説教 「狭い戸口から入れ」 大柴 譲治

ルカ福音書 13:22-30

神の国のテーマと闘いのモチーフ

本日の福音書の日課のテーマは「神の国」ということです。22節には「イエスはエルサレムに向かって進んでおられた」という言葉があり、福音書記者ルカは私たちに十字架を想起させています。

24節には「狭い戸口から入るように努めなさい」という言葉がありますが、「努めなさい」とは原文では「あなたがたは闘いなさい」という強い言葉が使われています。英語で言えば struggle, fight; do one’s best という言葉であり、strive という言葉です。そこには競技場で闘うという意味もあります。「狭い戸口から入る闘いをあなたがたは闘いなさい」と主は命じておられるのです。

ヘブル書12:1-2や1テモテ6:11-12などを見ましても、信仰には確かに闘いのモチーフがあることが分かります。パウロもまた1コリント9章で、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」という告白に続けて、厳しい言葉を語ります。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」(24ー27節)。

私たちはもしかすると信仰義認を強調するあまり、このような信仰における厳しい闘いの側面を見過ごしにしているのではないかと恐れます。信仰には確かに、厳しく自分を律してゆく側面がある。自分を棄て、自分の十字架を負ってキリストに服従する行為こそ信仰です。キリストに服従することとキリストを信じることは一つなのです。「信じる者のみが服従し、服従する者のみが信じる」(ボンヘッファー)。「狭い戸口から入るよう闘いなさい」という主の言葉は、エルサレムにおいて私たちのために十字架において救いの門(狭い戸口)を開いてくださったキリストに服従するよう私たちに命じているのです。主はエルサレムに向かって進んでゆかれます。私たちに命の門を開いてくださるため、ご自身が命の門となってくださるために。

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」

本日の日課は「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」というある人の質問から始まっています。彼もまた、直前に記されている、神の国は「からし種」や「パン種」のようであるという主の教えを聞いたに違いありません。彼がどのような思いからこの質問をしたかは分かりません。自分も救われる者の一人であると考えていたのか、それとも自分も救われるのだろうかと悩んでいたのかは分からない。いずれにせよ、主イエスは彼には直接に答えず、「一同」に向かって語ります。「あなたがたは狭い戸口から入るよう闘いなさい」と。

並行箇所マタイ福音書7章では「狭き門」と「広き門」が対比されていて明快です。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。しかし、ルカでは「広い戸口」は出てきません。代わりに出てくるのは「閉ざされた戸口」です。「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」。語られていることは主人の有する徹底的な主権です。救いへの戸口、命の門の開閉は神さまの業だと言うのです。私たちが、客観的・第三人称的に、救われる者は多いとか少ないとか言うことはできない。自分が救われるかどうかという問題なのです。その意味で救いとは徹底して私自身の問題であり、実存的な問題です。

自分がアブラハムの子孫であるとか信仰熱心であるとかいうことの中には救いの確かさはない。「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」。 東から西から、また南から北から来た人々が、神の国で宴会の席に着くと語られている。そこでは、「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」。この言葉の中には、先に招かれたユダヤ人ではなく後から招かれた異邦人が神の国に入るということが告げられています。28節にある主人の「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」という言葉は、最後の審判では倫理的な行いが重要な基準となることを示しています。愛を実践したかどうかが問われるのです(マタイ25章参照)。

先ほど、信仰とは服従であり、服従が信仰であるというボンヘッファーの言葉を引用いたしました。言葉を換えていうならば、信じることと愛を行うことは切り離すことができないということです。狭い戸口から祝宴の催される部屋に招き入れられるのは、この愛の乏しい人間世界の中で、神の義のために闘う者だけであり、また愛を行うために闘う者だけなのです。自分を捨て、自分の十字架を負うてキリストに服従するとは、キリストの手足としてキリストの愛を生きるということです(マタイ7:21-23をも参照)。

“Why don’t you go there?”

私はこの「狭き門から入れ」という言葉を聞くと必ず思い起こす言葉が二つあります。 一つは、今から15年ほど前のことですが、むさしの教会で神学生としての実習を終えた私は、カナダのブリティッシュコロンビア州のバンクーバーの近くにある Langley という田舎町でインターンをしました。その教会は Sheperd of the Valley Lutheran Churchという名前で、このむさしの教会と同様、やはり羊飼いキリスト像を描いたステンドグラスがありました。開拓伝道10年で礼拝出席が150人、300家族ほどのメンバーの教会です。そこには主任牧師、牧会訪問に従事する婦人信徒奉仕者(lay assistant)、そしてインターンパスターとしての私の三人が働いており、毎週水曜日午前中には三人でスタッフミーティングをしました。

そこでは教会員の牧会状況について細かいシェアリングが行われました。主任牧師の Frank W. Schmitt はアメリカ生まれの牧師でした。ある時のスタッフミーティングで私は、ある夫婦が離婚の危機にあるらしいという情報を得たことを話しました。すると、スーパーバイザーのPastor Schmitt は私にこう言ったのです。”Pastor George, why don’t you go there?”と。私はそのような突然の問いかけに意表をつかれて、すっかり慌ててしまいました。「どうしてって、まずそれを先生に報告してから指示を仰ごうと思ったからです」とやっとのことで答えると、どうも理解できないというふうなけげんそうな顔をされました。日本では神学生が牧師をさしおいて勝手なことをすることは許されない場合が多いと思います。しかし、どうやら北米のシステムは違うようです。もっと主体的で積極的な関わりが求められる。実際、インターン実習は神学校の最終学年でなされることが多く、神学生たちは学生としてよりも一人の牧師として扱われることが多いようです。それだけ神学生も自立した責任を問われるのです。

この Pastor Schmitt のチャレンジングな言葉は、実は、私自身の深いところにあるためらいや弱さ、恐れといったものを鋭く突いていました。「ジョージ、どうしてそこに入っていかないのか」という言葉は、「あなたは牧師としてまさにそのような立ち入りにくい状況の中へと召されているのだよ」ということを私に教えてくれたのです。キリストは人々の苦しみや悲しみのまっただ中へと入って行かれました。そこから逃げようとはされなかった。病いの苦しみのただ中に、死の悲しみのただ中に、孤独の痛みのただ中に、罪の恐れのただ中に、深く深く歩んで行かれたのです。そのようなキリストの後に私は従って行くように牧師として立てられているのだということを私はそこから教えられたように思います。忘れられない体験でした。

それ以来私は、自分が「できれば避けたい、立ち入りたくない」と感じる気持ちをとても大切に考えてています。なぜかと言えば、そこにこそ私は自分が召されているのだと思うからですし、そこにこそキリストが私に先立って関わって行かれるからです。戸口は狭いのです。人間が逃げようとするところにキリストは逃げずに踏みとどまる。深く立ち入ってゆかれる。十字架がそうでした。Sheperd of the Valley のキリストは牧者として一匹の羊を救うために命を捨てられるのです。このSheperd of the Musashino の羊飼いキリストもまたそのようなお方であります。私にとって「狭い戸口」とは「入ることをためらう場所」なのです。そこから逃げないこと、踏みとどまることが、牧師として貫いてゆきたい私の姿勢です。

Quo vadis 伝説

私が思い起こすもう一つの言葉は、Quo vadis, Domine? という言葉です。ポーランドの作家ヘンリク・シェンキエヴィチがその伝説を小説『クオ・ヴァディス』(1895)の中に書いています。Quo vadis とはラテン語で「どこに行くのか」という意味です。皇帝ネロによるローマでのキリスト教と迫害の時、キリストがローマから逃げようとするペトロの前に出現します。ペトロはローマに向かって歩いてゆこうとされているキリストに、「主よ、どこに行かれるのですか」と尋ねました。これに対してキリストは、「私は再び十字架に付けられるために行くのだ」と答えたと言われます。ペトロはこれを自分に対する問いかけと理解して、ローマへ引き返して殉教したという伝説です。

私たちの周囲にはできれば逃げたい、避けたいという状況が満ち満ちています。しかしどこかで私たちには逃げられない、逃げてはならない時が与えられているのでありましょう。自分を捨て、自分の十字架を取ってキリストに従う、そのような決断の時が人生の中にはあるのです。ローマから逃げようとしていたペトロがそうでしたし、私にとっては先の離婚の危機にある夫婦との関わりがそうでした。それ以来私は、牧師になって12年と5ヶ月経ちますが、今日ここに出席しておられる京都教会の小泉潤先生がまだ下関教会におられて西教区長として私の按手式と就任式をしてくださったわけですが、この12年半の年月、ずっと「逃げずに踏みとどまること」の大切さ、また「そこからさらに深く一歩踏み込んでゆくこと」の大切さを覚えさせられてきました。

先立つキリストへの服従

「狭き門(戸口)から入れ」という呼びかけを聞くときに私は必ず、”Why don’t you go there?” と “Quo vadis, Domine?” という二つの言葉を思い起こします。私にとってはそれがキリスト者としての私自身の闘いを思い起こさせてくれる言葉だからです。私たちがキリストに服従しようとするとき、愛を行おうとするときには、必ずこのような闘いの状況が出現します。キリストが先立ってくださっているということを覚えつつ、そしてキリストが共に闘っていてくださることを覚えつつ、私たちは自分の闘いから逃げずに、勇気を持ってしっかりと踏みとどまりたいと思います。そして、ご一緒に、「あなたがたは、私と共に、狭き戸口から入るよう闘い続けなさい」と招いてくださる主のみ後に従ってまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの聖霊の力が豊かに注がれますように。 アーメン。

(1998年8月23日)