その他

【Movie】2021年10月17日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【Movie】2021年10月17日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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2021 年度「宣教フォーラム」スピンオフ版アンケート

主のみ名を讃美いたします。

今年度の「宣教フォーラム」はコロナ感染状況を鑑み
スピンオフ版としてWeb 開催といたしました。
そこで、今回の企画でありますシンポジウムを進めるにあたり皆さんの
お気持ちを伺うアンケートを実施させて頂きます。
ご多忙のことろ恐れ入りますが、
ご協力を賜りますようよろしくお願いいたします。

第26回宣教フォーラム準備委員会
委員長田村忠夫
役員一同
ネットアンケートURL :
① ↓ 下記をクリックするとアンケートフォームへ移動します。
https://forms.gle/DD7yE8fZUFVaiTt78

② ↓ スマホからもご入力頂けます。下記のQRコードをご利用ください。


③ ↓ 下記をクリックするとアンケートPDFページへ移動します。
ダウンロードしてお使い下さい。
アンケート用PDF

ご協力をよろしくお願いいたします。

*アンケート結果は、講師の先生にお渡しシンポジュウムの参考にしていただきます。
また、終了後に発行されます報告書にも掲載しますが、それ以外での使用はいたしません。

*アンケート用紙は第26 回宣教フォーラム準備委員会で適切に管理いたします。
*アンケートに関するご質問等ありましたら
senkyoforum.survey@gmail.com 】までお願いいたします。
尚、総会資料の詳細の内容につきましては所属教会の牧師にお尋ねください。


 

2021 年度第26 回「宣教フォーラム」スピンオフ版(ネット配信)

テーマ:「コロナ禍で信徒みんなで考えるルーテル教会の将来像」
     ~ポップフィルターを外して語り合おう~

1)ご参加⽅法
①所属各教会から参加 ②ご⾃宅や他の場所から⾃由に参加

2)お申し込み⽅法
・第1 部/午前:基調講演は下記URL からお⼊りください。(申込みは必要ありません)
https://youtu.be/2R-OrpaOvAM で配信(YouTube)いたします。

・第2 部/午後:シンポジウムは、Zoom 配信となりますので別の申し込みが必要です。
ご⾃宅や他の場所からの参加をご希望の⽅は、名前・所属教会名を明記の上、
参加希望とお書き添え
senkyoforum@gmail.com へお申し込みください。後⽇ご招待のURL をお送りします。

◉申込み受付:10 ⽉11 ⽇ 〜 締め切り:11 ⽉10 ⽇まで

3)開催⽇時・スケジュール
・⽇時:11 ⽉20 ⽇(⼟)
・時間: 10 時15 分〜14 時30 分
・⽅法:第1 部/午前:YouTube 配信(⾃由にご視聴可)。第2 部/午後:Zoom 配信(申し込み制)

11/20 タイムスケジュール ————————————————–

午前の部
10時15分 宣教フォーラム委員⻑挨拶
10時20分 奏楽 開会礼拝(祈りとショートメッセージ)
      佐藤 和宏牧師(藤が丘教会)
10時40分 東教区⻑挨拶 松岡 俊⼀郎牧師(⼤岡⼭教会)
10時45分 講演1 宮本 新牧師(⽇本ルーテル神学校専任講師)
~11時20分 テーマ:「ルターと感染症~それでも私は⽣きてゆく」
11時25分 講演2 松⾕ 信司⽒(キリスト新聞社 編集⻑)
~12時00分 テーマ:「浮き彫りになった教会の限界と可能性」

【昼⾷・休憩】

午後の部
13時00分 シンポジウム開始 司会:松岡牧師 パネリスト:宮本牧師 松⾕⽒
      冒頭:松岡牧師より「東教区の現状から」お話
      テーマ:アンケート結果、東教区の現状報告から
     「ルーテル教会の将来像を考える」
14時00分 質疑応答
14時10分 奏楽 閉会礼拝(祈りとショートメッセージ)
      浅野 直樹Jr.牧師(むさしの教会)
14時30分 宣教フォーラム副委員⻑挨拶

終 了

—————————————————————————————

【 Live配信 】2021年10月10日(日)10:30 聖霊降臨後第20主日礼拝  説教 「 主のまなざし 」中村 朝美 牧師



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【 説教・音声版】2021年10月10日(日)10:30 聖霊降臨後第21主日礼拝  説教 「 主のまなざし 」 中村 朝美 牧師

マルコ10:17-31聖霊降臨後第20


アモス5:6-7 ヘブライ4:12-16

私たちの父なる神と 主イエス・キリストから 恵みと平安とがあなた方にありますように。

私は35年程前、賀来先生の時代に、この場に立たせて頂きましたので、今日で2度目となります。その日の様子、雰囲気は今でも鮮明に覚えているのですが、何を、どの箇所から語ったのかは全く覚えていません。賀来先生は、むさしの教会の歴史の中で初めて女性からの説教を聞くということで皆も緊張しているのでしょう、とおっしゃっていました。その言葉通り、教会全体の空気が違っていました。針を落としても聞こえるくらいシーンとしていました。

礼拝が終わりますと、今は亡き川上範夫さんが真っ先に私のところに、このような声をかけてくださいました。「内村さん(旧姓です)、久し振りにきれいな日本語が聞けた。ありがとう。」 とても複雑な思いでした。

当時も神学生が何人かいまして、司式の補助はさせていただいていましたが、説教は神学校生になってからでした。私も神学校生になって初めてここに立たせていただき、そして、現役の牧師生活の最終段階で、またここに立たせていただけていることに感謝しております。

 

学生時代むさしの教会で、牧会に出てからも多くの方々との様々な出会いがありそこで多くのことを学び、教えられました。

福音書は、イエスさまと出会った多くの人々のことを伝えています。この出会いによって、ある人たちはイエスさまに従い弟子になりました。信仰をほめていただいた人、その信仰にイエスさまが驚かれたこともありました。多くの人々は自分の生活の場に戻ってゆきました。その人々の、その後について何も語られていませんので想像するしかありませんが、慰めに、喜びに包まれて生活していったに違いないでしょう。

しかしながら何事にも例外がありますように、本日の日課は、その例外が語られています。イエスさまを求め、そして出会ったにもかかわらず、悲しみながら去っていったこの男の人の話を人々は忘れることができなかったと思われます。

 

イエスさまに、確信の持てない自分に確かな答えを求めて走り寄って来た人は、

「あなたに欠けているものが一つある」と、慈しみに満ちた言葉と眼差しを受けながらも、気を落とし、悲しみながら立ち去って行きました。

この出来事は、マタイ、ルカ福音書にも並行記事が伝えられています。そのいずれも、イエスさまが幼子を祝福した後の出来事として伝えています。マタイ福音書は「金持ちの青年」、ルカ福音書は「金持ちの議員」、そしてマルコ福音書では「金持ちの男」というタイトルが付けられています。どの福音書もこの男の人を、「金持ちの」と説明しています。3つの福音書を併せ見てゆきますと、この人は資産家で、ルカ福音書では「議員」であると語っていますので社会的地位が安定し、しかも、幼い時からユダヤ人としての教養を身に着け、礼儀正しい、非の打ちどころのない人物であるように紹介されています。

 

ユダヤ人にとって、言葉が話せるようになると、まず暗唱させられるのが「十戒」だと言われています。八王子教会の礼拝は、ルターの小教理問答書の交読から始まります。10数年前の高井先生の時代から始まったようです。十戒、主の祈り、聖なる洗礼の礼典、聖晩餐を、毎回、少しずつ交読しています。八王子教会の特徴の一つと言えると思います。

ユダヤ教では、モーセの十戒を中心にした律法を守ることが「永遠のいのちを受け継ぐこと」と教えられていました。マルコ福音書においては、「永遠のいのち」という言葉は、この箇所と10章にしかない、それだけに特別な意味を持つ言葉として使われています。

イエスさまのもとに走り寄り、ひざまずいて尋ねたこの人の悩みは、幼い時から十戒を忠実に守っているのにもかかわらず、救いの確信が持てない、ということでした。

「何をすれば永遠のいのちを受けることができるのか」は、切実な問いでありました。

イエスさまは善い先生であるから、その答えを教えてもらえる、永遠のいのちに至る特別な業を教えてもらえると期待していたのでしょう。

イエスさまはこの人の問いを、『神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』と、神さまだけがそれに答えられると、まず、神さまに向くようにと促されました。そして、神さまの教えられる命への道は十戒に込められていることを語られました。その答えはこの人にとって意外であり、望んでいたものではありませんでした。

彼は、今まで守ってきたことだけでは未だ、何か足りないと思っていたからでした。

イエスさまの言われる「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え」、これらは十戒の中の「人間関係の戒め」です。そのようなことは幼い時から守って来た、と答えています。

イエスさまは、ご自分のことを「善い先生」と呼んだこの人に、神さまに対して人間が守るべき戒め、「あなたは私の他に何ものをも神としてはならない」、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」との、神さまと自分の関係に目を向けるように促されたのでしょう。

そして、「あなたに欠けているものが一つある」と言われました。

聖書には「一つ」という言葉がしばしば出てきます。

マルタがもてなしで忙しくしている時、マリアは主の足もとで話に聞き入っている、そのことでイエスさまに不満を言うと、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ11:38~)と教えられました。

生まれつきの盲人だった人がイエスさまの言われた通り、シロアムの池で泥を塗られた目を洗うと見えるようになりました。そのことでユダヤ人たちに尋問された時、このように答えています。

「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです。「(ヨハネ9章)

ルカ福音書の並行記事(18:22)では、「あなたに欠けていることがまだ一つある」となっています。おそらくこの男性は、この「一つ」のことさえ分かれば永遠のいのちを得ることになると、積み重ねてきてたものの上に何か一つを乗せればと、ずっと考えていたのでしょう。

ハインリヒ・フェルディナント・ホフマン (1824–1911) ゲッセマのキリスト1886年 Riverside Church, ニューヨーク.



この時のイエスさまは、十字架への道を真っすぐに進んで行かれていました。ということは、ユダヤの指導者たちからは、危ない存在として見られていた時期です。

そのようなイエスさまに、ひれ伏して願ったということは、本当に切羽詰まっていたのでしょう。けれども、この人は、イエスさまの慈しみ溢れる眼差しを受け入れることができませんでした。「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」

この男の人が忘れている最も大切なことに気付いてもらいたい、という思いが含まれている言葉でした。

イエスさまのところに来るまでに、この人は助けを求めている人々への施しはしていたでしょう。イエスさまのこの言葉は、お金を所有するということに対しての厳しさを語っているのではないと思えるのです。確かに私たちは、しばしばお金の魅力に取りつかれることもある、お金は危険なものであることも知っています。けれどもイエスさまがこの箇所で伝えようとしたのは、それとは別なことだったと思います。

この人は、イエスさまの慈愛に満ちた眼差しを受けながらも、悲しみながら立ち去って行きました。マルコはその理由を、「たくさんの財産を持っていたからである」と語ります。もし、イエスさまの言われる通り、持っているものを全て売り払ったとしますと、この人は施しを受ける側に、貧しい者の側になります。この青年は、それができなかったのでしょう。釜ヶ崎の喜望の家の8月のニュースレターの1面に、「炊き出しに並ぶ人の列」というタイトルの写真が載っていました。炊き出しに並ぶ人々の真ん中にイエスさまの姿が描かれています。この人は、炊き出しの列に並ぶ側に、自分を置くことができなかったのでした。「貧しい者と共に生きる」という、イエスさまの招きに応えられなかったのでした。

 

この人は律法で決められていることを守ってきました。けれどもそれは、財産なり、地位などを“持ち続けること”を前提にしていました。それが、「先生、そういうことは皆、小さい時から守ってきました」という言葉に表れています。

この人と似たような境遇の人物が聖書の中にいました。

「私は生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストの故に損失と見直すようになったのです。…」(フィリピ3:5-9)

パウロは、「持つことを大切にする生き方」から、「存在を大切にする生き方」へと、イエスさまとの出会いによって変えられていきました。

 

気を落としながら立ち去って行く男の人に注がれたイエスさまのまなざしは、この男性が再びご自分の前に現れることを期待されていたのだと思うのです。そして、何よりも、神の愛に目を向けることを願われたのでしょう。神の愛、「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」手放すことの意味に気付くことを望まれたのだと思うのです。

ユダヤ人の考えでは、財産というものは決して悪いものではありませんでした。

財産は基本的に神さまの祝福の「しるし」でした。ヨブ記を読むとそれがはっきりしています。財産、子孫の繁栄、長寿、これらの祝福は旧約聖書では当たり前のことでした。それ故に、「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスさまの言葉に弟子たちは驚いたのでした。誰もが、自分の努力では神の国に入ることができない。その難しさに弟子たちは、では誰が救われるのだろうか」と、ますます驚くのでありました。

金持ちが神の国に入れない理由は、はっきりと示されていません。

けれども考えられることの一つに、お金があれば、どうしてもそれに頼ってしまう、ということがあるのかも知れません。イエスさまが語られる「神の国」は、自分の持っているものに頼って、それで到達するようなものではないのです。この人は、人間のできることを基にして生きる世界の中にいました。イエスさまはこの男性を、そうではない世界、善い行いを積み重ねて救いを求める生き方から解放されること。救いを与えて下さる神さまの眼差しに心を向ける。この人は、それに気付けなかったのでした。持っているものに頼る生き方ではなく、隣人に心を開くように招かれたのでした。

 

この物語が子どもを祝福された出来事の後に語られている、ということに深い意味が込められているように思います。イエスさまのもとに連れて来られた子どもたちは、この男性と対極にいる存在です。財産も無ければ、社会的な地位も力もありません。ユダヤ教の教えを、まだきちんと受けていないのです。まして、他者に与えられるようなものは何一つ持っていません。そのような子どもたちをイエスさまは近くに呼び寄せ、抱き上げてくださいました。

『神は何でもできるからだ』、このイエスさまの言葉に私たち自身を委ねる、そのような生き方に思い巡しながら、今週1週間を過ごしたいと思います。

 

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

【Movie】2021年10月10日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【Movie】2021年10月3日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」

おはなし「サムエル」聖書箇所:サムエル記上3章 浅野直樹 牧師



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【 Live配信 】2021年10月3日(日)10:30 聖霊降臨後第19主日礼拝  説教 「 神の御心を知るお方 」 浅野 直樹 牧師



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【 説教・音声版】2021年10月3日(日)10:30 聖霊降臨後第19主日礼拝  説教 「 神の御心を知るお方 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十九主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書10章2~16節

「信仰とは生活である」。以前、そんなことをお話ししたことがあると思います。教会に来る時だけが信仰の歩みではありません。生活の隅々までが信仰の歩みである、ということです。何を今更、と思われるかもしれません。しかし、私は、ここに日本のキリスト教の弱点があるのではないか、と長年考えてきました。いいえ、感じてきた、というのが実情でしょう。信仰理解と実生活とが乖離しているのではないか、と。

しかし、それは、必ずしもキリスト者としての模範的な生き方を意味しないのだと思います。模範的な生き方ができているかどうか、ということではない。むしろ、模範的になりえないことに対する悩みです。信仰者としての悩みを抱えながら生きているか、ということです。信仰が生活になるということは、そういうことではないか。悩みつつ生きる、ということが、生きた信仰と言えるのではないか。私は、そう思っています。

今日の日課は、結婚と離婚について、また子どもについて、ということが主なテーマになっていると思います。そして、次回の日課では、財産について、ということが取り上げられている。結婚、離婚、子ども、財産…。まさしく生活そのものです。私たちキリスト
者の生活そのものについてイエスさまは語っておられるのです。

まずは、結婚と離婚について。これは、ファリサイ派の問いから発生しました。これも良くあることですが、純粋な問いから発生したのではなく、ある種悪意からなされたものです。イエスさまの答え如何によっては、ツッコミどころが満載だと思ったからでしょう。いつの時代でも、権力闘争、主導権争い、政治の世界は変わらない、ということでしょうか。彼らはこう質問した。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。後程の「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」との回答から分かるように、ある意味、答えは明白です。律法では離縁・離婚は認められていたからです。

しかし、彼らはイエスさまの答えを待っていました。もし、許されていないと答えたならば、「ほら見たことか。こいつは人々を教え回っているようだが、律法に反することを教えているのだ」と聴衆の前で非難できる。逆に、許されていると答えたならば、では、どんな時に許されているのか、とツッコムことができる。

実は、これは申命記24章1節に起因するものでした。こう書いてある。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。そこで問題になるのが、では「恥ずべきこと」とは一体何か、ということです。その理解の仕方について、当時は大きく二つのグループに分かれていた、と言われています。一つはより厳格なグループ。浮気などの不貞行為を除いては一切認められない、という立場です。もう一つは、ゆるいグループ。極端な例でしょうが、料理が下手ということだけで当てはまると考えていたようです。もしイエスさまがどちらかに近い判断を下されたとすれば、少なくとも今の人気は切り崩せると考えたのかもしれません。厳格な理解を示せば、おそらく多くの男性の支持を失うでしょうし、ゆるい理解を示せば、女性たちは去っていくかもしれません。なんだか、与野党の攻防のようです。

鈴木浩先生が『ガリラヤへ行け』(これは、マルコ福音書の注解書のようなものですが、非常に良い本だと思います)という著書を出されていますが、このように記されていました。「実は、申命記の規定は弱い立場の女性を保護する目的を持っていた。…当時のユダヤ人の間では、結婚の当事者は対等ではなかった。女は自分の意志で『結婚する』のではなく、父親の意志で『結婚させられた』のである。そのような一方的な慣習の中で、男の身勝手さを幾分かでも緩和させようとしたのが、この規定であった」。今日のマルコには記されていませんが、平行箇所であるマタイ福音書では、イエスさまの回答を聞いた弟子たちがこのような反応をしたことが記されています。

19章10節「弟子たちは、『夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです』と言った」。ここに至っても、男性の優位性を手放したくないのです。ともかく、いずれにしても、ここにあるのは、男性の身勝手さに違いない。男性優位の立場に違いない。結婚関係では、それは譲れない、と思っている。イエスさまの話を聞いた弟子たちでさえも、そこは引けないと思っている。しかし、イエスさまはどう語られたのか。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。

しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」。イエスさまは彼らの、いいえ、私たちの議論、関心事、つまり、どこまでが許されて、どこからがダメなのか、これは正当化できることなのか、できないことなのか、どちらが優位で優先されるべきなのか、そういった現実生活の関心事、課題を超えて本質へと、つまり本来の神さまの御心へと私たちを向かわせておられるのです。

今日の旧約の日課は、創造物語の一つでした。確かに、ここには男性の「助け手」としての女性、男性の肋骨から作られた女性、といった男性優位的なところも見えなくはないですが、しかし、それでも、他の生き物とは全く違う女性の特異性、男性と女性との一体性は伝わってくると思います。男性と女性、この深い結びつきは、やはり特別なのです。しかも、その特別な姿は神さまの姿とも重なってくる。なぜなら、この男性と女性とで命を生み出し、命を育むといった神さまの大いなる御業に連なるからです。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」。命の出来事に関わることができる。

これが、何よりの夫婦の特権です。神さまにかたどって造られた男と女の姿です。つまり、結婚というものは、創造の初めから神さまの大いなる祝福にもとにある、ということです。神さまは祝福するために男と女とを造られた。祝福するために男と女とを結び合わされた。それが、本来の神さまの御心なのです。ですから、生まれてくる子どもたちも当然祝福されることになる。神さまに、イエスさまに祝福されるのです。たとえ大人たちがどう思おうと、いいえ、場合によっては親たちでさえも好ましく思っていないのかもしれない。

しかし、生まれてきた子どもは祝福されている。創造の御業として祝福されている。それなのに、お前たちは、離婚の理由として正当化できるものはなにか、事あれば別れてやれ、当然の権利だ、自分の子どもを好き勝手して何が悪い、とそんなことに心向けながら生きること自体、神さまの本来の思いから大きくズレてしまっているのではないか、と問われるのです。

このイエスさまの教えを律法的に捉えるのは間違いです。つまり、離婚は絶対に許されない、ということではない。もっと言えば、このイエスさまの言葉を、残念ながら結婚生活に終止符を打たざるを得なかった方々を苦しめるために用いられるべきではない、ということです。現に、イエスさまが離婚した女性を拒絶されていないことは、あのヨハネ福音書にあるサマリアの女性とのやりとりからも明らかです。むしろ、この言葉は、今、結婚生活を営んでいる者たちこそが真に聞かなければならないのかもしれません。神さまが本来意図されたように、この結婚生活を、結婚相手を見ているのか、と問われるのです。そこで生まれるのは、そう、反省です。その通りにはなかなか生きられないという悩みです。神さまの真実の前に立たされるということは、そういうことです。

アンソニー・ヴァン・ダイク (1599–1641): 子ども達を私のもとへ来させなさい 1618–20 カナダ国立美術館



最初にキリスト者というものは、悩みながら生きるものだというようなことを言いましたが、それは悔い改めつつ生きる、ということです。先ほどの悩みが悔い改めへと導くきっかけになるからです。イエスさまは唯一神さまの御心を知っておられる方です。そのイエスさまが神さまの真の御心を示されるとき、私たちはどうしても悩まざるを得なくなる。悔い改めざるを得なくなる。しかし、それも、神さまの本意ではないのです。なぜなら、悩みをもった者を、悔い改める者を赦しへと、祝福へと招き入れることこそが、神さまの本意だからです。イエスさまはその真実の姿をもはっきりと私たちに示してくださっている。十字架と復活が、それです。

今日の箇所では、このようにも記されていました。「『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。大人になればなるほど、人の善意に素直になれないものです。それは、多く傷ついてきたからです。傷つけてきたからです。結婚に破れた者だけではない。たとえ結婚生活を続けられたとしても、傷つけ、傷ついてきた。そんな私たちをイエスさまは手招きされる。さあ、私のところにおいで、と。

その時、いつも間にか私自身小さくなって、子どもになって、イエスさまに引き寄せられて、「大丈夫、私が赦す。君は神さまに徹底的に愛され祝福されているのだから」と、その膝に抱き上げられ、力強い温かい手を私の頭の上に乗せて祝福で包み込んでくださっているのを想像するのは、私だけでしょうか。

【 Live配信 】2021年9月26日(日)10:30 聖霊降臨後第18主日礼拝  説教 「 仲間をつくる 」 浅野 直樹 牧師



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【Movie】2021年9月26日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【 Live配信 】2021年9月19日(日)10:30 聖霊降臨後第17主日礼拝  説教 「 一番になりたい者は・・ 」 浅野 直樹 牧師



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【Movie】2021年9月19日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【 説教・音声版】2021年9月19日(日)10:30 聖霊降臨後第17主日礼拝  説教 「 一番になりたい者は・・ 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十七主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書9章30~37節

前回は、曲がりなりにも「あなたは、メシアです」とのペトロの信仰告白があったからこそ、イエスさまは次の段階へと…、つまり受難・十字架と復活を、十字架と復活のメシアを教えることに進むことができたのではないか。そういったことをお話ししたと思います。あれから今日の日課までにはどれくらいの時間が経ったのか。9章2節を見ますと、「六日の後」とあります。いわゆる、「変貌の山」の出来事です。そして、一行(イエスさまと弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネだけが山に登ったわけですが)が山から降りると、麓で待っていた弟子たちにはできなかった「汚れた霊」に取り憑かれていた子どもを癒す出来事が起こりました。つまり、少なくとも一週間以上は経っていた、ということでしょう。

そこに、二度目の受難予告が起こります。前回も言いましたように、これは単なる予告ではないと思います。実は、今日の受難予告にも、新共同訳でははっきりとは訳されていませんが、「教える」という言葉が使われているからです。一番新しい聖書協会共同訳ではこのように訳されています。「しかし、イエスは人に気付かれるのを好まれなかった。それは、弟子たちに教えて、『人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである」。ここにも、「教える」という意図がはっきりと示されているからです。 先ほどは、今日の日課は「二度目の受難予告」だったと言いましたが、「教える」という目的からすれば、二度に限らなかったでしょう。おそらく、この一週間、何度も取り上げては弟子たちに語っていかれたのではないか、と思います。

しかし、その結果はどうだったか。後の弟子たちの様子、つまり、「誰が一番偉いか」などと議論していたことからすれば、あまり芳しくはなかったということではないでしょうか。なぜなら、「誰が一番偉いか」との議論の背後には、やはりイエスさまを政治的リーダーと考えていた節があるからです。つまり、近い将来、イエスさまがローマの支配から解放してくださり、新しい政府を樹立した暁には、弟子たちの中で重要ポストに着くのは一体誰か、と考えていたからです。つまり、受難予告を聞いて、ペトロが「そんなことはあってはならない」といさめた時と同様に、他の弟子たちもまた、受難と復活のメシアではなく、勝利者、解放者のイメージからいまだに離れることができていなかったことが窺われるからです。ここで誤解のないように言っておきたいのは、勝利者、解放者のイメージが間違っている、というのではありません。この勝利者であり解放者であるイエスさまが、同時に受難・十字架と復活のメシアだということです。

しかし、残念ながら、弟子たちにはなかなかこれらのことが浸透していかなかった。自分たちの思い(期待と言っても良いのかもしれませんが)、理解に固まってしまっていた。それが問題だ、ということです。一週間が、果たして長いのか、短いのか。もちろん、色々な思いがおありだと思いますが、この弟子たちの姿に慰めを見出すのは、私だけでしょうか。あのイエスさまがみっちりと教えてくださっているのです。一週間、何度も何度も繰り返し説いてくださったことでしょう。

しかし、弟子たちは変わらなかった。人の心の頑なさを覚えると同時に、この私自身の心が頑ななのも仕方がないのかもしれない、と思えてくる。だからといって、それで良いということではありません。仕方がない、と終わらせて良いということではないはずです。では、何が問題なのか。聖書はこのように語ります。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と。分からないのは、ある意味仕方がない。なぜなら、私たちの常識を超えたことだからです。神さまから遣わされたメシアがなぜ殺される必要があるのか。全く分からない。それが、私たちの素直な・素朴な感性でしょう。それは、仕方がない。では、なぜ尋ねないのか、ということです。分からないなら、理解できないなら、なぜ尋ねないのか。弟子たちは、怖かったから尋ねられなかったのだ、と言います。

確かに、自分たちが尊敬してやまない師が殺されてしまうなんて、それは恐ろしいことに違いない。そんな未来など想像もしたくない。しかし、ここの「恐れ」とは、単にそういうことを言っているだけなのだろうか。分かってしまうことの、理解してしまうことの恐れというものがあったのではないか。つまり、自分が持っていた、抱いていたメシア理解が変わる、変えられるということは、自分自身が丸ごと変えられることにもつながるからです。期待していたこと、手に入れられると思っていたこと、将来の展望、心の支え、それら全てが覆ってしまう。それを受け入れることが恐ろしい。もし、本当に自分たちが信じるメシアが、人々に見捨てられて十字架で死んでしまうようなメシアならば、お先真っ暗としか思えないからです。だから、そんな事実は見ないように素通りしてしまいたい。あえて、分かりたいとも思わない。だから尋ねない。そんな心理状態も、「恐れ」ということだったのではないか。そう思うのです。

最後の晩餐 メアリー・フェアチャイルド・ロー (1858–1946)



ともかく、少なくともここまでのイエスさまの弟子教育はあまりうまくいっていなかったように思われます。「誰が一番偉いか」などと論じ合っているくらいですから。「誰が一番偉いか」といっても、十二弟子皆が、俺だ、俺だ、と言っていたわけではないでしょう。先ほど、「変貌の山」の時にも触れましたように、イエスさまはこの時、弟子の中でもペトロとヤコブとヨハネだけしか連れて行かれませんでした。つまり、弟子たちの中にも、あの三人は特別だ、といった意識があったかもしれないのです。つまり、あの三人のうちで誰が一番偉いのか、です。一番の重要ポストにつくのは、三人のうちで誰か。つまり、他の弟子たちは、ひとりを押すわけです。俺はペトロが一番だと思う。俺はヤコブだと思う。俺はヨハネだと思う、と。つまり、たとえ自分が一番にはなれなくても、自分が押す人材が一番になれば、自分もまた引き上げてもらえるだろう、ということです。

今は自民党総裁選の真っ最中です。みな、自民党の一番になろうと躍起になっている。そこで行われているのは、力を持っている人をいかにして味方につけるか、です。それによって、今までの主義主張を変える人まで出ている。勝たなければ意味がありませんので、当然そうするのも分かります。しかし、それは、損得勘定です。権力を得るためには、結局は損得勘定になる。つまり、票に結びつきそうにない人たち、立場の弱い人たちが、いつも置いてきぼりになる。いくら口先では色々と言っても、権力闘争というのもは、そういったことに必ずなる。勝ち馬に乗ろうとする人たちも同じことです。結局は損得勘定です。もちろん、政治家たちだけのことではありません。私たちの話しです。

そんな弟子たちを前に、イエスさまは座られました。「座る」というのは、教師が正式に教えることを意味します。そして、十二弟子たちを呼び寄せ、小さな子どもを示されました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。子どもが可愛いから受け入れるのではありません。そうではなくて、何の役にも立たないような子どもを受け入れるのです。権力闘争、損得勘定とは、全く真逆のことです。しかも、イエスさまは、ご自分と小さな子どもとを、あたかも同列のように置かれる。子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのだ、と。いかに、小さな存在に心を注がれているかが分かると思います。

イエスさまは弟子たちにこう言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と。イエスさまは、一番になりたいという思いを否定なさいません。しかし、それは、偉くなるためのものではない、とおっしゃるのです。確かに、一番でなければできないこともあります。しかし、それは、権力闘争でも損得勘定でもないはずです。一番小さな人たちが、人々から、社会から受け入れられて生きるためです。そのために、一番を目指して欲しい、と願っておられる。私と同様に、この役に立たないような小さな子どもを受け入れる一番になって欲しいと望んでおられる。それは、私のように、仕える生き方なのだ、と示してくださっている。そうです。

この一番の歩みを送られたのは、イエスさまなのです。そして、この歩みのためには、十字架と復活が欠かせない。そうでないと、これを除いて一番を求めてしまうと、結局は権力闘争に、損得勘定にいってしまうからです。いくら、崇高な志を抱いて、勝利を、解放を目指しても、それだけでは、あの弟子たちのように、結局は「誰が一番偉いのか」ということになってしまうからです。だから、イエスさまは正されるのです。どれほど時間が掛かろうとも、十字架と復活の真実を分かって欲しいと教えて行かれるのです。

先ほど私は、心頑なな弟子たちに慰められると言いました。それは、自分の姿と重なるからです。しかし、本当に慰められるのは、この弟子たちをあくまで教え続けてくださっているイエスさまのお姿に、です。道々「誰が一番偉いか」と論じておきながら恥じ入っている弟子たちを身元に呼び寄せ、懇ろに語り聞かせ、子どもを抱き上げ、愛を示し続けてくださる、ご自身の道に引き寄せ続けてくださるイエスさまの姿。このお姿があるからこそ、私たちもまた反省しながらも歩き続けていけるのではないでしょうか。

【 説教・音声版】2021年9月12日(日)10:30 聖霊降臨後第16主日礼拝  説教 「 チャレンジされるイエス 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十六主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書8章27~38節



本日の福音書の日課は、ペトロの信仰告白の出来事でした。
ところで、皆さんはご自身が洗礼を受けられた時のことを覚えておられるでしょうか。ご存知のように、私はこのルーテル教会とは違う伝統の教会・教派で生まれ育ちました。ですので、洗礼式の様子も随分と違います。洗礼を受ける前に、まず会衆の前で証しをす
るのです。自分はこのようにしてイエス・キリストを信じるようになった、と証する。つまり、自分なりの信仰の告白です。

そして、全身水につかる洗礼(これを「浸礼」と言いますが)を受けました。正直、水の中に押し倒された衝撃的な出来事は今でもはっきりと覚えていますが、そこで何を語ったのかは全く覚えていません。二十歳です。まだ青臭さが残る、少しトゲついた時代です。これまでの人生の不条理を、不満を長々とぶつけていたのかもしれません。しかし、そんな中でイエス・キリストと出会えた、イエス・キリストを信じることができるようになった、と告げることができたのではないか、と思います。そして、そんな青二歳の告白を、会衆は自分たちの仲間の告白として受け入れてくれたのではないか、とも思うのです。

当然、同じではありません。同じである必要もありません。しかし、みなさん一人一人も、そんな信仰の告白からはじめられていることを、もう一度、思い起こして頂きたかったのです。青式文の洗礼式の項目では、このように記されています。「主と会衆の前で、あなたに尋ねます。あなたは、悪魔と、その力と、その空しい約束をことごとくしりぞけますか。全能の父なる神をあなたは信じますか。父の独り子、私たちの主イエス・キリストを、あなたは信じますか。聖霊を信じますか。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちをあなたは信じますか。あなたは、この信仰の元に、キリストのからだに連なる者となり、み言葉の教えを守り、恵みの手段を尊び、生涯を送りますか」。

もちろん、みな「はい」で応えるわけです。あるいは、皆さんの中には幼児洗礼を受けられた方もおられるでしょう。堅信式の式文にはこうある。「今、あなたに尋ねます。あなたは、洗礼において神が与えられた約束に堅く立ち、み言葉を聞き、聖餐にあずかり、神の忠実な民の中に生き、聖霊の賜物に従って、主のために身を献げて、分に応じて働き、言葉と行ないによって、キリストにおける神の救いを宣べ伝え、主イエスに従って隣人に仕え、神の国の正義と平和の確立のために努めますか」。

ゲツセマネの祈り:オリーブ園のキリスト 1889年 ポール・ゴーギャン Norton Museum of Art アメリカ



もちろん、「はい」と答えて、会衆とともに使徒信条によって信仰の告白をすることになります。何が言いたいか。信仰告白から始まる、と言うことです。キリスト者というものは、キリストを信じる信仰告白からはじまる。式文が異なっていても、洗礼の仕方が違っていても、ここからはじまる。しかし、ここで注意していただきたいのは、ここから「始まる」ということです。始まりであって、終わりではない。むしろ、この信仰告白から始まる、続いていく生、歩みがある、ということです。

ある方は、今日のこの箇所をマルコ福音書の分岐点だと言われます。別の方は、これまでは序文であって、ここから本当に言いたいことがはじまっていくのだ、とも言われる。私たちで置き換えるならば、これまでは求道生活と言えるのかもしれません。イエスさまと出会って、しばらく一緒に過ごしてみて、興味・関心が湧いて、様々な言動を見聞きして、この方なら信じてもいいかなっと信仰の告白に至っていく。しかし、後半の部分を見れば明らかなように、ペトロは「あなたはメシア・救い主です」と立派な信仰告白をした
にも関わらず、何も分かっていなかったことが暴露されてしまうのです。「引き下がれ、サタン」などと言われてしまうようなペトロの無理解な、誤解だらけの信仰告白など、一体何だったのか、とさえ思ってしまう。

しかし、こうも考えられるのではないか。確かに、イエスさまからすればペトロの信仰告白は誤解にまみれた非常に不十分なものだったかもしれないが、この信仰告白があったからこそ、ご自分の受難…、十字架と復活を打ち明けられたのではないか、と。つまり、このペトロの「あなたはメシア・救い主です」との告白があったからこそ、次の段階へと進むことができたのではないか。そう思うのです。なぜなら、このように記されているからです。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。ここのところは、よく「受難予告」と言われます。しかし、お読みいただければ分かるように、単なる「予告」ではないのです。弟子たちを「教える」ためだったのです。これまでにも、イエスさまは様々なことを教えてこられたでしょう。そんな教えを受けたからこそ、弟子たちは信仰の告白ができたはずです。

しかし、これまでは受難・十字架と復活のことは教えてこられなかった。少なくとも、「はっきり」とした形では、示してこられなかった。だから、この時の弟子たちの反応も当然と言えば当然かもしれません。今日、初めて、そのようなことを聞いたのですから。今まで一度も聞いてこなかったのですから。しかも、それは、全く信じがたい理解を超えた内容だった。神さまが送ってくださった救い主が、人々から排斥されて殺されるなんて、全く有り得ないことだと思った。

いいえ、決してあってはならないことだと思ったでしょう。だから、「いやいや、先生。そんな弱きなことを言われては困りますよ。あなたは私たちが信じる神さまから遣わされた救い主なんだから、どんと構えていてください」、そう言いたくなる気持ちも分かります。しかし、それでは、全然足りないのです。そのような理解だけでは困るのです。だから、イエスさまは、ここからもう一歩先に進んだ事柄を、彼らが信じ受け止めるべき最も大切な事柄を、この時から、あの信仰の告白の時から、残された時間の限りを尽くして教えていこうとされたのです。

信仰の告白自体が恵みなのです。並行箇所のマタイ福音書では、このようにも記されているからです。「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ』」。ここにありますように、信仰告白自体が神さまからの賜物なのです。恵みでしかない。しかし、これは始まりなのです。十分だとは言い難いのです。

私たちも振り返ってみると、洗礼を受けるときに十字架と復活のことは、確かに情報としては頭にあったかもしれませんが、良く分かってはいなかったのではないでしょうか。だから、教えていただくしかない。教えられ続けていくしかない。イエスさまに。なぜなら、私たちもまたペトロだからです。十字架と復活の救い主など、私たちの中からは決して生まれてこないからです。

むしろ、拒絶したくなる。そんなはずはない、と言いたくなる。私たちが信じ、期待している救い主とは、このような方です、と言いたくなる。ペトロの時代のような、外国の勢力から救ってくれる政治的救い主を私たちは求めてはいないかもしれませんが、しかし、いつも優しく、傍にいて寄り添ってくださるイエスさまであってほしいと思っているのかもしれません。十字架と復活など持ち込まないで欲しい、と思っているのかもしれない。

繰り返しますが、それが間違っている、というのではないのです。私たちが信じ、期待しているメシア、イエスさまの姿が間違っている、と言いたいのではない。そうではなくて、それだけでは不十分だ、ということです。その上で、教えられなければならないことがある、ということです。なぜなら、神さまは私たちへの愛を、イエスさまの十字架と復活によって貫かれることに決められたからです。ここを見失うと、神さまの愛自体が霞んで行ってしまうからです。だから、ここは譲れないのです。イエスさまも譲れなかったのです。

私たちは、神さまの恵みによって信仰告白へと導かれました。「あなたこそメシア・救い主です」と言えるようになったのです。それは、本当に感謝なことです。しかし、私たちは、ここから始まります。始めるのです。そのために、イエスさまご自身が、私たちの背中を押し出し、あるいは引っ張り込み、時には叱責されることもあるかもしれませんが、それも神さまの愛を受け止めて欲しいからであって、私たちを決して見放すことなく、教え諭していってくださるのです。あのペトロや弟子たちのように。

そのことをもう一度覚えて直して、ここからはじめていきたい。そう願っています。

【Movie】2021年9月5日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」

おはなし「ギデオンの戦い」 聖書箇所:士師記7章 浅野直樹 牧師


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【 Live配信 】2021年8月29日(日)10:30 聖霊降臨後第14主日礼拝  説教 「 神の思い、人の思い 」 浅野 直樹 牧師



※ライブ動画中のキャプションは、
第1の朗読 申命記 4:1-2,6-9(× 旧約 376頁 )→( ○旧約 285頁 )となります。

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【Movie】2021年8月29日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【 説教・音声版】2021年8月29日(日)10:30 聖霊降臨後第14主日礼拝  説教 「 神の思い、人の思い 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十四主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書7章1~8、14~15、21~23節

今日から、またマルコ福音書に戻って参りました。
ところで、本日の日課に記されていました「偽善者」という言葉をどう思われたでしょうか。「偽善者」…。この言葉は、私にとっては非常に痛い言葉です。キリスト教と出会った若い頃から、ことあるごとに自問自答を迫られている言葉でもある。「お前は偽善者なのではないか」と。信仰者になってからの、私自身の悩みの一つでもあります。

「偽善者」。手元の国語辞典で引いてみますと、「偽善をする人」とあり、「偽善」とは、「本心からではない、うわべだけの善行」とありました。私たちにも、よくわかることです。ところが、新約聖書が書かれているギリシア語では、「偽善」とは、元々は仮面をつけて芝居を演じる役者のことだと言われます。そして、ある方はこうも言う。「見栄えの良い面をつけて、人々を喜ばせる」ことだと。私自身が時折問われる「偽善者」とは、おそらく後者に近いと思います。最初っから「うわべだけの善行」をしたいとは思っていない。できれば、本心からしたいとも願っている。

しかし、その目的は何か、と問われると、本当にその善行そのものにあるのか。もっと言えば、その人のために、となっているのか、と問われるのです。知らず識らずのうちに、その目的が評価されるため、自分が少しでも良く見られるため、と変質してしまっているのではないか、と問われる。騙したい訳ではありません。見せびらかしたい、訳でもない。できれば、本心から、誠心誠意と思っている。しかし、その目的がいつの間にか、結局は「自分自身のために」と成り果ててしまっているのではないか、と悩むのです。それが「罪」なのだと言われれば、その通りでしょう。

イエスさまは、ここでファリサイ派の人々や律法学者たちを「偽善者」だと断罪されました。度々お話ししていることですが、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、決して悪人ではないのです。おそらく、善人の部類と言っても良いでしょう。ともかく、彼らは信仰熱心なのです。私たちは、どうしても善と悪といった二分化をしたがる者なのかもしれません。ことあるごとにイエスさまに反対・反抗し、結局は十字架へと追いやっていったファリサイ派、律法学者たちは悪人なのだ、と。今、アフガニスタンで何が起こっているかは、皆さんもよくご存知でしょう。タリバンが復権し、非常な混乱が起こっています。また、特に女性の権利など、さまざまな懸念がもたれてもいます。事実、流血沙汰や女性に対する弾圧が起こっているといった報道もされています。

そんな中で、二年前に凶弾に倒れた中村哲さんが取り上げられることが多くなったように感じます。中村哲さんのことを詳しくお話しする時間はありませんが、アフガニスタンの内情をよく知る者として、2001年の国会に参考人として呼ばれていたときの様子が新聞記事に掲載されていました。この時は、米国の同時多発テロ直後であり、自衛隊が米国の対テロ活動を支援できるように国会で法整備を急いでいた時のようですが、中村哲さんは自衛隊派遣を「有害無益」と言われたようです。その意見を撤回するように求められた時には、「日本全体が一つの情報コントロールに置かれておる中で、率直な感想を述べているだけ」と突っぱねた、とか。つまり、聖戦を目指す米国は善であり、テロリストを匿うタリバンは悪といった構図です。

もちろん、哲さん自体、タリバンの方針を全面的に支持する訳ではなかったわけですが、それでもアフガニスタンの内情を深く知るものとして、そのような単純な図式は百害あって一利なし、と訴えた訳です。そんな中村哲さんを取り上げた藤原辰史(京都大学准教授)氏の記事も印象深いものでした。

「『正義』の野蛮な二分法が国会から人気アニメまで貫徹し、日本の思考様式が複雑な状況に耐えられなくなったのも、そして、国会での議論で首相が答弁をごまかすようになったのも、ちょうどこの頃である」。物事は善悪という単純な二分法で測れるようなものではない。しかし、あのアフガニスタンに対する対応の時から、日本はそんな複雑さを推し量る思考に耐えられなくなっているのではないか。そのような指摘は非常に重いものがあると思うのです。

随分と話が逸れてしまったかもしれませんが、今日の箇所で言えば、イエスさまがファリサイ派・律法学者たちを「偽善者」と言われたのだから悪だ、と単純化するのではなくて、なぜそうなってしまったのか、といった理由を探ることが大切だと思うのです。なぜなら、それらは決して他人事とは言えないからです。

最初に言いましたように、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、当時の人々の誰よりも信仰熱心でした。彼らの出発点が「熱心さ」にあったことは、疑いようのないことでしょう。信仰の熱心さとは、神さまが与えてくださっている律法への熱心さということです。つまり、如何にして律法を守るか、ということです。しかし、皆さんもご存知のように、律法の代表格である十戒を見ても分かるように、律法は非常に大まかなことしか記されていません。当然、その熱心さは、果たして私は本当に適切に律法を守れているのか、といった問いになる訳です。

そして、そのような不安な気持ちを解消してくれるのが、いわゆるハウツー本なのです。初めての子育てで不安だった時、このようなハウツー本に飛びついたことを思い出します。ともかく、何が良くて何が悪いのかの詳細を知りたくなる。そのために、学者たちがさまざまな解釈を施すことになりました。それが、今日の箇所でいう「昔の人の言い伝え」ということです。これは、単なる伝承ではありません。どうすれば、律法を厳格に守ることができるか、といった昔からの知識の積み重ね、でした。その中でも、特に注意していたことは「汚れ」ということです。なぜなら神さまは「汚れ」を厭われるからです。ですから、汚れから身を守るためにはどうしたら良いのか、と昔から熱心に探究されてきたのです。食事の前に手を洗わないことがどうしてこれほどの問題を引き起こすのか。

私たちにとってはピンとこないところですが、当時の彼らにとっては非常に重要なことでした。しかし、そんな熱心さが裏目に出てしまった。熱心になればなるほど、本来の目的から逸れていってしまったからです。そのことをイエスさまは問題視されるのです。

ヨハネス・フェルメール マリアとマルタの家のキリスト1654年 – 1656年 スコットランド国立美術館 (イギリス)



一方で、そのような熱心さが問題だ、といった指摘もあるでしょう。私たちの世界を見回しても、独りよがりな熱意がかえって問題を引き起こしていることも事実です。しかし、だからと言って、熱意・熱心さを否定すればよい、ということではないでしょう。熱心であろうが、あるいは冷めていようが、問題は本質・真意を見失っている、ということだからです。その具体例として、イエスさまは「コルバン」のことを持ち出されました。今日の日課では飛ばされていましたが、「コルバン」とは神さまへの捧げ物ということです。

例えば、本来は両親に対する扶養義務があるはずなのに、それらがコルバンになれば、その扶養義務が免責されている、と言われます。確かに、神さまを第一にするといったことを考えるならば、一応の筋は通っているのかもしれません。しかし、これは、いくらでも抜け道になります。両親を養うのが嫌ならば、コルバンになったと言えばいいのですから。私たちが今聞いても、これは馬鹿らしいことです。しかし、こんな馬鹿らしいことが熱心さのもとで堂々と行われている。全く本質を、神さまの真意を見失っている。

しかし、残念なことに、この私たちの現代世界では、そんな馬鹿らしいことは起こっていない、と果たして言えるのでしょうか。イエスさまは旧約聖書を引用して、このように言われました。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」。本当に心に突き刺さる言葉です。今日の日課の最後のところを読みましても、イエスさまが私たちの内面を問われていることは明らかだと思います。

ここに登場してきたファリサイ派、律法学者の人たちと私たちとは、決して無縁とは言えないでしょう。最初は正しい動機であったとしても、それがいつの間にか歪んでしまうからです。本質を見失い、百害あって一利なしってことにもなってしまう。私たちもまた、すぐにでも本質を見失い、神さまの真意・御心から外れ、自分を良く見せることだけに心奪われてしまう「偽善者」になりやすいのです。だからこそ、内面を探る必要性が出てくる。本当の意味で私たちを汚すのは、外からではなくて内から出てくるからです。だから、悔い改めがどうしても必要となる。

近年は自虐的と称して、自省を軽視するような傾向がなかったでしょうか。それは、世の中だけでもなく、キリスト者である私たちにとっても、決して軽視できないことでもあるように感じるのです。確かに、内面を見つめることは辛いことです。なぜなら、ここに記されていますように、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などの私たち自身を、また私たちの周りの人たちを傷つけ、汚すものが渦巻いていることに気付かされるからです。

しかし、実はここに福音がある。悔い改めることができるのは恵みに他ならないからです。なぜなら、悔い改めることができるからこそ、私たちは立ち止まることができるからです。神さまから離れていってしまっていないだろうか、と内省することができるからです。そして、このような弱さを、汚れを、罪を持つ私たちを救うために来てくださったイエスさまに思いを向けることが、救いを求めることができるからです。

それが「偽善」の、善悪の単純化の暴走を止めることにもつながると思うからです。どうぞ、ルターの伝統に生きる者として、生涯悔い改めを重視していく私たちでありたい、と願わされています。