説教 「天の喜び」 大柴 譲治

ルカ福音書 15: 1-10

迷子になった娘

今から8年ほど前、私が福山で牧師をしていた時のことです。上の娘がまだ3歳になったかならなかったという頃、駅南にある大きなスーパーに家族三人で買い物に行き、ちょっと目を離した隙に、1階の売場で娘がいなくなってしまったことがあります。結局は30分ほどたって地下の食料品売場で泣きそうになっている娘を見つけたのですが、この間、もう我を忘れて妻と二人で必死で娘を捜し回りました。そのような時には悪い方へ悪い方へと考えが行ってしまいます。もし取り返しのつかないことが起こったらどうしよう、何で目を離してしまったのかと自分で自分を責める。今頃娘はどんなに不安の中にあるだろうかと思うと、祈るような気持ちで必死になって探しました。そしてようやく無事に娘を見つけ出した時の喜びの大きさ。不安や悲しみが大きければ大きいほど、喜びもまた大きかった。万歳と叫んで、盛大な祝宴を設けたいほどの爆発的な喜びです。おそらく、似たようなハラハラ体験は多くの方がお持ちなのだろうと思います。

セレブレーションのテーマ

本日の合い言葉は「セレブレーション」。本日の日課では、なくしたものを見出したときの天における喜びの大きさ、すなわち、神さまご自身の喜び、主イエスさまご自身の喜びの大きさがテーマです。それは万歳と叫んで大宴会を開きたくなるような爆発的な喜びです。 一匹の迷子の羊を見つかるまで必死になって探し続けてくださるお方がいる。一枚のなくした銀貨を見つかるまで徹底的に探し回ってくださるお方がいる。それはそれらがかけがえのない価値を持っているからです。羊の持ち主(羊飼い)が百頭のうち一匹足りないことに気づいたのは、おそらく一日の終わりに羊たちを数を数えながら囲いの中に入れた時でありましょう。羊飼いは夕闇迫る中で必死に羊の名を呼びながら、耳を澄まし目を光らせながら探し回ります。よい羊飼いは羊のために命がけです(ヨ・zM’タ{ B本日の譬え・t+ーGスさまは、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて」という言い方で始めておられることにも注意したい。語りかけられている「あなたがた」とは、ファリサイ人であり律法学者であり、この譬えを聞く私たち自身なのです。私たち自身に深く関わりのある事柄として語られている。

二番目の譬えについて。パレスチナの家は通常窓が小さく、昼間でも灯火をつけなければ暗くてよく見えない状態です。暗い中をほうきで掃いて見つけるというのですから、全身を耳のようにして銀貨が石に触れるカチッとした音を探し出そうというのです。1ドラクメ銀貨とはギリシャの貨幣で、ローマの1デナリオンと同様、労働者の一日分の賃金に当たりました。パレスチナの女性は今日でも、金貨や銀貨を首飾りにして身につける習慣があるそうです。10枚の銀貨は彼女の首飾りか頭飾りであり、嫁入りの時の花嫁の飾りであったかもしれません。とすれば、それは彼女の両親の準備した結婚持参金であり、非常時の蓄えでもありました。それは彼女自身が大切にしてきた宝物であり、親の深い思いが込められていた。ですから彼女は諦めずに探し続けるのです。

どちらの譬えにも共通するのが、持ち主は失われたものをけっして諦めず、見つかるまで探し続ける点です。そこには大いなる忍耐があり、粘り強さがある。それぐらい一匹の羊や一枚の銀貨は大切なものとして語られている。「空の鳥、野の百合を見なさい」と言われれた主イエスの言葉を思い起こします(マタイ6章)。私たちは自分がどんなに小さな、弱い、つまらない人間であるかということを知っています。みんなどこかで自分はダメだという思いを持っている。私たちは優等生ではなくて、落ちこぼれです。しかし、神さまの目から見ると私たちは、けっして失われてはならないかけがえのない一頭の羊であり、大切な一枚の銀貨なのです。だから、神さまはその尊い独り子を賜るほどに私たちを愛してくださった。尊いみ子の命と引き替えに私たちの命を購ってくださった。これはとても不思議なことです。そのことを実感として味わう時、私たちは熱いものを心に感じ、言葉を失います。この神さまの、空より高く海よりも深い愛を私たちが受け止めてゆくべきこと、それを主は本日の二つの譬えを通して語っておられるのです。

悔い改めへの招き

罪人の一人が悔い改める時に天において大きな、爆発的な喜びがあり、セレブレーションがある。そのような強烈な喜びを天にもたらす出来事が「一人の罪人の悔い改め」です。「罪人の悔い改め」とは何を意味するのか。聖書の言う「罪人」とは、神の律法を忠実に守らない者たち、神に見捨てられていたと考えられていた者たちのことです。本日の日課の最初にも、徴税人や罪人がイエスの周りに集まっているのを見て、ファリサイ人や律法学者たちが批判したとあります。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」。しかし、主は「わたしはそのような『罪人』を弁護し、彼らをこそ招くために来たのだ」とでも言うかのように、三つの有名な譬えを語ります。それが「見失った羊」の譬えであり、「無くした銀貨」の譬えであり、「放蕩息子」の譬えなのです。

それらの譬えを語ることによって主は次のように宣言していると思います。「彼らは神に見捨てられた者たちなのではない。神はけっして彼らを見捨てたりはしない。そうではなくて彼らは、神によって見出された者たちなのだ。健康な人には医者はいらない。医者を必要とするのは病人である。わたしは失われていた者を見出し、散らされていた者たちを一つに集めるために来た。すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。あなたがたが天に立ち返る時には天において爆発的な喜びがもたらされるのだ」と。

この主の高らかな「天における喜び」宣言は「罪人」と呼ばれていた人たちにいったいどのように響いたでしょうか。ここにこそ本当の喜びがあり、本当の慰めがあります。神さまが喜んでくださる!?こんな小さな、こんなつまらない私のために!?神さまが私を見捨てず、どこまでも、それこそ必ず見つけ出すまで探し続けてくださるというのか!?諦めに似た思いで長い年月を過ごしてきた彼らは、 思いがけない主の衝撃的な言葉に最初は半信半疑で戸惑いを隠せません。

イエスの彼らの側に立ち、彼らを守ろうとする態度を見て、徴税人や罪人という社会的に弱い立場に置かれた彼らの中には様々な思いが次から次へとわき上がってきたことでしょう。主は彼らの心を天における喜びに向けさせます。神の喜びと神の光と、神の愛とがそこには満ちているのです。「わたしはあなたがたを見出すために来たのだ。安心しなさい。あなたがたは決して見捨てられることはない。神があなたがたと共におられる。わたしはあなたがたを連れ戻すために神から遣わされた羊飼いである。あなたがたが見出されるとき天においては大きな、あなたがたの想像を絶するような爆発的な喜びがあるのだ。さあ、わたしと一緒に天のセレブレーションに集いなさい。この祝宴はあなたがたのために開かれているのだ。喜び、喜べ。」一度聞いたら忘れることができない主の招きの言葉であります。

わたしたちの現実

目を転じて私たちの生きている日常生活を見ると、そこには苦しみや悲しみが満ちています。主イエスの周りに集まっていた徴税人や罪人たちが厳しい現実の生活の中に置かれていたのと同様、私たちもまた行き詰まりと困難の中にある。ある人は職場や家庭における人間関係につまずき、息詰まるような現実の中で苦しんでいるかもしれない。誰も信じられず、誰にも理解されない孤独、孤立。またある者は、苦しい病いの床でただ一人、不安と焦りの中に自分の死を見つめ恐怖と闘い続けているかもしれない。ある人は自分の思うとおりに仕事や勉強が進まずに、前途に全く希望が見出せなくなっているかもしれない。あるいはまた、過去の取り返しがつかない罪を心底から嘆き続けているがいるかもしれません。あるいはある人は、自己の中にある矛盾や不条理、弱さや罪、いやらしさといったものにつくづく自分が嫌になってかもしれません。愛する者を失って悲しんでおられる方もおられましょう。私たちの苦しみは多様です。しかし、苦しんでいるその人自身にとってそれらの苦しみはまことに辛い十字架なのです。苦しみの中で私たちは道を見失ってしまう。しかし、私たちの信じる神は失われた者をどこまでも探し求めてくださる神です。

天における爆発的な喜び!?それは私たちの悲しみの現実、苦しみの現実、死と罪の現実を粉砕し、まったくそれらの苦しみの十字架から私たちを解放してくれるような喜びだと言うのです。十字架の悲しみが復活の喜びに飲み込まれてゆくようなものでありましょう。現実の闇の中で私たちはこの光を見上げてゆかなければなりません。終わりの勝利からの視点をもって私たちは今を生きるのです。神が必ず私たちを見出してくださる。私たちは終わりの日の神の喜びの祝宴(セレブレーション)に招かれているのです。

天の喜びへの方向転換

「悔い改め」とは「方向転換」のことです。神を見失っていたところから、もう一度神へと方向転換することです。人間の世界の悲しみばかりを見つめていたところから、もう一度天における神の喜びに向かって顔を向けるということです。どんなに辛い状況におかれても、天の喜びから目を離さないということです。一人の失われた者が神への信仰を取り戻すとき、天においては爆発的な喜びがある!!その喜びへと私たちを方向転換させるために主イエス・キリストはゴルゴダの十字架にかかってくださったのです。一匹の迷える羊をそのふところに抱くために。その肩に担うために。

最初に私自身の娘が迷子になったときのエピソードをお話ししましたが、神さまはそのような熱い思いをもって私たち一人ひとりの魂の在処を探し続けておられる。丁度、罪を犯して隠れたアダムに向かって「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられたように。私たちはそのような神さまの痛みと深いあわれみに、さらには私たちを見出してくださった神さまの爆発的な喜びに思いを致しながら、新しい一週間を歩んでまいりましょう。

お一人おひとりのうえに神さまの祝福が豊かにありますように。アーメン。

(1998年9月13日)