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Live配信:2020年9月20日 聖霊降臨後第16主日礼拝 説教 「救いたいという思い」 浅野 直樹 牧師



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【 テキスト・音声 】2020年9月13日 説教「 赦されたから赦そう」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十五主日礼拝説教(むさしの教会)

聖書箇所:マタイによる福音書18章21~35節

本日の福音書の日課は、これもまた良く知られた譬え話だと思いますが、人を赦すことの大切さが語られている譬え話だと思います。内容自体としては、それほど難しいものではないと思います。むしろ、すんなりと入ってくる、ある意味、私たちの常識とそんなに違わないものだとも思います。しかし、現実となると、実践となるとどうか、といった問いは常に付きまとってくるのではないか、そうも思うのです。

なぜならば、私たちはなかなか赦すことができない、といった経験を嫌という程積み重ねても来ているからです。いいえ、厳密に言えば、実は赦せていないことにも気づけていないのかもしれません。聖書が語る「赦し」とは、綺麗さっぱり忘れてしまうことだからです。赦すべき事柄を二度と思い出すことはない、ということです。ですから、「忍耐」とは似て非なるものなのです。

内心、「またか」と思いながらも忍耐することは、実は赦していることにはならないのです。あるいは、赦していると自分の心に言い聞かせながら、その人を遠ざけていくことも赦しているとは言い難い。ですから、先ほども言いましたように、今朝の譬え話も物語としては良く分かるのですが、「あなたはどうか」と問われるならば、とたんに難しさを感じてしまうのだと思うのです。



今朝の譬え話は、ペトロのある問いをきっかけに語られたものでした。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。ペトロはペトロなりに、これまでのイエスさまの話を聞く中で、そんな思いを持ったのでしょう。ここでペトロは「兄弟が」と言っています。これは、教会の仲間たちのことです。ですから、この問いの前提は教会の人たちがペトロに罪を犯した時のことを考えているわけですが、完全にではなくとも、より一般化しても良いのではないか、と思います。

例え教会と同じルールで、とは言えなくとも、やはり「赦す」ことが私たちの日常生活の中で(家族や職場の同僚、友人、クラスメート等々)求められているからです。
ここでペトロは七回まで赦すべきでしょうか、と尋ねます。これは、ペトロにとっては随分と思い切った数字だったと思います。私たち日本にも「仏の顔も三度まで」といった言葉がありますが、当時のユダヤにも似たような表現があったようです。神さまはあなたがたを三度まで赦してくださるのだから、あなたがたも三度は赦してあげなさい、と。つまり、せいぜい三度が限界ということでしょう。四度目はない…。それが、私たちの一般的な感覚でもある。

しかし、ペトロはそれを大きく超えて、まさに清水の舞台から飛び降りるような思いで、なんとかイエスさまに認めてもらおうと、評価してもらおうと、決死の覚悟で言ったのかもしれません。しかし、イエスさまは、あの有名な言葉を語られました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。ペトロの決死の覚悟の言葉により高いハードルを設けられたのか。

そうではない、と思います。実は、三度にしろ七度にしろ、本質的には同じだからです。限度を設けるという意味では変わらない。そうではない、とイエスさまは語られるのです。はじめっから限度を設けてはいけない、そんな思いで赦しを考えてはいけない、と言われる。

ところで、先ほどはペトロの問いがきっかけになって譬え話が語られたと言いましたが、よくよく見ていきますと、この譬え話はペトロの問いの答えとは全くなっていないことに気づかれると思います。そうではなくて、赦す前に赦されている現実に気づくようにと語られているからです。赦すことの大切さ以上に、赦されていることの大切さ、です。

いいえ、むしろ、両者が連動していることが大切なのです。 ここに王に負債を負っている家来が登場して参ります。その内の一人は一万タラントンの借金がありました。そう言われてもピンときませんが、聖書巻末の度量衡を見てみますと、1タラントンは6000日分の賃金に相当しますので、6千万日分の賃金ということになります。この家来は返済を待って欲しい、必ず返すから、と言いますが、一体何日働けば返せるのでしょうか。1年は365日。1日も休まずに働いても10年で3,650日分、100年で36,500日分、1,000年で…。とても人の一生では償いきれない負債です。

一体何回人生を繰り返せば返しきれるのか。私たちの教会の伝統には「煉獄」といった考え方はありませんが、そんな負債を返済し切るのに途方も無い年月がかかることを考えますと、そういった発想が生まれるのも頷けるような気がいたします。ともかく、それほどの負債を王は「憐れに思っ」たが故に赦してくださったのです。それが、この譬え話の第一のポイントなのです。


この王は神さま、そして、赦された家来は私たち一人一人と置き換えても良いでしょう。私たちは神さまに対してそれほど大きな負債があるのです。考えてみてください。なぜ私たちを救うために神の子が命を捨てなければならなかったのかを。それほどの大きな代価を払わなければ穴埋めなど決してできない大きな亀裂があるからです。十字架によらなければ償い得ない負債がある。だから、神さまは神の子を十字架につけられた。私たち
を赦すために。救うために。

なのに、この家来は自分に負債のある人を赦さなかった。ついさっき、決して償いきれない負債を、ただ憐れみの故に赦していただいたのに、あたかもそんなことなど一切なかったかのように負債を負債として取り立てようとした。そこに、この家来の問題性があるのです。そして、私たちの…。

確かに、この家来の傷は決して小さなものだとは言えないでしょう。100デナリオン、つまり100日分の賃金です。決して小さくはない。そうです。自分がこうむった被害だけを見ていれば、決して小さくはないのです。しかし、赦していただいた大きさを見るならば、そんなものは決して比較にもならないはずなのです。

そうです。私たちは自分ばかりを見つめるから赦せないのです。自分が受けた負債、被害ばかりに心を向けるから、事実以上に大きくも見えてくる。そうではなくて、まず赦されている事、ここに目を向ける必要がある。しかし、もちろん、簡単なことではありません。簡単に赦せないのは痛みがあるからです。傷つけられたからです。だから、そんなに簡単に忘れられない。でも、それでいいのでしょうか。そんな言い訳ばかりをして、自分の都合ばかりを並び立てて、赦されている事実にも目を閉ざして、この家来のようになっていくことが、果たして私たちの望みでしょうか。決してそうではないでしょう。

むしろ、だからこそ、私たちには祈りの生活が必要なのです。自分自身にではなく、神さまに、神さまがしてくださった赦しに目を向けるためにも、それでもなかなか人を赦すことの出来ない自分の心と向き合って、素直に神さまに助けを求めていくためにも、祈りの生活が欠かせないのだと思います。

ヴァランタン・ド・ブーローニュ: Valentin de Boulogne「聖マタイ」 1591-1632 、フランス、バロック・カラヴァッジェスキ一派



《 祈り 》
・いよいよ明日から本格的な鐘楼の修繕工事がはじまっていきますが、どうぞ安全に工事がなされますようにお守りください。また、工事期間中の台風襲来なども心配されますが、天候も含めて全ての危険からもお守りくださいますようにお願いいたします。

・先週から集会形式の礼拝が再開されましたが、まだまだ新型コロナの問題が沈静化していませんので、どうぞお守りくださいますように。秋から冬にかけて感染拡大が心配されていますが、適切な準備がなされて、有効なワクチンや治療薬なども整えられていきますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

教会の鐘楼修繕用に11日に足場がかけられた

Live配信:2020年9月13日 聖霊降臨後第15主日礼拝 説教 「赦されたから赦そう」 浅野 直樹 牧師



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【 テキスト・音声版 】2020年9月6日 説教「二人の求めを叶える父」小山 茂 牧師

聖霊降臨後第14 主日 説教


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。
アーメン

罪の自覚、救いの喜び
今朝の福音書のテーマは、教会の中に罪を犯した人がいるなら、群れはどう対応したらいいかです。私たちは他人の罪に敏感に気付きますが、自分の罪に鈍感ではないでしょうか。罪を赦されるには、自らの罪を認めて悔い改め、相手に許しを請い求めます。相手から許され、天の神がそれを追認されて、罪の赦しが完成されます。なぜなら、罪の赦しは神の専権事項だからです。「ゆるし」を辞書で調べますと、罪は「赦し」の漢字が相応しいと思われます。赤はゆるめる、攵(ぼくにょう)は鞭打つ、両者から鞭打つことを緩める。つまり罪を赦す意味になります。そういえば、総督ピラトは主イエスを、十字架につける前に鞭打たせました。彼は鞭打つことで自分は主の罪を問わない、と意思表示をしたのはないでしょうか。

今朝の福音は語ります、「あなた方が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれる。」私はこの言葉、つなぐ・解く、両者を逆の意味に理解していました。正しくは、つなぐとは罪に結び付けることであり、解くとは罪から解くことです。私たちにとって誰かが罪を犯した、と判断するのは心の重いことです。できれば避けたいことであり、放置しておきたいことです。

罪と言えばルターの宗教改革は、贖宥状〔免罪符〕の販売をめぐり、異議申し立てから始まりました。生きている間に罪の罰を自らの責任でとる、または死んでから煉獄で償う、と当時考えられていました。贖宥状を買うことで、それらの償いを免れることができる、と教会が主張したからです。私たちは罪からの赦しをどのようにされるのでしょうか。

今日のルーテル教会では、礼拝の中で「罪の告白」と「ゆるしの祈願祝福」があります。前の一週間の行いと思いを振り返ります。その告白は一般告白であり、個別告白を求めるなら、牧師に面談を求めることができます。罪の自覚なしに赦された、と安堵してしまうのは、安価な恵みと言われます。神の恵みといいながら、あらゆる罪が神の愛のマントに覆われ、悔い改めなしに済まされるからです。主イエス・キリストが自らの命に代えて、私たちに与えられた救いの賜物を、心から感謝して受け取りたいものです。

神学生時代にルーテル神学校のS 先生が、教職神学セミナーで耳の痛い話をされました。最近の説教は罪を語らない、牧師が罪を語れない、と言われました。そう言われると、確かに説教で罪を語ることを、避ける傾向があります。牧師にとって罪の認識を語るのは、難しく感じられるからでしょう。罪がしっかり語たられた後、福音が力強く伝わります。私たちは罪をきちん自覚した後に、罪を赦され救われた喜びがあります。



教会内で罪の赦し
今朝の福音は二つの譬えに挟まれた、サンドイッチの中身になります。直前の「迷い出た羊」の譬え、直後の「仲間を赦さない家来」の譬え、両方の文脈の中にあります。ですから、前と後ろの譬えの意図をきちんと捉えて、福音を納得して受け取れます。「迷い出た羊」の譬えは語ります、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」また「仲間を赦さない家来」の譬えは、「7 回どころか7 の70 倍までも赦しなさい。~あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」私達にどこか怖い話に聞こえます。

主イエスは「兄弟の罪を全て赦しなさい」、さらに「兄弟を救う努力を惜しむな」と求められます。教会における罪の赦し方をどのように捉えるのか、御言葉に聴いてまいります。

個々人の罪に対する責任は、教会の群れの問題であると考えられます。つまり、罪は個人的なものではなく、共同体の問題として捉えられます。教会の群れにいる兄弟が罪を犯したなら、皆さんはどうされますか。聖書には、三段階にわたる方法が示されています。

第一段階は、「行って二人だけのところで忠告しなさい。」相手の心を傷つけないよう、密かに忠告をします。忠告すると訳されたギリシア語は、「罪を明らかにする」という意味です。もし聞き入れられたなら、失いかけた兄弟を取り戻すことができます。百匹のうち一匹の迷い出た羊を、捜し当てたのと同様です。そこには迷子の羊だけでなく、群れの99 匹にも喜びがあります。

第二段階は、「聞き入れなければ、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい。~二人または三人の証人の口によって確定されるためである。」自分以外の証人を加えて話し合いに及びます。兄弟の罪を素直に戒めることは、旧約聖書にも記されています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」《申命記19:15》罪の認定を二三人で行います、訓戒をする目的は非難や中傷することではなく、罪を確認して兄弟を取り戻すことにあります。

第三段階は、「それでも聞き入れなければ、教会に申し入れなさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい。」兄弟が教会の忠告に耳を貸さないなら、罪を明らかにして教会から排斥しなさい。でも教会が共同体の仲間を裁いて、拒絶してもいいのでしょうか。なぜなら、兄弟を群れから追い出すことになるからです。

主イエスはかつて言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」ですから教会から排除しなさいとは、主のお言葉とはどうしても思えないのです。教会の群れの一人を裁いて、罪人とするからです。私たちの知る主は諦めずに、悔い改めを待たれる方ではありませんか。

私たちも罪を犯す
今朝の福音から、あなたが罪を犯して忠告を受ける立場になれば、どうされるか考えてみてください。立ち位置が変わると聖書の御言葉が、全く違って聞こえてきます。第三段階で言われる、異邦人か徴税人と同様に看做されるとは、罪人とされて神の前に立てなくなります。神とのつながりがなくなり、天の国へ招かれるチャンスを失う、それはキリスト者にとって一大事です。18 節の言葉がポイントになります。

「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」つなぐとは罪と認定することであり、反対に解くとは罪を赦すことです。教会の判断する罪は、天においても追認されます。教会は罪を犯した人を罪に結びつけるか、罪から解き放つか、軽々しく判断できません。

罪を犯した人が罪を認めて、悔い改めるよう、私たちは共に祈ります。主の御心は一人も滅びることなく、全ての人を天の国に招きたいのです。それゆえ、私たちは仲間の罪が赦されるよう祈り、主が祈りをきっと叶えられます。主イエスはこう言われます、「どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」

その他に怠りの罪もあります。やるべきことをしないことも、罪のひとつに数えられます。旧約聖書はこう語ります、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」《レビ19:17》兄弟が罪を犯したと気づいたのに、彼を戒めない、彼に忠告をしない、それも罪だと言われます。教会の群れの中に、罪を犯した人がいるなら、放っておけないのです。彼を容易く切り捨てず、悔い改める手立てを尽くすよう、私たちに求められます。滅びることが父の御心ではないので、兄弟を罪から救う努力を惜しんではなりません。

共におられる神
福音の結びの言葉に注目しましょう。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」地上で教会の群れが共に祈る時、天の父も祈りに加わられ、祈りが聞き届けられます。主イエスの御名によって、私たちが必死に祈るならきっと聴かれます。なぜなら、主が私たちと共にいてくださるからです。主イエスが降誕された折、主の天使から約束されています、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル〔神は我々と共におられる〕と呼ばれる。」

《1:23》また、復活された主イエスは大宣教命令でも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」《28:20》と約束されています。小さな者が一人も滅びないよう、主の名によって集められた教会は、罪を犯した者に悔い改めるよう心を尽くします。兄弟同士の交わりは、仲間を群れの中に止めるよう最善を尽くします。父の御心は私たちが滅びることではなく、九十九匹を残して迷い出た一匹を捜し出される、その御心から兄弟に忠告するよう促されます。

忠告することは、相手に正面から向き合わなければできません。忠告されることは、気持良いものではありません。時に相手が頑なになったり、相手から恨みを買ったりします。兄弟として受け入れる時、互いに赦し合うことが求められます。私たちの努力だけでは難しいかもしれません。しかし、私たちの祈りが主イエスに聞かれる時、兄弟に寄り添って忠告ができます。ルターは「罪人にして同時に義人である」と言いました。罪人と義人は紙一重の違いであり、時に両者の逆転が起こります。私たちが滅びることは、天の父の御心ではありません。

カラヴァッジオ 「聖マタイの召命」 Caravaggio “The Call of Saint Matthew”



主イエスは約束されました、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心をひとつにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」教会は悔い改める者を赦して、その者を罪から解き放つ共同体です。教会が罪を犯した者を赦す時、天でも父はその者を赦されます。それは教会が罪を解くという、赦しの喜びとなります。共同体がひとつになり、主イエスはいつもその中におられます。一人の祈りが他の人の祈りとひとつになり、主は私たちをひとつの群れに結び合わされます。

《祈り》

恵み深い主よ。あなたが臨在される礼拝に招かれ、感謝をいたします。私たちと共にいると約束された主イエスは、私たちの集まる中におられます。地上で心をひとつにして祈るなら、主はそれを叶えてくださいます。私たちが共に祈りながら、地上で兄弟の罪を解くことを、神が天上から解いてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって、御前にお捧げ致します。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

Live配信:2020年9月6日 聖霊降臨後第14主日礼拝 説教 「二人の求めを叶える父 」 小山 茂 牧師



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【重要】9月からの礼拝について

むさしの教会に集う皆さま

8月度役員会で協議の結果、十分な新型コロナウイルス感染防止策を
講じたうえで、9月6日(日)より下記のように集会形式の礼拝を再開することに
いたしました。

《礼拝開始時間》
*第1部:10時30分〜11時10分
・予約制により定員は30名とします。
*定員を超えた場合、第2部を予定しています。
・第2部:11時30分〜12時10分

《予約方法》
*各主日礼拝の出席希望:前週の火曜から受付を開始します。
・受付時間 火〜金:10時〜20時、土:10時〜12時
*牧師:浅野迄(03-3330-8422 , 090-6461-5960)
電話にてご連絡ください。

《感染防止対策について》
*予めご自宅で検温の上、当日体調不良の方は来会をお控えください。
*来会時の健康チェック(体温:37度以下、咳、味覚障害等諸症状)、
消毒、記名を実施し、教会内はマスク着用をお願いします。
*密集を避け会堂内での会話は控えていただき礼拝後は速やかに退室を
お願いします。
*当面、教会内での飲食サービスは休止しますが熱中症予防の為のお飲み物は
ご持参ください。

皆さまのご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

2020年8月30日

むさしの教会
牧師 浅野直樹・役員一同

【 テキスト・音声版 】2020年8月30日 説教「キリストにならいて」浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十三主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書16章21~28節

今朝の福音書の日課は、いわゆる「受難予告」と言われる箇所です。
先週は、ペトロの信仰告白の場面を見てまいりました。ペトロは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とのイエスさまからの問いに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と立派な信仰告白をいたしました。そのペトロの信仰告白をイエスさまは大変に喜ばれ、その告白の上に教会が建てられる、と言われるほどでした。

しかし、今朝の箇所では、その舌の根も乾かないうちに大失態をしてしまいます。イエスさまの受難予告を聞いたペトロがそれを諌めたからです。先ほどの祝福とは打って変わって、「サタン、引き下がれ」と言われてしまうほどに、イエスさまを不快にさせてしまいました。なぜ、そんなことが起こったのか。

ペトロが「メシア」の意味を全く履き違えていたからです。確かに、ペトロは立派な信仰告白をしました。それは、神さまからの賜物でした。しかし、その内実について、果たしてペトロがどのように理解していたか、といえば、イエスさまの思いとは、もっと言えば、神さまのご計画とは遠くかけ離れていたわけです。ここに、私たちの信仰告白の姿を見るような気もいたします。

Christ’s Charge to Peter (1515) Raphael ラファエロ・サンティ ヴィクトリア&アルバート博物館



私たちもまた教会を訪れ、いろいろな経験を経て、信仰告白へと至りました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。しかし、どこまで分かっていたのか、と言えば、心もとない限りです。特に、受難…、十字架の意味など全く分かっていなかったのかもしれません。もっとも、受洗前教育などで教えとしては理解していたとしても、自分のこととして、その出来事がどれほどこの私にとって決定的な意味を持つ出来事であったか、といったことには、なかなか気づけていなかったのかもしれません。

そういう意味では、私たちもまた、イエスさまから「サタン、引き下がれ」と言われてしまう者であったのかもしれない。

それでも、やはり今朝の箇所を読んでいきますと、そんな不甲斐ない信仰告白であったとしても、意味があるように思わされます。21節でこう語られているからです。「このときから」。今日の箇所を含めて、マタイによる福音書には3つの受難予告が記されています。もっと正確にいえば、受難・十字架と復活の予告です。つまり、私たちキリスト者にとっての肝心要の教えが、この時からなされた、ということです。この信仰告白の前には、そのことは一切伏せられていた。

つまり、後に「サタン、引き下がれ」と言われてしまうような不理解なペトロの信仰告白であったとしても、その告白がなければ受難と復活の教えは出てこなかった訳です。たとえ不完全であっても、十字架と復活の意味が全く理解できていなかったとしても、この「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白からはじまっていった。しかも、その告白を与えてくださったのも、神さまに他ならない訳です。それもまた、私たちの信仰告白の道筋ではないか。その信仰告白を確かなものとしてくださるためにも、まず神さまの恵みによってその告白へと導かれ、その告白の意味するところを十二分に理解する歩みへと導いてくださるのではないか。そうも思うからです。

ペトロはなぜこのとき、「サタン、引き下がれ」などと言われてしまったのか。先ほども言いましたように、受難を予告されたイエスさまを諌めたからです。しかし、それが、どうしてそれほど悪かったのか。実は、私たちにも良く分からないのだと思う。なぜならば、ペトロとしては良かれと思ってやったことに過ぎないからです。ペトロなりにイエスさまのことを慮ってのことだったからです。ペトロなりの親愛の情から生まれたものだったからです。

現在、アメリカの大統領選が熾烈を極めていますが、自分が心酔し押す大統領候補がもし弱気な様子を見せたならば、「何弱気になってるんですか。大丈夫です。あなたならやれます。もっと堂々としていてください」と励まし、発破をかけないでしょうか。

それと同じことをペトロはやっただけです。イエスさまをメシア・救い主と信じて止まなかったからです。しかし、それこそが間違いなのです。ここで非常に重要なことが語られている。「神のことを思わず、人間のことを思っている」と。



私たちの間違いの原因は、大抵がここにかかっていると言っても言い過ぎではないでしょう。私たちは神さまのことを誤解している。何が本当に正しいことなのかも分かっていないのかもしれない。そして、悪魔のことも誤解しているのかもしれない。以前もご紹介したと思いますが、この悪魔のことを知りたければ、C.S.ルイスの『悪魔の手紙』を読まれたら良いと思います。ともかく、悪魔は私たちが想像するような毒々しい存在というよりも、いかにも善良そうにして近づいてくるのかもしれません。

そして、私たちを神さまから引き離そうとする。もし、このペトロの提案通りにイエスさまが十字架の死と復活を辞めてしまわれたなら、それこそ人類の救いはありません。一見良さそうな、イエスさまのことを慮った提案のように思えても、文字通り、ペトロは人類の敵、悪魔になってしまうのです。しかし、当の本人はそんなことはちっとも思っていないのです。自分の心配が当然だと思っている。自分がちゃんとイエスさまを補佐して、その道筋を正してあげなければと思っている。これは、愛から生まれていることだ。善意から生まれていることだ。だから、間違うはずがない。

ペトロは自分の信仰告白に確信をもってそうしたに違いないのです。しかし、その実は、善意のはずが、愛から出たはずが、神さまのご計画を破壊することになり、人類を救うというイエスさまの思いを踏みにじることになり、人類の救いの道を閉ざしてしまう人類の敵にさえなってしまいかねなかったわけです。それは、十二分に私たちも肝に命じておかなければならないことだと思う。なぜならば、私たちもペトロも全く同じだからです。自分ばかりを、人間ばかりを見ているからです。あなたは「神のことを思わず、人間のことを思っている」。私たちも、この過ちに真に気づき、戒めなければならない。

24節以下の自分を捨てよ、自分の十字架を背負え等の言葉も、このことを抜きにしては、おそらく理解しえないでしょう。「人間のこと」、つまり、私たち自身の思いとは全く正反対のことを言っているようにしか思えないからです。私たちは自分で自分の命を守ることこそ最良の道だ、と思っている。だから、何よりも自分を大切にしようとするわけです。しかし、本当にそれで人が幸せになれるのか、といえば、私はそうは思いません。

私自身のことも含めてですが、多くの悩み相談などを受けると、大抵自分を苦しめているのは、当の自分自身だということが多いからです。自分自身に縛られているからこそ、生きにくくしていることが多い。自分の過去に、自分の性格に、自分の経験に、自分の考えに、自分の感覚・感性に、自分の生い立ち・生育歴に、自分の問題性に本当に人は縛られている。そこから解放されることは至難の技です。

私たちとは逆に、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ことと正反対の生き方をされたのがイエスさまでした。「自分を捨て、自分の十字架を背負」われたのも、何よりもイエスさまご自身でした。イエスさまはご自分の命においてさえも自由でした。神さまの御手に一切を委ねておられたからです。だからこそ、イエスさまは命を得ていた。真の自分を持っておられた。真の自由の中を生きることがおできになった。



イエスさまは「わたしのために命を失う者は、それを得る」とおっしゃいます。命とはもちろん、私たちにとって最も大切なものです。私の存在自体と言い換えても良いでしょう。そして、本来の私とは自由な存在である。自分自身の命に雁字搦めになるならば、かえって自分に縛られて真の自由を奪われてしまうことになってしまいますが、̶̶それは命を失うと言っても良いでしょう̶̶イエスさまに命を、私たちの存在すべてを預けて、委ねてしまうならば、真の私に、真の自由な私になっていける。それが、命を得る、ということでもあるのではないか。そう思うのです。

確かに、ペトロは大変な叱責を受けてしまいましたが、それは、この命に招かれているが故であることを忘れてはいけないと思います。私たちも、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をいたします。しかし、それは、まだまだ不十分で、「サタン、引き下がれ。あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われてしまうような有様かもしれません。しかし、それは、見放されているのではないのです。むしろ、招かれているのです。私に命を預けよ、と。私に、お前自身を委ねよ、と。そこに、真のあなた自身の姿になり得る道筋があるのだ、と。命を得る道筋が…。その招きを大切にしていきたいと思います。また、それが、イエスさまに…、「キリストにならう」ということでもあると思います。

Raphael (Urbino 1483-Rome 1520) Christ’s Charge to Peter c.1514 Drawing



《祈り》

・我が国の首相が体調不良のために辞任されました。個人的には思うところもありますが、長年重責を担ってこられたことは事実です。治療を導いてくださり、1日も早い回復をお与えくださいますようにお願いいたします。
新たな首相が選ばれて行くことになりますが、これまでの反省を生かしながら、このコロナ禍にあって、また緊迫した国際情勢の中にあって、適切なリーダーが選ばれていきますようにどうぞお導きください。

・来週、9月6日から会堂での集会式の礼拝を再開することといたしました。まだまだ新型コロナがおさまりきらない中での再開で心配もありますが、どうぞ全てを守り導いてくださり、良き礼拝の時となっていきますようにお助けください。

・日本では徐々に感染者数が減って来ていると言われていますが、依然として多くの方々が感染をされています。また、重症の方、残念ながらお亡くなりになられているかたもいらっしゃいます。どうぞ憐れんでください。医療現場も大変な状況が続いていることで
しょう。どうぞ、働かれているお一人お一人をもお守りくださいますように。世界ではもっと多くの方々が感染をされています。重症化する方、亡くなられる方々も多くおられます。どうぞ憐れんでくださり、一日も早い終息へとお導きくださいますようにお願いい
たします。

・いよいよ台風シーズンがやってまいりました。先日の台風8号は朝鮮半島を襲い、北朝鮮でも大きな被害が出ているとも聞いています。このところ北朝鮮では食糧難が言われていますが、今回の台風被害によっても多くの国民が苦しむことになるのかもしれません。体制にはいろいろな思いがありますが、どうぞ人々をお守りくださいますように、国の指導者たちも何よりも国民のことを考えて行くことができますようにお導きください。また、台風9号が発生し、非常に勢力を強めながら九州地方に近づく予報がされています。先の大雨でも大変な被害が出てしまった地域です。どうぞ憐れんでくださり、被害がでませんようにお助けください。また、この台風シーズン、むさしの教会の会堂もお守りくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン

Live配信:2020年8月30日 聖霊降臨後第13主日礼拝 説教 「キリストにならいて 」 浅野 直樹 牧師



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Live配信:2020年8月23日 聖霊降臨後第12主日礼拝 説教 「 小さなキリスト 」 浅野 直樹 牧師



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【 テキスト・音声版 】2020年8月23日 説教「小さなキリスト」浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十二主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書16章13~20節

有名なマルティン・ルターの『キリスト者の自由』には、こんなことが記されています。少し長いですが引用したいと思います。「ここで、パウロが私たちの前に示しているキリスト者の理想の姿について考えてみましょう。パウロは私たちのすべてのわざが隣人の益となるように努力すべきだと勧めています。私たちひとりびとりにとって信仰は十分であり、私たちの働きと生涯のすべてが、隣人への惜しみない愛の奉仕に用いられるようにと、主の御手にゆだねられています。神は、この無価値で罪に定められた私に、何のいさおしもないのに、計り知ることのできない救いと愛の宝を与えてくださいました。キリストにあって惜しみのない純粋の愛をもってです。

それ以外の何事をも考えずに専念できるようになったのです。しかし一方、私はこのようにあふれるばかりの祝福を注いでくださった、父なる神に喜んで心から仕え、主のみこころにかなうことをせずにおられません。またキリストが私に対してそうであったように、隣人に仕えるキリストとなり、その人の救いのために役立つあらゆることをせずにいられません。信仰によって私の足りないところはすべて、キリストにあって満たされているからです。このようにして、信仰からは、神に対する愛と望みがあふれ、愛からは、隣人に対して惜しみなく奉仕する喜びに満ちた自由な生活があらわれてきます」。



ルターは神さまの恵みを力強く主張していきましたが、それは「行い」自体を否定した、ということではありませんでした。救われるための行いを…、つまり、私たちの何らかの業が救われるためには必要なのだ、私たちが持つ何らかのものをもって救いを勝ち取らなければならないのだ、といった「行い」の理解を強く否定したのです。そうではなくて、人が救われるのは、ただただ神さまの一方的な恵みによるのだ、と。ですから、先ほどの『キリスト者の自由』でも、救われるための行いはもう必要ではない、と言います。そんな労力はもはや必要ではないのだ、と。

むしろ、だからこそ、その労力を他者に向けるべきではないか、というのです。すでに、神さまの恵みによって私たちは救われているのだから、今度は私たちの持てる力で、隣人のために奉仕すべきではないか、と。つまり、「行い」のシフトチェンジです。自分のためにと向けられてきた「行い」を、今度は隣人のためにと向け直す。今までは自分の救いのためにあくせくしてきた労力を、その必要性がなくなった以上、今度は隣人の方に振り向けるべきではないか。

それが、恵みによって救われるという神さまの御心なのではないか、ということです。ですから、このようにも言われている。「またキリストが私に対してそうであったように、隣人に仕えるキリストとなり」。イエスさまの恵みによって救われた私たちは、今度は私たち一人一人が隣人のためのキリストになるのだ、という。いわゆる、「小さなキリスト」です。当然、私たちなど等身大のイエスさまには到底なれないのですから、小さなキリストにならなれるかもしれない。

いいえ、たとえ小さくても、ほんの小さな貧しいイエスさまの姿しか写し出せないとしても、私たちだって小さなキリストにはなっていける。ならしていただける。そう期待されている。確かに、そうだと思います。キリスト者である私たち一人一人は、隣人に対しての小さなキリストになっていく。

しかし、今朝の使徒書の日課…、ローマの信徒への手紙12章1節以下を読んでいきますと、それだけでもないように思えて来ます。一人一人が小さなキリストになることも大切ならば、キリストの体である教会が一人の隣人のための小さなキリストになっていくこともまた大切なことではないか、と思えてくるからです。

San Pedro arrepentido, por El Greco- National Gallery of Norway



今朝の福音書の日課は、よく知られた「ペトロの信仰告白」の場面でした。イエスさまは弟子たちにこう尋ねられます。「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか」。
「人の子」とはイエスさまのことです。人々、民衆はイエスさまのことをどう理解し受け止めているのか、と問われるのです。そこで、弟子たちがこれまでの関わりの中で聞いてきた様々な答えを伝えます。人々は「洗礼者ヨハネ」だと言ったり「エリヤ」だと言ったり「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言ったりしています。つまり、只者ではない、ということでしょう。

大方の人々の認識は、イエスさまは特別な人だ、ということです。それに対して、今度は弟子たちに問われます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。これは、非常に重要な問いだと思います。周りの人々がどう言っているかではない。どう評価しているかではない。あなたがた自身はどう思っているのか。もっと言えば、「あなたは、わたしをどう思っているのか」と問われているからです。

「あなたは、わたしをどう思っているのか」。皆さんがイエスさまにそう問われたとしたら、どうお答えになるでしょうか。「あなたは、どう思っているのか」…。
私はこの箇所を思い巡らせる中で、ふとヨブ記を思い起こしました。このヨブ記はご存知のように、旧約聖書の中でも特異な物語だと思います。ある意味、不条理を語っている。しかし、私は、だからこそそこに信仰のリアリティーがあるように思っています。

ヨブは神さまの御心にかなった正しい人でした。ですから、その人生も祝福されていたわけです。彼はあらゆるものに恵まれ、何不自由のない生活を送っていましたが、しかし驕り高ぶることなく、常に神さまに対しても謙遜であり続けました。しかし、そんな彼を試すようにと悪魔が神さまに進言するわけです。彼が従順なのは神さまが祝福されているからであり、不幸になれば彼もまた変わるだろう、と。彼はその試みのゆえに子どもたちも財産も全てを失うことになりました。しかし、彼は不平を口にしません。有名な言葉がここで語られます。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。あっぱれです。しかし、悪魔も諦めません。再度神さまに進言します。彼の肉体が苦しめば今度こそ彼も落ちるだろう、と。そして、彼の全身はひどい皮膚病に侵されて大変な苦痛を味わうことになりました。とうとう彼も問わずにはいられなくなります。なぜならば、理由がわからないからです。なぜこんな不幸な目にあうのか。これが神さまからの裁きだとしても身に覚えがない。

どうしてか理由が知りたい。そうして、悶々とした苦悩が続いていきました。あるとき、ついに神さまからの答えが返って来ました。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは」(ヨブ記38章1節)。長い沈黙のあと、ようやく耳にしたのは、ヨブにとって大変厳しい言葉でした。

しかし、それでも、この神さまの語りかけが、答えがヨブの救いになったと思います。こう語られているからです。42章5節「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」。彼は確かに立派な信仰の持ち主でしたが、それは、まだ「出会い」にまではなっていなかった、ということではないでしょうか。

つまり、噂の域を出ていなかった、ということでしょう。しかし、今はそうではなく、この試練の只中で真剣に神さまを呼び求めずにはいられなかった。そんな彼に神さまはご自身を現してくださった。その出会いが、彼のこれまでの問いを覆い尽くし、苦悩を癒して行ったに違いない、と思います。その出会いが、真実の力になる。

ですから、イエスさまも問われるのです。「あなたがたは、どうか」と。一般論でも、教科書通りの答えでも、周りの人々の評価でもない。「あなたは、わたしをどう見ているのか」と問われる。そこで、ペトロは答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」。

これは、後のイエスさまの言葉にあるように、神さまがしてくださったことです。しかも、後のペトロの様子からも、この信仰告白を十分に理解していなかったことも明らかです。しかし、それでも、「あなたはどう思うか」との問いかけに対して、自分の口で、自分の言葉で、「私はあなたをこう信じております」と告白することは大切なことだと思うのです。

「あなたは(わたしの)メシア、生ける神の子です」と。その信仰告白が、その出会いが土台となって教会は建て上げられていく。

そんな信仰告白を、出会いを土台として建てられた教会を、今日の使徒書では、「キリストの体」と表現されていました。これは、パウロの好む教会理解です。そこで大切なのが、多様性です。コリント書にはこう書かれています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。

つまり、一つの霊によって、わたしたちはユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。……あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(第一コリント12章12節以下)。

私たちは一人で何でもできるわけではありません。出来ることもあれば、できないこともある。進んでやれることも、苦手なこともある。それで、いいのです。それが、キリストの体である教会なのです。皆手の働きをしなくても良い。足の働きをしなくても良い。
出来ることできないこと、得意なこと苦手なことがあっても良い。だから、そんな私たちが集まるからこその教会なのです。パウロもこう語っています。6節「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」。なにもかも、あれもこれも、でなくて良い。一つのことだけでも良い。小さなことでも構わない。目立たないことの方が必要なのかもしれない。

Job’s wife grieves behind Job, while his friends, Eliphaz, Bildad, and Zophar, observe his impoverished condition. Collection Russian Museum



最初にキリスト者は隣人の小さなキリストになることが期待されていると言いましたが、一人では自信が持てないかもしれません。しかし、私たちキリストの体であるならば、皆で持てるものを持ち合って、出来ることをし合って、小さなキリストになっていけるのかもしれない。
パウロはこうも語っています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。

一緒に集えないからといって教会でなくなるわけではないはずです。確かに、皆で一つのところに集まり、共に神さまの御前に出て祈ることも大切な礼拝の姿だと思いますが、ここでパウロはそれだけが礼拝ではないことを教えてくれているようにも思います。たとえ、物理的には離れていても、み言葉によって一人一人が神さまと出会い、自分の口、自分の言葉で信仰を告白し合い、神さまの御心に従って生きていく。それも、立派な礼拝になっていくのではないか。

そして、お互いにキリストの体の一部として、補い合いながら、助け合いながら、自分たちのできることを用い合いながら、小さなキリストの業を隣人に、兄弟姉妹たちに、周りの人々にしていくことも「なすべき礼拝」となっていくのではないでしょうか。

祈り
・毎日毎日、災害級の猛暑が続いています。各地で毎日のように熱中症で病院に搬送される方々が出ています。また、残念ながら命を落とされる方々も多くいらっしゃいます。どうぞ憐れんでください。特に、ご高齢の方々、幼い子どもたちをお守りくださいますように。これも、私たちがもたらした環境破壊によるのかもしれません。私たちのあくなき便利さへの追求の結果かもしれません。どうぞ一人一人が、この環境問題にも関心を持ち続け、社会全体としても共生・共存を何よりも優先させていく取り組みがなされていきますようにお導きください。

・新型コロナの第二波のピークが来たと言われていますが、まだまだ新規感染者も多く出ています。また、重傷者も徐々に増え、亡くなられる方々も増えています。どうぞ憐れんでくださり、終息へと導いてくださいますようにお願いいたします。医療関係、医療従事者の方々もお守りください。また、教会再開の良き時が与えられますように。
世界では日本よりもはるかに深刻な状況です。どうぞ憐れんでくださり、命が守られていきますように、どうぞお助けください。ワクチン、治療薬等も速やかに開発されていきますように。

・モーリシャス沖での重油流出被害も深刻です。生態系への影響も心配ですが、どうぞ世界が知恵を出し合い、適切な方法で速やかに除去されていきますように。深刻な影響が出ませんように、どうぞお守りください。

・先日の書面式の臨時総会で鐘楼の修繕が承認され、近々工事に取り掛かることになると思います。台風シーズン前にと希望していますが、この炎天下の中での作業ともなりますので、全てをお守りくださり、良き修繕がなされますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

【 テキスト・音声版 】2020年8月16日 説教「それでも諦めない」浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十一主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書15章21~28節

私たちは昨日75回目の終戦の日(ある方々は「敗戦の日」と言った方がふさわしいと言っていますが)を迎えました。今年はコロナ禍で、いつもとは違う夏を過ごしていますが、その中で広島、長崎をはじめたとした様々な平和記念式典も縮小を余儀なくされました。しかし、その記憶、また平和への思いは決して小さくしていいものではありません。

むしろ、新たな冷戦構造と言われる今日、改めてその記憶を呼び覚ましていく必要性が、歴史から学び取っていく必要性があるように感じています。そして、祈っていく必要性が…。もちろん、これまでも私たちは祈ってきました。平和を願い、祈り求めてきました。しかし、その祈りが実現されているとは思えない現実に、私たちは疲れてしまっているのかもしれません。しかし、今朝の日課は、そんな私たちに、諦めずに祈ることを教えてくれているように思います。

今日の福音書の日課は、イエスさまから信仰を褒められた女性の物語です。では、この女性の何が素晴らしかったのか。それは、ひとことで言えば「諦め」なかった、ということでしょう。イエスさまから無視されたり、冷たい態度をとられたり、辛辣な言葉をかけられても、諦めなかった。最後の最後まで食い下がった。願い続けた。祈り続けた。それが、「あなたの信仰は立派だ」と評価されたことのように思われるからです。そして、その結果、彼女の願い通りに娘は癒されました。祈りが叶えられたのです。こう聞くと、私たちは途端に不安になります。なぜならば、私たちにはこの女性のような信仰はない、と思わされるからです。

私たちは、これまで数え切れないほど祈ってきました。もちろん、その中には習慣化された祈りや、心のこもっていない祈りも多々ありますが、それでも真剣に、切なる願いを捧げた祈りもあったはずです。しかし、はっきりいって、祈りが叶えられたことはありませんでした。少なくとも、願い通りになったと思えることはなかったように思います。そして、おそらく、私たちはこう思ったはずです。私たちの信仰が至らなかったからではないか、と。祈りの真剣さが、熱心さが足りなかったからではないか、と。

つまり、自分のせいで祈りが聞かれなかったのではないか、と思ったはずです。つまり、この女性のようにはなれなかった、この女性の信仰には遠く及ばなかった、と。ですから、私たちはこういった物語を読むと、確かに素晴らしいな、と思いつつも、どこか距離感を感じるといいますか、自分とは縁遠い物語と思ってしまうようなところもあるように思うのです。

確かに、この女性の信仰は素晴らしいのかもしれません。イエスさまがお褒めになったくらいですから…。しかし、こういった可能性も否定できないのではないか、と思います。もともと彼女の信仰が素晴らしかったというよりも、そのような信仰が引き出されていったのではないか、と。私自身、振り返ってみたとき、そうとしか思えない…、つまり自分自身がもともと持っていたというよりも、不思議と与えられたといいますか、どこからともなく引き出されてきたといいますか、そうとしか思えない体験を幾度も積み重ねてきたからです。

この女性は「カナンの女」だったと記されています。つまり、ユダヤ人からすれば異邦人、異教徒です。ご存知のように、ユダヤ人は異邦人、異教徒を蔑視していました。他の神々を信奉する、律法を守ろうとしない異邦人を、神さまから呪われた者とみなしていたからです。もちろん、これは聖書の曲解から来ているわけですが、今日の偏見、人種差別と似ているところがあるのかもしれません。

ともかく、大方のユダヤ人…、信仰に熱心であればあるほどそういった態度を異邦人にしてきた訳ですが、一方の異邦人はと言えば、そんな態度に出ているユダヤ人たちを当然快くは思っていなかったはずです。この女性も、そうだったのではないでしょうか。どこかでイエスさまのことを耳にしたのでしょう。

しかし、果たしてすんなりと助けを求めに行けたかどうか…。あんなユダヤ人の助けなど借りたくもない、と思っていたのかもしれません。もちろん、娘のためにあらゆる手を尽くしてきたと思います。高名な医師、呪術師がいると聞けば、遠方であろうと訪ねにいっていたのかもしれません。それこそ、借金をしてまで娘のために、と頑張ってきたのかもしれない。しかし、一向に娘は良くならない。むしろ、悪くなる一方です。もう他に打つ手はありません。あのユダヤ人イエスを頼るほかないのかもしれない。

 

しかし…。そんな葛藤を日に日に繰り返していたのかもしれません。しかし、目の前で苦しんでいる娘の姿を見て、ついに覚悟を決めました。この娘が助かるのならば何でもしよう。恥も外聞もない。もうなりふり構ってなどいられない。娘が助かるのなら、もう怖いものなどなにもない。そう、「母は強し」。一度心が決まれば母親は子どものためならばなんでもできる。そんな強い覚悟をもってイエスさまを訪ねたのではないでしょうか。

そこで、この女性はイエスさまに嘆願します。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。スルーです。鬼スルーです。イエスさまは何もなかったかのように、歩みを進められます。しかし、この女性はめげません。そんなことは織り込み済みです。ユダヤ人を相手にするのですから、それも覚悟の上です。女性はあらんかぎりの声を張り上げて叫び続けました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。どうか、娘を助けてください」。鬼気迫る様子だったのでしょう。

とうとう鈍感な弟子たちを動かすほどでした。「そこで、弟子たちは近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので』」。一見すると鬱陶しいから追い払って欲しいと願っているように聞こえますが、ある方は、この女性の願いを叶えてやってください、という意味ではないか、とおっしゃっています。私もそう思います。弟子たちは、あまりにこの女性が不憫になって、願いを叶えてやって欲しいととりなしたのではないでしょうか。ところが、イエスさまも負けていません。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになりました。ある意味、正論です。確かに、イエスさまはまず契約の民であるイエスラエルの人々を立ち返らせるために宣教の業を行なっていたからです。おそらく、この女性はこのやりとりも聞いていたのでしょう。しかし、怯まず、イエスさまの前に回り込み、ひれ伏して願いました。「主よ、どうかお助けください」。

最初に、この箇所を「祈り」と言いましたが、祈りに置き換えてみますと実によく分かります。私たちも、同様の体験をしているからです。切羽詰まって覚悟を決めてイエスさまに助けを求めました。しかし、何も答えてはくださいません。しかし、それも、覚悟の上です。おいそれとは諦められないからです。ますます熱心に祈ります。果たして私なんかの祈りに応えてくださるのだろうか、と不安になりながらも、叶えていただきたい願いがあるからです。この女性をここまで突き動かして来たのも、そんな思いがあったからでしょう。どうしても娘を救っていただきたかった。ただ、その一心で…。

そんな彼女に対して、あろうことかイエスさまはこんなことを言われました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。一瞬、この女性は固まってしまったのではないでしょうか。犬? 小犬だって? 私の愛する娘を、自分の命と引き換えても惜しくないと思っている私の娘を小犬だって? もういい。疲れた。この人は助けてはくれないのだ。娘と一緒に死のう。そこまで考えたのかもしれない。しかし、この女性の口から出て来た言葉は不思議なものでした。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。この女性はそう言いながら、自分でも驚いていたのかもしれません。

私は、この女性のような良い祈りができたわけではありません。むしろ、噛みついた方です。私も祈りました。涙を流しながら切に祈りました。のたうち回りながら祈りました。しかし、神さまは何も応えてはくださいませんでした。だから、噛み付きました。恨みをぶつけました。悪態の限りを尽くしました。しかし、不思議と悔い改めの祈りを捧げていたのです。私の願ったことは何一つ叶いませんでしたが、神さまの存在自体を知らされたように思います。

この女性は、「主よ、ごもっともです」と応えます。愛する娘を犬呼ばわりされても、「ごもっともです」と応えます。あなたのところには遣わされていないので、あなたの希望に応えることはできないと言われても「主よ、ごもっともです」と応えるのです。ここには、もはやただ自分の願望だけを叶えたいという女性の姿は見えません。むしろ、あなたに賛成します、という相手への全幅の信頼を感じさせます。その上で、私の願いにも心を留めてください、との信頼関係からの祈りの姿が見えてくるように思うのです。

皆さんは12年間も出血の止まらなかった女性の物語をご存知でしょう。この女性も藁にもすがるような思いでイエスさまを訪ねたのでした。その衣に触れることができれば癒されるだろうと信じて。そして、その通りになった。この女性の病が癒されたということは、その信仰が働いたことは明らかです。しかし、イエスさまはそれだけでは終わらせなかった。人混みに紛れているこの女性を必死に探された。なぜならば、願いが叶っただけでは本当の出会いにはならないからです。

出会うということはそういうことです。一人の人格的な存在と向き合うということは、そういうことです。イエスさまは、私たちの願いをなんでも「はい、はい」と聞いてくれる便利屋でもロボットでもないのです。そんな関係性をイエスさまは望んではおられない。イエスさまが望まれているのは人格対人格の触れ合いだからです。そこまで、その出会いにまでイエスさまは私たちを引き上げてくださる。

私たちの祈りなど、所詮願望を叶えるためだけのものです。苦しい時の神頼みにすぎません。目的が達成されれば、もう用済みです。そんなものは、真の祈りにもならないし、真の信仰にもならない。イエスさまと、神さまと出会ってこそ、真の信仰、祈りになっていくのです。いいえ、そのように整えられていく、変えられていく、引き出されていくのです。

私たちは、何を諦めないのか。自分たちの願いを、願望を押し付けていくことを諦めないのではありません。イエスさまの前に立ち続けることを、求め続けることを諦めない、ということです。たとえ無視されているように思えても、望みが断ち切られているように感じることがあっても、そこには必ず意味が、御心があるからです。そして、自分の願いがその通りに叶うとしても、そうでないとしても、必ず私たちの祈りが聞かれた結果でもあるからです。そのことを覚えながら、神さまの御前に立ちつつ、御心を尋ねつつ、諦めずに平和を祈っていくものでもありたい。そう願わされています。

Christ and the woman of Canaan キリストとカナンの女 ピーテル・ラストマン(Pieter Lastman)アムステルダム国立美術館



《 祈り 》
・戦後75年を迎えました。あの戦争を体験した方々も少なくなり、ますます国としての記憶が薄れていっているように感じます。また、私たちの国は、なぜあのような悲劇が起こってしまったのか、しっかりとした検証を行わずに来てしまったようにも感じます。ですから、体験者の減少と共に、教訓もまた薄らいでいるように感じています。次の世代に記憶を、教訓を継承していくことにも熱心ではありませんでした。あれほどの大きな犠牲の上で学ばされたことです。

また、唯一の被爆国としての苦しい経験もあります。また、被害者としてだけでなく、加害者としての意識も忘れてはいけないと思います。私たちは、多くの命を失い苦しみましたが、同時に、多くの国々の多くの人々の命を奪い、苦しめてもきました。戦争の愚かさを、これほど味わってきた、噛み締めてきた国、国民もそうそうないのではないか、と思います。そんな私たちの国だからこそ、もっと世界の平和に貢献できるはずではないでしょうか。しかし、残念ながら、そのようには見られない現実があります。私たちは、大いに反省する必要があるのかもしれません。

これは、この国に住む私たち一人一人の問題でもあるからです。どうぞ、赦してください。そして、憐れんでください。尊い犠牲の上に学ばされたことを忘れないように。多くの叫びと涙ではじめて気付かされたことを見失わないように。どんなに高尚な理由があろうとも、武力では何も解決しないのだ、ということを見落とさないように。平和を作っていく国になっていけるように、どうぞ私たち一人一人を、国民を、国を導いていってくださいますように、切にお願いいたします。

・都内ばかりでなく、全国的に新型コロナウイルスの感染が広がっています。沖縄などでは、すでに医療機関が逼迫している状況です。医療機関の負担が増している地域も多いでしょう。どうぞ憐れんでください。医療従事者の方々をお守りくださいますように。また、感染がおさえられ、重篤化する方もでませんように。

また、この夏も災害級とも言われる暑さが続いて熱中症が心配されますが、特にご高齢の方々をこの熱中症からもお守りくださいますようにお願いいたします。新型コロナも落ち着いて、通常通り礼拝が再開されるようにもお導きくださいますようお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

Live配信:2020年8月16日 聖霊降臨後第11 主日礼拝 説教 「 それでも諦めない 」 浅野 直樹 牧師



 

こちらからご覧下さい(YouTube動画Web Site)

-週報-  2020年8月9日 聖霊降臨後第10主日礼拝



司  式   小山 茂

聖書朗読   小山 茂

説  教   小山 茂

奏  楽   小山 泉

開会の部  ( 式文A 1〜4頁 )

前  奏   ファンタジア ロ短調   J.S.バッハ

初めの歌   教会 203( 父の神よ )

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り

=====================================================
主よ。
私ちの心に、正(しく考え、行なう霊を注いでください。
あなたなしに存在することのできない私たちに、み心に従って生きる力を与えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

=====================================================

第1の 朗 読   詩編 85:9-14( 旧約 922頁 )
第2の 朗 読   ローマの信徒への手紙 10:5-15( 新約 288頁 )
ハ レ ル ヤ
福音書の朗読   マタイによる福音書 14:22-33( 新約 28頁 )

みことばのうた  教会294( 恵ふかきみ声もて )

説   教   「 疑いは、信じる第一歩 」 小山 茂 牧師

感謝の歌   【21】57( ガリラヤの風かおる丘で )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌    教会 357( 主なる神を )

後  奏   退堂曲  C.フランク

 

 

【 テキスト・音声版 】2020年8月9日 説教「疑いは、信じる第一歩」小山 茂 牧師

聖霊降臨後第10 主日 礼拝


*Rembrandt Christ in the Storm on the Lake of Galilee -1633年

詩編85:9~14 ローマ10:5~15 マタイ14:22~33

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

序  対岸へ向かう弟子たち

直前の福音書は、皆さまよくご存じの「五千人の供食」です。主イエスは五千人にパンと魚を配る前に、お独りで静かに祈りたかったのでしょう。しかし、飼い主のいない羊のような群衆をご覧になって、彼らを深く憐れまれ食事を用意されました。その彼らを解散させて、一人で祈るため山に登られました。主は弟子たちを強いて舟に乗せ、先に対岸へ向かわせました。弟子たちの意向ではなく、主は逆風の海原に敢えて彼らを送り出されました。ガリラヤ湖の北側を東から西に向かう舟は、強い逆風に悩まされ、湖の中程で留め置かれました。彼らの中にかつてこの湖の漁師もいますが、夜が明けても対岸に着けません。夜通し船を操って、既に疲れ果てていました。主は山からその様子をご覧になり、湖の上を歩いて彼らの所に来られました。

主イエスは弟子たちに近づかれ、彼らは主を幽霊と見間違え、恐ろしさから叫び声を上げました、「幽霊だ!」主は彼らに声をかけられました、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」ペトロは一刻も早く主の許に行こうと、主の声に応えました、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらへ行かせてください。」主が言われました、「来なさい。」ペトロは舟を降りて、水の上を歩き出しました。主の傍まで来て主から目をそらし、大波に心を奪われました。すると身体が沈み出し、恐ろしさから叫び声を上げました。「主よ、助けてください!」伸ばされた主のみ手は、彼をしっかり掴まえました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られました。二人が舟に乗り込むと、風はぴたりと鎮まりました。

Christ on the sea of Galilee REMBRANDT Harmensz -National Galleryof Victoria, Melbourne Felton Bequest, 1928



《2.  ペトロの大胆な体験》

皆さまはペトロという人物を、どのようにご覧になりますか。彼が情熱的で直情型な性格に、私はどこか好感を覚えます。おっちょこちょいですが、自らの気持ちを素直に表現します。今朝のペトロの言葉に、彼の二面性が見られます。

⑴ 「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」それは主イエスの言葉に信頼して、水の上を歩かせて欲しい。自分ひとりでは心もとないが、主の言葉の力を借りて従いたい。それは、彼なりの信仰を口にしたものです。

⑵ 「主よ、助けてください。」彼にはいざとなった時、助けを求められる主がおられます。ペトロの心の内には確かな信仰と、弱い信仰が同居しています。彼が水の上を歩き始めたのは自分の力ではなく、主の力によるものです。「来なさい」と言われたので、ペトロは水の上を歩けたのです。
主に信頼しながら主から目を離し、強風に恐れを感じた途端、彼の身体は沈み始めます。主イエスに委ね切る難しさを、彼の慌てふためく姿に見られます。

神学者のカール・バルトはこの聖書箇所、ペトロの体験をキリストの眼差しから語りました。かなり長い説教を簡潔に紹介します。「ペトロはあえて勇敢に、もろもろの障碍にもかかわらず、イエスのみそば近くに行こうとした。他の者たちが服従はじっと待つことと考えていたのに、ペトロは服従とは何かを大胆に行うことと考えていた。彼がぜひそうしたいと思って、イエス自身が彼に命じるように仕向けたことから、私たちには分かる。ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。それは、一切のためらいと障碍にもかかわらず成される、喜ばしい大胆な
キリスト教的冒険である。彼は危機の時に自分がいかに神を疑ったか体験した後、自分自身を疑うことを学んだ。

この自分自身の力についての不確かさは、きっと大丈夫と考える確かさよりも、岩のように堅固な信仰の基礎となる。かくして、沈むペトロの姿は、私たちに信仰の敗北は神の祝福であると語る。このような敗北を体験する人は幸いである。」バルトはペトロの信仰の冒険を、喜ばしい大胆なものと肯定的に捉えます。私たちも同様の冒険を促され、やってみなさいと勧められているようです。ペトロの疑いはいずれ信仰の基盤とされ、そんな敗北を味わう人は幸いである、つまり祝福される者であると言います。私たちのもつ知識や常識を覆す、福音の逆転がここにあります。

 

 

《3.  信じること、疑うこと》

主イエスは、溺れかかったペトロを掴んで言われます、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」彼の信仰を薄いと言われますが、不信仰とは言われません。ペトロは信仰を失ったのではなく、恐れを感じて弱められたのです。彼に与えられた信仰は弟子といえども、からし種一粒の信仰は残されています。自らの弱さを隠さずに、「主よ、助けてください」と叫び声を上げたことで分かります。ペトロは信仰のヒーローではなく、「信仰の薄い者」たちの代表として登場します。彼のもつ強さと弱さは、キリスト者がこの世を生きる姿そのものです。主は筆頭弟子のペトロでさえ、
信仰の薄い者と言われます。彼は主イエスに「あなたはメシア、生ける神の子」《16:16》と信仰を告白し、主から天の国の鍵を授けられます。彼は模範的な信仰者としてではなく、薄い信仰の持ち主として、主が救いの介入をされた弟子のひとりです。私たちも弱さと疑いをもつ、「信仰の薄い者」のひとりではないでしょうか。

この後も復活されたイエスは、弟子たちに顕われますが、彼らは信じられません。約束通りガリラヤで再会した彼らは、主の御前にひれ伏します。それでも、彼らの中にまだ疑う者もいます。

主は彼らに、大宣教命令と言われる遺言を残されます。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。」弟子に限らず私たちも、主と真剣に向き合おうとすると疑いが出る、それが人間の性なのでしょう。主をよく知りたいと求めないなら、疑うことはありません。心を頑なにして聞く耳を持たないなら、疑うことはありません。主を心から信じたいから、心の内に葛藤が生まれ、疑ってしまうのです。つまり、疑いは主と向き合おうとする時、生まれてくるものです。

主と共に歩もうとする自らのうちに確信を求め、信じたいが信じ切れない自分がいます。疑うことは信仰につきものであり、信仰は祈りの内に生まれると、逆に考えてみたらどうでしょうか。信じることは、自分に確信を持つ人に、できることではありません。他者である主に依り頼むことから、見えてくることなのです。自らの信仰に疑いもつことは、必ずしも悪いことではありません。主イエスに真剣に向き合って、父の声を聴こうとするなら、神にどこか畏れを抱くものです。私たちの知恵や常識では、理解できない領域だからです。それが信じることへの第一歩になります。私たちは時計の振り子のように、信仰と疑いの間を揺れ動きます。主イエスは私たちの信仰と疑いに、寄り添って共に歩まれる方です。からし種一粒の信仰を与えられ、それを粘り強く成長させて、きっと実を結ばせてくれます。

「からし種の譬え」を思い起こしてください。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣をつくるほどの木になる。」《13:31~32》私たちの信仰が育てられる過程で、疑うことがあっても構わないのではないでしょうか。私たちが主を求めてどれほど疑っても、主はきっと私たちの信仰を育ててくださるからです。

 

《結び  疑いは信じる第一歩》

牧師を目指す神学生は3 年次に、7 か月間の宣教研修があります。その研修で私を指導された牧師は、神の存在を疑ったことは一度もないと言われました。私はその反対でしたから、その言葉は衝撃的なものでした。最初から素直に信じられる、その信仰は本当に幸いであり、羨ましくさえ思いました。

個人的なことで恐縮ですが、私の信仰の道程は、五反田ルーテル幼稚園から始まりました。そこで福山猛先生とハルヨ夫人、ご長女の尚美先生との出会いがありました。卒園して1 年半後に武蔵野市に引っ越して、ルーテル教会から遠ざかりました。それでも福山先生ご一家と便りを交わし、近所の教会やYMCA に行きました。30 歳を過ぎてどう生きるか迷った時、福山先生からむさしの教会を勧められました。当時は賀来先生とキスラー先生がいらして、私はユテコ会で市吉伸行兄や石垣通子姉や橋本直大兄と、様々な学びと交わりに与りました。

ユテコ会は使徒言行録20 章に登場する青年=エウティコに因んだグループ名でした。パウロの話を聴いていたエウティコが居眠りをして、3 階の窓から落ちて死んでしまい、パウロが生き返らせた物語です。会の名前からは、あまり熱心な求道者のグループには見えません。しかし、ユダヤ教の会堂を訪問したり、聖書研究を自分たちでしたりしていました。私の記憶にあるのは、福山猛先生・内海季秋先生・もうお独りは青山四郎先生でしたか、3 人の牧師の前で私が聖書研究をしたことです。老練な先生方の前で稚拙な発表になり、冷や汗と赤面したことを忘れません。私は35 歳で洗礼を受けて、

50 代に入って神学校に行き、50 代末に牧師とされました。そんな私ですから、信仰について立派なことは言えません。それでも偶然や運命ではなく、主から見守られ導かれて、私の50 代からの歩みは想定外になりました。
我家では私が初めてのキリスト者であり、妻は結婚してキリスト者になりました。私たちがキリスト者にされるには、自分だけの力では難しいのです。主イエスから執り成しをされ、多くの皆さまから祈られ、御言葉を解き明かされ、教会に居場所を見つけます。ヨハネ福音書の「イエスは真のぶどうの木」のように、私たちはぶどうの木につなげられ、教会という房に実を結ばれます。受洗の折にキスラー先生からいただいた、「ぶどうの木」の版画を今でも大切にしています。



私たちの信仰の道程には、疑うことが許されています。一番弟子のペトロでさえ、主イエスから「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られました。私たちが信仰に辿りつくまで、じたばた迷うことが許されています。主イエスは太っ腹なお方で、私たちが信じる最後まで、待ってくださいます。神は独り子イエスをこの世に遣わされ、私たちをひとり残らず救おうとされます。

神の御旨を深く知って、疑う者から信じる者へ変えられ、「あなたは神の子です」と告白させてください。今私たちは新型コロナウィスルという混沌の中にあります。弟子たちと同じように、ガリラヤ湖に船を漕ぎ出して、風と波に弄ばれる不安の中にいます。進むことも戻ることもできず、溺れそうにもがいています。決して順風満帆ではなく、逆風満帆の状況にあります。私たちはむさしの教会という船に乗って、主の御言葉をかけられています。主を幽霊と間違えた弟子たちに、さらに私たち一人ひとりに、主イエスから声が届きます。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」その神顕現の言葉は、ギリシア語で〔エゴゥ エイミィ〕と語られます。英語で言えば、I amです。旧約聖書の出エジプト3:14 を想い起します。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」イスラエルの指導者モーセが、自分が派遣される訳を問うた折、神が答えられました。神ご自身が、「わたしはある、誰が何と言おうとも、あなたの神として存在する」、と力強くモーセの背中を押されました。私たちは「主よ、助けてください」と叫んで、初めの一歩を踏み出して参りましょう。今朝の使徒書のローマの信徒への手紙10:13 でパウロが主イエスの約束を語ります、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」皆様とご一緒に祈りながら、主のみ名を求めて、信じる者にされていきましょう。



《祈り》

慈しみ深い主よ。弟子たちが乗った舟は、私たちの教会です。その舟は嵐に翻弄され、進むことも戻ることも困難の中にあります。私たちはあなたに「助けてください」と叫ぶことが許されています。弟子たち同様私たちをも、「来なさい」とお招きください。私たちが挫けそうな時、主はきっと近づいて来られ、勇気を出しなさいと励まされます。

この祈りを主イエス・キリストのお名前によって、御前にお捧げいたします。アーメン


*聖書台横の朝顔の鉢

 

Live配信:2020年8月9日 聖霊降臨後第10 主日礼拝 説教 「 疑いは、信じる第一歩 」 小山 茂 牧師



こちらからご覧下さい(YouTube動画Web Site)

【 テキスト・音声 】2020年8月2日 説教「平和の道具としてください」浅野 直樹牧師

平和の主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書15章9~12節

今年も8月の第一主日を、「平和の主日」を迎えました。しかし、正直、例年とは違う印象を私自身は持っています。このコロナ騒動下で、また長梅雨といったこともあるのか、どうも8月が来たというのがいまいちピンとこない感じがしているからです。あるいは、このコロナ禍でそれどころではない、といった思いもあるのかもしれません。しかし、今日、あえて「平和の主日」としてこの日を迎え、たとえひとときであっても平和について思いを巡らすことは、このコロナ一色で見えにくくなっているもう一つの現実に私たちを引き戻してくれるのではないか。そうも思っています。

ミッドウェー沖3,000人。ガダルカナル20,000人。サイパン56,000人。テニアン・グアム26,000人。フィリピン430,000人。硫黄島18,000人。東京大空襲110,000人。沖縄190,000人。広島140,000人。長崎70,000人。もうお分かりのように、太平洋戦争での主な死者数です。もちろん、これだけではありません。第二次世界大戦では世界全体で軍民合わせて6千万人以上とも8千万人以上とも言われています。
今、日本でも徐々に深刻化していますが、新型コロナの世界での感染者数は1760万人、死者数は68万人弱ということですが、連日報道され更新されていく中で、どこか私たちはこのような数字に麻痺してしまっているのかもしれません。

しかし、考えるまでもなく、その一つ一つの数字には掛け替えのない一人の人としての存在・尊厳があり、そのたった一人の人生があるわけです。そして、その人を取り巻く幾多の人々がいる。両親、兄弟、親族がおり、妻、夫、子ども、家族がおり、友人たちがおり、恩師、同僚など様々なつながりを持つ人々がいる。また、それらの人々の人生もある。私自身、自戒を込めてそのことを見失ってはいけない、と思います。ともかく、これほど世界中の人々の心胆を寒からしめる未曾有のウイルス被害よりも圧倒的に人命を奪っていったこの災厄は、まさに人類の愚行としか思えません。

では、なぜ人類はこのような愚かなことをしてしまうのか。繰り返してしまうのか。あるいは、止められないのか。もちろん、私のような素人が明確な答えを導けるものではないでしょう。しかし、たとえ素人であったとしても、明確な答えにたどり着けないとしても、一人一人が問うことは、問い続けることは大切なことではないか、と思います。

教会に咲いたカンナの花、棕櫚の葉、バラとゼルフィニウムなどー平和を祈ってー



教会の庭に咲いたカンナ



今年も戦争に関わるいくつかの本を読ませていただきましたが、その一つに興味深いことが記されていました。なぜ日本はアメリカとの開戦に踏み切ったのか。当時、国民の誰もがアメリカとの国力の差を理解していた、と言います。まともに戦えば負けることは明らかだった。なのに、なぜ。もちろん、いろいろな理由が考えられるのですが、その一つとして、当時の中堅将校たちの心情ということが取り上げられていたのです。

当時40歳代の軍の中枢にいた将校たちが、みな少年期にあの日露戦争の勝利を経験していた。その幼心に強烈に焼き付けられた成功体験といって良いと思いますが、その体験、経験が対米戦という大きな舵取りを左右したのではないか、と言います。そのことをこのように記しています。「こうして少年時代に刻みつけられた華々しい勝利の記憶が、長じて軍人を志す大きな動機となり、軍人になってからは模範的な戦いとして常に反芻し続ける対象となったことは、疑いありません。

そして、記憶はいつしか信念になる。一対一〇もの国力差のある大国ロシアに勝ったではないか、それを思えば、どこが相手であろうときっと勝てる、という信念。日本海海戦のような大胆な短期決戦を挑めば、きっと勝てる、という信念。戦えば勝つ、という信念」。彼らばかりではない。恐らく当時の日本中を覆っていたこの成功体験。これが、振り返ってみれば禍となったことが分かる。現代でも良くこの「成功体験」といったことが言われますが、案外考えものなのかもしれません。

少なくとも、ことこの戦争ということにおいては、猛烈な失敗体験があったからこそ70年以上平和を保てていると言えるのかもしれないからです。どんな記憶を持ち、またそれをどのように伝えていけるのか。どんな記憶を信念とすべきなのか。戦後70年が過ぎ、急速に戦争の記憶が薄れているといわれる現代において、このことはもう一度問われなければならないのかもしれません。

あるいは、現代はかつてのような帝国主義的な、つまり、ある国を武力で襲い植民地化してしまうような戦争は起こらないだろう、とも言われています。コストが割に合わないからです。確かに、私自身もそう思います。では、戦争の危険は去ったのか、といえば、もちろんそうではないでしょう。「安全保障上」というのがキーになるからです。我が国の首相も度々「国民の生命と財産を守る責任がある」と言ったりしますが、それが国の責務だと考えられるからです。

かつて日本は、朝鮮半島や中国東北部(満州)に進出していきましたが、もちろん、前述の帝国主義的傾向は否めませんが、もう一つの大切な要因は当時の仮想敵国であったロシア・ソ連から日本を守るための安全保障上の必要性からでした。また、先ほどは、アメリカとの無謀な戦いに及んだ一つの要因についてお話しましたが、このアメリカとの戦争も安全保障上必要だと考えられたからです。

現代においてもそうでしょう。私たち近隣諸国からすれば大変迷惑な話ですが、北朝鮮がなぜ核開発、ミサイル開発に邁進するのか、といえば、そうでもしなければ国は守れないとの安全保障上の必要性からです。中国が南沙諸島に進出したり、また東シナ海でも勢力を拡大しようとするのも、安全保障上の問題です。あるいは、ますます米中関係が悪化していく中、大統領選を前に、一発逆転のためにトランプ大統領が戦争をしかけるのではないか、といった噂も飛び込んで来ますが、もしそうだとしても、それは安全保障上の問題ということになるでしょう。

この日本でも、安全保障上の問題から敵基地攻撃論(先制攻撃論)が再燃しているとも言われています。

このように、それぞれの国に安全保障の理屈がある。どの国も、「自国民の生命と財産を守るため」とうたいつつ武力行使に出る危険性がある訳です。なぜか。恐れがあるからです。恐れが不安を掻き立てる。そして、不信感を募らせていくことになる。それが、限界点にくると、やられる前にやってしまえ。自分の身を守るためだ、となる。それは何も、国対国の安全保障といったことに限らないでしょう。人種差別もそうかもしれない。

どこかで恐れている。自分たちの優位性が、権利が、権益が脅かされていると感じる。だから、暴力に訴えてでも守ろう、となる。その恐れ、不安、不信があらゆる差別、対立の火種となって、私たちの心を覆い尽くしていってしまうのかもしれません。

以前学んだところですが、聖書にはこんな言葉があります。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。……体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐るな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。

だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(マタイ10:26~31)。人を恐れるのではなく、神さまを恐れなさい、とイエスさまはおっしゃいます。それも、闇雲に恐れるのではありません。神さまを畏れ敬うのです。神さまに出来ないことはない。神さまは必ず私たちを救ってくださるはずだ。

たとえ、それが現実の世界では手に取ることができないとしても、神さまの愛は私たちから決して離れることなく、永遠の命、世界へと導いてくださるはずだ、と信じ、畏れ敬うことです。この神さまを恐れることこそが、私たちの様々な恐れ、不安、不信から解き放ってくれるはずです。愛は恐れに打ち勝つからです。そういう意味でも、私たちの信仰生活とは、何よりもこの恐れから救われていく、ということなのでしょう。

ですから、私たちキリスト者としての平和への貢献は、第一に宣教だと思うのです。神さまから来る平和を証ししていくこと。恐れに打ち勝つ道を指し示していくこと。そうではないでしょうか。

「小鳥への説教」(画:ジョット、1305年頃)



また、今朝の旧約聖書の言葉にも思いを向けていきたいと思います。こうあります。「主は多くの民の争いを裁きはるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」。ここで言われていることは、単に武器を捨てるということではありません。武力を放棄するのではなくて、鋤や鎌に変える、ということです。つまり、生活の糧に変えていく、と言っても良いのではないでしょうか。

世界中を襲った新型コロナの猛威の前に、想像以上に世界経済は脆弱だったかもしれない、との指摘があります。なぜなら、感染症の拡大防止として最も有効なロックダウン(都市封鎖)が経済的に数ヶ月ももたなかったからです。

世界最大の軍事大国であるアメリカの国防費はダントツの約70兆円。中国は約20兆円。ロシアは約7兆円。日本は約5兆円。世界全体では約200兆円が年間予算として立てられています。これらの剣や槍が鋤や鎌に変えられたとしたら。それでも、焼け石に水だといった意見もあります。非現実的な理想主義だと言われるかもしれません。もちろん、分かっています。

それでも、私たちは今、コロナ後の世界の扉の前に立たされている。このコロナによって、今までと同じではいられない、と言われます。では、新しい世界をどう作っていくのか。少なくとも、民主主義に生きる私たちにとっては、国民一人一人がその新しい世界の創造に立ち会っていけるはずです。いいえ、しっかりと意志を持って立ち会っていかなければならないでしょう。

聖痕を受けるアッシジの聖フランチェスコ(ジョット) Giotto – Sankt Franciskus stigmatisering*注1



恐れと不安と不信の中で、今まで通りの剣と槍を大量に造り続けていく世界を維持、あるいは発展させていくのか。そうではなくて、少しでもそれらを鋤や鎌に変えていって、格差、貧困、様々な不条理に生きる人々と生活の糧を分かち合っていく、そんな世界を志向していくのか。私たち一人一人にかかっている。また、そういった思いが反映される世界であって欲しいと思う。

私たちはキリスト者です。キリスト者として平和にどう貢献していけるのか。まずは祈ること。神さまの御名が正しくあがめられ、御国がくるように、御心が地上でも行われるように、世界中の人々に必要な糧が与えられ、互いに赦しあえるように祈ること。そして、恐れ、不安に打ち勝つ平和の主の福音を一人でも多くの人々に届けていくこと。そして、キリスト者である一市民として、この世の業、民主主義にもしっかりと参画していくこと。かつての経験を忘れずに、引き継いで、新たな世代にバトンを渡しながら。そうではないでしょうか。



祈 り

・本日は「平和の主日」の礼拝を持つことができましたことを心より感謝いたします。私たちは決して忘れてはならないと思っています。侵略戦争によって、多くの国の人々を苦しめたことを。無謀な戦争に突き進んで、多大な犠牲を払ったことを。また、その間、政府が国民に嘘の情報を流し続けてきたことを。首脳部のせいなのか、多くの戦死者が餓死によって命を落としていったことを。一度起こしてしまった戦争は、簡単には終わらせられなかったことを。私たちはそのあまりに大きな犠牲のゆえに、ようやく気づきました。

もう二度と戦争を起こしてはいけないのだと。戦争などこりごりだと。しかし、残念ながら、今だに戦争はなくなっていません。戦争の不安も消え去ってはいません。私たちは、どうすれば良いでしょうか。まずは、この記憶をなくさないことではないでしょうか。

しっかりと記憶をつなげていくことではないでしょうか。そして、あなたから平和への道を学び続けることではないでしょうか。どうぞ、二度と悲劇を繰り返すことのないように、今ある争いも速やかに終息していきますように、そのことを祈っていくことができるようにもどうぞ導いてください。

・都内ばかりでなく、全国的に新型コロナウイルスの感染が広がっています。このまま何の対策もとられないと、8月には目を覆いたくなるような現実がやってくるとさえおっしゃる専門家の方もおられます。確かに、経済との両立という非常に難しい舵取りが求められていますが、どうぞ良い知恵を与えてくださり、感染の広がりを、特に重篤化しやすい方々への広がりを抑えていくことができますようにお導きください。

まだ病床数に余裕がある、といった意見も出ていますが、医療の現場ではすでに悲鳴が上がっているようです。志高く医療の現場で頑張ってくださっていますが、それでも限界があるでしょう。これ以上の急激な広がりは、医療の現場がもたなくなるのではないか、と心配になります。どうぞ、経済的なことも含めて適切な援助の手が与えられて、医療の現場が守られていきますように、どうぞお助けください。

・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題を向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、それぞれの祈りに応えてくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

*注1.キリストが受難の時に受けた両手、両足、脇腹の傷(聖痕)を聖フランチェスコに授けたとの聖譚がある。

-週報- 2020年8月2日 平和の主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 中山 康子

前  奏 キリエ A. Raison

初めの歌  90( ここもかみの )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り

全能の神さま。

 あなたはすべての真理と平和の源です。すべての人の心に平和と愛の灯火を点し、世界の国々の指導者をあなたの英知で導いてください。

 あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

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第1 の朗読 ミカ書 4:1-5( 旧約 1452頁 )

第2 の朗読  エフェソの信徒への手紙 2:13-18( 新約 354頁 )

福音書の朗読 ヨハネによる福音書 15:9-12( 新約 198頁 )

みことばのうた 228( ガリラヤの風 )

説教  「 平和の道具としてください 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 【21】371 このこどもたちが )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  【21】562( 諸民族、諸国、世界の主よ )

後  奏 後奏曲 G. グリーン

 

Live配信:2020年8月2日 平和の主日礼拝 説教 「 平和の道具としてください 」 浅野 直樹 牧師



こちらからご覧下さい(YouTube動画Web Site)

【テキスト・音声版】2020年7月26日 説教「愛は勝つ」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第八主日礼拝説教



YouTubeでお聞きになられる方は、こちらからお願いいたします。

聖書箇所:マタイによる福音書13章31~33、44~52節

今朝の説教題は「愛は勝つ」とさせていただいています。このフレーズを聞かれると、私の前後の世代の方々は、1990年代に大ヒットしたKANの『愛は勝つ』という曲を思い浮かべられるのではないでしょうか。それもあって、この説教題にした訳ですが、それは、この曲の「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」という歌詞が今日の聖書の箇所となんだか重なるように私には感じられたからです。「必ず最後に愛は勝つ」。先週は、「正義は必ず成る」、「正しきことは必ず報われる」ということをお話ししたと思います。


先ほどの『愛は勝つ』の歌詞をもじれば「信じることさ 必ず最後に正義は成る(勝つ)」ということになるでしょうか。それが、当時の人々にとっての何よりの慰めの言葉、励ましの言葉となった訳です。しかし、正直に言いまして、それが…、正義は必ず成る、果たされる、報われるということが慰め・励ましになると言われてもピンとこいようにも思うのです。

なぜなら、私たちはそれほどこの「正義」ということに飢え渇きを感じてはいないからです。確かに、先週もお話ししましたように、森友問題に端を発した公文書改ざん問題や様々な社会問題、あるいは個人的にも理不尽な目にあうと、「正しきことが行われていない」と義憤を覚えたりしますが、しかし、全体的には一応法治国家としての体が保たれていると大らかな信頼を寄せているからです。それは幸いなことですが、もちろん、そうではない国、地域もある訳です。

ご承知のように、今香港は大変なことになっています。中国政府が強引に「国家安全
法」を成立、施行させたからです。これで、これまでの言論の自由が大きく制限されるようになりました。なぜなら、政府の批判をするだけで捕まってしまうかもしれないからです。香港ではこれまでも度々抗議デモなどが行われてきました。その一部は過激化し、外から見ている私たちからは「ちょっとやりすぎじゃない」と思ったほどです。

しかし、彼らとしてはこうなることを恐れていたからです。私たちのように他人事ではいられなかったからです。その恐れていたことが現実となってしまった。多くの若者が民主化運動から手を引いていきました。これくらいのことで手を引くのかとも思いましたが、その一人が語った「これは命に関わることなのだ」が胸に重くのしかかりました。

正義…、法による保護と法によって保障された自由、それらがどれほど大きなものなのかを私たちはそれほど真剣に受け取っていないのかもしれません。それらが極端に制限された世界は、おそらく地獄のような世界になるでしょう。しかし、今の私たちにとっては、それらはあまりにも当たり前のものになっていて、その恩恵に気づいていないのです。大抵の場合そうですが、この「当たり前」のものは失ってみてはじめて掛け替えのないものであったことに気づかされるものです。

ともかく、日本も気をつけないと直ぐにでもそのようになってしまう、といったことを言いたいのではなくて、この「当たり前」がいかに大切であるか、ということです。
今日の福音書の日課も「天の国」の譬え話が取り上げられていました。このマタイは
「神」という言葉はあまり使いたくなかったようで(ユダヤ人ですから恐れ多いと思ったのでしょう)「神」という言葉の代わりに「天」という言葉を使っている訳ですが、「神の国」と同じ意味です。そして、この「神の国」というのは、なにか特定の場所を指すのではなくて、神さまのご支配を意味するものです。

神さまの思いが、御業が隅々にまで行き渡っている世界。それが、「神の国」。ですから、先ほどから言っています「正義」も、この「神の国」の重要な一面になる訳です。神さまは義なる方だからです。ですから、正義のない、行われていない世界に生きていた者たちにとっては、正義に飢え渇いていた人々にとっては、憧れの世界に思えたでしょう。

ですから、慰め、励ましになる。しかし、この「神の国」を考える上でもっと大切なことは、「愛」ということです。神さまの愛による支配。それが「神の国」。なぜならば、私たちが信じる神さまは、義なる方であると同時に、愛なる方でもあるからです。そんな「神の国」、「天の国」の様子といいますか、特徴を今朝の譬え話は私たちに語ってくれています。

最初の二つの譬え話は、共通するイメージを私たちに与えてくれます。それは、大きく成長する、ということです。はじめはごくごく小さいのに、取るに足らないように思えるのに、それが誰もが目を見張るように大きく成長する。そんなイメージです。具体的にはクリスチャンの広がりを指すのかもしれません。あるいは教会の広がりと言っても良いのかもしれない…。

最初はイエスさま一人からはじまった運動でした。そういう意味では一粒の「からし
種」「パン種」だったと言えるのかもしれません。それが12人に広がり、数百人、数千人に広がり、迫害下の中でしたがローマ帝国中に広がり、ヨーロッパに広がり、私たちの教会文化とは随分と異なりますが、あるグループはインド、中央アジア、中国へと広がり、アフリカに広がったものもあり、そして、新世界であった南北アメリカ大陸に広がり、この日本にも伝えられ、他の地域から比較すると大きな広がりとは言えないかもしれませんが、それでも着実に広がっていきました。

そして、2014年時点では全世界に23億人のクリスチャンがおり、人口比33%と言われています。そういう意味でも、確かにこの譬え話のように「天の国(神の国)」は大きく成長した、と言えるのかもしれません。

また、次の二つの譬え話は、この「天の国(神の国)」の価値に目を止めさせてくれます。どちらも、是が非でも手に入れたい、との思いが伝わってきます。どんな犠牲を払ってでも、大切なものと引き換えてでも惜(お)しくない。どうしても手に入れたい。それほどの価値がこの「天の国(神の国)」にはあるのだ、そんな思いです。
神の国、神さまのご支配、愛の支配は、そういうものです。

あらゆるものを手放してでも手に入れたくなる、そういうものです。それほどの魅力がある。だからこそ、たった一粒の取るに足らないと思えたちっぽけなからし種が、あらゆる気象条件、悪天候、迫害にも耐え、多くの実りを結んだ、とも言えるでしょう。しかし、どうでしょうか。

本当に私たちの目に、それほど輝いて見えているでしょうか。欲しくて欲しくてたまらない宝物のように、神の国を感じているでしょうか。では、なぜ、そうはならないのでしょうか。それは、神さまのご支配が見えないからです。とてもそうは思えない世界の中に私たちは生きているからです。神さまの愛が見えていないからです。むしろ、なぜこんなことが、と愛を疑いたくなるようなことばかりだからです。それも、正直な私たちの実感でしょう。

私は神さまの愛が分からず、ずっと悩んできました。神さまに愛されているといった実感がどうしても持てなかったのです。なぜなら、私は自分自身にばかり目を向けていて、見るべきものを見ていなかったからです。いいえ、もっと正確に言えば、目には写っていたのでしょう。視界にも入っていた。決して知らなかった訳ではない。

しかし、そちらに焦点を合わせることをしていなかった。自分の内面ばかりに、感覚ばかりに焦点が向かっていたからです。私たちの視界は、案外狭いものです。見えてはいても、焦点が合っていなければぼやけてしまってなかなか実体が掴めません。特に、集中していればいるほど、そういった傾向に陥りやすくなります。欲すれば欲するほど、求めれば求めるほど、視界が狭くなって、向けるべき焦点からズレてしまっていることが多いのです。

感じるのではないのです。見るのです。イエスさまを見るのです。イエス・キリストというお方に焦点を合わせるのです。そこからしか見えてこない真実が、伝わってこない感覚が必ずあるはずです。



今朝の使徒書の日課であったローマの信徒への手紙8章31節以下は私にとっては非常に大切な、また大好きな箇所です。そして、決して手放したくない言葉です。しかし、最初っからそうだった訳ではありませんでした。正直、最初はピンとこなかった。自分にばかり焦点を合わせようとしていた私にとっては、なんだか実感の湧かない素通りするような言葉でしかありませんでした。

しかし、少しづつイエスさまに焦点を合わせることができるようになっていった。それが、信仰生活だとも思いますが、そのことによって、この言葉の景色が私にとっては掛け替えのないものになっていったのです。31節でパウロはこう語ります。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。なんという言葉でしょうか。先ほど、私たちにとって神の国とは、すべてのものを捨ててでも手に入れたい程に魅力的なものだ、と言いましたが、ここでは、神さまはこの私たちを手に入れるために、愛するためにご自分の子を捨てても惜しくないと思えるほどに魅力的だったと言われるのです。

この私たちのどこに、一体そんな魅力があるのでしょうか。罪にまみれた私たち。自分でも嫌になってしまうような私たち。ボロが出て大切な人たちからも見捨てられてしまうのではないかとビクビクするような私たち。結局、愛される資格も価値もないのではないかと自暴自棄になってしまうような私たち。自分に焦点を合わせれば、そんなことしか見えてきませんが、しかし、そんな私たちを我が子さえも惜しまずに与えるほどに、捨ててしまえるほどに愛しているよ、と言ってくださっている。

この私が、どんな思いで、どんな決意で、お前のことを愛しているか分かるだろ、と語りかけてくださっている。私の目には、どうしようもなく愛おしく見えているのだ、と囁いていてくださっている。それが、イエスさまに焦点を合わせた時に見えてくる世界なのです。本当に信じられないくらいに、私たちは愛されている。

だから、パウロもこう語ります。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と。そのように、イエスさまによって示された神さまの愛が、私たちの心に注がれている。

何十億という人々に注がれている。もちろん、あなたの心にも注がれている。
見えないから、感じないから、そうは思えないから、無いのではありません。焦点が
合っていないから見つからないのです。イエスさまにしっかりと焦点が合えば、神の国が、神さまの愛の支配がすでに始まっているし、それが広がっていることに、気づけるはずです。もちろん、私たち一人一人の内にも、です。

その心の眼差しをもって、この厳しい時代にあっても、祈りつつ、しっかりとした足取りで歩んでいきたい。そう思います。

「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」。

ジョン・シングルトン・コプリー「キリストの昇天」「The Ascension」(1775)John Singleton Copley



《祈り》
・都内ばかりでなく、全国的に新型コロナウイルスの感染が広がっています。このまま何の対策もとられないと、8月には目を覆いたくなるような現実がやってくるとさえおっしゃる専門家の方もおられます。確かに、経済との両立という非常に難しい舵取りが求められていますが、どうぞ良い知恵を与えてくださり、感染の広がりを、特に重篤化しやすい方々への広がりを抑えていくことができますようにお導きください。まだ病床数に余裕がある、といった意見も出ていますが、医療の現場ではすでに悲鳴が上がっているようです。

志高く医療の現場で頑張ってくださっていますが、それでも限界があるでしょう。これ以上の急激な広がりは、医療の現場がもたなくなるのではないか、と心配になります。どうぞ、経済的なことも含めて適切な援助の手が与えられて、医療の現場が守られていきますように、どうぞお助けください。

・世界でも一向におさまる兆しが見えません。一度はおさまったかのように見えた国々でもぶりかえしているようです。どうぞ憐れんでください。多くの命が奪われていますが、少しでも良き対策がとられて、命が守られていきますようにお助けください。

・香港では今、多くの市民たちが非常に厳しい立場に立たされています。国外へ脱出する人々も後を絶たないようです。どうぞ、憐れんでくださいまして、基本的な人権が守られすように、不当な逮捕などが横行しませんようにお助けください。

・豪雨被害に遭われた方々の生活はまだまだ厳しいようです。復旧復興にも時間がかかるでしょう。雨も心配ですし、また暑さも気がかりです。新型コロナのこともあります。本当に大変な毎日でしょうし、今後のことも心配でならないでしょうが、どうぞ速やかに様々な対策がとられて、少しでも早く平穏な生活に戻ることがおできになるように、どうぞお助けください。

・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題を向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、それぞれの祈りに応えてくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

-週報- 2020年7月26日 聖霊降臨後第8主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 萩森 英明

前  奏 キリエ F. Couperin

初めの歌  7( 主のみいつとみさかえとを )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り

栄光の父、愛の神さま。あなたはまことの平和の源です。私たちを福音の証し人、平和の働き人として送り出し、救いの約束に仕える喜びで満たしてください。

み子、主イエス・キリストによって祈ります。

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第1 の朗読 列王記上3:5-12( 旧約 531頁)

第2 の朗読  ローマの信徒への手紙 8:26-39( 新約 284頁)

福音書の朗読 マタイによる福音書 13:31-33,44-52( 新約 25頁 )

みことばのうた 教会320 ( しあわせなことよ )

説教  「 愛は勝つ 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会352( 主イェスはわが同胞 )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  教会346( はかり知られぬ )

後  奏 いと高きにみ神にさかえあれ J. Pachelbel