たより巻頭言「千年と一日」 大柴 譲治

「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(二ペトロ3・8)

 もう十年近く前、広島で開かれた「第一回宗教と平和シンポジウム」に出席したことがある。仏教やキリスト教をはじめ、諸宗教から参加者が集って平和についての意見を交換した。そこでは、当時、日本カトリック教会の名古屋教区司教で正義と平和協議会議長でもあられた故相馬一夫司教のお話をお聞きすることができた。私はシンポジウムでのご講演を聞いて、そのスケールの大きさに度肝を抜かれ、目が開かれる思いがした。後になって湾岸戦争時に、邦人救出のために自衛隊機ではなく民間機を飛ばそうという全国的な募金運動を展開した方であり、1993年 8月に熊本で開かれた私たち日本福音ルーテル教会宣教百年記念大会のゲストスピーカーであられたことも記憶に新しい。

 相馬司教はこう語られた。「宗教者というものは、平和を考える上で、十年二十年単位でものを考えていてはダメだ。一千年を視野に入れなければならない」と。千年を視野に入れる!?それはいったいどういう意味であろうか。

 思うに、相馬司教は私たちに、「終わりからの視点」を見失わないように注意しながら現在の問題に関わってゆくように勧めていらしたのだと思う。「終わりの希望によって今を生きる」、あるいは「終わりの希望に向かって今を生きる」と言ってもよいかもしれぬ。それは、憎悪と暴力に満ちた人間世界の現実をごまかすということではない。血塗られた過去に目を閉ざすということでもない。千年を一日として、また一日を千年として見てゆかれる神のまなざしを思いつつ、み国の実現を待ちつつ、今を生きるということである。千年を思うまなざしと一日を大切にするまなざしと、その両方を同時に持ちながら生きるよう私たちは召されているのだ。今は1998年 8月。神の平和について思いを馳せる。

 内村鑑三はこう日記に書いた。『「信仰の初めより、さらにわれらの救いは近し』とある(ロマ書13・11)。わが生命の終末(おわり)が近づくのではない。わが真(まこと)の生命の初(はじめ)が近づきつつあるのである。信者は過去をかえりみて悲しまない。未来を望みて喜ぶ」(『一日一生』教文館)と。黙示録 章に預言されている千年王国を望みつつ、私たちはそのような信仰をもって今を生きるのだ。