修養会主題講演「人生の最後をどう生きるか~ホスピス研修で学んだもの」 大柴譲治

むさしの修養会主題講演「人生の最後をどう生きるか~ホスピス研修で学んだこと」
2004/9/19  大柴 譲治





 

「空の空、空の空、一切は空である」
(コヘレト/伝道の書1:2) 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
(ヨブ1:21)

 

<はじめに>

6/07から8/18までの11週間、私はカリフォルニア州サンディエゴにあるVITAS HOSPICEで三度目の臨床牧会訓練(CPE)を受けた。7つの介護施設に入所する15人の患者を担当し、チャプレンとして週一度のペースで訪問した。米国でのホスピスはそのほとんどが在宅ケア。医師によって余命半年と診断された者がホスピスケアを申請することができる。申請が認可されるとホスピスから医師、看護師、ホームヘルスエイド(ヘルパー)、ソーシャルワーカー、チャプレンが派遣され、ホスピスケアを行う。死にゆくプロセスの中で可能な限り患者のQOL(生命の質)が高くなるように支えてゆく。それがホスピスケアである。チャプレンは患者のスピリチュアルニードに答えてゆく。ペインコントロール以外に不要な延命治療は行わない。VITASではホスピスケアを受ける患者の平均日数は12日と聞いた。私が驚いたことの一つは、複数のホスピスで長く働いてきたチャプレンがこう確言したことだ。「死に行く人は死のプロセスにおいて最後までイニシアティブを持っている。」「死ぬ瞬間は(愛する者への配慮から)当事者自身が選ぶ。」これは、遺された者を悔いから解放する言葉でもあろう。以下にこの研修を通して考えたことを少しまとめてみたい。

 

<今をどう生きるか>

茶の湯には「一期一会」という言葉がある。英訳するとこうなる。”Treasure every moment, for it will never recur.” 悔いのないように今を大切にして生きる。これしかない。実は「どう死ぬか」という問いは「どう生きるか」という問いと表裏一体なのである。満ち足りた死を迎えるためには満ち足りた生を生きる必要がある。従って「人生の最後をどう生きるか」という問いは「人生の今この瞬間をどう生きるか」という問いと不可分である。今回、私のCPEスーパーバイザーのJohnは二年前に胃ガンを患うことで、今この瞬間を大切にすることの重要性に気づいたのだと教えてくれた。終わりを意識することでかけがえのない今を大切にすることができる。終わりの時に備えてできるだけ多くの心の通い合う友達を作っておくこと、できるだけ強い家族の絆を形成しておくこと。これが何よりも重要と考える。人生の最後には他者とのつながりの深さ、つまり愛こそが大きな支えになるのだから。

 

<余命半年の命だとしたら>

私たちがもし余命半年の命と宣告されたらどうするであろうか。最初はパニックになるかもしれないが、きっと自分の限られた命を大切に使いたい、最も価値あるもののために使いたいと思うであろう。何が価値があるかは一人ひとり異なろう。しかし、今のかけがえのなさは万人に共通である。その意味で「今日したいこと(すべきこと)を明日に延ばすな」と奨めたい。主の「野の花、空の鳥を見よ。明日のことを思い煩うな。」という言葉をも想起させられる。

 

<死に対する恐怖>

なぜ私たちが死に対して恐怖を感じるのか。これにはいくつかの理由が考えられる。第一は肉体的な苦痛を予感するからであろう。現在はペインコントロール技術が発達しており、無意味に苦しむ必要はない時代となっている。ほとんどの痛みは薬によって対処できる。また、痛みから逃れようとするのではなく、痛みと向かい合い、痛みに集中することでそれを超越しようとする方法もある(S. レヴァイン)。家族などが痛い部分をさすってくれるだけで痛みが和らぐということも起こる。第二は未知の体験に対する不安。誰も死を体験した者はいない。そこでは死が自然の生命のプロセスの一部だと受けとめてゆくことが肝要となる。第三には孤独不安がある。人は死にゆくプロセスにおいて深い孤独を味わう。誰も代わりに死んでくれる者はいない。私は私自身の死を死ななければならない。しかしもし、死を迎える時に私の傍に友や家族が座してくれるとしたら、そこから大きな支えを得ることであろう。今のうちにできるだけ多くの心の通い合う友を作っておくことを奨めておきたい。第四は未完成の人生に対する悔いというものがあるであろう。やり残した仕事や和解できていない人間関係など、今のうちに対処しておくことが大切である。第五は愛する者との悲しい別離がある。この悲嘆予想は実際の喪失体験時の悲嘆を予め耐えやすいものとしてくれる防衛的な機能をも備える。そこでは死によっても終わることのない愛の関係、新しい相互関係の開始という理解が支えとなろう。質疑応答の中で出てきたことであるが、最後の審判に対する恐怖といったものも確かにあるかもしれない。これは「地獄にもキリストがいる」(ルター)と信じる以外には乗り越えられないと思われる。

 

<死の受容のために>

では、どうすれば死を受容することができるのか。まず、万人が死を迎えてゆくという事実に思いを向け、死が生の一部であり、死にゆくことは自然のプロセスの一つであるということを私たちは深いところで納得する必要がある。『葉っぱのフレディー』などはそのような立場から書かれていよう。またリビングウィルを書くなど具体的に準備をしておくことも肝要であろう。また、『死ぬ瞬間』のE.キューブラーロスは「死は成長の最後のチャンスである」と積極的に受けとめる。死にゆくプロセスとは人生を統合し完成させてゆく時でもあるのだ。

さらには、死を越えたものの存在を信じることができると大きな支えになる。CS. ルイスは次のように愛の超越性/不死性を洞察した。「そしてその上でどちらかが死ぬ。そしてわたしたちはこのことを、愛が断たれたもののように、踊りが途中で止められるように、花が運悪くそのくびを折られるように、何か先を切られてそのために本来の形を失ったもののように思うのだ。そうだろうか。わたしは死者もまた別離のいたみを味わうとしか思えぬのだが、もしそうなら(そしてこれは死者にとって煉獄の苦しみの一つだろう)、愛する二人にとって、また例外なく、すべての愛する二人にとって、離別は愛の体験のすべてに欠くことのできぬ一部なのだ。求愛の後には結婚が、夏の後には秋があるように、結婚の後にはそれがあるのだ。中途の切断ではなくて一つの段階、舞踏の中断ではなくて次の舞の型なのだ。わたしたちは、愛する者の生きているあいだは、その者によって『自己の外につれ出され』る。それからその舞は悲劇的な型にかわって、相手の肉体は姿を消しても、あいからわず自己の外につれ出されるようにならねばならず、ふたりの過去を、ふたりの追憶を、ふたりの悲しみを、悲しみからの救いを、ふたりだけの愛を、愛することに舞い戻るのではなくて、彼女その人を愛するようにならねばならない。」(CSルイス『悲しみをみつめて』p71-72)。実際、最近の悲嘆カウンセリングでは、愛する者の死後の存在について言及するものが多いと聞く。

 

<アイデンティティー~神からの是認>

自己のアイデンティティー(の一部)は死を越えて存続し続けると言える。自己のアイデンティティーは他者との関係の中で与えられる。私につながっているもの(家族や友、記憶、芸術作品等)が生き続ける限り、私のアイデンティティーはそれらの中に生き続けるのだ。また信仰の立場からは、永遠の生命の希望、死の向こう側にある希望、愛する者との再会の希望などが約束されている。『涙そうそう』ではないが、私たちが思い出すのは故人の笑顔ばかりなのだ。改めて笑顔施(和顔施)ということの大切さを思う。死にゆくプロセスの中で大切なことは、行為(Doing)の次元の喜びだけではなく、存在(Being)の次元の喜びを味わう感性を養っておくことであろう。そのためには「汝自身を知れ」と言ったソクラテスではないが、自己を見つめ、自己の弱さ、無力さ、限界を自覚することが大切となる。私たち一人ひとりの存在はユニークであり(unique)、特別であり(special)、かけがえがない(irreplaceable)。パウロは「われ弱き時にこそ強し」と告白したが、私たちの弱さにおいて働くキリストの力への信頼が求められているであろう。

「あなたはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者。」(マルコ1:11)。これは主の洗礼時に天から響いた声である。実は私たち一人ひとりにもこの神からの言葉は与えられているのだと思う。神からの是認を私たちは受けて生かされているのだ。私たちのアイデンティティーは自分の中にではなく、他者との関係の中に与えられてゆく。私につながる他者が逝く時、私自身の(アイデンティティーの)一部も死ぬのである。ボンヘッファーは獄中において揺れ動く気持ちを正直に「私は何者か」という詩の中に綴っているが、最後はこう結ぶ。「私は一体何者なのか。この孤独な問いが私をあざ笑う。私が何者であるにせよ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものである」。私たちの最も深いアイデンティティーは神との関係の中で与えられてゆくことをよく示している。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者。」この神の存在是認を深く味わい、この一期一会の生を共に楽しみたいと願う。

(2004年9月19日 むさしの教会修養会主題講演。むさしのだより2004年10月号掲載)