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Live配信:本日11月23日 (月)13時【 2020むさしの教会オンラインフェスタ 】

日11月13日(月)13:00〜
『むさしの教会オンライン・フェスタ♬』LIVE配信開始!

★プログラム★
(1グループ約10分)
1.カントリーラインダンスサークル(リーダー:青村ゆかり)
2.小島亮一&丸山令子 ヴァイオリン&ピアノDuo
3.諸井誠子 フラ(ダンス)
4.詩吟サークル(リーダー:加藤逸雄)
5.賀来周一牧師 お話のプレゼント
6.姫野 徹&槇 智子  オーボエDuo
7.中山義恵 ミュージックトーク

-バザー&フェスタ委員会より-

↓下記よりご覧ください。お楽しみに!♫


こちらからご覧下さい

Live配信:2020年11月15日 聖霊降臨後第24主日礼拝 説教 「動機はなあに? 」 浅野 直樹 牧師



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【 テキスト・音声版】2020年11月15日 説教「 動機はなあに? 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第24主日礼拝説教
聖書箇所:マタイによる福音書25章14~30節


先週は終末…、つまり世界の終わりについてお話をしました。それは、年の終わりに差
し掛かり、聖書のテキストが終末に関するものが取り上げられるようになったからです。
今日のよく知られた譬え話もそうです。

このマタイ福音書の24章と25章には終末に関する記事が集められていますし、この譬え話の中にも主人の不在と帰還について語られているからです。つまり、イエス・キリストの再臨ということです。先週もお話ししましたように、この終末という出来事とキリストの再臨とはセットで考えるべきものです。この譬え話も、その視点で考えなければなりません。

確かにそうなのですが、世界の終わりと言われても、正直、私たちはピンとこないのかもしれません。もっとも、環境破壊や核兵器などの現実を見ると、いずれは…、といった思いが浮かばない訳ではありませんが…。

しかし、これは幸いなことでもあるのでしょうが、今にも、といった危機感はないでしょう。むしろ、私たちにとっての身近な終末・終わりについての関心事と言えば「死」の問題、人生の終わり、ということではないでしょうか。いずれにしましても、キリスト教の歴史観では…、これは何も仰々しくキリスト教の歴史観などと言わなくとも私たちの実感でもあると思いますが、昨日よりは今日、今日よりは明日と終わりに近づいているのは、終わりへと向かっているのは確かなことだと思うのです。

そこで、先週は「備え」が大切である、ということをお話ししたと思います。いざという時に対しての備え。それがあるかないかで結果が全然違ってきてしまうからです。

しかし、それは、生き方を問うことにもなると思います。どんな生き方をしてきたか。それが、結局は備えてきたかどうか、ということにも繋がっていくからです。そして、今日のこの譬え話は、そんな「生き方」ということにポイントが置かれているようにも思います。

「生き方」への問いと言えば、充実した生き方をしてきたか、一所懸命に生きてきたか、
後悔のない生き方をしてきたか、などといった思いがすぐにでも浮かんできますが、聖書
が問う「生き方」とは、果たしてそういったものなのでしょうか。
今日の譬え話の中には、3人の人が登場してきます。いずれも、ある同一の主人に仕える僕です。「僕」と聞きますと、下僕などあまり良いイメージが持てないかもしれませんが、ここで預けられた金額をみてみますと、かなり信頼されていた、重用されていた僕ではなかったか、と思います。一番少ない金額を預かった僕でも1タラントン、つまり6000日分の賃金に相当する額ということになるからです。

単純に一日の労賃を1万円とすると…、いくらくらいになるかはお分かりでしょう。そんな金額を預ける訳ですから、いくら気前の良い主人であったとしても、いい加減な人間には預けられなかったことでしょう。ということは、金額の差はあったとしても、この3人は主人に一目置かれていた存在だったのではないか、と想像できます。

ここで聖書は率直に個人差が生まれることを語ります。皆が同じ力量な訳ではない。これは、私たちがよくよく感じるところです。場合によってはその差が嫉妬にもなる。しかし、考えて見てください。確かに、5タラントンの人に比べて1タラントンの人は5分の1もの開きがあります。しかし、そもそもこれらの人々は「僕」なのです。預かったお金は決して自分のものではない。

このタラントンといった単位はタレントの語源ともなったと言われますが、そもそも自分の能力ということではなかったはずです。このことを考える時、あのヨブの言葉を思い出します。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」。全てが神さまから授かったもの。しかも、神さまは私たちを信頼してくださり、分不相応なくらいに手厚く賜物を与えてくださっている。

ならば、多い少ないと心騒がせるよりも、感謝しつつそれをどのように用いるかが大切になってくることが分かるはずです。もちろん、これらの人々は私たちを代表しています。それ以外の姿…、例えば全く「0」の人は描かれていないことにも心を留める必要があるでしょう。いずれにしても必ず賜物は与えられているのです。

Rembrandt -The Parable of the Talents- c. 1652 173 x 218 mm Reed-pen and bistre Louvre, Paris



ともかく、ここで注目したいのが、稼いだ額が違っているにも関わらず、5タラントン、2タラントン預かり利益を上げた二人は、全く同じ言葉で労われていることです。また、1タラントン預けられた人も、利益をあげなかったというよりも、その語った言葉が問題視されていました。つまり、儲けがあるかないか、多いか少ないかといった成果がここでの評価の対象ではないということです。そうではなくて、その姿勢、動機が問われているように思うのです。

1タラントン預かった人は、なぜ土に埋めたのか。「恐ろしかったからだ」といいます。もし事業に失敗して元手が減ってしまったり、あるいは思うような利益が上げられなければ叱責どろこでは済まないのではないか、と恐れた。だから、一番「安全」と思える方法をとった、というのです。私自身、彼の気持ちがよく分かります。いいえ、私自身の生き方はまさにそうだった、と言えるでしょう。

それが、私自身の神さまとの、イエスさまとの向き合い方だったからです。罪を恐れる。過ちを恐れる。失敗を恐れる。叱責を恐れる。罰を恐れる。私にとっての神さまとは、大変厳しい方だった。だから、なんとか叱られないように、安全パイな生き方を志向してきた。しかし、それは、「怠け者の悪い僕だ」と言われてしまうのです。

では、5タラントン、1タラントン預けられた人はどうだったのか。おそらく、彼らは恐れていなかったのでしょう。それは、自分に自信があったからではないと思います。自分たちの事業は必ず成功するといった自負ではなかったと思います。あのご主人様ならば、きっと分かってくださるに違いない。ご主人様のことを思ってのことであれば、たとえ失敗したとしても赦してくださるに違いない。

それよりも、私はご主人様の喜ぶ顔が見たいのだ。ご主人様に喜んでいただきたいのだ。そんな思いが、温かな雰囲気・関係性が伝わってくるように思う。だからこそ、そんな僕たちの気持ちを喜ばれたからこそ、この主人はこんな言葉で僕たちの労をねぎらわれたのではないでしょうか。「忠実な良い僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」。ともに喜びを分かち合うことができる、そんな僕たちの姿に、関係性に、利益なんかよりもこの主人は何よりも喜びを感じていたのではないか。そう思うのです。

先週、終末への私たちの備えとは、終わりの時に裁き主なる神さまと出会うことになる
のか、それとも救い主としての神さまと出会うことになるのか、そのための備えだ、といったことをお話ししたと思います。今日の譬え話の生き方も、まさにそうだと思う。どんな神さまと出会って生きていくのか。裁き主なる神さまなのか、それとも救い主なる神さまなのか。同じ主人、同じ神さまを見ているはずなのに、この僕たちは全く違った認識の中に生きることになってしまった。それは、私たちに対する問いでもあると思います。

福音に生きるとは、救い主なる神さまと、イエスさまと共に生きるということです。恐
れず、信頼して、生きるということです。神さまが喜んでくださることを、姿を追い求め
ながら。そうではないでしょうか。

Andrea Mantegna (1431–1506) Collection:Palazzo Ducale di Mantova



祈り
・今日は子ども祝福式の礼拝でしたが、このコロナの影響で残念ながら子どもたちを招く
ことができませんでした。しかし、改めて、この私たちむさしの教会においても多くの子
どもたちが与えられていることを覚えて感謝いたします。子どもたちは教会においても宝
です。どうぞ、教会としてもこの子どもたちの健やかなる成長を祈っていくことができま
すようにお導きください。また、幼き頃にあなたと、イエスさまと出会うことができるよ
うにと願っています。どぞ、この私たちの祈り、思いも聞き届けてください。

子どもたちがあなたと共に生きる生涯を送ることができますように。また、それぞれの保護者の方々をどうぞお守りくださり、力づけてください。このコロナ禍にあって、子育てもの苦労もより多くなっていることでしょう。どうぞ、精神がすり減ってしまうことのないように、なおも愛情深く育てていくことができますように、常に保護者の皆さんをお支えくださいますようお願いいたします。

日本においても新型コロナの流行が急速に進み、第三波とも言われています。地域によっ
ては、すでに医療機関が逼迫しているとも聞きます。どうぞ、お助けください。以前から
冬場は気温の低下は湿度の低下などによって流行しやすいといった指摘もされてきました
が、まさにそのような兆しが見ているように思います。

また、長期間にわたるコロナとの対応で、気持ちの緩みも指摘されています。多くの場合は軽症や無症状で済むのかもしれませんが、しかし、重篤化しやすい方々が確かにおられ、危険な病気に違いありませんので、自らのことばかりでなく、人にうつさない心がけを、なお一層胸に刻んでいくことができますように、どうぞお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

【 テキスト・音声】2020年11月1日 説教「 私たちは、神の子です 」小山 茂 牧師

全聖徒主日礼拝



黙示7:9~17 ヨハネ一3:1~3 マタイ5:1~12

信仰の先達

今日は全聖徒の日です。私たちは信仰の先達の皆さまを思い起こして、天と地で共に礼拝に与ります。例年ですと春と秋に墓前礼拝を行いますが、今年はコロナ禍のため、残念ながら両方とも中止になりました。毎年大勢の方々が東教区の墓地に集まり、天に召された方々を偲んで祈ってまいりました。私は5月に小平霊園の教区墓地に、一人墓参りに行ってまいりました。どなたかが献げてくださった黄色い花が、新緑に包まれてひときわ映えていました。墓誌にあるお名前一つひとつに目を通し、存じ上げる方々を思い起こしました。お世話になった恩師、信仰生活を共にした知人や友人、懐かしいお名前を幾つも見つけました。墓前礼拝や納骨式など何度も来ていたのに、全てのお名前を初めて読みました。日本福音ルーテル教会が北海道から九州まで、130余りの礼拝所が立てられ、先達の信仰が私たちに引き継がれています。

天上の世界に招かれた先達の方々は、どんな暮らしをされていらっしゃるのでしょう。今日の三つの日課は私たちに、天の国のイメージを与えてくれます。天の国はこのような所であると、主イエスは福音書の譬えから何度も話されました。残念ながら天上の世界は、私たち地上に生きる者に隠されています。いつか天の国に招かれた時、その世界はこんなだったと、知ることができると思っています。

山上の垂訓 ヤン・ブリューゲル (父) -The Sermon on the Mount, oil on copper painting by Jan Brueghel the Elder, 1598, Getty Center



山上の説教

今日の福音の日課は、皆さまよくご存じの山上の説教です。主イエスは弟子たちに語られます。「心の貧しい人々は、幸いである。」初めてこの御言葉を聞いた時、私にはどこか違和感がありました。ギリシア語から直訳するなら、「霊において貧しい人々は幸いである」となります。礼拝における聖書朗読は新共同訳が使われますが、和訳には様々なものがあります。例えばフランシスコ会訳は、「ああ幸いだ、神に寄りすがる貧しい人たち」岩波訳は「幸いだ、心の貧しい者たち/霊において乞食である者たち」とあります。塚本虎二訳は「ああ幸いだ、神によりすがる貧しい者たち。」それぞれニュアンスが違いますが、この箇所では塚本訳が一番しっくりする気がします。貧しさのゆえに金銭や財産に頼ることができず、神にだけ望みを抱くことができ、だからこそ幸いだと言われます。なぜなら、貧しい人々は神に心から頼り、神との確かな関係が結ばれ、神の子とされるからです。それこそが財貨に頼るこの世の知恵や常識を凌駕する、逆転の福音となります。

ところで「世界で一番貧しい大統領」として注目を集めた、南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領が日本に来ました。その折インタビューを受け、「世界で一番貧しいという称号をどう思いますか」、と尋ねられました。ムヒカ氏は答えました、「みんな誤解しているね。私が思う『貧しい人』とは、限りない欲を持ち、いくらあっても満足しない人のことだ。でも私は少しのモノで満足して生きている。質素なだけで、貧しくはない。」まさに心の貧しい者の幸いを、地で生きる姿勢がそこにあります。

主イエスから幸いの呼びかけに、ムヒカ氏のように応答できるといいですね。貧しさとか富とかに拘らず、あなたの心はどこにあるのか、神と向き合っているのか問われています。財貨に信頼をおかず、それに心を委ねず、富を偶像としない、それは容易いことではありません。この世は私たちを貪欲へと誘い、心の置き所に揺さ振りをかけてきます。ルターはこの箇所から語りました。心はお金や富に縛り付けられていないか、富んでいても霊的に貧しい人もいますし、逆に貧しくとも霊的に豊かな人もいます。神は自分の富にこだわる人が、貪欲に財貨を求めても満足できず、喜ぶこともできないようにされます。あなたにその気があれば、心の平安と安息を得て、かしこで永遠に心の求めるものを得るのである。

主イエスは貧しい人々の外、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐み深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々を、幸いであると祝福されます。その初めと終わりに「天の国はその人たちのものである」と約束されます。私たちキリスト者はぜひとも、天の国に招かれたいと望んでいます。

山上の説教、システィーナ礼拝堂、c.1481-83 作: コジモ・ロッセリ Cosimo Rosselli (1439–1507) Sermon on the Mount (between 1481 and 1482 ),Cappella Sistina



神の子とされる根拠

信仰の先達の皆さまは天の国に招かれ、詩編23篇にある羊の群れに加えられていると思います。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」天の国のイメージは、かつて訪れた岩手県の小岩井農場で、遠くから近づく羊の群れを思い起します。詩編23篇は「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」と結びます。羊の群れは天の国に永遠の住処を与えられると、約束成就の情景が歌われています。

山上の説教における約束は、終末の約束でもあります。第二の朗読ヨハネの手紙一3:1は語ります。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」神はご自分の愛を私たちに頒(わ)けられ、私たちにイエス・キリストを贈られ、私たちは神の子と呼ばれます。ヨハネ福音書1:12にその根拠があります。「言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」言葉はイエス・キリストを指しています。主イエスを受け入れ信じる人々には、神の子とされる資格を与えられるのです



私たちの将来の姿

天に召された方々は天の国に招かれ、どのようにされていらっしゃるのでしょう。天から私たちはこんな暮らしをしていますと、どなたかそっと教えてくれないかな、と密かに期待してきました。ヨハネの手紙一3:2に語られています、「愛する者たち、私たちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」残念ながら、私たちがどのようになるか明かされません。主が再び来られる時、私たちが御子に似た者とされます。どのように御子に似た者にされるのか、楽しみに待つより他ありません。

天上の礼拝

第一の日課はヨハネの黙示録7章です。黙示録は隠されている事実が、明らかにされることです。私たち人間の知恵では分からない、神の秘められたご計画があります。それを、小羊イエス・キリストが天使を通して、記者ヨハネに幻や象徴にして明かされました。黙示録は未来への確信と現在の勇気を、私たちに与えてくれます。

ヨハネが垣間見た天上の世界では、白い衣を着てなつめやしの枝を手に
した、大勢が大声で叫んでいます。「救いは神と小羊のものである。」白い衣は汚れのないもので罪からの解放を、なつめやしの枝は勝利のシンボルで苦難からの解放を表します。人々の解放は、神と小羊によってもたらされます。神は独り子イエス・キリストを、生贄の小羊のように屠って、私たちを罪から解き放たれました。

罪を洗い清めてくれたイエス・キリストに、私たちは望みをかけて生きています。それが小羊イエスへの信仰となります。この聖卓の正面に、勝利の旗をもった神の小羊が描かれています。私たちは聖餐に与る時、主イエスを象徴するパンとぶどう酒をいただいて、罪赦される者とされます。信仰の先達の皆さまは小羊の血で洗われた白い衣を着て、御子に望みをかけて天の国に招かれています。全聖徒の日の礼拝から私たちも、ぜひその恩恵に与りたいと祈っています。

ヨハネ黙示録に天上の礼拝の様子があります。「天使たちは皆神を礼拝して、こう言った。『アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。』玉座におられる小羊が、白い衣を着た人々の牧者となられ、命の水の泉へ導かれ、神が彼らの目から涙をすべて拭われます。私たちの罪をすべて贖われ、痛みを癒され、悲しみを慰められます。そんな神の国に招かれるよう願いながら、信仰の旅路を共に歩んでまいりましょう。

【 テキスト・ライブ版】2020年10月25日 説教「 真理はあなたを自由にする 」 浅野 直樹 牧師

宗教改革主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書22章34~46

本日の礼拝は、宗教改革を記念した礼拝でございます。1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に、いわゆる「95ヶ条の提題」が掲げられたことによります。ただ、宗教改革と言いましても、500年も前の時代も文化も状況も異なる中での出来事ですので、ぴんとこないのも無理からぬことでしょう。しかし、その時代にあっても、今日の私たちと同様に人は生きていました。生活をしていました。

ペストの大流行があり、貧困も、格差も、差別も、死の現実もあった。その中を、か細い期待と不安を持ちながら人々は生きていた。そんな人の営みということにおいては、今日の私たちと変わらないものがあるようにも思います。そして、その只中で…、その歴史の、現実の只中で神さまが働かれた。ある人(人々)を立てて、御心のままに時代を、世界を導いていかれた。

この宗教改革の出来事に思いを向けるとき、そんなことも考えさせられるように思います。そして、そんな神さまの働きは、あの宗教改革の500年前だけでなく、今日においても、私たちが生きるこの現代においても起こる、起こり得る、いえ、現に起きていると信じることができる。そうではないか、と思うのです。神さまが歴史に、この現実世界に働きかけられる。それも、宗教改革を記念する一つの大切な側面なのではないでしょうか。

「信仰による自由」。宗教改革者ルターが強く訴えたことです。ルターの最もよく知られた著作である『キリスト者の自由』の中にも、そのことがしっかりと記されている。しかし、それらをお読みになれば分かるように、ここでルターが語る「自由」と現代の私たちが考える「自由」とは随分と印象が違っています。ルターが語る「自由」とは信仰と、つまり神さまと深く結びつけられた「自由」だからです。

ここで私がいちいち言う必要がないほどに、この「自由」ということが人類共通の価値であることに異論はないでしょう。「自由」の大切さ、有り難さ、その恩恵を知っている私たちにとっては、いくら経済的な発展が著しいとしても、「自由」が抑圧されるような社会には生きたいとは思わないでしょう。そんな人類共通の価値である「自由」。その本来素晴らしいはずの「自由」が、悲しいかな歪んでしまう現実もある。この自由ということに限らないことですが、悲しいことに何故か私たち人類は、本来は良いものであったとしてもそれらを歪めてしまうことが多いのです。この幸いなる「自由」も、自分勝手・自己中心に歪めてしまうことが多い。人類共通の価値である「自由」の名に元に、他者を圧迫し、搾取し、苦しめることも起こってくる。

それは、今日の福音書の箇所で言えば、「罪の奴隷」ということになるでしょう。私たち人類は、悲しいかなこの「罪の奴隷」なのです。あらゆる良いものを、この罪のゆえに捻じ曲げてしまう。自分の都合の良いように。自分の願を叶えるために。それも、私たちが見ている世界の現実、また私たち自身の中にも巣食っている現実でもあるのだと思うのです。

だからこそ、人類共通の価値である「自由」であっても、それだけではダメなのです。自由でいるように思っていても、それは本当の自由ではない。罪のゆえに歪んでしまっている自由に過ぎない。ですから、その本来良きものである自由を取り戻すためには、私たち以外の別の何かが必要になってくるのです。それが、イエスさまが与える真理だ、と聖書は語る。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。

Low panel (Martin Luther preaching before a Christ). By Attributed to Lucas Cranach the Younger – The Bridgeman Art Library, Object 23264, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30282859



最初にルターの「信仰による自由」ということを言いましたが、今朝の福音書の日課でも、この「自由」ということとイエスさまとが非常に強く結び付けられていることがお分かりになると思います。そして、自由ということを考える上でも、そのことは決して見落としてはならないのだと思うのです。

真の自由とは罪を認める、ということです。自己否定をする、ということです。無力さを知る、ということです。救いの御業(福音)を素直に、そのまま受け入れる、ということです。それらは、真の自由がなければできないことです。なぜならば、それらは、生まれながらの自分に、罪の奴隷である自分に反することだからです。私たちは、何かと理由をつけながら、自分を正当化し、それらを避けたいと思う。私たちにとっては好ましくも、嬉しくもないことだからです。

私たちにとって大切なこととは何でしょうか。何を優先させるのでしょうか。何を真実とするのでしょうか。何に信頼を置き、従うのでしょうか。己か、社会か、それともキリストか…。「真理はあなたたちを自由にする」と言われますが、その真理とはイエスさまの言葉を、み言葉を聞くところからしか、受け入れるところからしか生まれないのです。たとえば、「汝の敵を愛せよ」とのみ言葉を聞く。その言葉をしっかりと受け取る。そこからしか、憎しみを断ち切る、憎悪から、復讐心から解き放たれる自由な道は始まらないのです。

もちろん、それらは決して楽な道ではありません。ある意味、茨の道とも言えるのかもしれない。なぜならば、私たちは憎むことですっきりするからです。復讐心に燃えている方が楽だからです。真理は、イエスさまの言葉は、そんな自分たちの自然な思いを越えていかなければならなくする。それが、辛い…。しかし、そのみ言葉が、イエスさまが私たちの幸いを思って語ってくださっているそのみ言葉が、み教えが、うずくまってしまいそうになるそんな私たちの背中を押してくださる。決して自分では前に向かっていけそうにない思いを抱いていたとしても、力強く前へ、前へと押し出していってくださる。それが、み言葉。それが、イエスさまの真理。

み言葉があるから、イエスさまが私たちを教え諭してくださるから、変なこだわりを捨てる、偏見を捨てる、差別意識を捨てる、そんな自由な歩みが始まっていくのだと思う。もちろん、繰り返しますが、それは決して楽な道ではないでしょう。どうしても祈らざるを得ない道でもある。それでも、そこからしかはじまっていかないみ言葉に照らされた自由への、解放への道があるのだと思うのです。

ルターもそうです。私自身もそうです。皆さんもそうだと思う。このみ言葉によって変えられた人生がある。完全に、とまでは言えませんが、それでも自由とされた人生がある。支えられた人生がある。力づけられた人生がある。いろんな厳しさを乗り越えることができた人生がある。

そして、これからも…。これからも、このイエスさまのみ言葉が、真理が私たちを自由にしてくださいます。生きる上でばかりでなく、死の不安、恐れからも。そうではないでしょうか。そんなみ言葉の現実が、神さまの働きが、今を生きる私たちの上にも確かにあることを、この宗教改革を記念する日に、新たに心に刻んでいきたいと思います。

 

祈り

本日は宗教改革を記念した礼拝の時を持つことができましたことを心より感謝いたします。当時と今日の私たちの状況とは大きく異なっていますが、それでも、先人たちが力強く信じ証ししていった福音の真理を、またみ言葉に対する姿勢を、私たちもしっかりと受け取り、自分のものとして生きていくことができますようにお導きくださいますようお願いいたします。

私たちの敬愛する姉が、18日にあなたの元に召されていかれました。私たちにとっては悲しく寂しいことですが、今姉はあなたの懐に抱かれ、永遠の平安に預かっていることを信じます。どうぞ、残されたご家族の上に、あなたからの豊かな慰めがありますように。また、その信仰を強めてくださり、なおも力強くあなたにある希望に生かしていってくださいますようにお願いいたします。



本日は特に神学校を覚えて献金をお捧げしています。このコロナ禍にあって神学校も大変な状況にあると思います。どうぞ在校生たちをお守りくださり、このような状況下の中にあっても、その信仰と志を強めてくださり、良き訓練を受けていかれるようにお導きください。また、教職の先生方、チャプレン、職員の方々もどうぞお守りくださいますように。神学生が減少していますが、志をもつ者たちが与えられますようにもお導きください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

Live配信:2020年10月25日 宗教改革主日礼拝 説教 「真理はあなたを自由にする」 浅野 直樹 牧師



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【 テキスト・音声版】2020年10月18日 説教「 真理を語る 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第二十主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書22章15~22節

今朝の福音書の日課は、良く知られた物語だと思います。いわゆる「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」です。

ここでファリサイ派とヘロデ派といった人々が登場してまいります。ファリサイ派については度々登場してきますので良くご存知だと思いますが、律法に忠実であろうとする人々のことです。つまり、国粋主義者とまでは言いませんが、ユダヤの伝統を非常に重んじる人々でした。

対してヘロデ派(ヘロデ党と言った方が良いのかもしれませんが)はヘロデ王朝を支持する非常に政治色の強いグループで、このヘロデ王朝はローマ帝国の後ろ盾を権力基盤にしていましたから、親ローマと言っても良いと思います。ですから、この両者は正反対の立場に立っていたと言っても良いでしょう。そんな普段は反目し合っていたであろうファリサイ派の人々とヘロデ派の人々がここでは結託をするのです。一致団結する。両者にとっての共通の敵といいますか、おもしろくない存在であるイエスさまを陥れるためです。

これまで数週間にわたって譬え話をみていきました。その時にもお話したように、これらの譬え話には共通点があった訳です。当時の宗教的指導者たちを非難するためでした。彼らは自分たちこそが神さまの御心を行っている者、救われるに相応しい者だと自負していた。しかし、イエスさまはそんな彼らに対して真っ向から挑戦していかれました。むしろ、救われるに相応しい人々とは、彼らが忌み嫌っていた罪人たちなのだと。神さまの呼びかけに答えて悔い改めていった者たちなのだと。たとえ罪人であったとしても、悔い改めるならば、神さまに立ち返るならば、それこそが神さまの御心に叶うことになるのだ、と。

なぜならば、神さまの御心とは、全ての人々が悔い改めて神さまから命を得ることだからです。人として、真に生きるようになることです。神さまを愛し、人を愛する者として…。もちろん、それでも私たちはその途上にいることになる。完成されている訳ではないからです。まだまだ不完全です。それでも、そこを目指して、泣き笑いしながら、失望しながら、悔い改めて、何度も立ち上がって、一歩づつでも、小さな歩みであっても、先へと進んでいく…。それが、神さまの、イエスさまの御心なのです。

ティツィアーノ:Titian – The Tribute Money –  作成: 1516年頃 ドレスデン: Staatliche Kunstsammlungen Dresden -Google Art Project (715452)-



確かに、そんな思いから遠くズレてしまっていた時の宗教的指導者たちを非難するためにこれらの譬え話が語られていった訳ですが、しかし、単に非難するためでなく、彼らにも自らの過ちに気付き、真実に立ち返って欲しいといった願いも込められていたのではないか、そう思います。しかし、残念というか、彼らにとってはそれも馬の耳に念仏だったようです。先ほど言いましたように、今度は反目しあっていた者同士が手を結び、言葉巧みにイエスさまを陥れようとしていった訳ですから…。

しかし、私たちはそんな彼らをただ非難するだけで良いのでしょうか。私たちにも見に覚えがあるのではないか。私たちもまた、本当に反省することに疎い者だからです。本当のことを言われれば言われるほど、真実を突かれれば突かれるほど、私たちはかえって意固地になって反抗的にさえなってしまう。そんな私達の姿も、彼らの中に見るような気がいたします。

彼らは言葉巧みに罠を張ります。どう答えたって非難できる材料を揃えて。皇帝に納めるべきだと答えれば、民衆の支持を一気に失うことになる。彼ら民衆から搾取する者たちの手先と映るからです。逆に、納めるべきではないと答えるならば反逆者として訴えられることにもなる。あるいは、「分からない」とお茶を濁すこともできない。

なぜなら、彼らは「あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを」、つまり、人の顔色など伺うことなく真実だけを語る存在だと評価しているからです。実に巧妙です。八方塞がりです。しかし、イエスさまはそんな彼らの魂胆を見抜いてこう答えられた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。

あっぱれな回答です。完璧とも思える罠を張ったさすがの彼らもぐうの音も出なかった。しかし、イエスさまは彼らの企みを単に完膚なきまでに叩きのめすためにそのような答えをなされたのでしょうか。

皇帝の硬貨(1790)ドミンゴス・セルグエイラ:Domingos Sequeira画



確かに、「皇帝のもの」と言われている、いわゆるこの世的なもの、この社会、世界で生み出されたものも多くありますが、それらも含めて究極的には全てが神さまのもの、神さまから与えられたもののはずです。この世界も、私たちも、この命も…。そのことを、本当に私たち人類は忘れてしまっていると思う。

全てが皇帝のもの、つまり、この世で生み出されたものだと思い込んでいる。だから、自分勝手に、自分の欲するままに、他者を傷つけても、踏みにじっても構わないかのように、自分の目的だけのために存在しているかのように扱っている。しかし、本当は、そんな生き方は、あり方は、虚しいだけのものです。そんな皇帝のものを全て手に入れたと思っていても、最終的には、究極的には、虚しさだけが襲ってくる。

今日の旧約の日課にも、この虚しさということが記されていました。「わたしのほかは、むなしいものだ、と」。この「わたし」とは神さまご自身のことです。神さま以外のものは虚しいのです。そして、この虚しさと言えば、私たちはあのコヘレトの言葉を思い出すでしょう。「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」。この世の全てを探求したコヘレトは、そう言う他なかった。

この世界に、人生に、人生の終わりに、意味がないとしたら、つまり、全てが偶然の産物でしかないとしたら、それは本当に虚しいことです。あるいは、今私たちが生きているこの現実世界にしか真実がないとしたら、誤った政治的指導者たちが生まれ、国民も惑わされ、戦争、争い、差別、貧困、そういったものをただ単に受容しなければならないとしたら、諦めなければならないとしたら、人生とはこんなものでしかないと投げ出すしかないとしたら、世界はこんなものでしかない、何ら希望などないと沈黙するしかないとしたら、それは何という虚しいことか。

この世界に意味はあるのか。希望はあるのか。聖書の答えは明快です。神がおられる。もちろん、信じる信じないは私たちにかかっているのかもしれませんが、この世界には、私達の生には、意味がある、希望があると言う。なぜならば、この世界は偶然や気まぐれで成り立っているのではなくて、明確な意志をもっておられる神さまによって成っているからです。人が真に生きることを、自由に、互いに愛し合いながら生きることを何よりも願っておられる神さまの意志が、この生み出された世界の中にある。もちろん、私達の目には、それらが明確に写らない現実が確かにあります。

祈ったって応えられない、不幸としか思えない現実が…。では、この歴史の中で人類はそんな不幸の中でしか生きられなかったといえば、そうではないでしょう。不幸としか思えない現実がそこにあっても、その只中で意味を、希望を見いだすことができた人々は決して少数ではないはずです。あの戦争という地獄のような中でも、明日をも知れないアウシュヴィッツの中でも、この世の終わりとも思える大災害の中にも、意味を、希望を持って、見失わないで生きた、そして眠りについた人々が確かにいた。

神さまがおられるからです。神さまのものを神さまにおかえしできたからです。この自分自身を、です。たとえ私たちは、それらを否定するような現実や人々の声の中にいるとしても、そういった名も知れぬ無数の証人たちにも囲まれていることをしっかりと覚えていきたいと思う。このように、ファリサイ派の人々が意図せず策謀の中で語っていった「真実」がイエスさまによって語られているのではないでしょうか。



祈り
・急に寒くなってきました。どうぞ、心も体もお守りくださいますようにお願いいたします。重い病気を抱えておられる方々、体調を崩しておられる方々、様々な心労に疲れを覚えておられる方々など、この新型コロナによるストレスもあいまってかいろんな方々が不調を覚えておられますが、どうぞお一人お一人を顧みてくださり、必要な助けをお与えくださいますようにお願いいたします。

・来主日の宗教改革主日は、例年神学校日礼拝として献金をお献げしていますが、今年は例年のようにはいかないでしょう。それでも、一人でも多くの方々が神学校を覚えて献げていけるようにお導きください。このコロナ禍、神学校もルーテル学院も大変ご苦労をされていると思いますので、どうぞ教職員の方々、学生一人ひとりをお支えくださいますようにお願いいたします。また、神学生になる方々が減少していますので、どうぞ多くの方々に志をお与えください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

Live配信:2020年10月18日 聖霊降臨後第20主日礼拝 説教 「真理を語る」」 浅野 直樹 牧師



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【 テキスト・音声版】2020年10月11日 説教「 あなたも招かれている 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十九主日礼拝説教(むさしの教会)



聖書箇所:マタイによる福音書21章1~14節

今朝の福音書の日課も譬え話でした。このところ、譬え話が続いていますが、テーマは共通しています。当時の宗教的指導者たちを非難するために語られたものです。

彼ら宗教的指導者たちは、「宮清め」をしたイエスさまを問いただします。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。なぜならば、宮清めをはじめとしたイエスさまの言動は、彼らにとっては自分たちの宗教的権威を傷つけているようにしか、あるいは挑戦して来ているようにしか思えなかったからです。

先週の繰り返しになりますが、イエスさまの言動は彼らの「当たり前」とはことごとく相入れないものでした。特に、彼らにとって我慢ならなかったのは、罪人たちとの向き合い方です。イエスさまは罪人たちを、正しくない人々を招いていかれた。それが、赦されざる背徳と彼らには映っていた。当然でしょう。私たちにだって同じような思いがある。

相手は徴税人です。特権を傘に私腹を肥やすような輩です。詐欺まがいのことをして稼ぐ悪徳商法と言っても良いのかもしれない。あるいは、娼婦。不道徳な生活をしている女性です。そんな人たちは地獄行きだ、とまでは思いませんが、しかし、あえて付き合いたいとは思わないでしょう。できれば、そんな人たちとは関わりを持ちたくないと思う。そんな社会で評判の人たちが教会に来て御覧なさい。あなたたちのような人々が来るようなところではない、と追い返すようなことはしなくとも、内心は何でうちに来たのか、早く帰ってくれないかな、もう二度と来ないでほしい、と思わないだろうか。そんな彼らを「ふさわしくない」と忌み嫌う気持ちも分からないわけではない。

しかし、イエスさまは彼らこそが神さまに招かれている、と語られる。正しく生きて来たあなた方以上に、神さまはそんな彼らをこそ待ち望んでおられるのだ、と教えられる。それは、自分たちこそが「ふさわしい」と思ってやまない宗教的指導者たちにとっては、とても受け入れられるようなものではなかったこともうなずけるように思います。

Parable of the Great Banquet by Brunswick Monogrammist (circa 1525), location: National Museum, Warsaw ワルシャワ国立博物館



しかし、実はそれが罪なのです。いかにそれが正しく思われても、正当な理由のように思えても、神さまの御心よりも自分たちの思いを優先させることが罪なのです。そういう意味では、宗教的指導者たちが忌み嫌っていた徴税人や娼婦たちは、まさに罪人だった。いろいろと理由を挙げては、神さまから離れていることを、御心に従い得ないことを正当化し、自分たちの「生」を顧みることをしなかった彼らは、確かに罪人だったのです。そういう意味では、宗教的指導者たちの指摘もあながち間違ってはいなかった。

しかし、そんな彼らは預言者たちの言葉を聞いて、洗礼者ヨハネの宣教に触れて、そして何よりもイエスさまの招きによって悔い改めていきました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そう、罪人が悔い改めていのちを得ることこそが、何よりの神さまの御心だから、なのです。だからこそ、悔い改めた罪人こそが神さまの御心に叶ったことになる。それが、今までの譬え話の言いたかったことですし、その思いが、今朝の譬え話の中にも流れている訳です。

今朝の譬え話の前半には、王さまが催された王子の婚宴に招かれていた人々が来なかったことが記されていました。王さまとは神さまのこと、王子とはイエスさまのことを指していることは明らかです。その婚宴に宗教的指導者たち、あるいはもっと広く言えばイスラエルの人々が招かれていた。これは、大変名誉なことでしょう。普通の人々が王族の婚宴に招かれるようなことはまずないでしょうから。

みなさん、どうでしょうか。ある日突然、皇族の婚礼の祝いの席に招かれたとしたら、腰を抜かすか、あるいはほっぺたをつねりたくなるほどに信じられないことが起こったと思わないでしょうか。そんな、そもそもありえないことが起こったわけです。いわゆる特別待遇です。しかも、招かれているのは婚宴です。婚宴とは、結婚する二人にとってはおそらく一生に一度の人生最大の祝福された時と言えるでしょう。誰もが、幸いを味わえるような時。

当事者はもちろんのこと、その祝いの席に連なる一人一人も、思わず笑顔が溢れるような、祝福と喜びが満ち溢れるような出来事です。お酒も入って、美味しい料理をいただきながら大いなる祝福をいただく。そんな幸いなる、また名誉溢れる婚宴に招かれたのですから、喜び勇んで行かない手はないはずです。なのに、招かれていた人々はことごとく行かなかった。なぜか。「畑に行った」「商売に出かけた」とも記されていますので、理由はいろいろと考えられるのでしょうが、私自身は王子の婚宴だったということも大きいのではないか、と思うのです。

王さまが催す宴会ならば、喜び勇んで出席したかもしれませんが、それが王子の、つまりイエスさまの祝いの席だったからこそ、彼らは無視した、拒絶した、と言えるのかもしれない。王子を、つまりイエスさまを神さまの子どもとして認めていないからです。受け入れていないからです。ともかく、本来その婚宴に招かれるにふさわしいと思われていた人々は、その婚宴に来ることを拒み、「ふさわしくない」者とされてしまったのです。そして、今度は、本来はその婚宴の名簿からは漏れてしまっていた、つまり「ふさわしい」者とは思われていなかった人々が、招かれることとなった。しかも、ちょっと乱暴とも思える手当たり次第の様子で、「善人も悪人」もおかまい無しに婚宴に連れて来られることになった訳です。

これは、先ほど来言ってきましたように、本来「ふさわしくない」と思われていた罪人や、またユダヤ人から見れば「ふさわしい」とは思えなかった異邦人に、イエスさまの婚宴の招きが移ったことを意味する訳です。確かに、そうでしょう。しかし、今日の譬え話には、今までとはちょっと違った意味も加わっていることにお気づきになられていると思います。なぜならば、そのように「ふさわしくなかった」者たちが招かれているにも関わらず、そこから取り除かれる人がいたからです。つまり、「礼服」を着用していなかった人のことです。

この「礼服」については、いろいろなことが言われていますが、婚宴にふさわしい服装から、この「ふさわしさ」という視点は見落としてはならないと思います。つまり、本来的には「ふさわしくなかった」者が「ふさわしくなる」という視点です。しかし、この「ふさわしさ」は資格ではありません。それを受けるに「ふさわしい」資格などないのです。善人でも悪人でも良かったのです。むしろ、本来資格ありと思われていた人々が招きに答えなかったが故に、ふさわしくないとされたほどです。

では、ここで言われている「ふさわしさ」とは何か。礼服を着ることです。ただ、それだけのことです。他の装いではない。婚宴にふさわしいのは、喜びを共に喜ぶ、祝福の中に招き入れられることを心から感謝していく、婚宴に招かれていることをただそのまま喜んで受け取る、素直に祝いの中に身を置く、祝福に預かる一員となる、その装いが婚礼の礼服だからです。言い方を変えれば、その招きをその招きのまま受け入れるということでしょう。

自分はふさわしいかどうかなどどうでも良い。たとえ悪人であってもここに招かれている。だから、その主人のもてなしをそのまま喜びと感謝をもって受け取る、受け入れることこそが礼服を着る者の姿なのではないか、と思う。この招きへの「ふさわしさ」とは、ただそれだけである、ということをもう一度自問自答しながら、その恵みを受け取っていきたいと思います。

《祈り》
・台風と前線による大雨の影響が心配されます。どうぞ大きな被害などが出ませんようにお守りください。

・先週木曜日(8日)に、あいにくの雨の中でしたが十字架の設置も無事に行われ、鐘楼の修繕工事が完了いたしました。まだ足場の解体工事は残っていますが、ここまでもお守りくださいましたことを心より感謝いたします。この新たにされた鐘楼と十字架もあなたが聖めてくださり、あなたのご栄光のためにお用いくださいますようお願いいたします。また、なおもこの教会堂を祝福してくださって、大規模修繕も残っていますが最善なる導きをお願いいたします。

・再び都内でも徐々に新型コロナの感染が広がっているように見受けられます。一旦は落ち着きを見せていた欧米でも再びロックダウンに踏切らざるを得ない状況にあるとも聞きます。長期間にわたるこの新型コロナの影響で、だんだんと注意力が削がれて行ってしまっているのかもしれませんが、あまり気持ちを緩めすぎることなく、個々人においても社会においても、しっかりと感染症対策に引き続き取り組んでいくことができますようにお導きください。

・今年のノーベル平和賞がWFP(「国連世界食料計画」)に決まったと報道されていますが、依然として7億人以上の人々が飢餓で苦しんでいるとも言われています。特に紛争地域では深刻で、またこのコロナ禍でより深刻度が増したとも言われています。どうぞ憐れんでくださり、私たちも含めて多くの人々が支援に動き出すことができますようにお助けください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【 テキスト・音声版】2020年10月4日 説教「 実を結ぶ期待 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十八主日礼拝説教



マタイによる福音書21章33~46節

今日の日課も譬え話になります。この譬え話は、先週の二人の息子の譬え話…、父親からぶどう園で働くように言われた兄の方は、最初は嫌がって断った訳ですが、後で思い直してぶどう園に行った訳ですが、弟の方は最初は快い返事をしておきながら結局は行きま
せんでした。そこから、父親…、つまり神さまの望みに答えたのはどちらか、ということで、結局は弟のような祭司長や民の長老たちのような宗教的指導者たちではなくて、彼らが罪人と忌み嫌っていた徴税人や娼婦たちの方が兄のように神さまの望みに答えたことになると結論づけられた訳です。つまり、早い話、イエスさまに権威についての問答を迫った宗教的指導者たちを非難するためだった訳です。そして、今朝の譬え話もその流れの中にある譬え話となる訳です。

今朝の譬え話は、イスラエルの歴史を、そして今を、これからを表しているように思われます。ここで言われている「ぶどう園」はイスラエルの民たちを表すのでしょう。その民たちを養い、成長させ、実を実らせるために、神さまは「農夫」たちにその管理をお任せになられました。そして、その「農夫」こそが宗教的指導者たちです。もちろん、それは、現在ばかりでなく過去をも含めてのことでしょう。神さまは必要な時期に、事あるごとに僕たちをこのぶどう園に遣わされました。つまり、預言者たちです。しかし、彼らはそんな預言者たちを、袋だたきにしたり、殺したり、石で打ち殺したりしてしまったと言います。

旧約聖書を読んでいきますと、迫害されなかった預言者などいないかのようです。では、なぜそんなにも神さまが遣わされた預言者たちを彼らは受け入れようとしなかったのか。悔い改めを迫られたからです。預言者たちは、民たちの誤りを説き、悔い改めを迫っていきました。しかし、それが気に入らない。望まない事柄ばかりを語る預言者たちが鬱陶しく思えて来る。自分たちが信じている、理解している、またそうであって欲しいと望んでいる神さまの姿とは別の事柄を語ってやまない彼らを、偽物としか思えない。神さまに反する者としか受け止められない。だから、神さまの名の下に迫害する。殺していく。本当は、そんな預言者たちこそ、神さまが遣わされた人々だったのに。

前述のように、先週の譬えのところでも、宗教的指導者たちが弟の側になってしまったのも洗礼者ヨハネを受け入れなかったからだと言われています。逆に、罪人であった徴税人や娼婦たちが兄の側になれたのは、洗礼者ヨハネを受け入れたからです。悔い改めを説いていった、赦される必要性を語り聞かせていったヨハネの言葉に心動かされたからです。ただ、それだけの理由で、罪人である彼らは神さまの望みに応える者になれた。

ぶどう園と農夫のたとえ Marten van Valckenborch Parable of the Wicked Husbandmen between 1580 and 1590 Kunsthistorisches Museum, Vienna, Austria イエス・キリストが中頃左上で2司祭に話しかけている。山間のぶどう園、遠景には美しくのどかな街並み、右下で集団で使用人を殺している農夫が描かれている



そして、彼ら宗教的指導者たちは、神さまが最後に送られたご自分の子・御子を受け入れないどころか、十字架にかけて殺してしまった。これから起こることです。では、なぜ彼らはイエスさまを受け入れなかったのか。殺すほどに憎んだのか。妬みのためだ、と言われます。確かに、そういった一面もあったでしょう。しかし、そんな彼らの信仰観とイエスさまの言動とが、ことごとく食い違っていたからでもあると思うのです。特に、彼らが許せなかったのが、イエスさまが罪人たちの友となられたことでした。彼らは神さまの戒めを守りません。汚れた不道徳な生活を送っています。宗教的熱心さも圧倒的に欠けています。そんな彼らは、指導者たちにとっては裁かれて当然な人々なのです。神さまに呪われて、罰せられて当然な人たちなのです。

自分たちとは明らかに違う。そんなやつらと同じ空気を吸うだけでも汚らわしい。そう思う。なのに、イエスさまはそんな彼ら罪人こそが神さまに招かれているのだ、と言う。彼らこそ、神さまに救われるべき人々だ、と言う。そして、同じ空気を吸うばかりか、食事さえも共にする。そんなやつは許せない。そんなやつが神の子であるはずがない。そうです。彼らからすれば、イエスさまを殺す理由があった。それこそが、正しい、神さまの望みに答えることだと疑わなかった。しかし、それこそが、神さまが遣わされた独り子を殺すことになるのだ、と語られているのです。

では、そんな宗教的指導者たちだけが問題なのか、といえば、そうではないでしょう。なぜならば、43節でこう記されているからです。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」。ここで「ふさわしい実を結ぶ民族」と言われているのは、異邦人のことです。彼ら宗教的指導者たちばかりではない。ユダヤ人全てが、異邦人を蔑視している。

なぜか。彼らは罪人だからです。神さまに従おうとしない人々だからです。だから、滅ぼされても当然だと思っている。つまり、どちらにしても罪人は滅びるのだ、それが神さまの御心なのだ、私たちは彼らとは違う、私たちこそ救われるのだ、といった思いは共通なのです。それが、神さまの御心なのだと彼らは信じ疑わなかった。しかし、イエスさまは違う、とおっしゃる。そうではない、とおっしゃる。悔い改めて(神さまに立ち返って)全ての人が、ユダヤ人だろうが異邦人だろうが全ての人々が救われることが、赦されることが神さまの御心なのだ。

そう語られている。つまり、真に神さまが望まれる実りとは、そんな神さまが遣わされた御子、救い主を信じることなのです。そのために、預言者たちも、洗礼者ヨハネも、またイエスさまも来られた。

ぶどう園の小作人 Jan Gerritsz Sweelink October 作成: 1624年と1645年の間。背景にはある村と川が描かれ イエス・キリストが右下の2人の司祭に話しかけている 左側で使用人を殺している農夫の1人(邪悪な夫のたとえ話) が描かれている



イエスさまの、神さまのこの思いは、この言葉に集約されていると思う。「『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人
を招くためではなく、罪人を招くためである』」(マタイ9:12~13)。兄の方と言われた徴税人や娼婦のような罪人以外の、宗教的指導者たちや多くのユダヤ人たちは、このイエスさまの思いを受け取ろうとはしなかった。では、私たちはどうか。本当にこのイエスさまの思いを素直に受け取っているだろうか。神さまの望みに応えているだろうか。

やはり、私たちにも、素直に、罪人のままで、欠け多き存在のままで、イエスさまの懐に飛び込んでいくのを躊躇してしまっているようなところがあるのではないだろうか。もっとしっかりしてからでないと、こんな自分ではダメではないかと思ってしまっているところがあるのではないだろうか。ありのままで、赦しを信じて、この招きに応えることができているだろうか。あるいは、自分のことは棚に上げて、人々の欠点にばかり目が向かってしまい、あんな人は相応しくない、と勝手にレッテルを貼っているようなことはないだろうか。

なぜあんな人が教会にいるのか、と批判的になってはいないだろうか。あんな人たちとは一緒にされたくない、と自分を特別視しているようなことはないだろうか。勝手に教会は敷居が高いと思い込んでいるようなところはないだろうか。赦しの中に生きていることを忘れて、殊更背伸びをして疲れ切ってしまってはいないだろうか。人の目が気になり、比較ばかりをして、自分は何もできない、役に立たない人間なのだ、と落ち込んではいないだろうか。

イエスさまはこうおっしゃる。イエスさまはそのために来たとおっしゃる。そして、イエスさまはそのためにこそ十字架で命を捨てられた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。この方を信じることこそが、私たちに期待されている実りです。

 

祈り
・早いもので今年も10月に入りました。急に朝晩が涼しくなり体調も崩しやすくなっていますが、どうぞ心も体もお守りくださいますように。特に体調を崩しておられる方、闘病されておられる方、心身ともに疲れを覚えておられる方などをどうぞお守りくださいます
ようにお願いいたします。

・鐘楼の修繕工事も今週には完成予定です。これまでお守りくださいましたことを心より感謝いたします。また、心配された台風等も接近することなく、本当に感謝です。どうぞ、修繕された鐘楼、また新たになった十字架などもあなたのご栄光のために益々お用いくださいますようにお願いいたします。

・法律を無視するような強権的な政治的指導者たちがあちらこちらで立てられていることに危惧を覚えています。国民の支持もあるのでしょうが、力でごり押ししていくやり方は確かにスピード感はあるのかもしれませんが、大変危険でもあります。どうぞもっと冷静になって、国民一人一人が適切な人材を選んでいくことができますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

 

Live配信:2020年10月4日 聖霊降臨後第18主日礼拝 説教 「実を結ぶ期待」 浅野 直樹 牧師



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Live配信:2020年9月27日 聖霊降臨後第17主日礼拝 説教 「どっちが正しい?」 浅野 直樹 牧師



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【 テキスト・音声版】2020年9月27日 説教「 どっちが正しい?」 浅野 直樹 牧師

2020年9月27日 聖霊降臨後第十七主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書21章23~32節

今日の福音書の日課にも譬え話が出てきましたが、この譬え話は聖書の中に記されています数多くの譬え話の中でも、珍しくすぐにでも共感を覚えることができるものの一つではないか、と思います。なぜならば、私たちの道徳律と非常に親和性があるからです。

恐らく、その父親はぶどう園を所有し経営していたのでしょう。繁忙期で忙しくなる。猫の手も借りたい。そこで二人の息子に手伝ってもらおうとしました。始めに、兄の方に話しかけます。「今、とても忙しい時期だから、お前もぶどう園を手伝ってくれないか」。

もうすでに就職していたのでしょうか。それとも、まだ学生だったでしょうか。「嫌だよ、父さん。僕にだって予定があるんだから」。弟の方にも声をかけました。「お前もぶどう園を手伝ってくれないか」。「いいよ、父さん。特に予定もないし、手伝ってあげるよ」。父親は先にぶどう園に行き、忙しく働きながらも息子たちが来るのを待っていました。しばらくすると兄の方がやってきた。「お前、どうしたんだ。さっき予定があるから嫌だって言っていたじゃないか」。「いや、そうだけど、なんだか気になっちゃってさ。

父さんも大変だと思ったから引き返してきたんだ」。そういって兄は父の手伝いを始めました。しかし、弟の方は待てど暮らせど来ません。父親も、「おかしいな。そろそろ来ても良い頃なんだが。確かに来ると言っていたよな」。その頃、弟の方は友達と遊びに出かけていました。「確かお前ん家、ぶどう園やっていたよな。いいのか手伝わなくて。確か今が一番忙しい時期じゃなかったか」。



「いいの、いいの。あんなの親父にやらせておけば。どうせたいしてバイト代もくれないしさ」。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」。子どもでも分かることです。私たちもそう親たちから教わって来ましたし、また子どもたちにもそんなことをしてはいけない、人の道ではないと躾けて来ました。そう、だから、この譬え話は何の違和感もなくすんなりと入って来るし、そんなの当たり前ではないか、とも思える。しかし、今日のこの譬え話を、そんな単なる教訓的な、あるいは倫理道徳的な話として読んでしまうと肝心なところが見落とされてしまうということは、もう皆さんもお分かりのことでしょう。

今日の箇所の前半部分では、「権威」についてのやりとりの様子が記されていました。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」。当時の宗教的、あるいは社会的指導者たちが腹立たしげにイエスさまを問い詰めていった訳です。ここに到るまでの物語があります。12節以下に記されていますいわゆる「宮清め」の出来事です。当時、犠牲として捧げられる動物の売り買いや神殿税を納めるための両替の場所などが神殿の境内に設けられていたわけですが、それらをひっくり返したり追い出したりして、少々乱暴な振る舞いをされたのが他ならぬイエスさまでした。

もちろん、イエスさまにはそうせざるを得なかった理由がありました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。確かに、問題性もなかった訳ではないでしょうが、当時の宗教的利便性から、あるいはその必要性から生まれた制度でもあったわけです。そして、それらを決めていったのが、それらを決める、あるいは指導する権威を持っていた先ほどの祭司長や民の長老だったわけです。つまり、イエスさまのその行動は、彼らの権威を全否定することにも等しかったわけです。彼らにとっては面目丸つぶれです。ですから、彼らからしたら、先ほどの詰問は当然の思いだったのかもしれません。私たちの面子を潰すからには、相応の権威を持っているはずだろうな、と。

そんなやりとりの中から生まれたのが、先ほどから言っています今日の譬え話でした。つまり、イエスさまからすれば、彼らは譬え話の弟のように映っていたわけです。もっとも、当然彼らはそうは思っていなかったでしょう。自分たちこそが宗教的な重要な事柄を決める権威があるのだ、と。つまり、自分たちの信仰のあり方は神さまからお墨付きをいただいているのだ、と。しかし、イエスさまからすれば、それは表面的な面に過ぎなくて、譬えで言えば、あの弟のようにあたかも父親の意に添うかのように空返事をしているにすぎなくて、本質では何も父親の、つまり神さまの思いには応えてはいないのだ、と思えてならなかった。

むしろ、逆に、彼らが忌み嫌って軽蔑していた、つまり彼らからすれば神さまから遠く離れて裁きを受けざるを得ないような人間だと映っていた徴税人や娼婦たちの方が、実は譬え話で言えば兄の方であって、当初は神さまの御心から外れて神さまを悲しませては来たけれども、そんな彼らも立ち返って、後で考え直して神さまの思いに答えていくようになったと見られている訳です。そして、その両者の決定的な違いを生み出したのが、洗礼者ヨハネのメッセージに動かされたかどうか、でした。

洗礼者ヨハネのメッセージとは、罪を指摘し、悔い改めを説くことでした。罪の赦し、罪からの救いの必要性を訴えることでした。弟の方だと指摘された祭司長や民の長老たちは、このヨハネのメッセージに心が動かされなかった。逆に言えば、兄の方だと指摘された徴税人や娼婦たちはヨハネのメッセージに心が動かされたのです。彼らが自らの罪の自覚をしっかりと持っていたかどうかは分かりません。神さまからの罪の裁きを恐れていたのかどうかも分からない。罪の赦し、救いの必要性を感じていたかどうかも。むしろ、そんなことは考えないようにしていたのではないか。現実と割り切っていたのではないか。

ろくな家庭で育たなかったのだ。まともな仕事では食っていけなかったのだ。生きるためにはしかたがないではないか。社会が悪い、環境が悪い、貧乏が悪い、と自己弁護を繰り返してきたのかもしれない。しかし、どこかで問いが消えなかった。「本当にこれで良かったのだろうか」と。普段は、そんな問いは生きるための邪魔になるとして心の深いところに押し込んでいたのかもしれませんが、決して消え去ってしまうことはなかったと思います。それが、洗礼者ヨハネのメッセージによって浮き彫りになっていった。「救われるためには、どうすれば良いのだろう」と。

ここでイエスさまは洗礼者ヨハネとの向き合い方を問われています。罪を指摘し、悔い改めの必要性を説いた、罪の赦しの可能性を教え続けていった洗礼者ヨハネとの向き合い方を。そして、それは、イエスさまとの関係性にも結びついていくことになるのです。洗礼者ヨハネのメッセージに心動かされた者たちは、イエスさまのところにもやってくる。逆に、洗礼者ヨハネのメッセージに心動かされない者たちは、イエスさまとの距離もとってしまうことになる。これも、兄と、弟と指摘された者たちの中にみられるものです。

ニコラ・プッサン Nicolas Poussin「ヨルダン川の洗礼者ヨハネ」(1630)



今朝の旧約聖書の言葉も私たちは肝に命じていかなければならないと思います。「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」。神さまの御心は、誰もが罪を赦されて生きることです。一人として滅んで欲しくない。悔い改めて、立ち返って生きて欲しいと願っておられる。「最初」が問題なのではありません。結果的に父の元に、
神さまの元に行かなければ、戻らなければ意味がないのです。たとえ「最初」がどうであろうと、そこに神さまの御心がある。そのことを深く覚えて行きたいと思います。

《 祈り 》
・最近の新型コロナの問題は落ち着いているように見えますが、先日のシルバーウイークでは各地で多くの賑わいを見せ、経済活動が加速されているようにも見受けられます。そのために、また感染の拡大が危惧されてもいますが、このウイズ・コロナの時代、経済活動と感染予防という対極にある課題と同時に向き合わなければなりませんが、新たに誕生した政府も賢明な対策が取れるようにお導きくださいますようお願いいたします。また私たち市民一人一人も長期間にわたる緊張感のためか意識が緩みがちになっているようにも感じますが、しっかりと個々人においても感染対策に気を配っていくことができますようにお助けください。

・このところの天候不順もあって鐘楼の修繕工事が予定よりも若干遅れているようです。そのためもあってか、大工さんも雨天の中懸命に取り組んでくださっていますが、どうぞ体調面もお守りくださり、事故などもないようにお守りください。また、良い修繕がなされますようにお導きをお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

Live配信:2020年9月20日 聖霊降臨後第16主日礼拝 説教 「救いたいという思い」 浅野 直樹 牧師



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【 テキスト・音声 】2020年9月13日 説教「 赦されたから赦そう」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十五主日礼拝説教(むさしの教会)

聖書箇所:マタイによる福音書18章21~35節

本日の福音書の日課は、これもまた良く知られた譬え話だと思いますが、人を赦すことの大切さが語られている譬え話だと思います。内容自体としては、それほど難しいものではないと思います。むしろ、すんなりと入ってくる、ある意味、私たちの常識とそんなに違わないものだとも思います。しかし、現実となると、実践となるとどうか、といった問いは常に付きまとってくるのではないか、そうも思うのです。

なぜならば、私たちはなかなか赦すことができない、といった経験を嫌という程積み重ねても来ているからです。いいえ、厳密に言えば、実は赦せていないことにも気づけていないのかもしれません。聖書が語る「赦し」とは、綺麗さっぱり忘れてしまうことだからです。赦すべき事柄を二度と思い出すことはない、ということです。ですから、「忍耐」とは似て非なるものなのです。

内心、「またか」と思いながらも忍耐することは、実は赦していることにはならないのです。あるいは、赦していると自分の心に言い聞かせながら、その人を遠ざけていくことも赦しているとは言い難い。ですから、先ほども言いましたように、今朝の譬え話も物語としては良く分かるのですが、「あなたはどうか」と問われるならば、とたんに難しさを感じてしまうのだと思うのです。



今朝の譬え話は、ペトロのある問いをきっかけに語られたものでした。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。ペトロはペトロなりに、これまでのイエスさまの話を聞く中で、そんな思いを持ったのでしょう。ここでペトロは「兄弟が」と言っています。これは、教会の仲間たちのことです。ですから、この問いの前提は教会の人たちがペトロに罪を犯した時のことを考えているわけですが、完全にではなくとも、より一般化しても良いのではないか、と思います。

例え教会と同じルールで、とは言えなくとも、やはり「赦す」ことが私たちの日常生活の中で(家族や職場の同僚、友人、クラスメート等々)求められているからです。
ここでペトロは七回まで赦すべきでしょうか、と尋ねます。これは、ペトロにとっては随分と思い切った数字だったと思います。私たち日本にも「仏の顔も三度まで」といった言葉がありますが、当時のユダヤにも似たような表現があったようです。神さまはあなたがたを三度まで赦してくださるのだから、あなたがたも三度は赦してあげなさい、と。つまり、せいぜい三度が限界ということでしょう。四度目はない…。それが、私たちの一般的な感覚でもある。

しかし、ペトロはそれを大きく超えて、まさに清水の舞台から飛び降りるような思いで、なんとかイエスさまに認めてもらおうと、評価してもらおうと、決死の覚悟で言ったのかもしれません。しかし、イエスさまは、あの有名な言葉を語られました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。ペトロの決死の覚悟の言葉により高いハードルを設けられたのか。

そうではない、と思います。実は、三度にしろ七度にしろ、本質的には同じだからです。限度を設けるという意味では変わらない。そうではない、とイエスさまは語られるのです。はじめっから限度を設けてはいけない、そんな思いで赦しを考えてはいけない、と言われる。

ところで、先ほどはペトロの問いがきっかけになって譬え話が語られたと言いましたが、よくよく見ていきますと、この譬え話はペトロの問いの答えとは全くなっていないことに気づかれると思います。そうではなくて、赦す前に赦されている現実に気づくようにと語られているからです。赦すことの大切さ以上に、赦されていることの大切さ、です。

いいえ、むしろ、両者が連動していることが大切なのです。 ここに王に負債を負っている家来が登場して参ります。その内の一人は一万タラントンの借金がありました。そう言われてもピンときませんが、聖書巻末の度量衡を見てみますと、1タラントンは6000日分の賃金に相当しますので、6千万日分の賃金ということになります。この家来は返済を待って欲しい、必ず返すから、と言いますが、一体何日働けば返せるのでしょうか。1年は365日。1日も休まずに働いても10年で3,650日分、100年で36,500日分、1,000年で…。とても人の一生では償いきれない負債です。

一体何回人生を繰り返せば返しきれるのか。私たちの教会の伝統には「煉獄」といった考え方はありませんが、そんな負債を返済し切るのに途方も無い年月がかかることを考えますと、そういった発想が生まれるのも頷けるような気がいたします。ともかく、それほどの負債を王は「憐れに思っ」たが故に赦してくださったのです。それが、この譬え話の第一のポイントなのです。


この王は神さま、そして、赦された家来は私たち一人一人と置き換えても良いでしょう。私たちは神さまに対してそれほど大きな負債があるのです。考えてみてください。なぜ私たちを救うために神の子が命を捨てなければならなかったのかを。それほどの大きな代価を払わなければ穴埋めなど決してできない大きな亀裂があるからです。十字架によらなければ償い得ない負債がある。だから、神さまは神の子を十字架につけられた。私たち
を赦すために。救うために。

なのに、この家来は自分に負債のある人を赦さなかった。ついさっき、決して償いきれない負債を、ただ憐れみの故に赦していただいたのに、あたかもそんなことなど一切なかったかのように負債を負債として取り立てようとした。そこに、この家来の問題性があるのです。そして、私たちの…。

確かに、この家来の傷は決して小さなものだとは言えないでしょう。100デナリオン、つまり100日分の賃金です。決して小さくはない。そうです。自分がこうむった被害だけを見ていれば、決して小さくはないのです。しかし、赦していただいた大きさを見るならば、そんなものは決して比較にもならないはずなのです。

そうです。私たちは自分ばかりを見つめるから赦せないのです。自分が受けた負債、被害ばかりに心を向けるから、事実以上に大きくも見えてくる。そうではなくて、まず赦されている事、ここに目を向ける必要がある。しかし、もちろん、簡単なことではありません。簡単に赦せないのは痛みがあるからです。傷つけられたからです。だから、そんなに簡単に忘れられない。でも、それでいいのでしょうか。そんな言い訳ばかりをして、自分の都合ばかりを並び立てて、赦されている事実にも目を閉ざして、この家来のようになっていくことが、果たして私たちの望みでしょうか。決してそうではないでしょう。

むしろ、だからこそ、私たちには祈りの生活が必要なのです。自分自身にではなく、神さまに、神さまがしてくださった赦しに目を向けるためにも、それでもなかなか人を赦すことの出来ない自分の心と向き合って、素直に神さまに助けを求めていくためにも、祈りの生活が欠かせないのだと思います。

ヴァランタン・ド・ブーローニュ: Valentin de Boulogne「聖マタイ」 1591-1632 、フランス、バロック・カラヴァッジェスキ一派



《 祈り 》
・いよいよ明日から本格的な鐘楼の修繕工事がはじまっていきますが、どうぞ安全に工事がなされますようにお守りください。また、工事期間中の台風襲来なども心配されますが、天候も含めて全ての危険からもお守りくださいますようにお願いいたします。

・先週から集会形式の礼拝が再開されましたが、まだまだ新型コロナの問題が沈静化していませんので、どうぞお守りくださいますように。秋から冬にかけて感染拡大が心配されていますが、適切な準備がなされて、有効なワクチンや治療薬なども整えられていきますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

教会の鐘楼修繕用に11日に足場がかけられた

Live配信:2020年9月13日 聖霊降臨後第15主日礼拝 説教 「赦されたから赦そう」 浅野 直樹 牧師



こちらからご覧下さい

【 テキスト・音声版 】2020年9月6日 説教「二人の求めを叶える父」小山 茂 牧師

聖霊降臨後第14 主日 説教


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。
アーメン

罪の自覚、救いの喜び
今朝の福音書のテーマは、教会の中に罪を犯した人がいるなら、群れはどう対応したらいいかです。私たちは他人の罪に敏感に気付きますが、自分の罪に鈍感ではないでしょうか。罪を赦されるには、自らの罪を認めて悔い改め、相手に許しを請い求めます。相手から許され、天の神がそれを追認されて、罪の赦しが完成されます。なぜなら、罪の赦しは神の専権事項だからです。「ゆるし」を辞書で調べますと、罪は「赦し」の漢字が相応しいと思われます。赤はゆるめる、攵(ぼくにょう)は鞭打つ、両者から鞭打つことを緩める。つまり罪を赦す意味になります。そういえば、総督ピラトは主イエスを、十字架につける前に鞭打たせました。彼は鞭打つことで自分は主の罪を問わない、と意思表示をしたのはないでしょうか。

今朝の福音は語ります、「あなた方が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれる。」私はこの言葉、つなぐ・解く、両者を逆の意味に理解していました。正しくは、つなぐとは罪に結び付けることであり、解くとは罪から解くことです。私たちにとって誰かが罪を犯した、と判断するのは心の重いことです。できれば避けたいことであり、放置しておきたいことです。

罪と言えばルターの宗教改革は、贖宥状〔免罪符〕の販売をめぐり、異議申し立てから始まりました。生きている間に罪の罰を自らの責任でとる、または死んでから煉獄で償う、と当時考えられていました。贖宥状を買うことで、それらの償いを免れることができる、と教会が主張したからです。私たちは罪からの赦しをどのようにされるのでしょうか。

今日のルーテル教会では、礼拝の中で「罪の告白」と「ゆるしの祈願祝福」があります。前の一週間の行いと思いを振り返ります。その告白は一般告白であり、個別告白を求めるなら、牧師に面談を求めることができます。罪の自覚なしに赦された、と安堵してしまうのは、安価な恵みと言われます。神の恵みといいながら、あらゆる罪が神の愛のマントに覆われ、悔い改めなしに済まされるからです。主イエス・キリストが自らの命に代えて、私たちに与えられた救いの賜物を、心から感謝して受け取りたいものです。

神学生時代にルーテル神学校のS 先生が、教職神学セミナーで耳の痛い話をされました。最近の説教は罪を語らない、牧師が罪を語れない、と言われました。そう言われると、確かに説教で罪を語ることを、避ける傾向があります。牧師にとって罪の認識を語るのは、難しく感じられるからでしょう。罪がしっかり語たられた後、福音が力強く伝わります。私たちは罪をきちん自覚した後に、罪を赦され救われた喜びがあります。



教会内で罪の赦し
今朝の福音は二つの譬えに挟まれた、サンドイッチの中身になります。直前の「迷い出た羊」の譬え、直後の「仲間を赦さない家来」の譬え、両方の文脈の中にあります。ですから、前と後ろの譬えの意図をきちんと捉えて、福音を納得して受け取れます。「迷い出た羊」の譬えは語ります、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」また「仲間を赦さない家来」の譬えは、「7 回どころか7 の70 倍までも赦しなさい。~あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」私達にどこか怖い話に聞こえます。

主イエスは「兄弟の罪を全て赦しなさい」、さらに「兄弟を救う努力を惜しむな」と求められます。教会における罪の赦し方をどのように捉えるのか、御言葉に聴いてまいります。

個々人の罪に対する責任は、教会の群れの問題であると考えられます。つまり、罪は個人的なものではなく、共同体の問題として捉えられます。教会の群れにいる兄弟が罪を犯したなら、皆さんはどうされますか。聖書には、三段階にわたる方法が示されています。

第一段階は、「行って二人だけのところで忠告しなさい。」相手の心を傷つけないよう、密かに忠告をします。忠告すると訳されたギリシア語は、「罪を明らかにする」という意味です。もし聞き入れられたなら、失いかけた兄弟を取り戻すことができます。百匹のうち一匹の迷い出た羊を、捜し当てたのと同様です。そこには迷子の羊だけでなく、群れの99 匹にも喜びがあります。

第二段階は、「聞き入れなければ、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい。~二人または三人の証人の口によって確定されるためである。」自分以外の証人を加えて話し合いに及びます。兄弟の罪を素直に戒めることは、旧約聖書にも記されています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」《申命記19:15》罪の認定を二三人で行います、訓戒をする目的は非難や中傷することではなく、罪を確認して兄弟を取り戻すことにあります。

第三段階は、「それでも聞き入れなければ、教会に申し入れなさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい。」兄弟が教会の忠告に耳を貸さないなら、罪を明らかにして教会から排斥しなさい。でも教会が共同体の仲間を裁いて、拒絶してもいいのでしょうか。なぜなら、兄弟を群れから追い出すことになるからです。

主イエスはかつて言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」ですから教会から排除しなさいとは、主のお言葉とはどうしても思えないのです。教会の群れの一人を裁いて、罪人とするからです。私たちの知る主は諦めずに、悔い改めを待たれる方ではありませんか。

私たちも罪を犯す
今朝の福音から、あなたが罪を犯して忠告を受ける立場になれば、どうされるか考えてみてください。立ち位置が変わると聖書の御言葉が、全く違って聞こえてきます。第三段階で言われる、異邦人か徴税人と同様に看做されるとは、罪人とされて神の前に立てなくなります。神とのつながりがなくなり、天の国へ招かれるチャンスを失う、それはキリスト者にとって一大事です。18 節の言葉がポイントになります。

「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」つなぐとは罪と認定することであり、反対に解くとは罪を赦すことです。教会の判断する罪は、天においても追認されます。教会は罪を犯した人を罪に結びつけるか、罪から解き放つか、軽々しく判断できません。

罪を犯した人が罪を認めて、悔い改めるよう、私たちは共に祈ります。主の御心は一人も滅びることなく、全ての人を天の国に招きたいのです。それゆえ、私たちは仲間の罪が赦されるよう祈り、主が祈りをきっと叶えられます。主イエスはこう言われます、「どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」

その他に怠りの罪もあります。やるべきことをしないことも、罪のひとつに数えられます。旧約聖書はこう語ります、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」《レビ19:17》兄弟が罪を犯したと気づいたのに、彼を戒めない、彼に忠告をしない、それも罪だと言われます。教会の群れの中に、罪を犯した人がいるなら、放っておけないのです。彼を容易く切り捨てず、悔い改める手立てを尽くすよう、私たちに求められます。滅びることが父の御心ではないので、兄弟を罪から救う努力を惜しんではなりません。

共におられる神
福音の結びの言葉に注目しましょう。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」地上で教会の群れが共に祈る時、天の父も祈りに加わられ、祈りが聞き届けられます。主イエスの御名によって、私たちが必死に祈るならきっと聴かれます。なぜなら、主が私たちと共にいてくださるからです。主イエスが降誕された折、主の天使から約束されています、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル〔神は我々と共におられる〕と呼ばれる。」

《1:23》また、復活された主イエスは大宣教命令でも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」《28:20》と約束されています。小さな者が一人も滅びないよう、主の名によって集められた教会は、罪を犯した者に悔い改めるよう心を尽くします。兄弟同士の交わりは、仲間を群れの中に止めるよう最善を尽くします。父の御心は私たちが滅びることではなく、九十九匹を残して迷い出た一匹を捜し出される、その御心から兄弟に忠告するよう促されます。

忠告することは、相手に正面から向き合わなければできません。忠告されることは、気持良いものではありません。時に相手が頑なになったり、相手から恨みを買ったりします。兄弟として受け入れる時、互いに赦し合うことが求められます。私たちの努力だけでは難しいかもしれません。しかし、私たちの祈りが主イエスに聞かれる時、兄弟に寄り添って忠告ができます。ルターは「罪人にして同時に義人である」と言いました。罪人と義人は紙一重の違いであり、時に両者の逆転が起こります。私たちが滅びることは、天の父の御心ではありません。

カラヴァッジオ 「聖マタイの召命」 Caravaggio “The Call of Saint Matthew”



主イエスは約束されました、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心をひとつにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」教会は悔い改める者を赦して、その者を罪から解き放つ共同体です。教会が罪を犯した者を赦す時、天でも父はその者を赦されます。それは教会が罪を解くという、赦しの喜びとなります。共同体がひとつになり、主イエスはいつもその中におられます。一人の祈りが他の人の祈りとひとつになり、主は私たちをひとつの群れに結び合わされます。

《祈り》

恵み深い主よ。あなたが臨在される礼拝に招かれ、感謝をいたします。私たちと共にいると約束された主イエスは、私たちの集まる中におられます。地上で心をひとつにして祈るなら、主はそれを叶えてくださいます。私たちが共に祈りながら、地上で兄弟の罪を解くことを、神が天上から解いてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって、御前にお捧げ致します。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

Live配信:2020年9月6日 聖霊降臨後第14主日礼拝 説教 「二人の求めを叶える父 」 小山 茂 牧師



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【重要】9月からの礼拝について

むさしの教会に集う皆さま

8月度役員会で協議の結果、十分な新型コロナウイルス感染防止策を
講じたうえで、9月6日(日)より下記のように集会形式の礼拝を再開することに
いたしました。

《礼拝開始時間》
*第1部:10時30分〜11時10分
・予約制により定員は30名とします。
*定員を超えた場合、第2部を予定しています。
・第2部:11時30分〜12時10分

《予約方法》
*各主日礼拝の出席希望:前週の火曜から受付を開始します。
・受付時間 火〜金:10時〜20時、土:10時〜12時
*牧師:浅野迄(03-3330-8422 , 090-6461-5960)
電話にてご連絡ください。

《感染防止対策について》
*予めご自宅で検温の上、当日体調不良の方は来会をお控えください。
*来会時の健康チェック(体温:37度以下、咳、味覚障害等諸症状)、
消毒、記名を実施し、教会内はマスク着用をお願いします。
*密集を避け会堂内での会話は控えていただき礼拝後は速やかに退室を
お願いします。
*当面、教会内での飲食サービスは休止しますが熱中症予防の為のお飲み物は
ご持参ください。

皆さまのご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

2020年8月30日

むさしの教会
牧師 浅野直樹・役員一同

【 テキスト・音声版 】2020年8月30日 説教「キリストにならいて」浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十三主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書16章21~28節

今朝の福音書の日課は、いわゆる「受難予告」と言われる箇所です。
先週は、ペトロの信仰告白の場面を見てまいりました。ペトロは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とのイエスさまからの問いに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と立派な信仰告白をいたしました。そのペトロの信仰告白をイエスさまは大変に喜ばれ、その告白の上に教会が建てられる、と言われるほどでした。

しかし、今朝の箇所では、その舌の根も乾かないうちに大失態をしてしまいます。イエスさまの受難予告を聞いたペトロがそれを諌めたからです。先ほどの祝福とは打って変わって、「サタン、引き下がれ」と言われてしまうほどに、イエスさまを不快にさせてしまいました。なぜ、そんなことが起こったのか。

ペトロが「メシア」の意味を全く履き違えていたからです。確かに、ペトロは立派な信仰告白をしました。それは、神さまからの賜物でした。しかし、その内実について、果たしてペトロがどのように理解していたか、といえば、イエスさまの思いとは、もっと言えば、神さまのご計画とは遠くかけ離れていたわけです。ここに、私たちの信仰告白の姿を見るような気もいたします。

Christ’s Charge to Peter (1515) Raphael ラファエロ・サンティ ヴィクトリア&アルバート博物館



私たちもまた教会を訪れ、いろいろな経験を経て、信仰告白へと至りました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。しかし、どこまで分かっていたのか、と言えば、心もとない限りです。特に、受難…、十字架の意味など全く分かっていなかったのかもしれません。もっとも、受洗前教育などで教えとしては理解していたとしても、自分のこととして、その出来事がどれほどこの私にとって決定的な意味を持つ出来事であったか、といったことには、なかなか気づけていなかったのかもしれません。

そういう意味では、私たちもまた、イエスさまから「サタン、引き下がれ」と言われてしまう者であったのかもしれない。

それでも、やはり今朝の箇所を読んでいきますと、そんな不甲斐ない信仰告白であったとしても、意味があるように思わされます。21節でこう語られているからです。「このときから」。今日の箇所を含めて、マタイによる福音書には3つの受難予告が記されています。もっと正確にいえば、受難・十字架と復活の予告です。つまり、私たちキリスト者にとっての肝心要の教えが、この時からなされた、ということです。この信仰告白の前には、そのことは一切伏せられていた。

つまり、後に「サタン、引き下がれ」と言われてしまうような不理解なペトロの信仰告白であったとしても、その告白がなければ受難と復活の教えは出てこなかった訳です。たとえ不完全であっても、十字架と復活の意味が全く理解できていなかったとしても、この「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白からはじまっていった。しかも、その告白を与えてくださったのも、神さまに他ならない訳です。それもまた、私たちの信仰告白の道筋ではないか。その信仰告白を確かなものとしてくださるためにも、まず神さまの恵みによってその告白へと導かれ、その告白の意味するところを十二分に理解する歩みへと導いてくださるのではないか。そうも思うからです。

ペトロはなぜこのとき、「サタン、引き下がれ」などと言われてしまったのか。先ほども言いましたように、受難を予告されたイエスさまを諌めたからです。しかし、それが、どうしてそれほど悪かったのか。実は、私たちにも良く分からないのだと思う。なぜならば、ペトロとしては良かれと思ってやったことに過ぎないからです。ペトロなりにイエスさまのことを慮ってのことだったからです。ペトロなりの親愛の情から生まれたものだったからです。

現在、アメリカの大統領選が熾烈を極めていますが、自分が心酔し押す大統領候補がもし弱気な様子を見せたならば、「何弱気になってるんですか。大丈夫です。あなたならやれます。もっと堂々としていてください」と励まし、発破をかけないでしょうか。

それと同じことをペトロはやっただけです。イエスさまをメシア・救い主と信じて止まなかったからです。しかし、それこそが間違いなのです。ここで非常に重要なことが語られている。「神のことを思わず、人間のことを思っている」と。



私たちの間違いの原因は、大抵がここにかかっていると言っても言い過ぎではないでしょう。私たちは神さまのことを誤解している。何が本当に正しいことなのかも分かっていないのかもしれない。そして、悪魔のことも誤解しているのかもしれない。以前もご紹介したと思いますが、この悪魔のことを知りたければ、C.S.ルイスの『悪魔の手紙』を読まれたら良いと思います。ともかく、悪魔は私たちが想像するような毒々しい存在というよりも、いかにも善良そうにして近づいてくるのかもしれません。

そして、私たちを神さまから引き離そうとする。もし、このペトロの提案通りにイエスさまが十字架の死と復活を辞めてしまわれたなら、それこそ人類の救いはありません。一見良さそうな、イエスさまのことを慮った提案のように思えても、文字通り、ペトロは人類の敵、悪魔になってしまうのです。しかし、当の本人はそんなことはちっとも思っていないのです。自分の心配が当然だと思っている。自分がちゃんとイエスさまを補佐して、その道筋を正してあげなければと思っている。これは、愛から生まれていることだ。善意から生まれていることだ。だから、間違うはずがない。

ペトロは自分の信仰告白に確信をもってそうしたに違いないのです。しかし、その実は、善意のはずが、愛から出たはずが、神さまのご計画を破壊することになり、人類を救うというイエスさまの思いを踏みにじることになり、人類の救いの道を閉ざしてしまう人類の敵にさえなってしまいかねなかったわけです。それは、十二分に私たちも肝に命じておかなければならないことだと思う。なぜならば、私たちもペトロも全く同じだからです。自分ばかりを、人間ばかりを見ているからです。あなたは「神のことを思わず、人間のことを思っている」。私たちも、この過ちに真に気づき、戒めなければならない。

24節以下の自分を捨てよ、自分の十字架を背負え等の言葉も、このことを抜きにしては、おそらく理解しえないでしょう。「人間のこと」、つまり、私たち自身の思いとは全く正反対のことを言っているようにしか思えないからです。私たちは自分で自分の命を守ることこそ最良の道だ、と思っている。だから、何よりも自分を大切にしようとするわけです。しかし、本当にそれで人が幸せになれるのか、といえば、私はそうは思いません。

私自身のことも含めてですが、多くの悩み相談などを受けると、大抵自分を苦しめているのは、当の自分自身だということが多いからです。自分自身に縛られているからこそ、生きにくくしていることが多い。自分の過去に、自分の性格に、自分の経験に、自分の考えに、自分の感覚・感性に、自分の生い立ち・生育歴に、自分の問題性に本当に人は縛られている。そこから解放されることは至難の技です。

私たちとは逆に、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ことと正反対の生き方をされたのがイエスさまでした。「自分を捨て、自分の十字架を背負」われたのも、何よりもイエスさまご自身でした。イエスさまはご自分の命においてさえも自由でした。神さまの御手に一切を委ねておられたからです。だからこそ、イエスさまは命を得ていた。真の自分を持っておられた。真の自由の中を生きることがおできになった。



イエスさまは「わたしのために命を失う者は、それを得る」とおっしゃいます。命とはもちろん、私たちにとって最も大切なものです。私の存在自体と言い換えても良いでしょう。そして、本来の私とは自由な存在である。自分自身の命に雁字搦めになるならば、かえって自分に縛られて真の自由を奪われてしまうことになってしまいますが、̶̶それは命を失うと言っても良いでしょう̶̶イエスさまに命を、私たちの存在すべてを預けて、委ねてしまうならば、真の私に、真の自由な私になっていける。それが、命を得る、ということでもあるのではないか。そう思うのです。

確かに、ペトロは大変な叱責を受けてしまいましたが、それは、この命に招かれているが故であることを忘れてはいけないと思います。私たちも、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をいたします。しかし、それは、まだまだ不十分で、「サタン、引き下がれ。あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われてしまうような有様かもしれません。しかし、それは、見放されているのではないのです。むしろ、招かれているのです。私に命を預けよ、と。私に、お前自身を委ねよ、と。そこに、真のあなた自身の姿になり得る道筋があるのだ、と。命を得る道筋が…。その招きを大切にしていきたいと思います。また、それが、イエスさまに…、「キリストにならう」ということでもあると思います。

Raphael (Urbino 1483-Rome 1520) Christ’s Charge to Peter c.1514 Drawing



《祈り》

・我が国の首相が体調不良のために辞任されました。個人的には思うところもありますが、長年重責を担ってこられたことは事実です。治療を導いてくださり、1日も早い回復をお与えくださいますようにお願いいたします。
新たな首相が選ばれて行くことになりますが、これまでの反省を生かしながら、このコロナ禍にあって、また緊迫した国際情勢の中にあって、適切なリーダーが選ばれていきますようにどうぞお導きください。

・来週、9月6日から会堂での集会式の礼拝を再開することといたしました。まだまだ新型コロナがおさまりきらない中での再開で心配もありますが、どうぞ全てを守り導いてくださり、良き礼拝の時となっていきますようにお助けください。

・日本では徐々に感染者数が減って来ていると言われていますが、依然として多くの方々が感染をされています。また、重症の方、残念ながらお亡くなりになられているかたもいらっしゃいます。どうぞ憐れんでください。医療現場も大変な状況が続いていることで
しょう。どうぞ、働かれているお一人お一人をもお守りくださいますように。世界ではもっと多くの方々が感染をされています。重症化する方、亡くなられる方々も多くおられます。どうぞ憐れんでくださり、一日も早い終息へとお導きくださいますようにお願いい
たします。

・いよいよ台風シーズンがやってまいりました。先日の台風8号は朝鮮半島を襲い、北朝鮮でも大きな被害が出ているとも聞いています。このところ北朝鮮では食糧難が言われていますが、今回の台風被害によっても多くの国民が苦しむことになるのかもしれません。体制にはいろいろな思いがありますが、どうぞ人々をお守りくださいますように、国の指導者たちも何よりも国民のことを考えて行くことができますようにお導きください。また、台風9号が発生し、非常に勢力を強めながら九州地方に近づく予報がされています。先の大雨でも大変な被害が出てしまった地域です。どうぞ憐れんでくださり、被害がでませんようにお助けください。また、この台風シーズン、むさしの教会の会堂もお守りくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン