信仰と文学

D・H・ロレンス 『息子と恋人』

佐藤 義夫

『息子と恋人』は1913年に出版されたD・H・ロレンスの自伝的な作品で、主人公、ポール・モレル(ロレンスがモデル)のほろ苦い恋愛を通して彼の青春が描かれている。彼の初恋の相手はミリアム(ジェシー・チェンバーズ=ロレンスの初恋の女性)である。

ポールは自分の母親に連れられてウィリー農場に出かけた。そのときにミリアムと知り合い、彼女と共に文学や美術について語り合う間柄になった。彼は彼女に代数などを教えているうちに、いつしか彼女の美しさに魅せられて深く愛するようになった。しかし、彼は母親に反対されて彼女を諦めなければならなかった。

彼の母親のモレル夫人は炭鉱夫の夫と喧嘩が絶えなかった。母親は組合教会に通う熱心な会員で、夫には絶対禁酒主義者となることを勧めるのだが、彼は酒飲みで仕事の帰りにパブに寄ってビールを飲むのが何よりも楽しみであった。彼が酒に酔って帰宅すると、妻と激しい喧嘩が始まる。母親は夫に愛想をつかし、愛する対象を夫から子供に向け、子供に自分の夢と希望をかける。ポールも父親の暴力から母親を守らなければならないと意識するようになった。ポールは母親を恋人のように愛し、母親の意向に従って生きるようになった。

男性が恋愛をして結婚をするというのは、精神的には母親を殺し、愛する女性に愛情と信頼とを向けることである。しかし、男性にとって母親は大切な存在であって、愛情を恋人の側に向けたからといって母親を無視することはできない。いままで自分の面倒をみてくれた母親に対してつれない態度をみせることはできない。

ポールに見捨てられたミリアムは実にかわいそうな女性で同情に値する。しかし、父親の暴力から母親の身を守ろうとしたポールが、母親の意向を無視することができなかった事情もよく理解できる。母親が息子を愛するのは自然だが、息子が自立するのを妨げるほどに猫かわいがりしてはいけない。それは、鳥の羽根を切って鳥籠の中に押し込めてしまうのに等しいからである。この小説の提起した母と息子の関係は今もなお未解決な大きな問題である。

 

(日本福音ルーテル教会機関誌『るうてる』1998年 3~8月号に掲載されたものです)

ジョージ・オーウェル『パリ・ロンドン放浪記』~貧窮生活の体験

佐藤 義夫

1933年に出版されたジョージ・オーウェルのルポルタージュ、『パリ・ロンドン放浪記』はパリ編とロンドン編との二部から構成されている。

オーウェルはイートン校を卒業してからビルマのインド帝国警察で警察官として四年半勤務した後に、イギリスに戻った。彼は大英帝国の植民地支配の手先となったことに対して罪の意識に苛まれた。その罪を贖うために、浮浪者、乞食、娼婦などの最下層の人々と接して彼らの声を代弁することが義務であるように思えた。パリ編では、彼がホテルやレストランの皿洗いとして働いた感想などを交え、スラム街で貧しい人々の生活を映し出している。

ロンドン編では、簡易宿泊所やスパイクと呼ばれる浮浪者収容所などで生活している乞食や浮浪者などを描いている。 作者はこの本の冒頭で貧窮とは何かを描きたかった、と言っている。貧窮の生活が退屈で、さもしい精神に人を追いやることを詳しく描写している。私がおもしろいと思ったのは、貧窮の生活よりもパリのスラム街で生活しているエキセントリックな(中心からはずれた)人々の生き方である。チャーリーは名家の出で教育もある、紅顔の美少年。酒に酔うと「人生はかくも美しい」と言って自分の愛を人に語る。その愛とは、兄の金を盗んで酒蔵のような造りの売春宿に行き、「情け」を請い求める娘をベッドから引きずり出し、虎のように襲いかかったときの体験談である。彼はこれこそが愛である、と強弁する。また、お酒を飲んで詩を朗唱したりもする。フルーはリムザン州の石工。彼は素面のときは熱心な共産党員で、酒に酔うと狂信的な愛国者に変わる。酒場で人に唆されると、戦争で受けた傷口を見せながら、愛国的な調子で演説をぶつ。そのあとラ・マルセイエーズを歌い、「武器を取れ」などと大声をあげる。

オーウェルはこのような奇人・変人を巧みに描きながら、自らの体験談を語る。私はこのような生活を送ったことはないが、読んでいるうちに貧窮の疑似体験をしたような気持ちになる。この作品は、貧窮の重大さを伝えてくれると同時に、ファンタシーの世界に読者を誘ってくれる。

 

(日本福音ルーテル教会機関誌『るうてる』1998年 3~8月号に掲載されたものです)

D・H・ロレンス 『牧師の娘たち』

佐藤 義夫

この作品は1911年に「二つの結婚」として書かれた。後に「牧師の娘たち」と書き改められ、14年出版の『プロシァ士官』という短編集に収められている。

リンドリー牧師のメアリーとルィーザという二人の娘の対照的な結婚をテーマとした短編である。メアリーは父親の病気のために牧会の手伝いに来てくれたマッシーというオックスフォード大学を出た見習いの牧師と結婚する。マッシーは背が低く風采のさえない若者であるが、熱心に伝道に励み、メアリーの尊敬を勝ち得るけれども、ルィーザには姉の結婚が気に入らなかった。というのは、メアリーがマーシーを心から愛しているのではなく、一家の家計を救済するためにやむなく彼女の肉体を犠牲にして結婚した、とルィーザには思えたからである。ルィーザは愛する人と結婚するのでなければ、男女が一緒になる意味はない、と考えた。彼女はアルフレッド・デュラントという炭鉱夫との結婚を決意する。アルフレッドは、生命に満ちあふれた、かつてはイギリス海軍に籍を置いた、筋骨たくましい炭鉱夫であった。当然のことながら、身分の違う結婚ということで彼女は両親から強く反対されが、アルフレッドとの愛を貫く。リンドリー牧師は自分の体面を気にして、彼らの前で同じ教区に住むことはできない、と言う。アルフレッドはルィーザと一緒にカナダに移民することを約束して、ようやく父親の許可を得る。

この作品はロレンスの初期の短編ではあるが、階級の障壁を乗り越えて男女が結ばれるというのは、彼の最終作品『チャタレー夫人の恋人』のテーマに通じている。また、アルフレッドは炭鉱夫でマッシーのように高い学歴はないが、生命力に満ちあふれた、人に温かい思いやりを持った人間として描かれている。アルフレッドはロレンスの心に描く理想的な人物であろう。ロレンスは自伝的小説、『息子と恋人』の中で、ポール・モレルという主人公に「人間の違いは自分たちの属する階級にあるのではなく、自分自身の中にある。中産階級からは観念だけしか得れないが、庶民からは生命そのもの、温かさが得られる」と言わせている。このアルフレッドには、炭鉱夫であったロレンスの父親の面影も読み取れる。

 

(日本福音ルーテル教会機関誌『るうてる』1998年 3~8月号に掲載されたものです)

ドストエフスキー 『悪霊』

佐藤 義夫

この小説(1871-72)はロシアの革命家ネチャーエフが起こしたリンチ殺人事件を下敷きに作られている。小説のタイトルはルカによる福音書の第八章で、悪霊にとりつかれた豚が湖に入って溺れ死ぬという記述から取られている。

熱狂的革命家のピョートル・ヴルホヴェーンスキー(ネチャーエフがモデル)が「五人組」の革命的秘密結社を作って革命思想を広めるが、転向した仲間の青年、シャトーフを射殺してその手足に石の重しをつけて池に沈めてしまう。ピョートルは「五人組」の中の一人、キリーロフ(人神論の信奉者)にこの事件の責任を負わせる遺書を書かせて自殺に追いやり、自らは町から逃亡してしまう。

一体、何が悪霊なのかと言えば、無神論的革命理論ということになるだろう。ドストエフスキーが1870年10月にマイコフ宛の手紙で、以下のように言っている、「(福音書と)そっくり同じことが、わがロシアでも起こりました。悪霊たちはロシアから出て行って、豚の群れの中に、つまりネチャーエフやセルノ・ソロヴィヨヴィチといった連中の中に入ったのです。彼らは溺れてしまったし、でなくても確実に溺れ死ぬでしょう。(中略)友よ、銘記してくださいー自身の国民と国民性を失う者は、祖国の信仰と神をも失うことになるのです。さて、言ってみれば、これが私の長編のテーマにほかなりません。(江川卓著『ドストエフスキー』岩波新書)。ピョートルのような、神を恐れない無神論者たちがユートピア社会の実現のために革命を起こそうとしても、失敗に終わるのをドストエフスキーは見抜いていた。

無神論と言えば、『白痴』(1868)の中でムイシキン侯爵は、無神論とその兄弟である社会主義が、反キリストを説くローマ・カトリックから生み出され、キリストのかわりに暴力をもって人類を救おうとしている、と言っている。ドストエフスキーは、ロシアでキリスト信仰を復活させることが、無神論や社会主義の隆盛に対する防波堤になる、と考えていた。

 

(日本福音ルーテル教会機関誌『るうてる』1998年 3~8月号に掲載されたものです)

ドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』~「大審問官」伝説

佐藤 義夫

この小説(1879年)は淫蕩な父親であるフョードル・カラマゾフの殺害の犯人捜しををめぐって、彼の四人の子供たち、ドミトリイ(ミーチャ)、イワン、アレクセイ(アリョーシャ)、私生児スメルジャコフの間で展開される愛憎の物語である。

この小説の第二部第五編五章で無神論者の兄イワンが、復活のキリストと大審問官との間の想像上の対決、すなわち「大審問官」伝説を弟のアリョーシャに語る。この話の舞台は宗教裁判が行われていた16世紀のイスパニヤ、セヴィリヤの町である。大審問官は復活のキリストを捕まえて牢屋に連れて行き、鎖につないでしまう。大審問官は復活のキリストに向かって、荒野で悪魔によって石をパンに変えてみたらと誘惑されたときに、どうしてそれに応じなかったのか、ときびしく責めたてる。「人はパンのみに生きるにあらず」などと意志の自由を説いたために、人間は路頭に迷ってしまったのだ。石をパンに変える奇跡を行ったならば、人間はキリストにおとなしく跪拝したであろう。なぜならば、人間を服従させるためには奇跡・神秘・権威が必要であるからだ。このような大審問官に対してキリストは無言のまま歩み寄り、ただ接吻したという。

この大審問官の正体はローマ・カトリック教会なのか無神論的な社会主義なのかという議論もなされてきたが、読者は大審問官の雄弁さにしばし圧倒されてしまう。「人はパンのみに生きるにあらず」というのはその通りであるが、パンなくして人は生きることはできない。人はパンを求めて額に汗して蟻のように勤勉に働いている。世の中が不景気になると、パンのありがたみが痛切に思い起こされる。

パンか自由かという問題は形を変えていろいろな小説に表されている。たとえばA・ハックスリーの『すばらしい新世界』(1932年)の中の西欧大統領のムスターファ・モンドと野蛮人のジョンとの対話、G・オーウェルの『一九八四年』のウィンストン・スミスとオブライアンとの対決の中にも見いだされる。このパンか自由かという議論は、いつの時代にあっても人間にとって見過ごすことのできない重要な問題である。

 

(日本福音ルーテル教会機関誌『るうてる』1998年 3~8月号に掲載されたものです)

ドストエフスキー 『罪と罰』

武蔵野教会会員  佐藤 義夫 (和洋女子大学教授)

ドストエフスキーの『罪と罰』は私に教会の門を叩くように手助けしてくれた本である。大学生のラスコーリニコフが小さなナポレオンをめざして、金貸しの婆さんの頭を斧で叩き割り、貧乏人に金を分けてやろうとした、という例のお話しである。私が感動したのは、金貸しの婆さんを殺して良心の呵責に苦しむラスコーリニコフを悔い改めに導いたのが娼婦のソーニャであった、という点である。本来ならば、大学生のラスコーリニコフが教育のないソーニャの蒙を啓くべき立場であった。ソーニャは貧しい家庭に育って、娼婦の仕事をやらざるを得ない情況に追い込まれた。従って、彼女の方が彼から励ましを受けてしかるべきであった。しかし、彼の方が彼女から励ましを受け、信仰の導きを受けているのだ。これは美しい立場の逆転とでも言うべきものだろう。

ラスコーリニコフは「ラザロの復活」の箇所を何度かソーニャに読んでもらった。彼はソーニャから自首を勧められて刑務所に聖書を携えて行った。どうして「ラザロの復活」なのだろうか。神から彼の罪を許してもらい、再生の道を歩もうとする彼にとって、「ラザロの復活」の奇跡を信じることができるかどうかは、重要なことであった。

ドストエフスキーは1881年に59歳で死ぬ13時間ほど前に妻のアンナに「今日は死ぬだろうな」と力ない声でつぶやき、聖書占いをしたい、と希望した。その聖書は手擦れた革表紙のついた古びたもので、ソーニャの箪笥の上に置かれ、「ラザロの復活」について読まれた聖書のモデルともなったロシア語訳新約聖書であったそうだ(江川卓著『ドストエフスキー』岩波新書)。

冒頭にこの小説を通じて教会の門をくぐったと書いたが、ラスコーリニコフのような罪人に事の善悪を知らせる聖書にはどのようなことが書かれているのか、知りたいと思ったからである。

1960~1970年代に大学紛争を経験した私は、革命のために人の命を奪うことは犯罪にはあたらないというラスコーリニコフのような人物に何度も出会った。動機は何であれ、人殺しは他者のために生命を捧げるように求めるイエスの教えに背くものである。

 

(日本福音ルーテル教会機関誌『るうてる』1998年 3~8月号に掲載されたものです)