説教 「心からホッとできる場所」 大柴 譲治

マタイ福音書 11:25-30

私たちの居場所

ふだん私たちは意識しておりませんが、実は私たちにとって「自分の居場所」というものはとても大切です。自分の居場所がないということで苦しんだことが誰しもあるのではないかと思われます。特に引っ越しや、卒業や入学、就職や留学、結婚や離婚、失業や再就職、定年退職などで、新しい場所に自分が移らなければならないということは私たちに大きな緊張感を与えます。それは、自分の居場所を新しく見出すことができるだろうかという不安と重なっているからでもあります。旅行などもそのような緊張感を伴いますが、やがて帰ってくるべき場所があるからこそ、安心して旅行を楽しめるのだろうと思います。

「自分の居場所」は自分にとって居心地のよい場所でもある。家庭や学校や地域や職場などにおいて、自分の居場所を見出すことができない時の苦しさ、寂しさを私たちはよく知っています。今いる場がそれほど居心地よいとは感じられないけれども、ぐっとこらえて我慢しておられる方もおられるかもしれません。

実は人生においても自分の居場所はとても重要です。自分が生きていてよかったと感じる時、生き甲斐を感じる時、私たちは私たちの人生において居場所を見つけていると言えるのではないか。逆に、自分なんかいてもいなくても同じだと感じる時、自分の居場所を見出すことができない時、また、自分の身の置き場を失った時に私たちはとても苦しく寂しい思いがいたします。

愛する者を失うことや、職場を失うこと、財産や家や思いでの数々を失うことは、私たちに自分の身が削られるような痛みを味わわせます。居場所を失うということは私たち自身の一部を失うことでもあるのです。失ってみて初めて、事柄の大切さを知るということは、私たちのしばしば体験するところです。

人間関係としての「居場所」

「自分の居場所」と言いましたが、それは自分の家や自分の部屋であるといった物理的な空間である場合もあります。また、やりがいのある仕事や自分が打ち込んでいる芸術作品という場合もありましょう。しかし、多くの場合は、それは私たちが大切にしている人間関係を指しているように思われます。

もう20年ほど前になりますが、私は学生時代を北陸の金沢で過ごしました。何年か前に金沢を訪れたときにも、石川門や兼六園、古くからの町並みは変わらずに残っていますし、犀川や浅野川もそのままですし、学生時代にお世話になった食堂(第七ギョーザ)なども残っていてとても懐かしい思いがしました。皆さんも自分が過ごした大切な思いでの場所を訪れるときに、郷愁に誘われるということがありましょう。しかし、あの頃の仲間たちはもうそこにはいなくなっていて、懐かしいと同時にとても虚ろな気持ちになるのではないでしょうか。自分の居場所はそこにはもうないのです。あの仲間たちと熱い青春を過ごした町は、同じであって同じでない。人間関係がもはやそこにはなくなっているからです。私たちにとって「自分の居場所」とは空間ではないのです。私と共に泣き笑い、一緒に大切な時を過ごした仲間たちとの関係だったのだと思います。

自分の居場所、自分が心からホッとして憩える場所、そのような人間関係を持っている者は幸いであります。特に自分が失敗したり、大きな壁にぶつかったり、病気になったり、自分が惨めで小さく感じられるような時に、慰めと支えを与えられるような場所、人間関係を持っている者は幸いでありましょう。

重荷を負うて苦労している者

本日の福音書の日課は有名なイエスさまの招きの言葉が語られています。これはマタイ福音書にしか出てこない言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。口語訳聖書ではこうなっていました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。(文語訳聖書ではこうです。「すべて労する者・重荷を負う者、われに来たれ。われ汝らを休ません」。)何度味わってもすばらしい慰めの響きのある言葉です。これはイエスさまの言葉の中でも最もポピュラーな言葉であり、様々な教会の案内板やパンフレットにも一番目立つところに記されていることの多い聖句でもあります。

私たちはこの言葉の中に、そして重荷を負うて苦しんでいる者をご自分の懐に招いてくださるさるお方の中に、私たち自身の居場所を見出すことができるのです。心からホッとすることができる場所を主イエスは私たちのために用意してくださった。この場合も、空間的な場所というよりも、イエスさまご自身との関係の中で私たちは慰めを受け、安らぎを得ることができるのだと思います。ヘブライ人への手紙の13:8には次ような言葉があります。「イエス・キリストは、きのうも今日も、永遠に変わることのない方です」。主はきのうも今日も、永遠に変わることなく、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と苦しむ者、居場所を見出すことができずにいる者たちをご自身のもとへと招いておられるのです。「主こそわが隠れ家であり、わが砦」なのです。キリストを信じる信仰こそ、私たちの居場所であり、心からホッとできる場所であるということを知る者は幸いであると言わなければなりません。

教会が避難所

私たちは日曜日になるとこのように礼拝に集ってまいります。それは私たちが主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの居場所が用意されているということを知っているからです。月曜日から土曜日までは出向していた船が日曜日には母港に戻ってきて、休息とエネルギーを供給するように、私たちはこの主日礼拝に出ることを通して、キリストの私自身に対する招きの言葉を聞き、主が私を休ませてくださるために、何をなしてくださったのかということに思いを馳せるのです。

先日読書会で中野孝次の『清貧の思想』を読みましたときに、堤毅さんがこう言われたのをお聞きして心に残りました。「聖餐式の時にいつも感じることは、私たちの清貧はここにこそあるのだということです」と。少し説明が必要かもしれません。私たち自身の貧しさをその身に引き受け、あの十字架にかかってくださったお方の中に、私たちを生かす力があり、それを私たちは礼拝を通して繰り返し繰り返しいただいているのだということでありましょう。

イエスさまとの関係の中で私たちは自分の安らぎの場が備えられている。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(口語訳「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」)。

くびきとは家畜に鋤や鍬などの農具を引かせるために首に背負わせる木です。ピッタリしていないとなかなか労働がつらい。名説教家で知られる植村正久は、ナザレのイエスの作ってくれるオーダーメイドのピッタリしたくびきのことだとその説教の中で語ったことがあるようです。雪ヶ谷教会の星野先生がそうおっしゃっておられました。また、くびきには二頭のウシを並べてかつがせたようです。旧約聖書の中には異なった種類の家畜を一つのくびきにつけることは禁じられています(申命記22:10には「牛とろばとを組にして耕してはならない」とある)。キリストの軛とは、片方はイエスさまが背負ってくださり、もう片方は自分で背負うようなものなのでありましょう。主ご自身が私の重荷を背負ってくださる。主の軛は負いやすく、その荷は軽いと言われるのは、主が私と(四国のお遍路様ではないですが)同行二人で歩んでくださることを意味しています。

キリストの声

先日、ベテル聖書研究の中で、神さまの声やイエスさまの声を聴いたことがあるかという話題になりました。パウロ自身は少なくとも二度聞いていると聖書は記しています。最初は、使徒言行録(使徒行伝)9章の有名なキリスト教の迫害者サウルの回心の場面です。「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」「主よ、あなたはどなたですか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(9:4-6)。二度目は2コリント12章の、これまたよく知られた「肉体の棘」の場面です。それが何であったかは分かりませんが、肉体の棘と言うくらいですから、それが激痛を伴う病気であったことが容易に想像できます。パウロが三度、真剣に、徹底的に、主にこのとげを取り除いてくださいと祈る。その祈りに答えるかのように主のみ声をそのどん底でパウロは耳にするのです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12:9)と。

皆さんはキリストの声を直接お聞きになられたことがあるでしょうか。私はありませんが、パウロはあった。ある方はベテル聖研の中で「自分は聞いたことがある。あることで苦しんでいた時に、歩いていたら背後から『わたしがあなたの重荷を取り去ろう』と言ってくださる声が聞こえた」、とおっしゃってくださいました。するとスーッと肩が楽になったのだと。たいへんに印象的なエピソードです。

私たちは人生のただ中でキリストの招きの声が響いてくるのを知ることがある。ある時にはそれは聖書から響いてくるかもしれないし、ある時はそれは礼拝説教や聖餐式においてかもしれません。またある時には様々な人を通してかもしれないし、大きな出来事を通してかもしれない。大自然の恵みや、芸術や文学作品を通してかもしれません。しかし、いずれにおいても言えることは、私たちが重荷を負うて苦しまなければキリストの声は聞こえてこないように思います。

全地は天空のハーモニーに満ちていると言ったのはギリシャの数学者であり哲学者であったピタゴラスでした。全地にはもしかするとキリストの「I love you」という声が響き渡っているのかもしれません。それは私たちが耳を澄ませないと聞こえてこない。心をキリストに集中させなければ聞き取れないぐらい小さな響きかもしれない。もしかすると苦しみや悲しみの中で、私たちが自分の小ささ無力さにうなだれるとき、初めてそれが私に向かって発せられているキリストの声として響いてくるのではないか。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

このキリストのみ声の中に、このお方との軛を背負い合う関係の中に、私たちのための居場所がある。心からホッとできる安らぎの場所がある。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」(イザヤ42:2-3)。

重荷を担い合う交わり

パウロは書いています。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と(ローマ12:15)。また、こうも言っています。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(1コリント13:1-3)。

この「愛」とは人間的な愛ではなく、神の愛(アガペー)、主の愛を意味しています。このアガペーの愛が私たちを結びつけるのです。キリストの愛こそが私たちを結びつける新しい絆となる。私たちは「神の家族」であり、ここは「神の家」です。重荷を負うて苦しむ私たちに主はこのような憩いの場所を与えてくださった。キリストとの関係の中で私たちは心からホッとすることが赦されているのです。教会は重荷を担い合う交わりの場所です。これは大きな恵みです。

この恵みがお一人おひとりの上に豊かにありますように。 アーメン。

(1999年 7月25日)