<なまけクリスチャンの悟り方>No.4 NOBU市吉

私たちクリスチャンは、仕えるように神から召されている。世において、教会において(望むらくは、家庭においても)。しかし、仕えればそれが義とされるというような直線的なものではない。否、仕えるのは恐ろしいことである。その業に携わることに自分は相応しいかという不安が襲う。そして、実際、仕えることを通じて、《思いと言葉、行いと怠りとによって》、自分が多くの罪を犯すことを正に思い知る。そう思うと、仕えるのは辛いことであり、足が竦(すく)んでしまい、一歩を歩み出せなくなる。ほんの3年程前まで私もそうだった。

しかし、私たちは《仕えることが許されている》。この言葉がある日、心の中にフッと降りてきた。「あっ、そうなんだ。」その時から、自由な気持ちで仕えることが出来るようになった。私たちは罪から逃れられない身でありながら、恵みを受けて生きて行くことを許されている。それと同様、私たちは過ちを犯しながらも仕えて行くことを許されている。

勿論、仕えることは依然として責任を負うことである。仕えることが許されているというのは、過ちを犯して構わないということではない。決してそうではない。むしろ反対に、仕えることが許されているという確信は、自分の姿を素直に、時に厳しく見つめることを可能にする。それは、救われているからこそ自分の暗黒を見つめられるのと同様である。

仕えるというのは自分の好きな事、良しとする事をすることではない。自分中心から相手中心になること、それが仕えるということである(巷にあっても、売り手の都合中心のサービスは顧客に見抜かれるであろう)。仕える作業を通じて、人は自分の罪を具体的に認識し、自分中心の世界から少しずつ外に向かって行ける。

このように、仕える業は自分の罪への具体的気付きへの契機となる。これは律法における事情と似ている(ローマ7:7「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう」)。仕える業が義とされる為ではない点において、律法と根本的に違うようでもあるが、実際には旧約には「律法を守ることにより義とされる」という思想は希薄に見える。自分が義とされることへの熱心は、恵みの出来事が遠い過去の記憶となり、今此処で明確な形で確かめずにいられなくなったファリサイ派など後世の人々の強迫観念とさえ思われる。

そして、仕える相手やこの世から偽善その他の誤解を受けたとしても、私たちは仕えて行くことができる。相応しい者だからではない、義とされるためでもない。キリストの許された業として仕えてゆけるのだろう。

有名なタラントの譬え(マタイ25:14以下)の中で、僕の一人は主人から預かった1タラントを、恐ろしさの余り、地に埋めて隠してしまった。この僕のような、罪を犯さぬよう何もしないという消極的な生き方から、キリストは私たちを解放して下さる。過ちを犯しながらも外に向かって歩み出して行くことを、キリストは許している。そのために私たちをこの世から召し出し、その私たちを再びこの世に押し出している。虹を見上げ、不完全であっても一歩一歩が祝福されていると信じ、歩み続けたい。

(むさしのだより2004年7/8月号より)