(東教区出版部発行ブックレット『喜びごと悲しみごと』1976年 5月 1日より)
むさしの教会元牧師で、ルーテル学院大学元教授(牧会カウンセリング)
賀来周一牧師によるやさしいキリスト教冠婚葬祭入門です。
1-C. 世間とのかねあいとキリスト者の旗印
実のところ、このことがいちばん難かしいので、こっちはキリスト教なんだから、きっぱり割り切ってしまおうと思っても、いざとなるとやれ世間体、親族家族の感情、会社の同僚、地域の慣習とあって、仲々割り切れないものであう。人づき合いが悪いと思われたくないし、家族や同僚と気まずい関係になりたくないといった思いが先に立ってしまいます。
非常にはっきりとしたこと、たとえば、初詣に行って、拝殿におサイ銭をあげるとか、お酉さんに行って熊手を買ってかえるといったことは比較的容易に、それは私たちとはちがうことだと割り切ることはたやすいことです。まさか成田さんに行って、交通安全のお札を自分の車にはりつけるキリスト者はいないでしょう。ところが、私たちは、自分ひとりでいきているわけではありません。しかも日本という国にすんでいて、すでにいろいろな慣習行事がとりしきられている世間に生きているのですから、思わぬところで、世間のしきたりとぶっつかるのです。ワレ関せずと知らぬ顔の半兵衛をきめこむことはできません。いやでも、応でも、かかわらないわけにはいかないのです。
このような場合、二つのケースに分けて考えるとよいと思います。第一のケースは、私たちがいやでも応でもとにかく、そうしなければならないといった場合です。例えば、たまたま、新しい会社のビルを建てることになったが、地鎮祭は神式にきまっていて、どうしても出席しないわけにはいかないとか、親族の家で四十九日の法要があるといったたぐいのことです。私たちは、そんな時に、何となく、引っ込み気味の気持で出席することが多いものです。クリスチャンなのだから、こんな所にいてはいけないのじゃないだろうか、断わると後で困るし、仮病でも使って休めばよかったとか、何となく自分だけ気まずい思いでいることが往々にしてあります。それほどでなくても、仕方がないとか、止むを得ないとかいった気持が働くのではないでしょうか。
それでは、キリスト者であることがかえって無意味になります。私たちがつかわされている世界は、キリスト教的世界ではないのです。キリストとは何の縁もゆかりもない世界です。信仰的なものの考え方や、物事のとりしきり方があろうはずはありません。私たちがつかわされている世界は信仰に基づきません。その意味で私たちが、キリストと縁もゆかりもない世間のしきたりにさまざまの形でぶっつかるのは当たり前と言えます。
地鎮祭や法要は、私たちにとってもそうあるのが当たり前なのです。何しろ私たちがそんな世間に向かって、つかわされているのですから。ですから、私たちがキリスト者であるとは、そんな世間のしきたりに、いやでも応でもかかわるとき、止むを得ないとか、仕方がないといった気持でいては自分の存在を無駄使いさせることになります。むしろ、その場に、つかわされたキリスト者であることを考える方が信仰的です。
このことを考えるに当たって、パウロの言葉は、私たちに信仰的な在り方を教えてくれます。パウロはコリントの教会に向かって、「ユダヤ人にはユダヤ人のようになった。ユダユ人を得るためである。律法の下にある人には、私自身律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。弱い人には、弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして、幾人かを救うためである」(1コリント9:20以下)と言っています。だれが、これをパウロの便宜主義、妥協主義と言うでしょうか。パウロは自分がちかわされている世界をよく知っていて、ユダヤ人にはユダヤ人のようになったと言っているのです。と同時にパウロは自分自身がキリストを信じる信仰の持ち主であることもよく知っています。ですから、律法の下に自分はいないがとただし書きをつけているのです。パウロはこうして、自分がキリスト者であることの旗印を鮮明にし、かつキリストと関係のまったくない世界につかわされていることを知っているのです。このことは私たちにとっていろいろな所で考えられねばならないことです。たとえば、法事や、地鎮祭のような他宗教の行事であっても、キリスト者だからといって遠慮しないで、むしろ積極的に出て、もし機会があれば、聖書に基づいた、しかもそこに列席している人も本当にうなずけるような慰めの言葉や、お祝いの言葉を語ることもできましょう。こういう所では、通りいっぺんの挨拶が多いものです。キリスト者として語ることが、たとえ、信仰者であるとわざわざ言わなくても、思わず胸を打つ言葉になっていることは多いものです。また他宗教の行事と言えば、仏式の葬儀に出る機会も多いものです。時どき焼香はするのですかという質問を受けます。聖書によれば、香をたいて祈ることも記されていますが(ルカ1:9)、仏式の焼香は魔をはらうという意味をもっています。どうしても止むを得ない場合は別として、キリスト者としては原則的には、焼香をせず、遺族の慰めを祈るようにした方がよいと思います。(編集者註:もちろん、これとは異なる立場もありうるでしょう。)
もう一つのケースの場合を考えて見ましょう。今まで述べたことは、大きな集団とか、社会全体の慣例となってしまっている場合でしたが、それとちがって、個人の判断の在り方によっていろいろな都合、不都合が生じることがあります。
たとえば結婚話がでたけれども、キリスト者であることが破談の原因になるとか、亡夫の供養の話がでたが、一族郎党すべて教会と縁がなく、教会で記念会をすると爪はじきにされそうだとか、赤ん坊が生まれたがどうしてもお宮まいりに行かねばならないということがあります。このような場合、私たちは先づ何よりもよりよく理解をして貰う努力を怠ってはならないのです。理解をして貰うための最低の基本線は、自分自身が教会に行っていることを日頃から知って貰うことです。家族が本人の教会行きを知らないでいると、本人が死んだとき、牧師さんに連絡もなく、仏式で済ませるといったことも起ります。現に、そんなことが起っています。理解をして貰うための努力、これを先ず最初にすることが大切です。それをしないでおいて、教会で結婚式をすると言えばきっと反対するだろうとか、供養は仏式でないと親族が満足しないだろうとか、先取りをして考えるのは禁物です。けれでも、私たちは案外、こちら側で相手がノンクリスチャンだから、言うことを聞いて貰えないだろうと、思いこんでいる場合が往々にしてあります。話はして見るものです。余程のことでないかぎり、それではそうしようと言ってくれるものです。そのことが、信仰の旗印をきちんとかかげることになります。
ここに二人の女性の結婚に関する例をあげて見ましょう。
ある一人の女性は、たまたま結婚話がでて、相手と交際を始めたのですが、どうしても、自分が教会に行っているのを切り出せません。もし、自分がクリスチャンだと分れば、きっと結婚できないだろうと自分の方で思い込んでしまいました。そのまま、牧師さんや、教会の人たちにも黙っていたため、教会で結婚式をといった話はつい一度も出ないまま、神前結婚といった世間なみのしきたりになってしまいました。牧師さんも、教会の人にも知らせなかったため、ご本人も何となく、気まずくなって、教会にはそれ以来バッタリといった方がありました。
ことは結婚式にかぎりません。思い込みというのはたいへん禁物です。こちらがクリスチャンと言えば、相手がきっと奇異に感じるだろうとか、反対されるにきまっていると思い込む人が以外に多いのにおどろきます。たとえ、仏事であっても、年中行事のたぐいであっても、キリスト者としてこうしたいという希望がある時には、思い切って、キリスト者であることをあきらかにしておきたいと思います。キリスト者としてではない「しきたり」が当り前になっている社会に生きているのですから、黙って放って置けば、そのままになってしまうのは当然です。先ず何よりも、自分がキリスト者であることを告白する、それは勇気と決断のいることなのですけれども、そうすることが私たちのつとめでもあるのです。そして、道は意外に開けます。はっきりと告白することによって、相手もまた、その立場を知るのですから、その積りで扱ってくれるものです。もちろん、すべてが思うようになるとは限らないにしても、今後のことを考えれば、ぜひはっきりさせておきたいものです。たいていの場合は、結婚式にしても、葬儀にしても、キリスト教に反対だからという人は少いものです。むしろ、何も知らないことが、キリスト教では、といった反対の原因となっていることが多いのですから、問題が起ったときは、教会の役員の人、又は牧師さんにぜひ相談にのって貰って、場合によっては、たとえ、遠方でも行って貰うぐらいの気構えが欲しいと思います。だれでも喜んで協力するでしょう。
もう一人の女性は、ある大きな旧家の一人息子と結婚することになりましたが、相手が旧家だけあって、なかなか伝統的なしきたりにうるさいのです。やれ、親族の顔を立てるとか、地域の顔役なので、土地の風俗に従わねばならないとか、いろいろ面倒なことが起ってきました。相手の男性は、もちろん彼女がキリスト者であることを知っていますし、彼もそんな面倒なことは嫌いで、彼女の望むようにさせたいのですが、周囲の状況はそれを許しません。まさか、駆落というわけにはいきませんので、二人の気持は望まないけれどもということを、はっきり家族や両親に告げて、神前結婚という運びになりました。けれども、その後、二人は教会に来て、もう一度、結婚式をやり直したといったことがありました。どうしても、自分の望むようにはならないといった場合はあると思われます。しかし、自分がキリスト者であると告白して、どうにもならない場合と、キリスト者であることをかくしていてどうにもならなく場合とはまったくちがいます。たとえ、どうにもならない場合でも、キリスト者であることをはっきり告白しておくことは、今後のためによい結果を生みます。本人の信仰や、教会生活についてはもちろん、家族や親族も次第に分ってくるものです。そのためには、よい理解者がたえず必要です。結婚の場合、とくにそれは相手に求められます。相手が男であれ、女であれ、そのような立場におかれた場合には、相手のキリスト者である立場をよく理解する人でなければならないのです。その他の場合であっても、事が面倒であればある程、自分の立場をよく理解してくれる人物を必要とします。ひとりでくよくよするのが何よりいけないのです。
結婚に関する例を引いて、私たちが、しきたりの中で、自分の側の決断によって、事態に対処することを述べましたが、葬儀、供養、家の慣例、地域の習俗に関しても、同じようなことが起るのではないでしょうか。ここに述べた原則的なことをぜひお考えいただきたいと思います。
第一、自分がキリスト者であることを明白に告白すること。
第二、今後の自分の信仰、とくに教会生活、教会とのつながりがうまくいくことを考えて事に当たる。
第三、自分の立場に対して、よい理解者を得る。
聖書は安易な妥協はゆるしませんが、信仰にある苦闘は主の賜物と言います(ピリピ1:29)。おそらくは、多くの方が信仰的でないあるいは信仰的となり得ない「しきたり」とぶつかって苦しんでおいでかと思います。しかし、その苦しみが、自分の側の思い過ごしや、思い込みによるのでなく、信仰のゆえの苦しみであるなら、受けて立つ苦しみではないでしょうか。パウロはまた「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」(2コリント6:8)と言います。神の僕であるとは、ほめられる、好評を受けることだけでないのです。そしられる、悪評を受けることもあります。何もそれは世間からといった場合だけのことではありません。場合によってはキリスト者の側から、そう言われることだってあるかも知れません。しかし、あらゆる場合に、神の僕として自分をあらわしている(6:4)信仰、それを保ちたいものです。