「<なまけクリスチャンの悟り方>No.6 一つの喩え」 NOBU市吉

なまけクリスチャンの悟り方~No.6 一つの喩え”The Reality of the Imaginary”   NOBU市吉





 

今回は、躓きの石、神は人間が創造したという説、神の国、キリスト者の自由について、一つの譬えをもって語りたい。美しい譬えと思うが、とっつき難いのが玉に瑕である。さて。

皆さんは虚数iを聞いたことがあるだろうか。自分自身と掛け合わせて(自乗して)マイナス1になる数のことである。中学では負の数を自乗しても負にならないと教えたのに、高校になると今度はそういう数があると言う。自分の都合で数を作りだして良いのかと、数学教師不信に陥り、教師不信は成績不振につながった。私に限らず、虚数が躓きの石になった人は多いと思う。

ところが、この虚数は素晴らしい実をもたらすのである。実数(普通の数)は直線上の点として表せるが、実数と虚数を組み合わせた数《複素数》は平面上の点として表せる。そして、複素数の加減乗除は、平行移動・比例拡大・回転といった幾何学的操作に対応する。例えば、x5=1は、「5倍回すと1周」という意味になり、これを解くと正五角形が作図できる。「へエー」である。実数の世界では、x2+1=0のように、解のない方程式があったが、複素数の世界では「全ての方程式は解を持つ」という美しい定理(代数学の基本定理)が成り立つ。さらに、複素数を舞台に調和に満ちた世界が展開する。実数の世界で不完全だったものが、複素数の世界ではより完全な姿となるのである。そして、この世界の物理法則は複素数なしでは表現できない。

最初、虚数は恣意的で人工的な数と思われたが、その先に豊かな世界が広がっていた。それは初めからそこにあった。人間は虚数を通じて、世界の本質を開く鍵を発見したのである。

この世と神の国の関係を、この実数の世界と複素数の世界の関係に喩えてみたい。神の国はこの世と無縁ではない。それは、この世を包み、この世で不完全だったものが完全になる世界ではないか。

マルクスやニーチェに影響を与えたフォイエルバッハという哲学者は、「神が人間を創造したのでなく、人間が神を創造した」と主張した。そうかも知れない。それで構わない。人間が見出した目に見えないものが世界の謎を解く鍵かも知れないことを虚数は教えてくれる。そして躓きの石の先に開ける驚くべき世界があるということを。

この世は大小・右左などの一次元思考が支配しているが、神の国には、「天に宝を積む」という新しい自由度がある。興味深いことには、実数の解なのに複素数を使って初めて表せるものがある(遠山啓「数学入門(上)」岩波新書、p216)。神の国の自由によって実現できるこの世的価値があることを示唆していないだろうか。クリスチャンの働き方のヒントになる気がする。


(むさしのだより2004年10月号より)