その他

【 Live配信 】2022年6月12日(日)10:30  三位一体(聖霊降臨後第1)主日礼拝 「信じることは信頼すること」浅野 直樹 牧師



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2022年7月9日(土)第27回 日本福音ルーテル教会東教区宣教フォーラム 『日本の伝統に生きる私たち』Vol.3



ポスター A4(PDF)版はこちらからご覧ください。

1)主題:「日本の昔話から読み解く日本人の文化意識とキリスト教」

会場:ルーテルむさしの教会
主催:第27回ルーテル東教区宣教フォーラム委員会
日時:2022年7月9日 9:45〜

【開会の祈り】– 浅野 直樹Jr.牧師 9:45〜10:00
【第1部】– 主題講演 10:00〜11:30

「日本の昔ばなしから読み解く、日本人の文化意識とキリスト教」

◉講演者
立石 展大(たていし のぶあつ)高千穂大学教授
日本文学・伝承文学 日本と中国の民間説話比較

【軽食休憩】– 11:30〜12:00
【第2部】– シンポジウム 12:00〜13:55

「日本の伝統に生きる私たち」の文化意識と信仰心

◉司 会
上村 敏文  ルーテル学院大学准教授 日本文化論・比較文化論
◉パネリスト
菅原  建  浄土真宗大谷派證誠山浅草厳念寺住職
松谷 信司  キリスト新聞社 編集長
立石 展大 高千穂大学教授

【閉会の祈り】– 浅野 直樹Jr.牧師  13:55〜14:15

2)ご参加⽅法 

どなたでもご視聴できます。
↑上記ポスターまたは、↓下記YouTubeバナーをクリックしてお⼊りください。
(申し込みは必要ありません)



◉会場参加(むさしの教会)ご希望の場合は
以下の方法でお申し込みください。


①下記メールアドレスから申し込む ※氏名/所属教会を送信
お問い合せ:senkyoforum@gmail.com

Googleフォームまたは、スマホの場合QRコードで申し込む


 

 

【 Live配信 】2022年5月22日(日)10:30  復活節第6主日礼拝  説教 「聖霊の約束 」 浅野 直樹 牧師



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【 説教・音声版 】2022年5月22日(日)10:30  復活節第6主日礼拝  説教 「 聖霊の約束 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書14章23~29


今年もペンテコステ・聖霊降臨祭が近づいて参りました。今日の日課には、そんな聖霊の働きについても記されていました。

聖霊…。私たちは、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体なる神を信じています。これが、私たちキリスト教信仰の基本中の基本ということになります。しかし、先ほどの父なる神は創造主、子なる神は私たちの救い主イエス・キリストと良く理解されているのに対しまして、この聖霊なる神については、よくわからない、といった声も度々耳に致します。

徳善先生が訳されました『エンキリディオン 小教理問答』には、このように記されています。ご存知のように、「使徒信条」は三位一体なる神を告白している訳ですが̶̶使 徒信条に限らず、聖餐式礼拝の時に唱える「ニケヤ信条」も同様ですが̶̶聖霊の箇所に ついては、「第三条 聖化について」とあり、次のように記していきます。「答え 私は信じている。私は自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみ許に来ることもできないが、聖霊が福音によって私を召し、その賜物をもって照らし、正しい信仰において聖め、保ってくださったことを。同じように聖霊は地上の全キリスト教会を召し、集め、照らし、聖め、イエス・キリストのみ許にあって正しい、ひとつの信仰の内に保ってくださる。

このキリスト教会において聖霊は日毎に私とすべての信仰者のすべての罪を豊かに赦し、終わりの日には私とすべての死者とを呼び起こし、すべての信仰者と共に私にキリストにある永遠のいのちを与えてくださるのだ。これは確かに真実なのだよ」。聞くだけでは、なかなか理解しづらいと思いますが、要するに、私たち個々人においても、また教会、もっと広くキリスト教世界と言っても良いのかもしれませんが、ともかく聖霊によらなければ何もはじまらない、ということです。

聖霊の働きがなければ、神さまを、イエスさまを求めることもできないし、救いの出来事(ルター風に言えば、罪の赦しということでしょうが)にも関心を抱けないし、信仰の歩みなどあり得ない、ということです。今日、今、この礼拝堂に集まって、あるいはライブ配信等によっても、礼拝することなどあり得ない。つまり、逆に言えば、私たちが一つ一つその働きを意識しようとしなかろうと、信仰の事柄がそこにあるということは、聖霊の働きがあるからです。

先々週もお話ししましたように、例えそれが信仰の悩みであったとしても、自分の不信仰さに嫌気が差すような思いであったとしても、神さまに悔いる・謝罪するしかないような日常であったとしても、つまり、とても信仰者らしい振る舞いではないように思えるようなことであったとしても、聖霊の働きがなければ何も起こらない。何一つ始まらないのです。それらがあるということは、与えられているということは、そこに必ず聖霊の働きがあるからです。少なくとも、ルターはそのように理解していたのではないか、そう思う。

私たちは、どうしても自分基準で物事を見てしまいやすい。信仰の事柄も、聖霊の働きについても、きっとこうではないか、と自分で測ってしまいやすい。しかし、そうではありません。なぜなら、あなたを救いたがっているのは、あなた自身ではないからです。そうではなくて、神さまがそのように欲しておられるからです。私たちは、自分自身の救いさえも求めることができないのです。それが、不信仰というものです。なのになぜ、私たちは救いを求めているのか。少しでも神さまを信じたいと欲しているのか。信仰の弱さを嘆いているのか。聖霊なる神さまが、いいえ、父・子・聖霊なる三位一体なる神さまが、この私たちを欲しておられるからです。救いたい、と。癒したい、と。愛の中に包み込みたい、と。平安を与えたい、と。真の自由、命へと導きたい、と。私たちではない。神さまが、そう欲しておられる。だからこその、聖霊の働きなのです。

先々週だったでしょうか。私たちがイエスさまの羊であるといった話をした時、その羊の特徴はイエスさまの声を聞き分けることだ、と言いました。それが、ヨハネが記すイエスさまの羊の第一の特徴です。今日の箇所にも同様のことが記されていました。23節

「イエスはこう答えて言われた。『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。……わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない』」。イエスさまの羊であるならば、飼い主であるイエスさまを、たとえ拙い不十分な愛だとしても、愛するはずです。自分なりの小さな愛で愛そうとするはず。それは、御言葉を守ることだ、とおっしゃる。御言葉に従うことだ、とおっしゃる。では、そんな御言葉を守る、御言葉に従うということはどういうことなのだろうか。

私は、そのことを考える上で、あのペトロの召命物語が良い例ではないか、と思っています。ルカによる福音書です。もうよくお分かりだと思いますので、くどくどと説明しませんが、ペトロはガリラヤ湖の漁師でした。夜通し働いたのに何も収穫がなかったところにイエスさまが現れ、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。その時のペトロの答えがこうです。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。

皆さんもよくご存知の言葉だと思います。ここでペトロはこう答えました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と。これが、おそらく私たちの自然な反応でしょう。ペトロはもう何年もここで漁師として生活していた。そんな彼の知恵、知識、経験則が、また感覚、感情、思いが、「夜通し働いたのにとれなかったから無理だ」と結論づけたわけです。もし、ここで終わってしまったら、それはイエスさまの羊ではなくなってしまいます。なぜなら、御言葉を大切にしないどころか、無視することになるからです。

グイド・レーニ作「鍵を聖ペテロに渡すキリスト」、1624-1626年、パリ、ルーヴル美術館



しかし、ペトロはこう続けることができた。「しかし、お言葉ですから」と。聖書には何も記されていませんが、先ほどからの聖霊の働きを考えるならば、ペトロの知らない内に、自覚のないままに、聖霊の働きがあったのかもしれない。だから、「お言葉ですから」と言えたのかもしれません。もちろん、信じていた、信じきっていた、とは言い難かったでしょう。むしろ、どうせダメに決まっている、と心の中では思っていたのかもしれない。しかし、「お言葉ですから」と進むことができたからこそ、奇跡を、イエスさまの言葉の真実を体験できたのです。そして、これが御言葉を守る、御言葉に従う、という時に大切なことだと思うのです。私たちは、相変わらず不十分な者です。ルター風に言えば、

「義人であると同時に罪人」にすぎない。つまり、信仰の恵みを頂きながらも、十分にその恩恵を発揮することができていない途上の人間に過ぎない訳です。しかし、それでも、そんな自分達の思いを超えて、「お言葉ですから」と従っていく。信じていく。それが、イエスさまを愛することにもつながっていく。そうではないでしょうか。

確かに、私たちはイエスさまの羊です。イエスさまを愛しています。だから、御言葉を信じて、従っていきたい、と思う。不完全であることを自覚しながらも、そう願わされている。しかし、では、私たちの実際の生活、現実はどうなんだろうか。「お言葉ですから」と従っていけているだろうか。むしろ、御言葉を忘れたような生き方になってはいないだろうか。そんな問いも浮かんでくるのではないでしょうか。

そこで、私たちは、このイエスさまの言葉をも信じ・信頼していく必要があるのだと思うのです。「わたしは、あなたがたといたとき、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。たとえ、私たちが忘れてしまったようになったとしても、見失ってしまったようになったとしても、神さまが遣わしてくださる聖霊によって、もう一度全てのことを教えてくださり、また思い起こさせてくださる、というのです。それが、聖霊の働き、役割である、と。しかも、雨宮神父はここの「思い起こせる」というところを、「過去の単なる想起では終わらず、イエスの言動を納得させ、さらには生きる方向をも転換させることを表す言葉」だと言っておられます。

もう一度言います。聖霊の働きがなければ、何もはじまりません。個々人においても、教会においても信仰的なことは、何一つ生まれないのです。その道中さえもままならない。そして、完成もあり得ない。つまり、全てにおいて…、キリスト者である私たちの生と死、ありふれた日常生活、全ての領域において聖霊の働きがある、ということです。私たちは、この聖霊に囲まれて生きている。私たちを救い、生かすために。何よりも御言葉によって命を得させるために。

私たちが、そう願うからではない。神さまがそう願っておられるから。だから、聖霊が与えられている。確かに、そう…。しかし、この言葉も真実でしょう。ルカは祈りについて教えている中でこのようにも語っているからです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。聖霊降臨祭を前に、なおも「聖霊をお遣わしください」と祈る私たちでもありたい。そう思います。

【 Live配信 】2022年5月1日(日)10:30  復活節第3主日礼拝  説教 「 再起 」 浅野 直樹 牧師



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2022年5月1日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【 Live配信 】2022年4月24日(日)10:30  復活節第2主日礼拝  説教 「 わたしの信仰告白 」 浅野 直樹 牧師



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2022年4月24日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【説教・音声版】2022年4月24日(日)10:30  復活節第2主日礼拝  説教 「 わたしの信仰告白」 浅野 直樹 牧師

復活節第二主日礼拝

ヨハネによる福音書20章19~31節



本日、復活節第二主日に与えられました福音書の日課には、あの疑り深いトマスが登場してまいりました。

私たちはどうしても、このトマスの物語に目がいってしまい易いわけですが、その前に本日の第一の朗読で読まれました使徒言行録に少し目を向けていきたいと思っています。
ご承知のように、この使徒言行録は福音書記者ルカが記しましたルカ福音書の続編と いった形となっています。福音書はイエスさまのご生涯を取り扱っているのに対しまし て、この続編である使徒言行録は初期教会の歴史が取り扱われています。弟子たちの物語といっても良いでしょう。前半は使徒ペトロが、後半はパウロが中心に取り上げられることになる。今日の日課は、前半のペトロの物語となります。

ところで、今日の福音書の日課の冒頭には、このように記されていました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。イエスさまが復活された日です。その日の夕方のことです。いいえ、夕方のことだけではないでしょう。弟子たちはずっとユダヤ人たちを恐れて閉じこもっていました。ご存知のように、イエスさまを裏切ったのは、イスカリオテのユダだけではな かった。あの過越の食事の時、ペトロはイエスさまから離反の予告を受けると、「たと え、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い張ったのです。他の弟子たちもそうでした。彼らは本気でそう信じていた。自分を…。しかし、イエスさまが無抵抗のままに逮捕されるや否や、弟子たちは一目散に逃げ出したのです。ペトロはかろうじて、成り行きを見守ろうと遠く離れて付いていきますが、「お前も弟子の一人だろう」と問いただされると、呪いの言葉さえも口にしながら否定してしまったのです。

あれから数日間、弟子たちがどのように過ごしていたかは分かりません。聖書はそのことを記していない。少なくとも、先週もお話ししましたように、ヨハネを除いては十字架にも葬りにも立ち会わなかったのです。そして、復活の日に、ユダヤ人たちを恐れて閉じこもっていた、と記されている。その間、ずっとそうだったと考えても、不思議ではないでしょう。イエスさまが捕らえられ、不当な裁判にかけられ、 人々から馬鹿にされ、十字架の上で命を落とされ、岩の墓に葬られ、女の弟子たちがきちんと葬りをするために墓に急いでいた時にも、彼ら男の弟子たちはユダヤ人たちを恐れて家の中に閉じこもっていた。それが、かつての弟子たちだった。しかし、今は違う。使徒言行録に出てくる弟子たちは、違っていました。

イエスさまの名によって宣教してはならない、と脅されていました。それでも、彼らは怯まなかった。とうとう弟子たちは逮捕されます。そして、イエスさまも裁かれたサンヘドリン・最高法院に呼び出されることになる。そこで、ペトロはこのように語ったと記されています。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」。

復活など不合理だ、といった意見があります。しかし、私は思う。では、この弟子たちの変化は、どう説明できるのか、と。人間はそうそう変われない。嘘偽りのために命など賭けられない。私自身は自分の経験則からも、そう感じずにはいられません。復活のない弟子の変化の方が、私には不合理だと思われる。キリストの教会は、キリスト教の歴史 は、この弟子たちの変化がなければ起こり得ないことでした。

復活のイエスさまは、ユダヤ人たちを恐れて部屋の中に閉じこもるしかなかった弟子たちの只中に、ある意味強引に入ってこられました。あるいは、彼らが恐れていたのはユダヤ人だけではなかった、とも言われます。弟子たちは復活のイエスさまの訪れにも恐れていた、という。それは、彼らが裏切ったからです。罪を犯したからです。顔向できなかったからです。女性たちからイエスさまの復活の知らせを聞いた。もちろん、そんな話は戯言のように思えて信じられなかった、というのもあるでしょう。しかし、その可能性を否定できないとしても、むしろ、だからこそ、会いたくなかった、会うのが恐ろしかったとの心理が、「鍵をかけ閉じこもる」といった表現の中にあったのではないか、というのです。そうだと思います。弟子たちが喜び勇んで復活のイエスさまを迎えたのではないので す。むしろ、彼らはイエスさまが入ってこれないように鍵さえかけていた。

しかし、イエスさまは、そんなことは構わずに、強引に入ってこられた。そして、弟子たちに語られ た。それは、叱責でも裁きでも呪いでもなかった。「あなたがたに平和があるように」と語られた。シャローム、イスラエルの普通の挨拶の言葉です。しかし、それ以上の意味があったという。あなたたちの上に神さまからの平和があるように。私はあなたたちを罪に定めない。私はあなたたちを赦す。あなたたちの祝福を願う。そんなシャロームです。弟子たちは、まさに救われた。「そう言って、手をわき腹とをお見せになった。弟子たち は、主を見て喜んだ」。釘と槍に刺された跡のあるイエスさまのお体です。自分たちが裏切ってしまったが故に、そんな目に遭われたのだ、と思い悩んでいたお体です。しかし、イエスさまのシャロームで、そんな自らの罪を強く連想させられる十字架のお体を見て、弟子たちは喜ぶことができた。この上なく、喜ぶことができた。それが、復活の出来事です。

トマスの不信(1601年〜1602年)カラヴァッジオ (1571–1610) サンスーシ絵画館



しかし、12弟子の一人でもあったトマスは、間の悪いことにその場に居合わせませんでした。しかも、他の弟子たちから復活のイエスさまと出会ったと聞かされて、余計に心頑なにしたように、こう言い放ったのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。ここから、疑り深いトマスと言われるようになったわけです。しかし、復活のイエスさまは、このトマスにもお会いになります。いいえ、むしろ、この疑り深いトマスに出会うために訪ねてくださったといっても良いでしょう。ここでも、トマスがイエスさまを探したのではなかった。見つけ出そうとしたのではなかった。私に出会って欲しいと願ったのでもなかった。そうではなくて、イエスさまの方から訪ねてくださったのです。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。

罪に恐れて自ら復活のイエスさまと出会うことを拒んでいるような弟子たち。生来の疑り深さと他の弟子たちへの嫉妬心からより心頑なにして復活を信じようとしなかったトマス。彼らが信じたのは、信じることができたのは、イエスさまが訪ねてくださったからです。自らではない。私たちは何もできない。閉じこもるしかない。うろつくことしかできない。しかし、そんな私たちを見捨てず、強引にでも出会ってくださり、赦しを、平安を、希望を与えて下さるのが、復活のイエスさま。それが、週の初めの日ごとに起こった、という。それは、私たちの言うところの日曜日です。日曜日ごとに行われる礼拝においてです。そこで、集まっているときに、起こったことです。恐れの中で閉じこもっていても、起こったこと。その日にはたまたま集うことができなかったとしても、また集うことに よって得ることができた出会いの体験です。そのことを、この福音書の記事は伝えてい る。

この日曜日ごとの出会いの中で弟子たちに何が起こったか、といえば、復活のイエスさまと出会えた喜び、そして、私の、私たちの信仰告白です。「わたしの主、わたしの神 よ」。復活のイエスさまとの出会いによって語ったトマスの信仰の告白を、私たちも共にする。
今日の日課の終わりには、このヨハネ福音書の目的も記されていました。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。

私たちは、トマスを、弟子たちを羨ましく思うのかもしれません。彼らのような体験ができたら、私たちももっと素直に復活が信じられるのに、と。しかし、イエスさまはこうも語られたことを忘れてはいけないと思います。「見ないのに信じる人は、幸いである」と。私たちは、残念ながら彼らのようには実際に「見る」ことはできません。しかし、それが不幸かといえば、違うと言われます。むしろ、見ずに信じる人は、幸いだと。そうです。私たちには、実際に見た、変えられた証人たちがいる。証人が語ってくれた言葉、物語がある。それがあれば、イエスさまが神の子であることも、復活の主であることも、イエスさまから与えられる復活の命、永遠の命のことも、信じることができる。それが、礼拝の中で起こっている。そのこともまた、この弟子たちに続くイエスさまの弟子、私たちが、2000年の教会の歴史の中で経験してきたことです。

そのことも憶えながら、今日もこの弟子たちと、トマスと一緒に私たちも告白していきたいと思います。「わたしの 主、わたしの神よ」と。

【 Live配信 】2022年4月17日(日)10:30  主の復活聖餐礼拝  説教 「 主イエスの復活 」 浅野 直樹 牧師



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【説教・音声版】2022年4月17日(日)10:30  主の復活聖餐礼拝  説教 「 主イエスの復活」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章1~12節


「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
女たちが、泣いています。愛する者の命が奪われたからです。不当にも…。
それは、突然でした。そんなことが起こるとは、想像もしていなかった。突然に、世界は、日常は変わってしまった。裁かれるべき罪などないのに、捕らえられ、連行されます。兵士たちは口々に、「お前は何者だ。なぜ従わない。我々と戦うつもりか」とがなりたてます。ある者は殴りつけ、唾を吐き、無抵抗なその人の命を奪っていった。女たちが見ている前で…。

女たちはただ、見ていることしかできませんでした。恐怖と不安の中で足がすくんでしまい、何もできなかった。まさか、ここまでされるとは思っていなかったのかもしれません。彼女たちは、そんな崩れ落ちた亡骸を、丁重に葬ることもできなかった。ただただ、泣き崩れるしかなかった。悲しみ、信じられないという思い、憎しみ、怒り、恐怖、絶望…、色んな感情が渦巻く中で、女たちは泣くしかなかったのです。

マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアたちも、そうだったでしょう。彼女たちは、イエスさまを愛していました。心の底から尊敬していました。おそらく、この女性たちはイエスさま一行と行動を共にし、彼らの身の回りの世話をしていたのかもしれません。食事の準備をし、汚れ物の洗濯をし、繕い物などもしていたでしょう。彼女たちにとっても、イエスさま一行は家族だった。

イエスさまは、家族以上のかけがえのない存在だったに違いありません。そんなイエスさま一行が夜中に出かけたと思っていたら、逮捕されたと聞かされた。当時のユダヤ社会では、女性は身分の低い存在でしたから、おそらくイエスさまに近づくことは不可能だったでしょう。遠巻きに、人混みの後ろうの方から様子を伺うことしかできなかった。それでも、男の弟子たちは我が身可愛さに隠れてしまっていたにも関わらず、女たちは常にイエスさまを追いかけていきました。愛する者を放ってはおけないという女性の強さがあったのだと思います。福音書を読みますと、女性だけです。ヨハネを除いて。イエスさまの十字架に立ち会ったのは。そして、葬りに立ち会ったのは。

イエスさまが十字架上で息を引き取られたのは、金曜日の午後3時頃だと伝えられています。ユダヤの理解ですと、日没から次の日がはじまることになっており、次は土曜日、安息日です。ですので、葬りをするためにも時間がありませんでした。イエスさまの遺体を引き取ったのは、アリマタヤのヨセフという人です。これも、通常ではあり得ないことだったと言われます。なぜなら、処刑された罪人を丁重に葬ろうとする人など、いなかったからです。

ヨセフはあまり時間のない中でイエスさまの遺体を引き取り、最低限の礼節をもって、イエスさまを葬りました。そこでも、女性たちはただ見守ることしかできなかった。手を出すことが許されなかったからです。ですから、「家に帰って、香料と香油を準備した」のです。それが、本来のユダヤの葬りだったからです。せめて、丁重に葬りたかった。それが、残された者ができる僅かなこと。

おそらく、女性たちには他の目的もあったのでしょう。それは、別れをすること。それは、あまりに突然で、予期せぬことだった。女性たちのイエスさまとの最後のやりとりは、「行ってくるよ」「行ってらっしゃい。気をつけて」だったのかもしれません。感謝の言葉も、愛の言葉も、まだ伝えきれていない。だから、たとえご遺体であったとしても、ちゃんと顔を見て、体に触れて、この自分達の気持ちを伝えたい。そう思っていたに違いありません。ですから、安息日が明けて、日が昇るとすぐに、彼女たちは墓に急いだのです。私たちにも、痛いほど分かる思いです。しかし、そこにはイエスさまのご遺体はなかった。墓は空であった。しかも、御使いがこのように告げたという。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と。なんという知らせ。おそらく、愛する者の死を、その痛みを経験した者ならば、誰もが思うのではないか。生き返ってくれたなら、と。もう一度、私たちのところに戻ってきてほしい、と。そんな喜ばしき復活の知らせがここにあった。そうです。復活ほど、喜ばしき知らせはありません。

ヤイロという人の娘がいました。まだ12歳でした。彼女は今にも死にそうな病に冒されていました。ですから、彼は必死にイエスさまに娘の癒しを願ったのです。しかし、その道中で娘の死を知らされてしまった。間に合わなかった。おそらく、彼は深い絶望を味わったことでしょう。しかし、イエスさまはこの娘を生き返らせました。この出来事は、どれほどこの家族を救ったことか。あるいは、イエスさまはあるやもめの一人息子の葬儀に遭遇されたこともありました。夫を亡くし、最愛の息子をも送らなければならなかったこの女性の思いはいかばかりだっただろうか。イエスさまは可哀想に思われ、この息子を母親にお返しになられました。

この母親の喜びはどれほどのものだったでしょう。あるいは、ラザロのことも思い起こされます。イエスさまと親しかったラザロも病で死にました。その姉妹であるマルタ、マリアの悲しみが聖書にははっきりと記されています。これほど感情がはっきりと記されている箇所も珍しいと思います。そのラザロも復活した。どれほど慰められたことだろうか。そうです。復活は救いです。絶望の淵からの救いです。

これほど私たちを救うものは、ない。しかし、私たちはこう思うのかもしれません。では、私たちの父は、母は。祖父は、祖母は。兄弟、姉妹は。子どもたちは。孫たちは。いとこ、はとこは。友人、知人、恩師、同僚、仲間たちは。私たちが大好きだった、愛していたあの人たちは、誰も復活しなかったではないか。私たちは皆、それらの人々の死を悲しみ、葬ることしかできなかったではないか。復活など、復活の慰めなど、どこにあるのか、と。

復活:1805年 ウィリアム・ブレイク –ウィンスロップ・コレクション フォッグ美術館



確かに、そうです。それらは、ごくごく一部の人々。ほとんどの人々は復活などしなかった。そうです。ここに登場してくるマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアたちも、いずれ死の時を迎えたでしょうが、誰一人復活しませんでした。彼女たちからイエスさまの復活を知らされた弟子たちも、誰も、誰一人として復活しませんでした。では、復活など、そもそもあり得ないのか。期待するだけ損なのか。

いいえ、そうではない。イエスさまが復活された。それだけで十分なのです。それだけで信じるに値する。それだけで希望がもてる。イエスさまが復活されたという事実だけで、私たちはこの困難な世界を生きていける。そして、神さまの御心に従って安らかに息を引き取っていける。看取っていける。そう、弟子たちは、この女性たちは考えた。受け止めた。受け止めることができた。人々を復活させ、人々を絶望からお救いくださった方が、まさに復活されたからです。これ以上の希望、確かさはない。

もちろん、信じられないことです。信じるしかないことです。この女性たちも半信半疑だったのかもしれない。弟子たちに至っては、全く信じなかった。信じられなかったのです。それが、私たちの姿でもある。でも、聖書にはこうも書かれていました。「『まだ、ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」。イエスさまのお言葉を思い出したからこそ、婦人たちは信じることができた、という。

イエスさまは嘘つきでしょうか。とんでもないペテン師でしょうか。ありもしないことで民衆を煽っていった扇動家でしょうか。イエスさまの言動は、そんなにも信頼に値しないようなものなのでしょうか。一番身近にいたこの女性たちは、そのことを一番よく知っていたはずです。

イエスさまは復活されました。それで、十分です。たとえ、未だに私たちは、私たちの愛する者たちは復活の奇跡、命を体験していなくとも、その復活のイエスさまが私たちにも復活を、その新しい永遠の命を、死に打ち勝つ力を、確かな望みを約束してくださっているからです。イエスさまは必ず私たちの涙を拭い取ってくださる。そう信じます。

2022年4月10日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【 Live配信 】2022年4月3日(日)10:30  四旬節第5主日  説教 「 愛を受け入れて 」 浅野 直樹 牧師



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【説教・音声版】2022年3月27日(日)10:30  四旬節第3主日  説教 「 父の心 」 浅野 直樹 牧師

四旬節第四主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書15章1~3、11b~32節

先週は、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」との大変厳しいみ言葉を聞いてきた訳ですが、そこから、悔い改めを求めておられる神さまのお姿を考えて参りました。今朝のよく知られた、いわゆる「放蕩息子の譬え話」は、そんな悔い改めを求めておられる神さまのお姿、また悔い改めに導かれている、招かれている私たち人の姿とが実によく描き出されている、そんな譬え話ではなかったか、と思います。

「ある人に息子が二人いた」とあります。一人は、これは弟の方ですが、皆さんよくご存知の「放蕩息子」…、父の財産を食い潰すような人です。もう一人は兄でして、後半の中心人物となります。彼は弟とは対照的に描かれています。いわゆる「出来た息子」で す。私たちはどちらかというと、前者の「放蕩息子」、弟の方が印象深いのではないでしょうか。彼の半生はドラマチックでもある。そして、どことなく同情的なのかもしれませ ん。しかし、どう贔屓目に見ても、彼は駄目な人です。もし、身近に、例えば親類に同様の人物がいたとしたら、あるいは自分の子どもがそんな生き方をしてしまったとしたら、私たちはどう思うだろうか。突然、親に相続財産を要求し、手に入れると家を飛び出して音信不通…。仕事もせずに遊び歩いて、お金が底をつくと、ノコノコと帰ってくる。そんな人を好意的に見ることなど、私たちはおそらく出来ないでしょう。

今日の福音書の朗読では、最初にこのように読みました。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」。ここから、ご存知のように、三つの譬え話を…、99匹を野に残しておいてでも見失った一匹の羊を懸命に探し出す羊飼いの話や、無くした一枚の銀貨を必死に探し当てる女性の話、そして、この「放蕩息子の譬え話」が語られたのでした。つまり、ここに、これらの譬え話が語られた意図があったわけです。

ならば、ここで登場する弟の方は「徴税人や罪人」を、兄の方は「ファリサイ派や律法学者たち」を表していると言っても、言い過ぎではないと思うのです。

私たちは、この「徴税人や罪人」と言われる人たちが、ある意味社会・社会制度の犠牲者だといった理解があるのかもしれません。それは、ある意味、当たっていると思いま す。今日のような社会状況ならば、そういった非難は当たらなかったかもしれない。しかし、私たちも、自分の権力を利用して私腹を肥やしているような人を見聞きしては憤り、犯罪とまではならなくとも不倫・不道徳・不祥事などを見聞きして、いい気分にはならないはずです。そういった現実だってあった。そういった現実を抱えていた。

ムリーリョ『放蕩息子の帰還』(1667~70年、油彩、236cm×262cm、ワシントン、ナショナルギャラリー所蔵)



だから、「放蕩息子」なのです。単に、父である神さまから離れてしまった、不信仰に生きた、というのではない。そこで自分勝手な生き方をして、欲望のおもむくままに放蕩していったのです。他人を、自分を、神さまを傷つけるようなことをしてきてしまった。それも、私たち人類の真実。

しかし、彼は悔い改めました。だがしかし、正直私は、それもちょっと納得がいかないところがある。彼はいつ悔い改めたのか。最後の最後です。命の危険を、死の現実を感じざるを得ないような時です。昔々ある皇帝が、死の間際の洗礼を求めた、と言います。つまり、死の間際までは、これまで通りの生活がしたい、ということです。例え罪の赦しが必要だとしても、それは死の間際で良い、と考えた。他人事ではない。私たちにだって、そういった考えがない訳ではない。悔い改めの機会は何度もあった。しかし、人はそれを拒んでしまう。最後の最後まで抵抗しようとする。この弟のように。

しかも、彼のいいぐさはこうです。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と」。私自身、もし我が子が帰って来る気になった時に、どうしてそう思うようになったのかと尋ねた答えがこうだった ら、どう反応するだろうか。「お前な~、本当にちゃんと反省しているのか」と思わないだろうか。

私は、ファリサイ派や律法学者たちが正しいとは思いません。聖書を読む限り、彼らとは相容れないところがある、といった思いもあります。しかし、ことこの箇所において は、どうやら私自身は、この兄の方に、つまりファリサイ派・律法学者たちの方に心理的な、心情的な近さを感じたりもしています。皆さんは、どうでしょうか。

兄は弟が無条件で父に受け入れられたことに腹を立てます。そうです。おそらく、無条件で受け入れられたことに腹を立てたのでしょう。つまり、あれだけのことをしておい て、自分と同等か、それ以上の扱いを受けていることに我慢ならなかったのです。私たちにも分かることではないか。そうです。むしろ、それ相応の報いがあれば納得できたのです。弟が申し出ようとしたように、雇い人の一人として帰って来たならば、色々と思うところはあったとしても、受け入れられたのかもしれない。そうです。無条件が気に入らないのです。

それは、不当・不正義とも思える。正しい評価がされていないのではないか、依枯贔屓がすぎるのではないか、と思える。翻って、それによってこの自分が受け入れられていないようにも思えてくる…。

兄弟姉妹がおられる方には、よく分かることではないでしょうか。親は同じように接しているつもりでも、兄の方が、弟の方が、姉の方が、妹の方が、と思ってしまうことがある。自分は正当に評価されていないと、自分は受け入れられていないのではないかと思い込んでしまうことがある。そうです。兄弟であっても…、むしろ近しい相手だからこそ人は比較の対象として相手を見てしまうからです。自分との比較の中で、相手を評価しようとする。それが、人の、兄弟の視点です。

しかし、親の視点は全く違う。兄だろうと弟だろうと、親からすれば我が子です。愛すべき子どもたちです。それが、神さまの視点。駄目な徴税人、罪人であろうと、出来のいいファリサイ派、律法学者であろうと、神さまからすれば、大切な息子たちに違いないのです。しかも、弟の方は家を飛び出していってしまって、何の音沙汰もない。生きているのか死んでいるのかも分からない。そんな息子。そんな息子が、もう戻ってはこないのではないか、と諦めかけていたような息子が、次男は死んでしまったのだと自分に言い聞かせるしかなかったような息子が、帰ってきた。やつれた顔で、みすぼらしい姿で、帰ってきた。それは、もう迎えずにはいられないのが、親の心境でしょう。帰ってきた、死んだと割り切ろうとした子が戻ってきた、それだけで親としては十分だった。どんな反省をしようと、どんな悔い改めをしようと、どんな覚悟だろうと、そんなことは二の次。今は、ただ帰ってきてくれたことを、戻ってきてくれたことを喜ぶ。感謝する。それが、親の 心。親の視点。

親とは、親バカになれる存在です。社会の常識・通念、理性的な判断・評価を超えて「バカ」になれる、「愚か」になれる、それが親の愛。部外者が首を傾げるような親バカな事件や、子どもを庇い自分が犯人になるといったドラマが作られる訳です。その是非は別です。歪んだ愛情とも言えなくもない。しかし、親とは子どものために、そこまで馬鹿になれる存在でもある訳です。

この「放蕩息子の譬え」の父親もそうでしょう。息子の視点では、無条件に弟を赦し受け入れる父の姿に当然納得できないし、一般的な視点でも、弟を迎える姿、兄を宥めすかす姿は「親バカ」と映るのかもしれません。しかし、そこを言いたいのです。神さまの愛とは、親バカとも言えるような常識外れの愛なのだ、とイエスさまは言いたいのです。この父親ならば、兄に対しても同じことをしたでしょう。だから、兄であるファリサイ派、律法学者たちにも、そのことに気づいてほしいと訴えておられる。

しかし、私は、やはり弟の方も気掛かりです。確かに、無条件に赦され、受け入れられたことを弟は喜んだでしょう。しかし、父親が催した宴会にどんな思いで参加したんだろうか。おそらく、ばつが悪かったのではないか、と想像するのです。みんな、自分が何をして来たかを知っているからです。むしろ、自分が願い出ようとしたように、雇い人の一人に、少なくともしばらくはそうしてもらった方がスッキリしたのに、と思っていたのかもしれない。つまり、どちらも、兄も弟も親の心子知らずということでしょう。私たちも気をつけなければいけない。救われて、赦されて当然というのはおかしいとしても、せっかく赦していただいているのに、いつまでもばつの悪い、居心地の悪い、つまり納得のいかないあり方はどうか、とも思うからです。

父の愛を素直に、ありがたく受け取りたい。ある方は、この箇所を「放蕩息子の譬え話」と呼ぶのは間違いだ、と言います。そうで はなくて、「父の愛の物語」と呼ぶべきではないか、というのです。私も、そう思います。この物語の主役は、弟でも兄でもないからです。父です。父なる神さまです。駄目人間でも、出来た人間でも、この神さまの愛に招かれている。常識外れの愛に招かれている。

それに気づいてほしい。イエスさまはそう訴えておられるのではないか、と思うのです。

 

2022年3月27日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【 Live配信 】2022年3月27日(日)10:30  四旬節第4主日  説教 「 父の心 」 浅野 直樹 牧師


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2022年3月13日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【 Live配信 】2022年3月6日(日)10:30  四旬節第1主日  説教 「 誘 惑 」 浅野 直樹 牧師



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2022年3月6日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【説教・音声版 】2022年3月6日(日)10:30  四旬節第1主日  説教 「 誘 惑 」 浅野 直樹 牧師

四旬節第一主日礼拝説教



 

聖書箇所:ルカによる福音書4章1~13節

今日から四旬節の主の日の礼拝がはじまって参ります。四旬節と言われますように、「灰の水曜日」から数えて40日間、イエスさまの復活を記念する日曜日は除かれます が、復活祭の前日、土曜日までが四旬節となります。伝統的には、イエスさまの御受難を想起する期間、自らを律する・節制していく期間とされてきました。私たちも心静かに、イエスさまに、特に十字架のイエスさまに想いを向けていきたいと思います。

世界は大きく変わりました。もちろん、新型コロナの世界的蔓延によって変わってし まったことは言うまでもありませんが、ここ数日間で世界はがらっと変わってしまったように思います。大国ロシア軍によるウクライナ侵攻です。これまでも、大国同士の思惑が絡み合った代理戦争的なものはありましたし、テロとの戦争も続いていると言えるのかもしれません。しかし、核兵器を大量に保有している大国が主権国家に侵攻するなど、この21世紀においては考えられないことでした。信用、経済など、国際的なリスクがあまりにも高いからです。それが、いとも簡単に破られてしまった。今後の世界秩序が心配されるところです。

この日本においても、ウクライナ問題にタカ派が勢いづいたのか、度々こんな声も聞こえてきました。ウクライナは軍備を怠ったから付け込まれたのだ、と。自国を守り抜くぐらいの軍備は必要なのだ、と。はたまた、こんなことも言われ出した。この日本においても核配備を検討すべきだ、と。

掲示板タイトル「誘惑」正直、気持ちが分からない訳ではない。国連もNATOも役に立たないといった意見にも頷きたくなります。現実に、街が破壊されている様子を見ると、不安の中で狭い防空壕で息を潜めている人々の姿を見ると、涙ながらに戦闘をやめてほしいとの声を聞くと、命を奪われていく様子を見せつけられると、確かに第三次世界大戦を回避するという理屈も分かりますが、なんとか軍事介入してでも、この今の悲惨な状況を、現実を止めてほしい、と願っている自分がいます。あの第二次世界大戦、殺人という罪を引き受けてでもヒト ラーを止めたいと、暗殺計画にも関わったと言われるボンヘッファーの気持ちが少し分 かったような気がいたしました。

先週の説教の中で、私自身は、この現実に対しての信仰的無力感があるといったような話をしたと思います。しかし、それは、この現実に神さまの力が働くことを信じていないのではありません。私は、それを信じている。私自身、神さまの力を幾度となく味わってきましたし、私の人生を、また私自身を変えてくださったことを覚え、感謝しています。皆さんにおいてもそうだと思います。神さまの力は働いている。個人、個々人において は、そう信じている。しかし、どうも社会、世界全体の現実になると、そこにも神さまの力が働いているのだという信仰が、私の場合は弱いのだと思う。それが、社会的な出来事に対する無力感を生んでいるような気がするのです。そして、そんな自分に対して「誘惑を受けている」と先週は言いました。私のその弱さに付け込んで誘惑をしてくる者がい
る。少なくとも、私はそう理解し、その問題に向き合うために悔い改めをしようと思ったのです。

イエスさまも誘惑を受けられました。悪魔は元々「告発する者」という意味ですがこの悪魔から誘惑を受けられたのです。洗礼を受けられた後、ただちに誘惑を受けられた。マタイ、マルコ、ルカ、この共観福音書が共に伝えるところです。
最初に言いました四旬節とも重なるところですが、イエスさまは40日間悪魔から誘惑を受けられたと記されています。この40という数字は、あの出エジプト後40年間荒野を彷徨った出来事を彷彿とさせるものです。ちなみに、ある方がこう言っているのです が、3という数字は天上のことを指し、4という数字は地上のことを指す、と言います。ですから、この40という数字、年数にしろ日数にしろ、地上の、しかも永遠ではなく限られた時間を指すというのです。

今週の讃美歌ともかく、イスラエルの民たちは、あの40年間に渡る放浪生活で様々な試練を経験しました。水不足、食糧不足、偶像礼拝の危機等々、ここでイエスさまはあのイスラエルの民たちが味わったであろう同様の試練・誘惑に合われたのではなかったか、ある意味、私たち人類の普遍的な試練・誘惑にあわれたのではなかったか、とも言われます。確かに、そういったことも否定できないでしょう。しかし、私自身は、それ以上に、メシア・救い主特有の誘惑・試練に合われたのではなかったか、と思っています。なぜなら、この誘惑が福音宣教の直前に行われたからです。メシアとして、救い主として、神の国の福音を宣べ伝えていくに及んで、しっかりと対峙しなければならなかった、向き合わねばならなかったであろう誘惑でもあったと思うからです。ですから、

「パン」はいっときの空腹を満たす食事以上のことを意味するのでしょう。この21世紀の現代においても、空腹の人々は決して少なくありません。すぐにでも、空腹を満たす食料援助が必要です。食糧不足こそ治安の低下、争いの火種になるとも言われます。ノーベル平和賞にも輝いたWFP(国連世界食料計画)などの働きも喫緊に必要なことでしょう。確かに、そうです。私自身、僅かながら支援をしている。しかし、それだけで十分か。腹が満たされる、物質的なものに満たされるだけで人は、世界は本当に幸せになれるのか、といえば、そうではない現実も私たちは知っています。人は益々傲慢・強欲になり、格差が広がり、弱き者たちが虐げられていく。世界はかつてないほどに食料・物質に恵まれているのに、なぜこんなにも悲しみがなくならないのだろうか。

荒野のキリスト

荒野のキリスト:イワン・クラムスコイ (1837–1887) トレチャコフ美術館



イエスさまは決してパンを否定されませんでした。人にとってパンは必要なものです。必要不可欠です。しかし、こう語られるのです。「人はパンだけで生きるものではない」と。なぜかこのルカ福音書には、私たちがよく知っている続きの言葉、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」といった言葉が記されていませんが、同様の思いだと思いま す。パンは必要不可欠なものに違いないが、しかし、それ以上に、人は神さまの言葉に よって生きるものだ、と言われる。そして、それは、人々が求めて、期待してやまない物質世界によって世界を救うという救い主の誘惑からの決別にほかならないのです。

二つ目の誘惑も同様です。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。この世の権力と繁栄は私のものだ、私が好きにできる、と悪魔は嘯いています。そして、この誘惑にのって知らず知らずのうちに、まことの神ではなく悪魔を拝んでいる国の指導者がなんと多いことか。また、そうすることによって国を、人々を守り、豊かにすることが、繁栄をもたらすことができると本当に考えているのかもしれない。他国の人々の命を、人生を、生活を犠牲にして。本当に恐ろしいことです。イエスさまもメシア・救い主として、そのような誘惑を受けられた、という。この世界を救いたいと思うならば、この方が手っ取り早いのではないか、と。しかし、イエスさまはこの誘惑をも退けられました。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」 と。

今週の献花もう一つ、イエスさまは誘惑を受けられました。この誘惑については、あの十字架の場面を連想させます。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。十字架に磔にされておられるイエスさまを前に、人々はそう語った。悪魔の誘惑はこうです。「もしお前が本当に神の子ならば、奇跡によって自分が神の子であることを示してみろ」。もっと言え ば、「神の力で自分自身を救ってみろ」ということです。自分自身させも救えない者が、一体誰を救えるというのか。力なき者が、一体何の役に立つというのか。私たちも、同じように叫ぶのかもしれません。

しかし、イエスさまは十字架からは降りられませんでした。降りる力がおありなのに、降りられませんでした。それが、十字架の上で命を捨てることが、私たち罪人のために贖いの業を成し遂げることが、神さまの御心に他ならなかったからです。

兵士たちを前線へと送り出し、血みどろの命の奪い合いをさせながら、自分は安全な宮殿のようなところで指示を出しているような指導者たちと、自ら罪との戦いの前線に赴 き、ご自分の命を投げ出すような方と、私たちはどちらの姿に心動かされるでしょうか。少なくともイエスさまは、私たちが望むような、期待するような、もっとも効率よく私 たちを満足させるような救い主にはなられなかったのです。むしろ、ご自分の命を捨てることによって、その命に人々が触れることによって、世界が変わることを望まれた。たといそれが、まどろこしいものだとしても…。

大変難しい問題です。綺麗事では済まない問題です。人の命がかかっています。確かに、そうです。しかし、繰り返しますが、イエスさまは決してパンの必要性を否定されたのではないのです。それだけではない世界を説かれたのです。もちろん、私たちとイエスさまとでは違います。私たちが救い主になるなどあり得ない。しかし、同様の誘惑を受けているのも事実だと思うのです。一見正しそうに思える、合理的に見える悪魔の誘惑を。私たちには理解できないことだらけ。だからこそ、やはり私たちもイエスさまを見上げ て、イエスさまと同じように御言葉によって、この誘惑にも立ち向かっていきたいと願わされます。