【説教・音声版】2022年12月4日(日)10:30  待降節第2主日礼拝  説 教 「洗礼者ヨハネより後から来る方 」 浅野 直樹 牧師



聖書箇所:マタイによる福音書3章1~12節

本日、待降節第二主日に与えらました福音書の日課は、洗礼者ヨハネの物語りでしたが、皆さんは、洗礼者ヨハネといえば、どんな姿を思い浮かべられるでしょうか。

まず聖書を見ますと、こうあります。4節「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」。これは当時においても、異様な風貌だったようです。そして、この風貌は、あの預言者の代表格のようなエリヤ(一人でバアルの預言者450人と対決したり、生きたままで火の戦車に乗って天に昇って行った、あのエリヤです)を彷彿とさせるものでした。

また彼の言動は預言者そのものと言えるでしょう。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と、罪を糾弾し、悔い改めを迫って行ったからです。皆さんもご存知のように、旧約聖書、特に預言書を読みますと、次から次へと嫌になる程裁きの言葉が出てきます。有名なあのイザヤの召命物語も次のように記されていました。

イザヤ書6章ですが、「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」。ここまでは良く知られている召命物語ですが、この後で、何の為にイザヤが遣わされるのかが記されているのです。「主は言われた。『行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。』」。

「悔い改めていやされることのないために」と言うのですから、これは裁きの言葉と言って良いでしょう。これは、現代人の私たちにはなかなか理解しづらいところですが(普通に言って、この民らが悔い改めて救われるように遣わされると思い込んでいるところがあるからです)、預言者とは、このように度々裁きを語るために遣わされていきます。むしろ、裁きなどない、と安心させるような言動は「偽預言者」と糾弾されるほどです。
このように、容姿・佇まいにおいても、また言動においても、彼・洗礼者ヨハネは預言者の系譜を引き継ぐ、預言者の中の預言者だと言えるのだと思うのです。確かに、そうだと思います。しかし、私は、それだけではない印象を強く持つようになりました。
ここでも度々話させて頂いたと思いますが、グリューネヴァルトの祭壇画(本来はイーゼンハイムの祭壇画と言いますが)を見たからです。この祭壇画のあまりの迫力に圧倒されて、しばらくその前から離れられなかったほどでした。今からもう20年以上も前になるでしょうか。30代の私は、その頃、別の教団の学生会を担当していたこともあり、3週間ほど、ドイツに研修旅行に行く機会がありました。

私自身はそれほど絵画などには興味がなかったのですが、一緒に行った同僚の牧師が非常に関心を持っていて、アルブレヒト・デューラーやルーカス・クラナッハなどの絵画を見るために、美術館などを巡り歩いたものです。そんな中、その同僚がどうしても、グリューネヴァルトの祭壇画を見たい、と言うので、車で結構時間がかかったと思いますが、ドイツ国境近くのフランスの小さな街、コルマールにありますウンターリンデン美術館に向かったのです。印象としては、薄暗くて、酒樽の倉庫のような雰囲気といった記憶がありますが、あまり乗り気でなかった私も、同僚に引きずられるようにして祭壇画の前に立ちました。そこには、凄惨極まるキリストの十字架刑が描かれていました。

今まで幾度となく宗教画を見てきましたが、これほど気持ちが重くなる絵は初めてでした。全身、何かの病気の痕のようなものがぶつぶつと描かれており、首がだらりと横に垂れて、唇は真っ青で半開き状態。まさに息を呑むような状態でした。以前作者はリアリズム(写実性)を求めるために、ペストで亡くなった方を参考にしたと聞いたことがあります。

『イーゼンハイム祭壇画』:マティアス・グリューネヴァルト(1480–1528) :ウンターリンデン美術館

ともかく、もちろんこの祭壇画を見にきた目的は、まさにこの磔刑のキリストだったわけですが、私自身はその左側に描かれていた洗礼者ヨハネにも思いを向けられたのです。聖書の記述通り、皮の毛衣を来ていて、左手に聖書を持ち、右手で磔刑のキリストを指差している洗礼者ヨハネの絵。もちろん、これは史実ではありません。イエスさまが十字架につけられた時には、すでにヨハネは処刑されてこの世にはいなかったからです。しかし、史実を超えて、聖書が言いたかったことをこの絵は伝えているのだ、と言うことが嫌と言うほど伝わってきたように感じたのです。それ以来、私にとっての洗礼者ヨハネとは、十字架のイエスを指し示す存在となっています。

先ほども言いましたように、この洗礼者ヨハネは間違いなく預言者でした。旧約聖書の預言者の系譜に属する、人々の罪を糾弾し、神さまの怒り・裁きを告げ、悔い改めを迫る、そんな預言者でした。しかし、このヨハネは、同時に「主の道を整え」るための使命を託されてもいたのです。だからこそ、洗礼者ヨハネはこのようにも語ったのです。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたがたに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。

わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と。ここでヨハネは、イエスさまのことを「わたしの後から来る方」と言っています。このヨハネの一連の言動については、様々な解説があるように、様々な解釈が成り立つと思いますが、ある方はここに、洗礼者ヨハネとイエスさまとの連続性と断絶性が込められている、と言っています。私も、そのように感じています。確かに、イエスさまはこのヨハネと共通性があることは間違いないことでしょう。
ヨハネが説いた「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は、後にイエスさまも宣教の言葉として、全く同じ言葉を用いておられることからも分かると思います。そういう意味では、イエスさまもまた、預言者の系譜に連なる存在と言えるのかもしれません。また、そういった理解がヨハネ自身にもあったからこそ、自分の後にくるイエスさまは、履物をお脱がせすることもできない程に偉大な方だ、つまり、自分よりもはるかに優れた超・超・超絶預言者なのだ、と語ったのだと思うのです。

そういう意味では、確かに、連続性がある。しかし、どうもそれだけではなかったのです。後の洗礼者ヨハネが戸惑ってしまう程に、です。これは、マタイ11章で記されることになりますが、洗礼者ヨハネはヘロデ・アンティパスの不正を訴えて、牢に閉じ込められてしまいますが、そこでも色々とイエスさまの噂さ、評判が耳に入ってきたのでしょう、直接会いに行くことができませんので、弟子たちを遣わして、こう尋ねるように指示しました。

11章2節、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」。耳に飛び込んでくる情報から察すると、どうもあのイエスは自分が理解しているようなメシアとは言い難い。ならば、自分が道備えとして遣わされたのは、このイエスなのか、他の誰かなのか、と戸惑っている様が浮かび上がってきます。ここに、断絶を見るのです。そうです。「わたしの後から来る」と言われるイエスさまの中には、少なくとも洗礼者ヨハネが理解していた救い主としての姿からすれば、連続性と断絶性がある、ということです。

今日の旧約の日課は、メシア・救い主がもたらす理想的な世界を描いたものと言えるでしょう。ある方は、それを絶対平和な世界と言っています。そうです。私たちはそんな世界を待ち望んでいる。しかし、メシア・イエスさまが来られたのに、こんな世界はちっとも実現されていないではないか、といった思いも浮かんでくるのです。先週はキリストの再臨について話しましたが、そのことを理解する上で大切なのは、「すでに」と「まだ」ということです。イエスさまの到来によって、神の国・天の国は「すでに」始まっているのです。

しかし、「まだ」完全とは言えない。完全・完成の時は、イエスさまの再臨を待たなければならない。私たちは、そんな中間点に生きている訳です。つまり、罪の問題がまだ完全にはクリアされていない世界と言えるでしょう。私自身は、最近では教会内でも罪の問題があまり取り上げられなくなってしまったことに危惧していますが、やはり罪というものは、この現代においても抜き差しならない問題だと思うのです。

先ほどは、今日の旧約の日課は、理想的な世界だ、と言いました。その理想的な世界に代表されるものは、子どもたちの笑顔ではないか、と思うのです。「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる」。そんな子どもたちを害するものが何もない世界。いつでも子どもたちが無邪気に、キャッキャッと笑っていられる世界。つまり、それとは逆の世界が罪の世界と言えるのではないか。子どもたちから笑顔を奪う世界が。大人たちの身勝手な戦争が、対立が、争いが、奪い合いが、際限のない欲望が、社会の中でも、家庭の中でさえも、子どもたちの笑顔を奪い取っていってしまう。それが、罪でなくてなんだろうか。そんなことを神さまは許しておかれるのだろうか。

罪は罪なのです。無視できないのです。それは、なんとかしなければならない大きな課題です。だから、預言者の言葉も必要になる。罪を無視しない。罪を明らかにし、悔い改めを迫る厳しき言葉も必要になる。それほどに、この世界は罪に呑み込まれているからです。しかし、それでは、それだけでは、私たちは、私たち人類は救われない。もし、ヨハネが言うように、イエスさまがそんな預言者の延長線上にだけいて、罪人を、役に立たない者たちを、悔い改めない者たちを、火で、大いなる裁きの炎で焼き尽くしてしまわれるような方ならば、誰が救われるのだろうか。

しかし、そうではなかったのです。確かに、正義という観点で言えば、不義なる者は火で焼かれるしかないのかもしれない。それも、厳粛なる事実でしょう。しかし、そこにイエスさまが私たちに先立たれ、私たちにその焼き尽くす炎が及ばないようにしてくださる為に、自らが炎に焼かれてくださった。燃え盛る炎の中に自ら飛び込んでくださり、私たちをお救いくださった。それが十字架。鈍感な私たちでさえも目を背けたくなるほどに凄惨極まりない十字架刑なのです。その十字架のイエスさまを指し示すのも、また洗礼者ヨハネの役目だった。少なくとも、私たちの先達たちは、そのように受け止めたのです。

正直、教会のクリスマスは、喜び一辺倒では済まされません。むしろ、心重くなることを礼拝の度ごとに聞かされることにもなる。巷のクリスマスの方がいいな、という思いにさえなるのかもしれません。しかし、このイエスさまのお姿を抜きにしたクリスマスは、一体何なのか、と思うのです。

ヨハネ自身思い描いていたように、本来は預言者の系譜でしかなかったイエスさまが、それを超えて、打ち破って、自らが厳しい罰を受けてくださって、救いをもたらす者となってくださった。そのことを、どうしても忘れてはいけないのが、私たち教会のクリスマスなのではないでしょうか。