その他

【重要】7月からの礼拝について

主の御名を賛美します。

新型コロナウイルス感染拡大防止対策として、3月末より自宅礼拝をお願いしてまいりましたが、政府による緊急事態宣言解除、東京都による「東京アラート解除」、都内各施設への緩和要請の全面解除を受け、また主要ルーテル教会および近隣教会の礼拝再開状況にも鑑みて、むさしの教会では、7月5日(日)主日礼拝より、以下のような条件の下で、教会に集まる礼拝を再開することにいたしました。
1. 体調不良症状のある方は礼拝出席をご遠慮ください。
※発熱:37度以上、咳・嘔吐・味覚障害などCovid-19の特徴的な症状の方
2. 礼拝のライブ配信は継続しますので、当面の間、礼拝ライブ配信を受信可能な方はできるだけご自宅での礼拝を引き続きお願いします。
※礼拝出席人数の傾向を見て徐々に緩和したいと考えております。
3. 万が一、礼拝出席者に感染者が発生した場合に連絡が取れるよう、受付にて出席者全員の氏名・ご連絡先の記帳をお願いします。
4. 教会滞在中は必ずマスクを着用してください。
5. 礼拝堂の定員は20名とします。(着席位置に印をいたします。)
人数が多い場合は、2階コピー機室・母子室、1階・2階集会室も利用します。
6. その他、「三密」・接触を避けるための対策をいたしますので、皆様のご理解とご協力をお願いします。
※礼拝の簡素化、 受付にての献金お捧げ、など。

このところ、東京都内の新規感染判明者数が増加傾向にあり、
 礼拝再開の予断を許さない状況であると認識しております。
 感染の危険性が大きくなったと牧師・役員会で判断した場合は、
 7月5日を含め、各主日の前々日の晩までに礼拝中止のご連絡をいたします。



☆ご質問・ご希望等あれば、牧師・役員までお寄せください。

教会全体にとって試練の時ですが、近くお会いできるかも知れない方々も
ご自宅で礼拝を守られる方々も、同じ日差しと雲の下、見えないキリストの絆で繋がっています。主がいつもわたしたち一人一人と共におられるように。

 

                          むさしの教会 牧師 浅野直樹
役員一同

【音声版・テキスト】2020年6月28日 説教「キリストと一つ」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第四主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書10章40~42節



前回、お話しましたように、先週の福音書の日課は、大変厳しい箇所だったと思います。その底辺には、「迫害」ということが流れている、といったこともお話しました。その中でも、やはり私たちにとって大変気になったのは、34節以下の言葉だったのではないでしょうか。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。

平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」。先ほどの「迫害」という言葉を使うならば、家族の者から迫害されるようになる、ということでしょう。

先週も「歴史」ということをお話しましたが、この家族から迫害されるといった事例も枚挙にいとまがない訳です。

静岡時代に親しくしていただいた救世軍の先生からこんな話を聞いたことがあります。その頃すでに引退をされていましたので、昭和30年代のことでしょうか。その方の夫人は会津の旧家の出だったようです。女学校時代から救世軍の教会に通い、信仰を養って来られましたが、ある時、神学校(救世軍では士官学校と言いますが)に行くことを決意されました。それを知った家族は大反対をする。家族どころではない。親族皆が大反対をし翻意を迫った。

しかし、この方の決意は変わらず、神学校に行く道を選ばれたのですが、家族からは勘当されてしまったそうです。私はその時、大変興味深くその話を聞いていましたが、そんな例はおそらく少なくなかったでしょう。イエスさまを信じている、従おうとしているというだけで家族の中に仲違いが生まれてしまう。波風が立ってしまう。そんな現実が、おそらく今でもある。

特に、日本のように、家族の中で信仰者は自分一人だけ、といった状況ではより多く起こっているのかもしれません。そういった家族の中で信仰者はどんな態度をとるのか。もちろん、いろいろと考えられるでしょうが、大きく分けると、「脅迫」と「妥協」と言えるのではないでしょうか。他の家族の者に信仰を強要する。信仰の名の下に家族を断罪する。高圧的な態度で自分を正当化する。

自分を守るためにも、どこか攻撃的になってしまう。それも、信仰を大切にすればこそ、で分からなくもありませんが、しかし、多くの傷を生んでいることも事実です。30代の頃学生会を担当していましたが、そういったキャンプに参加する学生の幾人かは、信仰者の親から受けた、ある意味パワハラ的な言動によって信仰的な事柄や教会がトラウマになってしまっていました。

また、その傷は根深いようで、大人になってもそういった子どもの頃に受けた傷が信仰生活や教会生活のみならず、様々な現実生活にも暗い影を落としている現実も見えて来ます。
おそらく、それよりも多いのが「妥協」といった態度でしょう。家庭に影響を与えない程度に信仰生活を守ろうとする。それは、信仰よりも̶̶信仰とはイエス・キリストに従う、ということですが̶̶家族の方が優先順位が高いからです。家族関係が第一。それも良く分かる。私自身、このどちらも…、「脅迫」も「妥協」も身に覚えがあります。

つまり、どこかで、この信仰…、イエス・キリストに従うことと家族を大切にすることとが相容れないことだと分かっているからです。もちろん、聖書は家族を大切にすることも語っている。それも神さまの御心だと私たちは知っています。ですから、それに従おうともする。しかし、いざという時、どちらかを選ばざるを得ない時が来ることを、「わたしをとるのか、わたしたちをとるのか」と迫られるようなものでもあることを知っているからこそ、その決断がなかなかつけられなくて、どこか逃げ腰に「脅迫」と「妥協」という当面は安全と思える世界へと逃げ込もうとしているのではないか。そんなふうにも思えるのです。

ともかく、キリスト教信仰とはそういうものです。何よりも、イエスさまご自身がそれらを経験して来られた。本来ならば、誰よりも分かってくれる、理解してくれる、賛同してくれるはずの家族が、「気が狂った」と心配になって、その活動を辞めさせようとしたからです。もちろん、そんな家族にも言い分がある。イエスさまを心配したからこそそうしたのだ、と。愛すればこそ、なのだと。そもそも、信仰とは二分してしまうものなのです。

信じるか、信じないか。受け入れるか、拒絶するか。賛同するか、反対するか。従うか、従わないか。確かに、信仰の持つ性格からしても、そういったことが自然に起こるのです。それも、事実。しかし、このイエスさまのお言葉は、そういったことが自然に起こってしまうから仕方がないよね、ということだけでもないように思うのです。なぜならば、ここでイエスさまは積極的に、「もたらすために」「させるために」と語っておられるからです。そして、こうも語られる。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」。大変厳しい言葉です。先ほど言った優先順位ということです。ここで優先順位を変えろ、とおっしゃる。家族ではなく、わたしのことを優先順位の第一位にしろ、とおっしゃる。だから、不和が起こる。ですから、積極的に不和を起こそうとしているかのようにも聞こえる訳です。

しかし、そうではありません。たとえ、そのことのゆえに不和が生じてしまうことが起ころうとも、わたしに従うことを第一にしろ、とおっしゃっておられるのです。重要なのは、そのことです。では、イエスさまはそのことを要求するあまりに、家族のことなどどうでも良いと思っておられるのか、といえば、そうではないでしょう。イエスさまはこう言われる。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。

「命」は私たちにとって最も大切なものです。ですから、この場合、最も大切なものとして「家族」と言い直しても良いのではないか。つまり、自分の家族を必死に得ようとしても、それだけでは失ってしまうかもしれませんが、家族よりもイエスさまのことを優先することが、実は家族のためにもなるということではないか。そう思うのです。私自身、自分の家族…、妻や子どもたちを大切にしているつもりです。

彼らのためには、出来ることは何でもしてあげたい、とも思っている。しかし、私は明日死ぬかもしれない。そうなると、家族は路頭に迷います。助けてあげたいのに、何一つ助けてあげられない。私自身、そんなちっぽけな人間だと痛感する。本当に家族のことを思うならば、どなたに委ねることが最善なのか。そんなことを、最近はつくづく考えてしまいます。

ですから、家族よりもイエスさまを優先させるということは、先ほど言った「脅迫」とは全然異なるものであることが分かると思います。それらは、結局は信仰の名を借りた独りよがりな自己満足に過ぎないからです。イエスさまの思いは家族をも大切にすることです。しかし、それでも、いいえ、その上で、わたしにまず従え、とおっしゃる。

イエスさまに従うということは、家族をないがしろにしたり、断罪したり、喧嘩腰になることではありません。逆に「妥協」して信仰者らしい振る舞いをしないことでもない。イエスさまのお言葉に従って忍耐し、祈り、赦し、愛を貫いていくことでもある。

柔和な心で穏やかにイエスさまの恵みを証ししていくことでもある。そういったことに反感を持たれながらも、たとえ相手が変わらなくても、なおも従っていけるようにと祈りつつ志を立てていく。そうではないか、と思うのです。

『信仰の寓意』 ヨハネス・フェルメール 1670年〜1672年頃制作。メトロポリタン美術館蔵 *1



最初に言いましたように、先週の日課は「迫害」といったことが底辺にあった訳ですが、もう一つ大切なことは、「宣教」ということでした。それは、10章16節にこうあるからです。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。

ですから、この「宣教」となんらかの「迫害」…、妨害工作や家族をはじめとした人々との不和が切っても切れない関係として描かれている訳です。そんな厳しい宣教の現実の中にも、好意的な人々がいてくれると言われている。それは、本当に心強いし、嬉しいことです。それは、私たちにも良く分かることです。迫害のない現代でも、正直ドキドキします。案内一つ配るにしても、どんな反応が返ってくるのか、と不安になる。

大方は、一応日本人らしい礼儀正しさから受け取ってくれます。時には、あからさまに拒否されたり、厳しい一言が返ってくることもある。私ばかりではない、多くの人々が経験してきたことでしょう。そんな中でも好意的に接してくれる人々がいます。むかし教会に行ったことがあるのよ、とか、ミッション系の学校に通っていたの、とか、心和む反応をしてくださる方々もいる。そして、実際に集会等に来てくださることもある。

本当に嬉しいし力づけられます。そういったことがなければ、心が折れてしまうと言っても言い過ぎではないと思います。本当にそうです。だから、がんばろうという気にもなれる。しかし、今日の箇所では、もっと大切なことがある、というのです。それは、次の言葉です。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れる、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」。私たちは気づいていないかもしれませんが、イエスさまと一つとされている、ということです。神さまと一つとされている、ということです。孤独に戦っているように思えても、そこにはイエスさまが、神さまが共にいてくださる。

ドキドキしながら、不安になりながらしているときも、ちょっとした喜びに心躍らせている時にも、手厳しい反応にがっかりしているときにも、もう二度とこんな気持ちを味わいたくないと思っている時にも、心からってなかなか思えなくて、仕方なくと思っている時にも、イエスさまは、神さまは共にいてくださる。

家族の中でも思うようにいかなくって、イエスさまに従おう従おうとすればするほど、イエスさまの愛に生きよう生きようとすればするほど、かえって浮いてしまったり、孤立感を感じてしまったり、軋轢を生んでしまうような時にも、イエスさまは、神さまは共にいてくださる。そして、この私に水一杯でも飲ませてくれる者に、必ず報いてくださると約束してくださっている。

たとえ家族がそんな大層な思いでなくても、キリスト者である私を相変わらず家族として迎え入れてくれているということは、わたしを…、イエスさまを、神さまを受け入れていることと同じことなのだ、とさえ言ってくださっている。だからこそ、なのです。単に、わたしに従え、というだけの方ならば、私たちは付いて行けない。やはり家族は捨てられない。

しかし、この私のことばかりでない、私たちの家族のことも、私たちのことを受け入れてくれる人々のことも、ちゃんと考えてくださっている方だからこそ、私たちは何よりもこの方のことを第一としていけるのではないか。そう思うのです。

《 祈り 》
・梅雨の時期も3分の1ほどが過ぎましたが、今年も局地的な豪雨が続いています。これも温暖化の影響なのか、以前の梅雨とは異なり、降る時には猛烈な雨が降り、災害にまで発展してしまいます。昨日から九州地方では猛烈な雨が降って、災害が心配されていますが、どうぞ大きな被害が出るような災害とならないようにお守りください。このところ毎年のように深刻な被害が出てしまっていますが、どうぞ憐れんでくださいますようにお願いいたします。

・このところ都内では50名前後の新規感染者数が出ており、心配しています。経済活動との両立という難しい時代に入っていますが、以前のように医療機関が逼迫するような事態にならないように、それぞれが自分たちができる対策をしっかりしていくことができるようにお導きください。

世界では本当に深刻な状態が続いていますが、特に医療機関にも十分にかかることのできない貧しい方々から多くの犠牲者が出ているとも聞きます。どうぞ憐れんでくださいますようにお願いいたします。

・アメリカをはじめ、あちらこちらの国々・地域で、人種差別に端を発して、様々なことが問い直されているとも聞きます。日本人の中にもアジアの方々に対する差別意識や優越思想が根強くあるようにも感じています。過去の過ち、現代の課題、問題意識にも真摯に向き合い、少しでも御心に叶った判断を一人一人が志していくことができますように、どうぞ導いてください。

・現在、紛争下にある国々や貧困者の多い国々などの食料不足がより深刻化していると言われています。それは、この新型コロナの影響で物資の移動が困難になったり、また、感染の危険から職員を守るための人員不足などによるとも言われています。全世界規模のパンデミックで、それぞれの国でも余裕がないのでしょうが、どんどんと置き去りになってしまっている国々、人々を思うと胸が痛みます。私たちができることといえば、ほんのわずかなことですが、それらの人々のためにも祈りつつ、小さな援助の業を行うことができるように。また、援助する国々、団体も多く起こされますように、どうぞ憐れみお助けください。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン



*1ウィキペディア:『信仰の寓意』ヨハネス・フェルメール

-週報- 2020年6月28日 聖霊降臨後第4主日礼拝

 



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 最愛なるイエスよ、われらここに     J.S.バッハ

初めの歌  9( ちからの主を )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

特別の祈り

力(ちから)なる神(かみ)さま。
生まれながら弱い私たちは、あなたによらないで正しいことを行うことができません。あなたの戒めを守り、思いと言葉と行いのすべてで、あなたに仕えることができるように、み力で支えてください。


み子、主イエス・キリストによって祈ります。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 

第1 の朗読 エレミヤ書 28:5-9( 旧約 1229頁)

第2 の朗読  ローマの信徒への手紙 6:12-23( 新約 281頁)

福音書の朗読 マタイによる福音書 10:40−42( 新約 19頁 )

みことばのうた 85( 主の真理(まこと)は )

説教 「 キリストと一つ 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 338( 主よ、おわりまで )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  344( とらえたまえ、わが身を )

後  奏 我は汝に呼ばわる、主イエスキリストよ  J.S.バッハ

* 前奏・後奏(上村朋子 選曲)

Live配信:2020年6月28日 主日礼拝 説教 「 キリストと一つ 」 浅野 直樹 牧師

こちらからご覧下さい(YouTube動画Web Site)

【テキスト・音声版】2020年6月21日 説教「困難な時代を生きる」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第三主日礼拝説教



ライブ配信はこちらからご視聴できます。

 

聖書箇所:マタイによる福音書10章24~39節

今朝の福音書の日課は、大変厳しい内容の箇所でした。日課ではありませんでしたので読みませんでしたが、今日の箇所の小見出しに「迫害を予告する」とありますように、10章16節以下には「迫害」について記されています。ですから、今日の日課の底辺に流れているのは、「迫害」ということでしょう。

ご存知のように、キリスト教の歴史は迫害の歴史でもありました。おそらく、この福音書を最初に読んでいた教会の人々も、程度の差こそあれ、様々な迫害に遭っていたことでしょう。キリスト者…、キリストを信じる者というだけで、人々から疎んじられ、白眼視され、陰口を叩かれ、罵詈雑言を浴びせられ、時には実際に暴力までも振るわれる…。中には、そんな嫌がらせ、迫害に耐えかねて教会を去って行った人々もいたでしょう。それが、この箇所を読んでいた人々の現実でもあった。

幸いにして、今の私たちは、この箇所を読んでも縁遠く感じていられます。先ほど言いましたように、知識として、過去に起こっていた出来事としては理解できても、自分のこととしては感じずに済んでいるからです。信教の自由が保障されている現代日本では、信仰という事柄だけではあからさまな嫌がらせなどを受けることは、まず滅多にないでしょう。

The Procession To Calvary(ゴルゴタの丘への行進) 1564,Pieter Brueghel The Elder ※1



また、近年は随分と変わったとしても、今だにキリスト教のイメージは日本ではそれほど悪くないと思います。西洋美術に西洋音楽、むさしの教会にもあります素敵なステンドグラスにヨーロッパを思わせる建築物。そういった文化的なものに憧れや関心を持つ人々も決して少なくないからです。そして、なんとなく抱いているキリスト者のイメージも決して悪くはない。ですから、イベントごとには、結構多くの方々が来てくださいます。

先ほどは、キリスト教は迫害の歴史だ、と言いました。確かに、そうです。そして、大方は、キリスト教は迫害を受けた側だと理解していることでしょう。しかし、実はそうではないのです。キリスト教の迫害の歴史は、被害者でもあり加害者でもあるからです。

このところ、時間が与えられていますので、いろいろと本を読ませてもらっています。その中で、改めてキリスト教の歴史についての本を読みました。正直、後味が悪かった。

物事には光りと影があるものです。キリスト教の歴史も例外ではないでしょう。しかし、光どころではない。あまりに影が濃くって光が見出せないほど惨憺たるものでした。もっとも、著者がそういったこともしっかりと記そうとしたからなのかもしれませんが…。権力闘争、聖職売買、あらゆる堕落、信仰の名の下の流血…、等々。確かに、教会は迫害を受けて来た。

日本におけるキリシタンの迫害もまさにそうでしょう。しかし、一方で、教会も他の人たちを迫害してきた。同じキリスト者同士であっても迫害をしてきた。しかも、残虐極まりない方法で。そういった歴史が確かにある。迫害のことばかりではありませんが、私たちキリスト者たちも、そういった現実を真摯に受け止めなければならないと思います。

そして、そういった教会の様々な過ち、思惑も含めて、政治、経済、不満の爆発などが歴史を動かして行く。はっきり言って、そこに正義はあるのか、と思う。もちろん、彼らはそれを正義だと主張し、場合によっては本当に正義だと思い込んでいるのかもしれませんが、しかし、所詮は自分たちの利益のために他ならない。そして、虐げられてきた者たちが爆発し、大抵は血を流して終わるのです。

現在のコロナ禍の中で見えて来たものがある、と言われます。あるいは、「コロナ後の世界」といったことも言われています。アメリカで起こった大きな人種差別に対する抗議運動もその一つかもしれません。潜在化していた紛れもない問題が、このコロナ禍で顕在化してきた。

あるいは、近頃の北朝鮮の過激な言動も関連があるとも言われています。経済封鎖の上、このコロナ禍での危機的な状況がその背後にあるのではないか、と指摘されているからです。ともかく、人々は、あるいは人類は、危機的な状況の中でどう動くか分からないのです。

今まで通りの秩序や価値観が維持されるとも限らない。そこで、権力闘争がおこり、経済的理由で混乱が生じ、不満分子が一気に火を吹き暴動が起きるかもしれない。その矛先が、私たちに向けられないとも限らない。

もちろん、そういった可能性は大きくはないとは個人的には思っていますが、しかし、歴史を見れば、そういった理性では測ることのできない激動が決して起こらないとも言えないわけです。

たとえ、そうでなくても、現実においても私たちはある種の不安をいつも抱えているのかもしれません。なぜ公に、自分がキリスト者であることを言い表せないのか。そのために不利益を被ることを恐るからです。人々の自分を見る目が気になるからです。

今まで通りの付き合いができなくなるのではないか、と不安になるからです。プチ「迫害」への恐れ、です。私にも、記憶がある。まだ牧師になる前の私は、一人の普通のキリスト者でした。いいえ、どちらかと言えば不熱心なキリスト者でした。堂々と自分がキリスト者だと言えるときもあれば、隠してしまう時もあった。

なんとなく雰囲気を感じ取って、言わない方が無難だな、と思うような時も決して少なくありませんでした。ですから、言えない気持ち、言いたくない気持ちも良く分かります。しかも、ことは表明するかしないか、だけでもありません。

キリスト者としての生き方、あり方を前面に出すことを躊躇してしまうことがある。キリスト者である自分の価値観からすれば間違っていると思っても、なかなか言えない。何か言ようものなら、「お前はクリスチャンだから」と揶揄されることを恐れてしまう。間違っている、良くないと思いながらも、なんとなく付き合ってしまう。その方が平和だから。

それは、職場や社会の中だけでもないわけです。家庭の中でもそう。信仰の事柄よりも波風立てないことを優先してしまう。それは、決して信仰者ではない家庭の中に止まりません。いわゆるクリスチャン・ホームと言われる中でも起こることです。同じ信仰を持つ者たちであっても、ほどほどがいいのです。熱心すぎると困るので
す。自分の生活が脅かされるような熱心さは不要なのです。だから、献身したいと言い出すと、とたんに反対し、その熱心さを咎めるクリスチャン家庭もある。何事もほどほどがいい。平和を失いたくない。その気持ちも良く分かります。

ともかく、今日の箇所は私たちと無関係だ、と過ごすわけにはいかないのです。遠い過去のこと、歴史の一場面と安易に捉えることも間違いなのです。25節にこう記されています。「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。次週の日課にありますように、私たちのことを受け入れてくれる人々は確かに存在します。キリスト者だといった理由だけで良くしてくれる人も確かにいる。

しかし、イエスさまがそうだったように、どうしてか分かりませんが、反対する者たちも多くいるのです。私たちの目からすれば不思議でならない。真理を語り、愛に富み、良きことをしているのに、そのことを目の当たりにしているはずなのに、なぜか反発する人々が確かにいるのです。偽善者扱いし、悪魔に取り憑かれているとさえ言う。

イエスさまがそうであったならば、イエスさまの弟子であるあなたがたもそうではないか、と言われるのです。悪を行ったからではありません。不正を働いたからでもありません。善を行ったにも関わらず、イエス・キリストと関わりがあるというだけで、宣教したというだけで迫害を受ける。それが、弟子たちの姿でもあった。だから、イエスさまはこうも言われる。

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。天を見上げることが必要なのです。あの最初の殉教者であったステファノもそうでした。まさに石を投げつけられようとした時、彼は天を見上げてこう言いました。

「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。私たちの力、希望は全てこの天の神さま、父・子・聖霊なる神さまにかかっている。確かにそう。しかし、ではこの私たちが、かつての信仰の英雄たちと同じように迫害に対峙できるのか、と言えば、自信満々に「そうだ」と答えらえる人はまずいないでしょう。

「迫害」と言えば、遠藤周作の『沈黙』を思い出さずにはいられません。ご存知のように、キリシタン迫害下が舞台ですが、その弾圧の苛烈さに目を覆いたくなるほどです。その迫害下にあっても、勇敢に最後まで信仰を貫き通して殉教の死を遂げて行く信仰の英雄たちもいれば、そのあまりの過酷さに棄教する者たちも多く出て来ます。その弱さの代表なのが、もう一人の重要人物キチジローでしょう。

すでに迫害下の中にあった日本に、主人公のロドリゴは秘密裏にやってきて、隠れキリシタンたちを力づけていきますが、先ほどのキチジローに裏切られ、囚われてしまいます。当時のカトリック宣教師たちにとって、殉教は大変名誉なことでしたので、ロドリゴも殉教することを願いますが、しかし、自分が棄教しない限り、代わりに信徒たちが拷問され続けることを知って、ついに彼は信徒を救うために棄教することを決意します。信仰を捨てたくないのに捨てざるを得ないロドリゴ。

自分の弱さの故に信仰を捨てる決意をしたものの、しかし、捨てきれずに自分の弱さを後悔し続けるキチジロー。どちらの気持ちも痛いほど良く分かる。先ほども言いましたように、迫害にあっても最後まで信仰に生きた信仰の英雄にこそ神さまは目を留めてくださる。そう考えるのが伝統的な信仰理解だったでしょう。

しかし、遠藤は、人の弱さにこそ目を留めてくださっている神さまのお姿を明確に示していきました。確かに、私自身も、弱さのために信仰を守り通すことのできなかった、棄教してしまった、転んでしまったキチジローのような弱き信仰者たちも、神さまは英雄たちと同じようにお救いくださると信じています。しかし、それでも、この言葉はどうしても無視できないのだと思うのです。

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。

どんな迫害が来ても微塵も動じず、殉教さえも厭わない信仰の英雄が必ずしも望まれているのではないと思います。誰からも揶揄されない、恥じることのない立派な人物が求められているのでもないと思います。一度でも失敗したらもうアウトということでもないでしょう。

現に、この言葉を直に聞いた弟子たちは、この通りには生きられなかったからです。ペトロなどは、三度もイエスさまを知らないと言ってしまった。だからこそのイエスさまの十字架だと言えるのです。罪の赦しです。弱さの労りです。しかし、そうであっても、私たちはこの言葉の前に言い逃れをして良いのか、とも思う。弱さがあっても、失敗があっても、反省があってもいい。

それと、無視することとは違うからです。私たちは英雄にはなれないのかもしれない。やはり、不安で恐れるのかもしれない。目に見える迫害がない時代でも、その不安は消えないのかもしれない。しかし、いいえ、だからこそ、私たちは聖書を通して、ますますこの方を、普段私たちが見えている現実ではなく天を、天の現実を見る必要があるのだと思うのです。ペトロをはじめ、弟子たちを変えていった現実を。英雄にはなれなかった、弱さを嘆いてきた多くのキリスト者たちをそれでも立ち上がらせていった現実を。

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐るな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。

「小鳥への説教」(画:ジョット、1305年頃)※2



《 祈り》
・今、北朝鮮と韓国とが、大変厳しい状況に置かれています。傍若無人(ぼうじゃくぶじん)で悪質な北朝鮮の謀略行為ですが、一方で餓死者が出るほどの厳しい国内事情の現れだとも言われています。

もともとの農作物の不作に加え、新型コロナによる国境封鎖の影響で食料の供給が滞り、1990年代に300万人もの餓死者が出た頃に迫る危機的な状況とも言われています。核兵器問題を抱える北朝鮮のためにどのように祈れば良いのか分かりませんが、しかし、いつでも虐げられ、苦しい思いをするのは、弱き者たちですので、国同士のいざこざやプライドによるのではなく、弱者のための解決を双方がまず求めることができるように、国の指導者や国民たちを、また世界の世論を導いてくださいますようにお願いいたします。

・アメリカからはじまった人種差別における抗議運動も続けられています。それは、世界中で現に人種差別が横行しているといった事実があるからでしょう。日本も他人事ではありません。日本では「白人」「黒人」といった差別はないのかもしれませんが、同じアジアの人々に対しては少なからず差別意識を持っているのかもしれません。

現に、アジアの人々に対する差別的なヘイトスピーチが後を絶たないからです。どうぞ、人種差別をはじめとした様々な差別がなくなりますように。一人一人の人権を大切にする世界が広がっていきますように、私たち一人一人の意識を変えていってくださいますようにお願いいたします。

・現在、紛争下にある国々や貧困者の多い国々などの食料不足がより深刻化していると言われています。それは、この新型コロナの影響で物資の移動が困難になったり、また、感染の危険から職員を守るための人員不足などによるとも言われています。全世界規模のパンデミックで、それぞれの国でも余裕がないのでしょうが、どんどんと置き去りになってしまっている国々、人々を思うと胸が痛みます。

私たちができることといえば、ほんのわずかなことですが、それらの人々のためにも祈りつつ、小さな援助の業を行うことができ
るように。また、援助する国々、団体も多く起こされますように、どうぞ憐れみお助けください。

・新型コロナの脅威からも人々を守ってくださいますように。医療従事者たちを顧みてくださいますようにお願いいたします。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン



 

※1, ゴルゴタの丘への行進 – 中央に十字架を担うキリスト、右上にゴルゴダの丘
※2,フレスコ画、サン・フランチェスコ聖堂上堂、アッシジ

-週報- 2020年6月21日 聖霊降臨後第3主日



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 アリア(組曲・水上の音楽より) G.ヘンデル

初めの歌  6( われら主をたたえまし )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

特別の祈り

すべての民の主なる神さま。

あなたはあなたの民にみ心を示し、あなたの民を救う約束を与えられました。
私たちがあなたの戒めに耳を傾け、み旨を行うために、あなたの強い力で
支えてください。

み子、主イエス・キリストによって祈ります。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

第1 の朗読 エレミヤ書 20:7-13( 旧約 1214頁)

第2 の朗読  ローマの信徒への手紙 6:1b-11( 新約 280頁)

福音書の朗読 マタイによる福音書 10:24−39( 新約 18頁 )

みことばのうた 249( われつみびとの )

説  教  「 困難な時代を生きる 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 273A( わがたましいを )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  494( わが行くみち )

後  奏 イエス、わが喜び   J.S.バッハ

* 前奏・後奏(小山泉 選曲)

Live配信:2020年6月14日 主日礼拝 説教 「 わたしたちも行こう 」 浅野 直樹 牧師

こちらからご覧下さい(YouTube動画Web Site)

【音声版・テキスト】2020年6月14日 説教「わたしたちも行こう」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第二主日礼拝説教



Live版はこちらから

聖書箇所:マタイによる福音書9章35~10章8節

先程お読みした第一の朗読は、出エジプトの物語の一場面でした。ある方の言い方をすれば、旧約聖書の中でも最も大切な意味を持つものの一つ、ということです。

ご承知のように、イスラエルの民はアブラハムに遡ります。神さまのお告げを受けたアブラハムは、故郷を捨てて神さまが示された地、子孫に与えると約束された土地であるパレスチナに移り住みます。そこで、約束の子としてのイサクをもうけ、イサクはヤコブをもうけました。

このヤコブは4人の妻によって、後のイスラエルの12部族の始祖ともなる12人の息子たちを得ることが出来ましたが、父に溺愛されていたヨセフを妬んだ兄たちは、ヨセフを奴隷商人に売り飛ばしてしまいます。奴隷としてエジプトに連れてこられたヨセフは不遇な青年期を送りますが、王さまの夢を解き明かす機会が与えらえ、見事解き明かしたヨセフを気に入った王さま・ファラオはヨセフを宰相に取り立てます。

その頃、飢饉に見舞われていたパレスチナからヨセフのいるエジプトに兄たちが穀物を買いに来たことから再会を果たし、紆余曲折はありましたが和解することが出来、父ヤコブも含めた一族揃って、ヨセフを頼ってエジプトに住むことになりました。この頃は、ヨセフのおかげでイスラエルの民たちも特権的な地位を得ていたわけですが、時代が移り、政治情勢が変わったことによって不遇な時代へと突き進むようになりました。イスラエルの民たちは奴隷とされ、強制労働に酷使されるようになったのです。



また、新たに生まれてくる男子の赤子を皆殺しにするようにとの命令まで受けるようになります。まさに、民族存亡の危機でした。そんな圧政に苦しんでいた民を救い出すために、神さまはモーセを立てられ、出エジプトを計画されたのです。10の災いを含めた王との様々なやり取りを経て、ようやくイスラエルの民たちは、エジプトから出ていくことが出来ました。

その時に、あの有名な、いわゆる「紅海渡渉」の奇跡も起こりました。エジプトからの脱出を果たしたイスラエルの民たちでしたが、約束の地であるパレスチナまでの道のりも、決して簡単なものではありませんでした。その途中に立ち寄ったシナイ山の出来事が、今日お読みした19章から続いていくことになります。

そのシナイ山でモーセは神さまから次のような語りかけを聞きます。(3節~)「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。

あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる』」。これは、イスラエルの民たちと神さまとの基本的な関係性と言えるでしょう。強いて言えば、私たち人と神さまとの関係性と言っていいのかも知れません。まず神さまはモーセに、今ここにいるイスラエルの人々が確かに「見た」という事実を告げよ、と言われます。見た、とは、体験した、と言っても良いでしょう。彼らは、確かに体験した。何を。救いを、です。

この出エジプトの出来事は、イスラエルの人々にとっては、全く予期していなかったこと、期待もしていなかったことでした。たとえモーセが非常に有能な人であったとしても、人ひとりの力で一体何ができるでしょうか。エジプトの人々からすれば、イスラエルの民たちは、安価で使い勝手のいい労働力です。不都合になれば、殺してしまえばいい。

彼らにとっては、一つの自分たちの所有物、財産にすぎない訳です。そんなものをみすみす手放すはずがない。事実、先ほど「10の災い」と言いましたが、なぜ10もの災いが必要だったかと言えば、その都度王さまが心変わりをしたからです。やはり、王さまをはじめ、エジプトの人々にとっては手放すのは惜しい存在なのです。しかも、当のイスラエルの人々からもモーセは一切支持されていませんでした。むしろ、モーセの訴えに懐疑的だった。そんなことが起こるはずはない、と。

“エジプト第七の災い”, ジョン・マーティン, 1824年 Leona R. Beal Gallery (European Art 1800–1870)



むしろ、モーセの企みは自分たちをより窮地に追い込むようなものだと否定的だった。ですから、この出エジプトの目論見など成功するとは思えなかったのです。当のモーセ自身も最初はそう思い、神さまから遣わされることを躊躇したほどです。しかし、そんな彼らが「見た」のです。救いの業を。不可能と思われていたことが、現実に起こっていくさまをつぶさに見ていた。そして、自分たちの気持ちも変わっていくのが分かった。だからこそ、それは神さまの業、救いの業でしかないことを信じたのです。

不可能なことを可能にできるのは神さま以外にはありえないからです。ですから、こう言われる。「あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたことまた、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを」。だからこその、「今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば」なのです。何の根拠もなく、そう命じられたのではない。強要されるのでもない。

確かに、あなたがたは見たはずだ。わたしがあなたがたを救ったことを。ならば、「わたしの声に聞き従い わたしの契約を守る」ことも無理からぬことではないか、と。これは、約束の伴う自発的な応答への勧めです。神さまの救いのみ業を見たからこそ、自ら進んで答えることのできる盟約なのです。ですから、その救いの出来事の記憶も新しい彼らイスラエルの民たちはこう言うことができた。「民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』と言った」。

どうでしょうか。この言葉を語った時の民たちの喜びの表情が見えて来ないでしょうか。彼らはこのとき、確かに、強いられてでも強制されてでもなく、嫌々でも無理矢理にでもなく、あの悪夢とも思えるような現実から救ってくださった神さまに対して、喜んで、真心からこう語ったに違いないと思う。しかし、私たちは知っている。その後、この民たちがどのようになっていったかということを。先ほども言いましたように、確かに約束の地であるパレスチナへの道のりは決して簡単なものではありませんでした。

こんなはずではなかった、期待外れだった、と思えるような現実も多々あった。それらは確かに、同情できない訳ではない。しかし、彼らは、自分たちを苦しめていたエジプトを懐かしむことさえしだした。エジプトから出て来なければよかった、とさえ語りだした。つまり、救われなかった方がまだましだった、と言っているようなものです。神さまの救いの業の全否定と言ってもいい。しかも、彼らは他の神々、いわゆる偶像に心が奪われるまでになっていった。

つまり、神さまの救いの業の全否定に飽き足らず、他の救いを求めていた、ということでしょう。これは、明らかに、神さまを捨てた、ということです。神さまが人を、イスラエルの民たちを捨てたのではない。彼らが、イスラエルの民たちが、人が神さまを捨てた。当然、そんな状態では、この契約は破棄されたことになる。もはや、神さまにとって、彼らは「宝」でなくなるのは当然のことでしょう。神さまから見限られてもおかしくない。これが、イスラエルの民たちが辿った道筋です。いいえ、イスラエルの民たちに限定できるのだろうか。

私たちにだって身に覚えがあるはずです。明確に神さまを捨てた自覚がなくても、他の神々に乗り換えた覚えはなくても、神さまから遠く心が離れてしまい、もはや救いの事実も見えなくなってしまっている現実、信頼も期待もおけていない現実がある。そう、神さまが私たちを捨てたのではない。私たちが神さまを捨ててしまっている現実です。

そんな民たちを神さまがお怒りになるのも当然でしょう。私たちはどうも、この神さまの怒りに対してとことん否定的です。愛が裏切られたときの怒りが当然だということを知っているのに。私たちも心痛め、怒る。相手を愛しているからです。その愛している者の裏切りだからこそ怒りが生まれる。では、裏切られた者は、どんな態度に出るのか。復讐をしたくなる。同じ痛みを味わわせてやりたい、と思う。もう金輪際顔も見たくないと関係を断絶したくなる。



そういった神さまのお姿も、聖書には度々記されている。そうする権利が神さまにはある。一方的に裏切られ、契約が破られたからです。そうしても良かった。そんなそぶりも見え隠れしていた。しかし、神さまはどうしてもイスラエルの民たちを、人を、私たちを、見捨てることができなかった。愛することを止めることができなかった。憎しみに身をまかせることができなかった。

そして、本来あるべき救いの方法…、先ほどの出エジプト記に記されているような自発的な応答による契約では人を救い得ないならば、と他の方法を模索された。それが、今日の第二の朗読、神の独り子イエス・キリストによる贖いを信じる、という方法なのです。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

……実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。

今日の福音書で、イエスさまが宣教をされていた動機がこのように記されていました。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。イエスさまから見れば、神さまから離れてしまっている民たちの姿はそのように映っていたのです。もちろん、彼らはユダヤ人です。信仰がない訳ではない。しかし、当時の彼らの多くは神さまの愛のお姿も、救いのみ業も、自分たちを思いやってくださっている心も見えなくなっていた。

だからといって、そのことを銘々が自覚していたということとはイコールではないのです。羊飼いからはぐれてしまっていても気づかないことがある。その羊飼いの必要性・重要性に無自覚なときもある。目の前に広がっている草、現実ばかりしか目に入っていない時には、案外気づかないものです。外敵に襲われた時、食料がなくなったとき、喉が乾いた時、つまり、自分にとって危機的な状況に陥らなければ、羊飼いの不在に気づかないのかもしれない。

だから、ある意味のんきに生きることができる。しかし、困難が起こった時、生きるべき、向かうべき方向、道が見えなくなってしまった時、死の危険、恐れが迫って来た時、羊飼いのいない私たちは、とたんに太刀打ちできなくなるのです。イエスさまの目には、私たちはそんなふうに映っていた。だから、弟子たちに収穫の主である神さまに働き人を与えてくださるように祈るようにと促し、弟子たちを宣教へと遣わされました。

もう時間がないので一言。私たちも含めてかもしれませんが、「飼い主のいない羊」のように弱り果てておられる方々がこの世界には多くおられます。しかも、その大多数は、そのことに無自覚でいる。神さまと離れているのに、のんきでいる人々がいる。だから、宣教が必要なのです。そののんきさは永遠に続くものでは決してないからです。必ず「羊飼い」がいないことに困ってしまうときがくる。だから、宣教する。そして、その宣教に、私たちもまた用いられていることを、今日新たに覚えたいと思います。

ルカ・シニョレッリ『12使徒の聖体拝受』 Communion of the Apostles (Signorelli),1512,Diocesan Museum , Cortona



《祈り》
・日本各地が梅雨に入りました。特にここ数年は温暖化の影響もあってか、毎年大きな豪雨被害が出ています。今年の梅雨もそんな懸念が出されていますが、どうぞ憐れんでくださり、大きな被害が出ないようにお守りくださいますようにお願いいたします。また、今年は特に新型コロナの問題もあり、避難所生活などにおける危惧もあります。

一人一人が、新型コロナに対する意識ばかりでなく、災害大国に住んでいる意識を持ちつつ、普段から備えなども怠ることのないように、また、いざという時の対策なども事前にしっかりと立てて行くことができますように、特に災害弱者と言われる方々などに行政の手などがしっかりと届いていきますように、どうぞお導きください。

・また、蒸し暑い時期にもなります。例年、熱中症にかかる方々が多くでますが、今年は特に新型コロナの影響もあり、マスクなどの着用によって、より熱中症のリスクが高まるとも言われています。本当に、あれもこれもと大変な状況の中にありますが、どうぞ一人一人をお守りくださり、特に熱中症にもなりやすいご年配の方々などをお守りくださいますようにお願いいたします。

・日本では比較的落ち着いているように見えますが、世界では相変わらず新型コロナウイルスが猛威を振るっています。どうぞ、憐れんでください。日本でも、いつ危険な状態になるか分かりませんので、十分に注意をしていくことができますようにお導きください。
日本でも世界においても感染症対策と経済活動という相反する難しい課題の舵取りを同時にしなくてはならない状況におかれています。指導する者たちが適切な判断をしていくことができるように、政争の道具にしたり、一部の支持者向けの判断ではなく、必要な判断を適切にしていくことができるようにもどうぞお導きください。

・アメリカからはじまった人種差別における抗議運動も世界に広がっています。それは、世界中で現に人種差別が横行しているといった表れでもあるのでしょう。どうぞ、人種差別をはじめとした様々な差別がなくなりますように。一人一人の人権を大切にする世界が広がっていきますように、どうぞ導いてください。

・北朝鮮も不穏な動きを見せています。アメリカと中国もこの新型コロナによってますます難しい状態になっているとも言われています。それ以外にも対立している国々、指導者たちも多くいます。どうぞ、世界が平和になりますように、悔い改めに導いてください。
イエス・キリストの御名によって。

アーメン

【重要】4 / 5 / 6 月の礼拝について

みなさまへ

当教会では予てから来会者への新型コロナウイルス感染防止対策の一環として、 3月29日以降6月にまたがり主日礼拝は外出なさらずに『ご自宅での礼拝』で祈りを合わせていただいて参りました。

5/25(4/8 以降実施)政府の緊急事態宣言解除に伴い東京都の外出自粛要請の段階 的移行(Step1〜Step3)が実施される中、6/2発動された東京アラートも6/11解除 となりましたが、全てがままならない状況の中で、難儀されておられる方々も多いと 存じます。

当教会では現状の推移を鑑みて、集会形式の礼拝再開準備を進めておりますので、今暫くご自宅での礼拝に祈りを合わせていただきたく存じます。
再開のお知らせは、近日中に教会掲示板、ホームページ、メール、電話、葉書にて速やかにご案内の予定です。どうぞ、みなさまの上に主の豊かな平安とお守りをお祈り申し上げます。

当教会の礼拝内容(オンライン礼拝配信)・活動情報は随時、ホームページに掲載しておりますのでご覧ください。

日本福音ルーテルむさしの教会
牧師 浅野 直樹・役員一同

【音声版・テキスト】2020年6月7日 三位一体主日礼拝 説教「父・子・聖霊」浅野 直樹牧師

聖書箇所:マタイによる福音書28章16~20節



こちらからご覧下さい(YouTube動画Web Site)

このところ、祈りの言葉が変わったことに気づかれた方もいらっしゃるかもしれません。説教の終わりの祈りで、以前は「天の父なる神さま」と呼びかけていましたが、近頃は「父・子・聖霊なる神さま」と呼びかけるようにしたからです。これは、ある本を読んでいましたら、「父・子・聖霊」は『固有名詞』だといったことが記されていたからです。

なるほど、と思いました。『固有名詞』…、つまり名前みたいなもの、ということです。確かに、「父なる神さま」と呼びかけていましたが、父なる神さまだけに祈っているわけではない。子なるイエスさまにも、聖霊なる神さまにも祈っている。つまり、「三位一体」なる神さまに祈って来た訳ですから、『固有名詞』として、そんな三位一体なる神さまのお名前として、「父・子・聖霊なる神さま」と呼びかけた方が適切なのではないか。

そう思えたからです。もっとも、習慣とは恐ろしいもので、普段、個人的に祈るときは、ついつい「天の父なる神さま」と呼びかけてしまうこともあるのですが…。

今日は、『三位一体主日』の礼拝です。ご存知のように、この「三位一体」という信仰の理解はキリスト教特有のものです。唯一神を信じる信仰は他にもあります。複数の神さまを信じる信仰も、数多くあります。しかし、私たち教会は、ただお独りの神さまを信じていますが、と同時に、イエスさまも聖霊も神さまと信じています。だからといって、私たちが信じているのは、三人の神さまでもないし、一人の神さまだけれども三つの顔を持つ、あるいは登場する場面が違う、ということでもない。完全に溶け合って区別がつかないようなことではなく、それぞれの個性はありつつもただお独り。

専門的な表現をすれば、一にして三つの位格を持つ。非常にややこしい、と言いますか、非合理とも言えるのかもしれませんが、そんな信仰を持っている訳です。

あるキリスト教系新興宗教の方々が指摘しているように、聖書には「三位一体」といった言葉は出てきませんし、様々な神学論争を経て、その中には政治的な思惑もなくはなかったようですが、ようやく4世紀になって教会の教え、信仰理解・告白として落ち着きを見せていきました。しかし、今日お読みした三つの聖書の箇所を見てもお分かりのように、全く聖書的根拠がない訳ではないのです。

キリストの洗礼:1475年頃 アンドレア・デル・ヴェロッキオ,レオナルド・ダ・ヴィンチ(部分)



むしろ、単純素朴に聖書を読むならば、たとえ非合理に思えても、理解し難くても、そうとしか言い表せないのではないか。個人的には、そう思っています。ですから、信じるしかない。ああだこうだと捏ね回してみても、恐らく、そこからは何も生まれてはこないでしょう。むしろ、良く分からなくても、幼子のようになって、単純素朴に信じていくところに、むしろ何かが生まれていくのではないか。そんなふうにも思うのです。

ともかく、これが私たちキリスト教の、教会の信仰なのです。唯一無比の、まことにユニークな信仰告白なのです。

先程来、「非合理」と言ってきましたように、この「三位一体」といった教え・教理は、理性を使って理解しきることは、甚だ難しいと思いますが、しかし、これを関係性の中で̶̶私たちの(キリスト教の)信仰理解では、この「関係性」ということが非常に重要になってくると個人的には思っていますが̶̶捉えていくならば、むしろ非常に身近に感じられるのではないか、と思います。

 

アンドレイ・ルブリョフによるイコン『至聖三者』(1422年~1427年、トレチャコフ美術館所蔵)※注2



皆さんの中にも学ばれた方も多いと思いますが、ルターは『小教理問答』の中で使徒信条を三つに分類しております。この使徒信条、私たちにとってはもっとも身近な信仰告白ですが、非常に単純に、あるいは乱暴に言ってしまえば、三位一体なる神さまを信じる、といった信仰告白になります。それを、ルターは三つの部分に分類した。父なる神さまについては、「第一条 創造について」と分類した。

つまり、父なる神さまと私たちとの主な関わりは、この「創造」ということにおいてだ、ということです。もちろん、この一点に限定される訳ではありませんが、それが「主」だということです。そして、ルターはこのように解説します。「私は信じている。神が私をお造りになったことを。すべての被造物と一緒にだ。神は私にからだと魂、目や耳やすべての部分、理性、あらゆる感覚をお与えくださったし、そのうえこれを保ってくださっている。

また衣服や履物、食べ物や飲み物、家屋敷、妻や子、畑や家畜やすべての財貨を、このからだといのちのあらゆる必要なものと共に豊かに日毎に与え、あらゆる危険から守り、あらゆる災いに対して備え、保護し、これらすべてのものを純粋に父としての、神のいつくしみとあわれみから、私のなんらの功績やふさわしさなしにしてくださるのだ」。私たちは、偶然の産物として生まれたのではありません。親の熱意に依るだけでもありません。

神さまが私たちをこの世界に生み出してくださった(創造してくださった)。しかも、生み出しておいて放ったらかしではなく、私たちが生きる上で必要なありとあらゆる物を与えてくださっている。しかも、豊かに。父として。私たちも、子育てをする時、何もできない、役に立たない、苦労ばかりをかける赤子を、自分の子どもだからといった理由だけで、慈しみ、育むことを知っています。それを同じように、神さまは私たちの父となってくださっていると言うのです。

ご存知の方も多いと思いますが、私の父は、私がまだ1歳の頃、29歳の若さで死にました。胃がんでした。3歳の頃、母は私を連れて再婚しましたが、その夫婦仲はあまり芳しくなく、常にその家庭はギクシャクしたものでした。義父からは、今でいえば虐待めいたことも度々受けました。母からは苛立ちのはけ口として扱われました。しかも、母からは、事あるごとに、「お前は癌の子だから長生きできない」「医者からお前を産まない方が良いと言われた」などと聞かされ続けてきました。多感な思春期の頃には、毎日自殺のことばかりを考えるようになりました。

自殺に踏み切れなくなってからは、生まれなければ良かった、と思いつづけるようになりました。生い立ちを呪っていたのです。今から思えば、随分と青臭い悩みだとは思いますが、14~5歳の頃ですから、仕方がなかったのでしょう。そんな私がキリスト教と出会った。教会に通うようになった。しばらくして、意識が変わったことに気づきました。「そうだ。私は奇跡の子なのだ。場合が場合ならば私は生まれてこなかったかもしれない。

しかし、神さまがどうしても私をこの世界に生まれさせたかったのだ」。不思議とそう思えた。その瞬間、今まで見えていた自分の人生の風景が一変したことを今でも良く憶えています。生まれてきたことに本当に感謝できた。
これは、私という一つの例です。しかし、誰もがこの父なる神さまによって、愛をもってこの世界に生み出されていることは間違いないことでしょう。

では、子なる神、イエスさまについては、ルターはどのように分類しているのでしょうか。「第二条 救いについて」、「私は信じている。永遠のうちに父から生まれた真の神であって、また、おとめマリアから生まれた真の人であるイエス・キリストが私の主であることを。主は失われ、罪に定められた人間である私を、金や銀をもってではなく、ご自身の聖なる、尊い血とご自身の罪なき苦しみと死をもって、すべての罪と死と悪魔の力から救い、あがない、かちとってくださったのだ」。イエスさまは救い主としてこの私たちと関わってくださる。

私は、親を殺したいと思うほどに憎しみの虜になっている自分を変えたくて、教会の門を叩きました。そこで、はじめて聖書を読むようになり、イエスさまと出会った。私はすぐにイエスさまの虜になりました。私にとってイエスさまはカッコよくてヒーローだった。しかし、次第に自分の罪の重さに耐えきれなくなり、教会を去るほどでした。そんな私のためにイエスさまが十字架で死なれたことを知った。親を殺したいと思う私の代わりに、そんな自分が嫌で嫌で仕方なく、自分を滅ぼしてやりたいと思う私の代わりに、妬み、怒り、殺意、貪欲、虚栄心、傲慢…、ありとあらゆる罪を持つ私の代わりに、イエスさまが血を流し、十字架で命を捨てられたことを知った。

もう感謝でしかなかった。涙が溢れて止まらなかった。それは、私のためだけではない。皆さん一人一人のためでもある訳です。みなさん一人一人のためにもイエスさまは血を流し、十字架で死なれたのです。

聖霊なる神さまについては、ルターはこう記します。「第三条 聖化について」、「私は信じている。私は自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみ許に来ることもできないが、聖霊が福音によって私を召し、その賜物をもって照らし、正しい信仰において聖め、保ってくださったことを」。そうです。全ては、聖霊なる神さまによらなければはじまらないのです。救われないのです。人は神さまを、イエスさまを信じることも、求めることもできない。

私も、そうでした。先に言いましたように、天の父なる神さまによって、私の人生観そのものが変わりました。まさに、きらめいた、といって良いほどに、今まで見て来た世界に光が差したのです。本当に嬉しかった。そして、イエスさまと出会い、この私のための十字架であることを知った。心の底から感動しました。この方のために生涯を掛けようとも思った。

しかし、その思いは長続きはしませんでした。揺れ動いて行きました。あの出来事が霞んでしまうくらいに不安になり、絶望感に苛まれることも決して少なくはなかった。「自分の信仰」というものに自信が持てませんでした。それだから、色々と上手くいかないのだ、と思い込んでもいました。信仰を強めなければともがきました。

そして、その度に挫折を味わいました。しかし、ある時、教えられたのです。この信仰とは、自分から出て来たものではないのだと。そうではなくて、神さまが私のことを救いたくて、救おうとされて、神さまご自身が与えてくださった
ものなのだと。聖霊によって。全身から力が抜けていくのを感じました。これほどの開放感を未だ嘗て味わったことはありません。

私は、父なる神さま、子なる神さま、聖霊なる神さまによって救われたのです。どれ一つとして欠けていては、今の私はなかったでしょう。この世にいたかどうかも分かりません。ともかく、当然、皆が皆、同じような体験をする訳ではありません。1、2、3といったステップを踏むとも限らない。しかし、すべての人がこの父・子・聖霊の「三位一体」なる神さまとの関わりの中で生きているはずです。たとえ、自覚がなくても、私たちはこの神さまの恩恵の中で生きている。

そして、できれば、その自覚を持っていただきたい、と思うのです。気づいていただきたい、と思うのです。そのためにも、今日の福音書の言葉があるのではないでしょうか。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。



《祈り》
・日本では随分と収まりが見えていますが、世界ではまだまだ感染が広がっています。特に、医療体制が脆弱な国々、地域においても感染拡大が起こっており、懸念されています。どうぞ憐れんでくださり、弱き者、貧しき者をお助けください。適切な治療も受けられるように、援助の手を差し伸べられますようにお導きください。都内では依然として20名前後の新規感染者が出ており、東京アラートも発動しています。依然として予断の許さない状況ですが、経済との両立という難しい舵取りの中、医療崩壊につながるような感染拡大に向かうことのないようにお助けください。また、6月より都内の学校なども授業が再開されていますが、子どもたちも感染からお守りくださり、学校生活も有意義なものとなりますようにお導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・ワクチンや薬の開発も待たれています。大国同士の覇権争いの道具になるのではなく、国際協力のもと、速やかに開発され、貧しい国々の人々にも届けられますようにお導きください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・コロナ鬱や虐待、DV被害者なども出ないようにもお助けください。

・アメリカでは差別問題から一部が暴徒化してしまい、大統領も武力での鎮圧も辞さないといった状況です。すでに、死傷者も出ていると聞きますが、確かに根深い問題ですが、互いに冷静になって、この問題を克服していく方向に向かっていくことができますようにお導きください。また、香港も大変厳しい状況になりつつありますが、自由が奪われたり、人権が軽視されたりすることのないようにお助けください。主イエス・キリストの御名によって。

アーメン



注1)ウフィッツィ美術館  Andrea del Verrocchio, Leonardo da Vinci – Baptism of Christ
注2)至聖三者のイコン  創世記18章にある、三人の天使をアブラハムがもてなす姿によって、三位一体を象徴する

 

Live配信:2020年6月7日 主日礼拝 説教 「 父・子・聖霊 」 浅野 直樹 牧師

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Live配信:2020年5月31日 主日礼拝 説教 「 イエスを証する者 」 浅野 直樹 牧師

こちらからご覧下さい(YouTube動画Web Site)

【音声版・テキスト 】2020年5月31日 説教「イエスを証する者」浅野直樹牧師

聖霊降臨祭礼拝聖書箇所:ヨハネによる福音書7章37~39節



LIVE版はこちらからご覧下さい(YouTube動画Web Site)

本日の礼拝は聖霊降臨祭・ペンテコステの礼拝です。本来ですと、教会の三大祝祭日の一つですので、皆で集い、大いに祝いたいところですが、ご承知のように、今年はそうもいきませんでした。非常事態宣言は解除されましたが、都内での新規感染者数は徐々に増えて来ており、再開の判断についても悩ましいところです。

ともかく、現代においては、このような形(それぞれの場所)ではありますが、共に礼拝の恵みに与ることができるのも、文明の利器の恩恵を受けているからだと、ひしひしと感じております。しかし、一方で、文明の利器があるから、お茶の間でも礼拝堂にいるのと遜色のない臨場感を味わえるから礼拝が、信仰生活が成立するのか、といえば、そうでもないことを覚えるのです。そこに、聖霊の働きがあるから。

この聖霊の働きは、見たり、知覚できたりするものでは必ずしもありませんが、聖書が記しますように…、̶̶本日の第二の朗読で読みましたコリントの信徒への手紙1 12章3節にこう記されています。「ここであなたがたに言っておきたい。「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」̶̶

 

聖霊によらなければ信仰的な事柄は何一つ起こらないからです。聖霊の働きがあるからこそ、礼拝になる。そこが礼拝の場になる。賛美、祈りがなされ、信仰の告白が起こって行く。み言葉と触れ合い、心が動かされ、出来事となる。そこで私たちは赦しを経験し、癒され、養われて行く。たとえ、そうとは感じられなくとも、聖霊の働きをいちいち確認できなくとも、それが起こっている。なぜならば、イエスさまがそう約束してくださっているからです。聖霊を遣わすと。私たちはそれを信じる。そのことをもう一度確認しながら、聖霊降臨祭を共々に祝いたいと思う。

今、それぞれの場にあっても、聖霊の恵みが豊かにあるのだということを、しっかりと受け止めていただきたい、と思います。今朝の第一の朗読は、聖霊降臨の出来事を記した、良く知られた箇所でした。ここで聖霊降臨の出来事が劇的な出来事であったことが分かるのですが、しかし、その特徴とするところは、現代人にもよく理解できることだと思います。ここに記されている聖霊降臨の出来事は「言葉」と非常に密接に結び付けられているからです。まず、聖霊が降ってきた様子を「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。

ジョット”ペンテコステ”GIOTTO di Bondone”Pentecost”1310-18 National Gallery, London



聖霊は「炎の舌」のような姿で現れた、と言います。この「舌」は、言葉を発する時の大変重要な器官の一つです。言葉を発することができなかった人をイエスさまが癒された時に、「舌のもつれが解け」たとある通りです。言葉を明瞭に話すためには、「舌」の自由な活動が必要不可欠だと考えられていた訳です。

そして、そんな聖霊に満たされた弟子たちは、そこで何をしたのか、と言えば、「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。その後に、様々な国名が記されていますが、それは、当時知られていた「世界中」と言っても良いでしょう。世界中の言葉で「神の偉大な業を語って」いった訳です。つまり、世界宣教です。

振り返ってみますと、私は多くの宣教師の方々と良い交わりを持たせていただくことができました。私が15歳の時にはじめて行った教会は、ドイツ人の女性宣教師がはじめられた教会でした。特に選んでそこに行った、というのではなく、たまたま家から一番近くの教会がそこだったからです。もっとも一番近いと言っても、自転車で片道1時間弱かかりましたが…。以前も言いましたように、私が育ったのは随分と田舎だったので、昭和五十年代半ばでは、いわゆる「外国人」は非常に珍しい存在でした。

私自身、おそらく、その時が「外国人」との最初の出会いだったでしょう。もともと興味があって教会を訪れたのですが、正直、その宣教師の物珍しさ、と言いますか、欧米に対するちょっとした憧れも手伝って、足繁く通ったものです。もっとも、その宣教師には心配ばかりをかけてしまって、今では大変申し訳なくも思っています。そして、牧師になるために最初に赴任し
た教会も、ホッテンバッハというドイツ人宣教師が創設された教会でした。

『同盟福音基督教会』といった団体に属する教会でしたが、非常にユニークな先生で地域では名物宣教師でした。結局、2年間一緒に働かせて頂くことになりました。先生の話はいつも興味深いものばかりでしたが、特に、宣教師として日本にやって来られた頃の話は、忘れがたい話となりました。先生は年代としては、私よりも30歳ほど上で、子どもの頃から宣教師を目指し、20代で船に乗って日本にやって来られました。

当時、昭和三十年代は、やはりまだ船での移動で、何ヶ月もかけてやって来られたのです。貨客船に乗って未知なる世界に。その間に、なんども嵐に遭われたそうです。中には、何十キロもある重い荷物が、室内を水平に飛んでいくような凄まじいシケにも遭われたとか。「その時には、流石に死ぬかと思ったよ」とカラカラと笑いながら話してくださいました。私にとって、この先生と共に働くことができた2年間は、本当に幸いな時だったと思っています。

その他にも、同じドイツ人宣教師にも、アメリカ人宣教師にも、本当に多くの宣教師たちに良くして頂きました。正直に言いまして、やはり宣教師たちは魅力的です。先ほどのホッテンバッハ先生の例にもありますように、ある意味、命をかけてやって来られているからです。それだけの覚悟、情熱、愛を持っておられる。日本のために。日本人のために。福音によって何としてでも救われてほしい。そのためならば、あのパウロのように、何でもしよう。そういった気概がある。それは、単に強さだけではありません。芯の強さがありつつも、途方も無い優しさがあります。

本当に「人間の出来が違う」、と思ってしまう。それは、紛れも無い事実でしょう。少なくとも、私が出会って来た宣教師の方々の大半はそうでした。だからこそ、魅力的でもあるし、その人柄に惹かれてしまう…。それは、紛れも無い事実。確かに、そうだと思う。しかし、それだけではないはずです。なぜ、有難いのか。それは、私たちの国の言葉で福音を伝えてくれたからです。

宣教師たちは、私たちの国の言葉で、自分たちが育ってきた国の言葉で、ではなく、わざわざ難しい外国語を、特に日本語は難しいと言われる訳ですが、その難しい言葉を熱心に、懸命に覚えて、たとえ最初は片言であったとしても、事実、最初に出会った宣教師の方の書く文章は、お世辞にも上手とは言えませんでしたが、それでも、自分の国の言葉で聞くことができる。いいえ、私たち日本人とは明らかに違った国の、文化の人々が、一所懸命に日本語で語ってくれる。そこに、私たちは神さまの業を見たのではないか。無意識のうちにも見ているのではないか。そう思うのです。

ジャン・コロンブ”聖霊降臨”15世紀写本 Jean Colombe,1485-1486 Pentecost



確かに私たちは、宣教師の方々の恩恵を決して忘れてはいけないし、感謝してもし尽くせないのですが、しかし、これも率直に言って、宣教師の方々だけでも不十分といった思いも正直あります。それは、「言葉」とは、分かれば良い、理解できれば良い、といったものだけではないからです。言葉とは、その言葉の持つ正しい意味さえ理解できれば良い、ということではありません。言葉には、含みがあります。その背後にある思いがあります。

どちらとも受け取ることができる印象もあります。自国民でさえ「言葉」の難しさを感じる。しかも、それが外国語となると、なかなか上手くいかないのも事実でしょう。
宣教師の方々自身がそのもどかしさを一番感じておられるのかもしれません。ともかく、やはりその国の人々が語ることが一番だと思います。私自身、到底あらゆる面で宣教師の方々に敵う者ではありませんが、自分の国の言葉で福音を伝えることができる。そこに、唯一の利点を見出してもいます。

ともかく、自分の国の言葉で福音を聞くことができることが大切なのです。そのために、宣教師たちは多くの犠牲を払い日本に来られ、日本人牧師たちも欠けを感じながらも努力を積み重ねている。そして、そんな自分の国の言葉で福音を、神さまの偉大な御業を人々に、その国の人々に聞かせるために、聖霊の働きはある。今日の、この聖霊降臨の出来事は、そのことを私たちに伝えてくれているのではないか。そう思うのです。

自分の国の言葉で、理解できる、分かる言葉で、同じ文化を、生活を共有している言葉で福音を聞くことができる。この聖霊の働きが大切なのです。そこで、聖霊を受けた、聖霊に満たされた弟子のペトロはエルサレムの町に住む、あるいは滞在していた人々に、その人々が分かる、理解できる言葉で、弟子たちを代表して語りかけました。

それは、内容から言っても「説教」と言っても良いでしょう。つまり、特別に選ばれた人が聖霊に満たされて、人々に説教したことになります。これも、良く分かります。しかし、そのペトロは、その説教の中で旧約聖書を引用しながら、こう語りました。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。

すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。ペトロは、この聖霊降臨の出来事は、この旧約聖書の言葉が実現するものだった、と語ります。つまり、聖霊降臨の出来事は、聖霊が与えられるという出来事は、ここで堂々と説教するペトロや弟子たちのような、特別な人たちに限らない、と言うのです。

老いも若きも、男も女も聖霊を受け、ある者は預言し、ある者は幻を見、ある者は夢を見る、と言う。ここでも、皆が皆、預言するのではありません。それぞれの役割がある。違っていたっていい。しかし、何れにしても、聖霊が降るのは事実なのです。そして、今日の箇所で言われていることは、先ほどから言ってきましたように、聖霊の働きの主なるものの一つとして、自分たちの国の言葉で神さまの偉大な御業、つまり、これを福音と言って良いと思いますが、福音を語る、伝える、ということなのです。

そして、同じ国の言葉ということは、分かってもらえなければ意味がないということでもあるでしょうから、日本語を使っていても、訳のわからない高度な、高尚な言葉ではなく、いわゆる「神学用語」や「専門用語」などではなくて、自分が理解し伝えられる言葉で語る、伝える、ということでもあるのではないか。そう思うのです。

キリスト者全ての元に聖霊は降られます。イエスさまがそう約束してくださったからです。しかし、聖霊を受けたからといって、皆が皆、宣教師になったり説教者になる必要はありません。しかし、聖霊の恩恵は、自分の言葉で神さまの恵みを語ることができることなのだ、ということも忘れないで頂きたいのです。皆さんの上に聖霊の豊かな恵みがあり
ますようにお祈りいたします。



《祈り》
・首都圏も含めて、日本中で緊急事態宣言が解除され、人の動きが戻ってきました。そのせいでもあるのか、北九州市では第二波とも言われる感染拡大が起こり、東京でも徐々にではありますが、新規感染者の数が増えてきています。経済との両立という非常に難しい舵取りが迫られていますが、なおも一人一人が意識を持ち、対策をしながら、必要な経済活動も行なっていけるように、特に、経済的困窮者が急増し、新型コロナではなく、貧困で命の危機に晒されている方々も増えていますので、どうぞ良き導きを与えてくださいますようにお願いいたします。

また、医療体制の脆弱なアフリカ諸国やインド、あるいは南アメリカの国々などでも感染拡大が広がっています。もともと衛生面においても、また栄養面においても、十分とは言えない方々も多くいらっしゃいますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な援助も行われますようにお願いいたします。

あるいは、難民キャンプなどの感染リスクも非常に懸念されています。どうぞ憐れんでください。また、リスクのある中で懸命に働いておられる方々も多くおられますので、どうぞそれらの方々をもお守りくださり、遠く離れた私たちですが、出来ることもしていけるように、お導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・ワクチンや薬の開発も待たれています。大国同士の覇権争いの道具になるのではなく、国際協力のもと、速やかに開発され、貧しい国々の人々にも届けられますようにお導きください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・コロナ鬱や虐待、DV被害者なども出ないようにもお助けください。

・先の中国で行われました全人代で「国家安全法」成立が採決され、今後香港では苦しい立場に置かれることが懸念されています。不当な理由で拘束されたり、より一層自由と民主主義が制限されていくかもしれません。多くの市民が香港からの脱出を画策しているとも聞きます。どうぞ憐れんでくださり、不当なことが行われませんようにお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【音声・テキスト 】2020年5月24日 説教「上を見上げて」浅野直樹牧師

主の昇天主日礼拝説教



「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように、思い出す 春の日 一人ぽっちの夜」。
ご存知のように、坂本九さんの大ヒットソング。名曲です。私自身は知らなかったのですが、作詞をされたのは、あの永六輔さんのようです。続けて、この曲はこう歌います。「上を向いて歩こう にじんだ星をかぞえて 思い出す 夏の日 一人ぽっちの夜。幸せは雲の上に 幸せは空の上に 上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら 歩く 一人ぽっちの夜」。

何があったのかは分かりませんが、この主人公はある春の日に、涙を流すような思いの中にあったようです。寂しかったのか、悲しかったのか。本来「春」と言えば、喜びに満ちた季節なのに、それとは裏腹に、たった一人、涙をこらえて上を向いて歩いていました。そう、最初は、涙がこぼれないように、これ以上、みっともない、惨めな思いにはなるまい、と思い、必死な思いで溢れる涙を抑えて上をみていたのかもしれない。

しかし、次第に思いが変わっていったように思います。上を見ていると、抑えていた涙で滲んだ星が見えて来た。なんだか、その星の存在に心が吸い込まれていったのでしょう。上を見上げていると、心の変化を感じるようになった。そうだ、自分にも活力に満ちたかんかん照りの夏の日差しのような時があったではないか。大切な人と一緒に行った盆踊り。一緒に見上げて歓声を上げていた打ち上げ花火。

そうだ、自分にも幸せと思える日々が確かにあったのだ。幸せは、雲の上に、空の上にある。だから、もう涙を流すまいとして上を見上げるのではなくて、幸せを感じるために上を向いて歩いて行こう。泣きながら…。そう、この涙はそんな気づきによる喜びの涙に変わっていたのかもしれません。同じ一人ぽっちの夜の風景なのに、全く違うものに変えられていた。

上を向いて、喜びの涙を噛み締めながら、たとえ一人ぽっちという現実は変わらなくとも、幸せを見つめて歩いていく。これは、私の勝手な解釈かもしれませんが、そんな思いを、この歌から感じさせられます。なぜならば、私もまた、上を向くからです。私は、自身の趣味を「ぼ~と、空を、雲を眺めること」と言って来ていますが、それは、最初っからそういった嗜好があったからではありませんでした。ある時、空を(上を)見上げたからです。

涙をこぼすまい、ということでは必ずしもありませんでしたが、やはり悲しくて、辛くて、心がどうにも落ち着かなかった時に、何気無しに空を見上げたのです。その空の青さが、雲の何とも言えない穏やかな造形美が、私の心を救ってくれた。そんな経験があった。だから、今では、何でもない時にも空を見る。雲を見る。そうすると、心が落ち着くし、なんだか幸せな気分にもなれる。

そういった経験、皆さんにもお有りになるのではないでしょうか。上を向くことによって、何だか救われた、といった経験が。だから、あの歌はあんなにも共感を生んで、大ヒットとなったのではないか。個人的には、そう思っています。

今日は、イエスさまの昇天主日の礼拝です。ご存知のように、キリスト者が亡くなられた時、「召天された」という言い方がなされます。この「昇天」と「召天」は、「音」としては同じように聞こえますが、漢字の表記が違っているように、意味は全く異なるものです。キリスト者の「召天」の場合は、天に召されると書かれているように、死んだ者が天に…、つまり神さまのところに召されることを意味します。対して、イエスさまの「昇天」は、天に昇るとありますように、まさしく天に、つまり神さまのところに、神さまの領域に「生きたまま」で昇られたということです。

ですから、使徒信条などの信仰告白には「天に上り、神の右に座し」(神さまと共におられる)と告白されるわけです。ともかく、十字架で死なれ、三日目に復活されたイエスさまは、40日に渡って弟子たちと過ごされ後、「生きたまま」で天に昇って、帰っていかれました。このことは、福音書としては今日のルカ福音書だけに記されていることです。同じルカが著者だと考えられている使徒言行録(これは、ルカ福音書の続編と考えられていますが)1章9節にこう記されています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」。

改めてこの箇所を読んだとき、この時の弟子たちの気持ちはどうだったのだろう、と思いました。あまりのことに呆然と立ち尽くすようにして上を見上げていたのか。それとも、目を凝らして、この瞬間を一瞬たりとも見逃さまいとして凝視していたのか。
なぜならば、ここには悲しみがないからです。弟子たちの中に、悲しいそぶりが見えないからです。何故なんだろう。これは、今生の別れです。もう二度と、この世でイエスさまとお会いすることができない。

そんな別れであるはずなのに、悲しみが見えてこないのはなぜか。実は、この今生の別れという意味では、弟子たちは二度経験していることになります。一度目は、イエスさまがあの十字架の上で死んでしまい、墓に葬られたことによります。少なくとも、復活を信じることができなかった弟子たちにとっては、まさに今生の別れの時だったでしょう。それは、あまりにも突然で、衝撃的で、絶望的でした。全ての気力を失うほどに、彼らは失意のどん底を経験したのです。

もちろん、後悔もあったでしょう。特に、イエスさまのことを三度も否んでしまったペトロにおいては、どれほどのことだったでしょう。「死んでお詫びしたい」とでも思っていたのかもしれない。そんな彼らのところに、不意に、そう、まさに不意に復活のイエスさまが来られました。「あなたがたに平和があるように」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。



まさに、救いです。弟子たちは、その出会いで、どれほど救われたことか。そんなイエスさまと、再び別れなければならない。今生の別れをしなければならない。普通に考えれば、悲しんで当たり前でしょう。しかし、どうも様子が違う。そこに、何が起こったのだろうと思うのです。

昔、『いま、会いにゆきます』という映画を見ました。竹内結子と中村獅童が主演をした映画です。竹内結子が演じる女性が、幼い子どもを残して死んでしまいます。その出産が非常に難産だったようで、その影響もあってのことでした。そして、心無い大人たちのつぶやきを聞いたその子どもは、心に深い傷をもつことになります。中村獅童演じるお父さんは、ちょっと障害を持っているようで、残された父子の生活もなかなかうまくいかず、失敗と奮闘の毎日でした。

そんな中、一年が過ぎ、この親子は不思議と亡き妻、母と会うことになる。実は、亡くなった女性が現れたのではなく、その女性の若い頃の自分がタイムスリップをしてやってきたのでした。そんな女性は6週間後、将来がどうなるのかを知りながら、つまり、難産の上に命を落とすことを知りながら、彼女の現実世界に戻って行き、結婚をし、子どもを産むことを決意します。ともかく、そんな不思議な三人の出会いによって、お互いの心が少しづつ救われていく。今生の別れに備えられていく。自分のせいで命を落としてしまったのではないか、と恐れていた子どもの心が癒されていく。

自分の命と引き替えてもいいほどに愛されていたのだ、と気付かされていく。そういったストーリーだったと思います。同じように、とは言いませんが、弟子たちにとっても、あの40日間は、本当に素晴らしい、幸いな時だったのでしょう。少なくとも、今度の今生の別れは、突然でも、衝撃的でも、絶望的でもなかった。喜んで送ることができた。そんな、40日間だったと思うのです。

Transfiguration『キリストの変容』 ラファエロ・サンティ,Musei Vaticani



弟子たちは、天に昇られるイエスさまを見上げていました。自分たちの元を離れ、天に帰られるイエスさまを、じっと見上げていました。天に昇られ、見えなくなったのに、なおも、イエスさまが帰られた「天」をじっと見つめていました。その時の様子を、ルカ福
音書ではこのように記されています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。天に上げられたイエスさを、弟子たちは「伏し拝み」、「大喜び」でエルサレムに帰り、いつも神殿で神さまを褒め称えていた、と言います。それが、この度の今生の別れの結果なのです。

復活のイエスさまと出会い、弟子たちは本当に救われました。そして、その復活のイエスさまと共に過ごした40日間の歩みは、至福の時でした。なおもイエスさまから意味を教えていただき、イエスさまに赦され、愛されていることを常に実感して生きることがで
きたからです。そして、イエスさまは、お帰りになるべき天に昇っていかれた。そのお姿は、まさに神の子、メシア・救い主であることを、ますます確信させていったことでしょう。

だからこそ、弟子たちは喜べた。伏し拝んだ。常に神さまを賛美し続けられた。私たちも、そうではないか。イエスさまの十字架、復活、そして昇天。これらを通して、なおも確信に至っていくのではないか。もちろん、来主日祝う聖霊降臨祭を抜きにしては考えられないことですが、その上で、これらの事柄が私たちにますます信仰の確信を、喜びを与えてくれるものになるのではないか。そう思うのです。

 

「上を向いて歩こう」。それは、私たちにとっては、単に涙をこぼさないためのものではないなずです。上を向く。天を向く。その私たちの視線の先には、イエスさまがおられる。天に昇られ、今も神さまの右に座しておられるイエスさまを私たちは見上げる。だか
らこそ、涙がこぼれないのです。泣きたくなる時、イエスさまを見上げるからこそ、私たちの涙を拭ってくださる方を天に見いだすことができるからこそ、私たちは歩いていける。

悲しみの中にあっても、苦しみの中にあっても、失意の中にあっても、すぐにでもそれらが全て取っ払われてしまわなくとも、天には違ったものが、見えていなかったものが、幸いが見え出してくる。そうではないでしょうか。

その上で、この言葉も忘れてはいけないのだと思う。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あ
なたがたはこれらのことの証人となる」。この復活のイエスさまから託された宣教についても、私たちはしっかりと心に留めなければならないでしょう。

そのことは、次週お話しすることになるかと思いますが、ともかく、イエスさまが天に昇られた、ということは、私たちにとって幸いなことなのです。そのことをしっかりと胸に抱いて、天を(上を)見上げて、これからも歩んで行きたいと思います。

 
《祈り》
・首都圏、一都三県と北海道以外は非常事態宣言が解除されました。経済的な逼迫状況を考えると仕方がないことですが、制限が緩められ、人の行き来が戻ってくると、感染の広がりがやはり心配になります。これまで日本では欧米諸国とは比較にならないほど押さえ込めていますが、それには、手洗いうがいなどの衛生面などの意識の高さや、マスクの着用、また上からの指示に従うという国民性など、いろいろな要因によるとも言われています。

あるいは、単に運が良かっただけ、といった指摘もあります。確かに、気が緩めば、これまで以上の大きな波が来ないとも言えません。どうぞ、これからも一人一人が「うつらない。うつさない」といった意識をもって生活していけるようにお導きくださいますようお願いいたします。

また、医療体制の脆弱なアフリカ諸国やインド、あるいは南アメリカの国々などでも広がっていると懸念されています。もともと衛生面においても、また栄養面においても、十分とは言えない方々も多くいらっしゃいますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な援助
も行われますようにお願いいたします。

あるいは、難民キャンプなどの感染リスクも非常に懸念されています。弱い立場の人々に、特にこういった疫病は襲っていきますので、どうぞお助けくださいますようにお願いいたします。また、そういった中で懸命に働いておられる方々もお守りくださり、遠く離
れた私たちですが、私たちにできることもしていけるように、お導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・ワクチンや薬の開発も待たれています。大国同士の覇権争いの道具になるのではなく、国際協力のもと、速やかに開発され、貧しい国々の人々にも届けられますようにお導きください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・コロナ鬱や虐待、DV被害者なども出ないようにもお助けください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン

-週報- 2020年 5月17日 復活節 第六主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 祈り A.ギルマン

初めの歌  3( あめつちのみ神をば )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
すべての良きものの源である神(さま。
あなたの聖なる息吹を与えて、正しいことを考え、それを実行できるように導いてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読 使徒言行録  17:22-31( 新約 248頁)

第2 の朗読  ペトロの手紙一  3:13-22( 新約 432頁 )

福音書の朗読 ヨハネによる福音書  14:15-21( 新約 197頁 )

みことばのうた 242( なやむものよ われにこよ )

説教 「 いつも共にいる 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 312( いつくしみふかき )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  532( ひとたびは しにしみも )


後  奏 主よ 人の望みの喜びよ  J.S.バッハ

* 前奏・後奏(中山康子 選曲)

【音声・テキスト 】2020年5月17日 説教「いつも共にいる」浅野直樹牧師

復活節第六主日
聖書箇所:ヨハネによる福音書14章15~21節



 

今日の箇所には、「聖霊」(「弁護者」、あるいは「真理の霊」という言い方でしたが)が登場して参りました。
早いもので、今年もあと2週間で聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えます。とは言いましても、今の状態だと、皆で集まって祝うというのは、ちょっと難しいかもしれません。たとえ非常事態宣言が解除されたとしても、「すぐにでも」とはなかなかいかないと思う
からです。

思い起こせば、このような形式での礼拝となったのは3月29日の礼拝からでした。その後、受難主日からはじまる受難週、聖金曜日礼拝、復活祭、そして今度は聖霊降臨祭と、教会としてはもっとも大切なそれらの記念日に共々に集うことができないというのは、まさに前代未聞の非常事態と言えるでしょう。多くの方々から「礼拝に行きたいのに」といった声が聞かれるように、これはまことに辛く残念なことです。

しかし、そのような中にあっても、聖霊はいつも働いていてくださいます。共々に集うことができずにいても、聖霊の働きはいっときたりとも止まっていることはありません。私たち一人一人の心の中に、時の流れ・歴史の中に、世界の中に、いちいちそれらを見聞きしたり、感じ取ることができなくとも、聖霊の働きは確かにある。そのことを、私たちは忘れてはいけないのだと思います。
今日の日課の中で、このようなイエスさまの言葉が記されていました。



「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。本当に慰めに満ちたことばだと思います。この「みなしごにはしておかない」の「みなしご」という言葉を聞くと、私の世代の方々は『みなしごハッチ』を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。正式には『昆虫物語 みなしごハッチ』といい、タツノコプロ制作のアニメーションです。調べてみますと、最初に放送されたのは、昭和45年とありますので、私が見たのはおそらく再放送だったと思います。

昆虫の世界が舞台で、主人公は「ハッチ」というミツバチの子どもです。この「ハッチ」、まだタマゴだったころ、自分たちの巣がスズメバチに襲われてしまい、お母さん(女王蜂)と生き別れになってしまいます。

そして、数々の冒険をしながらお母さんに会いに行く、というのがストーリーになるのですが、とにかく、いろいろとひどい目に合う。命の危険にも合う。そういった時、寂しくなって「お母さん」と涙を流すわけです。そして、ついにお母さん(女王蜂)に合うことになる。「ハッチ」も女王蜂もワンワンと泣き出します。その再会シーンに子ども心ながらに胸が熱くなったことを覚えています。

この物語は、「ハッチ」が数々の冒険の中で成長をし、立派になってお母さんと再会するといった、ちょっとした成長物語になっていますが、物語冒頭の「寂しさ」「不安感」「喪失感」などといったものが、この「みなしご」といった立ち位置には付いて回るものなのでしょう。私自身の記憶を遡っても「まいご」といった記憶が無いもので実感が乏しいのですが、自分の子どもたちが迷子になってしまったときに、見つけた時の「安堵感」の表情は、今でもよく覚えています。この「みなしご」と「まいご」とを同列に置くことはできないと思いますけれども、その解決における「安堵・安心感」といったことには変わりはないのだと思うのです。



先週は、そのことには触れませんでしたが、先週の日課も、また今週の日課も、いわゆる「告別説教」と言われる箇所です。別れの説教、別れのことば…。イエスさまは直ぐにでも十字架で死んでしまわれることになる。そのことを深く自覚されていたイエスさま
は、また愛する弟子たちを残して旅立たなければならないことを案じておられたイエスさは、時間が許す限り、できるだけ弟子たちを整えようとされて、力付けようとされて、この最後の言葉を語っていかれたワケです。

弟子たちも、そんな雰囲気を察していたのでしょうか。あるいは、そのお言葉の端々からも伝わってきていたのかもしれない。だから、先週の日課である14章1節で「心を騒がせるな」と言われたわけです。弟子たちの心がざわついていた、騒いでいたからです。不安と恐れで、心が波立っていた…。

イエスさまが死んでしまう。イエスさまと別れなければならない。これは、弟子たちにとっては、まさに「みなしご」になるような思いでした。なぜならば、イエスさまこそが安心の源だったからです。子どもにとって親とはどんな存在か。もちろん、親にもいろい
ろな務めがあるでしょうが、まず第一は子どもの存在を守るということでしょう。この子が元気に生きてくれるだけで良い。

幼い子を持つ親は、大抵そう思うものです。そんな子どもたちも大きくなると、生きることが、成長することが当たり前のように感じられて、その存在自体だけでは物足りなくなり、変な期待や欲を寄せるようになる。すると、本来の「居てくれるだけで嬉しい」、「生きてくれるだけで良い」という存在自体の有り難さが薄れてしまい、いろいろと親子の対立も起こってくるようになる。

ともかく、まだ幼くて、力の加減次第ではすぐにでも死んでしまうほどに儚い存在である赤子の頃は、とにかく「生きること」だけを願う。その存在自体が尊くて、愛らしく思う。それが、親心。そのために、昼夜を問わず、身を削って必死になって子育てをするワケです。だからこそ、子どもは安心する。自分を大切に生かし、育ててくれる人たちだからこそ、信頼して、安心して委ねることができる。不安なときにもいつも側にいてくれるから、悲しい時には慰めてくれるから、怖い思いをした時にはきゅっと抱きしめてくれるから、困った時にはいつも助けてくれるから、温かく、微笑んで見つめてくれるから、安心できる。

それが、ある意味、今までの弟子たちの姿でもあったワケです。イエスさまがいつもいてくださるから大丈夫。安心できる。でも、そのイエスさまがいなくなってしまわれる。どこかに行ってしまわれる。どうしよう。弟子たちの困惑も当然でしょう。あるいは、それは、ここにいたイエスさまの直接的な弟子たちに限らないのかもしれません。

イエスさまが天に昇られた後に出来た教会は、この弟子たちのようには直接的にはイエスさまにお会いすることなどできないからです。もちろん、私たちだってそうです。イエスさまがいない。不在である。いつも共にいてくださると約束してくださったのに、とてもそうは思えない。不安だ。この先、どうしたらいいのだ。

このヨハネ福音書が記されたヨハネの教会は、当時、迫害に遭っていたと言われています。この教会の人たちにとっては、この「みなしご」はまさに自分たちのことを指していると思ったのかもしれません。いつも一緒にいてくださると約束してくださったではあり
ませんか。どうしていてくださらないのですか。答えてくださらないのですか。助けてくださらないのですか。慰めてはくださらないのですか。癒してはくださらないのですか。

私たちのことを放って、どこに行ってしまわれたのですか。確かに、そうです。弟子たちだけではありません。私たちもまた、「みなしご」になってしまったと思える時がくる。イエスさまはどこかに行ってしまわれて、私たちは一人、不安の中に取り残されてしまった。そうとしか思えない時もある。あの『FOOTPRINTS』の詩人のようにです。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません』」。

私たちにも、この詩人の気持ちが良く分かると思います。いつも一緒にいてくださると約束してくださったのに、「みなしご」になってしまったかのような気持ちです。しかし、イエスさまはこう語られます。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。いっとき…、そう、いっときはイエスさまがいなくなってしまわれたかのように思えるような時が来るでしょう。どこかに行ってしまい、一人残された「みなしご」のような気持ちに、不安な気持ちに苛まれるような時もあるでしょう。

しかし、イエスさまはそうはさせない、とおっしゃいます。「みなしごにはしておかない」とおっしゃいます。また「戻って来る」とおっしゃいます。しかも、その間でさえも、ほんのいっときの間であっても、「みなしご」にしておかないように、聖霊を遣わす、とおっしゃってくださる。イエスさまのことを教え、思い起こさせる聖霊を、あなたがたのところに、その心の中に遣わす、とおっしゃってくださいました。だからこそ、あの詩人も気づけたのです。

「主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」(マーガレット・F・パワーズ)。聖霊がいてくださったからこそ、聖霊を遣わしてくださったからこそ、見えていなかったものが見え出し、気づき得なかったことに気づくことができた。あの時も、この時にも、確かにイエスさまは共にいてくださったのだ、と。私は決して「みなしご」ではなかったのだ、と。それは、本当に幸いなことです。



人生を根底から変えてしまうほどに。あの「ハッチ」が夢にまで見たお母さんと出会えた喜びのように。私は、第一ペトロ1章8節以下の言葉が大好きです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」

これほど、聖霊の働きを言い表しているものはないのではないかと思っています。この目で見たことがなく見てもいないのに、信じ、愛し、喜んでいる。聖霊によってイエスさまを知って、その約束を信じて、救われて、心から安心できているからです。

私は、決してひとりぼっちではない。「みなしご」ではない。いつでも、どこにでも、たとえ死の先にあってもイエスさまが共にいてくださる。これほど心強いことはない。そう思える。信じていける。それは、私たちの掛け替えのない財産だと思います。

 

《祈り》
・全国的には新規感染者数も減って、非常事態宣言が解除になった地域も多いようですが、気の緩みから第二第三の波も心配されています。一人一人が「うつらない。うつさない」といった自覚をもって、これからの生活においても注意していくことができますよう
に、どうぞお導きください。また、医療体制の脆弱なアフリカ諸国やインドなどでも非常な勢いで広がっていると懸念されています。

もともと衛生面においても、また栄養面においても、十分とは言えない方々も多くいらっしゃいますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な援助も行われますようにお願いいたします。

あるいは、難民キャンプなどの感染リスクも非常に懸念されています。弱い立場の人々に、特にこういった疫病は襲っていきますので、どうぞお助けくださいますようにお願いいたします。また、そういった中で懸命に働いておられる方々もお守りくださり、遠く離
れた私たちですが、私たちにできることもしていけるように、お導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・緊急事態宣言の延長のために、まだ学校に行くことのできない学生、子どもたちが多くいます。どうぞ、それらの子どもたちの学ぶ機会が奪われませんように。将来に不安を抱えることがありませんように、どうぞお助けください。

・本当にこのコロナの問題で、世界中で人の悪感情が噴出しています。それにより、対立が起こったり、また傷つけ合うことが起こってしまっていますが、どうぞ憐れんでくださり、思いやりの心を取り戻すことができますようにお導きください。また、虐待やDV被
害者などもお救いくださいますようにお願いいたします。

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン



 ※『奇跡の漁り』(ロイヤル・コレクション所蔵、ヴィクトリア&アルバート博物館展示)
ラファエロ・サンティ1515年 

-週報- 2020年 5月10日 復活節 第五主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 天にいますわれらの父よ  D.ブクステフーデ

初めの歌  12( めぐみゆたけき主を )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
み民の心をひとつにされる神(さま。

あなたの掟を愛する心、あなたの約束への切なる望みを私たちに興し、激しく
変動するこの世界の中でも、動くことのない喜びを与えてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読 使徒言行録 7:55-60( 新約 227頁)

第2 の朗読  ペトロの手紙一 2:2-10( 新約 429頁 )

福音書の朗読 ヨハネによる福音書 14:1-14( 新約 196頁 )

みことばのうた 234A( 昔主イエスの 播きたまいし )

説教 「 イエスさまが示される道 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 298( やすかれ、わがこころよ )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 494( わがゆくみち )


後奏 いと高きにある神にのみ栄光あれ  A.ギルマン

* 前奏・後奏(萩森英明選曲)

【テキスト・音声 】2020年 5月10日(日)10:30  説 教:「イエスさまが示される道 」浅野 直樹 牧師

復活節第五主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書14章1~14節

Live版はこちらから



今日の福音書の日課の中で、イエスさまはこうおっしゃっておられました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。

最近、いろんなことを考えます。皆さんも恐らくそうではないか、と思います。その一つに、普段の何気ない生活・日常の大切さ、というのがあります。これは、以前にもお話したあの3・11の時にも経験しました「当たり前の日常生活の有り難さ」とは、ちょっと意味合いが違うものです。言い方を変えれば、「平時」の生活・日常の大切さ、ということです。

つまり、その「平時」が「いざ」というときと、どのように結びついているだろうか、ということです。例えるならば、普段から災害などにどのように備えているのか(備蓄とか訓練とか)といったことと同じようにです。今回、私たちは、世界規模の「いざ」(重大な局面)に直面している訳ですが、当然、私たちの人生には、この「いざ」ということがつきものでもあるからです。

私は、反省をしています。私たちは今、テレビのニュース等で「平時」にはあまり見られなかった嫌なものを見聞きすることが増えました。虐待、DV、自粛警察と言われる人々による嫌がらせ、差別的な発言、悪意に満ちた書き込み、コロナ鬱等々…。「平時」にはごく限られた人々の問題だと思っていたものが、不安や苛立ち、『心の騒ぎ』からより広がりを見せているように思います。そういった報道を見聞きするたびに、もっと伝道すべきだった、と反省する。

もちろん、伝道したからといって、これらの問題が綺麗さっぱりなくなるとは思っていません。一所懸命に伝道したって、聞き耳を立ててくれる人は本当にごくごく少数です。それでも、反省がない訳ではない。聞いてくれなくても、「いざ」という時のために、もっともっと伝道に励むべきだったと反省する。ともかく、この「いざ」という時のためにも、「平時」…、普段の何気ない生活・日常が大切なのだと、改めて噛み締めています。

しかし、同時に、この「いざ」という危機的な状況もまた大切な時なのであろう、と思うのです。なぜならば、この「いざ」という時でなければ開かれない扉があるからです。
使徒パウロは『コリントの信徒への手紙2』の中でこのように自身の経験を語っています。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これから
も救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。あのパウロでさえも、絶体絶命の危機的な状況の中でこそ神さまに頼ることを学んだ、と言っているかのようです。

以前、死の克服こそ聖書が語る最大のメッセージだと私自身は考えていると言いました。確かに、そうなのですが、実はちょっと不正確でもあります。もっと正確に言えば、神さまとの和解、神さまとの関係性こそ、あるべき正常な関係性の回復こそが真に受け止めるべき最大のメッセージだと考えているわけです。これを端的に言い表すならば、「私は神さまに愛されている。私も神さまを愛している」ということになるでしょうか。

これさえあれば、この理解さえ、信仰さえしっかりと自分のものになっていれば、他は何もいらない。これだけで人は生きていけるし、安んじて死んでいける。そう思っています。しかし、このことに気づけたのも、私なりの危機的な状況を経験したからです。


またまた自分の経験・体験をお話しするのをお許しいただきたいと思いますが、ご存知のように私自身は長男との死別を経験しているワケです。これは、私自身の命の危険ということではありませんでしたが、精神的な、霊的な、信仰的な、あるいは私自身の人生の危機だったといっても良いと思っています。

祈りました。これまでにないほど、真剣に祈りました。血が滴るほど、とまでは言いませんが、絞りきって涙が出なくなるほど、その痛みで目を開けておれなくなるほど、心の叫びを神さまにぶつけていました。あのダビデが神さまに同情を買うかのように。しかし、長男は死んでしまった。神さまは沈黙を貫かれたのです。恨みました。腹が立ちました。果たして、本当に神さまはいらっしゃるのか、と問いました。あらゆる意味で疲れ果て、しばらくの間は呆然と過ごしました。それでも、神さまは沈黙を貫かれていました。しかし、徐々に不思議なことに気づきだしました。心が燃えていたのです。はっきりとは気づけないほどの小さな灯でしたが、相変わらず疲れ果てて、呆然とした中ではありましたが、希望の火が灯っていることに気づいた。

私は、神さまをもっともっと信じたいと思っている、と。愛したいと願っている、と。それは、自分でもなかなか理解できないような不思議な感覚でした。願いが届かず、どこか失望していたのに、諦め、虚無のような思いさえも抱いていたのに、結局本当に自分が欲していたのは、神さまご自身なのだ、と気づかされたのです。もちろん、息子が生きていてくれた方がいいに決まっている。そのために、真剣に祈ってもきた。

しかし、それらがどこか霞んでしまうくらい、自分が本当に欲し、願っていたのは神さまご自身であった。自分では気づき得なかった、自覚し得なかったけれども、これまでの人生においても、ひたすらに願い追い求めて来たものは、神さまご自身のことだった。この方を本当に、心の底から信じ、愛することだった。もし、それが叶えば、他は何もいらないと思えた。息子のことも、この神さまに全てお任せすることができる。愛する者を助けることも救うことも愛し切ることもできない私なんかよりも、よほど息子のことを思い、愛してくださる方に委ねることができるのだから、これほど心強いことはない。

そう思えた。そうだ。私は不信仰だったのだ。不信仰だから「心を騒がせ」ていたのだ。この不信仰から、この神さまを信じ切れる信仰へと導かれるとすれば、なんと幸いなことだろうか。これらの出来事も、与えられたその一つの道筋ではなかったか。そう思えた。なんとこの信仰とは素晴らしいものか。まさに宝。全てを投げ捨ててでも手に入れたいもの。私自身はまだまだそんな境地には達し得ず、その途上にあることを深く自覚させられてもいますが、それでも、なんだか素敵な、素晴らしい予感がしたのです。私も、この幸を、信仰の幸を手に入れることができる。

私も、神さまに愛されていることを深く悟り、また神さまを愛する者へと変えていってくださるに違いない、と。だから、信仰生活は止められない。この幸いが待っている。その思い、気づきが私を立ち上がらせてくれたのだと思っています。ともかく、不幸が、危機的な状況が開いてくれる世界、見させてくれる、気づかせてくれる世界がきっとあるはずです。

「平時」の備え。「いざ」という時に開かれる世界、気づき。それらに基礎付けられた「平時」の新たな備え、そして「いざ」という時…。このような循環を通して、私たちは、個々人の生活においても、またこの社会においても、整えられていくのかもしれません。



イエスさまは語られます。今日、この状況下の中にある私たちに語られます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。今の、この状況下の中で心が騒がしくなるのも当然のことでしょう。神さまも、イエスさまも、そんなことは十分に分かっておられる。しかし、その上で語られるのです。「心を騒がせるな」と。なぜか。神さまを、イエスさまを信じられないところに、信じきることができないところに、心のざわつきは起こるからです。ですから、「信じろ」と招かれるのです。それでも、こ
のわたしを信じろ、と。

そして、この神さまを、イエスさまを信じる者には見えてくるものがある。それが、天の父なる神さまのおられるところに備えられている私たち一人一人の住まいです。これは、まさに、信仰の目でなければ見えてこない世界です。しかし、それは、私たちが生きるこの現実世界を無視することではないでしょう。私たちには天の住まいがあるから大丈夫と、この世の責任を放棄することではありません。今、この混迷の時代に、私たちがすべきこと、責任は確かにあります。新型コロナにかからないこと。うつさないこと。これは、最低限の私たちが努めていくことでしょう。それ以外にも私たちにできることがある。

いいえ、私たちにしかできないことがあります。祈ることです。イエスさまはこう約束してくださっています。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。もちろん、それ以外にも、医療従事者の方々や私たちの生活を支えてくださっている方々に感謝することや、喜びと感謝の声をもっともっと多く発信していくこともできるかもしれません。もちろん、そうです。

しかし、どれほど注意をしていても、感染してしまうことだってあるでしょう。場合によっては命の危険さえも起こってくるのかもしれない。それでも、「心を騒がせ」ずにいられるのは、この信仰によって違う世界をも見ることができるからです。違う世界にも希望を見いだすことができるからです。そのためにも、イエスさまは神さまを、そして私をも信じなさい、と促しておられるのです。

そして、ここにはもう一つ非常に大切な言葉が記されていました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。以前にも指摘した通りですが、私はこの言葉の前半部分だけがなんだか切り取られ
てしまっているように思えて危惧しています。イエスさまがご自身のことを道であり真理であり命であるとおっしゃったのは、神さまのところに導くために他ならないからです。

この神さまとの関係、つながりを無視して、道、真理、命を取り出すことは間違いだと思います。ともかく、私たちはイエスさまを通して、はじめて父なる神さまへ至る道、真理、命をいただくことができるワケです。

イエスさまは「神を信じなさい」と言われます。しかし、見たことのない方をどうして信じることができるでしょうか。それに対してイエスさまはこう語られるのです。「わたしを見た者は、父を見たのだ」と。

神さまを信じるためには、イエスさまを信じるしかない。聖書を通して、じっくりイエスさまを観察し、そのイエスさまのお姿を通して、また十字架と復活のメッセージを通して、神さまのお姿を、私たちに向けられている愛の真実を、見いだすしかない。それが、道であり真理であり命であると言われていることでもあると思うのです。

私たちには、このイエスさまがいてくださるのです。「平時」においても、「いざ」という時にも、このイエスさまが神さまのことを示してくださる。だから、私たちは救われるのです。癒されるのです。立ち上がれるのです。希望をもって、全てを委ねていけるよ
うになる。そのことをもう一度心に刻んで、イエスさまを信じていきたいと思います。



《祈り》
・先日、私たちの仲間である敬愛する姉妹がお亡くなりになられたとの知らせがありました。大病を患い闘病されていたことは伺っていましたが、突然の知らせに衝撃を受けています。ご家族にとっても突然の出来事だったようで、また新型コロナの影響でご家族だけでのご葬儀となったと伺っています。本当にお辛いこととお察し致します。私たちにとっても大変悲しいことです。いつも笑顔で教会に来られていた姉妹と、この地上ではお会いすることができなくなりました。どうぞ、御約束の通りに、姉妹をあなたの懐に迎え入れてくださり、永遠の平安に与らせてくださいますようにお願いいたします。また、辛い思いをされておられるご家族をも憐れんでくださり、豊かな慰めを、またあなたにある希望をお与えくださいますようにお願いいたします。

・新型コロナの新規感染者が減ってきているようです。感謝いたします。しかし、まだまだ油断ができない状況ですので、自粛疲れが出ているとも言われていますが、一人一人がしっかりと自覚をして行動をすることができますようにお導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・緊急事態宣言の延長のために、まだ学校に行くことのできない学生、子どもたちが多くいます。どうぞ、それらの子どもたちの学ぶ機会が奪われませんように。将来に不安を抱えることがありませんように、どうぞお助けください。

・本当にこのコロナの問題で、人の悪感情が噴出しています。それにより、対立が起こったり、また傷つけ合うことが起こってしまっていますが、どうぞ憐れんでくださり、思いやりの心を取り戻すことができますようにお導きください。また、虐待やDV被害者など
もお救いくださいますようにお願いいたします。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。

アーメン

*Carnation, Jacob Marrel (possibly), 1624 – 1681

 

【テキスト・音声 】5月3日(日)10:30  説 教:「イエスは良い羊飼い 」浅野 直樹 牧師

復活節第四主日 礼拝説教(むさしの教会)
聖書箇所:ヨハネによる福音書10章1~10節




【Live版はこちらからご覧下さい】
※礼拝始めに音声不具合のため6:30分からご覧ください。

 

近頃はテレビで動物、あるいはペットの映像がよく流れているように思います。このところの外出自粛のせいでストレスが溜まっていたり、気分が落ち込みがちになっていることを見越してのことかもしれません。確かに、可愛らしいペットの、動物の仕草を見ると、自然に目尻が下がり、癒されます。

皆さんの中にもペットを飼われている方、飼われていたことのある方がいらっしゃることと思います。私自身は田舎に住んでいたこともあり、また母が動物好きだったこともあって、さすがに「羊」は飼ったことがありませんでしたが、幼い頃から身近に動物(ペット)がいるのが、ある意味当たり前のことでした。

鶏、うさぎ、錦鯉、金魚、かめ、セキセイインコ、犬、猫…。うさぎに食べさせるために、大量のクローバー(シロツメクサ)を採りに行ったことを覚えています(田植え前の田んぼは、春先一面にシロツメクサが生えていました。まさに緑の絨毯でした)。

セキセイインコは、器用に自分の名前を呼んでいました。もともとは犬派だったのですが、猫を飼ってからは、いわゆる「猫可愛がり」が良く分かるようになりました。本当に可愛かった。それら動物、生き物を見ていると、本当に心が穏やかになり、「ほっこり」したことを覚えています。

*1. Anton Mauve – The Return of the Flock, Laren



今日の福音書には、羊飼いと羊が登場してまいります。もちろん、羊飼いはイエスさまのこと、その羊たちは私たちのことです。羊飼いであるイエスさまにとって、私たちは、ひょっとして心温まる、ほっとする、「ほっこり」できる存在なのかもしれない。いつまで見ていても飽きない。微笑ましい。そんなふうにも思えてきます。

そんな羊飼いであるイエスさまですが、この羊飼いは非常にユニークな方でもあります。10節「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とあります。確かに、羊飼いにとって自分の羊は大切な存在でしょう。ここに出てくる盗人や強盗とはワケが違う。盗人や強盗にとって羊とは、「獲物」でしかないからです。他人(ひと)から奪っては、売って金に変えてしまう。

ただ、それだけの存在です。商売の道具でしかない。しかし、羊飼いにとっては、そうではないでしょう。自分の大切な財産なのですから、一所懸命に養い、育て、手当てをして、大切にしていったはずです。愛情を注いで、家族同様に育てて行った。しかし、家族とは違います。時には、その大切な羊を売ることもあったでしょう。屠ることもあったかもしれない。家族のために、です。そうです。

いくら大切に育ててはいても、羊たちは、羊飼いにとっては生業なのです。生きていく、生活していくための手段なのです。つまり、自分の、自分たちの「羊」でしかない。いくら心優しい羊飼いであっても、その関係性は変わることはないでしょう。しかし、ここに、一人ユニークな羊飼いがいる。自分のために羊を飼い、養い、育て、手当てをするのではなく、羊のために、羊自身のために、その羊たちが命を得るために、しかも豊かに得るために飼っていく羊飼いがいる。しかも、この羊飼いは、そんな羊のために自らの命さえも捨てると言う。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。確かに、聖書にも書いてあるように、雇い人の羊飼いであるならば、そんなに命がけで他人の羊のことを守ることはなかったでしょう。実際に、当時の羊飼いたちの中には、自分の羊を狼や熊などから守るために戦って命を落とす者もいた、といいます。しかし、これは、守るために戦った末に、残念ながら命を落としてしまった、ということです。つまり、命を落とすことは本意では無かった。自ら積極的に、この羊の身代わりとなって命を捨てるという羊飼いなどいないワケです。

しかし、私たちの羊飼いは、ご自分のためにではなく、私たちのために、私たちが命を得、しかも豊かに得るために、私たちの身代わりとなって十字架の上で命を捨ててくださった。このイエス・キリストこそが私たちの羊飼いであると聖書は語ってまないわけです。私たちは、このイエスさまに飼われている羊の群れ。ユニークな、唯一無二の羊飼いに養われている。

このように、私たちは唯一無二なイエス・キリストという羊飼いに飼われている羊(たち)であるわけですが、その羊の特徴は何かと言えば、その羊飼いの声だけに従うと言われています。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」。

イエスさまの羊の特徴は、毛並みが良いことでも、賢いことでも、人格(羊格?)が優れていることでも、有能なことでもなく、ただイエスさまの声を知っており、その声に、その声だけに従うことなのです。ただ、それだけのことです。しかし、この唯一のことにこそ、私たちは注意を向ける必要があるようにも思うのです。ただ、イエスさまの声だけを聞き分けて、従う。政治家の声でもありません。権威ある者の声でもありません。誤解を恐れずに言えば、牧師の声でもありません。イエスさまの声だけに従う。これが、イエスさまの羊たちの特徴なのです。

言わずと知れた、現在は未曾有の危機的な状況です。人との接触も8割減と言われ、町にも本当に人がいなくなりました。映画のワンシーンを見ているかのような、ちょっと異様な感じもしています。教会にも残念ながら集まることができませんが、これも感染症を防ぐためだと、様々な不自由さや制約も我慢しながら、国民が一丸となって取り組んでいるワケです。しかし、一つ懸念されていることがあります。それは、「コロナ後」ということです。

現在は新型コロナウイルスを防ぐために仕方がないこととしてしているワケですが、このコロナ騒動が収まっても、世界が変わってしまい、監視社会が、自由や権利を過度に制限するような風潮、強権政治等が強まってしまわないだろうか、と危惧されてもいるからです。そんなことは考えすぎだ、と言うのは簡単ですが、私たちは歴史からもよくよく注意深く見ていく必要があるようにも感じるのです。

ご存知のように、あの悪名高きナチスは、最初っから悪名高きものではなかったからです。第一次世界大戦で敗北し、莫大な賠償金に喘ぎ、そのため極度のインフレにも会い(一兆倍のハイパーインフレーション)、世界恐慌も相重なって、どん底状態に陥っていたドイツ国民にとっては、ナチス・ドイツ、ヒトラーが掲げる理想は、希望に映ったからです。あたかも、自分たちをこの窮状から救い出してくれる救世主のように思ってしまった。その結果、どうなってしまったかは、お話しする必要もないと思います。

それは、世界大のことだけでもないでしょう。私たち個々人の日常、人生においても起こらないとは限らない。イエスさまの羊である私たちを、虎視眈々と狙っている狼たちは、盗人・強盗たちは、何も、いつでもそういった装いで、誰の目にも明らかな姿でやってくるとは限りません。羊の皮を被ってくるのかもしれない。いかにも私たちのことを思っているかのように、気遣っているかのように、柔和で、優しい笑顔で接してくるのかもしれない。しかし、その本性は、羊のことを考えもしない、ただ己のため、己の欲望、願いを叶えるために利用しようとしているだけなのかもしれない。ですから、そういった声に従ってはいけないのだ、と言うのです。そういった声を聞き分けなければならない。

それは、本当にイエスさまの声なのか。イエスさまの思いを表している声なのか。それとも、別の声なのか、聞き分けなければならない。そして、イエスさまの羊ならば、その声を聞き分けることができるはずだ、と言われます。懐かしい、聞き覚えのある声なのか、それとも、たとえ心地よい声だとしても別の声なのか、と。

*2.マルテン・ファン・クリーフ1524~1581 Marten van Cleve 「The_Good_Shepherd」



もう一つのイエスさまの羊の特徴は、ただ声を聞き分けるだけでなく、聞き分けたら「ついて行く」と言うことです。イエスさまが生きておられたパレスチナの羊飼いたちは、羊たちの先頭に立って、導いていきました。なぜならば、どこまでも広がるのどかな平坦な牧草地ではなく、穴あり谷あり崖ありの過酷な環境だからです。ですから、これから向かおうとする道の安全を確認しながら羊飼いたちは先頭を歩く。

そして、羊たちはそんな羊飼いを信頼して、後について行く。従って行くのです。そんな羊たちの様子について、今日の使徒書ではこんなことが書かれていました。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉になるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。

イエスさまの後について行く、ということは、イエスさまの模範に従って行く、ということでもあるでしょう。と言っても、簡単なことではありません。私たちは、なかなかイエスさまのようにはなれない。当然です。イエスさまの羊であっても、元気いっぱいにいつでもイエスさまのすぐ後ろについていける者もいれば、ふらふらして列から遅れてしまう者もいるでしょうし、後ろ髪引かれていつも後ろばかりを振り返ってしまう者もいるでしょうし、それこそ、ひょいと迷子になってしまう者もいるかもしれません。あるいは、そのペースについていけず、自分はだめだと座り込んでしまう者も出てしまうかもしれない。

私たちの羊飼いは、そんな羊たちの実情を無視して、ただひたすらに目標を目指して突き進むような羊飼いではないはずです。脱落する者を放っておいて、自己責任だ、自分でなんとかしろ、と突き放すような羊飼いでもない。遅れている者がいればペースを落とし、しゃがみこんでいる者がいれば、少し休息を取り、怪我をしている者がいれば肩に担ぎ、後ろばかりを気にしている者がいれば、「大丈夫だ、ちゃんと前を向いていこう」と励まし、迷い出た者がいれば探し出してくれる、そんな羊飼い。私たちの羊飼いは、弟子たちの失敗を何一つ咎め立てもせずに、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださる復活のイエスさまだからです。それが、私たちの羊飼い。しかし同時に、その上で、羊である私たちも、自分の足で、この足で、この羊飼いを信頼して、その声を聞き分けて、ついて行く、従って行くことも望まれている。そうではないでしょうか。

イエスさまが私たち羊に願っておられることは、羊飼いであるイエスさまの声を聞き分けること。そして、この声だけについて行くこと。他の声にはついていかないこと。それだけ。その道中は、一進一退かもしれません。なかなか個性揃いの羊たちです。順調に進んだと思ったら、立ち止まったり、そこで野宿せざるを得なくなったり、探しにでかけたりと、羊飼いにとっては予定通りにならない珍道中かもしれません。しかし、そんな羊たちを羊飼いイエスさまは愛おしそうに、目を細めながら、ホッとしたように、「ほっこり」するかのように見つめておられるのではないでしょうか。「私の羊たちよ」と。

*3. ジャン=フランソワ・ミレー『羊飼いの少女』1863年頃。油彩、キャンバス、81 × 101 cm



《祈り》

・少し外出自粛が功を奏してか、感染者が減少傾向のように伝えられていますが、しかし、まだまだ予断を許さず、緊急事態宣言も延長されるとのことです。気候も良いせっかくのゴールデンウィークも、今年は「STAY HOME週間」となってしまいましたが、気を緩めることなく、自分たちにできることを誠実に成していくことができますように、どうぞお導きください。

・また、緊急事態宣言の延長に伴い、教育の現場も混乱していると聞きます。子どもたちにしわ寄せがいかないように、担当される方々の判断をお導きくださいますようお願いいたします。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方には癒しを、お亡くなりになられたご家族の方々には慰めをお与えください。

・まだまだ医療現場は大変な状況だと思います。どうぞ憐れんでください。医療に当たっておられるお一人お一人の上に、あなたの守りと助けが豊かにありますように。

・医療に必要な物品もまだ不足しているようです。どうぞ、速やかに供給がなされますように。

・また、感染症拡大のために、従来の疾病対策・治療が不十分になりつつあるとも聞きます。特に、救急医療の必要な重篤な方々の受け入れが困難になりつつあるとも聞きます。また、必要な手術ができない方々もいると聞きます。どうぞ、速やかなる改善がなされるようにお導きください。

・このような状況下の中で、市民の社会生活を支えるために懸命に働いておられる方々も多くおられます。スーパーの店員さん、物流の方々、銀行職員、郵便局の方々、公務員の方々等、ご自身たちも感染のリスクに不安を抱えながらの働きだと思いますので、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。

・経済的に厳しい状況に陥っておられる方々のために、速やかに援助の手が伸ばされるようにお願いいたします。

・外出自粛のために潜在化していた問題が、次々と顕在化しているとも言われています。特に、虐待、DVの問題は深刻です。どうぞ、必要な逃れ場が与えられますように。人々の心が荒んでしまうこの状況が、少しでも改善されていきますように、どうぞお助けください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

 

 
 

参考絵画
1.Anton Mauve – The Return of the Flock, Laren- Google Art Project
2.マルテン・ファン・クリーフ1524~1581 Marten van Cleve 「The_Good_Shepherd」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Marten_van_Cleve_The_Good_Shepherd.jpg
3.ジャン=フランソワ・ミレー『羊飼いの少女』1863年頃。油彩、キャンバス、81 × 101 cm

【テキスト・音声 】4月26日(日)10:30  説 教:「共に歩む幸い 」浅野 直樹 牧師

復活節第三主日礼拝説教
ルカによる福音書 24:13-35

【Live版はこちらからご覧下さい】



今、私たちは、「独り」になることが求められています。自分を守るために、愛する大切な人たちを守るために、です。これは、恐らく、これまで私たちが経験して来なかったことでしょう。人は「独り」では生きられないことを聞かされてきました。人は常に他者と生きるために存在しています。聖書の創造物語の中に、「人が独りでいるのは良くない」(創世記2章18節)とある通りです。これまでも人類は、様々な危機的な状況に遭
遇してきました。大きな戦争も、途方も無い自然災害も経験してきました。その度に、私たちは寄り添ってきました。たとえわずかな人数でも集まってきました。むしろ、「独り」になっている人を探し当て、その輪の中に迎え入れてきました。「独り」にさせない
ことに取り組んできました。

現代社会では、「独り」とは負け組の象徴のようにも考えられてきたように思います。小学校に入学するときには「100人の友達」ができることが理想とされました。友達が多い方がより優れた人格者だと見なされてきました。逆に、友達がいないと、どこか欠陥があるように考えられてきました。だから、『無理をして』その集団に居続ける若者が増えたと思います。別に趣味・嗜好も合わないのに、話も合わないのに、居心地も決して良くないのに、けれども「ぼっち」にはなりたくない、思われたくないと、本当はその集団にいるのが辛いのに、離れられないでいた若者たちが多くいました。また、「孤食」がバレないようにとトイレの個室の中で食事を取っていたということも話題になりました。

今は、「おひとり様」が随分と認知されているように変わってきたと思いますが、それでも、やはり「独り」を決して良しとはしていないように思います。無理をするのも嫌だけれども、「独り」が決して良いとも思っていない。無理のない適当な付き合いを求めている。ずっと「独り」でいるのは嫌だと思っている。

しかし、今は「独り」が求められています。自他ともに守るためです。いいえ、「独り」にならざるを得ない、と言った方が良いでしょうか。新型コロナによる日本の死者数も300名を超えました。その中には、人気者の有名人も含まれています。彼らは、ファンに囲まれながら命を引き取ったのではありませんでした。家族でさえも、ごくごく親しい人でさえも、見送ることができませんでした。みな「独り」で旅立っていきました。もちろん、医療従事者の方々が懸命に治療に当たってくれました。

旅立つときにも、一緒にいてくれました。そういう意味では、決して「独り」であったとは言えないでしょう。しかし、家族にも、愛する者たちにも会えず、言葉も交わせず、肌に触れ合うこともできなかった旅立ちは、やはり「独り」だったように思えるのです。それが…、「独り」で送り出さなければならない現実がこの感染症の恐ろしさなのだと、そんな死別を経験された方々が口々におっしゃっておられます。「独り」であってはならないのに、「独り」で逝かざるをえない。本当に悲しいことです。辛いことです。

しかし、考えてみれば、「死」とは本来そうだったのかもしれない。確かに、「独り」でないことは心強いに違いない。愛する者たちに看取られながら、言葉を交わし、触れ合いながらの旅立ちは、大いなる助け、救いになるのだと思います。しかし、その先は「独り」でしかない。未知なる世界へと「独り」で向かうしかないのも事実でしょう。この感染症は、そんな「独り」の現実に、問題に、改めて気づかせてくれたのかもしれません。私たちは、必ず「独り」の時を迎える。そんな問題提起に、です。

Robert Zund「The Road to Emmaus(エマオへの道)」1877年作、museum in St. Gallen(スイス)



今日の福音書、『エマオ途上』とも言われる物語には二人の人物が登場してまいります。一人はクレオパといい、もう一人は名前も分かっていません。大方の人々は、この二人は男性だと考えているようです。そういった絵画は幾つもあります。しかし、ある方は、この一人(名前の知られていない方)は女性だったのではないか。あるいは、この二人は夫婦だったのではないか、と言います。いずれにしても、この二人はイエスさまの弟
子でした。そして、特別な間柄でもあったのでしょう。二人で同じ目的地を目指していたのですから。ともかく、ここには二人の人がいました。しかも、この二人は夫婦だったかもしれません。「独り」ではなかったのです。しかし、果たして、二人いたからといって、夫婦だからといって、「独り」ではなかったと言い切れるでしょうか。人はたとえ複数の人々に囲まれていたとしても、「独り」の思いを持つこともあるからです。

息子の葬儀には、本当に多くの方々が来てくださいました。50~60人も入れば一杯になってしまうような小さな礼拝堂に、200人以上の人々が集まってくれました。教会の方々、同僚牧師たち、学校の先生方、クラスメイト、ママ友、医療関係者、近所の人たち…。つくづく息子はみんなに愛された幸せな子だったと思いました。本当に感謝でした。そして、代わる代わる遺族の私たちにも慰めの言葉をかけてくださいました。それは本当にありがたいことでした。しかし、大変申し訳ない言い方になってしまいますが、その時の私は「独り」でした。

葬儀の対応に追われ、2月の寒い時期にも関わらず駆けつけ、慰めてくださる皆さんに本当に感謝していましたが、そのような感謝する意識、ありがたいと思う意識の裏腹に、悲しみで心が閉ざされていたからです。「今のこの私の辛さは誰も分かってはくれないのだ」と。善意であることは痛いほど分かってはいても、どうしようもなく心が閉ざされてしまい、本来慰めの場でありながらも、私は「独り」だったのです。

普段ならば、互いに良い相手だったのでしょう。仲睦まじい夫婦だったのかもしれない。しかし、この時には違っていたかもしれません。イエスさまが死んでしまわれたからです。信じ、信頼し、愛し、希望を託していたイエスさまが、この世からいなくなってしまった。突然に。この途方も無い大きな衝撃の前に、彼らは「独り」になっていたのかもしれません。道中、互いにこのことについて話をしていたようです。

しかし、恐らく、解決にも慰めにもならなかったでしょう。問いばかりが浮かんでくる。どうして…、と。この時、二人でいることが、この二人にとっては力にならなかったのではないか。「独り」という思いを打ち破るものになれなかったのではないか、そう思うのです。そこに、銘々がそんな「独り」を抱え込んでいた二人のところに、復活のイエスさまは来られた。しかし、当初は、それが復活のイエスさまだとは気づかなかったようです。見知らぬ一人の男性が近づいて来たようにしか思えなかった。

では、ここで彼らは3人になったのか、と言えば、違うでしょう。人は何人集まろうとも、その人との関係が生まれなければ、結局は「独り」だからです。毎日、同じ満員電車に揺られていても、そこに見知った顔を認めても、それだけでは出会いにならないからです。人は関係して、はじめて「出会い」になる。

イエスさまはこの二人に声をかけられました。まるで、二人の「独り」を打ち破るかのように、ご自身の方から「出会い」を起こさんがために声をかけられた。「イエスは『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた」。急所の問いです。彼らを「独り」にしている急所を、問題とされました。彼らは堰を切ったように話し始めます。まるで、自分たち以外の誰かに聞いてもらいたいかのように。自分たちがこんなにも悲しく困惑していることを分かってもらいたいかのように。

しかし、二人の話を聞かれたイエスさまはこう応えられました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。言ってしまえば、叱責です。慰められるどころか、見知らぬ人に怒られてしまう。でも、ここに何かが生まれたのです。後に、彼らは思い返して、こう語ります。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。この二人の「心は燃えて」いたのです。悲しみと辛さの中で、二人でいながらもあたかも「独り」でいるかのように心閉ざして、慰めも、励ましも見いだせなかった、受け付けようともしなかったこの二人の心が燃えていた。

「エマオのキリスト」レンブラント1648年ルーヴル美.



しかし、ある方が指摘されているように、この炎は決してかっかと燃え上がるような、勢い激しい炎ではありませんでした。むしろ、この時まで気づかないような、振り返って見なければ分からない、気づけないような小さな炎でしかありませんでした。劇的な燃え上がりではなかった。しかし、たとえ無自覚であったとしても、確かにこの炎はこの二人の中に燃えていた。だからこそ、この二人はイエスさまを引き止めたのでしょう。自分たちでも気づけないような、自覚が持てないような小さな変化、動きであったかもしれませんが、このイエスさまとの出会いによって、この二人は確かに変わっていったのです。心が燃やされていったのです。

これは、まさしく私たちの姿でもあると思う。そして、復活のイエスさまが私たちのところに来てくださるとは、こういうことでもあるのではないか、と思うのです。私たちもまた、復活のイエスさまが来てくださっていることに気づかないのです。気づかずに、共に歩んでいる。しかし、そこにはすでにしっかりとした出会いが起こっているのです。イエスさまの方から歩み寄り、私たちと関わってくださっているからです。そして、私たちは自分たちの不信仰にも気づかされる。なぜ私たちは「独り」になってしまうのか。なぜ心閉ざし閉じこもってしまうのか。なぜ「独り」でいることに、「独り」で歩むことに恐れてしまうのか。それは、聖書を悟っていないからだ、という。

聖書に記されている、約束されているとてつもない恵みを、約束を、真実を、愛を、私たち自身のものにしていないからだ、とおっしゃる。そして、悟るようにと、受け取るようにと、信じ救われるようにと、縷々熱心に教え導いてくださる。それが、復活のイエスさまの姿なのではないか。復活のイエスさまが私たちと共に歩んでくださるという姿なのではないか。そう思うのです。

私たちの人生に「独り」はつきものなのです。いやがおうにも「独り」にならざるを得ない時も起こってくる。多くの人々に囲まれていても「独り」の思いになってしまうことだってある。しかし、復活のイエスさまは、そんな時にも私たちと共に歩んでくださるはずです。気づこうと気づかなかろうと共に歩み、聖書を、恵みを、救いを、希望を、悟らせようとしてくださる。たとえ激しいとは言えなくとも、消えることのない炎を私たちの心に灯してくださる。それは、究極的な「独り」の時にも、決して変わらないことなのです。私たちは、今、それを深く心に覚えなければならない。

しかし、聖書はこうも記します。復活のイエスさまと共に歩んだこの二人は急いで弟子たちのところに行きました。そして、今度は多くの弟子たちと共に集う中で復活のイエスさまと出会うことになりました。「独り」も「仲間たち」も、もちろん、どちらともが大切なのです。特に、今のような状況の中では、仲間たちのありがたさもひとしおですし、一日も早い仲間たちとの再会も待ち望んでいます。それは当然のことです。しかし、このような時だからこそ「独り」ということもいやがおうにも無視できなくなっていることを、改めて重く受け止めていきたいと思う。そこにも、イエスさまだけは常に変わらず共にいてくださるからです。

 

『祈り』

日本においても、新型コロナの患者さんが増えています。お亡くなりになられた方々も多くおられます。どうぞ憐れんでください。治療されておられる方には癒しを、お亡くなりになられたご家族の方々には慰めをお与えください。医療現場も大変な状況になっています。どうぞ憐れんでください。医療に当たっておられるお一人お一人の上に、あなたの守りと助けが豊かにありますように。

医療に必要な物品も不足しています。どうぞ、速やかに供給がなされますように。いくつかの企業がすでに取り組んでいるようですが、このような時ですから、利益を二の次にして多くの企業が協力していくことができますようにお導きください。

このような状況下の中で、市民の社会生活を支えるために懸命に働いておられる方々も多くおられます。スーパーの店員さん、物流の方々、銀行職員、郵便局の方々、公務員の方々等、ご自身たちも感染のリスクに不安を抱えながらの働きだと思いますので、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。

経済的に厳しい状況に陥っておられる方々のために、速やかに援助の手が伸ばされるようにお願いいたします。
ご自宅で余儀なく療養されていた方々が次々とお亡くなりになられました。どうぞ、速やかなる改善がなされますように。外出自粛のために潜在化していた問題が、次々と顕在化しているとも言われています。特に、虐待、DVの問題は深刻です。

どうぞ、必要な逃れ場が与えられますように。人々の心が荒んでしまうこの状況が、少しでも改善されていきますように、どうぞお助けください。

他教会員(保谷教会の木村兄)ではありますが、敬愛する兄弟があなたの元に召されたと伺いました。突然のことで、正直、衝撃を受けています。どうぞ、み約束の通りに、兄をあなたの永遠の祝福で包み、御許で憩わせてください。

兄を送ったご家族の方々、また教会の兄弟姉妹方に、どうぞ豊かな慰めをお与えくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン