「風」 教会メンバーの特別レポート
「春の日の目覚め」 秋田 淳子
まだまだ空気は冷たいけれど、大地から春の息を感じます。まだ何となく日差しは眠そうだけれども、光の中に春の日の目覚めを感じます。
園芸を学んでいた短大時代、冬の寒いある朝のことです。吐く息が白い中、農場に立った私の足元をよくよく見ると…土の中から小さなちいさな野菜の芽が、あちらこちらから出ていたのです。それも、朝露に凍てついたままで・・・
寒いからと、たくさん着込んでいる自分とはあまりに対照的な、その健気な芽吹きの姿を目の当たりにした私は、大きな衝撃を受けました。生きているのです。たとえ凍っていても、小さな命は、生きているのです!
私たちの命は土に播かれたら見えなくなってしまう種の様に、小さくはかないものです。しかし、その種が土や雨や太陽に育まれていくように、私たちは地上での多くの恵み…何よりも、神様の救いによって生かされているのです。
ハッピー、ハッピー、イースター!
-むさしの教会だより 2012年3月号-
「バザー&フェスタ2011」 田村浩、八木高光・久美
2011年度バザー& フェスタ ご協力のお願い
バザー委員長 田村 浩
今年3月11日の東日本大震災で被災された方々にお見舞い申し上げ、一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。自然の強大な力を前にして、小さな人間は何も出来ない事を改めて感じると共に、今回ほど日本人が秩序正しく行動し、弱者を助ける国民であったかが再確認された事はありませんでした。「がんばれ日本《の合言葉も、日本国民を一つにしてくれたと思っています。
さて、今年のバザー委員長をお受けする事になりましたが、バザー成功の可否は、私一人の力ではどうする事も出来ません。教会員皆様方お一人お一人のご努力の総結集だと思っています。また幸い、昨年と同様、副委員長に園山道子姉になっていただきましたので、大変心強く思っています。是非皆様のご協力のもと、明るく楽しいバザーが開催できればと思っています。
開催日はここ数年定着してきました11月3日(文化の日)10時〜15時です。まだ第1回のバザー委員会が開かれていない状況ですが、例年通り、掘り出し市やチョコレート、ケーキとクッキー、小物等のお店や、恒例のヤキソバやチヂミ、ジャガバター、綿あめ、コーヒー店等を計画していきます。
初めてバザー委員長を御受けしてから8年の歳月が経ち、私も含めて教会員の高齢化も目立ってきました。『体力的に協力は出来ないが、寄贈品ならあるよ』という方は、大歓迎です。持って来るのが大変な方は、ご連絡をいただければ取りにお伺いします。数多く寄贈品が集まってくる事が、バザー成功の一つの鍵になってくると思っています。10月30日(日)まで受け付けますので、献品を是非宜しくお願い申し上げます。
フェスタをお世話いただく八木様ご夫妻と連携を密にして、出来るだけ多くのお客様や子供達に来ていただければと思っています。これからポスターやビラ等で広くバザーのご案内を致しますが、教会員の方々が一人でも多くのご家族やお友達をお誘い頂くことが、もう一つの成功の鍵になってきます。
そのためにも、来られた方々が楽しめるバザーを目指したいと思っています。「明るく楽しいバザー《「無理のない範囲での全員参加のバザー《「来てもらって楽しいバザー《、を目指していきたいと思っております。
当教会は、例年バザーをお支えいただいているベテラン教会員が多いので安心をしておりますが、皆様の絶大なご協力のもと、今年のバザーも成功させたいと思っております。どうかご協力を宜しく御願い申し上げます。
< 「バザー&フェスタ2011《 新しい想いと出会いと>
フェスタ担当:八木髙光・久美
11月3日文化の日に予定されているバザー&フェスタ。晩秋の風物詩とも言えるこのイベントは阿佐ヶ谷地域を中心に、広く愛好者を得ているようだ。こうして地元にしっかりと根を下ろすまでには試行錯誤が重ねられたことだろう。
時の流れと共にむさしの教会を軸にイベントに携わったり、訪れた多くの人によって織りなされたエピソードを紐解いてみるのも、意義深く新鮮に違いない。
改めてバザー&フェスタを辞書で引くと【バザー:(英語)慈善事業などの資金を得るため、有志が持ち寄った品物を販売する市。バザール】 【バザール:イスラム文化圏の市場。デパートなどの特売・特設売り場。(露語)統制を受けない自由販売市】 【フェスタ:(伊語)祭り、祝祭、祭典、祭日】 とある。これらの言葉から連想されるのは人・物・思いが様々に出会い、行き交い展開していく活発なイメージ。老若男女の会話に笑い声、楽器や歌に踊り、新品・旧品・珍品の手工芸品、山海の幸、美味しそうな数々の料理etc.
開催日は例年、特異日と言われるほど天候に恵まれる事が多いバザー&フェスタ祝祭市。3月に東日本大震災を遠方ながら経て生かされている私たちも、今までとは違う格別の思いがあることだろう。今年はどの様な人・物事との出会いや繋がりが生まれ、育まれていくのか祈りつつ楽しみにしたいと思う。
新たにフェスタ関係に携わることになりました。みなさまのご協力、アドバイスをどうぞよろしくお願いいたします。
(むさしのだより2011年9月号より)
「そよ風」 秋田淳子
夏の熱い陽射しが和らいできました。そんな中、セミたちが最後の力を振り絞って鳴いています。日本では、古くからセミは人々から愛でられ文学や詩歌にもその鳴き声が登場します。しかし、西欧に於いてその鳴き声は、人々から唯のノイズ(雑音)としか受けとられていないと聞いたことがあります。
幼い頃、夏にセミの脱け殻を集めるのが好きでした。あの半透明でやさしく手に持たないと一瞬にして粉々になってしまう繊細さに、子どもながらに魅了されていたのでしょう。そして、何よりも羽化するとき、からだ全体が殻になってはがれていってしまうという、フ・シ・ギ・・・。
私たちも人生の歩みの中で…年齢を重ねながらの精神的羽化、仕事の経験に伴っての実力の羽化を繰り返しながら成長していきます。そして、信仰者としての羽化…。それは祈りと讃美の積み重ねによるもので、その抜け殻は透明でキラキラと輝くものなのかもしれません。
(むさしのだより 2011年9月号より)
「サンパウロ便り(7)」 徳弘浩隆
サンパウロ便り(7) 2011/7/3
徳弘浩隆
(日本福音ルーテル教会ブラジル派遣宣教師)
< 南風が寒いブラジル >
「北風小僧の寒太郎」という歌がNHKのみんなの歌で流行り、大森幼稚園でも歌っていましたが、ブラジルは南半球なので 「南風小僧」が寒い毎日です。猛暑の中15%節電でご苦労されている日本ですが、こちらは寒い毎日。暖房があまりないブラジル、時折北向きのベランダに強 い日差しが出ると、ノートPCを持ち出して日に当たりながら仕事をしています。「ここは日本の反対側、南半球なんだなぁ」と思いながら。< 宣教師派遣期間延長・下宿業と教会成長を >
サンパウロ教会は昨年5月に引っ越しをして何とか落ち着きました。しかし、今年2月からまた工事が始まりました。広くなっ た教会で、牧師館の1階を有効利用し、間仕切りをして小規模収益活動(下宿業)を始めようということになったのです。3月末に部屋も出来、入居者も増え、 最高16名が住んでくれています。日系人、ブラジル人、ボリビア人、ペルー人、そして日本人も。大学生や勤労青年、予備校生に、外国人医師の留学生達、日 本からの旅行者など。17歳から35歳くらいまで、ポルトガル語、スペイン語、日本語と入れ交じり、楽しそうに食堂で食事を一緒に作ったり食べたりしてい ます。バザーを手伝ったり、ポ語礼拝にも出てくれます。サッカー留学希望者親子や、カズみたいにカッコいい日本人プロフットサル選手も住んでくれていまし た。妻も「下宿屋のおかみさん」で、楽しそうに、忙しく手伝ってくれています。この家賃の献金で、数年で借入金を返済し、その後は人件費の補助にしようという計画です。日語とポ語の礼拝出席も少しずつ 増え、維持献金口数も二倍程になりました。それらを合わせて、「2012年から25%ずつJELCからの支援金を辞退して、4年で自給を達成する」という 自給計画です。この「後に引けない不退転の覚悟」と共に、「宣教師派遣期間を当初予定の3年ではなくて、7年に延長してほしい」という申請を昨年JELC
に提出し、二回の常議員会を経て、6月に承認していただきました。「ただ現状維持で宣教師継続派遣申請するのも心苦しく、JELCの状況を見ると難しい。 しかし、ブラジルの教会を現状維持のまま『見捨て」たり、閉鎖したりすることはできない。」教会のメンバーと話し合い、祈って導き出された結論が、この本 気で自給教会になることと、それへの取り組みだったのです。この期間で教会成長と、下宿業などでの補助安定収入を得て、JELCに経済負担をしていただか なくてもよい教会になり、日系人後継牧師も得て、将来も安心して存続できる教会へと生まれ変わり、軌道に乗せる期間にしたいと思っています。自給達成予定 は、宣教50年の2015年です。
教会に出入りしている駐在社員達の発案で、「異業種交流シュラスコ会」を始めました。いろんな国籍の人もいるので、のちに 「多文化」も入れました。シュラスコというのはブラジル風のバーベキューのことです。毎月第二金曜の夜は教会の中庭で20-30名の人が集まり、名刺交換 したりおしゃべりしたり、自分の国や趣味を紹介しあったり、楽しい場になりました。ブラジルの浄土真宗のお坊さんとも、日本人のサンバの先生とも仲良くな りました。教会のすそ野が広がり、宣教の一つの場になればと思います。そんな会に、先日来てくれたのが、むさしの教会の中山充君です。教会学校の生徒のころから20数年ぶりの再会でした。スペイン留学中ですが数か月インターンで南米で自主研修との事。サンパウロ教会を訪ねてくれました。その後礼拝にも来て くれ、たくさんの人と知り合いになり、情報交換しているようで、役に立てたかなと思います。
< 神様を根拠にする生活 >
手探りで、綱渡りのような日々が続いています。計画書や予算計画だけの宣教ではなくて、祈りと「根拠のない無茶をする」開 拓伝道のような生活になりましたが、いつも不思議な導きと出会いを得て順調に進み、神様に感謝しています。まだ道は険しいと思いますが、神様への信頼に根 拠を置く生活に変えられているように思います。どうぞ、これからもお祈りとお支え、よろしくお願いいたします。(むさしのだより2011年7月号より)
「レクイエム(1) 橋本直大兄」 大柴譲治
レクイエム(1)
橋本直大兄の思い出
大柴譲治
4月17日(日)の朝、橋本直大さんが83歳のこの地上での生涯を終えて天へと帰って行かれました。それはキリストが子ロバに乗ってエルサレムに入城されることを記念する棕櫚主日、受難週の始まりの日曜日のことでした。18、19日とむさしの教会でご葬儀が行われたのですが、告別式の中でとても不思議なことが起こりました。司式者として私がヌンク・ディミティスを棺を背にして聖卓に向かって歌っている時に、伊藤節彦神学生が天から不思議な光が橋本さんの棺の上に射してくるのを見たのです。しかもその光は西側からではなく東側の窓からだったと聞いて、私は強く畏怖の念に打たれました。私たちの人生には確かに神さまの聖なる光に照らされる瞬間があるのでしょう。橋本さんのご生涯はそのような光に包まれていたように思います。
「今わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り、しもべを安らかにさらせて下さいます。この救いはもろもろの民のためにお供えになられたもの、異邦人のこころを開く光、み民イスラエルの栄光です。」(「ヌンク・ディミティス」、ルカ2:29-32)
橋本さんは機関誌『るうてる』の2009年7月号に「信仰生活を一言で」と問われてこう答えておられました。「ずいぶん病気などしましたが、『闘病』という言葉は好きになれません。病気も神様から与えられたものであれば、素直に受け入れ、付き合っていくほうが楽だと思います。すべてお委ねしていこうというのが楽天家の信仰生活なのでしょう」。これはすべてを神さまの御手からいただくという橋本さんの信仰をよく表している言葉です。
「楽天家の信仰生活」と語っておられますが、そこに至るまでには様々なご苦労がおありだったと思います。苦労を苦労とも思わず、それを飄々と、淡々と、軽やかに、そしてしなやかに、確かに、明るく笑って受け止めてゆかれた「橋本美学」といったものを私はそこに感じます。それを支え続けた奥さまやご家族の存在も大きかったことでしょう。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」というヨブ記の言葉を想起します(2:10)。
橋本さんの愛唱聖句を引いてこのレクイエムを終えたいと思います。橋本さんの83年間のご生涯が私たちの直中に置かれていたことを神さまに感謝し讃美しつつ、私たちにも上からの不思議な聖なる光が注がれていることを思いながら。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙8:35-39)
s.d.g.
(むさしのだより2011年5月号より)
「JLER東日本大震災ルーテル救援活動について」 大柴譲治(東教区長)
3月11日(金)に起こった東日本大震災の被害の甚大さの前に私たちは息をのみ言葉を失いました。亡くなられた方々のことを覚えて心より哀悼の意を表します。また被災された方々の痛みと悲しみが少しでも軽減されますように、救援活動に当たっておられる方々が守られますようお祈りいたします。仙台教会、鶴ヶ谷教会のためにも祈り続けたいと思います。全世界より祈りと支援が寄せられていることを通して私たちもまた大きな Lutheran Family の一員であることを実感しています。祈りは力です。被災地にこころを向けつつ、私たち一人ひとりがそれぞれの場でできることをなしてゆきましょう。
日本福音ルーテル教会として私たちがこれまで対処してきたことは以下の通りです。全体の流れを鳥瞰して報告いたします。しかし、被害の甚大さや被災地の広さを考えるとき、私たちのできたことはほんのわずかなことでしかありませんし、まだそれは端緒についたばかりにしかすぎません。今後とも息の長い支援活動が求められてゆくことになると思います。これまでの皆さまのご協力に感謝しつつ、これからのご支援もよろしくお願いします。
01)3/12(金)よりインターネット上にウェブサイト「ルーテルとなりびと」を立ち上げ、情報のシェアリングを開始(担当:立野牧師)。仙台教会代議員の長島慎二兄の発信する現場からの英文レポートが全世界において読まれている。「ルーテルとなりびと」のアドレスは以下の通りです。
http://lutheran-tonaribito.blogspot.com/
02) 3/14(月)東教区は、本教会に呼びかけて、JELC東北関東(後に東日本と変更)大震災救援対策本部を設置(委員長は青田勇副議長)。 → やがてそれは 4ルーテル教団を冠とするJLER東日本大震災救援対策本部に拡大(以下はJLERと略)。
03) 3/14(月)よりJELCとして募金活動を開始。献金先はJELC連帯献金に一本化(郵便振替00190-7-71734 名義:(宗)日本福音ルーテル教会。「東日本大震災」と明記要)。 → JLERは対外的な献金受け入れ口座を別に設置。
04) 3/19(土)より、救援物資輸送プロジェクトを立ち上げ、全国の教会にも協力を要請(担当:松木牧師)。被災地での救援活動を開始しているNPO /NGOにも呼びかけ、3/28(月)より4tトラック8台分の救援物資を被災地に輸送。現在は現地で調達して届けている。
05) 3/20(日)より5/01(日)までの七週間に渡り、毎週主日礼拝において被災地を覚えての連祷を捧げる(各教区が持ち回りで作成)。
06) 3/21(月)東教区総会においてこの件に関して報告と協議の時を持つ。教区としては「顏と顏の見える支援を展開したい」という基本線を確認。総会礼拝の献金は連帯献金に捧げる。
07) 3/23(水)より3/30(水)まで、四名の先遣隊(杉本洋一、安井宣生、立野泰博、小泉嗣の各牧師)を被災地に派遣し、調査を行う。
08) 3/30(木)よりLWFより派遣された災害支援の専門家マタイ氏を3ヶ月の予定で受け入れる。市ヶ谷の懇談室にそのオフィスを設置。
09) 3/31(金)JLER本部会議において活動の基本線を確定。ルーテル学院、JELAの協力も得てゆくこととする。
10) 4/08より順次専従スタッフ三名(二名は現地、一名は市ヶ谷事務局)を雇用し、活動を開始。二台中古車を購入。被災地において、一人(遠藤優子氏)は宮城県社会福祉協議会のスタッフとして、一人(佐藤文敬氏)は被災地のニーズを聞き取り調査して救援物資を屆ける仕事に、それぞれ精力的に従事している。
11) 4/11より仙台教会の協力を得て、仙台教会に「ルーテル支援センター」(定員20名)を設置し、全国よりボランティアの受け入れを開始。石巻市の社会福祉協議会を中心としてボランティアを派遣中(担当:安井牧師)。
12) 5/09(月)「こころのケア」を展開してゆくために学院大学とも協議。
(機関誌『るうてる5月号』の4面にも活動が報告されていますのでご参照ください。)
(むさしのだより2011年5月号より)
「仙台ルーテル支援センター「となりびと」奮闘記」 立野泰博(第2次センター長)
ルーテル教会と東教区は、3月に先遣隊を現地に派遣しました。被災地である多賀城市は、何百台という車がひっくり返り、住宅が破壊され、潰され、海水の引かない泥だらけの現地がそこにありました。その状況はあまりにも壮絶で、言葉を発することさえできません。手にもったデジカメのシャッターを切ることさえできませんでした。避難所で被災者の方々を撮影しているテレビ局を重い気持ちでながめていたことを思い出します。その後先遣隊は、名取氏、塩竃市、七ヶ浜町、山元町、東松島市と訪問するたびに、その被害の大きさと被害種類の多様さに圧倒されつづけていったのです。
被災地の現場に立つた時、「これから始まる救援活動は長期戦になる」と感じました。ルーテル教会としてどこまで、どれだけこの被災に寄り添っていけるか。覚悟をきめなければなりませんでした。幸いにも鶴ケ谷教会、仙台教会の被害は少なく、活動の中心拠点として用いさせてくださることになりました。対策本部会議をへて、第1次センター長・小泉嗣牧師が4月8日に仙台教会に派遣され、11日にルーテル支援センター「となりびと」はその活動を開始しました。活動の様子はブログ「となりびと」でご覧ください。
http://lutheran-tonaribito.blogspot.com/
現在まで、ボランティア活動に約73名が参加してくださいました。活動内容としては、石巻災害ボランティアセンターでの受付業務(全国からやってくる人たちの受け入れ作業)、石巻津波被災地区家屋の泥出し清掃作業の2つが中心です。ボランティア受付業務は石巻市社会福祉協議会より任され、初期段階から3名を配置、スタッフミーティングに陪席しています。また、1名は長期専属スタッフとして石巻VCに泊りこんでいます。もうひとつの活動として泥出し清掃活動にボランティアを派遣しています。朝5時起床し、2時間半かけて石巻に到着。9時から作業にかかり4時まで労働作業。6時のスタッフ会議終了後にまた2時間半かけて仙台に戻り、入浴、夕食、わかちあい。23時就寝という過酷なスケジュールです。それでも、被災地で現地の人々と出会ったボランティアは元気を与えられて帰ってきます。共に汗を流し、寄り添い、話を聞き、そこに絆が生まれているのです。
今回はルーテル救援活動のために2名の専従スタッフを置きました。佐藤さん遠藤さん。このお二人のチームワークと働きで活動は広がりをみせています。支援物資については緊急支援としての大量援助は終わり、これからは個別のニード、しかも県、市、各NPO、行政などができない隙間の援助をルーテルはすることができるし、佐藤専従スタッフがそれをしています。気仙沼にある孤立した精神科の病院に軽自動車レンタル、石巻の家庭にまな板セット、女性たちにコスメセット、地域消防団に遺体捜索のための胴長支援、東町島市の小野市民センターに畳搬入プロジェクト等。予算消化のような援助物資の送り方はやめ、こまかなニードにこたえる活動は実を結んでいます。佐藤専従スタッフによると、ニード調査の中で、こちらが持っているものを援助するやり方ではすでにニードはない。しかし、そうでない本当に必要とされているものはある。援助の仕方を変えることが大切という報告がありました。その方針転換が東松島市小野市民センターの避難所とのつながりに発展しました。畳搬入プロジェクトはルーテル救援としてはじめて避難所に直接支援したプロジェクトでした。
センター開設から1ヶ月たち、やっと活動の点が見えてきました。東松島、石巻、気仙沼。この点からどこを線で結ぶかが今後の展開には重要です。点から線、線から面ということを考えれば、いまのところ石巻が最有力です。県社協、市社協とルーテルの関係もよく、佐藤・遠藤両スタッフのつながりから、被災地で活動している被災者とも連携がとれています。心のケアもはじまりました。
まだまだ長期にわたる活動がつづきます。どうか祈りを持って支えてくださると感謝です。
以上。
(むさしのだより2011年5月号より)
「サンパウロ便り(6)」 徳弘浩隆
サンパウロ便り(6)
「あっという間の1年11か月」
徳弘浩隆
(日本福音ルーテル教会ブラジル派遣宣教師)
< はじめに >
むさしの教会の皆様、いつも、心に留めていただき、ありがとうございます。1年と10ヶ月が過ぎたところですが、めまぐるしい日々でした。
< ペンション・ルーテル オープン! >
新しく引越ししたサンパウロ教会の牧師館はお金持ちの日系人が持っていた家で、クリニックにしたり、芸能人を呼んでパーティーやリハーサルをしていたり、その後はパソコン修理の会社に賃貸していたりしていた、広い建物です。中庭の奥に、2階建てのホールがあり、その一階が教会、二階がホールや教室になっています。そこで、今後のサンパウロ教会の自給を考えて、牧師館の一階部分を改造して、下宿人が住めるようにしています。学生や勤労青年たちの日系人が下宿をしてくれればと願っています。
これに取り組んでいるのは、サンパウロで有名な教会になり、人の出入りが増えて、伝道につながると思っているからです。そして、家賃や宿泊代の献金をいただいて、教会会計に繰り入れて、4年間でサンパウロ教会を自給させようと、教会員皆は決意しているからなのです。
< 今後のサンパウロ教会の将来のために >
将来を考えても、また日本の教会の牧師不足や厳しい経済状況を考えても、いつまでも日本の教会に頼っていてはいけないと、皆自覚し始めました。宣教師をお願いし、宣教師に頼ってばかりいては将来がないと、今回は本当に骨身にしみているのです。打開策を祈り求めるうちに、教会の移転話がありましたし、苦労の末に良いところに移転できました。私もブラジルに来て、かつて本を読んで勉強した日本福音ルーテル教会の歩んできた道を、後からたどって歩いているような、信仰の追体験をしているように感じてなりません。
神様は、祈りにこたえてくださると感じます。教会の皆も、祈り、同じビジョンに向けて支えてくださるのを感じ、また、互いに喜び、夢に向かって歩んでいます。
受洗者や転入会者も十数年ぶりに与えられました。青年会もできましたし、若者の同労者や、ポルトガル語の話せる奉仕者、また奏楽者も妻以外に3名与えられました。妻が一人で頑張ってくれている、教会食堂の準備も今日から手伝ってくださる方々が現れました。
次の祈りは、次世代の青年伝道者です。ポルトガル語を自由に話し、若者を引っ張ってくれ、将来バトンタッチしていける青年伝道者を与えてくださいと、毎日祈っているのです。
< カルナバルシーズンの静と動 >
街はいま、カルナバルです。そして、スーパーにはもう、イースターのチョコレートがぶら下がって売られていて、お祭り騒ぎが始まりました。しかし、静けさを求める人たちや山や海辺に出かけるシーズンでもあるそうです。そして、教会メンバーは、このように修養会をして祈りを深めるカルナバルの季節です。もう一息教会が盛り上がり、そして今の自給計画が実現できるようにと、宣教師の派遣期間延長願いを日本福音ルーテル教会に申請しました。日本から、祈りや連帯献金でお支えいただく皆様に感謝します。延長できれば、その期間は日本からの給与支援は漸減させていき、残りはこちらで賄おうと皆一生懸命になっています。
(むさしのだより2011年3月号より)
「森祐理さん特別音楽伝道集会」 N. 市吉
9月26日(日)午後に福音歌手、森祐理さんをお招きしての特別音楽伝道集会(特伝)が催されました。美しい歌声と語りで福音のメッセージを聴くものの胸にビビッドに伝えることのできるタラントをお持ちの方です。賀来周一先生が証コンサートを聞かれたのがきっかけで、ルーテル教会と接点が生まれ、2007年の広島県宮島での全国伝道セミナー、2009年の女性会連盟80周年、田園調布教会でのチャペルコンサートなどへの出演を重ねられてきました。そして今回、むさしの教会にもお呼びすることができました。
こどもの歌、日本の昔懐かしい歌が心地よく響き、一つ一つの歌の背景にある作詞家・作曲家の思い、キリスト教とのつながりなどが語られ、日頃忘れかけている心の原点に戻った感じがしました。暑く長い夏の終わり、急に気温が下がり、曇りがちの日でしたが、ひと時の豊かな時間が礼拝堂に流れました。
多くの人数を集められなかったのが残念でした(反省すべきことでもありました)が、たまたま通りがかった婦人がはらはらと涙を流され、祐理さんが気づいてその方の肩をやさしく抱いて歌われるというシーンもありました。後でお話くださったには、最近肉親を亡くされた辛さの中にあったそうで、歌とメッセージに心癒され、希望の光を見出されたとのことでした。そのような出会いが一つでも二つでもあったとすれば、特伝は意味があったのかも知れません。
なお、当日の様子は森祐理さんの公式サイト内の「森祐理のつれづれ日記」にも書かれています。
森祐理さんを紹介してくださった賀来先生、森さんのマネージャーと連絡を取りながら、特伝を準備された森宣道委員長はじめ伝道委員会のメンバーの皆様に感謝。
(市吉記)
(むさしのだより2010年11月号より)
「サンパウロ便り(5)」 徳弘浩隆
サンパウロ便り(5)
徳弘浩隆
(日本福音ルーテル教会ブラジル派遣宣教師)
< 宗教改革記念日礼拝 >
宗教改革記念礼拝と45周年 10月31日は宗教改革記念日。教会の扉に95カ条の提題を貼りつけて、礼拝をしました。この日はサンパウロ教会の誕生日でもありました。45歳のローソクを立てたケーキを買ってお祝いしました。「今年は引越しもあったので何もせず、50周年にみんな元気でもっとたくさんの人とお祝いをしましょう」と教会員は、将来に夢をつなげています。< 召天者記念礼拝 >
盆踊りと燈籠流しと召天者記念礼拝 日帰りバス旅行に誘われ、レジストロという街の燈籠流しに行ってみました。昔の日本人の入植地で日本の風情そのもので驚きでした。非日系のブラジル人たちも、よさこいソーランや相撲大会でも頑張っていました。翌日曜日は教会でも召天者記念礼拝。先人の写真と共に礼拝をしました。11月ですがこちらブラジルは夏の一日ですから、季節感は日本の「お盆」と同じ感覚です。< 暑さと、クリスマス >
もうすぐ、「暑い暑いクリスマス」! しかし、クリスマスはそうはいきません。日本では寒くなって雰囲気が出ますが、こちらブラジルでは、ジリジリと暑くなっていきます。「暑さと、クリスマス」というこの不思議なとりあわせにも、最初は戸惑いましたが、今年はもう慣れて普通になってしまいました。今日は、妻と「25 de Marco(ビンチシンコ・デ・マルソ:3月25日通り)」の卸問屋街に行って、クリスマスの飾り付けを買出ししてきました。もちろんみんな半袖です。教会に子どもたちや知り合いを気軽に楽しく呼べるように、「二か国語礼拝とシュラスコ(焼肉)と飾り付けと点灯式」をするFesta Adventoという企画を無理やり^^;作り、アドベント第一主日に予定しています。
クリスマスは嬉しい受洗者の予定 昨年デカセギから帰伯された家族のお母さんが、クリスマスに洗礼を受けると決心されました。当初帰伯で戸惑っていた息子さんも仕事にも慣れ、「彼女」もできて家族は落ち着きました。神様の守りと教会の皆の支えを感謝されています。来年からポ語礼拝も月2回に増やし、日語・ポ語それぞれの成長を祈っています。
< 私の祈り >
今の私の祈りは、「1-日語ポ語両礼拝がそれぞれ充実し、成長しますように。2-次世代の奉仕者や指導者を与えてください。3-収益活動が軌道に乗り、教会成長とあわせて、早く自給させてください」ということで、幻の実現を楽しみに歩んでいます。今後もお祈り、お支えを宜しくお願いします。(むさしのだより2010年11月号より)
「JELC全国総会2010を終えて」 大柴譲治
全国総会については『るうてる6月号』にある立野先生によるオフィシャルレポートを参照してください。私は今回の総会で感じたことを個人の視点からレポートしたいと思います。
教会には常に「組織体としての側面」と「運動体としての側面」の二つがあります。現在のJELCは、122の「各個教会」が五つの「教区」を、五つの「教区」が一つの「本教会(全体教会)」を構成しています。そしてJELCは「教団」ではなく「教会」である点にその大きな特徴があります。どこを切っても私たちの教会は一つの「日本福音ルーテル教会」なのです。
今回は渡邉総会議長・立野事務局長の体制になって二度目の総会となりました。種々の工夫によってその特色が出た総会でした。まず、出席者の座席を教区別に分けたことによって出席議員のほぼ半数が東教区所属であることが認識できました。賛成は青、反対は赤、保留は黄色というカードを用いるよう色分けしたのでカウントが容易になりました。全体としての傾向は、東教区側が青、西・九州教区側が赤カードの挙がることが多かったように思います。立野先生をはじめ舞台裏を支えてくださった方々のご尽力に感謝します。今後総会がもし二日間になればエコに貢献することになり、皆にとっても有り難いことになります。
2013年5月には現在の教区体制が敷かれて50年の節目を迎えます。JELCが教区を「軸」とした体制を敷いて50年となるのです。そこには「教区自立」という前提がありました。北海道「特別」教区が設置されてからも既に30年。4教会7礼拝所5牧師を擁する北海道を今後どのように位置づけ支えてゆくかがJELC全体の課題の一つです。JELCの教会論の特色が個教会、教区、全体のどこを切っても一つの「教会」であるところにあることは上述した通りです。しかし同時に、その構造が無責任で甘えた依存体制を生じ易いことも事実でありましょう。そこから「本教会幻想」「教区幻想」が生じます。それは確固とした教会行政があるべきであるという幻想です。「責任転嫁」はアダムとエヴァの時代から「第二の罪」と呼ばれました(「第一の罪」はもちろん「禁断の木の実を食べたこと」です)。しっかりした教会行政システムがあって欲しいという期待は理解できますが、そのためには私たち一人一人が責任をもって関わるしかないのです。教会行政は「小さな政府」であるべきであり、あくまで「各個教会に宣教の主体と責任がある」ということを繰り返し私たちは心に刻む必要がありましょう。私たちはどこまでも「聖書中心主義」「現場主体主義」「各個教会責任主義」でゆく以外にはないのです。運転席に誰も座っていない車のハンドルを、乗っている皆が手を伸ばしかろうじて指をつけて運転していることを想像すると冷や汗が出る思いがします。それが今の私たちの現実の姿かもしれません。
JELCが未曾有の財政危機を迎えていることが今回の総会の一つの基調音でした。昨年の新型インフルエンザとリーマンショックの影響で収益事業が冬の時代に入っていることがその主たる理由です。教会年金制度の変更等、一連の財務緊急提案がなされ認められました。管財室の責任を負っている中山格三郎兄の重責を思います。「教会」は組織や建物ではなく「人」です。責任を担う「人々」を私たちは祈りで支えてゆかなければならないと強く感じさせられた総会でもありました。
同時に、チャプレン団を中心とした総会の諸礼拝を通して慰めと希望を与えられたのは私一人だけではなかったと思います。例えば閉会礼拝で重冨克彦牧師はこう言われました。「私たちのルーテル教会がもし歴史においてその使命を終えるとするならば、神は祝福された終わりを備えてくださるであろう」と。神がこの混迷を極める現代社会において私たちを「福音の使者」として用いられるのです。「神の御言こそわが強きやぐら」というルターの作曲した讃美歌を思い起こしつつ、2010年度の総会を終えました。これこそ信仰者にとって真の基調音なのです。先は見えません。しかし、「アドナイエレ(主の山に備えあり、創世記22:14)」を信じ、主ご自身が私たちJELCを用いてくださるよう祈ってゆきたいと思います。
(むさしのだより2010年 7月号より)
「ブラジル便り(4)」 徳弘浩隆
ブラジル便り(4)
徳弘浩隆(日本福音ルーテル教会ブラジル派遣宣教師)
< 無事に教会移転しました >
お陰様で4月末に移転しました。1.5倍位の広い建物で、日系人街で可能性も広がります。「明るくてきれいな所がよくありましたねぇ」と皆さん満足。地下鉄駅から7分で、今までの1分からは遠くなりましたので、愛餐会後私が自動車で街を一回り、ご老人をお送りしています。7人乗りの中古車にしてよかったです。<しかし、悪戦苦闘中・・・>
問題は、ブラジル流の工事の大幅な遅れと予算の増加。日本と違い正確な見積後安心してお任せではなく、材料も施主が購入して、手間賃を払うという感じです。窓やタイルも一緒に買い出しに行きます。ブラジル人のペドレイロ(左官・大工さん)と一緒にあちこちの店に行き、値切ったり、自動車に載るものは載せて帰ります。工事は毎日見て口出しをしないと、ドアの取っ手を平気でちぐはぐにつけたり、シャワーの水が流れずに溜まるのでやり直しをさせたり、気が抜けません。一流会社に頼めば違うのでしょうが、普通の業者ではよくあることだそうです。仲良くし、おだてたり?、頼み込んだり、時に厳しく苦情を言ったり、中途半端なポルトガル語で悪戦苦闘です。立退き・購入・引越が同時ですから、改修工事中の家での礼拝も生活も大変です。しかし、少しずつ教会らしく、便利になる姿に、皆さん喜んで下さっています。<ゲストルームと下宿人>
ゲストルームも早速作り、小さな台所やシャワーも付けました。日本のワンルームマンション風のコンパクトな台所にブラジル人はびっくりしたり、感心したり。教会員の友人の息子さんのボリビア人の青年医師が暫く下宿を始めました。教会の手伝いもしてくれ、落ち着いて下宿代も献金してくれればお互いに助かります。スペイン語とポルトガル語が錯綜し楽しくもあります。ワールドカップのブラジル戦は彼やポ語メンバーと一緒に、礼拝後、礼拝堂前面の白い壁をスクリーンにして応援して盛り上がりました。日本とサンパウロ往復航空券は14万円位ですから、お泊まりは教会ゲストルームにすれば気軽にブラジル訪問もできます。京都教会の知り合いメンバーも来てくれました。皆様も是非気軽に訪伯を!
<嬉しい受洗者、そして教会成長を>
ポルトアレグレ集会で受洗者が与えられました。お会いした後、私のブログの説教を毎週読み、何度もメイル交換してくれた方です。サンパウロ教会も転入希望者や駐在員で礼拝出席の方もいらして、少しずつですが盛上がっています。今後もお祈り、お支えを宜しくお願いします。(むさしのだより2010年 7月号より)
「黄泉比良坂(よもつひらさか)入り口 高村敏浩
むさしの教会の皆さん、こんにちは。お元気ですか?早いもので、牧師(補)として働き始めてからすでに三ヶ月が経ち、季節はもう夏です。
振り返ってみれば、新天地で働き始めて二日目の4月2日は、松江教会での受苦日礼拝でした。夕方7時からはじまるため、午後に岡山を電車で出発し、車窓から外を眺めながら移動しました。松江到着寸前に目に入ってきた看板には、「黄泉比良坂(よもつひらさか)入り口」とあります。神話の世界です。一人苦笑しつつも、心の中で「大変なところに来たなぁ」と思いました。しかし今は、松江、岡山、高松に赴任し、三教会の人たちと知り合えたことをうれしく思います。受苦日に黄泉(陰府)にくだったものの、イースター、ペンテコステを通して新しい生命に与っていることを実感します。
三つの教会での働きについて少し話をします。主要な仕事は礼拝奉仕です。土曜日は松江、日曜日は午前中に岡山、午後に高松、そして第二、四月曜日は高松の老人ホームでの短い礼拝があります。普段は、土曜日朝6時20分のバスで松江に向かい、10時半からの礼拝を守り、午後 2時ごろのバスに乗って帰ってきます。片道3時間、計6時間、半日をバスの中で過ごします。日曜日は岡山で10時半に礼拝、交わりの後移動して午後4時から高松です。月一回の聖書研究会(午前は旧約、午後は新約の3時間通しです)や女性会、月二回の家庭集会などがあります。また、松江では月一回のペースで家庭訪問を行ないますので、金曜日からの泊まりがけがあります。
実際にはそれほど多くの仕事をしているわけではないのですが、移動が多いために忙しさを感じます。また一箇所に留まる時間が少ないために、何かに集中して力を注ぐことが困難です。最初のうちはペースが掴めませんでしたが、最近はようやく落ち着いてきました。岡山は暑く毎日の水遣りが大変ですが、梅雨のおかげで一時的にせよそれからも解放されています。もっと余裕が出てきたら、水遣りや庭木の手入れも息抜きになるかもしれません。
正直に告白すると、牧師として働きながら、特に忙しさに流されていく中で、自分は牧師として相応しい働きができていないと感じます。自分は牧師として相応しくないと感じます。しかし、三教会の人たちが私を必要とし、信仰の旅路を共に歩もうとしてくれていることに励まされ、そのような私を用いてくださる神さまに支え導かれ、感謝のうちにやっとの思いで前に進んでいます。この思いは薄れていくのでしょうか、いつまでも持ち続けるものなのでしょうか。
神学生としての私を温かく迎え入れ、見守り、指導し、祈り支えてくださったこと、あらためてお礼申し上げます。むさしの教会は、私にとって故郷の一つです。毎週の礼拝にあって、皆さんのことを覚えてお祈りしています。遠く離れていても、主にあって一つ。それぞれの場所にあって、主に宣教の器として用いられることを信じ、歩んで行きます。主の平安!
(3月に按手を授けられ岡山・高松・松江教会に赴任された高村牧師より便りを頂きました。2007年~2008年にむさしの教会で研修されました。)
高村敏浩 (日本福音ルーテル岡山、高松、松江教会牧師)
(むさしのだより2010年 7月号より)
「信徒交流会」に参加して 伊藤真理
6月13日の礼拝後、「明日の武蔵野教会を考えよう」というテーマで、信徒交流会が開催されました。
今年で2期目(14年)の最終年度を迎えられる大柴牧師の3期目に向けたビジョンを6日に伺ったのを受けての話し合いで、 51名が参加しました。会は3部構成で、1.全体会(信徒2名からの発題)、2.グループ討論、3.全体会(グループ発表)というプログラムで行われました。
まず、全体会では、「こんな教会にしたい。そのために私は何ができるか。」という課題で川上範夫兄と和田真理子姉が発言されました。
川上範夫兄は、本教会の宣教活動やむさしの教会の教勢の変化、委員会の働きやグループ活動について話されました。むさしの教会の教勢は下がってきてはいるが、礼拝出席数だけにこだわるのではなく、「一人一人を大切に育てて行く教会」でありたい。また、高齢化の問題はあるが、むさしの教会の活力である「聖書の学びを中心とした」グループ活動の活性化が必要であると語られました。また、和田真理子姉は、新来会者の方々やよく知らない方々に「声を掛け合える教会」、また「若い家族が集える教会」を目指していきたいと話されました。続くグループ討論では4つのグループに分かれて約1時間半の話し合いが持たれ、活発に意見や要望・提案が出されました。
最後の全体会では、各グループからの発表の後、大柴牧師からまとめのお話しがあり、讃美と祈りを持って閉会となりました。
各グループから出た課題や提案は、今後の役員会で議論されるそうです。
私と娘がむさしの教会の群れに加えていただいて、もうすぐ一年になります。初めて家族で礼拝に出席したのは、仙台から引っ越してきて3日目でした。疲れと不安で一杯の中、大柴先生ご夫妻はじめ多くの教会員の方々に温かく迎えていただいてどんなに嬉しくホッとしたことでしょう。私も今度は、むさしの教会の一員として新しい方々を迎えることができるようになりたいと思います。
むさしの教会は、いつも全員が膝を交えて語り合える小さな教会とは違う大変さがあります。だからこそ、今回の信徒交流会は一人一人の思いを語り合い、聞き合うことのできるよい機会になったのではないかと思います。「キリストの体」であるむさしの教会の一人一人が「その部分」としてますます豊かに用いられますように。
この会を準備して下さった方々に心から感謝いたします。
(伊藤真理姉は伊藤神学生夫人です。大柴記)
(むさしのだより2010年 7月号より)
「東教区定期総会に参加して」 森 宜道
去る3月22日(月)に第47回東教区の定期総会があり、中山さん、市吉さんと共に参加いたしました。以下、概要および所感など報告いたします。
当日は、9時受付開始、出席代議員の登録から始まり、9時半から竹田孝一牧師司式・説教、中山康子さんの奏楽による開会礼拝で総会が始まりました。
会場は東京教会で、聖壇左側に教区の役員の方々が座られ、各教会の牧師先生、代議員の面々は礼拝堂に着席、東教区の37教会全部のメンバーが集まると東京教会がゆったりと満席と言う状況でした。
議事進行は教会の総会と同じで、議事をしながら役員の選挙も行うと言うスタイルですが、議事も多く、テキパキと(慌しく?)議事が進められていきました。
議事の内容ですが、まず最初に、オリエンテーションと言うことで、開会宣言、退職・転任・新任の先生方の紹介、座長団など総会諸委員の任命で始まりました。
最初の議題は教区長の大柴先生より教区長報告がなされました。内容は、2007年の教区総会で可決された東教区第5次宣教方策の具体的展開について、①信徒奉仕者養成プログラムのこと(今回の総会ではじめての信徒説教者が認定され、伊藤神学生もその一人、また、宣教フォーラムのことも紹介ありました)、②牧師先生の継続的な教育のこと(研修制度、牧師レビューなど)、③教会共同体のこと、④財務のことの4点について報告があり、引き続き飯田教会・幼稚園宣教百年、横浜墓地完成、神学校創立百年記念行事のこと、そして、人事のことについても報告がありました。
人事については与えられた中でのやりくりということでご苦労も多いことと思いました。
そして教勢についての報告でした。資料の抜粋となりますが、2009年の東教区の礼拝出席者数が1,542名はこの5年間はほぼ横ばい、献金ほか基礎収入で363百万円と言うことでした。平均すると一教会当り礼拝出席者42名、献金・基礎収入で年間9,800千円です。
教区長の報告と併行して役員の選挙も行われました。選挙は、番号を付した紙の束が受付のときに配布され、それぞれ、選出される役員毎に、氏名を記入して紙をはがして投票するという方式でした。最初の選挙は教区長ですが、引き続き大柴先生が選ばれました。
議事はその後、書記報告、伝道奉仕部・教育部・社会部・財務部の各部報告がありました。
教区長報告以降、各報告の後に、報告審査報告と言うものがあり、それぞれの報告の内容について指摘やコメントなどが述べられていました。
また、意見として甲信地区の教会から、東教区と言っても、首都圏中心になり勝ち、地方の教会にも情報をください、との指摘もありました。
続いて教区付き牧師である伊藤早奈先生、エリック・ハンソン先生の報告、諸委員会の報告がありました。
その後、昼の休憩を挟んで、信徒説教者の認定授与式があり、教区規則の改訂、2010年度予算の審議がありました。
最後に、山之内先生の司式・説教、苅谷さんの奏楽で閉会礼拝が行われ、ほぼ予定通り終了となりました。東京教会のすばらしいパイプオルガンの音(個人的に好きな音質なのです)を聞いて、心洗われての家路に着きました。途中、議事が長引きそうになると、議場より、早く進めるように指摘もあり、効率的に進められていました。
むさしの教会は3人の代議員となりますが、いろいろな経緯で全員出席しなければならないのかと思いましたが、それぞれ、多忙な人ばかりなので、教会で承認すれば、代表者一名などの総会出席も考えて良いのでは、などと感じました。
(むさしのだより2010年 5月号より)
「皆さん、こんにちは」 伊藤節彦
皆さん、こんにちは。4月から実習をさせて頂いています仙台教会出身、神学校二年の伊藤節彦(よしひこ)です。昨年私自身は八王子教会で実習させて頂きましたが、妻と娘は昨年の8月からむさしのでお世話になっております。今年は家族揃って礼拝を守ることが出来、感謝です。3 月31日に行われた受難週における証し会でも語らせて頂きましたが、以下に私の生い立ちを含めた簡単な自己紹介を述べさせて頂きます。
私は、改革派系の教会に所属する両親を持つクリスチャン二世として、四人兄弟の長男として生まれ育ちました。私が満一歳の誕生日を迎える前に、生死をさまよう大病を与えられ、当時の医者はそのような私を前に、ただ手をこまねいて死を待つしかないといった状態だったそうです。ところが牧師先生は、泣くことも出来ずにいた赤子の私を見つめ、共に集まって下さっていた兄弟姉妹達との祈りの中で「この病、死に至らず(ヨハネ 11:4)」というみ言葉を与えられ、難色を示す医師に手術を迫ったそうです。予想通り手術は難航したそうですが、篤い祈りに支えられ、なんとか命を繋ぐことが許されたのでした。
このことは折にふれ私の心の中に、自分の生は神様の御用のために再び与えられた命であり、何かしら主が備え給う道があるに違いないという思いとなって去来しました。そのことを反芻するように学生生活を送る中、18歳の時、神学校に進み献身の道を歩みたいと教会に申し出ました。しかし長老会からの勧めは、「就職し社会生活を経験した後に、それでも献身の気持ちが揺るがなければ、それからでも遅くない。」というものでした。そこで学業を続け、卒業後ソニーに入社しましたが、入社面接では「私はクリスチャンであり、日曜日は聖日として守りたいが問題はないか?」とハッキリと信仰を告白いたしました。そこには、神様がこの会社を私に備えて下さっているのなら必ず理解してもらえるであろう、という確信が与えられていたからです。この素晴らしい会社で24年間お世話になり、多くのことを経験し学べたことは、貴重な財産だと思っています。
ルーテル教会との出会いは1985年でした。信仰の友が与えられ、共に1989年のクリスマスに受洗する恵みを与えられました。そして1991年には韓国巡礼の旅に参加し、大柴先生ご家族そして福山教会出身の妻との出会いが与えられました。結婚に至るには幾多の困難がありましたが、しかしそれを乗り越える道も与えて下さり、大柴先生に結婚式をして頂きました。その大柴先生が牧会されている武蔵野教会でこのように家族と共に実習させて頂くことになるとは、神様のご計画は測り知ることが出来ません。
土の器以外の何物でもない私ですが、このような私を生まれる前から聖別し、病を癒し、職場を与え、同じ信仰を持つ伴侶、その上更にわが家族の宝である娘まで与えて下さった主なる神様。私のこの小さな歩みを今日まで守り導いて下さった主の召しに応え、家族と共に献身の道を歩ませて頂きたいと考えております。主に感謝!
(むさしのだより2010年 5月号より)
「ブラジル便り(3)」 徳弘浩隆
ブラジル便り(3)
徳弘浩隆(日本福音ルーテル教会ブラジル派遣宣教師)
<職探し、中古車探し、家探しもようやくひと段落?>
去年の今頃は引越し準備で毎晩遅くまで片づけをして、夕食を家のそばの牛丼屋さんで簡単に済ませる日が続いていましたが、今日、サンパウロにもそれと同じお店のブラジル第一号店がオープンし、朝祷会の帰りに寄ってみました。去年こちらに到着してから、職探し、中古車探し、家探しをしてきましたが、ようやくひと段落しそうです。
不況で急遽帰伯した日系ブラジル人の家族がインターネットを見て教会に来てくれるようになり、親子の職探しで歩き回りました。知り合いの食堂や電気屋の社長に紹介して、仕事を始め生活も軌道に乗り始めたようです。ポルトガル語礼拝に友人も連れて来てくれています。
故障していた教会の車も、必要に迫られ借金をして今年ようやく購入しました。訪問や家庭集会にも活用しています。(むさしの教会からのご支援、有難うございました!)
<教会の立ち退き問題発生!>
そこに、教会の立ち退き移転問題が発生しました。5軒以上の代替地探しを続けてまいりましたが、良い所も見つかり、価格交渉も続け、資金のめども立ち、決まりました。JELCからの昔のブラジル名義の支援金も今回得ることが出来(感謝です)、あとはみんなの献金とバザー回数を増やすなどで返済もしていきます。場所は現教会から地下鉄駅3つほどサンパウロの中心に行く、リベルダージという日系人のお店や各県人会などが立ち並ぶ街です。今より広い建物なので、「日系教会の存続と発展には最高の所」と教区長も大賛成。契約も進めば、4月にも引越しの予定です。今年もまた引越しの準備に忙しくしながら、夜は簡単にそばの牛丼屋さんで済ませる日が続くかもしれません…<陸に下りたノアの家族と神の祝福>
40日40夜続いた雨で、行く先も分からず待ち続ける不安定な日々を送っていたノアの気持ちを、教会員一同で垣間見たような数ヶ月でした。今回、ようやく箱舟は陸に下り、虹を見せていただき、神様の「産めよ、ふえよ、地に満ちよ」という祝福の言葉を頂き、そのごとくになる日がサンパウロ教会にも訪れようとしています。ポ語礼拝では月に一度旧約聖書から学びましたが、将来を検討しながら、教会員さんも「私たちの箱舟はいつ、着地する所が決まるんでしょうねぇ?」と、聖書と重ね合わせて自分たちの歩みを祈りながら学ぶ日々で、皆とても学ばされ祈らされ、恵みの日々でした。広くなる会堂も活用して、日本語教室とパソコン教室を強化し、お料理サークルなど楽しい会も始め、教会が活発になり伝道が進めばと思います。ポ語礼拝もより活発になり、次世代が教会に定着してくれればと思います。建物の一部で少しの収益も得て、教勢も上がり、数年後には自給できる教会になることを、今年の総会で夢見ました。今後ともお祈りをよろしくお願いします。
(むさしのだより2010年 3月号より)
「ブラジル便り(2)」 徳弘浩隆
ブラジル便り(2)
徳弘浩隆(日本福音ルーテル教会ブラジル派遣宣教師)
<真夏のサンパウロからFeliz Natal!>
Feliz Natal(フェリース・ナターウ)は、Meryy Christmasの意味です。この時期、日本同様、街ではクリスマスの飾りや、関連用品が売られています。ただし、どうもチグハグなのは、買っている人は半ズボンのお兄さんやタンクトップのお姉さん達なのに、サンタさんだけが厚着をしているということです。さて、気が付くとあっという間の7カ月ですが、おかげさまで2人で元気に頑張っています。先回のご報告以降のことをいくつかピックアップしてご報告します。
<1. パソコン教室、日本語教室>
教会に少しでも多くの方に来ていただき、日系社会への奉仕にもなればと始めました。新聞でも紹介していただき、電話も多く頂きました。パソコン教室は日本語で相談に乗ってくれる所が少ないとのことで、おもに一世の方が来れらます。日本語教室は、60歳過ぎの二世の方々が定年後に日本語を話せるようになりたいと、来てくれています。二つの教室で20人程登録され、水・木の二日間に入替りで5-6人の方が定期的に通われています。<2. ポルトアレグレ>
ブラジルの南、ドイツ系住民の多いこの街にブラジルのルーテル教会の本部があります。この街で家庭集会があり、数カ月に一度出かけます。8月にはお盆の記念会がありました。仏教、カトリック、プロテスタントと順番に式をしました。会衆は「入れ替えなし」でお坊さんと神父さんと私が交代で担当し、海外の日系社会ならではの風情でした。<3. ポルトガル語礼拝>
通常礼拝は一世と二世の方で高齢の方が多いですが、将来のことを考えポルトガル語礼拝も始めました。渡伯4か月目からの無謀な挑戦ですが、何とか続けています。二世やブラジル人の方も来てくれるようになり、奏楽や司式、イラスト描きなどで手伝ってくれ感謝しています。日語部とポ語部が出来てバトンタッチしてゆける教会になる様祈っています。<4. 南米教会とモジ集会所>
パロキアという教会共同体を南米教会と組んでいますので、そちらの礼拝も月一で担当し、高速バスで一時間ほどの街の家庭集会にも毎月出かけています。ファベーラ(スラム)の子どもたちの教育や支援もしています。<5. 日本のデカセギから急遽帰伯の日系人>
数人が教会に来てくれるようになりました。教会員も気にかけ祈ってくれています。日本で18年の人生のほとんどを過ごし急遽帰伯し、日本語しか話せず苦労している青年もいます。教会で無料ポルトガル語教室開催を検討し、仕事も一緒に探しました。何軒も当たり、以前知り合いになった日系レストランの社長さんに頼んでみたらようやく雇用してくれました。一緒に泣いたり笑ったりの日々です。教会に続けて来てほしいと願っていますし、教会が彼らの拠り所になれればとも思います。彼らも入れると、ブラジル人、日系一世、二世、三世、四世がそろうことになりました。<6. バザー>
年二回の予定ですが、今年二度目のバザーが11/29です。新聞にも大きく取り上げていただき、前評判も上々です。収益は緊急な大きな課題、教会移転の会堂献金と、故障して買換えが必要な中古車購入献金に充てられます。<7. 教会移転問題>
以前から何度か立ち退き提案があったようですが、9月くらいから近隣の取り壊しが始まりました。大きなショッピングセンターが出来るそうです。教区の勧めもあり、急遽、代替地を探す不動産屋巡りが始まりました。50件ほど見て回ってようやく良い候補物件が2件与えられました。目下価格交渉中です。2-3年の本格工事が始まれば騒音と粉じんで礼拝や居住にも支障が出るので、祈りながら急いでいます。高齢者も多いので駅から近い所で、伝道も進むよう日系社会の中心地に戻れるよう募金や資金繰りも苦労し、またJELCにも相談しているところです。 - 祈りは、教室で50人登録、日語とポ語の礼拝で30人出席。そしてパロキア全体で共働し将来を見つめ、自立・継続可能な教会に一回り成長させて頂くことです。教会移転も神様が下さったチャンスではと思います。中古車探し、不動産屋巡り、職探しと、課題が次々にあると祈らされます。地に足のついた?牧師らしい毎日を歩ませて頂いているように感じ、感謝しています。サンパウロの朝祷会でも毎月、「日本伝道が進むよう」と祈られています。皆さまの上にも、大きな祝福がありますように。
(むさしのだより2009年 11月号より)
「ホームカミングデー報告」 大森はつ子
むさしのホームカミングデー2009報告
大森はつ子
あの日、あの時、なつかしい日々を思い出して・・・215人が参加しました
9月20日、5連休の中の日曜日、むさしの教会初めての「ホームカミングデー」を開催しました。昔、青年会で青春を語り合った方々、教会学校の子どもたちを熱心に育んでいた方、転勤、転居で遠くに行かれた方々の懐かしいお顔が一同にそろいました。そして、嬉しいことに、アメリカからキスラー先生ご夫妻が帰国され、賀来先生ご夫妻、石居基夫先生ご家族もご参加くださいました。お客様方をお迎えする教会員も合わせて215人が参加し祝福に満たされた一日になりました。
準備の段階で一番心を尽くしたことは、しばらく教会にいらしていない方々をさまざまな名簿から探してのリスト作りでした。昔を良くご存知の川上範夫兄、和田みどり姉、佐藤義夫兄、シャロンの会、バイブルクラスの方のご協力で案内状の発送先リストが出来上がると、大柴牧師をはじめ、ゆかりのある方々の「一言メッセージ」を添えてお送りしました。心をこめた準備とみなさまのお祈りで大成功にいたったこと心から準備委員一同感謝申し上げます。
礼拝後の愛餐会には180人の方が残られ、どうしたらあの礼拝堂を愛餐にふさわしい場所に作れるのか、果たしてお弁当の数は足りるのだろうか、などなど担当者はパニックになるほどでした。
お帰りなさい! キスラー先生
やはり、主役はキスラー先生ご夫妻でした。キスラー先生との思い出を語る方たちの全身から、また、両手から先生から受けた愛がこぼれるばかりでした。キスラー先生を存じ上げない私でも、その場面が思い起こされ、目頭が熱くなりました。また、「聖餐を受けて降りてくる一人ひとりを見つめるキスラー夫人の目から涙が光っていて、その横顔を見て胸がいっぱいになりました」とある方は語っていました。
来賓席を降りられて、ひとりひとりに語りかけられるようにマイクを握って会場をまわられる先生、奥様が涙ぐんでお話が詰まられると肩をそっと抱かれた先生、そのお姿は、キリストの愛を日本人に伝えるために生涯を捧げられた伝道者の香りに満ちていらっしゃいました。
そして、参加した方お一人お一人が瞳を輝かせて、「この日を計画してくださって本当にありがとう」という言葉を残して帰られました。
至らないところも多々ありましたが、そのことはお許しいただき、「なつかしい家・教会に帰って来てよかった、魂のふるさと神さまのところへ・・・」、この日がそのような神さまの栄光を現す機会となり、ふたたび教会でお会いすることが出来ますようにと祈るばかりです。
(むさしのだより2009年 11月号より)
「風は思いのままに」 立野泰博
本教会事務局長として東京に赴任し、4月に広島教会からむさしの教会に転入、 礼拝に出席されている立野牧師よりメッセージを頂きました。
5月に財団法人ルーテル会(ルーテル保育所)の08年度決算理事会が終わりました。これをもって私の広島教会でのすべての働きが終了しました。12年間の2教会2付属施設(保育所・幼稚園)の働きの区切りとなりました。これまで導いて下さった神様と、これまでお支えくださった方々に心より感謝します。赴任時は平均35名の礼拝でした。それから、平均100名の礼拝出席になるために、様々なアイデアを出し、創意工夫し、走り回った日々が懐かしく思い出されます。広島という地方都市での宣教、しかも毎日がヒロシマを体験する土地で生きることは、「いのちを守る」という使命を持った12年だったと思います。洗礼者も72名を与えられました。いつか12年間でやったことのすべてをまとめてみたいと思います。
さて、区切りができるとまた新しいことが始まりました。5月は「日本福音ルーテルむさしの教会」での礼拝説教デビューでした。4月に転入式をしていただき、一人の信徒として教会の礼拝に出席しています。まだ数ヶ月ですがこの教会の賜物三つをすぐに見つけ出しました。「ステンドクラス」「大柴牧師の説教」「讃美の声」(アーメン三唱は特徴的)です。これはこの教会の宝です。この三つが溶け合って今の教会があるのだと思います。礼拝の司式説教者という立場から、ひとりの会衆へと導かれた私ですが、会衆しか感じることができない祝福をいま受けています。
この度、ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝の説教奉仕を与えられました。久し振りに緊張?と思いましたら、それほどでもありません。聖霊の恵みを語るときですから。「風は思いのままに吹く」。このみ言葉の動きを語らせていただきました。ペンテコステは教会の命としての聖霊が与えられた日です。命として与えられた聖霊ですから、これがないと教会は死んでしまいます。聖霊のない教会はないのです。ではなぜ元気がない教会があるのか。それは病んでいるからでしょうか。きっと、元気の源に気がつかないのです。教会には「み言葉と聖さん」という神様の治癒力がありますから大丈夫です。この教会に与えられた宝はすべて礼拝の中にあることをもう一度確認するとき、そこに聖霊の働きをみることができます。また、その聖霊の力を共有することができればいいなと思います。
いま全体教会の事務局で働いています。私にとっては貴重な時間を与えられています。現場が大好きな私が、現場を離れています。今までを振り返り、人生の後半に向けての蓄えの時です。違う角度から教会をみることができます。社会の中の出来事にも目をむけることができます。とくに単身赴任というめったにできない貴重な体験は、今後においてきっと生かされることでしょう。日曜日の働きがないのは本当の安息日であること。だからこそ日曜日の大切さなど。どこかで話す機会があれば、とくに牧師たちの集まりで話したいものです。そんなこんなで楽しい事務局長体験をしながら、むさしの教会生活も楽しんでいます。
立野 泰博(日本福音ルーテル教会事務局長)
(むさしのだより2009年 9月号より)