たより巻頭言「読書の秋によせて」 大柴 譲治

 きらりと光る珠玉のような言葉と出会うこと、これが読書の楽しみであろう。われわれが本を読んで感銘を受けるのは、それがわれわれに未知の事柄を教えてくれるからではない。既にわれわれ自身の中にあって、うまく言葉化できないできたものを、それが的確に、そして印象的に表現してくれるからだ。そのような言葉はわれわれに説得力を持って迫って来る。

 そう考えているうちに次のような辻邦生の文章と出会い、「わが意を得たり」と思った。

 「読書には多読も濫読も必要なときがありますが、生涯の糧になる本はそう多くあるものではありません。百冊の本のリストの前で溜息をつくより、そのとき一番好きだと思える一冊の本をえらび、他は忘れることが肝要です。これも半分まで、あれも半分で、というような読み方が最も時間の浪費になります。一冊の本をよく読むこと、それは十冊の本をいい加減に読むのにまさります。」(『永遠の書架ににたちて』より)

 今月の読書会ではドフトエフスキーの『罪と罰』を読む。じっくり読んでじっくり考え、じっくりと語り合いたい本である。

 読書の秋を迎えた。本を読む喜びをご一緒に味わいたいと思う。

 「多く見、多く記憶するということも必要だろう。しかし、それより大切なことは、一つでもいい、感動し、はっとして、そのなかへ魅惑されひきこまれ他を忘れるものを見出すことだ。この一つこそが、また全体であり、この一つがあって、全体が存在しうる。」(辻邦生『パリの手記ー・』より)