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【説教・音声版】2021年7月11日(日) 10:30 説教 「 保身の歴史 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第七主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書6章14~29節

私は正直、今日の福音書の日課に戸惑っています。
ご承知のように、昨年から聖書日課が変わりました。いわゆる「改訂共通聖書日課」が使われるようになったからです。これは、ルーテル教会のみならず、聖公会など多くの主要教派が採用しているものです。私はこれまで、少なくともルーテル教会に移ってからは、この箇所から説教したことはなかったと思います。しかも、今日の箇所には、救いが見当たらない。あの洗礼者ヨハネが時の権力者によって、不当に殺害されてしまうからで
す。言ってみれば、ただそれだけの物語でもあるからです。ですから、ここから何が語れるのか…、と困惑するのです。

しかし、この現実から目を背けてはいけない、とも思います。現代においても、権力者たちによる不当な行いによって、多くの命が奪われている現実が確かに存在しているからです。いいえ、現在はますますそういったことが顕著になっているようにも思います。多くの国々で、しかも大国と思われるような国々でさえも、権威主義的な指導者たちが多く出ています。ひと頃は、あのアメリカでさえもそういった指導者が出たことに驚きまし
た。軍事政権に至っては、その様子は顕著でしょう。平和的な抗議デモに対して武力で鎮圧を図る。そのために、どれほど多くの人命が奪われたことか。

では、我が国ではどうなのか。私は、今日の記事を読んで、赤木さんのことが思い出されました。ご存知のように、森友学園の公文書改竄問題に関わらされて命を落とされた方です。ようやく…、本当にようやくです。再三の請求があったにも関わらず、なかなか提出されなかった、いわゆる赤木ファイルが公開されました。それ以前からも伝えられてきたことではありますが、公務員としての使命感を篤くされていた赤木さんは、必死に抵抗された。それは、国民を裏切ることになると、公務員としての使命を逸脱することになると、必死に抵抗された。しかし、組織の中では、従わざるをえなかったわけです。それで、心が病んでしまわれた。本当に前代未聞のことです。

前政権以降ではないでしょうか。「忖度」といった言葉が巷に溢れ出したのは。権力者たちは、直接手を下してはいないのかもしれない。指示していないのかもしれない。しかし、権威主義的な、あるいはそこから発生した構造的なものによって、権力者たちの意向を慮っていったために、ますます責任の所在が不明瞭となり、自制する危機意識さえも希薄になっていったのではないか…。私はそう思います。これは直接的よりもより巧妙で、根が深い問題なのではないか。我が国においても、そんな厳しい現実があるようにも思うのです。

ともかく、今日の福音書の日課は、時の権力者が正しい人の命を奪ってしまった、という史実としても伝えられている物語です。しかし、ただの権力者の横暴といった図式で描かれていないということにも注意が必要です。つまり、時に権力者というものは、民衆の生殺与奪の権を持っていると思いがちですが、そういったことだけにはとどまらない、ということです。

今日のところでの権力者は、「ヘロデ王」となっています。あの、イエスさまがお生まれになったときにユダヤを支配していた「ヘロデ大王」と言われる王の息子ということになります。正確には、ヘロデ・アンティパスです。ヘロデ大王の死後、このヘロデ・アンティパスは主にガリラヤ地方を受け継ぎました。ですので、ここでも正確には「王」ではなく、一領主に過ぎない、と言われます。

しかも、実際にはその領土はローマの直轄領であり、名目上の領主に過ぎなかった、との解説もあります。それでも、小さいながらでも権力者には違いないでしょう。そして、彼自身、先ほども言いましたように、領民に対しての生殺余談の件を持っていると思っていたのかもしれません。悪名高いヘロデ大王の息子らしく、と言いますか、彼もまた好人物とは言えなかったようです。

ヘロデの宴会(部分)フィリッポ・リッピ ドゥオーモ、プラート 1452-1465年



彼は異母兄弟であったフィリポの妻…、実はこれも間違いだったようで、異母兄弟の妻には違いないのですが、フィリポではなく、ヘロデ・ポエトスの妻を娶りました。横恋慕だったかどうかは分かりませんが、ともかく、律法違反の婚姻を結んでいたわけです。ちなみに、このフィリポはヘロディアの娘である「サロメ」と結婚していたようです。ともかく、その結婚は不正であると洗礼者ヨハネは訴えたのです。

そして、ヘロデ・アンティパスはその声が目障りだったのでしょう、不当にもヨハネを拘束したのでした。ここまでは、よくあるような悪代官の物語でしょう。しかし、ここから様子が変わってきます。自らの不正を訴えられ、目障りだったヨハネを捕まえてはみたものの、そのヨハネと直に触れることによって、領主ヘロデの心が変わってきたからです。「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言ったからである。そこで、へロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」。

これは、非常に慰められる言葉だと思います。人は変われる。どんなに無慈悲で横暴な権力者であっても、神の言葉の前では人はこのようになれるのだ、と思えるからです。しかし、残念ながら、物語りはここで終わらない。「ところが、良い機会が訪れた」と聖書は記します。これから、あのヘロデさえも「正しい聖なる人」と認めることができたヨハネが殺されていくことを、「良い機会が訪れた」と捉えることができる人の悪意を空恐ろしく感じます。ヘロデの誕生日に、へロディアの娘であるサロメが素晴らしい舞を踊った。それに感動したヘロデは、欲しいものは何でもかんでも与えようと約束します。そして、サロメの願ったものは、洗礼者ヨハネの首だった。ヘロデはなぜ洗礼者ヨハネを殺したのか。大罪を犯したからか。自分に楯突いたからか。叛逆したからか。

そうではない。自分のメンツのため、でした。自分の保身のため、でした。彼はそんな動機で、自身でも「正しい聖なる人」と認めていた人を殺してしまったのです。そして、それが、なんともリアルだと私は思う。
思えば、イエスさまの時もそうでした。総督ピラトはイエスさまの内に罪を見出さなかった。イエスさまを解放しようと尽力さえした。しかし、最終的には民衆の声を優先させ、自分の責任を放棄し、十字架につけてしまった。それも、「保身」と言えるのではないか。

人を殺す・あやめる、その人の人生を奪う動機が、正しさでも、法律違反でも、倫理規定違反でもなんでもなくて、ただメンツのため、保身のため、ということに、心が痛くなります。しかも、それは、特に彼ら権力者たちに顕著かもしれませんが、誰の内にも見られるものでもあると思うからです。しかし、これで終わらないのです。このヨハネの死で終わらなかったのです。これは、ぜひ覚えておきたい。これらは、あたかも敗北のように思えてしまいますが、しかし、決して敗北ではなかった。必ず、続きの物語りが起こるからです。それが神さまの言葉、福音ならばなおさらのことです。ヨハネが沈黙した後は、イエスさまが引き継がれました。

より優れた形で、神さまの言葉を、思いを人々に届けていったのです。だからこそ、イエスさまの評判を聞いてヘロデは「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と恐れたのです。イエスさまの死によっても、それは終わらなかった。弟子たちが受け継いでいったからです。何代にも何代にも渡って引き継がれてきた。その現実の中で。私たちにも。なぜならば、神さまがいてくださるからです。神さまは、どんな人の悪意によっても、決して負けることなどないからです。むしろ、神さまの愛は必ず勝つ。私たちは、そのことも決して忘れてはいけないのだと思います。

【Movie】2021年7月11日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【 Live配信 】2021年7月11日(日)10:30 聖霊降臨後第6主日礼拝  説教 「 保身の歴史 」 浅野 直樹 牧師



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【 Live配信 】2021年7月4日(日)10:30 聖霊降臨後第6主日礼拝  説教 「 イエスの驚き 」 浅野 直樹 牧師



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【Movie】2021年7月4日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【説教・音声版】2021年7月4日(日) 10:30 説教 「 イエスの驚き 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第六主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書6章1~13節

今日の福音書の日課には、こんな言葉が記されていました。「そして、人々の不信仰に驚かれた」。何とも印象深い、と言いますか、心に迫る言葉だと思います。
これまで、度々イエスさまに対する人々の「驚き」については記されていました。直近の例では、先週のヤイロの娘を復活させた時もそうでしたし、今日の日課においても、礼拝の場で語られたイエスさまの教えを聞いて、人々が驚いた様子が記されていました。しかし、ここではイエスさまが「驚かれた」と言います。

これは、大変珍しいことです。しかも、ここでイエスさまが驚かれたのは、郷里の人々の不信仰ぶりだったという。イエスさまに敵対する勢力の、時の指導的立場の人々の不信仰ぶりではないのです。イエスさまと共に生きてきた、ある意味イエスさまのことを一番良く知っているはずの、さっきまで驚きをもって喜んで話を聞いていたはずの人々の「不信仰」…。だからこそ、なのでしょう。私たちは、ここに心が吸い寄せられるような思いがするのではないか。そう思うのです。

先週は、今日の日課の直近の出来事として、二つの奇跡物語を見ていきました。長く婦人病を患っていた人の癒しの物語り。そして、死んでしまったヤイロの娘の復活物語り、です。もちろん、そうなのですが、この二つの物語りは「信仰の物語り」と言っても良いと思うのです。なぜなら、イエスさまはこう語っておられるからです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と。もちろん、色々と議論はあるでしょう。この女性の信仰は、自分勝手でひとりよがりな信仰だ、とか。

確かに、そうかもしれません。しかし、この女性はイエスさまの衣に触れさえすれば癒される、と信じたのです。そして、事実、その通りになった。イエスさまもご自身から力が出ていったことを感じられた、という。弟子たちが言っているように、この時、イエスさまの衣に触れた人は、この女性に限らないわけです。多くの人々がひしめき合って、イエスさまと触れていた。

しかし、力が出ていったのは、この人の時だけです。だからこそ、イエスさまはこの女性を探されたのです。ある意味、この女性の信仰を認められた、と言っても良いのかもしれません。もちろん、イエスさまはこの女性としっかりと向き合われて、その信仰を正していかれたことも忘れてはいけないと思いますが…。ともかく、奇跡の前に信仰があったことを、この物語りは語っているのです。

一方のヤイロも、イエスさまならば娘の病を癒してくださるに違いない、とわざわざ出迎えにいった訳です。その願い叶わず、結局娘は死んでしまいますが、それでもイエスさまはこのヤイロに信じることを求められました。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。この時点では、ヤイロもまさか娘が復活するなどとは思ってもいなかったでしょうが、それでも、絶望の中にありながらも、このイエスさまの言葉に促されながら、支えられながら、イエスさまを家へと、娘の元へと案内していきました。

これも、やはり信仰の姿だと私は思います。このように、信仰の物語りがあって、次の場面では、不信仰の物語りが展開されていくことになる。ある方は、マルコはこのコントラストを描くことを目的にしていたのではないか、と指摘されていますが、そうかもしれません。明らかに、対照的です。

では、なぜ、郷里の人々は、イエスさまが驚かれるほどに「不信仰」に陥ってしまっていたのか。それは、あまりにイエスさまのことを知っていると思いすぎていたからです。イエスさまのことを完全に見誤っていた。そのことは、この言葉からも推察されます。

ヘンリク・シェミラツキ 「最後の晩餐」(1876)



「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。この言葉を見る限り、イエスさまの家族は特別ではなかったようです。その町のどこにでもいる普通の家族だった。そういう意味では、イエスさまも特別ではなかったのでしょう。生まれてすぐに歩き出した、とか、言葉を話し出した、とか、そういった伝説級ではなかった。

普通におしめを替えられ、町の子どもたちと一緒になって、鼻水を垂らして遊びまわっていたのかもしれない。そうです。あまりに、普通すぎたのです。それも、意味あることです。神の子が普通に、私たちと全く同じように生まれ、生きてくださった。しかし、彼ら地元民にとっては、これが躓きになってしまった。むしろ、特別ならば、良かったのかもしれません。もともと自分達とは住む世界が違う王族だとか、代々有名な学者を生み出すような特別な家柄だとか、自分達とは違う、敵わない、と思えたならば変わったのかもしれない。

しかし…。奴は大工のせがれだろ。俺たちと同じように、ついこの間まで汗水垂らして働いていたじゃないか。奴の子どもの頃のことだって、俺たちは良く知っている。なのに、なぜだ。俺たちと同じはずなのに、俺たちと何も変わらなかったはずなのに、なぜそんなことが出来るのだ。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」。

「嫉妬」もあったのかもしれません。あまりに自分達と同じだと思いすぎていたために面白くなかった、素直になれなかったのかもしれません。そして、それは、自分達が劣っているということを、この人に助けてもらう必要があるということを、つまり、自分達の弱さを認めることができなかったことにもつながっていくのかもしれません。

今朝の使徒書では、あのパウロですら自分の弱さを自覚する必要性があったと訴えます。そして、その弱さを知った者こそが体験することができる強さがあることを告げるのです。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。…それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。

ここでパウロが言う「強さ」とは、自分の強さ、自分の内から出る強さでないことは明らかです。そうではなくて、神さまの力が、その強さが体験させられる場が本当の意味での「強さ」なのだ、という。これが、信仰なのです。

12年間病に苦しんだ女性も、ヤイロも、自分の弱さをとことん知らされた人たちです。だからこそ、イエスさまに救いを求めた。それが、信仰と認められた。方や、同郷の者たちは、あまりにイエスさまが身近すぎたからこそ、謙ることができずに、救いのチャンスを逃してしまった。形はどうであれ、罪人と揶揄された人々と宗教的指導者との間にも見られるものです。イエスさまを前に、救いを必要としている弱さを認めることができなかった。

神の子が私たちと同じようになってくださったのです。これが、イエスさまを見誤らない秘訣でしょう。「神の子」と「私たちと同じように」です。この両者です。ただの近しさでもない。ただの超越性でもない。この両者が、イエスさまの中に受肉されている。だからこそ、私たちは弱くなれる。世の中の道理に合わせて、必死に自分を立たせる強さを探し求めるのではなくて、素直に、ありのままに弱さを認めることができる。理解し、強めてくださる方がいてくださるから…。そうではないでしょうか。

【 Live配信 】2021年7月4日(日)13:00世界祈祷日礼拝  バヌアツからのメッセージ



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【Movie】2021年6月27日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【説教・音声版】2021年6月20日(日) 10:30 説教 「 あなたは眠れるか 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第四主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書4章35~41節

本日の福音書の日課は、嵐を鎮められた、いわゆる「奇跡物語り」です。聖書には、数多くの奇跡物語りが記されていますが、その中でも良く知られている物語りではないでしょうか。そして、なんだかふと映像が浮かんでくるような…、̶̶それほど大きくもないボートのような舟が、突然の突風による大波に翻弄されて、慌てふためいている弟子たちの姿が…、イエスさまが波風を叱りつけられると急に静かになって、雲の隙間から光が差し込んでくるような(実際は、どうやら夜間のことのようなので、光は差し込んではこないのでしょうが)̶̶そんな物語りだと思います。

ところで、そんな日課から今日は「あなたは眠れるか」といった説教題をつけさせて頂きました。何だか変な題だ、と思われたかもしれません。では、どうしてそんな題をつけたのか。弟子たちが命の危険を感じるほどの嵐の只中で、イエスさまだけは艫の方でぐっすりと寝ておられた、と記されているからです。これまでも、何度もこの箇所は読んでも来ましたし、説教もしてきた訳ですが、正直、この点についてはそれほど関心をもっていなかったように思います。しかし、このコロナ禍ということもあるのでしょうか。この時のイエスさまの姿と弟子たちの姿とのコントラストに、妙に胸が刺されたように思ったからです。

 みなさんは、ちゃんと眠れていますか? 睡眠の大切さは、以前から言われていることですが、最近では専門のクリニックもあるようで、結構人気だと聞いています。そういう意味では、病気と同じように、健康に重大な影響を及ぼしていると考えられているからでしょう。もちろん、睡眠障害の原因は様々だと思いますが、精神的な側面ということも、やはり無視できないのではないでしょうか。
私は幸い眠れる方です。昔からよく眠る方でした。最近は加齢のせいか、ちょっとしたことで目が覚めてしまうことも多くはなりましたが…。そんな私でも、やはり何度かは眠れぬ夜がありました。悩み、苛立ち、不安…、いろんなことが頭をぐるぐると駆け巡って、結局朝になってしまったことも、数は多くはありませんが、ありました。もちろん、原因は様々です。ちょっとした工夫で眠りの質が変わることだってある。しかし、やはり、ぐっすりと眠れることは幸なのだと思うのです。人は、安心しているからこそ眠れる、というところも、確かにあるからです。

この物語りはガリラヤ湖で起きた出来事です。このガリラヤ湖は、イエスさまが活動拠点にしていたガリラヤ地方にある淡水の湖で、魚も豊富だったことから、昔から漁業で有名だったようです。イエスさまの弟子たちの中にも、そんな元漁師たちが何人もいました。みなさんは、このガリラヤ湖の南にある死海もよくご存知でしょう。世界で最も低いところにある湖です。ですから、ここに流れ込む水は逃げ場がないので、入ってきた水はみんな蒸発してしまい、そのために塩分濃度が極端に濃くなったと言われています。生き物が生息できないそんな死海と真逆のように思われるこのガリラヤ湖ですが、実は、死海に次いで二番目に低い場所にあるのです。水面の高さは、海抜マイナス213メートル。

海の高さから、まだ213メートルも低いところに水面がある。そして、周りは丘のようになっていてすり鉢状なので、結構突風が吹くようなのです。この辺の人なら、みんな良く知っていたことでしょう。しかも、弟子の中には、元漁師、この湖のプロたちもいたわけです。そんな彼らが、この突風で慌てふためいた。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。この湖のプロたちが、これほど慌てるということは、彼らにとってもかつて経験したことのないような荒れよう、まさに命の危険を感じるような状況だったことが想像できます。そんな状態なのに、イエスさまはまだ眠っておられた。少々の嵐ではない。まさに命の危険を感じるような中で、まだ眠っておられた。さすがに、あまりの無頓着ぶりに弟子たちもキレたのかもしれません。

レンブラント・ファン・レイン (1606–1669) The Storm on the Sea of Galilee ガラリアの海の嵐



「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と憤慨しながら、イエスさまを起こしました。すると、やおら起き上がって風を叱りつけられると、あれほど荒れ狂っていた波風が一瞬でおさまり、凪になってしまった。そして、イエスさまは弟子たちに語られた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。深い沈黙に落とされるようです。そう、明らかに違う。嵐の中でさえ眠っておられたイエスさまと、恐れに取り憑かれて狼狽えるしかなかった弟子たちと。その不信仰ぶりに、打ちのめされる思いがいたします。しかし、私たちにも言い分がある。もちろん、自分たちの不信仰ぶりは認めます。情けないとも思う。しかし、あなたと比較されても困ります。あなたのようにはなれません。あんな波を見せられたら、荒れ狂った姿に晒されたら、舟が軋む音を、今にも転覆しかねない様子を体験したら、とても安心して寝てなどいられません。むしろ、恐れまどうことの方が自然なのではないでしょうか、と。

イエスさまにも眠れぬ夜がありました。あの十字架を目前に控えたゲッセマネでの祈りの時です。この時は逆に、弟子たちは眠りこけていた。これから起こるであろうことを理解できずに、肉体の弱さから眠りに落ちてしまっていた。そういう意味では、何でもかんでも眠れるならば良い、ということではないでしょう。そうではなくて、眠れぬ夜もあるのです。そういったことを引き受けなければならない時が。それも、信仰から、神さまに従うところから生まれるのです。

しかし、この時は違った。まだその時ではなかった。だからこそ、イエスさまはたとえ嵐の只中でも眠ることができた。神さまのご計画を信じていたからです。そのご計画に従っておられたからです。神さまに不可能なことは、何一つないのだと。だから、この時は、安心して眠ることができた。
ここで弟子たちに、「まだ信じないのか」と言われた理由について色々と言われているようですが、私は、35節にそのヒントがあるのではないか、と思っています。「その日の夕方になって」。その日とは、前回学んだ譬え話を語られた日を指します。その日、おそらくイエスさまは一日中、多くの人々に教えておられたのでしょう。神の国のことを。

そうです。イエスさまは譬え話で神の国を教えておられたのです。神の国とは、独りでに成長していくものだ。神の国は、最初はからし種のように小さいかもしれないが、やがて信じられないほど大きく成長していくのだ、と。これは、イエスさまご自身のことでもある。イエス・キリストという存在が、神の国を、神さまのご支配をこの地上にもたらすからです。病人を癒し、罪人を回心させ、悪霊を追放されるイエスさまの姿を見れば、神さまのご支配がすでに始まっていることを知ることができるからです。つまり、そこに、その舟の中に、弟子たちの只中にイエスさまがおられる、いてくださるということは、そこに神の国が、神さまのご支配がある、ということです。ならば、それは決して「破滅」で、「滅び」で終わるようなことはないでしょう。

しかし、弟子たちにとっては、それがまだピンと来ていない。うまく結びついていない。確かにイエスさまのことは尊敬するし、立派な方だと思っているけれども、そこにこそ神さまの国がすでにはじまっているとは、理解できていなかったのです。信じることができていなかったのです。だから、ま・だ・信じないのか、です。これほど一緒にいて、誰よりも私のことをよく知っているはずなのに、ま・だ・信じないのか、なのです。イエスさまと神の国とを。

不信仰とは、叱責されるべきものです。もちろん、私たちの誰もが叱られたくはないでしょうが、しかし、それがどんな理由でなされたかで違ってくるはずです。イエスさまの叱責は愛から出ている。だから、嵐を鎮められた上で、救われた上で叱責されるのです。信じたら、恐れなくなったら、嵐を鎮めよう、救おう、ではない。

たといイエスさまと共にいたとしても、この弟子たちのように嵐に遭遇するものです。苦難に遭わない訳ではない。そんな時、とてもイエスさまのようには高枕で眠ることなんてできないのかもしれません。それでも、イエスさまと一緒なら、溺れて死ぬことはないだろう、と試練に耐えることはできるのかもしれません。いいえ、たといその時に、そんな信仰を持てなくても、イエスさまを叩き起こせばいい。あの弟子たちのように。「私たちが溺れてもかまわないのですか」と。

不信仰を咎められるかもしれませんが、それでも私たちを助けてくださるに違いないからです。そして、そんな体験の積み重ねが、イエスさまと神の国とを結びつけていくことに、信じていくことに繋がっていくようにも思うのです。そして、安心して眠ることにも。そう思うのです。

【 Live配信 】2021年6月20日(日)10:30 聖霊降臨後第4主日礼拝  説教 「 あなたは眠れるか 」 浅野 直樹 牧師



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【 Live配信 】2021年6月13日(日)10:30 聖霊降臨後第3主日礼拝  説教 「 神の国のたとえ 」 浅野 直樹 牧師



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【説教・音声版】2021年6月13日(日) 10:30 説教 「 神の国のたとえ 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第三主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書4章26~34節

今日の福音書の日課は、「神の国のたとえ」として良く知られている譬え話しでした。皆さんも何度もお読みになられたでしょうし、ここからの説教もお聞きになられてきたことでしょう。

少し前に、『神の国とキリスト教』という古屋安雄という先生̶̶この先生は元ICU…国際基督教大学教会の牧師と、教授をされていた方ですが̶̶が書かれた本を読みました。私にとっては、決して簡単な本ではありませんでしたが、共感を生む刺激的な本でもありました。これまでも先生の本は何冊か読ませていただきましたが、日本にキリスト教が浸透していかない、根付いていかないことに強い問題意識と危機感を持っておられるように感じます。この本もそういった問題意識の中で記されているものだと思いますが、先生はその原因の一つとして、日本(の教会)では「神の国」ということが語られてこなかったことにあるのではないか、と指摘しておられます。

日本の主要な教派、牧師たちは、「神の国」についてほとんど語ってこなかった。日本で唯一語ってきたのは、賀川豊彦と羽仁もと子くらいではないか、とまで言われる。では、なぜ語ってこなかったのか。これなかったのか。その原因に、古屋先生は「神国日本」という相対立する日本の固有理解にあるのではないか、と指摘されます。そして、特に戦時中、教会は、多くの牧師たちは、当局を憚ってその誤りを正せなかった。むしろ、妥協して、戦争協力にまで踏み出してしまった。

それは、こんな言い方も許されるのかもしれません。現実世界から逃げ出して、信仰の世界へと閉じこもっていった、と。この点について、当時の日本の教会とドイツの教会とがよく比較されることはご存知だと思います。当時のドイツの教会も、ナチスによって相当苦しい状況にありました。そんな中で、むしろ積極的にナチスに協力する教会もあったわけですが、それに反対する告白教会も出てきたわけです。日本でも決してなかったわけではない。特高に捕まり、暴行の果てに命を落とした牧師の話しも聞きます。

しかし、残念ながら、とその時代を知らない者が簡単に言えることではないことも重々承知していますが、日本では決して多くはなかったことも事実です。

長々と歴史的な話しをしてしまいましたが、それが今の私たちとどう繋がるのか。確かに、かつてはそういったことがあったであろう。色々と反省も求められるのかもしれない。古屋先生の指摘ももっともかもしれない。しかし、現代において「神国日本」なんてどれほどの影響があるのか、とも正直思う。しかし、古屋先生は何も過去の話しをしているのではないのです。過去、あの時代において「神の国」を打ち出せなかったことに問題がある、ということではない。今、この現在にまで続いていることに課題があるのではないか、と言われているのではないか。そう思うのです。

先ほどの私なりの解釈をすれば、現実世界から逃げ出して信仰の世界へと閉じこもることに、現実生活と信仰生活とを切り離してしまうことに、課題があるのではないか、と。現実生活・現実社会と信仰世界の乖離、世の中は世の中、私の信仰は私の信仰とすることに。日常生活の中に、信仰の事柄は入ってきて欲しくない、と割り切るところに、その課題が…。なぜならば、「神の国」とは日常だからです。ありふれた日常生活、社会生活の中に神さまのご支配が入ってくることだから、です。

Salvadora persicaサルバドラペルシカ(からしだね) Wikipedia



「神の国」の譬え話に戻りますが、どちらの譬え話も非常に分かりやすいものだと思います。この両者の共通しているのは「種」が登場してくることでしょう。最初の譬え話は、その「種」が自然に成長する、ということです。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。

これは余談ですが、ここで「夜昼、寝起きして」と記されていますが、これは、ユダヤ人たちの一日の数え方を反映してのことだろう、と言われています。ご存知のように、ユダヤ人は日没から一日が始まる、と考えるからです。しかし、日本人の私たちからすると、なかなか馴染まない感覚でしょう。私自身、けったいやな、と思っていましたが、ある方の指摘を受けて、少し考えてみました。

皆さんも、そんなふうに感じたことはないでしょうか。朝起きて、今日も一日頑張ろうと思う日もあれば、もう朝が来てしまったのか、あ~、しんど、と思う日が…。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私がルーテル学院大学に通っていた2年間は、まさにそういった状態でした。学校から帰ってくると、食事をして、風呂に入って、午後8時からはじまる勤務時間に間に合うように家を出て、明くる朝午前8時に仕事が終わると、その足で学校に行くという生活が続いた。

あまりのしんどさに、正直、次の日よ来ないで、と何度も思いました。活動から一日が始まるという私たちの感覚。休息から一日が始まるというユダヤの感覚。私は、このユダヤ人たちが考えた一日のあり方もいいな、と正直思いました。ともかく、蒔かれた種がどのように成長し、実っていくのか、人は知らないのです。神さまがそのように、種を、土・世界を造られた。自然に成長し、実っていくように、と。

そうとしか、言えない。これは、非常に慰められる言葉です。しかし、同時に、私はいつもここで自分の不信仰さを知らされるのです。なぜ、この神さまを信頼して待てないのか、と。信じているといいながら、あれは出来ているだろうか、これは出来ているだろうか、と、自分の業ばかりに心奪われて、芽が出てこないとなぜだ、と問い、不良品ではないか、と疑い、思ったような成長が見られないと、そこでもイライラしてしまう自分がいる。

本当に情けない、と思いつつも、それを繰り返してしまう始末です。何もしなくて良い、ということではないでしょう。この農夫も自分にできることをしたでしょう。水をやり、草を刈り、肥料を与えたりと。しかし、それよりもはるかに大事なことに目を向けてほしい、と言われるのです。種を芽吹かせ、成長させられるのは、神さまのみ業なのだ、と。

人は、どうしてそのようになるのか理解できなくとも、神の国というものは、そのように必ず成長していくものなのだと、そう言われる。 次のからし種の話も、よくお分かりでしょう。最初は小さくとも、大きく育つということです。そうです。最初は小さいのです。よくよく見ないと見えないほどに小さく、これが果たして成長するのか、と疑われるほどです。しかし、神の国とは、そうやって始まっていったのです。最初は、イスラエルの始祖アブラハムからだ、と言っても良いのかもしれません。その時代、世界の人口がどれほどだったかは分かりませんが、その中のたった一人の人からはじまったと言っても良いでしょう。そのアブラハムに神さまはこのように約束された。

「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。…地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」。神の国とは、神の支配を意味する、とよく言われます。しかし、それは、世の支配者たちが、自分たちの権勢を誇るために権力を振るうような支配とは明らかに違うはずです。そうではなくて、祝福を与えるための支配。全ての人々に、神さまの祝福が豊かに行き渡るためのご支配です。そして、その神さまの祝福とはなんたるかを具現化されたのが、他でもないイエスさまなのです。だから、神の国はイエスさまご自身だ、とも言われる。イエスさまの存在、その言動、イエスさまの全てが、神の国を、神さまの支配を、私たちに知らせてくれる。

日本におけるキリスト教人口は1%とも言われています。人口比30%のお隣韓国ともよく比較され、前述の古屋先生のような危機感ももっともだと思います。ですから、これまでの経緯についての反省も大いに意味があると個人的には思っているところです。しかし、考えてみれば、先ほども言いましたように、この神の国の宣教は、最も小さなからし種からはじまったことも忘れてはいけないのだと思うのです。神の国とは、たとえからし種ほど小さくとも、信じられないほど大きく成長する。しかも、それは、人為的でもなく、神さまの業として、自然と大きく成長していくものなのだと、イエスさまも語ってくださっているからです。

ですから、やはり大切なことは、種を蒔くことでしょう。神さまを、イエスさまのこの言葉を信じて。そして、重要なのが、どんな種を蒔くか、です。いくら驚くほど成長するからといって、からし種を蒔いても意味がありません。あくまでも、蒔くべきものは、からし種のような特徴を持っている「神の国の種」でなければならないはずです。そして、その種を持っているのは、おそらく私たちだけでしょう。イエスさまを知っている、信じている私たちだけが、この「神の国の種」を蒔くことができる。

神さまの祝福の種を、私たち人類に何を望んでおられるのかという種を、ご自身の愛の結晶である種を、私たちは蒔くことができる。そうでは、ないでしょうか。

人口比1%という小ささに、怯む必要はないのかもしれません。自分たちの教会の教勢のために、あくせくするのとも違うでしょう。そうではなくて、この日本に神さまの国が豊かに広がるように、信じて、信頼して、種を蒔き続けて行きたいと思います。

【Movie】2021年6月13日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【説教・音声版】2021年6月6日(日) 10:30 説教 「 家族になる 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第二主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書3章20~35節

今日から…、正確には今日は聖霊降臨後第二主日ですので、先週からと言った方が良いのでしょうが、教会の暦としては「聖霊降臨後」の季節、「緑(典礼色としては)」の季節に入っていくことになります。つまり、特別な祝祭…、宗教改革主日とか全聖徒主日などがない限り、今年はB年ですので、落ち着いてマルコによる福音書を学ぶことになるわけです。ですので、早速ですが今日の日課であるマルコによる福音書3章20節以下をご一緒に見ていきたいと思います。

今日の福音書の日課は、先ほどお読みしましたように、マルコによる福音書3章20~35節でした。新共同訳では二つ小見出しがついていますので、二つの物語ということができるでしょう。一つ目は「ベルゼブル論争」と小見出しがついていますが、イエスさまが行われていた悪霊追放の業を、「悪霊の頭の力」で行っているに違いない、との指摘から起こったものでした。では、なぜそのような口撃がなされたのか。それは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」といった評判が既に起こっていたからです。この「ベルゼブル」、諸説あるようですが、元々は異教の神の名だったようで、偶像を嫌うイスラエル人たちがそれを嘲って「ハエの王」と呼び直したことにはじまる、とも言われています。それが、悪霊の頭、悪魔などのように用いられるようになっていった。ともかく、そういった論争が一つ目の物語でした。

そして、二つ目は「イエスの母、兄弟」と小見出しにありますが、要するに「イエスさまの家族とは一体誰か」ということでしょう。この二つの物語り、一見あまり関連性がないようにも思われますが、しかし、よくよく見ていきますと、この両者がある意図をもってここに記されていることが分かってくると思います。それは、21節と31節とに、イエスさまの血縁と目される人々が登場しているからです。21節「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」。ここで「身内」とされている人々がどこまでの範囲なのかは定かではありませんが、家族、親類、あるいはかつての同郷の人たちもいたのかもしれません。では、なぜそんな人々がイエスさまを取り押さえに来たのか。先ほども言いましたように、「ベルゼブル」に、悪霊に取り憑かれていると評判になっていたからです。

イエスさまは良きにつけ悪しきにつけ、当時の常識の範囲におさまらない方でした。罪人こそが神さまに招かれている、と言うのですから。こういった人々の出現は、今日でもそうですが、賛否が極端に別れるものです。同じような問題意識を抱えていた人たちにとっては、もちろん好意的に受け止められ、ヒーローにさえなるのですが、逆に今までの秩序・価値観の維持を目論む者たちにとっては、世界の、正義の破壊者、ダークヒーローと見られるわけです。そんな「悪霊憑き」と評判になっていたイエスさまを案じて連れ戻しにきた、といった側面もあるでしょうが、その多くは、一族の、町の評判が傷つかないように、「困ったことをしてくれたな」との思いで取り押さえに、連れ戻しに来たのでは

ないか。そう思うのです。そのように、本来、一番理解してくれてもいいはずの身内の者たちが、信仰の道の障害となる例は、決して少なくありません。
以前もお話ししたことがあると思います。静岡時代に親しくなった、もう引退されていましたが、救世軍の元士官(軍隊組織を採用している救世軍では、牧師のことをこのように言います)の奥様(この方も士官ですが)の話です。戦後、まだそれほど経っていない頃のことだと思いますが、この奥様、分家でしたが、会津の結構な家柄の娘さんだったようです。会津の女性といえば、大河ドラマ『八重の桜』で有名になりました新島襄の奥方山本八重さんを思い出しますが、八重さん同様、気丈な女性だったのでしょう。女学校時代に救世軍で信仰を持たれ、そして士官を志し、士官学校(私たちのいうところの神学校ですね)の入学を願われます。しかし、当然、家族から反対されることになる。しかも、自分の家族だけではない。本家からも圧力がかかり、余計に家族の同意が得られなくなるわけです。

そして、とうとう勘当されてしまう。そういったことを経て、士官になっていかれました。そんな例は枚挙にいとまがないでしょう。私の家内もそうです。クリスチャン・ホームであるにもかかわらず、最初は神学校に入るのを許可されなかった。常識の範囲内なら良いのです。しかし、いったん常識を超えてしまうと、̶̶一信徒としてではなく、神学校にいく、献身するということは、常識を超えることになるのでしょう。何も、そこまでしなくても、熱心にならなくても、と。̶̶身内すら、いいえ、身内だからこそ反対されることになるのかもしれません。ともかく、イエスさまの身内の中でさえも、そういった姿があった。

31節では、こう記されています。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」。ひょっとすると、先ほどの身内たちがイエスさまを連れ戻すことに失敗したから、今度は最も近い存在である家族が連れ戻しに来たのかもしれません。あるいは、少なくとも、イエスさまの母マリアと兄弟たちは、他の身内のやり方には賛成していなかったのかもしれない。やはり、一番身近な存在ですので、評判うんぬんを気にするよりも、健康等が気になっていたのかもしれません。ちょっと「やりすぎ」なのではないか、と。もうそろそろ、家に、家族の元に戻ってきてはどうか、と。

ここで、イエスさまは非常に重要な発言をされます。「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」。ここでイエスさまは、血縁を超えた家族の定義をされました。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。教会のことを、「神の家族」という言い方がされることがあります。また、イエスさまのことを「長兄」とも表現いたします。その根拠がここにある。血縁を超えた神の家族の姿が、ここにある。しかし、注意が必要です。イエスさまは決して血縁としての家族の姿を否定されてはいないからです。イエスさまは決して、十戒で求められている「父と母を敬え」との御心を蔑ろにはされないでしょう。事実、聖書には、「両親に仕え」たと記されていますし、十字架の上で母マリアの今後を心配してもおられました。また、初代教会であるエルサレム教会で指導者として立っていたのは、イエスさまの兄弟ヤコブだとも言われています。

イエスさまは決して血縁を蔑ろにしてはいないのです。家族は神さまが与えてくださった賜物、大切な存在です。もちろん、そうです。しかし、その上で、その血縁をも超えた家族の姿もある。「神の御心を行う人」、ここに血縁を超えたイエスさまの家族の姿がある。では、神の御心を行うとは一体どのようなことか。色々と考えることができると思いますが、ある方はこう言っています。この時のように、まずはイエスさまの周りに座る、ということではないか、と。私も、そう思う。イエスさまの元を訪ねる動機は様々でしょう。病気を癒していただくため、霊的な問題を解決していただくため、教えを受けるため、興味本位、ただ会って見たかった…。私たちだってそう。色々な動機、期待がある。

しかし、大切なのは、今、私たちはどこにいるか、です。今、イエスさまを取り囲んで、周りに座っていること。そして、座るということは、あのベタニアのマリアのように、イエスさまの話に、その教えに、聞き入ることをも差すのでしょう。それが、イエスさまの家族の姿なのです。

家族とは本来、一番信頼ができ、落ち着ける、安心できる、憩える、そんな関係性を差すのでしょう。しかし、残念なことに、現実は前述のように、そうとは言えない面も多々あるのです。牧師として相談にのるその多くは家族問題が大きく関係してきますし、巷のニュースなどを見ても分かるように、残虐な犯罪の多くが家族間で行われてもいます。血縁関係でもそう。同じ親から生まれたはずの兄弟姉妹同士でも、合う合わないがあったりする。ならば、イエスさまの家族だって、そういった課題は残るのではないでしょうか。

私自身、世帯を持ってつくづく感じることですが、自然に家族が「ある」、のではなく、家族に「なる」、「なっていく」ことが大切だと思うのです。そこで見失っていけないのは、この家族の原点です。イエスさまの家族、教会の原点は、イエスさまを中心に、その周りを取り囲んで座るところにある。そこから『はじまる』からです。

家族の絆とは強いものです。今は一緒に住んでは、過ごしてはいなくとも、だからといって家族でなくなってしまうのではない。遠方にいたって、しょっちゅう会うことができなくたって、何年も音沙汰なしだって、関係が消えてしまうものでもない。むしろ、また会える日を楽しみに、その人の健康、幸いを願い、祈っていくものではないか。そう思う。その人にも、神さまの祝福が豊かにあるように、と。イエスさまがいつも共にいてくださり、助けて、見守ってくださるように、と。

 

【 Live配信 】2021年6月6日(日)10:30 聖霊降臨後第2主日礼拝  説教 「 家族になる 」 浅野 直樹 牧師



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【Movie】2021年6月6日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【Movie】2021年5月30日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【 Live配信 】2021年5月30日(日)10:30 三位一体主日礼拝  説教 「 聖霊を感じる 」 浅野 直樹 牧師



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【Online版】2021 むさしの教会イースターコンサートPart.1



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●メッセージ
*浅野牧師 (2:29)

●曲目(54:17)
2013年 第44回
①T.アルビノーニ作曲 : 二つのオーボエのための協奏曲ヘ長調 作品9-3
オーボエ : 姫野 徹・槙 智子  ◇ 東京バッハアンサンブル (12:02)
②”J.プッチーニ作曲 : オペラ「ジャンニ・スキッキ」よりラウレッタのアリア 『お父さまにお願い』
歌 : 田村 佳子◇ 東京バッハアンサンブル” (2:20)
③E.モリコーネ作曲/柳瀬 佐和子編曲 : 『ガブリエルのオーボエ』
オーボエ : 姫野 徹  ◇ 東京バッハアンサンブル (3:43)

2014年 第45回
④J.S.バッハ作曲 : イースターオラトリオBWV249より アダージョ
オーボエ : 姫野 徹  ◇ 東京バッハアンサンブル( 3:03)
⑤A.L.ヴィヴァルディ作曲 : グローリア ニ長調より 『主なる御神、天の王よ』
歌 : 田村 佳子◇ 東京バッハアンサンブル( 4:13)
⑥W.A.モーツァルト作曲 : モテット“踊れ、喜べ、幸いなる魂よ”より『アレルヤ』
歌 : 苅谷 純世◇ 東京バッハアンサンブル (2:42)

2015年 第46回
⑦J.S.バッハ作曲 : カンタータ BWV42よりシンフォニア 『されど同じ安息日の夕べに』
◇ 東京バッハアンサンブル (6:41)
⑧G.F.ヘンデル作曲 : オペラ “リナルド”より『わたしを泣かせてください』
歌 : 田村 佳子 ◇ 東京バッハアンサンブル (4:25)
⑨C.ゲイブリエル作曲/シビラ・マーティン作詞/訳不詳/萩森 英明編曲 : 『一羽の雀 』
歌 : 磯村 直美 ◇ 東京バッハアンサンブル(2018年から)( 4:46)
⑩菅野 よう子作曲/岩井 俊二作詞 萩森英明 編曲 : 『花は咲く』
合唱 : 田村 佳子・磯村 直美・苅谷 純世◇ 東京バッハアンサンブル (4:31)
⑪上村 美紀恵作曲・作詞/池宮 英才編曲 : 『主よ賛美します』
歌 : 聖歌隊有志&会場の皆様(2016年から)◇ 東京バッハアンサンブル (2:56)

【Movie】2021年5月23日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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