「フィンランドで出会った人々」 依田早苗

結婚後日立に移り住み、教団の日立教会にお世話になっているが、幼いときからむさしの教会に親しみ母が生きている間は籍を移さず通いたいと思いつつ現在にいたっている。月一度のいとすぎの集いをせめて大切にしようと努めている。教会員の方々の祈りにこの旅が支えられていると思うと、心がひきしまるものがあった。

北ドイツ、ルター派の地へは、バッハ生誕300年という時に、青山四郎牧師夫妻、教会関係者と共に訪れ、その折りに立ち寄ったオスロでは、教会員宅に息子と共に泊めて頂き、以来クリスマスカードの交換がまだ続いている。このように、キリストを中心とした世界枠の大きな家族を再び実感したく参加を申し出たのだった。折しも、前日のいとすぎ集会の時、大柴先生がフィンランド日本宣教100年記念リーフレットを下さった。91人にも及ぶ宣教師の方々が100年間に日本へ派遣され働いて下さっている。その後方に多くの信徒の支えがあることに感動を覚えた。

そのお一人であるヨハンナ・ハリュラさんの帰国中に訪問の計画が実現。ご両親をはじめ教会員の方々の行き届いた準備とおもてなしに、心やさしいフィンランド気質を感じた。日本が以前は同じように持っていた筈のものが残っている。機械化、能率化、学歴向上のために疎んじられる労働や手仕事。奉仕の精神。そして家族のまとまり。親孝行。年輩を大切にする。素朴な心。もてなしの心。それは又自然の風景と全く調和していた。手を加えない湖や白樺のたたずまい。木造家屋のあたたかさ。

迎えて下さったハミナの町とは、ヴェカラーティ市の中心をいうらしい。旧市庁舎を中心に、8本の道路が放射状に広がり星形をしている美しい場所だ。

滞在中4軒のお宅を解放して下さって、心のこもった昼食や夕食を頂きながら、ご家族の皆さんと歓談した。ハリユラ家には日本の思い出の品々が所狭しと飾られていた。

全行程をレンタルバスの運転をして下さったマルコ・ナッキさんの家とそのお兄さんの家にお邪魔した。ナッキ家訪問の際、地下の仕事場を見せていただいた。使用済みの布地を裂いて横糸にした絨毯、刺繍の作品やレース編など沢山の製品が展示されていた。教会のために、宣教資金のために生産しているのだ。このような奉仕の積み重ねにより、ひいては遠く日本の地にも伝道が行える資金になっていたのかと、私も及ばずながらそのいくつかを求めて献金させて貰った。

お別れの時、ヨハンナさんのお母さんも、おそらく寒い冬の夜長に、こつこつ製作されたのだろう、レース編みのテーブルセンターと、白樺の表皮で作った可愛らしい十字架を添えて、私達一人一人にプレゼントして下さった。

フィンランドは隣国スウェーデンとロシアに長期に亘って痛めつけられていたことを知った。ハミナから30キロでロシア国境となる。ヴィロラテイは戦場の様子をそのまま残してある所だった。ロシア軍の戦車を阻止する為に人々が協力して石のバリアを築いている様子も展示室に示されていた。重い石を一つ一つ人の力で運んでは埋める。今は苔むしていたが、このバリアにかけた努力は当然ながら、敵軍の脅威となったそうだ。

日曜礼拝も印象的な物だった。この日は戦没者追悼祈念日礼拝にあたり、男性のみのクワイヤで礼拝が始まった。このヴェカラーテイ教会は、白とグレーがかった薄緑の色調も落ち着いて清楚な感じのよい内装だった。クルカ牧師と、若い女性のマチルダ.パッサネン牧師による司式と説教そして聖餐式が執り行われた。大柴牧師発案の、世界宣教の為の献金の蝋燭(1ユーロ)を点火した。聖壇の前に半円の聖餐台があり、あらかじめカップが伏せてある。その前にそれぞれ膝まづきカップを置き直して葡萄酒を頂く。説教はルター時代と同じように、左脇の柱の説教台に昇って行われた。ただし理解出来たのはJAPANの一言だけであった。可愛らしい式文。礼拝順序は同じなので少しずつ馴染んでいった。

リリ・ヨハンナさん、アンテロ・ヨハンナさん、マルコ・ナッキさん、コンピューター専攻の大学生で休暇をとって英語で交流して下さるために滞在中同行して下さった娘さんのピルヨ・ナッキさん、その他の皆さんに、心からのお礼の気持ちを伝えたいと思っても、教えて貰った唯一の言葉「キートス」(ありがとう)だけしか言えなかった。しかし心をこめての一言は通じたことと信じている。出発前には想像もしていなかった沢山の刺激と思い出をいただいた。それはいつまも私の心に残るだろう。

(編集委員会:元原稿から抜粋させて頂きました。)

 (むさしのだより 2003年 7/8月号より)