命の価値はどこに? 賀来 周一

自殺者が2011年度まで過去14年間にわたって毎年3万人を越えるという統計が警察庁から発表されている。2012年度についても3月末までに6935名の人が自らの命を断っている。人間は生きる本能と共に死ぬ本能も持っているとフロイトは言う。だからといって、自死が肯定されるわけではない。
 あるユング派の心理学者が「人間の問題は、命が始まる前と命が終わった後のことも考えないと解決しない」と言ったことを思い出す。このような生命観は現代社会では通用しないかもしれない。だが、うなずかせるものがある。
 現代社会は、命を生きている間の営みとすることをごく普通に受け入れてきた。社会の構造も機能も価値観も生きている間のことを基準にして構築されている。命に対する考え方もそれに影響を受けている。命は精子と卵子の結合に始まり、細胞の代謝活動の停止をもって終わりとする。その後は何もないとすることに私たちは何の疑念も持たない。そして言う「命は一つしかありません。大切にしましょう」と。だが、命は一つしかないとは、それを消してしまえば後は何もないことにもなり、逃れ場のないほどの苦悩を抱えた人に死を答えとする道筋を提供することになっているのではないだろうか。
 高名な神学者バルトは、「死を願う人にあなたは生きるべきであると言ってはならない。あなたは生きることが許されていると言わねばならない」と言う。これが言わんとするところは、命は与えられたものだということである。
 分子生物学者として著名な村上和雄筑波大学名誉教授は「生きた細胞と死んだ細胞を比べると、その組成はまったく同じである。しかし、一方は生きており、他方は死んでいる。なぜだか分からない。現代科学は生きているのは代謝活動があるからだと説明する。それは、生命現象の説明であって、<なぜ>生きているかという根源的な問いには答えていない。宗教者は神や仏の働きと言うかもしれないが、私は生物学者だから、サムシンググレート(something-great)の働きだとでも言う以外にない」と語る。
 サムシンググレートとは、人間の知恵や力を越えた存在を意味する。その存在があって初めて、命があるということである。旧約聖書によれば、「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創2章7節)とある。これを子どもにとっては有益なお伽噺だが、大人にとっては単なる神話にすぎないとするなら、人の命が持つ根源的価値を見失う。
 一言で言えば、命は神からの賜物である。その意味において、命の質に優劣はない。長寿を全うしようが夭折の命であろうが、頑健な身体の持ち主であろうが明日知れぬ病いの床に伏す身であろうが、五体満足であろうが障がいを抱えようが、その命は神からの賜物である。その命を今日一日生きているのである。そしてまた、命が神の命の息に因るのであれば、人生途上で折れた命もなお神の命の息のなかにある。
(むさしの教会だより 2012年5月号)