神さまとの関係性こそ、あるべき正常な関係性の回復こそが真に受け止めるべき最大のメッセージだと考えているわけです。これを端的に言い表すならば、「私は神さまに愛されている。私も神さまを愛している」ということになるでしょうか。

これさえあれば、この理解さえ、信仰さえしっかりと自分のものになっていれば、他は何もいらない。これだけで人は生きていけるし、安んじて死んでいける。そう思っています。しかし、このことに気づけたのも、私なりの危機的な状況を経験したからです。


またまた自分の経験・体験をお話しするのをお許しいただきたいと思いますが、ご存知のように私自身は長男との死別を経験しているワケです。これは、私自身の命の危険ということではありませんでしたが、精神的な、霊的な、信仰的な、あるいは私自身の人生の危機だったといっても良いと思っています。

祈りました。これまでにないほど、真剣に祈りました。血が滴るほど、とまでは言いませんが、絞りきって涙が出なくなるほど、その痛みで目を開けておれなくなるほど、心の叫びを神さまにぶつけていました。あのダビデが神さまに同情を買うかのように。しかし、長男は死んでしまった。神さまは沈黙を貫かれたのです。恨みました。腹が立ちました。果たして、本当に神さまはいらっしゃるのか、と問いました。あらゆる意味で疲れ果て、しばらくの間は呆然と過ごしました。それでも、神さまは沈黙を貫かれていました。しかし、徐々に不思議なことに気づきだしました。心が燃えていたのです。はっきりとは気づけないほどの小さな灯でしたが、相変わらず疲れ果てて、呆然とした中ではありましたが、希望の火が灯っていることに気づいた。

私は、神さまをもっともっと信じたいと思っている、と。愛したいと願っている、と。それは、自分でもなかなか理解できないような不思議な感覚でした。願いが届かず、どこか失望していたのに、諦め、虚無のような思いさえも抱いていたのに、結局本当に自分が欲していたのは、神さまご自身なのだ、と気づかされたのです。もちろん、息子が生きていてくれた方がいいに決まっている。そのために、真剣に祈ってもきた。

しかし、それらがどこか霞んでしまうくらい、自分が本当に欲し、願っていたのは神さまご自身であった。自分では気づき得なかった、自覚し得なかったけれども、これまでの人生においても、ひたすらに願い追い求めて来たものは、神さまご自身のことだった。この方を本当に、心の底から信じ、愛することだった。もし、それが叶えば、他は何もいらないと思えた。息子のことも、この神さまに全てお任せすることができる。愛する者を助けることも救うことも愛し切ることもできない私なんかよりも、よほど息子のことを思い、愛してくださる方に委ねることができるのだから、これほど心強いことはない。

そう思えた。そうだ。私は不信仰だったのだ。不信仰だから「心を騒がせ」ていたのだ。この不信仰から、この神さまを信じ切れる信仰へと導かれるとすれば、なんと幸いなことだろうか。これらの出来事も、与えられたその一つの道筋ではなかったか。そう思えた。なんとこの信仰とは素晴らしいものか。まさに宝。全てを投げ捨ててでも手に入れたいもの。私自身はまだまだそんな境地には達し得ず、その途上にあることを深く自覚させられてもいますが、それでも、なんだか素敵な、素晴らしい予感がしたのです。私も、この幸を、信仰の幸を手に入れることができる。

私も、神さまに愛されていることを深く悟り、また神さまを愛する者へと変えていってくださるに違いない、と。だから、信仰生活は止められない。この幸いが待っている。その思い、気づきが私を立ち上がらせてくれたのだと思っています。ともかく、不幸が、危機的な状況が開いてくれる世界、見させてくれる、気づかせてくれる世界がきっとあるはずです。

「平時」の備え。「いざ」という時に開かれる世界、気づき。それらに基礎付けられた「平時」の新たな備え、そして「いざ」という時…。このような循環を通して、私たちは、個々人の生活においても、またこの社会においても、整えられていくのかもしれません。



イエスさまは語られます。今日、この状況下の中にある私たちに語られます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。今の、この状況下の中で心が騒がしくなるのも当然のことでしょう。神さまも、イエスさまも、そんなことは十分に分かっておられる。しかし、その上で語られるのです。「心を騒がせるな」と。なぜか。神さまを、イエスさまを信じられないところに、信じきることができないところに、心のざわつきは起こるからです。ですから、「信じろ」と招かれるのです。それでも、こ
のわたしを信じろ、と。

そして、この神さまを、イエスさまを信じる者には見えてくるものがある。それが、天の父なる神さまのおられるところに備えられている私たち一人一人の住まいです。これは、まさに、信仰の目でなければ見えてこない世界です。しかし、それは、私たちが生きるこの現実世界を無視することではないでしょう。私たちには天の住まいがあるから大丈夫と、この世の責任を放棄することではありません。今、この混迷の時代に、私たちがすべきこと、責任は確かにあります。新型コロナにかからないこと。うつさないこと。これは、最低限の私たちが努めていくことでしょう。それ以外にも私たちにできることがある。

いいえ、私たちにしかできないことがあります。祈ることです。イエスさまはこう約束してくださっています。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。もちろん、それ以外にも、医療従事者の方々や私たちの生活を支えてくださっている方々に感謝することや、喜びと感謝の声をもっともっと多く発信していくこともできるかもしれません。もちろん、そうです。

しかし、どれほど注意をしていても、感染してしまうことだってあるでしょう。場合によっては命の危険さえも起こってくるのかもしれない。それでも、「心を騒がせ」ずにいられるのは、この信仰によって違う世界をも見ることができるからです。違う世界にも希望を見いだすことができるからです。そのためにも、イエスさまは神さまを、そして私をも信じなさい、と促しておられるのです。

そして、ここにはもう一つ非常に大切な言葉が記されていました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。以前にも指摘した通りですが、私はこの言葉の前半部分だけがなんだか切り取られ
てしまっているように思えて危惧しています。イエスさまがご自身のことを道であり真理であり命であるとおっしゃったのは、神さまのところに導くために他ならないからです。

この神さまとの関係、つながりを無視して、道、真理、命を取り出すことは間違いだと思います。ともかく、私たちはイエスさまを通して、はじめて父なる神さまへ至る道、真理、命をいただくことができるワケです。

イエスさまは「神を信じなさい」と言われます。しかし、見たことのない方をどうして信じることができるでしょうか。それに対してイエスさまはこう語られるのです。「わたしを見た者は、父を見たのだ」と。

神さまを信じるためには、イエスさまを信じるしかない。聖書を通して、じっくりイエスさまを観察し、そのイエスさまのお姿を通して、また十字架と復活のメッセージを通して、神さまのお姿を、私たちに向けられている愛の真実を、見いだすしかない。それが、道であり真理であり命であると言われていることでもあると思うのです。

私たちには、このイエスさまがいてくださるのです。「平時」においても、「いざ」という時にも、このイエスさまが神さまのことを示してくださる。だから、私たちは救われるのです。癒されるのです。立ち上がれるのです。希望をもって、全てを委ねていけるよ
うになる。そのことをもう一度心に刻んで、イエスさまを信じていきたいと思います。



《祈り》
・先日、私たちの仲間である敬愛する姉妹がお亡くなりになられたとの知らせがありました。大病を患い闘病されていたことは伺っていましたが、突然の知らせに衝撃を受けています。ご家族にとっても突然の出来事だったようで、また新型コロナの影響でご家族だけでのご葬儀となったと伺っています。本当にお辛いこととお察し致します。私たちにとっても大変悲しいことです。いつも笑顔で教会に来られていた姉妹と、この地上ではお会いすることができなくなりました。どうぞ、御約束の通りに、姉妹をあなたの懐に迎え入れてくださり、永遠の平安に与らせてくださいますようにお願いいたします。また、辛い思いをされておられるご家族をも憐れんでくださり、豊かな慰めを、またあなたにある希望をお与えくださいますようにお願いいたします。

・新型コロナの新規感染者が減ってきているようです。感謝いたします。しかし、まだまだ油断ができない状況ですので、自粛疲れが出ているとも言われていますが、一人一人がしっかりと自覚をして行動をすることができますようにお導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・緊急事態宣言の延長のために、まだ学校に行くことのできない学生、子どもたちが多くいます。どうぞ、それらの子どもたちの学ぶ機会が奪われませんように。将来に不安を抱えることがありませんように、どうぞお助けください。

・本当にこのコロナの問題で、人の悪感情が噴出しています。それにより、対立が起こったり、また傷つけ合うことが起こってしまっていますが、どうぞ憐れんでくださり、思いやりの心を取り戻すことができますようにお導きください。また、虐待やDV被害者など
もお救いくださいますようにお願いいたします。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。

アーメン

*Carnation, Jacob Marrel (possibly), 1624 – 1681

 

【テキスト・音声 】5月3日(日)10:30  説 教:「イエスは良い羊飼い 」浅野 直樹 牧師

復活節第四主日 礼拝説教(むさしの教会)
聖書箇所:ヨハネによる福音書10章1~10節




【Live版はこちらからご覧下さい】
※礼拝始めに音声不具合のため6:30分からご覧ください。

 

近頃はテレビで動物、あるいはペットの映像がよく流れているように思います。このところの外出自粛のせいでストレスが溜まっていたり、気分が落ち込みがちになっていることを見越してのことかもしれません。確かに、可愛らしいペットの、動物の仕草を見ると、自然に目尻が下がり、癒されます。

皆さんの中にもペットを飼われている方、飼われていたことのある方がいらっしゃることと思います。私自身は田舎に住んでいたこともあり、また母が動物好きだったこともあって、さすがに「羊」は飼ったことがありませんでしたが、幼い頃から身近に動物(ペット)がいるのが、ある意味当たり前のことでした。

鶏、うさぎ、錦鯉、金魚、かめ、セキセイインコ、犬、猫…。うさぎに食べさせるために、大量のクローバー(シロツメクサ)を採りに行ったことを覚えています(田植え前の田んぼは、春先一面にシロツメクサが生えていました。まさに緑の絨毯でした)。

セキセイインコは、器用に自分の名前を呼んでいました。もともとは犬派だったのですが、猫を飼ってからは、いわゆる「猫可愛がり」が良く分かるようになりました。本当に可愛かった。それら動物、生き物を見ていると、本当に心が穏やかになり、「ほっこり」したことを覚えています。

*1. Anton Mauve – The Return of the Flock, Laren



今日の福音書には、羊飼いと羊が登場してまいります。もちろん、羊飼いはイエスさまのこと、その羊たちは私たちのことです。羊飼いであるイエスさまにとって、私たちは、ひょっとして心温まる、ほっとする、「ほっこり」できる存在なのかもしれない。いつまで見ていても飽きない。微笑ましい。そんなふうにも思えてきます。

そんな羊飼いであるイエスさまですが、この羊飼いは非常にユニークな方でもあります。10節「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とあります。確かに、羊飼いにとって自分の羊は大切な存在でしょう。ここに出てくる盗人や強盗とはワケが違う。盗人や強盗にとって羊とは、「獲物」でしかないからです。他人(ひと)から奪っては、売って金に変えてしまう。

ただ、それだけの存在です。商売の道具でしかない。しかし、羊飼いにとっては、そうではないでしょう。自分の大切な財産なのですから、一所懸命に養い、育て、手当てをして、大切にしていったはずです。愛情を注いで、家族同様に育てて行った。しかし、家族とは違います。時には、その大切な羊を売ることもあったでしょう。屠ることもあったかもしれない。家族のために、です。そうです。

いくら大切に育ててはいても、羊たちは、羊飼いにとっては生業なのです。生きていく、生活していくための手段なのです。つまり、自分の、自分たちの「羊」でしかない。いくら心優しい羊飼いであっても、その関係性は変わることはないでしょう。しかし、ここに、一人ユニークな羊飼いがいる。自分のために羊を飼い、養い、育て、手当てをするのではなく、羊のために、羊自身のために、その羊たちが命を得るために、しかも豊かに得るために飼っていく羊飼いがいる。しかも、この羊飼いは、そんな羊のために自らの命さえも捨てると言う。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。確かに、聖書にも書いてあるように、雇い人の羊飼いであるならば、そんなに命がけで他人の羊のことを守ることはなかったでしょう。実際に、当時の羊飼いたちの中には、自分の羊を狼や熊などから守るために戦って命を落とす者もいた、といいます。しかし、これは、守るために戦った末に、残念ながら命を落としてしまった、ということです。つまり、命を落とすことは本意では無かった。自ら積極的に、この羊の身代わりとなって命を捨てるという羊飼いなどいないワケです。

しかし、私たちの羊飼いは、ご自分のためにではなく、私たちのために、私たちが命を得、しかも豊かに得るために、私たちの身代わりとなって十字架の上で命を捨ててくださった。このイエス・キリストこそが私たちの羊飼いであると聖書は語ってまないわけです。私たちは、このイエスさまに飼われている羊の群れ。ユニークな、唯一無二の羊飼いに養われている。

このように、私たちは唯一無二なイエス・キリストという羊飼いに飼われている羊(たち)であるわけですが、その羊の特徴は何かと言えば、その羊飼いの声だけに従うと言われています。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」。

イエスさまの羊の特徴は、毛並みが良いことでも、賢いことでも、人格(羊格?)が優れていることでも、有能なことでもなく、ただイエスさまの声を知っており、その声に、その声だけに従うことなのです。ただ、それだけのことです。しかし、この唯一のことにこそ、私たちは注意を向ける必要があるようにも思うのです。ただ、イエスさまの声だけを聞き分けて、従う。政治家の声でもありません。権威ある者の声でもありません。誤解を恐れずに言えば、牧師の声でもありません。イエスさまの声だけに従う。これが、イエスさまの羊たちの特徴なのです。

言わずと知れた、現在は未曾有の危機的な状況です。人との接触も8割減と言われ、町にも本当に人がいなくなりました。映画のワンシーンを見ているかのような、ちょっと異様な感じもしています。教会にも残念ながら集まることができませんが、これも感染症を防ぐためだと、様々な不自由さや制約も我慢しながら、国民が一丸となって取り組んでいるワケです。しかし、一つ懸念されていることがあります。それは、「コロナ後」ということです。

現在は新型コロナウイルスを防ぐために仕方がないこととしてしているワケですが、このコロナ騒動が収まっても、世界が変わってしまい、監視社会が、自由や権利を過度に制限するような風潮、強権政治等が強まってしまわないだろうか、と危惧されてもいるからです。そんなことは考えすぎだ、と言うのは簡単ですが、私たちは歴史からもよくよく注意深く見ていく必要があるようにも感じるのです。

ご存知のように、あの悪名高きナチスは、最初っから悪名高きものではなかったからです。第一次世界大戦で敗北し、莫大な賠償金に喘ぎ、そのため極度のインフレにも会い(一兆倍のハイパーインフレーション)、世界恐慌も相重なって、どん底状態に陥っていたドイツ国民にとっては、ナチス・ドイツ、ヒトラーが掲げる理想は、希望に映ったからです。あたかも、自分たちをこの窮状から救い出してくれる救世主のように思ってしまった。その結果、どうなってしまったかは、お話しする必要もないと思います。

それは、世界大のことだけでもないでしょう。私たち個々人の日常、人生においても起こらないとは限らない。イエスさまの羊である私たちを、虎視眈々と狙っている狼たちは、盗人・強盗たちは、何も、いつでもそういった装いで、誰の目にも明らかな姿でやってくるとは限りません。羊の皮を被ってくるのかもしれない。いかにも私たちのことを思っているかのように、気遣っているかのように、柔和で、優しい笑顔で接してくるのかもしれない。しかし、その本性は、羊のことを考えもしない、ただ己のため、己の欲望、願いを叶えるために利用しようとしているだけなのかもしれない。ですから、そういった声に従ってはいけないのだ、と言うのです。そういった声を聞き分けなければならない。

それは、本当にイエスさまの声なのか。イエスさまの思いを表している声なのか。それとも、別の声なのか、聞き分けなければならない。そして、イエスさまの羊ならば、その声を聞き分けることができるはずだ、と言われます。懐かしい、聞き覚えのある声なのか、それとも、たとえ心地よい声だとしても別の声なのか、と。

*2.マルテン・ファン・クリーフ1524~1581 Marten van Cleve 「The_Good_Shepherd」



もう一つのイエスさまの羊の特徴は、ただ声を聞き分けるだけでなく、聞き分けたら「ついて行く」と言うことです。イエスさまが生きておられたパレスチナの羊飼いたちは、羊たちの先頭に立って、導いていきました。なぜならば、どこまでも広がるのどかな平坦な牧草地ではなく、穴あり谷あり崖ありの過酷な環境だからです。ですから、これから向かおうとする道の安全を確認しながら羊飼いたちは先頭を歩く。

そして、羊たちはそんな羊飼いを信頼して、後について行く。従って行くのです。そんな羊たちの様子について、今日の使徒書ではこんなことが書かれていました。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉になるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。

イエスさまの後について行く、ということは、イエスさまの模範に従って行く、ということでもあるでしょう。と言っても、簡単なことではありません。私たちは、なかなかイエスさまのようにはなれない。当然です。イエスさまの羊であっても、元気いっぱいにいつでもイエスさまのすぐ後ろについていける者もいれば、ふらふらして列から遅れてしまう者もいるでしょうし、後ろ髪引かれていつも後ろばかりを振り返ってしまう者もいるでしょうし、それこそ、ひょいと迷子になってしまう者もいるかもしれません。あるいは、そのペースについていけず、自分はだめだと座り込んでしまう者も出てしまうかもしれない。

私たちの羊飼いは、そんな羊たちの実情を無視して、ただひたすらに目標を目指して突き進むような羊飼いではないはずです。脱落する者を放っておいて、自己責任だ、自分でなんとかしろ、と突き放すような羊飼いでもない。遅れている者がいればペースを落とし、しゃがみこんでいる者がいれば、少し休息を取り、怪我をしている者がいれば肩に担ぎ、後ろばかりを気にしている者がいれば、「大丈夫だ、ちゃんと前を向いていこう」と励まし、迷い出た者がいれば探し出してくれる、そんな羊飼い。私たちの羊飼いは、弟子たちの失敗を何一つ咎め立てもせずに、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださる復活のイエスさまだからです。それが、私たちの羊飼い。しかし同時に、その上で、羊である私たちも、自分の足で、この足で、この羊飼いを信頼して、その声を聞き分けて、ついて行く、従って行くことも望まれている。そうではないでしょうか。

イエスさまが私たち羊に願っておられることは、羊飼いであるイエスさまの声を聞き分けること。そして、この声だけについて行くこと。他の声にはついていかないこと。それだけ。その道中は、一進一退かもしれません。なかなか個性揃いの羊たちです。順調に進んだと思ったら、立ち止まったり、そこで野宿せざるを得なくなったり、探しにでかけたりと、羊飼いにとっては予定通りにならない珍道中かもしれません。しかし、そんな羊たちを羊飼いイエスさまは愛おしそうに、目を細めながら、ホッとしたように、「ほっこり」するかのように見つめておられるのではないでしょうか。「私の羊たちよ」と。

*3. ジャン=フランソワ・ミレー『羊飼いの少女』1863年頃。油彩、キャンバス、81 × 101 cm



《祈り》

・少し外出自粛が功を奏してか、感染者が減少傾向のように伝えられていますが、しかし、まだまだ予断を許さず、緊急事態宣言も延長されるとのことです。気候も良いせっかくのゴールデンウィークも、今年は「STAY HOME週間」となってしまいましたが、気を緩めることなく、自分たちにできることを誠実に成していくことができますように、どうぞお導きください。

・また、緊急事態宣言の延長に伴い、教育の現場も混乱していると聞きます。子どもたちにしわ寄せがいかないように、担当される方々の判断をお導きくださいますようお願いいたします。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方には癒しを、お亡くなりになられたご家族の方々には慰めをお与えください。

・まだまだ医療現場は大変な状況だと思います。どうぞ憐れんでください。医療に当たっておられるお一人お一人の上に、あなたの守りと助けが豊かにありますように。

・医療に必要な物品もまだ不足しているようです。どうぞ、速やかに供給がなされますように。

・また、感染症拡大のために、従来の疾病対策・治療が不十分になりつつあるとも聞きます。特に、救急医療の必要な重篤な方々の受け入れが困難になりつつあるとも聞きます。また、必要な手術ができない方々もいると聞きます。どうぞ、速やかなる改善がなされるようにお導きください。

・このような状況下の中で、市民の社会生活を支えるために懸命に働いておられる方々も多くおられます。スーパーの店員さん、物流の方々、銀行職員、郵便局の方々、公務員の方々等、ご自身たちも感染のリスクに不安を抱えながらの働きだと思いますので、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。

・経済的に厳しい状況に陥っておられる方々のために、速やかに援助の手が伸ばされるようにお願いいたします。

・外出自粛のために潜在化していた問題が、次々と顕在化しているとも言われています。特に、虐待、DVの問題は深刻です。どうぞ、必要な逃れ場が与えられますように。人々の心が荒んでしまうこの状況が、少しでも改善されていきますように、どうぞお助けください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

 

 
 

参考絵画
1.Anton Mauve – The Return of the Flock, Laren- Google Art Project
2.マルテン・ファン・クリーフ1524~1581 Marten van Cleve 「The_Good_Shepherd」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Marten_van_Cleve_The_Good_Shepherd.jpg
3.ジャン=フランソワ・ミレー『羊飼いの少女』1863年頃。油彩、キャンバス、81 × 101 cm

【テキスト・音声 】4月26日(日)10:30  説 教:「共に歩む幸い 」浅野 直樹 牧師

復活節第三主日礼拝説教
ルカによる福音書 24:13-35

【Live版はこちらからご覧下さい】



今、私たちは、「独り」になることが求められています。自分を守るために、愛する大切な人たちを守るために、です。これは、恐らく、これまで私たちが経験して来なかったことでしょう。人は「独り」では生きられないことを聞かされてきました。人は常に他者と生きるために存在しています。聖書の創造物語の中に、「人が独りでいるのは良くない」(創世記2章18節)とある通りです。これまでも人類は、様々な危機的な状況に遭
遇してきました。大きな戦争も、途方も無い自然災害も経験してきました。その度に、私たちは寄り添ってきました。たとえわずかな人数でも集まってきました。むしろ、「独り」になっている人を探し当て、その輪の中に迎え入れてきました。「独り」にさせない
ことに取り組んできました。

現代社会では、「独り」とは負け組の象徴のようにも考えられてきたように思います。小学校に入学するときには「100人の友達」ができることが理想とされました。友達が多い方がより優れた人格者だと見なされてきました。逆に、友達がいないと、どこか欠陥があるように考えられてきました。だから、『無理をして』その集団に居続ける若者が増えたと思います。別に趣味・嗜好も合わないのに、話も合わないのに、居心地も決して良くないのに、けれども「ぼっち」にはなりたくない、思われたくないと、本当はその集団にいるのが辛いのに、離れられないでいた若者たちが多くいました。また、「孤食」がバレないようにとトイレの個室の中で食事を取っていたということも話題になりました。

今は、「おひとり様」が随分と認知されているように変わってきたと思いますが、それでも、やはり「独り」を決して良しとはしていないように思います。無理をするのも嫌だけれども、「独り」が決して良いとも思っていない。無理のない適当な付き合いを求めている。ずっと「独り」でいるのは嫌だと思っている。

しかし、今は「独り」が求められています。自他ともに守るためです。いいえ、「独り」にならざるを得ない、と言った方が良いでしょうか。新型コロナによる日本の死者数も300名を超えました。その中には、人気者の有名人も含まれています。彼らは、ファンに囲まれながら命を引き取ったのではありませんでした。家族でさえも、ごくごく親しい人でさえも、見送ることができませんでした。みな「独り」で旅立っていきました。もちろん、医療従事者の方々が懸命に治療に当たってくれました。

旅立つときにも、一緒にいてくれました。そういう意味では、決して「独り」であったとは言えないでしょう。しかし、家族にも、愛する者たちにも会えず、言葉も交わせず、肌に触れ合うこともできなかった旅立ちは、やはり「独り」だったように思えるのです。それが…、「独り」で送り出さなければならない現実がこの感染症の恐ろしさなのだと、そんな死別を経験された方々が口々におっしゃっておられます。「独り」であってはならないのに、「独り」で逝かざるをえない。本当に悲しいことです。辛いことです。

しかし、考えてみれば、「死」とは本来そうだったのかもしれない。確かに、「独り」でないことは心強いに違いない。愛する者たちに看取られながら、言葉を交わし、触れ合いながらの旅立ちは、大いなる助け、救いになるのだと思います。しかし、その先は「独り」でしかない。未知なる世界へと「独り」で向かうしかないのも事実でしょう。この感染症は、そんな「独り」の現実に、問題に、改めて気づかせてくれたのかもしれません。私たちは、必ず「独り」の時を迎える。そんな問題提起に、です。

Robert Zund「The Road to Emmaus(エマオへの道)」1877年作、museum in St. Gallen(スイス)



今日の福音書、『エマオ途上』とも言われる物語には二人の人物が登場してまいります。一人はクレオパといい、もう一人は名前も分かっていません。大方の人々は、この二人は男性だと考えているようです。そういった絵画は幾つもあります。しかし、ある方は、この一人(名前の知られていない方)は女性だったのではないか。あるいは、この二人は夫婦だったのではないか、と言います。いずれにしても、この二人はイエスさまの弟
子でした。そして、特別な間柄でもあったのでしょう。二人で同じ目的地を目指していたのですから。ともかく、ここには二人の人がいました。しかも、この二人は夫婦だったかもしれません。「独り」ではなかったのです。しかし、果たして、二人いたからといって、夫婦だからといって、「独り」ではなかったと言い切れるでしょうか。人はたとえ複数の人々に囲まれていたとしても、「独り」の思いを持つこともあるからです。

息子の葬儀には、本当に多くの方々が来てくださいました。50~60人も入れば一杯になってしまうような小さな礼拝堂に、200人以上の人々が集まってくれました。教会の方々、同僚牧師たち、学校の先生方、クラスメイト、ママ友、医療関係者、近所の人たち…。つくづく息子はみんなに愛された幸せな子だったと思いました。本当に感謝でした。そして、代わる代わる遺族の私たちにも慰めの言葉をかけてくださいました。それは本当にありがたいことでした。しかし、大変申し訳ない言い方になってしまいますが、その時の私は「独り」でした。

葬儀の対応に追われ、2月の寒い時期にも関わらず駆けつけ、慰めてくださる皆さんに本当に感謝していましたが、そのような感謝する意識、ありがたいと思う意識の裏腹に、悲しみで心が閉ざされていたからです。「今のこの私の辛さは誰も分かってはくれないのだ」と。善意であることは痛いほど分かってはいても、どうしようもなく心が閉ざされてしまい、本来慰めの場でありながらも、私は「独り」だったのです。

普段ならば、互いに良い相手だったのでしょう。仲睦まじい夫婦だったのかもしれない。しかし、この時には違っていたかもしれません。イエスさまが死んでしまわれたからです。信じ、信頼し、愛し、希望を託していたイエスさまが、この世からいなくなってしまった。突然に。この途方も無い大きな衝撃の前に、彼らは「独り」になっていたのかもしれません。道中、互いにこのことについて話をしていたようです。

しかし、恐らく、解決にも慰めにもならなかったでしょう。問いばかりが浮かんでくる。どうして…、と。この時、二人でいることが、この二人にとっては力にならなかったのではないか。「独り」という思いを打ち破るものになれなかったのではないか、そう思うのです。そこに、銘々がそんな「独り」を抱え込んでいた二人のところに、復活のイエスさまは来られた。しかし、当初は、それが復活のイエスさまだとは気づかなかったようです。見知らぬ一人の男性が近づいて来たようにしか思えなかった。

では、ここで彼らは3人になったのか、と言えば、違うでしょう。人は何人集まろうとも、その人との関係が生まれなければ、結局は「独り」だからです。毎日、同じ満員電車に揺られていても、そこに見知った顔を認めても、それだけでは出会いにならないからです。人は関係して、はじめて「出会い」になる。

イエスさまはこの二人に声をかけられました。まるで、二人の「独り」を打ち破るかのように、ご自身の方から「出会い」を起こさんがために声をかけられた。「イエスは『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた」。急所の問いです。彼らを「独り」にしている急所を、問題とされました。彼らは堰を切ったように話し始めます。まるで、自分たち以外の誰かに聞いてもらいたいかのように。自分たちがこんなにも悲しく困惑していることを分かってもらいたいかのように。

しかし、二人の話を聞かれたイエスさまはこう応えられました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。言ってしまえば、叱責です。慰められるどころか、見知らぬ人に怒られてしまう。でも、ここに何かが生まれたのです。後に、彼らは思い返して、こう語ります。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。この二人の「心は燃えて」いたのです。悲しみと辛さの中で、二人でいながらもあたかも「独り」でいるかのように心閉ざして、慰めも、励ましも見いだせなかった、受け付けようともしなかったこの二人の心が燃えていた。

「エマオのキリスト」レンブラント1648年ルーヴル美.



しかし、ある方が指摘されているように、この炎は決してかっかと燃え上がるような、勢い激しい炎ではありませんでした。むしろ、この時まで気づかないような、振り返って見なければ分からない、気づけないような小さな炎でしかありませんでした。劇的な燃え上がりではなかった。しかし、たとえ無自覚であったとしても、確かにこの炎はこの二人の中に燃えていた。だからこそ、この二人はイエスさまを引き止めたのでしょう。自分たちでも気づけないような、自覚が持てないような小さな変化、動きであったかもしれませんが、このイエスさまとの出会いによって、この二人は確かに変わっていったのです。心が燃やされていったのです。

これは、まさしく私たちの姿でもあると思う。そして、復活のイエスさまが私たちのところに来てくださるとは、こういうことでもあるのではないか、と思うのです。私たちもまた、復活のイエスさまが来てくださっていることに気づかないのです。気づかずに、共に歩んでいる。しかし、そこにはすでにしっかりとした出会いが起こっているのです。イエスさまの方から歩み寄り、私たちと関わってくださっているからです。そして、私たちは自分たちの不信仰にも気づかされる。なぜ私たちは「独り」になってしまうのか。なぜ心閉ざし閉じこもってしまうのか。なぜ「独り」でいることに、「独り」で歩むことに恐れてしまうのか。それは、聖書を悟っていないからだ、という。

聖書に記されている、約束されているとてつもない恵みを、約束を、真実を、愛を、私たち自身のものにしていないからだ、とおっしゃる。そして、悟るようにと、受け取るようにと、信じ救われるようにと、縷々熱心に教え導いてくださる。それが、復活のイエスさまの姿なのではないか。復活のイエスさまが私たちと共に歩んでくださるという姿なのではないか。そう思うのです。

私たちの人生に「独り」はつきものなのです。いやがおうにも「独り」にならざるを得ない時も起こってくる。多くの人々に囲まれていても「独り」の思いになってしまうことだってある。しかし、復活のイエスさまは、そんな時にも私たちと共に歩んでくださるはずです。気づこうと気づかなかろうと共に歩み、聖書を、恵みを、救いを、希望を、悟らせようとしてくださる。たとえ激しいとは言えなくとも、消えることのない炎を私たちの心に灯してくださる。それは、究極的な「独り」の時にも、決して変わらないことなのです。私たちは、今、それを深く心に覚えなければならない。

しかし、聖書はこうも記します。復活のイエスさまと共に歩んだこの二人は急いで弟子たちのところに行きました。そして、今度は多くの弟子たちと共に集う中で復活のイエスさまと出会うことになりました。「独り」も「仲間たち」も、もちろん、どちらともが大切なのです。特に、今のような状況の中では、仲間たちのありがたさもひとしおですし、一日も早い仲間たちとの再会も待ち望んでいます。それは当然のことです。しかし、このような時だからこそ「独り」ということもいやがおうにも無視できなくなっていることを、改めて重く受け止めていきたいと思う。そこにも、イエスさまだけは常に変わらず共にいてくださるからです。

 

『祈り』

日本においても、新型コロナの患者さんが増えています。お亡くなりになられた方々も多くおられます。どうぞ憐れんでください。治療されておられる方には癒しを、お亡くなりになられたご家族の方々には慰めをお与えください。医療現場も大変な状況になっています。どうぞ憐れんでください。医療に当たっておられるお一人お一人の上に、あなたの守りと助けが豊かにありますように。

医療に必要な物品も不足しています。どうぞ、速やかに供給がなされますように。いくつかの企業がすでに取り組んでいるようですが、このような時ですから、利益を二の次にして多くの企業が協力していくことができますようにお導きください。

このような状況下の中で、市民の社会生活を支えるために懸命に働いておられる方々も多くおられます。スーパーの店員さん、物流の方々、銀行職員、郵便局の方々、公務員の方々等、ご自身たちも感染のリスクに不安を抱えながらの働きだと思いますので、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。

経済的に厳しい状況に陥っておられる方々のために、速やかに援助の手が伸ばされるようにお願いいたします。
ご自宅で余儀なく療養されていた方々が次々とお亡くなりになられました。どうぞ、速やかなる改善がなされますように。外出自粛のために潜在化していた問題が、次々と顕在化しているとも言われています。特に、虐待、DVの問題は深刻です。

どうぞ、必要な逃れ場が与えられますように。人々の心が荒んでしまうこの状況が、少しでも改善されていきますように、どうぞお助けください。

他教会員(保谷教会の木村兄)ではありますが、敬愛する兄弟があなたの元に召されたと伺いました。突然のことで、正直、衝撃を受けています。どうぞ、み約束の通りに、兄をあなたの永遠の祝福で包み、御許で憩わせてください。

兄を送ったご家族の方々、また教会の兄弟姉妹方に、どうぞ豊かな慰めをお与えくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

-週報- 4月26日 復活節第三主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 萩森 英明

前  奏 エスはわがかくれ家               J. S. Bach

初めの歌  146( たたかいおわりて )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
み子の従順によって、この世界を死の絶望から救われた神さま。
あなたに忠実な民に、絶えることのない喜びを与えてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読 使徒言行録 2:14a、36-41( 新約 215頁)

第2 の朗読 ペトロの手紙一 1:17-23( 新約 429頁 )

ハレルヤ

福音書の朗読 ルカによる福音書 24:13-35( 新約 160頁 )

みことばのうた 238( 疲れたる者よ )

説教 「 共に歩む幸い」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 39( 日くれて四方はくらく )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  324( 主イエスはすくいを )


後奏 神もしこれらの日々我らと共にいまさずば      D.Buxtehude

*前奏・後奏(今回自宅録音)

【テキスト・音声 】4月19日(日)10:30  説 教:「信じる者の喜び 」浅野 直樹 牧師

復活節 第二主日礼拝

LIVE版はこちらから



聖書箇所:ヨハネによる福音書20章19~31節

今、私たちは、この未曾有の危機的な状況の中で、信仰が試されているのだと思います。あの3・11の時もそうでした。いろんなことを考えました。問いました。もちろん、今だにはっきりとした回答、解決には至っていないものも多くありますが、気づいたことも確かにありました。「当たり前」の大切さです。ごくごく普通の、当たり前の日常が(普段ならば不満の多い日常かもしれませんが…)、いかに守られていたものであったか。神さまの守りと祝福の元にあったことだったのか。まさに、これこそが「奇跡」といっていい日常であったことを、失ってはじめて気づかされました。少なくとも、私自身はそうでした。

今もまた、私たちは考え、問うています。ある国の指導者が言っていますように、今は戦時下にも似た状況です。世界で一日に何万人と病院に担ぎ込まれ、何千人と命を落としている。各地で『野戦病院』が建てられているのも、その証拠でしょう。明日は我が身でもある。「どうしてこんなことに」、「なぜあの人が」、「こんなにも懸命に働いてくれた医療従事者がなぜ」…。善人か悪人かで色分けできるならば簡単でしょうが、そうではないことに私たちはいろんな問いを持たざるを得ないのだと思います。特に、信仰者であるならば、そこに「神さまは一体何をしておられるのか」といった『神の沈黙』に対する問いも浮かんでくる。

もちろん、私自身は先の大戦を経験していませんが、それでも当時ナチスに抵抗した信仰者たちの物語を読んで参りました。過酷です。今以上に過酷です。そして、信仰の問いが生まれていった。神さまを見失うほどの信仰の問いが…。それが、人の歴史なのでしょう。そして、私たち個々人の人生においても、そうだと思う。

もう何度もお話ししていることですが、私は長男を亡くしました。それまでにも、人生の様々な局面で信仰が試されたことはありましたが、この時ほど試されたことはなかったと思います。次第に状態が悪くなり、耳も聞こえなくなり、一日のほとんどを寝て過ごすようになりました。手足もやせ細り、死を、息子の死を自覚せざるを得なくなりました。

恐ろしかった。目の前に迫ってくる死が恐ろしかった。死の現実が恐ろしかった。息子を奪われてしまうことが、いなくなってしまうことが、死んでしまうことが恐ろしかった。私は牧師でした。もちろん、神さまを信じています。牧師として、神さまの愛についても、救いについても、永遠の命についても、死後の祝福についても、死は決して終わりではないということも、再会の希望が確かにあるということも、信じ、語ってきた。しかし、正直、全然足りませんでした。太刀打ちできませんでした。打ちひしがれ、心引き裂かれ、問うことしかできなかった。なぜですか。なぜ救ってはくださらないのですか。なぜ私から奪おうとされるのですか、と。

 

今日、復活祭後、復活節第二主日に与えられた福音書の日課は、復活されたイエスさまと弟子たちとの出会い(再会と言ってもいいのかもしれません)の場面でした。この時もまた、弟子たちにとっては信仰が試された時だと思います。19節でこのように書かれています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。

ここで、復活のイエスさまと出会った弟子たちの様子が、非常にリアルに記されています。彼らは「家の戸に鍵をかけ」閉じこもっていました。なぜか。ユダヤ人を恐れていたからだ、と聖書は記します。これは、良く分かることです。なぜならば、イエスさまは犯罪者として殺されたからです。

つまり、イエスさまの弟子である自分たちにも、その手が及んでくるのではないか。イエスさまにしたように、不正な裁判をでっちあげ、不当な罪を背負わされて殺されてしまうのではないか。そう思い、ビクビクしている。これは、私たちにもすぐに想像がつくことです。しかし、それだけではないと思うのです。よく言われますように、このヨハネ福音書は複数の意味をその中に込めていると思われるからです。

象徴…。つまり、心を閉ざしている、ということです。心を閉ざしている。なぜか。イエスさまが死んでしまわれたからです。今まで抱いていた思い、希望、信仰、全てがイエスさまが死んでしまったことによって吹っ飛んでしまったからです。全てを無くしてしまった…。その現実を受け入れることができないでいる。処理することができないでいる。だから、心を閉ざす。何も考えないように、自分の殻の中に閉じこもってしまう。私たちにも良く分かることです。

ですから、ここで一つ屋根の下に弟子たちはいたようですが、本当は一人でいたかった。心閉ざす、殻の中に閉じこもるとは、そういうことでしょう。しかし、前述のように、ユダヤ人を恐れていた。一人でいるのも怖かった。だから、少しでも安心できるように、肩を寄せ合っていた。しかし、実際は、誰とも口をきかずに、ただ無言のまま銘銘が心を閉ざしながら集まっていただけではないか。そんなふうにも想像できる。そのただ中に、復活のイエスさまは入ってこられました。しかも、そんな弟子たちを叱責するどころか、聞き慣れたその声でシャローム、「あなたがたに平和があるように」とお語りになった。

全てを失い心閉ざしていた、閉じざるを得なかった弟子たちは、どんな思いでこの言葉を聞いたのでしょうか。嬉しかった。嬉しかったに違いない。「弟子たちは、主を見て喜んだ」と記されている通りです。復活の主に出会った弟子たちは、まさに復活しました。いいえ、もとの自分に戻った、甦ったというよりも、新しい自分に、新しい命が与えられた自分に変えられていったことを感じていったことでしょう。しかし、ここにトマスはいなかった。

レンブラント『トマスの不信』(1634年、プーシキン美術館所蔵)



ご存知のように、この12弟子の一人であるトマスは、後に『疑い深いトマス』との不名誉な呼び名で呼ばれる人物です。もちろん、それは今日の箇所から来ている訳です。しかし、私はいつも思う。このトマスこそ、私たちの姿ではないか、と。なぜトマスはあの時、弟子たちと一緒にいなかったのか。これは、誰もが抱く疑問でしょうが、よく分からない。聖書にはその理由が記されていないからです。

しかし、ある方は、方々をぶらぶらしていたのではないか、と想像しています。私も、そう思います。なぜか。トマスは他の弟子以上にショックを受けていたと思うからです。それこそ、心閉ざしていた。殻の中に閉じこもっていた。他の弟子たちは、それでもユダヤ人たちを恐れて相集っていたわけですが、トマスはそんなことも忘れたかのように、一人になりたかった。

そうではなかったか。イエスさまが死んでしまわれたからです。イエスさまが死んで、今まで抱いていた思いも、希望も、信仰も、そして己自身さえも全て吹っ飛んでしまったからです。神さま、どうしてですか。イエスさまこそ救い主ではなかったのですか。なぜイエスさまを助けてはくださらなかったのですか。イエスさま、なぜお逃げにならなかったのですか。無罪を主張されなかったのですか。なぜ十字架から降りて来られなかったのですか。なぜですか。閉ざされた心の中で、閉じこもっている殻の中で、尽きることのない問いを浮かべていたのかもしれません。

それだけでもなかったでしょう。どうしてイエスさまを救えなかったのか。なぜお引き止めをすることができなかったのか。どうして、一緒に死ねなかったのか。このトマスはラザロの復活物語の中でこう語った人物でもあります。「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」。

イエスさまがラザロを復活させるために敵対勢力渦巻くユダヤに行こうと言われたときに、語った言葉です。イエスさまに対するトマスの愛は本物でした。だからこそ、むしろ、自分が赦せなかったのだと思う。むざむざイエスさまを一人で、孤独に死なせてしまった自分が赦せなかったのだ思う。だから、彼は弟子たちに会おうともせず、心閉ざし、殻に閉じこもり、彷徨い歩いていたのではないか。そう思う。

そんなトマスを見つけ出した弟子たちは、こう語ったのでした。「わたしたちは主を見た」。面白いはずがありません。考えてもみてください。たまたま礼拝を休んだその時に、復活のイエスさまが現れた。私を差し置いて現れた。こんなに不愉快なことはないでしょう。なぜですか。なぜ私がいない時だったのですか。私がその間、どんな思いでいたか、あなたならご存知のはずではありませんか。だから、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と語ったのではなかったか。

私には、この言葉が、単に復活が信じられないということ以上の思いが込められているように思えてならないのです。私たちが信仰の試みに会う時、単に信じられない、といった思い以上の思いをもって叫ばざるを得ないように。

復活のイエスさまは来られました。このトマスに会うために、来られました。そして、トマスにもシャローム、「あなたがたに平和があるように」と語られました。そして、疑い深いトマスにこう語られました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。よく、トマスは果たしてイエスさまの傷痕に指や手を差し入れたのか、といった問いがなされますが、どうでもいいことです。そんなことは、どうでもいい。これだけで十分です。これだけで。これだけでトマスは救われたはずです。

そして、私も救われる。「わたしの主、わたしの神よ」。いつでも、そうです。イエスさまが来てくださる。八方塞がりで、まともに祈ることもできず、心閉ざし、殻に閉じこもってしまいそうになるとき、全てを失い、今までの信仰などどこに行ってしまったのかも分からなくなってしまうような時、イエスさまの方から入ってきてくださる。シャローム、「あなたがたに平和があるように」と語ってくださる。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と促してくださる。

全てが解決できた訳ではありません。全てに納得できた訳でもありません。でも、十分です。それで、それだけで十分。魂が救われ「わたしの主、わたしの神よ」と告白できる。ただ、それは、その時は、「思いがけない時」であることは忘れてはならないでしょう。弟子たちにとっても、トマスにとっても、それは思いがけない時だったからです。

最後に本書の目的としてこう記されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。これは、私たちの人生、存在そのものの、また世界の目的でもあると思います。



『祈り』

新型コロナウイルスの国内感染者が、とうとう1万人を超えてしまいました。感染者の約2割が重症化すると言われていますので、本当に医療機関は大変厳しい状況の中に置かれていることでしょう。すでに、マスクや防護服などは底をつき、なかなか補充がされていないとも聞きます。看護師たちが手作りで対応している映像などもニュース等で流れてきます。また、全国のあちらこちらの病院では院内感染が起こっており、地域医療のダメージがより一層起きています。

また、感染が疑われる方々のたらい回しなども頻発し、中には重症化している方もいると聞きます。また、感染症対策に忙しく、従来の重篤な病気への対応も遅れてしまうのではないかと危惧されています。今、日本の医療機関が危機的な状況に陥っています。私たち国民一人一人の認識の甘さを認めます。また、政府、行政等の認識の甘さ、取り組みの遅さも覚えます。

そういった認識の甘さのしわ寄せが、何よりも医療従事者の方々にいってしまっていることに申し訳ない思いで一杯です。数ヶ月も前から、感染症の専門家たちが警鐘を鳴らしていたにも関わらず、甘く捉えてしまっていたことを懺悔します。

どうぞ、憐れんでください。医療に携わる方々が疲弊してしまわないように。マスク等の不足によって感染してしまわないように。命を落としてしまうような最悪の結果にならないように、どうぞお守りください。私たち市民一人ひとりの意識も、なお一層高めていくことができますように。どうぞ、この困難な状況を憐れみ、お助けください。

この新型コロナウイルスの流行のために、子どもたちもなかなか通常の生活に戻ることができていません。新入生にも関わらず、まだ学校の授業に出たことのない子どもたちもいるでしょう。勉強の進捗状況もまちまちかもしれません。また、給食がなく、家庭によっては栄養のバランスが取れていない子どもたちもいるかもしれません。ますます、格差が広がってしまうかもしれません。また、様々なストレスも感じているのかもしれません。

欧米では、外出自粛のために、虐待やDVの件数が飛躍的に多くなっていることが指摘されていますが、日本においても、目立たない中でそれらが起こっているのかもしれません。どうぞ、憐れんでください。子どもたちを。幼い者たちを。その母親たちを。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

-週報- 4月19日 復活節第二主日礼拝


司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 中山 康子

前  奏 讃美歌2番による前奏曲 中山康子編曲

初めの歌  2( いざやともに )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
全能の神さま。
主の復活を喜び祝っている私たちを助け、すべての言葉と行いによって、復活の力を伝えさせてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読 使徒言行録 2:22-32( 新約 215頁)

第2 の朗読 ペトロの手紙一 1:3-9( 新約 428頁 )

ハレルヤ

福音書の朗読 ヨハネによる福音書20:19-31( 新約 210頁 )

みことばのうた 153( わがたまよ、きけ )

説教 「 信じる者の喜び 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 243( ああ主のひとみ )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 269( つみの重荷を )


後奏 ハレルヤ・ハレルヤ 戦い終わりて 高浪晋一

*前奏・後奏(今回自宅録音)

-週報- 4月12日(日)10:30 復活祭



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 苅谷 和子

前  奏 キリストは死の布に横たわった  J.S.バッハ

初めの歌  153( わがたまよ、きけ )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
御独り子イエスによって死を征服し、永遠の生命の門を開かれた全能の神さま。み霊の息吹によって私たちを新しくし、私たちの思いと行いのすべてを祝福してください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読  エレミヤ書 31:1-6( 旧約 1234 )

第2 の朗読  使徒言行録10:34-43( 新約 233頁 )

ハレルヤ

福音書の朗読 マタイによる福音書 28:1-10( 新約 59頁 )

みことばのうた 249( われつみびとの )

説教 「 そこでわたしに会うことになる 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 154( 地よ、声たかく )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 225( すべてのひとに )


後奏 Festive Trumpet Tune  デイヴィッド・ジャーマン

*前奏・後奏(今回自宅録音)

【テキスト・音声 】4月12日(日)10:30 復活祭  説 教:「そこでわたしに会うことになる 」浅野 直樹 牧師

聖書箇所:マタイによる福音書28章1~10節

※《ライブ版》は、こちらからご覧ください。



復活祭、おめでとうございます。このような大変厳しい情勢下の中で、別々の場所ではありますが、共々に復活祭の恵みを覚え、祝えることは幸いなことだと思っています。
私たちの救い主イエス・キリストは復活されました。私たちの罪を背負い、十字架によって贖いの死を遂げられたイエスさまは、三日目に復活されたのです。そのことに、心より感謝し、また祝いたいと思います。

先程来から、私たちは主の復活を祝う、と言ってきました。それは、とりもなおさず私たちの救い主は復活の主に他ならない、ということです。これは、あまりにも当たり前のことのように思われますが、しかし、よくよく考えてみる必要があるようにも思います。なぜならば、救い主のイメージは、私たちが何からの救いを求めているかによって随分と変わってきてしまうからです。例えば、経済的に困窮している人たちが求める救い主は、おそらくその困窮から救ってくれる人たち、あるいは組織でしょう。

つまり、経済力(財力)が救い主の条件になる。政治的な困窮に対しては政治力、不当な扱いに対しては自分の正当な権利を保障してくれる法的な力、孤独感などに苛まれている人にとっては良き隣人なのかもしれません。あるいは、病に対しては医療従事者…、スーパードクターでしょう。しかし、私たちは、教会は、そういった救い主を喜び祝っているのではないのです。
そうではなくて、—– もっともそれらも十分に必要に違いないのですが —– 私たちは、私たちの救い主の復活を喜ぶ。復活の主こそ私たちの救い主なのだ、と喜び祝うわけです。

では、「復活」とは一体何なのか。第一は死に対しての勝利ということでしょう。つまり、私たち教会は、死に対しての勝利を救い主の最大条件としているわけです。私たちを死という根本問題から救ってくれる存在こそが、私たちの救い主である。イエスさまが生きられた2000年前と今日とでは、当然違います。雲泥の差、天地ほどの開き、と言ってもいいのかもしれません。

2000年前の人々からすれば、大空を飛び回り、時速何百キロで地上を走り、スマホを操りながら世界中の情報を瞬時に手に入れることができる現代人の私たちは、異次元の人々、人類を超越した存在、ひょっとして神々として拝まれるような存在と見えるのかもしれません。信じられないような変化です。まさに、奇跡です。

では、あれから2000年を隔てた私たちは、死を超越しているのか、といえば、もちろん、そうではありません。確かに、死は縁遠くなりました。嬰児死亡率も格段に下がりました。子どもが大人になるのは当たり前のことです。平均寿命も何十年と伸びました。おかげで、身近に死を感じなくなった。しかし、ただ、それだけのことです。ある時、突然に、死という現実が私たちの前に現れます。今、まさに、世界はそのような2000年前以上の状態に陥っているのかもしれません。

人は本当に復活することができるのか。死は終わりではなく、その先にもあるいのちが本当にあるのか。私には、分かりません。しかし、イエスさまは復活されたのです。十字架で死なれたのに、復活なさったのです。その一つの、たった一つの事実で人は変われるのだと思うのです。

言うまでもなく、現在は世界中が未曾有の危機に瀕しています。世界規模の感染症の広がりで、一日で何千人もの人々が命を落としています。累計で10万人近い人々が亡くなっている。埋葬が追いつかないほどです。もちろん、その背後にはご遺族の方々もい
らっしゃるわけです。大変厳しい、辛いことです。そして、危惧していたことが現実ともなっていました。こういったときに、いつも真っ先にしわ寄せがいくのが社会的弱者と言われる人々です。アメリカでは比較的に経済力の乏しいヒスパニック系の人々や黒人の人々の死亡率が高いことが指摘され、問題となっています。

アメリカ社会の中に巣食っていた格差という構造的な問題が、このコロナ騒動の中で改めて浮き彫りになった。本当にやるせない思いが致します。どうして、いつも弱い人々が、貧しい人々がとばっちりを受けるのか。貧しい人々を顧みてくださる神さまの愛はどこにあるのか。そんな憤りにも似た思いが浮かんできてしまう。信仰が揺らされる。そんな悶々とした中で、ふと聖書のある物語を思い出しました。ルカによる福音書に記されている「金持ちとラザロ」の物語です。

これは、イエスさまが語られた譬え話ですが、大変貧しいラザロと金持ちが登場してまいります。先にラザロが死に、そして、金持ちも死んだ。後に死んだ金持ちは、どうやら陰府の世界にいるらしい。そこは、地獄のような苦しみの場所として描かれています。その中で苦しみ喘いでいる金持ちは、目を上げてみた。すると、よく知ったあの貧しいラザロがアブラハムの懐に抱かれているのが見えたと言います。これは、パラダイス(楽園)と言って良いでしょう。なぜ、死後において、この両者はそんなにも違いが生まれてしまったのか。聖書はこう語ります。「子よ、思い出してみるが良い。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(ルカ16章25節)。

もちろん、ここから単純に、生前貧しかった者が天国に行って、金持ちは地獄に行くことになる、といった結論を導き出すのは危険ですが、しかし、生前の貧しさを、弱さを憐んでくださる神さまの優しさは十分に伝わってくるのだと思うのです。つまり、貧しさゆえに、速かに適切な治療を受けることが出来ず、残念ながら命を落とすことになってしまった人々も、今、神さまの懐に抱かれている。そう思える。そう思えた。もっと言えば、今回の感染症で命を落とされた全ての人々についても、そう考えられるのではないか。感染した人々が、必ずしも命を落とすわけではないからです。

もっとも、高齢と基礎疾患が重症化し易いと言われる。確かに、それは、身から出た錆的な要素もあるでしょう。糖尿病と狭心症という基礎疾患を持つ私は他人事ではない。では、そういった人たちは一律に、必ず命を落とすことになるのか、と言えば、そうではありません。同じ年齢の人でも、命を落とす人と、そうでない人がいる。同じ基礎疾患を持っていても、命を落とす人と、そうでない人がいる。若年層で、基礎疾患もないのに、命を落とす人たちもいる。

なぜか。どうしてそんな違いが生じてしまうのか。善人と悪人の違いなのか。そうでないことは、誰もが分かることです。むしろ、そうであったならば、私たちは変に悩まないで済んだのかもしれない。そうではない。同じ疫病に罹って、年齢も同じで、基礎疾患も同じで、ほぼ全ての条件が同じなのに、命を落とす人と、そうでない人が生まれてしまう。こんな理不尽なことはありません。しかし、そういった理不尽としか思えない状況の中で命を落とさざるを得なかった人々もまた、今、神さまの懐に抱かれている。パラダイスにいる。あのラザロのように。そう思える。思い描くことができる。

それは、単なる詭弁だ、と思われるかもしれません。誤魔化し、まやかしに過ぎない、と思われるかもしれない。不誠実極まりない、偽善だ、と思われるかもしれない。私自身、そう思わないわけではありません。単なる誤魔化しでしかないのではないか、偽善でしかないのではないか、と。あるいは、自分の無力さに、罪深さに、忸怩たる思いもしている。それでも、あえて言いたいと思う。見る目を持てば、眼前に広がる風景が変わるのです。地獄しか見えなかった現実の風景から、天国さえも見えるようになる。なぜか。イエスさまが復活されたからです。復活して、死に勝利されたからです。それを、私たちは目撃し、信じることができるからです。だから、絶望の風景から、希望の風景へと変えられていくのです。

《イーゼンハイムの祭壇画》第2面 1512年 :グリューネバルト



復活は死に対しての勝利だと言いました。しかし、それだけではないことは、もう皆さんもご存知の通りだと思います。私たちの死の問題が罪から来ているとすれば、死に対しての勝利は、罪に対しての勝利にもなるからです。罪とは、本来あるべき姿からずれてしまうこと。ですから、罪に対しての勝利とは、神さまとの関係、人との関係、自分との関係、この世・被造物との関係が調和に満ちた状態に戻らされることです。ですから、パウロが語ったように、こう言えるわけです。

「わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章38~39節)。

イエスさまは復活されました。私たちに死に対する勝利をもたらすために、罪に対する勝利をもたらすために、イエスさまは復活されました。しかし、果たして、信じることができるのでしょうか。いいえ、あの弟子たちでさえ信じられなかったのに、私たちが信じられないのも無理からぬことです。しかし、果たして、誰も彼もがいとも簡単に信じられるようなことを、わざわざ信じる必要が、信仰する必要があるでしょうか。そうではないでしょう。信じるしかない世界があるからこそ、信じるのです。そして、信仰によらなければ見えてこない、開かれてこない世界があるはずです。

今日の福音書の日課で、不思議な言葉が記されていました。しかも、二度です。一度は御使い(天使)が、そして、復活のイエスさまが念を押すかのように、こうおっしゃいました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。不思議です。女性たちには、すぐにご自身を現されたのに、なぜ弟子たちにはわざわざガリラヤへ行くように命じられたのか。ご存知のように、ガリラヤは弟子たちにとっては、全ての始まりの場所です。イエスさまと運命的な出会いをし、弟子となり、寝食を共にし、教えを受け、奇跡に立ち会い、一緒に宣教していった。弟子たちにとっては、忘れがたい地。しかし、それでも、弟子たちはイエスさまの全てを、真の姿を理解することはできなかったのです。十字架も、復活も。

つまり救いの出来事が弟子たちにとっては自分とは無関係な出来事に過ぎなかった。いいえ、むしろ、恐れ、惑い、信じがたい、受け入れがたい出来事でしかなかったのです。しかし、今度は違う。始まりの地であるガリラヤで復活のイエスさまとお会いすることができる。そこから、もう一度はじめることができる。もし、ここから福音書の物語が再スタートしたならば、弟子たちにとっての福音書の出来事は、きっと違って見えてきたことでしょう。

そして、幸いにして、私たちには、そのような再スタートが許されているのです。不理解から、不信仰から、失敗に失敗を重ねても、復活のイエスさまとガリラヤで出会うことによって、もう一度はじめていくことができる。違った目で、視線・眼差しで、福音書の出来事の中を歩んでいくことができる。そして、ますますイエスさまの愛に、その真実に向き合わされていくようになる。そうではないでしょうか。
イエスさまは復活されました。死と罪とに勝利するために復活されました。そして、何度でもやり直せるように、見えなくなっていた世界が再び見えるようになるために、絶望にではなく希望に生きるようになるために、復活の主は私たちを招いていてくださいます。ガリラヤへ、原点へ帰りなさい。「そこで、わたしに会うことになる」。

 

『祈り』

神さま。今日はイエスさまの復活を祝う復活祭ですが、新型コロナウイルスの影響で共々に礼拝堂に集うことができなくなり、私たちの信仰にとって一番大切な日をこのように迎えなければならなかったことは大変残念ですが、それでも、それぞれの場所で、同じみ言葉を味わい、共に主の復活を祝うことができましたことを心より感謝しています。イエスさまは私たちのために十字架に死に、私たちを生かすために復活してくださいました。ここに、私たちに対する、人類に対する、世界に対するあなたの、イエスさまが愛が溢れています。

ともすると、私たちの内外に迫り来るさまざまな現実を前に、その信仰が揺らいでしまうことがありますが、どうぞ十字架と復活の主を見上げて、この愛を見失うことなく歩み続ける私たちとしていってくださいますようにお願いいたします。また、このような時代だからこそ、この恵みの証人として、冷静な判断と行動を共にし、少しでも愛の業を行っていくことができますように、弱い私たちを助け導いてくださいますようお願いいたします。

今、社会ももちろんそうですが、教会も大変厳しい状況の中にあります。しかし、その中で主体的に教会のために、教会員のために出来る取り組みをしようといった動きが起こっていることに感謝しています。そういった一人一人の主体的な取り組みが、大きな活きた力になっていくのでしょう。まさに、今年の主題である「パートナーシップを考えよう」の実践のように思えます。厳しい状況をも益としてくださるあなたの御名を賛美いたします。

とうとう日本でも非常事態宣言が出される状況となりました。感染拡大はもちろんのこと、経済的弱者が生まれていることに心痛めます。政府もさまざまな取り組みを検討しているようですが、規模やスピード感など、様々な問題点も指摘されています。どうぞ、速やかに、それらの方々に援助の手が伸べられますように行政に関わる人々をお導きください。

また、医療関係者の困窮が極めて深刻になっています。どうぞ、憐れんでくださいまして、感染のスピードも落ち着き、少しでも心身に休息を取ることができるようにお助けください。また、感染された方々、重篤な状態にある方々に癒しをお与えください。残念ながら命を落とされた方々のご家族の上に天来の慰めをお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

-週報- 4月5日(日)10:30 枝の主日・主の受難主日礼拝


前 奏 O Jesu, wie ist dein Gestalt J.S.Bach
※参照(♪):外部リンクhttps://www.youtube.com/watch?v=bBy0AyG4uaY

初めの歌 11( あめつちにまさる )

罪の告白

キリエ(二) (四旬節はグロリアを省略します)

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
全能の神さま。
 あなたはみ子イエス・キリストを世に送り、十字架の死に渡されました。み子と共に、私たちがその従順と復活の勝利に与かる喜びを与えてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読 イザヤ書 50:4-9a( 旧約 1145 頁 )

第2 の朗読 フィリピの信徒への手紙 2:5-11( 新約 363 頁 )

詠 歌

福音書の朗読 マタイによる福音書 27:11-54( 新約 56 頁 )

みことばのうた 136( 血しおしたたる )

説教 「 あなたのために捨てられた 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 138( ああ主は誰がため )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 262( 十字架のもとぞ )

後奏 O Lamm Gottes, unschuldig J.S.Bach
※参照(♪):外部リンクhttps://www.youtube.com/watch?v=opXUluXSdYM

*前奏・後奏(奏楽担当:小山 泉 選曲)

【音声&テキスト】4月5日(日)10:30 説 教:「あなたのために捨てられた 」浅野 直樹 牧師

聖書箇所:マタイによる福音書27章11~54節

ご承知のように、本日は「枝の主日」、または「受難主日」…、つまり、今日から「受難週」という一週間がはじまってまいります。

新型コロナウイルスの感染拡大のために、先週からこのような礼拝のあり方になってしまいましたが、今週金曜日のイエスさまの十字架を思う「聖金曜日礼拝」も行うことができなくなりました。そればかりか、ギリギリまでなんとか知恵を絞って復活祭の礼拝を共に…、とも考えてまいりましたが、こちらも断念せざるを得ない状況です。そんな中にあっても、ぜひ皆さんと心を合わせて、その場その場でイエスさまのご受難に思いを向け、復活の喜びに満たされていきたいと願っております。



イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。ひとりの人の死であっても、私たちに大きなインパクト(衝撃、影響)をもたらすものです。

先日、残念ながらコメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎ためにお亡くなりになられました。まだ70歳でした。この知らせは、日本中の多くの人々に深い悲しみを与えました。私も、その一人です。個人的には、ザ・ドリフターズの中では加藤茶のファンでしたが、それでも、小学生の時は「8時だよ!全員集合」を楽しみにし、加藤茶との掛け合いに笑い転げていました。クラスの男子は全員、『カラスの勝手でしょ』を歌い『ヒゲダンス』を踊っていたと記憶しています。もう随分と昔の出来事となってしまいましたが、小学時代の楽しい思い出の一つです。その志村けんさんが死んでしまった。

しかし、その「死」で社会の空気が一気に変わった、と言われます。新型コロナウイルス騒動にもどこか慣れてしまい、自粛疲れか、若者を中心に、危機意識が希薄になっていた、と言われます。自分は大丈夫だろう、罹ったとしても軽症で済むらしいから平気だ。多くの若者たちがそう思い、町に繰り出すようになっていた。しかし、志村けんさんの死の知らせで、若者たちの意識も随分と変わりました。ある若い女性がインタビューにこのように答えていたのが印象的でした。
「今まではどことなく他人事だと思っていた。しかし、よく知っている人が死んでしまったことによって、この感染症の恐ろしさが身近に感じられるようになった。これからは、もっと注意をしていきたい」。そんなことを話されていました。

また、ご遺族の方々も、この「死」をぜひとも教訓にしてほしい。故人もきっとそれを願っている。そんなことをおっしゃっておられた…。
ひとりの人の死の影響力は、何も著名人だけに限りません。私たちもまた、いろいろな身近な「死」に立ち会い、触れて、大きな、あるいは決定的な影響を与えられてきたのだと思います。祖父母の死によって、父親の死、母親の死によって、あるいは、夫の死、妻の死、兄弟姉妹の死、優しくしてくれた叔父さん叔母さんの死、息子の・娘の死、友の死、恩師の死…、そういった大切な、身近な人の「死」によって、私たちはいろいろなことを考えさせられてきた、気づかされてきた、思わされてきたのではなかったか…。そう思うのです。

イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。
愛した弟子に裏切られて、イエスさまは死なれました。

三年余り寝食を共にし、いつも一緒にいた、家族以上の絆で結ばれていたはずの弟子たちに見捨てられ、イエスさまは死なれました。不正な裁判のゆえに、権力者たちのねたみ、保身のためにイエスさまは死なれました。バラバ・イエスという札付きの、乱暴者の、人殺しの代わりにイエスさまは死なれました。人々から侮辱され、蔑まれ、辱められ、唾を吐きかけられて、イエスさまは死なれました。
「ユダヤ人の王」との罪状書きの元、十字架につけられてイエスさまは死なれました。

「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」との罵声の中で、イエスさまは死なれました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)」と叫ばざるを得なくなるほどに、神さまに見捨てられ、呪われて、イエスさまは死なれました。私たちのために…。なぜか。私たちが罪人だからです。

磔刑図(アンドレア・マンテーニャ画、1459年)



全人類が罪を犯したからです。イエスさまを十字架の死へと追いやった罪人の姿が、この私たちの中にもあるからです。そして、罪人を救うためには、この方法しかなかったからです。神さまに見捨てられ、呪われ、十字架で死ぬという以外に方法はなかった。彼らが馬鹿にしたように、十字架から降りてしまわれては、この救いは完成しなかった。パウロがロマ書で語っている通りです。(ローマの信徒への手紙8章3節)「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。

つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。「罪を罪として処断」する。「赦し」とは、罪を見逃すことでは決してありません。罪を見てみないふりをするのではないのです。そうではなくて、「罪を罪として処断」することです。罪を罪として、しっかり処断したからもう大丈夫、もうそこには罪は残っていない。そう言えるのが、言い切れるのが「赦し」なのです。それを、イエスさまは私たちの代わりにしてくださった。

だからこそ、かくも苦しい、辛い、逃げてしまいたい受難…、十字架の死を遂げられた。もちろん、その決断は、神さまにとっても、容易いものではなかったはずです。ご自分の子を殺すのです。罪のない方を殺すのです。罪のない方に、私たちの罪を担わせ、その罪に対しての怒りを、その裁きを、一心不乱にその身に注がれる。辛くないはずがない。苦しくないはずがない。痛くないはずがない。腹わたが引き裂かれるような思いで、まさに断腸の思いで、その決断をされた。なぜか。私たちを救いたいからです。罪の縄目から解放したいからです。滅びから救いだしたいからです。

私たちを愛しているからこそ、放ってはおけなかったからです。イエスさまも、まさに断腸の思いで苦しまれた。単なる概念ではなく、まさにその身を以て苦しまれた。そして、神さまもまた、その身を以て苦しまれた。愛する我が子の死という、しかも、自分の手にかけてという、あり得ない思いをもって苦しまれた。それが、十字架なのです。十字架の死なのです。イエスさまは、その十字架で、私たちのために死なれた。今日の使徒書、フィリピ書の言い方をすれば、神であることも、その命も、私たちのために捨てられた。あなたのために捨てられた。

この「死」と私たちはどう向き合ったらいいのでしょうか。この「死」から、何も感じないということがあるでしょうか。ひとりの人の死が、これほどまでに人に、私たちに影響を与えるのに、神の子の死が、救い主の死が、この私たちに、何の影響も与えないということがあるでしょうか。
イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。罪人の私たちのために、その罪を一身に背負って、神さまの罰を受けて、死なれました。

 

・・・・  イザヤ書53章1~12節 ・・・・

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。


そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らなげうち死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」。

私たちの罪を担い、私たちを救うために命を投げ出したのは、この人…、イエス・キリストであった。このことを、もう一度深く心に刻む、この受難週の歩みでありたいと思います。そして、その「死」の意味の大きさを、私たちのために捨てられた「いのち」の重さを、共々に噛み締めていく、そんな一週間でありたい。そう思います。

 

『祈り』

「神さま。新年度に入り、新しい歩みをはじめられる方もいらっしゃるでしょう。しかし、新型コロナウイルスの流行で予定が狂ってしまい、不安な中でのスタートとなってしまったかもしれません。どうぞ、そんなお一人お一人をお守りくださり、新たなスタートを豊かに祝してくださいますようにお願いいたします。ただでさえ環境の変化で大きなストレスを抱えておられると思いますので、心身ともにお守りくださいますようにお願いいたします。

今日から受難週がはじまり、来主日は復活祭(イースター)を迎えようとしていますが、新型コロナウイルスの流行のために、共々に礼拝堂に集うことができません。どうぞ、憐れんでください。それぞれの場所、ご自宅での礼拝を豊かに祝してくださり、私たちにとって最も大切な出来事、福音である十字架と復活を豊かに覚えることができますようにお導きください。また、日本中で、世界中で、同じような状況の中におかれている兄弟姉妹方が多くおられると思いますが、そのお一人お一人を豊かにお恵みくださいますようにお願いいたします。

新型コロナウイルスの勢いが一向に衰えません。世界のあちらこちらで医療崩壊が起こり、多くの死者が出ています。日本でも感染者が急激に増え、医療崩壊が危惧されています。どうぞ憐れんでください。本当に大変厳しい状況の中で懸命に働いておられる医療従事者の方々をどうぞ憐れんでくださり、お助けくださいますようにお願いいたします。

私たち市民一人ひとりも、医療崩壊を招かない行動をしていくことができますように、意識を高めていくことができますようにお導きください。また、治療中の方々をお守りください。重篤化しませんように。また、残念ながら命を落とされた方々のご遺族の上に、豊かな慰めをお与えください。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン」

【音声・テキスト】2020年3月29日(日)10:30 礼拝説教:「涙を流されたイエス」

四旬節第5主日礼拝

聖書箇所:ヨハネによる福音書11章1~45節



ある注解書(解説書)を読んでいましたら、雨宮神父が書かれた文章ですが、非常に興味深いことが書かれていましたので、少し長いですが、そのまま引用したいと思います。

「『尊敬する』と『信じる』に違いがあるのは分かりますが、どこが違うのかあいまいだったので、国語辞典を引いてみました。すると、『尊敬』の項には、①他人の人格、思想、行為などをすぐれたものとして尊び敬うこと。とあり、その用例として『政事家となりて郷里の人々に尊敬せらるるを喜ぶよりも』(花間鶯)があげられていました。
続いて『信ずる』を引くと、①物事を本当だと思う。また、信頼する。信用する。②神仏を信仰する。帰依する。とあり、その用例として『世俗の虚言(そらごと)をねんごろに信じたるもをこがましく』(徒然草)とか、『浅草観音にくらぶれば、八幡大菩薩を信ずる』(洒落本・辰巳之園)があげられていました。これで違いが明瞭になってきました。

尊敬心の根底には『人格、思想、行為などをすぐれたもの』とみなす判断があり、そのすぐれた長所を知るがゆえに『尊び敬う』という気持ちが生じます。一方、信仰心の場合には、『物事を本当だ』とする思いが根底にあり、そこから『信頼する』という全人格的な帰依が生じるのだと思います。そうであれば、『イエスを尊敬する』といえば、イエスの人格、思想、行為などをすぐれたものとして尊び敬うことですから、イエスの人間性に注目していることになります。しかし、『イエスを信じる』といえば、イエスに関する出来事を本当だと思い、イエスに信頼をおき、イエスに帰依する(よりすがる)ことですから、イエスその人というよりは、イエスを通して働く神に目を向けていることになります。

今週の福音が伝えるラザロの復活の結びには、『イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた』とあります。イエスを『信じた』というのですから、彼らはイエスの人格や思想や行為そのものというよりは、神と一体であるイエスを『本当だ』と認め、イエスに信頼し、イエスを通して働く神に帰依したということです」。私自身、この文章に思うところがないわけではありませんが、それでも、非常に興味深いと思っています。イエスさまを尊敬しているだけなのか。それとも…。

今日の福音書の日課は、よく知られた「ラザロの復活物語り」です。♪「し~んだラザロがよみがええった~」と子どもの歌(子ども用の讃美歌)にも出てくる有名なお話しです。そして、25節には「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」との決定的な言葉も出てきます。

以前も言いましたように、私自身は「死の克服」ということが、聖書の最大のメッセージだと考えています。人類最大の敵にして課題である死を乗り越えることができる。罪の赦しも、永遠の命も、聖化も、このことと無縁ではないでしょう。死を打ち破ることができる。死に打ち勝つことができる。別の言い方をすれば、安心して、希望をもって死ぬことができる。それが、信仰の、聖書のメッセージ。福音…。

聖書によると、私たちの「死」には、二つの側面、理解があるように思われます。一つは、被造物ゆえの「死」です。つまり、私たちは神さまによって形造られた訳ですが、しかし、それは有限なる存在として…、神さまは永遠なる方ですから、神さまとは異なる者として(似てはいても)生み出された、ということです。そういう意味では、私たちの死というのは、ごく自然な営みでしかない、ということでしょう。人は生まれてきた以上、必ず死を迎えるのが自然なことなのです。しかし、もう一つの「死」の理解は、罪によってもたらされた、というものです。罪の結果、と言っていい。人間は確かに有限な存在と
して創造されたかもしれませんが、それは、決して永遠の生の道が閉ざされていたわけではなかったのです。

しかし、人は罪を犯した。神さまの愛を信用・信頼することができずに、罪を犯してしまった。その結果、楽園を追い出され、二度と「命の木」に近づくことが許されなくなってしまった。ご存知のように、その辺りのことは創世記の2章から3章にかけて書かれていることです。そういう意味では、こちらの「死」の問題の方がより深刻なのかもしれません。

ともかく、いずれにしましても、この「死」の問題は、私たちだけでは、私たち人類だけでは解決できないことなのです。神さまによらなければ乗り越えることのできないもの。私たちの有限性も、罪の問題も。そして、私たち人類にとって「死」は、相変わらず不安で恐ろしいものであり続けている。死の先に望みを見出せないでいるからです。その死の問題を解決してくださったのがイエス・キリストなのです。神さまから遣わされた神の御子、メシアであるイエス・キリスト。そして、そのイエスさまが死の問題を解決してくださった最も顕著な例として、今朝のラザロの復活物語りがあるのだと思います。

イエスさまには、死んだ人間を復活させる力がおありになることを公に示されたからです。神さまから遣わされたイエスさまが、ラザロの復活によって、あるいはご自分の復活によって、死の問題を打ち破る扉を開いてくださった。なぜならば、人に命を与えることが神さまの御心だったからです。人を生かすことが、人の死を望まず、来るべき世の命を与えることが神さまの御心だった。その御心を実現させるためにこそイエスさまはこの世に来られた。そういう意味では、この時のラザロの死は、御心を実現させるためには必要だったのかもしれません。

ラザロの復活イコン(15世紀ロシア)



イエスさまもこうおっしゃっておられるからです。14節「そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである』」。ラザロが病気の時点でその場に居合わせなかったことの方が良かった、と言います。もし、その場に居合わせていたら、おそらく病気を癒されたでしょうから、死人の復活という奇跡を弟子たちが体験する機会がなくなってしまったからです。

イエスさまが死の問題にさえも勝利されることを、それを信じる機会を奪われてしまったかもしれない。だから、ラザロが死んだことを「あなたがたにとってよかった」と言われている。確かに、ラザロが死んだことによって、私をはじめ、多くの人々に慰めと希望を与えたこの言葉も語られたわけです。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか』」

そして、ラザロは復活した。その光景を、出来事を目撃した多くの人々が、イエスさまの栄光を、イエスさま上に確かに神さまの力が働いていることを、死人を復活させる力がおありだと言うことを、死の問題を克服することがおできになるということを、信じた。信じることができた、のです。

そうです。確かに素晴らしい福音のメッセージです。しかし、なんだか納得のいかないような思いを持ってしまうのは私だけでしょうか。確かに、それは、神さまの御心だったのかもしれない。全人類を救う希望だったのかもしれない。しかし、未知なる死へと赴かざるを得なかったラザロの思いはどうなるのか。不安と恐れの中でラザロを看取り、悲しみに打ちひしがれているマルタとマリアの思いはどうなるのか。そう思う。マルタとマリアは瀕死のラザロのためにイエスさまに来て欲しいと懇願します。

しかし、イエスさまは動かれませんでした。なお、そこに二日間留まられた、とあります。ラザロの姉妹たち
は、すぐにでも駆けつけてくれるものと期待していたのかもしれません。あるいは、たとえ遠く離れていたとしてもラザロを癒すことができると信じて、期待したのかもしれません。しかし、イエスさまは来られない。ラザロは癒されない。そして、死んでしまった。

少し冷静そうに見えるマルタと感情的になっているマリアとの違いはありますが、両者共にイエスさまを迎えてこう語ります。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。無念だったと思います。私たちにも、この気持ちが痛いほど分かる。誤解を恐れずに言えば、いつだってそうだ、といった思いが私たちにはあるからです。本当に助けが必要なときにはいてくださらない。本当に求めている時には答えてくださらない。なぜ、その時、そのタイミングで助けてはくださらなかったのか。

私たち自身、そういった思いを嫌という程積み重ねてきたからです。確かに、人類の救いという大事の前では、この三人のことは小事なのかもしれません。イエスさまは大事のために、人類の救いという神さまの御心を実現するために来られたからです。それは、私たちの世界でも多く見受けられることです。

ちょっと話は違うかもしれませんが、今、私は猛烈に反省していることがあります。日々刻々と変わるニュースの中で、特に欧米で何万人の感染者、何千人の死者などの報道がなされるとき、その数字にあまりにも無感覚になっていたことに気づかされたからです。例えば、私が感染したとします。ニュース等では「1」といった数字が追加されるだけでしょう。そして、そのために死亡すれば、死者欄に「1」という数字が追加される。

しかし、少なくとも私の家族にとっては、その「1」は決して数字では表せないものだからです。それを、私は見失ってしまっていた。ともかく、ことが大きくなればなるほど、小さなこと、小事が見えなくなる、顧みられなくなるということは往往にしてあることです。しかし、イエスさまは決してそうではありませんでした。35節「イエスは涙を流された」。その前後の「心に憤りを覚え」というのは、なかなか難しいところですが、ある方は「死に対しての憤り」と解説されていましたが、ともかく、イエスさまは悲しみに暮れる人々を前にして、涙を流されました。辛かっただろう。苦しかっただろう。寂しかっただろう。不安だったろう。途方にくれただろう、と涙を流された。イエスさまは決して、大事の前だからといって小事
を無視されたり、軽んじられるような方ではないのです。ずっとラザロのことを、マルタ、マリアのことを気にかけておられた。

できれば、駆けつけて癒したい、助けたい、とも思われた。苦しませたくない、悲しませたくない、と思われた。しかし、人類の救いもイエスさまの肩にかかっていた。それもまた、その涙に含まれていたのではないか。そう思う。

イエスさまは人類の救いという使命を、何よりも大切にされておられる方です。と同時に、私たち一人一人の救いも、心の動きも大切にしてくださっている。だから、私たちは、イエスさまを尊敬するのです。イエスさまほど素晴らしい方はいないと。と同時に、私たちはイエスさまを信じる。イエスさまこそ、神さまがお送りくださった救い主なのだと。死に打ち勝つ命を与えてくださる方なのだと。そう信じる。信じてよりすがる。そうではないか、と思います。

『祈り』

神さま。新型コロナウイルスの影響で、今日からしばらく教会堂で集う礼拝ができなくなりましたが、どうぞそれぞれの所でもたれる礼拝を豊かに祝してください。

むさしの教会ばかりでなく、多くの教会でも同様の対応がとられていると思いますが、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。東京都では、感染爆発の危険性が高まっていると言われています。どうぞ私たちをお守りください。私たちの家族も、地域の方々も、またことは東京都だけではありませんので、
日本中の一人一人をお守りくださいますように。感染し、治療を受けておられる方々が回復へと向かわれますようにお助けください。また、一人一人が自分が感染しないことばかりでなく、感染させないという意識をもって行動することができますようにもお導きください。

欧米では非常な拡大をみせ、一部の国では医療崩壊も起こっていると報じられています。医療資源が枯渇していく中で、世界中の感染拡大からなかなか援助の手が挙げられないのが実情でしょうが、それでも、助け合いの手が広げられますように。疲弊している医療従事者の方々をどうぞお助けくださいますように。また、ご家族を亡くされた方々の痛みに触れてくださいますようにお願いいたします。

長い戦いになりそうですが、ワクチン、治療薬の開発などが速やかに行われるようにもお導きください。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

 

【テキスト】3月22日 10:30 礼拝説教「信仰の道筋」浅野直樹牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書9章1〜41節

更、言うまでもないことですが、今私たちは四旬節(教会の暦として)の中を歩んでいます。もっとも、昨今の新型コロナウイルスの騒ぎで、毎日毎日ニュースに釘付けになったり、また、そこから来る現実に触れながら、心動かされながら、それどころではない、というのも正直なところかもしれませんが、この四旬節は悔い改めの季節でもある訳です。イエスさまの受難…、苦しみ、苦悩に心を向けながら、自らを省みていく…。しかし、正直、これはあくまでも私個人の感想でしかありませんが、これまでの四旬節の日課の中には、あまり「悔い改め」といった面が見えてこなかったようにも感じています。少なくとも直接的には、です。今日の日課も、そうかもしれない。生まれながらに目の不自由な人の癒しの物語です。しかし、あえて言えば、最後に出て来るこの言葉ではないか、とも思う。

41節「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」
つまり、これを、私たち自身は「見えているのか」との問いとするならば、そこに、自ずと省みが必要となってくるからです。果たして、私は(私たちは)本当に見えているのか。そこで、もっと注目すべきことは、見えないこと自体は、決して悪いことではない、と言われていることです。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」と言われている通りです。

むしろ、見えていないにも関わらず、見えているかのように思っている、思い込んでいる、勘違いしていることが、つまり、見えていないといった事実・現実を受け入れない、受け入れないどころか、自分こそはしっかりと見えているのに、他の人たちは見えていない、と驕っていることにこそ過ちがある、罪がある、と言われていることです。

今日の箇所には、大きく分けると、二種類の人が登場して参ります。一人は、生まれつき目の見えない、目の不自由な「盲人」です。もう一人(一方)は、この癒された盲人を糾弾し、盲人が癒されたことを喜ばずに、自らの「見える」ということを誇っている人々、ここではファリサイ派として登場してくる人物です。

この両者を図式化すると、最初は見えなかったのに見えるようになった人と、見えているかのように思っていたのに、実は何も見えていなかった人、つまり、全く真逆の二つのタイプがここで描かれている訳です。そして、結論から言えば、おそらく私たちは、このどちらにも属するということでしょう。どちらか一方とは言い切れない。ここ何週間か、私たちは聖書の中の登場人物と私たちとを重ねて見て来ました。ニコデモの中に、サマリアの女性の中に、私たち自身の姿もあったからです。

まり、これらの人々は私たちのモデルでもある訳です。今日の日課に登場してくる人物たちも、そうでしょう。これらの人々の中に、私たち自身の姿も見えてくる。もちろん、実際問題として、私たちは肉体的に言えば、盲人…、目の不自由な者ではないのかもしれない。しかし、この見える、見えない、ということは、では肉体的なことだけなのか、といえば、必ずしもそうではないからです。私たちは神さまの愛が見えているのか。人の善意が見えているのか。この世界のあるべき姿が見えているのか。自分自身が見えているのか。自分の周りに起こった出来事が見えているのか。果たして、見えている、と言い切れるのか、といえば、そうではないからです。

Christ Healing the Blind(1682 Nicolas Colombel, French, 1644–1717)



日の福音書の日課は、先ほども言いましたように、一人の盲人の癒しの物語り、あるいは奇跡物語り、と言って良いと思います。しかし、単なる奇跡物語りではないことは、もう皆さんも良くお分かりでしょう。聖書には数々の奇跡物語りが収録されていますが、これほど長い奇跡物語りはないからです。ですから、この物語りは奇跡そのものよりも、その奇跡がこの人をどのように導いていったのか、といったことに関心があったのではないか、と思います。

この人は、生まれながらに目の不自由な人でした。生まれてこのかた、自分の目で何も見たことがなかったのです。何一つ、見たことがなかった。彼は色を知りません。光を知りません。この世界を知りません。私たちが知っている素晴らしい景色も、青く澄んだ大空も、風になびく新緑の緑も、春に咲き乱れる色鮮やかな花々の姿も、愛情深い人々の眼差しも、微笑みの表情も彼は知らない。見たことがない。それは、私たちには想像もできないことです。

たちも目を閉じれば、確かに暗闇に閉ざされます。しかし、すぐにでも、あの大空を思い描くことができる。なぜならば、知っているからです。一度でも、その光景を見たことがあるからです。だから、再現できる。思い描くことができる。もちろん、鮮明とはいえないかもしれませんが、それでも、空が青いことを、その色を、輝きを知っている。しかし、一度も見たこともないこの人は、何も思い浮かべることすらできないのです。これは、辛いことです。しかも、その不幸は、神さまに呪われた結果だ、と言う。

弟子たちはこの人を見て、こう尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれか罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。信心の薄れた現代日本人でも、この感覚はよく分かると思います。いわゆる、罰(ばち)です。神さまの罰(ばち)に当たった。この不幸は、そうでも考えないと、納得できない。少なくとも、自分のせいではない(親、先祖のせい)、そう思いたい。そう思う。これは、もう変えられない定めです。神さま由来ならば、そう諦めるしかない。運命を呪いつつも、受け入れざるを得ない。しかも、おそらく、これが、そういった人々が抱える現実でもあるのでしょう。この人は、「物乞いであった」とある。彼の不幸は、目が見えないだけではない。そこから、雪だるま式に不幸が襲ってくるのです。それも、私たちがよく知る現実でもあります。

んな彼の不幸の原因に対する問いかけに、イエスさまはこう答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。彼の不幸の原因は、神さま由来ではない、とおっしゃいます。むしろ、そこに神さまの深い憐れみと恵みの業が起こるためだ、とおっしゃる。今日は、このことについて詳しくお話しする時間はありませんが、ぜひ皆さん、キリスト者の証しの本を読まれると良いと思います。このイエスさまの言葉が真実であったという証しに多く出会われると思う。それは、決して改善した…、この人のように実際に目が見えるといった奇跡がおこった、ということだけでなく、不幸が不幸でなくなる奇跡が多く語られていると思います。

ともかく、彼はイエスさまによって目が見えるようになりました。生まれてはじめて見たのは、水面に映った自分の顔だったかもしれません。自分の顔がこんな姿だったとはじめて知ったのでしょう。何度も水面に映っている自分の顔を触りながら確認したのかもしれない。そして、あまりの出来事に少し呆然としつつも立ち上がって、周りをぐるりと見渡したのかもしれない。そして、空を見上げたのかもしれない。その空の眩しさに、光の眩しさに、はじめて目を細めたのかもしれない。

彼は見えるようになりました。生まれてこのかた、全く見えなかったものが、見えるようになった。知らなかったことが、分かるようになった。しかし、それは、どういうことか。つまり、見えるということは、見たいものだけでなく見たくないものまでも見えてしまう、ということでもあるからです。ある白内障の手術を受けた方が、シワまではっきりと見えるようになっちゃった、と苦笑いされていましたが、自分の好ましくないところも、他人の好ましくないところも、この世界の、世の好ましくないところも見えてしまうことになる。それが、「見える」ということです。

しかし、それでも、光の存在を全く知らなかった頃に比べれば、雲泥の差だと思う。嫌なところも見えるようになったその目は、その他のこともまた見えるようになるからです。神さまの愛も、人の善意も、世界のあるべき姿も、イエスさまの救いの業も、見えるようになるからです。

の男性が見えるようになったことを、なぜか素直に喜べない人々がいました。なぜか。イエスさまがその人の目を開けられたからです。そのことが、彼らにとっては由々しきことだったからです。彼は議会に引き出され、尋問されることになります。ただ見えなかった目が見えるようになった、ということだけで、尋問される。当初、彼は不安に怯えていたように思いますが、次第に力強さが感じられるようになっていきました。

30節「彼は答えて言った。『あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存知ないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです』」

実に堂々としています。なぜか。自分の身に起こったことを、どうしても裏切ることができないからです。目の見えなかった事実。光を知らなかった現実。それが、今は見えている。知っている。それを、どうして否定することができるのか。その現実を、この私にもたらしてくれた方を否定することができようか。

にとってイエス・キリストとは、最初は自分とは関係のない、自分の人生の、世界の外にいたただの一人でした。しかし、自分の目を開いてくれたことによって、「イエスという方」(まだどこか他人行儀ですが)となった。そして、反対者とのやりとりの中で、自分の身に起こったことをもう一度よく吟味せざるを得なくなり、「預言者」、「神のもとから来られた方」、そして、最後に、「主よ、信じます」とひざまずくまでに、自分の身に奇跡を起こしてくれたイエス・キリストという存在が大きくなっていったのです。

それもまた、私たちが辿った信仰の道筋とも言えるのではないか。どうでしょうか。私たちもまた、イエスさまと出会って、見えるようになったのではないでしょうか。見たくない現実も、自分自身の真の、裸の、罪の姿も見えるようになった。だから、救いを必要とした。赦しを必要とした。希望を必要とした。神さまを、イエスさまを、光の存在を必要とした。この肉眼では見えていなかったものが見えるようになったからこそ、私たちは、求める者となったのです。この一人の盲人と同じように…。

初に言いました。私たちの中には、この二種類の人が混在している、と。そうです。私たちも見えていなかったのに、見えるようになった。なのに、同時に、見えていなかった事実を、現実を忘れてしまい、あたかも自分自身の力で見えているかのように錯覚し、時には人を非難するほど傲慢になってしまっている。そうです。私たちは、見える者とされたのです。

しかし、それは、イエスさまによってもたらされたものに他ならない。それを、忘れてはいけない。だから、自己吟味を、省みを必要とするのです。そして、なおも、目が開かれたその事実に、心から感謝していきたいと思う。私たちは、今、見えています。おぼろげかもしれませんが、決して暗闇ではないのです。見えている。光の存在を、色とりどりの光に満ちたこの世界を造られた方を、私たちは知っている。そして、その方に、光である方に私たちは信頼と希望を置いている。
そのことを、もう一度心に覚える四旬節としていきたい思います。

 

祈ります。

「天の父なる神さま。今朝もこの礼拝の場に私たちを招き導いてくださったことを心より感謝いたします。また、共々に集うことのできなかった方々の上にも、豊かな祝福をお与えください。あなたは、私たちの心の、霊の目を開いてくださり、肉眼だけでは知ることのできなかった光の存在に気づかせてくださったことを心より感謝いたします。私たちは、見えていなかった事実を直ぐにでも忘れてしまい、あなたに感謝することを怠り、また他者に対して傲慢な態度に出てしまうことの多いものですが、この私たちのために、イエスさまが何をしてくださったかを、しっかりと心に留める四旬節でもありますように、弱い私たちを導いてくださいますようお願いいたします。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」

※音声バージョンはこちらから

【テキスト】3月15日(日)10:30  説 教:「 全てのことを教えてくださる方 」浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書4章5〜42節 

の尊敬しております牧師・神学者の一人として故北森嘉蔵牧師がおられますが、北森先生はある書物の中で、このように語っておられました。「十字架の福音は、一度教えられたからには、永久に自動的に維持されてゆくものではない。すなわち自明的な真理ではない。十字架の福音は自明的ではない真理である。したがって、我々が自己の自然性に従って自動的に流されてゆくならば、十字架の福音は必ずや喪失されるであろう。十字架の福音を信仰しているキリスト者と、この福音を委ねられている教会は、絶えず新たに『心を定め』て、十字架の福音を仰がしめられねばならないのである」

北森先生は、ここで十字架の福音、つまりイエスさまの十字架の死によって示された福音(良き知らせ)とは、決して自明的な、誰もが直ぐにでも分かるような、了解できるような真理ではなく、自明的ではない真理だと言います。ですから、一度教えられただけではダメで、直ぐにでもこの真理から逸れていってしまうのですから、キリスト者たちは、あるいは教会は常に学び続けなければならない、と言われます。本当にそうだと思います。それは、「十字架の福音」に限定されるものでもない。私たちは直ぐにも忘れてしまう。「喉元を過ぎれば」とは良く言ったものです。

私自身も、様々な苦境から神さまを求めずには、問わずにはいられませんでした。そこで、様々なことを教えられた。また、気付かされてきた。そのことによって、何度救われ、助けられ、励まされ、癒され、立ち上がらされてきたことか…。しかし、忘れてしまう。いいえ、記憶が綺麗さっぱりになくなっているのではありません。覚えています。鮮明に、とは言えませんが、それでもしっかりと覚えている。
それなのに、忘れてしまっています。忘れたように生活をしてしまい、また同じような問題、課題に右往左往してしまう。まったく学習能力がない、と呆れるほどに、です。程度の差はあれ、私たちは恐らく、誰もがそういった経験を積み重ねているのではないでしょうか。だからこそ、北森先生も、「絶えず新たに『心を定めて』」とおしゃっておられるのだと思うのです。

 

日の福音書の日課は、小見出しでは「イエスとサマリアの女」とありますが、これも良く知られたサマリアの女(女性)との対話の物語りです。少々長い物語ですし、内容も非常に豊富ですので、今朝は25節、「女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである』」という言葉にポイントを絞って考えてみたいと思っています。

皆さんは「求道者」だったでしょうか。もっと言えば、熱心な求道者だったか。神さまを求めて止まない、イエスさまを求めて止まない、御言葉の、聖書の探究者だったか。もちろん、そういった方々もこの中にもいらっしゃるでしょうが、そうではない、なかった方も少なくはないでしょう。いろんなきっかけで、気づいたら…、といった方もいらっしゃるかもしれない。先週はニコデモといったファリサイ派の議員が私たちを代表するような形で登場してきましたが、今日のサマリアの女性(名前は明らかではありませんが)もそういった方々の、私たちの代表なのかもしれません。

彼女はただ水を汲みにきただけです。昼間、炎天下の中で水を汲みにきたのにも、いろいろと意味があるようですが、ともかく、日常の必要に迫られて、暑い中を1キロ以上も離れた井戸に水を汲みにやってきた。そこで、イエスさまと出会った。
もっと正確に言えば、それだけでは、ただ「見かけない変な男の人がいるな」といった記憶にも残らないような出会いでしかなかったかもしれませんが、イエスさまが声を掛けられたことによって、忘れ難い出会いとなったわけです。それは、熱心な求道者であろうが、なかろうが、私たちにも共通していることです。イエスさまの方から、私たちと出会ってくださった。出会いを造ってくださった。だからこそ、今の私たちがある。そう思う。

そんなサマリアの女性とイエスさまとの出会いでしたが、ここでも、あの先週のニコデモと同様に、まったく噛み合わない会話が繰り返されていきました。なぜならば、先週もお話ししましたように、イエスさまは天上のことを、つまり、信仰的な事柄を、信仰をもって信じ、受け止めることでしかない事柄を話されているのに対して、このサマリアの女性は、地上のこと、この世のこと、自分の経験、理解、感覚・感性で分かる、納得できる事柄にしか思いが向かわないでいたからです。それが、ちぐはぐな会話を生み出していた。

は、以前のわたしは、このちぐはぐさは、イエスさまの方に原因があるのではないか、と思っていました。なぜイエスさまはその問いに対して、突拍子もないことを話されるのか。なぜ的外れとも受け取れるようなことを言われるのか。これでは、会話は成立しないではないか。そう思っていました。今日の箇所でもそうです。この女性は、水を求めるイエスさまにこう尋ねます。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。現代日本に生きる私たちには、この問い自体ちょっと不思議な感じがしますが、当時の女性ならば、誰もが同じような思いを持ったでしょう。
当時の社会は、差別的とも言える女性軽視の社会です。しかも、歴史的な経緯でユダヤ人とサマリア人とは犬猿の中でした。もともとは同じ国民でしたが、今ではユダヤ人たちはサマリア人の地域を避けて通るほど、徹底的に断絶(断交)していたわけです。ですから、このサマリア人の女性としては、ユダヤ人であるイエスさまがここにいること自体、不思議でならなかったでしょう。しかも、そのユダヤ人男性であるイエスさまが、サマリア人の女にものを頼むとは…。当然の問いです。

キリストとサマリアの女 ( Lorenzo Lippi )



かし、イエスさまはこう答えられる。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」
えっ、です。何言ってるの、そんなことを聞いているんじゃない。変な人、もう関わらないでおこ…。そう思ってさっさとその場を離れるのが落ちでしょう。そういう意味では、この女性はすごい。ともかく、会話を成立させていないのは、ちぐはぐな、滑稽なやり取りにしているのは、イエスさまの方ではないか。私は、そう思っていた。しかし、今では、なんと巧みなのだろう、と思っています。イエスさまの対話の目的は、会話を楽しむことではないからです。
旅行先で現地の人と話をして、その土地の生活をよく知るためのものでもない。もちろん、四方山話をするためでもない。彼女を救うため。イエスさまを信じて、命を得るためです。それが、イエスさまの目的。こう書かれている。「イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである』」。イエスさまは、この女性とのちぐはぐなやりとりが、神さまの御心を行うためだったのだ。そうおっしゃるのです。

の女性は、イエスさまと出会った。期せずして、イエスさまの方から出会ってくださった。そして、天上のことを、救いのことを、まことの命(永遠の命)のことを、話してくださった。しかし、この女性は、先ほどから言っていますように、なかなかそれらを受け止めることができないでいました。地上のことから、現実感覚からなかなか抜け出れないでいたからです。では、イエスさまは、そんな無理解なこの女性を、見込みなし、才能なし、と見限られたのか、と言えば、そうではないのです。この女性にも分かる、地上の事柄に、彼女が抱えていた現実の、目の前の事柄に降りてこられて、徐々に天上の事柄へと思いを向けさせていかれた。最初は、まったく関心のなかった信仰の事柄、楽して水を手に入れたいといった現実的な事柄にしか興味のなかった彼女が、「礼拝」といった至極信仰的な事柄へと思いが向けられていったのです。

これは、非常に興味深いことです。そして、それは、私たちにも言えることではないか、と思う。最初っからイエスさまが語る、聖書が語る天上の事柄がすんなりと分かったわけではない。むしろ、反発し、煙たがってもきたのかもしれない。私たちが本当に欲していたのは、地上のこと、この地上の生(生活・人生)で役立つことだけだったのかもしれない。しかし、気付けば、天上の事柄、信仰の事柄にも心が向けられてきました。この女性のように、まだはっきりではなくとも、メシア・イエスさまが教えてくださるに違いない、と思えてきた。そして、このことも興味深いと思います。

42節「彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです』」。恐らく、誰にでも信仰の先達、友、恩師がいるでしょう。誘ってくれた、導いてくれた存在が…。それは、もちろん大切に違いないのですが、この言葉は、非常に大切なメッセージにもなっていると思います。
ともかく、私たちは、イエスさまから聞くしかないのです。学ぶしかないのです。天上のことは。救いのことは。命のことは。

のイエスさまは、このサマリアの女性を救うために、このように語られました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。素晴らしい言葉、約束です。私たちも、この言葉を信じている。しかし、どうでしょうか。私たちの現実の感覚は、果たしてこの言葉の通りでしょうか。やはり、天上の言葉は、確かに素晴らしいかもしれないが、幻想にしか過ぎない、ということなのでしょうか。

かに、キリスト者だからといって、常に平和(平安)である訳ではありません。今ある幸せが永遠に続く訳でもないのかもしれない。病気にもなります。明日を見通せなくなるような出来事にも遭遇します。愛する家族を亡くします。どうして…、と思うことばかりです。祈っても、何も変わらない。この苦しみは、不安は続くばかり。本当に尽きない泉などあるのか。そう思う。思えてくる。私たちは渇きます。信仰を持っていても、いいえ、もっているがゆえに渇くこともある。水を、命を、救いを欲する。しかし、渇き切ったことはなかったはずです。枯れてしまったことはなかった。

かに、わたしたちが望むような勢いある泉ではなかったかもしれない。本当にちょろちょろとした水流でしかなかったかもしれない。渇いていたときに、求めていたときに、十分に癒されるほどの、満たされるほどのものではなかったかもしれない。
しかし、イエスさまの言葉の通りに、約束の通りに、尽きない泉は確かにあった。そう思う。私自身、それを体験してきました。尽きない、枯れない泉を…。そして、この泉は、確かに、緑を、命をもたらす。それを育む。それが、その水源がいくつもあつまり、流れ出れば、大地を潤す大河にさえなれる。イエスさまから天上のことを、信仰の事柄を知らされた教会は、そういうものではないか。そうも思う。ともかく、諦めずに私たちとの対話を繰り広げてくださっているイエスさまに、心を開いていきたい。そう願います。

 

祈ります。

天の父なる神さま。今朝も新型コロナウイルス流行の最中ですが、このように私たちを守り支えてくださり、礼拝の場に呼び集めてくださいましたことを心より感謝いたします。また、自粛されておられる方々も多いですが、祈りを合わせておられるお一人お一人の上にも、どうぞ豊かな恵みと祝福をお与えください。私たちからではなく、イエスさまの方から働きかけてくださったが故に、私たちは信仰と希望と愛とに生きることができることを心より感謝しています。しかし、この恵み、ご恩を忘れやすい私たちですので、常に、御前に立ち、イエスさまに心を開いて、その言葉を、約束を受け取っていくことができますように、弱い私たちを導いてください。この混乱した最中ですが、20日に時間短縮で教区総会が行われます。十分に理解を深め合うことが難しい中ですが、東教区にとっても、東教区ばかりでなく、すべての教区にとっても、大きな節目の時に来ているのかもしれません。どうぞ、思いを一つにして、御心に沿っていくことができますようにお助けください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン