説教 「祝宴への招待」 大柴 譲治

詩編23編/マタイ福音書22:1-14

主題詩編

主日には必ず主題詩編が選ばれています。その主題詩編の下で、主日の祈りと旧約の日課、そして福音書の日課とが相互に関連づけられています。使徒書の日課は、多くの場合、主題とは無関係に連続的に選ばれていることが多いのです。

本日の主題として詩編23編が選ばれています。「主はわたしの羊飼い、私には乏しいことがない」という有名な詩編です。先の福音書の日課とはなかなか結びつきにくい詩編です。王が王子のために準備した婚宴に招待客が来ないことで王は怒って彼らを滅ぼしてしまうという本日の福音書の日課はずいぶん厳しく響きますが、それがどうして詩編23編とつながるのでしょうか。

二つのたとえ

本日の福音書の日課は二つのたとえが合体したものです。1-11節が第一、そして12-14節が第二のものです。最初のたとえには、神さまがイエスさまのために祝宴を設けたこと(子羊の婚礼)、そして預言者たちを使わして何度もユダヤ人たちを招待したのに、招いた者たちはそれを断って祝宴に参加しようとはしなかったこと、その代わりにユダヤ人ではない異邦人たちが祝宴へと招かれ参加することになったということが記されています。10節の「悪人も善人も招かれた」は気になる言葉ですが、とにかく祝宴の席は客で一杯になったことが記されています。ユダヤ人たちは自分たちも神の祝宴に参加しようと思ってはいたのですが、まさかイエスによって招待されているとは考えなかったのです。

第二のたとえは、婚礼の出席客の中に礼服を着ていない者がいて、彼は婚宴にふさわしくない者として追い出されるというものです。10節の「悪人も善人も招かれた」という言葉は、実は11節以降の伏線になっていたことが分かります。実は、この二番目のたとえはマタイの属していた教会の具体的な問題をその背景として持っているようです。「礼服を着ていない者がいた」とは、教会で祝われるキリストの祝宴にふさわしくない者がいたということでしょう。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」のです。

そう聞くとドキッとされる方も多いのではないかと思います。自分のことを言われているような気になるからです。教会に来ていても信仰者として自分はふさわしくないのではないか、自分はむしろキリスト者失格ではないかという思いが私たちの中にはある。どこかで自分はダメだという思いがあります。自分の不完全さ、弱さ、不徹底さ、悔い、行き詰まり、限界といったものを一杯抱えて私たちは生きているのです。ですから私たちは、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」という言葉に自分の弱さを指摘され裁かれているような気持ちになるのだと思います。

「ふさわしい礼服」

今日の主題は「ふさわしい礼服を着て祝宴に出席すること」です。それにしても「礼服を着る」とは何を意味するのか。

毎週牧師と神学生は礼拝時に、アルバまたはサーフラスと呼ばれる真っ白な祭服を着て礼拝を司式します。それは羊飼いの姿を模しています。そして教会の按手を受けた牧師だけがストールと呼ばれるマフラーのようなものを首にかけることができる。宮本神学生も神学生のうちはまだストールをかけることはできません。ストールはキリストのくびきを意味します。典礼色に応じて緑と赤、紫と白の4色のストールがあって、私たちの教会ではストールを着用した者だけが公に聖礼典の執行を許されています。

昔は黒のガウンを式服として着て礼拝を執行することが多かったのです。私の神学生時代にはこの教会でも黒いガウンを着用していました。いつの頃からでしょうか、白いアルバが主体となりました。「礼拝はキリストの食卓を中心としたセレブレイションである」という礼拝の持つ祝祭的な性格が協調されるようになったためです。壁にくっつけて置かれた本来的にはお墓を表す「聖壇」も、次第に壁から離されて置かれるキリストの食卓を表す「聖卓」に代えられてゆくようになりました。そして式服も、神の祝祭に与るということで白が用いられるようになった。それはまた、ヨハネ黙示録に繰り返される「救われる者はキリストの血潮によって洗われた真っ白な麻衣を着る」という言葉にも関連していましょう。

これが「祝宴にふさわしい礼服」として私たち礼拝の司式者が着るものです。しかしそれは外見的な事柄にすぎない。私たち司式者が司式にふさわしい礼服を外見だけでなく心にも着ているかどうかを今日の日課は鋭く問いかけてきます。キリストの祝宴にふさわしいあり方をもって礼拝を司式しているかどうか牧師は問われている。それは礼拝に出席する皆さんが、礼拝に出席するのにふさわしい心のあり方をしているかどうか問われているのと同様です。

しかしそのことは私たちを困惑させます。礼拝にふさわしいとは何を意味するのか。私たちは自分は礼拝にふさわしくない、神さまの恵みに値しないと考えている。特に、信仰義認を、神さまからの恵み100%によって義とされるということを強調する私たちルーテル教会では、人間の側にそれにふさわしい功績があるということは考えない。ふさわしくない者を恵みによって祝宴に招いてくださるのが、私たちの信じる神さまなのです。

「ふさわしい礼服」とは何か。そこに本日の主題詩編が登場します。詩編23編は歌います。「主は私の牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場にふさせ、憩いの水際に伴われる」。「ふさわしい礼服」とはこのような主イエスに対する信頼を意味しています。礼服とは信仰のことなのです。そして信仰とはルターの言い方を借りれば「私たちのうちに働く神さまのみ業」ですから、礼服は自分で準備するのではなくて祝宴の主催者が準備してくださるということになります。実際、旧約聖書には祝宴の招待客には礼服も共に準備されるということが記されている箇所もあります(創世記45:22、士師記14:12以下など)。もしそうであるとすれば、「礼服を着ていなかった者」は、それが配られたにも関わらずその着用を拒絶したということになる。12節を見ると、王が『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言ったのに彼は沈黙していますが、この沈黙は彼の混乱というよりもむしろ不服従を表していましょう。

「着る」

昨日、この教会で結婚式が行われました。聖句はコロサイ3章でした。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。・・・あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(3:9b-14)。ここで「身につけなさい」と繰り返されている言葉は「礼服を着る」という言葉です。信仰を持つということは神からいただいた「愛を身につけること」なのです。

「皮の毛衣」

「着る」ということで私がハッと思い出すのはあの創世記のアダムとエバが楽園を追放される場面です。そこにはこうある。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。この文章は何気なく読み過ごしてしまいがちですが、とても大切なことを告げています。エデンの園を追放するにあたって、神ご自身が人間に皮の衣を造って着せてくださった。それは人間を寒さや外敵から守るためでもあったでしょうが、何よりも自らの裸を恥ずかしいと思った人間を覆うためでもありました。「恥」とは自分の弱さや惨めさが晒された時に感じる強烈な痛みを伴う感情です。それを神ご自身が覆ってくださる!人間の罪と恥とをカバーしてくださる。人間に対する神の深い憐れみと愛とを感じる事柄でもあります。

それと同時に、「皮」の衣ですから、そこでは人間のために動物が犠牲となったことを意味します。犠牲が神ご自身によって捧げられている。私の中でそれは、人間の恥を覆うためにあの十字架の上に犠牲の子羊となってくださった神の独り子、イエス・キリストと重なってゆきます。そのように、私たちの恥を覆い、外敵から私たちを守るためにキリストが衣となってくださった。「キリストを着る」とは何よりもそのような神の守りを身につけることなのです。人生を旅する私たちを罪と恥と絶望とから守るために神が用意してくださった礼服を着る。これがキリストの祝宴にふさわしい礼服を着ることの意味なのです。

祝宴への招待

そしてさらにそのことは、私たちが自分の力だけで生きるのではないのだという認識に導きます。神の守りが常に私たちと共にあって、私たちは自分で生きるというよりも、神によって生かされている。あるクリスチャン画家の言葉を聞いたことがあります。「受洗前は自分が生きるんだという思いで苦しかった。でも洗礼を受けてから、自分が生きるのではなく生かされているということを知って本当に楽になった」と。神の用意してくださった衣を身につけるということは、自分が生きるのではなく神に生かされているということを知るということでもある。祝宴に与る、子羊の婚礼に与るとは、そのような私たちを生かす天の喜びに与るということです。

星野富弘さんの詩画集『鈴の鳴る道』の中に次のような詩があります。

いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった

いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった

「礼服を着て祝宴に与る」とは、いのちよりも大きなものに自分が生かされているということを知ること、生かされていることの恵みと喜びに与るということではないか。私にはそう思えてなりません。皆さんはどう思われますか? ご一緒に、この礼服を着て、心の底から新たにされて祝宴に連なり、神の恵みに生きる者となりたいのです。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。

(1999年10月24日  聖霊降臨後第23主日礼拝)