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【 Live配信 】2022年9月11日(日)10:30  聖霊降臨後第14主日礼拝 「 あなたは捜されている 」 浅野 直樹牧師



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【説教・音声版】2022年9月11日 聖霊降臨後第14主日礼拝 説教「あなたは捜されている」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書15章1~10節



今日の福音書の日課は、有名な二つの譬え話が取り上げられていました。

確かに、どちらも素晴らしい内容です。失われた者を、神さまが必死に捜し出してくださることを物語っているのですから。しかし、ある方々は、少し戸惑ってしまわれるかもしれません。確かに、見失った、迷子になった、命の危険に晒されているたった一匹の羊を必死に捜し出してくださることは素晴らしいことだが、では、そのために残された99匹はどうなるのだろうか、と。
この99匹の羊たちは、たった一匹を救うために、危険な野原に置き去りにされてしまう、ということなのだろうか。99匹よりも1匹の方が大切だ、ということなのだろうか。どうやら、私は、この捜し出された1匹の方には思えない。だとしたら、私はそれほど悪いことをしていないのに、道を踏み外してはいないのに、むしろ真面目に生きてきたつもりなのに、見捨てられてしまう、ということなのだろうか。そう感じることは、何も不思議なことではないでしょう。ですから、ある方は、この羊飼いの行動は常軌を逸している、とも言っています。

確かに、世の中全てが、こういった理解で進められていけば、かえって社会は混乱してしまうでしょう。ですから、これはあくまでも「譬え話」なのです。ある事柄を伝えたいがための、「譬え」を用いた話に過ぎない、ということです。では、この「譬え話」で伝えたかったことは何か。たった一人でも、悔い改める人がいるならば、神さまはそのことを大いに喜ばれるのだ、ということです。非常識なほどに、このたった一人でも、ということを言いたいがために、99匹の羊があり、9枚の銀貨がある訳です。

今日の箇所だけではありませんが、聖書のある箇所を理解するためには、その前提となっている事柄、背景を知ることが非常に大切になってきます。今日の日課では、1節以下でこのように記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」。

聖書の中では度々出てくる図式ですが、偏見や差別を厳しく戒められている私たちとしては、肌感覚としては分かりにくいところがあるようにも思います。なぜ、徴税人や罪人と言われる人たちが、これほどまで目の敵にされているのか、よく分からない。確かに、そうです。しかし、現代でも、形は変わっても、ヘイトスピーチをはじめとする自分達の正義感、道徳感、価値観、世界観などで憎悪・分断が起こっていることも、私たちはよく知っています。私たち自身、なおも無縁ではいられないことを戒めていかなければいけない。
そういう見方もできると思います。しかし、今日の箇所が言いたいことは、そうではないのです。ファリサイ派、律法学者たちに、偏見・差別をやめなさい。互いの違いを取り去って和合し、共生していきなさい、ということではないのです。もちろん、それらも大切なことに違いないが、そうではない。なぜなら、一人の罪人が悔い改めることの喜び、だからです。彼らファリサイ派・律法学者たちの認識を正し、徴税人や罪人と言われる人たちは、実は罪人なんかじゃない、と言いたいのではない。そうではなくて、彼らは確かに罪人なのです。少なくとも、神さまの目にはそう写っている。しかし、そんな罪人一人を、神さまは、イエスさまは必死に捜し出されるのだ、険しい崖を駆け降りて、道なき道を歩き続けて、ついに失われた羊、罪人を見つけ出して、家に連れ帰るのだ、と言われる。それが、大いなる喜びなのだ、と言われるのです。

聖書が、福音が強調することは、罪が赦される、ということです。罪などない、と罪を誤魔化したり、みんながやっていることだから大したことではない、と軽く見積もることでもない。罪を罪として、正面から向き合うこと。そして、その上で、恵みの神さまは、そんな私たちの罪をことごとく赦してくださっているのだ、イエスさまがあの十字架で罪を贖ってくださったのだ、と信じること。それが、福音です。

教会・キリスト教は、そんなふうに、罪、罪、罪と内省が過ぎるのではないか。あまりにも自己卑下的なのではないか。潔癖過ぎるのではないか。だから、この現代日本社会になかなか浸透していかないのではないか。そういったご意見もあるのかもしれません。確かに、教会は間違った罪の意識を植え付けてしまった面も否めないと思います。結果、ある人々を追い込んでしまうことになったかもしれない。反省すべき点はあると思いますが、しかし、だからといって、この罪の問題を無視・軽視することとは別のことだと思うのです。

「羊の群れのいる風景」:1840年 ヨハン・ヴィルヘルム・シルマー



今日の使徒書の日課である『テモテへの手紙』はパウロの作だと考えられて来ました。このパウロ、実にユニークな人だと思います。なぜなら、今日の箇所の悔い改める必要のない99匹側の人間だと思っていたファリサイ派と、自分はイエスさまによって捜し出された一匹の羊なのだ、と受け止めた罪人の側と、この両方を経験したからです。彼は、かつての、つまり熱心なファリサイ派だった頃のことを、このように語っています。1章13節「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。…わたしは、その罪人の中で最たる者です」。

そうです。彼は知らなかったのです。むしろ、それが正しいことであるとさえ思っていた。これが熱心に神さまに仕えることになるのだ、と。それが、間違いであったことに、罪であったことに気づけたのはいつか。イエスさまと出会った時です。この出会いによって、今までとは全く別の次元で物事を見ることができるようになったからです。

変な例えかもしれませんが、私たちは先の戦争をどのように評価するでしょうか。先の悲惨な戦争へと突き進んだ軍部を、政治を、民衆を、どう評価するのか。おそらく、明らかに間違っていた、と思うでしょう。しかし、それは、戦争に敗れ、新たな価値観や世界観を手に入れた私たちだからこそ、見える景色なのです。ですので、私たちは、歴史を検証し、批判することは大切なことだと思いますが、それと軽々に個人を断罪することとは分けて考える必要があると思います。

実際に、私たち自身も、どっぷりとその時代に浸かって生きていたら、どのような選択をするか分からないからです。もちろん、別の選択をした可能性も否定できませんが、そうではなく、積極的に戦争に向かう選択をしたかもしれない…。それは、今のロシア国内にも言えることなのかもしれません。そういう意味でも、知らないこと、気づけないことは、恐ろしいことです。

そうです。知らないのです。知らなかったのです。それが、過ちであるということが。間違いであるということが。罪であるということが。では、知らなければ罪を犯しても良いのか。そうではない。例え知らないで犯したとしても、それは罪です。罪という自覚がないとしても、罪なのです。それを、パウロは、イエスさまとの出会いによって知った。いいえ、ただ知らないで犯していた罪の自覚を得ただけでなく、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」ことを知ったのです。

そして、そんなイエスさまに赦された罪人の、自分は最たる者だということを知った。だから、続けて彼はこう語っていきます。「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」。これがパウロの福音宣教の原動力になったことは、明らかでしょう。
罪の自覚が目的なのではありません。しかし、同時に、罪を無視することとも違うのです。罪人を救う方と出会うためです。この私を、必死に捜し出してくださる方と出会うためです。

今日私は、改めて自戒の念を込めて1節の言葉を聞いています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。もしイエスさまが、単にファリサイ派や律法学者たちのように、正しさを、罪の問題を説くだけの方なら、おそらく彼らはイエスさまに近づいては来なかったでしょう。なぜなら、罪の自覚があればあるほど、神さまに近づけなくなるからです。彼らはおそらく自覚していた。自分たちなど神さまの前に立てるような人間ではないということを。最初に言いましたように、彼らは単に社会の犠牲者ではありませんでした。

実際に罪を犯す臑に傷を持った人たちです。嘘をつき、人から騙し取り、不道徳な生活を送る。分かっている。自分達が神さまから裁かれる人間なんだと。だから、むしろ無視して生きるしかない。現実を楽しむしかない。目先の利益を追い求めるしかない。割り切って、どうせ一度の人生なのだから、と腹を括るしかない。だから、おそらく、彼らは宗教的な儀式にも近づかなかったのかもしれません。近づけなかったのかもしれない。そんな彼らが、イエスさまの話を聞きにやってきたのです。

今日の第一の朗読(旧約の日課)は、詳しくは話しませんが、モーセが必死に執り成しをして、神さまの怒りを鎮めた、といった内容だったと思います。なぜそれが、第一の朗読として読まれたのか。このモーセの出来事とイエスさまとが重なったからでしょう。罪は罪。神さまはその罪を放ってはおけないし、罰しなければならない。しかし、それは本意ではないのです。ですから、モーセが、イエスさまが必死に執り成しをする。罪人が罰せられ滅びないで済む、つまり、救いの道を開かれたのです。それが、イエスの十字架。だからこそ、そんなイエスさまだからこそ、罪人が集まってくるのです。

しかし、果たして、それは、徴税人や罪人だけなんだろうか。そうではないはずです。ファリサイ派の人だって、律法学者だって、自分達は99匹に属すると思っているかもしれませんが、視点を変えれば、全く違った次元、パウロが見た同じ視座に立てば、自分達もまたイエスさまが必死に捜し求めておられる失われた一匹の羊であることに気づくはずなのです。そのためにも、つまり不平を言っていたファリサイ派や律法学者たちのためにも、この譬え話は語られているのではないでしょうか。お前たちもまた、見つけられた一匹の羊ではないか、と。お前たちの一人が悔い改めるならば、天には大きな喜びがあるのだ、と。

日本の教会が、相変わらず敷居が高いと言われることの中に、もしこの一匹の羊、一枚の銀貨といった視点が見失われているとしたら、私たちは大いに反省しなければならないのかもしれません。私も、あなたも、またまだ教会に来られていない方々も、イエスさまが必死に捜し出される一匹の羊、一枚の銀貨なのですから。

【説教・音声版】2022年9月4日 聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「厳しさも愛」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書14章25~33節



本日は、時間の関係でお話しすることができなかった先週の後半部分、ルカ福音書14章12節以下を手短にお話しすることからはじめていきたいと思っています。どうしても、そのままやり過ごすことができなかったからです。もう一度、12節以下をお読み致します。「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる』」。

先週のことを少し思い出してください。この出来事は、安息日に行われた食事会でのことでした。おそらく、シナゴーグで行われた礼拝後のことでしょう。そして、先週の日課を理解するためには、「神の国」との関連性も欠かせないのではないか、と言いました。今日の箇所もそうです。14章15節以下には、「神の国」についての譬え話が記されていますが、神さまが大宴会を催そうとして、本来招くべき人々を招く訳です。おそらくはファリサイ派や律法学者たちを念頭に置いているのでしょう。しかし、招かれた人々は、いろいろと理由をつけては来ようとしません。腹を立てた主人は、僕たちに別の人々を招くようにと言いつけます。それは、21節「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」でした。お分かりのように、先ほどの箇所と全く同じ人々がリストに挙げられている訳です。ですから、先週の日課の後半部分も「神の国」と無縁ではないと言えるでしょう。

以前もお話ししましたように、ユダヤ教の言うところの「安息日」と私たちの礼拝とが、全くイコールということはないと思います。ただし、受け継がれてきたもの、あるいは、関連づけられるものはあるはずです。この時も、礼拝の時ではありません。同じように癒しの業が行われたにしろ、礼拝の場と食事会は別です。しかし、私たちの礼拝は、使徒言行録にも見られるように、この礼拝の後に行われた食事をも、最初っから礼拝との関連の中で、いいえ、礼拝を構成する一つの大切な側面として受け止めてきた訳です。それが、やがて「聖餐式」として整えられるに至った。つまり、ルカ14章12節以下の御言葉も、私たちにとっては、私たちの礼拝と関連づけて考えることも許されるのではないか、と思うのです。つまり、私たちの礼拝の姿です。ここで重要なのが、「お返しができる人と、お返しができない人がいる」ということです。家族、友人知人たちを招くこと自体が悪いことではないでしょう。

しかし、その奥に潜んでいるのが、何らかの「益」となる人選ということならば、それは、本来の目的、礼拝の姿と合致するのか、ということです。逆に言えば、先ほどからリストに挙げられている人々、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」というのは、言葉は悪いですが、「お荷物」ということです。役に立たない、むしろ、迷惑をかけるような人々…。しかし、そういった人々こそが、宴会に、神の国に、礼拝に招かれている、と言われる。いいえ、単に神さまがそう望まれている、そう招かれている、ということだけではなくて、この私たち自身も、そういった人々をこそ招くべきではないか、と言われているように思うのです。具体的に言えば、少しの献金もできない人たち、少しの奉仕もできない人たちです。本来できるのにしない、ということとは別の問題です。そうではなくて、本当にできないのです。何もできない。席に座っていることすら満足にできない。それでも、招かれている。招くことが求められている。

時に、こういう声を聞いたりします。私は何のお役にも立てない、と。もちろん、かつては「できた」ことが「できなくなった」ことの辛さはあるでしょう。しかし、それは、招かれていない、ということではない。むしろ、招かれている。私たちも招かなければならない。それは、今の時代、この同じ場所に集う、ということばかりでもないのかも知れません。IT等を活用することも、具体的な取り組みの一つでしょう。しかし、それ以前に、この私たちの礼拝とは、一体誰のためのものなのか、ということです。教会にとって、私たちにとって、「益」となる人々のためのものなのか。そうではないのか。

繰り返します。出来るのにしない、とは違います。これは、また別の課題です。たとえ取るに足らないことであろうと、出来ることをすることは必要なことです。しかし、たとえ本当に何もできないとしても、神さまは、そして私たちも、喜んで迎えたいと思う。これは、先週の日課から、どうしても伝えたかったことです。
今日の日課に戻ります。今日の箇所は、「弟子の条件」と小見出しが付けられていた非常に厳しい内容の箇所でした。こう言われているからです。26節「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。

何度もお話ししていますように、キリスト者であるということは、「弟子」ということです。つまり、この言葉は、私たち全員がちゃんと聞かなければならない、受け止めなければいけない言葉だ、ということです。ここで「憎む」という表現が出てきますが、これは、ユダヤ的表現の一つで、日本人の私たちからすると、随分と印象が違うものです。つまり、程度の差、優先順位とでも言えるでしょうか。一つのものを愛そうとすれば、もう一つのものは憎まなければならない。別に、本当に憎むのではなくて、愛したものよりも幾分程度が落ちるものとしなければならない、ということです。

ですから、別に、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、あるいは自分の命を、私たちのいうところの「憎む」ということではなくて、それら以上にイエスさまを大切にすべきだ、ということです。しかし、それにしても、やはり厳しい言葉に違いないと思います。私たちはどうしても、家族優先としたい気持ちを自然に持っているからです。そして、そんなイエスさまの言葉を説明するかのように記されている二つの譬え話も、何だか良く分からないところがある。どんな繋がり、関係性があるのかと頭を抱えてしまうところがあるのではないでしょうか。至極簡単に言ってしまえば、「何かを成そうと欲すれば、それなりの熟慮と覚悟、犠牲はつきものだ」ということです。

今日の日課の出だしのところで、こんな言葉がありました。「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」と。ある方はここに熱狂があった、と言います。ここにいた人たちは、イエスさまに何らかの期待を抱き、ついてきた。しかし、弟子として生きるということは、それほど簡単なことではない、ということです。現に、あの12弟子でさえも、最後までイエスさまについていくことはできませんでした。この日本でもキリスト教ブームなる一種の熱狂が幾度となくあった訳ですが、その多くが途中で挫折していきました。残念ながら、私たちもそのような人々を少なからず知っている。おそらく、そういった方々は、「こんなはずではなかった」「思っていたのとは違っていた」といった思いを抱かれたに違いない。

だから、イエスさまは、まず腰を据えてよく考えてみなさい、と言われます。そして、それらを手に入れるためには、何事かをなすためには、それなりの覚悟、あるいは支払わなければならないもの・犠牲がある、と言われるのです。譬えにある塔を建てるにも費用が必要です。戦いに負けると分かれば、降伏して、少なからぬ貢物を送らなければならないでしょう。それは、屈辱的でもある。しかし、その判断を誤まれば国を滅ぼしかねない訳です。

先ほどは、この二つの譬え話は分かりにくいのではないか、と言いました。しかし、実際には良く分かる話です。私たちの現実社会の中で、すぐにでも浮かんでくるものでもある。つまり、一般常識でもある訳です。「何かを成そうと欲すれば、それなりの熟慮と覚悟、犠牲はつきものだ」ということが。しかし、どうも私たちは、信仰の事柄になると、そんな一般常識とが重ならなくなってしまうのでしょう。熟慮も、覚悟も、犠牲も、信仰生活には、イエスさまについていく・従っていく道には必要ないのではないか、と。だから、今日の日課のような言葉を聞くと、途端に私たちにとっては難しく感じたり、あり得ない要求を突きつけられているような感覚に陥るのではないか、と思うのです。

そもそも、イエスさまはなぜこんなにも厳しいことを言われるのか。今日の旧約の日課は、祝福か呪かといった二者択一を迫るような言葉でしたが、果たしてここで神さまが言いたかったことは、呪いの方でしょうか、それとも祝福の方でしょうか。もちろん、祝福です。祝福を与えたいが故に、間違った道を歩まないように呪いも語られる。では、イエスさまは私たちに、巷のパワハラ上司たちのように、私たちを困らせようと無理難題を押し付けようとされているのか。決して、そうではないでしょう。厳しいことを語られるにも、そこに意味があるからです。救いの道があるからです。愛があるからです。だから、時に厳しいことも語られる。

イエスさまは、家族よりもイエスさまに従うことを優先するようにと願われる。それは、本当に救いになるのでしょうか。私は、こう思う。果たして、私たちは、一体家族のために何が出来るのだろうか、と。家族が病に罹る。私たちは、何もしてあげられません。ましてや、愛する者が死の床につこうという時、私たちは全くの無力でしかない。しかし、それでも、私たちは祈れるのです。家族を、愛する者たちを、神さまの御手に委ねることができるのです。それは、何と幸いなことだろうか。何と心強いことだろうか。

これらも言葉だけを聞いていれば、今巷でお騒がせの某宗教団体と似ているように聞こえるかも知れませんが、似て非なるもの、いいえ、全く違ったものであることは明らかでしょう。

イエスさまを信じ、信じ続ける道においても、熟慮と覚悟と犠牲が必要なのでしょう。しかし、それは、救いの道なのです。恵みの道なのです。確かに、「こんなはずではなかった」「思っていたのとは違った」といった現実もなくはないでしょうが、それでも、ここにイエスさまの愛の道があるのです。なおも、そう信じる信仰に生きたい、と思います。

【 Live配信 】2022年9月4日(日)10:30  聖霊降臨後第13主日礼拝 「 厳しさも愛 」 浅野 直樹牧師



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【音声版】2022年8月28日 聖霊降臨後第12主日礼拝 説教「安息日にすべきこと」浅野直樹 牧師



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【音声版】2022年8月21日 聖霊降臨後第11主日礼拝 説教「安息日にすべきこと」浅野直樹 牧師


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2022年8月21日 9時30分 ”夏休みバージョン ”「子どもと家族の礼拝 」お話「 テモテ 」浅野 直樹牧師



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【説教・音声版】2022年8月14日 聖霊降臨後第10主日礼拝 説教「時を見分ける」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書12章49~56節



本日の説教題は、「時を見分ける」とさせて頂きました。お分かりのように、今日の日課…、ルカ12章56節「このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」との御言葉を受けたものです。
新型コロナのパンデミック、ウクライナの戦争、そこから来るエネルギー危機、経済危機、食糧危機、また台湾問題、政治と宗教の問題、等々。みなさんは、この今という時を、時代を、どのように見ておられるでしょうか。

先週は、共々に「平和の主日」を守って参りました。6日には広島で、9日には長崎で慰霊祭が行われ、私たちは明日77回目の「終戦の日」を迎えることになります。もちろん、その直前…、3月から6月にかけて行われた凄惨極まる沖縄戦のことも決して忘れてはいけませんが、やはり私たち日本人にとりまして、この8月は特別な意味を持つのだと思います。
以前にもお話ししたことがあると思いますが、私はこの時期に向けて、戦争に関する本を読むように心がけているつもりです。記憶を、思いを、風化させないためです。今年も、いくつか読みましたが、その一つが、これは直接的には先の戦争とは関係がないのかも知れませんが、『未完の敗戦』(山崎雅弘著 集英社新書)という本です。これは、先の戦争の総括がしっかりとされていないが故に、未だに嘗ての「大日本帝国型の精神文化」が継続されてしまっており、そのために相変わらず人を大切にしない、人を粗末に扱う社会・精神文化が色濃く残っているのではないか、と指摘していました。私自身は、非常に共感を覚えたところです。

いま一つは、『太平洋戦争への道 1931-1941』(NHK出版新書)です。これは、元々は2017年のNHKのラジオ放送で、半藤一利さんと、加藤陽子さんと、保坂正康さんが対談したものをもとに本にしたもののようです。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、このお三方は立場は違えど、先の戦争を詳しく調べておられる方々です。先の戦争と言えば、軍部の暴走…、特に陸軍の暴走によるものだとの認識が強いように思いますが(私自身、そのように教わってきたように思います)、それは間違いのない事実ですが、しかし、最近ではその他にも様々な要因があったことが取り上げられるようにもなってきました。

その一つが、マスコミです。当初は、ほぼ全てのマスコミが、中央から地方に至まで、戦争を煽るような報道や記事が踊っていたことを、このお三方も指摘しておられます。そして、もう一つが、民衆の熱狂です。民衆が熱狂的に軍部を支持していた。その最たる例として、あの5・15事件が取り上げられていました。ご存じのように、近代日本史・昭和史を代表するようなテロ事件、クーデター未遂事件です。1932年(昭和7年)5月15日、海軍青年将校の一団が首相官邸を襲撃し、当時の犬養毅総理を殺害した事件です。

先ほども言いましたように、これは明らかなテロ行為であり、未遂で終わりましたがクーデターです。にもかかわらず、裁判で語られた青年将校たちの言い分を聞いた民衆たちは、心動かされ、「助命嘆願運動」が起きたと言います。なんと全国から百万通とも言われる嘆願書が届けられたという。その頃は、犠牲者である犬飼首相の方が、むしろ悪者扱いされたほどだったと言います。この民衆の熱狂が、テロ行為を、法律違反を、社会悪を覆すことにもなってしまった。

何が言いたいのか。確かに、軍部の暴走はありました。それは、事実であり、大きな要因です。しかし、それらが国民の支持を得ることができずに、むしろ反対されるようなことであったならば、先の戦争は起きなかったのかも知れないのです。もちろん、「たられば」にすぎませんが。しかし、圧倒的大多数の人々が戦争を望んだ、あるいはそれほど積極的ではなかったにしろ容認したことは事実だったでしょう。それが、一部の反対勢力、戦争に反対だった人々の、政治家、軍人、官僚、識者、民衆、そして天皇さえも、意見を曲げざるを得なくなっていきました。国の中枢の中にも、軍部にも、あの満州事変に反対する人々はいました。対中戦争に反対する人々もいました。早期終決のために奔走した人々もいました。国際連盟からの脱退に反対する人々もいました。日独伊の三国同盟にも反対する人々がいました。アメリカとの戦争を避けるためにハル・ノートを受け入れるように主張した人々もいました。対米英戦に最後まで反対する人々もいました。そうした反対の声がありながらも、あの戦争は起き、泥沼へとはまっていったのです。

先週は、「平和の主日」として、エフェソの信徒への手紙から、平和のための一致、ということを考えていきました。確かに、そうだと思います。しかし、果たして、本当に一致さえすれば、平和は訪れるのでしょうか。先ほどお話ししたように、先の戦争は、むしろ国民が一つになったからこそ、生じたと言えるのかも知れないからです。戦争の動機は、悪とは限りません。実際には、平和の名の下に起こることの方が多いでしょう。先の戦争だって、日本の平和のために、ソ連から自国を守ために、日本国民の生存権のために、とはじめていった。他国の平和のことなど、考えずに。そうです。私たちは、非常に限定的な、家族の、社会の、国家の、自分達の平和のために、安心安全のために、他者を傷つけ、貶め、いじめ、挙げ句の果てに戦争までしでかすのです。そこに、たとえ一致があったとしても、それは、果たして神さまが、イエスさまが求めておられる一致と言えるのでしょうか。

逆に、分裂は悪でしかないのでしょうか。確かに、分裂は争いを起こすことがあります。当然危険性がある、良いものとは言い難いでしょう。しかし、先ほども言いましたように、かき消されてしまったあの反対意見が、戦争回避の意見が、もっと強く出ていたのなら、それにも賛同する人々がもっと多数いたのなら、どうなっていただろうか…。この分裂だって、使いようによっては悪にも善にもなるのです。より大きな悪に対しての歯止めになるかも知れないし、あるいは自浄作用として用いられるかも知れない。つまり、少なくとも私たちにとっては、単なる一致か分裂か、ということではないはずです。そうではなくて、イエス・キリストによる一致か、イエス・キリストによる分裂か、です。どちらにしても、イエス・キリストとは切り離せないものです。

そこに立ってこそ、あくまでも、このイエス・キリストによる一致と分裂だからこそ、そこに意味が生まれるのだと思うのです。自分の正義感ではありません。他者に対する愛情、思いやりでもありません。国を、社会を憂う思いでもありません。私たちの信仰深さでもない。もちろん、それらが悪い訳ではありません。しかし、それらは、いいえ、私たちがやることは、絶対正義にはなり得ないことも肝に銘じておくべきでしょう。私たちは歪むからです。最初は、動機が正しいように思えたとしても、私たちは道を逸らす。

飼い主のいない羊のように。なぜなら、私たちは罪から、自己中心から完全には自由になり得ないからです。ですから、キリスト…、イエス・キリストなのです。私たち罪人のために、敵対する者のために十字架の道を選び、歩んで下さったイエスさまこそが、罪から、自己中心から、もっとも遠い方だからです。ですから、一致するにしろ、分裂せざるを得ないにしろ、イエス・キリストから離れてはダメなのです。そうでないと、必ず、道を外してしまうことになる。この世のことであろうと教会のことであろうと、歴史が証明している通りです。

最初に問いました。今の、この時・時代をどう見分けたら良いのだろうか、と。非常に難しいことです。安全保障の問題一つとっても、なかなかはっきりとした答えには辿り着けない。むしろ、複雑化を無視したような安易な単純な答えに警戒した方が良いと私個人としては思っているほどです。しかし、それでも、私たちには確かな見分け方があるはずです。それは、イエス・キリストがこの世界に、私たちのところに来られた、という事実です。そのことを見分けることができていなかった当時の人々に、イエスさまは問われる。「どうして今の時を見分けることを知らないのか」と。しかし、私たちは知っている。神の子がこの世界を救うために来られたことを。神の子がこの世界のもっとも貧しき、価値なき者たちに仕えられたことを。罪と自己中心にまみれたこの世の人々を、弟子たちを愛されたことを。決して武力・力による社会変革を望んではおられなかった、ということを。人を力で支配するのではなくて、自らへり下って仕えることによって相手を生かすことを望まれていたことを。

ご自分のためではなく、神さまの御心のために、私たち人類の救いのために、自ら進んで十字架上に命を捨てられたことを。復活によって、新しい命への希望を与えて下さったということを、私たちは知っている。そして、今という時は完成の時ではなく、不完全であり、必ず完全な平和が訪れることを約束してくださっている、ということを。人の知恵・力によるのではなく、神さまの恵みとして。

私たちは、道半ばに生きています。確かに、平和のための一致が理想ではあるでしょうが、なかなかそうもいかず、かえって家族の間にさえ分裂を引き起こすこともあるのかも知れません。しかし、少なくともこの私たちが、この時を、つまり、イエス・キリストの到来の時をしっかりと見分けているならば、歪んだ一致を防ぎ、意味ある分裂を引き受けることができるのではないか、と思うのです。
それが、あくまでも救いのため、真の平和のためなのだ、と。そうではないでしょうか。

2022年8月14日 9時30分 ”夏休みバージョン ”「子どもと家族の礼拝 」お話「 エペソでの宣教 」浅野 直樹牧師



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【 説教・音声版 】2022年8月7日(日)10:30  平和主日礼拝 「 新しい人 」三浦 慎里子 神学生

ミカ 4:1-5、エフェソ 2:13-18、ヨハネ 15:9-12



本日は平和主日です。

77年前、8月6日に広島、9日に長崎にそれぞれ原子爆弾が投下され、その後終戦を迎えました。

唯一の被爆国である日本では、毎年 この時期になると、各地で平和を願う集会が開かれ、二度と戦争を繰り返しては いけないと、人々が心をひとつにして祈ります。戦争の苦しみを経験したのは日 本だけではありません。第二次世界大戦で犠牲になった方は、全世界で何千万人 にも及ぶと言われています。私は子どもの頃から、祖父母の戦争体験の話を聞い て育ちました。社会科見学で長崎に行った時には、原爆資料館で語り部の方のお 話を聞いた記憶もあります。また、自分でも本を読んだりドキュメンタリー映像 などを見たりして、戦争は人間が人間でなくなる大変恐ろしいものなのだとい う考えを持って生きてきました。多くの日本人のように、私もこのような教育を 通して、戦争について学んできたのです。

しかし、隠された不都合な事実があっ たことを後になって知りました。日本もアジア諸国の人々に対して、世界中の 人々に対して残酷な仕打ちをしてきたという事実です。今でも痛みと怒りと憎 しみの中で苦しんでいる人たちがいるということを知らずに、今は平和な世の 中だと思ってきたことを恥ずかしく思い、胸が痛みました。「当時の状況を知ら ないからそんなことが言えるんだ。戦争の時は皆同じことをしていたんだ。」と 言われるかもしれません。その通りだと思います。しかし、皆が同じことをして いたとしても、多くの人の命を奪い傷つけたこと、それが罪であることに変わり ありません。私たちは、戦争で受けた傷を語り継ぐと同時に、自らが犯した罪に ついても真摯に受け止め、語り継いでいかなければならないでしょう。なぜなら、私たち人間は同じ過ちを繰り返してしまう者だからです。そのことは聖書にも 記されているし、今日の私たちが置かれた状況からも明らかです。

ロシアとウク ライナの戦争だけでなく、日本も近隣諸国との関係が常に緊張しています。国と 国は互いに牽制し合い、何かあればすぐに報復措置を取ります。私たちは、非常 に不安定な社会情勢の中にいます。戦争が過去のものではなく、現実の問題とし て我が身に迫っている今、私たちは何を学ばなければならないでしょうか。

私たちが平和を考える時、真っ先に注目するのは戦争のことです。しかし、戦争が無ければ平和かというと、そうではないでしょう。先日テレビで、ウクライナの戦争で教育が受けられなくなった子どもたちのために、避難先のポーランドで小さな教室を開いて勉強を教えている女性のことを紹介していました。その女性のインタビューの中で、「子どもたちは、未来を思い描くことができないのです。」と話していた言葉が心に残りました。「未来を思い描くことができない。」その言葉を心の中で繰り返していると、画面がコマーシャルに切り替わりました。保険会社のCMでした。出演者が優しい笑顔で「未来のはなし!」と語りかけています。未来は明るいと思わせてくれるような雰囲気でした。

ウクライナの子どもたちの話と保険会社のCM。一見まったくつながりがないものですが、その根底に共通してあるものは、未来への希望です。戦争が無いことが平和だと一般的に考えられているのは、戦争が人間から未来を奪うものだからではないでしょうか。平和というのは、安心して未来に希望を持てることではないかと思うのです。本日は、与えられたみことばから、未来に希望を持つということについて、共に考えてみましょう。

先ほどお読みしたミカ書には、未来の平和の預言が書かれています。ミカは紀元前8世紀後半のユダ王国で活動した預言者で、同じ時代の預言者にはイザヤがいます。この時代は、アッシリア帝国に侵略され、政治は緊張状態にありました。また、本日の箇所よりも前に書いてあることを読みますと、政治的にも経済的にも不正が蔓延していたようです。権力者たちは人々から搾取して私腹を肥やそうとし、弱い者が家から追い出され、祭司も預言者も買収されていました。人々は心から安心できない、不安定な日々を生きていたのです。

今日の私たちのように。ミカは、堕落してしまった国に滅びを預言すると共に、来るべき日には平和が実現することをも預言しています。「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」手にするのは戦いの道具ではなく、大地を耕し生きるための道具。もはや戦う必要がなくなり、人々が安心できる平和な時が来る。未来には希望がある。戦いや不正が蔓延する生活に疲れた人々にとって、この希望がどれほど大きな意味を持っていたことでしょうか。

ここで本日の使徒書エフェソの信徒への手紙 2 章を見てみましょう。ここに 書かれていることの背景となっているのは、ユダヤ人と異邦人の間の隔たりで す。ユダヤ人は神様に選ばれた民として、律法に固執していました。そもそも律 法は、神様が民を祝福し、良く生きるために与えられたものでしたが、彼らは次 第に律法を自分と他者を区別するもの、自分の優位性を保つものとして用いる ようになりました。律法を守っている自分たちは優れており、律法を知らない 人々は劣っていると。律法という名の壁が、ユダヤ人と異邦人を隔てていたので す。時代は変わっても、人々の間には敵意があり、平和な世の中ではなかったの ですね。そこに、イエス様が来られた。イエス様は律法の本来の意味を問い直し、自らが十字架の上で死ぬことによって、人々の罪の負債を贖ってくださいまし た。エフェソの信徒への手紙 2 章 15 節には、「キリストは、双方を御自分にお いて一人の新しい人に作り上げて平和を実現し」たと書かれています。イエス様 がご自分において「一人の新しい人」を作り上げたとはどういうことでしょうか。

私は先ほど、安心して未来に希望を持てることが平和なのではないかと申し上げました。安心して未来に希望を持つためには、安定した土台が必要です。戦地の人々がそうであるように、安心できない環境の中では、明日のことさえ思い描くことができません。先ほどのユダヤ人たちも、本来の意味を失い空虚なものとなった律法にしがみ付き、土台が揺らいでいました。ガラテヤの信徒への手紙3章の中でパウロは、イエス様につながることについてこう言っています。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」この世のものを否定するつもりはありません。確かに、他人に自分を証明できる国籍や身分があって、生きていくための蓄えがあることは大切なことです。しかし、私たちがそれを持つことによって安定していると思ってしまいがちなこの世の基準は、実際は違いを生み出しはしても、私たちを一つにすることはできません。状況が変われば、今ある価値も無くなってしまうかもしれない、不安定なものです。

イエス様が私たちを、そのようなものに支配されることのない新しい人として一つにして生かしてくださることは大きな恵みです。なぜなら私たちは、空虚で不安定なものに必死にしがみ付いて生きる生き方から解放されるからです。イエス・キリストという安定した土台の上に立つことができるからです。イエス様は、本日の福音書の中で、「わたしの愛にとどまりなさい」と語りかけておられます。そうです。イエス様という土台は、永遠にとどまり続けることができるものなのです。しかも、イエス様ご自身がそれを求めておられます。この箇所はもともと命令形では書かれていません。イエス様が私たちにこうあって欲しいと求めておられる心の中の思いが投げかけられているのです。イエス様は、安心して未来を築くことのできる土台の上に、私たちを招いてくださっています。

しかしながら、私たちを取り巻く物事に目を向けると、イエス様が平和を実現なさったというのは本当なのかと疑いたくなるような現実があります。平和はまだ実現していないじゃないか。世界には今も争いがあり、人々は憎み合い、殺し合っている。私たちひとりひとりの間にも差別や偏見がはびこり、むしろ、人々の心の中にある悪い思いが露わにされているではないか。過去の失敗から学ぶことができず、人類は破滅への道を歩んでいるようにも見えます。確かに、私たちが願う平和はまだ実現していません。私たちは、しばらくは頑張れても、うまくいかなくなると、心が折れて諦めたくなるものです。しかし、思い通りにならない時にこそ、私たちが、あらゆる隔ての壁を越えて私たちを一人の新しい人となさったイエス様の僕であることを思い出したいのです。心を乱される時こそ、イエス様という揺るがない土台に立つ者であるということを確認するのです。

私は、本日がむさしの教会での実習最終日です。2年生の時から一年半の間お世話になりました。むさしの教会は日本福音ルーテル教会の中では規模がとても大きく、在籍する信徒の方の人数も多い教会です。それだけ年齢の幅も広く、様々に違った背景や考え方を持つ信徒さんたちが集まっておられます。つまり、それだけ隔ての壁が生まれやすい環境にあるということです。しかし、そのような環境にあるにも関わらず、私は、むさしの教会でお会いする皆さんが、イエス様によって一つにされているのを何度も目撃しました。コロナ渦にあって、今までのように集えない中でも、お互いを思いやり、声を掛け合い、共に生きて行こうとされる姿。議論することを恐れず、近くにいる人のためにも遠くにいる人のためにも働く教会の未来について、愛をもって考えておられる姿が、そこにはありました。それは、むさしの教会のみなさんが、イエス様という土台にしっかりと根を張って生きておられるからだと思います。週に一度の実習ではありましたが、多くのことを学ばせていただきました。

さて、最後にミカ書の一節に注目してみましょう。ミカ書4章5節の終わりには、「我々は、とこしえに 我らの神、主の御名によって歩む。」と書かれています。これは、人々の信仰告白です。主の呼びかけをただ聞くだけではなく、「私たちは主の御名によって歩む」と決断しています。そこには、神様への信頼と未来への希望によって強められた人々の意志が込められています。

では私たちは、「私の愛にとどまりなさい」と言われるイエス様の呼びかけにどう答えるべきでしょうか。平和を祈り求めるこの日、私たちは、イエス様という揺らぐことのない土台に立っていることを確認し、私たち自身が未来に希望を持つ者でありたいのです。そして、豊かに与えられた者であるからこそ、今度は与える人となって私たち一人一人が、むさしの教会が、ルーテル教会が、できることをあきらめずに行う決意をしたいのです。誰もが未来への希望を奪われることのない平和を共に築いていくために。

【説教・音声版】2022年7月31日(日)10:30  聖霊降臨後第8主日礼拝 「 何が一番大切か 」 浅野 直樹牧師

聖書箇所:ルカによる福音書 章13~21節



「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」。

今日の第一の朗読・旧約の日課は、この一度聞いたら忘れられないような、独特の世界観が醸し出されている『コヘレトの言葉』(以前は『伝道者の書』と言われていましたが)からでした。この書は、聖書の中でもちょっと変わり種、と言いますか、異質の書だとも考えられています。ある方は、「悲観的厭世的(厭世…「世の中をうとましく思うこと」ですね)」だとも表現しています。一見すると、その通りだと思います。

しかし、そういった感覚は、何もこの『コヘレトの言葉』に限りません。実は、普段私たちの礼拝では朗読していませんが、教会手帳をお持ちの方はお分かりだと思います、数年前に新しい日課になりまして、毎主日(日曜日)の日課として、詩篇も選ばれているのです。今日の日課として選ばれているのは、詩篇49編ですが、先ほどの『コヘレトの言葉』と非常に共通しているところがありますので、ちょっと読んでみたいと思います。詩篇49編2~13節です。

「諸国の民よ、これを聞けこの世に住む者は皆、耳を傾けよ人の子らはすべて豊かな人も貧しい人も。わたしの口は知恵を語りわたしの心は英知を思う。わたしは格言に耳を傾け 竪琴を奏でて謎を解く。災いのふりかかる日わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも どうして恐れることがあろうか 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高くとこしえに、払い終えることはない。人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは 知恵ある者も死に 無知な者、愚かな者と共に滅び 財宝を他人に遺さねばならないということ。

自分の名をつけた地所を持っていても その土の底だけが彼らのとこしえの家 代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。「財宝を頼み」とし、「富の力を誇」ったとしても、何になるのか。それで、果たして命が贖えるというのか。知恵ある者も亡き者も、みな等しく死ぬだけではないか。名を残し、広大な土地を得たとしても、人の永遠の住処は、結局は土の中、死者の国に過ぎないではないか。いっとき栄華を極めたとしても、そんなものは時が移れば過ぎゆくもの。そんなものにより頼んで、一体何になるというのか。そうこの詩人は問う。今の政治家たちに聞かせたいくらいです。いいえ、これは私たち自身の問題でもあるでしょう。なぜなら、「諸国の民よ、これを聞け この世に住む者は皆、耳を傾けよ 人の子らはすべて 豊かな人も貧しい人も。」と語りかけられているからです。そうです。一部の人ではない。私たち全てが聞くべき言葉です。

先ほどは、これは『コヘレトの言葉』と非常に似ている、と言いましたが、「空しい」という言葉は直接的には出てきませんでしたが、この『コヘレトの言葉』を読んだことのある方なら、なるほど似ている、と思われるのではないか、と思います。では、なぜそんな「空しさ」を生むのか。私は、ある種の不確実性だと思っています。つまり、方程式通りにはならない、ということです。こうこうこういった原因があるからこうなるのだ、といった式と想定される答えとが、必ずしもイコールでは結びつかない、ということです。

例えば、悪は栄えない。悪は必ず滅びる。罪を犯せば必ず報いがある。しかし、コヘレトも指摘していますように、この世の中は必ずしもそうなっていない現実がある。むしろ、悪の方がかえって栄えているのではないかとさえ思えてくる。逆に、正直者、正しき者が報われない現実もある。かえって、「正直者が馬鹿を見る」なんて言われる始末です。そんな正直者、純粋な人たちの弱さにつけ込んで貪り尽くそうとするハゲタカたちも後を断たない。あるいは、努力は必ず報われる、と言われる。しかし、果たして本当に全ての人が平等に、同じように努力が報われているのだろうか。私は、そうは思わない。実はこう
した矛盾(「努力は必ず報われる」「本人の努力次第」とは必ずしも言い切れない)を無視した現代社会のあり方が、以前もお話しした「無理ゲー社会(ある人たちにとってはディストピア)」を生んでいる要因になっているのではないか、と思うのです。

ともかく、人はそんな不確実性が生み出す「空しさ」をなんとか回避しようとするのでしょう。そこで、確実なものだと思われている地位、名誉、権力、富・財産、自己の才覚、あるいは生命力・健康を追い求めていくことになる。しかし、果てして、それらは本当に確実なものなのか、それで本当に「空しさ」を埋め合わせしていけるのか、と先ほどの詩篇の言葉は問うわけです。

今日の福音書の日課は、群衆の中の一人の言葉がきっかけとなりました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。これは、色々とイエスさまの教えを聞いている最中のことだったようですが、何もこんな時にこんなことを、と思わない訳ではありません。しかし、どうやらそうでもないようです。当時は長男が遺産の大部分を相続したようですが、長兄以外の兄弟たちにもいくらかばかりの分け前はあったようです。

しかし、この人はそんな正当な相続分さえももらえなかったらしい。そんな時、律法の規定に詳しいラビ(教師)たちに調停を願うことは一般的なことでした。この人も、イエスさまからいろんな話を聞きながら、自分の正当な権利を弁護してくれるに違いない、と思って、ああいった申し出をしたのでしょう。ところが…。イエスさまはこう答えられました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と。

正直、私はこういった所に躓くんですね。冷たいな~、と。案外、聖書には私たちが思っているのとは違ったイエスさまの姿も描かれているんです。しかも、イエスさまは「どんな貪欲にも注意を払い」なさい、と話を進められる訳です。あたかも、あの願い出た人が「貪欲」であるかのように。これを聞いた人は「え~」と思ったでしょう。私たちも、その場に居合わせたら、そう思ったかもしれない。もう一度繰り返します。この人は正当な要求をしただけです。律法にも何ら反していない。兄の分をよこせ、というのではない。兄の分は分でとったらいい。しかし、律法で許されている範囲の自分の取り分はもらって当然ではないか、と言っているだけです。むしろ、そんな小さな権利さえ蔑ろにする兄の方が悪いと思う。

ここで語られた譬え話だってそうです。この人はなんら不正はしていない。悪いことをして、人から搾取して財産を増やしたのではないのです。自分が所有していた畑がたまたま豊作だっただけです。むしろ、ユダヤ的理解で言えば、それは神さまのお恵みとさえ思えることです。そういった予期せぬ幸運を、むしろこの人は巧みに用いたと言えるのではないでしょうか。そんな幸運がいつも起こるとは限らないからです。不確実性です。そんなものに依存するようではダメです。創世記のヨセフ物語りなんかにも記されていますように、場合によっては飢饉が何年も続くことだってある。それは、来年かもしれない。収
穫物を売ってお金に換えても、もし来年以降飢饉が続くようならば、いくらお金を出しても食料が買えなくなるかもしれません。そういう意味では、この食糧を蓄えておく方がより確実でしょう。むしろ、この譬え話の金持ちは、熟慮に熟慮を重ね、何度もシミュレーションをしては、そんな賢い選択をしたのではなかった。どこぞの経済界に採用したいほどです。しかし、イエスさまは、「愚か者」と言われる。

こう考えていきますと、私たちの常識からすれば、これらは、むしろ普通のこと、当然のこと、賢い選択のように思われます。聖書の他の箇所から見ても、そうではないでしょうか。「蛇のように賢く、鳩のように無垢」であれ。であれば、それらのことと私たちの「命」とを結びつけていることこそが問題なのでしょう。こうあるからです。「人の命は財産によってどうすることもできないからである」。事実、先ほどの譬えでも、知恵の限りを尽くして最善を講じたとしても、命を無くしたら一体何になるのか、と言っている訳です。そうです。私たちは、それらの確かさを「命」の確かさと結びつける所にこそ、問題がある、と言われるのです。財産にしろ、権力にしろ、自己の才覚にしろ、それら自体は決して悪いものではないでしょうが、それらは命の確かさとは何ら関わりがないのだ、と。だから、先ほどの詩篇でも「死」が問題とされる。死によって失われてしまうものにしがみつくことに、頼ることに、一体どんな意味があるというのか、と。それは、結局は「空しい」ことではないか、と。

「最後の晩餐」(1625-1626)ヴァランタン・ド・ブーローニュ



ですから、今日の結論でイエスさまはこう言われるのです。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。私は、この言葉を聞いて、まずは「天に宝を積む」といった言葉を連想致しました。しかし、それだけでもないように思います。自分の命を支え、守り、豊かにし、永遠に生かして下さるのは、神さまなのだ、との信頼です。つまり、信仰です。ですが、ここで私たちは問う。果たして、信仰とは確実なものなのだろうか。先ほどの「空しさ」も、結局は神さまはおられないのではないか、神さまは働いてくださらないのではないか、助けてはくださらないのではないか、といった
不確実性、不安・不満から生まれていたのではなかったか、と。

確かに、そうです。しかし、私たちはこのことを忘れているのかもしれません。信仰は試されるものだ、ということを、です。信仰は試されるのです。しっかり、その確さの上に立っているのか、と。では、その確かさとは何か。私たちの信心ではありません。信じる力、熱意ではないのです。そうではなくて、私たちが信じるイエス・キリストの確かさ、です。これほど確かな方はおられない。それを、私たちは信じる。

名誉、権力、力、財産、夢・理想、やり甲斐、友・愛すべき者たち…。私たちが確かだと思うもの。いいです。それらは、私たちの「空しさ」を回避するモチベーションになる。しかし、残念ながら、私たちの命の補償にはならないのです。その確かさにはならない。最後は誰も、何も助けてはくれないからです。そうではない。イエス・キリスト。私たちには、十字架と復活によって私たちへの愛を、永遠の命の確かさを示して下さったイエス・キリスト、イエスさまがいるのです。私たちの最も大切な「命」を託すことのできる方が。そのことを、もう一度改めて確認していきたいと思います。

【 Live配信 】2022年7月31日(日)10:30  聖霊降臨後第8主日礼拝 「 何が一番大切か 」 浅野 直樹牧師



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【 Live配信 】2022年7月24日(日)10:30  聖霊降臨後第7主日礼拝 「 祈ることを教えてください 」 浅野 直樹牧師



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【説教・音声版】2022年7月24日(日)10:30  聖霊降臨後第7主日礼拝 「 祈ることを教えてください 」 浅野 直樹牧師

聖書箇所:ルカによる福音書11章1~13節



今日の福音書の日課は、「祈り」についてです。

ところで皆さんは、この「祈り」、あるいは「祈ること」について、どんな思いをお持ちでしょうか。必要なこと、大切なことであることは分かっているが、なかなか難しい、と感じておられる方もいらっしゃるかも知れません。以前もお話ししたことがあると思いますが、私自身、正直、悩んできました。教会生活や聖書を読んでいく中で、先ほども言いましたように、祈ることの大切さ、その必要性を教えられ、祈るわけです。しかし、祈りながら、どうも空々しい自分に気づく。本当に真剣に祈っているのだろうか。

ちゃんと答えられると期待しているのだろうか。どうも「しなければならないこと」と義務的に祈っているだけになっているのではないだろうか。こと執り成しの祈りになると、その人のために本当に心を込めることが出来ているのだろうか。祈りの結果が思うように与えられていないと感じると、ますますそんな思いに取り憑かれてしまい、祈ること自体が苦痛で苦痛で仕方なくなっていきました。そんな中で、私にとっては本当に幸いなことでしたが、一冊の本と出会うことができた。以前もご紹介したことがあると思いますが、O.ハレスビーというノルウェーのルター派神学者が書かれた『祈りの世界』という本でした。

そこには、あなたの祈りが神を動かすのではない、とはっきり書かれていました。それは、私にとっては「コペルニクス的転回」とも言えるものでした。当時の私は、無意識的にも、私の祈りが神さまを動かす(動いていただく)キーになるのだ、と思っていたのでしょう。ですから、祈る相手よりも、祈っている自分にばかりに注意が向けられていたのです。果たして私の祈りは誠実なのか、熱心なのか、心がこもっているのか、少しの不実もない清らかなものになっているのか、そうでなければ神さまを動かす力、神さまに動いていただく鍵にはならないだろう、そんなふうに思い込んでいた節がある。ですから、先ほどの言葉は私にとっては天地が、これまでの常識がひっくり返るような衝撃だったわけです。ともかく、祈りとは決して自明なことではなくて、ちゃんと学ぶべきものなのだ、ということを最初に抑えておきたいと思います。

今日のこの日課は、まずこの言葉によって生まれたことを確認したいと思います。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」。このように、弟子たちの祈りを教えて欲しい、との願いから、この祈りの教えがはじまった、ということです。この弟子たちも、ユダヤ教の伝統の中で生きてきたわけですから、祈ることを全く知らなかった、ということではないでしょう。しかし、それでも、おそらくイエスさまは、祈ることの難しさも知っておられたのではないか。だからこそ、この弟子たちの求めに応えていかれたのではなかったか。そう思うのです。

そこで教えられたのが、主の祈りです。私たちもよく知る祈りです。今日は、この主の祈りについての細かな解説は致しません。ぜひ、徳善先生が訳されたルターの『エンキリディオン 小教理問答』をお読みください。この主の祈りの意味を再確認することができると思います。しかし、いくつかのことについては、手短に触れていきたいと思います。

まずイエスさまはこう教えられました。「父よ」と祈れ、と。もちろん、私たちは神さまに向かって祈る訳ですが、その神さまを「父」として祈れ、ということでしょう。実は、これは非常に画期的なことなのです。このように、神さまのことを「父」と呼ばれたのは、イエスさまだけだからです。つまり、ある意味特権とも言える神さまとイエスさまとの関係性を弟子たちにまで広げて下さっている、ということです。私と同じように、あなたたちも神さまを「父」と呼び求めても良いのだ、と。しかも、ここは、「アッバ」という言葉が使われている。これには色々と議論があるようですが、幼い子どもが父親を呼ぶときの呼び方であることは間違いないようです。今風に言えば「パパ」ということでしょうか。たとえ、「パパ」でなくとも、私たちは神さまを親しく「お父さん、お母さん」と呼び求めることができるのだ、とおっしゃる。これは、後でもお話ししますが、非常に心強いことです。

そして、まず祈るべきことは、「御名が崇められますように」ということ。別の翻訳では、「御名が聖とされますように」となっています。こちらの方が本来の意味を表していると言えます。「聖とされる」、つまり、聖別です。これについては、エゼキエル書の言葉が非常に参考になると思います。エゼキエル書36章22節以下、「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる」。

当時のイスラエルの民は、罪のゆえなのか、不信仰のゆえなのか、とにかく、彼らの振る舞い、存在によって、国々から不評を買っていた訳です。それは、原因を作った彼らだけに止まらず、彼らが信じる神さまにも向けられることになった。御名が汚された、とは、そういうことです。つまり、神さまの顔に泥を塗ったのです。だから、泥を塗られた神さまはご自分で名誉を回復されようとしている、と言われている訳です。

正直に言いまして、私が信仰を持ちましてから随分と長い間、この主の祈りの一番目の祈り「御名を崇めさせたまえ」に強い抵抗感を抱いてきました。それこそ、祈りに応えてくれないような神さまの名前を、なぜいの一番に称えなければならないのか、との不満もあったのだと思います。素直に祈れなかった。しかし、曲がりなりにも信仰生活を続けていく中で、もちろん、その間には悩みも痛みも不満もあった訳ですが、不思議と自分が信仰者として生きる意味、目的は、混じり気のない真心から神さまを褒め称えることなんだ、と思えるようになってきました。何よりも、この主の祈りの第一の祈りが大切なのだ、と。もちろん、これは目標であり祈りでありますので、現在そうだとはとても言えない訳ですが、しかし、確かに主の祈りを祈る姿勢が変わっていったことは感じています。

御名が聖とされる、神さまが神さまとしてありのままにちゃんと受け止められて、ふさわしく崇められることは、ごく自然のことであるはずです。しかし、この世界も、そして私たち自身も、そうはなっていない。それは、やはりどこかに歪みがあるとしか思えないのです。ですから、やはりこの祈りの大切さを噛み締めていきたいと思っています。

そのように、神さまを父よと呼びかけ、御名が崇められることを、御国が来ることを、日毎の糧が与えられることを、赦し合いを求めることを、誘惑から救われることを願い求めるようにと「主の祈り」を教えられた訳ですが、もちろん、この祈りをそのまま私たちの祈りとして祈ることも大切だと思いますが、これらを祈りのエッセンスとして、自分なりの祈りの生活を作り上げていくことも大切ではないか、と思います。そこで、もう一つ大切なことは、祈りの持続性です。諦めない、ということです。先ほど、イエスさまは弟子たち、私たちの祈りの難しさを知っておられたのではないか、と言いましたが、まさにここがそうでしょう。つまり、なかなか祈った答えが得られない、といった実感です。そこで、イエスさまは一つの譬え話を語られました。もうこれは良く分かる譬え話なので、解説は必要ないと思いますが、とにかく、諦めないで「しつように」ということが語られている訳です。今日の旧約の日課のアブラハムの執り成しも共通しているでしょう。

最初は50人だった条件を10人にまでもっていけたのも、その「しつようさ」だったと思います。しかし、では、ただ執拗に祈れば良い、ということを言いたいのでしょうか。そうではないように思うのです。アブラハムのところでも、彼が執り成す前に、ご計画をわざわざ伝えているからです。つまり、あたかもアブラハムの執り成しを期待しているかのように。むしろ、私はこれらのことから、私たちの「執拗さ」が重要というよりも、神さまが私たちに「執拗に」求めることを許して下さっていると写ってならないのです。

今日の日課の8節、「しつように頼めば」の「しつよう」という言葉は、他に「恥知らず」や「図々しさ」などの意味もあるようです。確かに、たとえ友達であったとしても、この人の振る舞いは、「恥知らず」「図々しい」と言えなくもない。しかし、イエスさまは、祈りの時には、それで良い、と言われるのです。しかも、イエスさまは、ただでさえそうならば、親子の間ではなおさらではないか、と言われる訳です。つまり、先ほど言った、「アッバ父よ」ということです。他人であれば、ある意味「執拗さ」は、「恥知らず」にも「図々しさ」にもなる訳ですが、親子の間では、そうではありません。たとえ、子が親に対して、図々しく見えるような「駄々を捏ね」てみても、むしろ、それは正常な親子関係が成立しているからこそのことです。

「キリストとマグダラのマリア」(1890)アルベルト・エーデルフェルト(1854–1905) アテネウム美術館



ですから、イエスさまは「父よ」と祈りなさい、と言われる。他人であっても、「執拗に」頼めば聞いてくれるのだから、まして親子の関係であれば、当然ではないか、と言われるのです。しかも、イエスさまは、父なる神さまは、聖霊をくださるとも約束して下さっていると言われるのです。聖霊とは、私たちが信仰者として生きる上で、必要不可欠な存在であり、力そのものの方です。その聖霊を与えて下さると約束して下さっている。しかも、執拗に聖霊を願った結果でもないのです。私たちは、それぞれの思いで、その必要に迫られて、執拗に、「求め」「探し」「門を叩く」しかできない。この苦しみから救ってください、と。この問題から解放してください、と。時に、ピントはずれの願いを「執拗に」繰り返すだけなのかもしれない。しかし、その結果どうなるか、と言えば、父なる神さまは私たちに聖霊を与えて下さる、というのです。

先ほどは、少しばかり私の祈りの遍歴をお話ししましたが、それらは、まさに、私が何かをした結果ではなく、いろんなことにぶつかりながらも、曲がりなりに「執拗に」祈ることが許されてきたが故に、必ずしも自分の意図、願いとは違っていたのかもしれませんが、知らず知らずの内に聖霊が与えられてきた結果なのだと、今では感謝しています。

「わたしたちにも祈りを教えてください」。そうです。私たちもまた、そこから祈りの生活をはじめていかなければならないのかもしれません。

【 説教・音声版 】2022年7月17日(日)10:30  聖霊降臨後第6主日礼拝 「 おもてなし 」 渡邉 進 牧師

聖書 ルカ:10:38~42

【物語の背景】8:1~3にイエスが、ガリラヤの村々を宣教して回っていることが記されている。ルカは、読者にイエスの活動、働きに、それはまだ小さく、もろいものではあっても、その動きに協力し、支えている人たちがいたことに注意を向ける。このことは大変重要であった。宣教は、イエスと弟子たちが行い、それを周りにいて支援する人たちがいた。その中心は、女性たちであったのである。そのような流れにおいて、今日の出来事が起こっているのである。そのことをまず踏まえねばならない。

同時に、イエス一行の旅は、新たな段階に入ったのである。それは、【イエスは天に上げられる時期が近ずくと、エルサレムに向かう決意を固められた。】(9:51) この時点で何が起こっているかを認識しなければならない。つまりギヤ―チェンジがされているのである。ここでは、地理的問題よりも、ルカの神学的観点が重要視されている。以前のムードと異なった雰囲気が醸し出されていると言っても過言ではない。少なくとも以前とは違う緊張感が漂っている。そのような背景が前提になっていることを前置きしておかなくてはならない。

【一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。】(10:38)
この物語では、明らかに【歓迎】することの二様の姿が、二人の女性の接待を通して表されている。別の表現を使えば、【おもてなし】である。イエスは、どちらも受け入れる。しかしこの場合は、優先順位をつけている。み言葉を聞くことの優位性、優先性が示されている。それはなぜか? 今やイエスは、エルサレムに向かう決意をされたからである。即ち、十字架への道を歩んで行かれたのである。

【彼女にはマリアと言う妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞き入っていた。】(V39) まるでラビとその弟子のように、マリアは、イエスの話を夢中になって聞き入っている様子が浮かんでくる。勿論この風景は、当時としては画期的である。何故なら、女性が生徒となって、師の話を聞くなどあり得なかったからである。しかしこの描写には明らかに、当時のラビと生徒の学ぶ姿が描かれている。

マリアとマルタの家のキリスト:ヨハネス・フェルメール



【足元に座って】、マリアがイエスの話に耳を傾けていたことが、それを証明している。更にマリアのこの姿は、キリスト教が、神の国、福音を宣べ伝える証し、説教へと展開して行くことへの言及がされている。マリアは、その先駆けとなった。即ち、その後の教会の働き、神の国、福音の宣教が、イエスの言葉を聞くことから始まるという、先駆者となったのである。

【マルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか?手伝ってくれるように仰ってください。」】(V40) マルタの返答は、当然である。当時女性は、お客さんを歓待するため、食事の用意をするのが当たり前であった。それが大変重要なおもてなしであった。誰が、男たちに混ざって、イエスの話に耳を傾けるであろうか?男勝りと罵りさえされるであろう。あるいは誰がそんな女を嫁に貰うであろ
うか? 嫁の貰い手が無くなる。それは当時の女性にとって、致命的な風評となった。マルタは、当たり前の気遣いをした。

【主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。(気を遣い、思い煩って)しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」】(V41) イエスの答えは、【マルタ、あなたの主張は十分わかる。あなたのしていることは全く正しい、あなたは、私たちが、この家に来てから、十分過ぎるほどのもてなしをしてくれた。ありがとう!感謝している。しかし必要なことは一つなんだ。マリアは、それを選んだのだよ。】と諭すよう
に語られた。

【良いほう】とは、英語では、‘ Good portion ’となっている。つまり良い分け前を選んだとの意味である。
マリアの選びは、伝統的なしきたりからは、大分離れている、しかも女性が、学ぶことは、許されない時代であれば、革新的な行為である。イエスは、決してマルタのもてなしを否定はされない。否むしろ大いに歓迎したに違いない。しかしヤコブが語っているように、聞くことを重んじる人は、行動が伴わず、単なる口先だけの人になりやすい。信仰は、行動が伴ってはじめて、完成される。人々は良く見ている、私たちは、観察されている。

前の記事が、【善いサマリア人】のたとえ話である。イエスに、律法の専門家が、【何をしたら永遠の生命を受け継ぐことができるか?】との問いに、イエスは、正解を答えたのに対して、次のように返答した。【正しい答えだ。それを実行しなさい。】と。実行しなければ、何の意味もない。しかしマルタのように、おもてなしをするのに、不平が出てくるのは、興ざめである。もてなしとは、気づかれずにするのが本来のもてなしである。それこそがもてなし上手である。

今日の聖書は、イエスの置かれた状況の変化に目を止める必要がある。つまり、イエスは、エルサレムに向かう決意をされたのである。今までの穏やかな、弟子や民衆と親しく、平和に、和やかに語らい、過ごす様子が一変する。それが【エルサレムに向かう】と言う言葉に表れる。み言葉は、私たちの生きている状況の中で、読むべきである。
私たちの生きている、今の状況はどんな時代であろうか? この3 年近く、コロナと言う感染症のため、世界中が苦しめられてきた。今もなおそれは続いている。世界中の人々が変化を求められた。教会も例外ではない。以前は、教会に集まって集会をし、み言葉を聞いてきた。それができなくなってしまった。誰しも慌てふためきながら、どうしたら良いかの模索が始まった。また、今の世界を【不寛容な世界】と表現した。分断が世界中で起こっている。

数年前は、やっと戦争の悲劇から抜け出しつつあるような平和が日本に訪れつつあった。戦後の日本社会は、復興に始まり、発展、そして世界平和に貢献してきた。オリンピックが日本で開催されたのも、新たな時代を迎える、幕開けと考えられた。ところが実際は全く違っていた。
コロナ禍が落ち着いてきたかと思いきや、ウクライナにロシアが侵略するという戦争が勃発した。日本もこれに巻き込まれ、多くの犠牲を払っている。今や世界戦争になりつつある。コロナ禍で、緊急事態宣言が、数回にわたり発出された。今や違った形で、緊急事態が発生している。物価の高騰、それだけではない。家庭にまで、分断は影響を与えている。

【コロナ離婚】と言う言葉が生まれた。兎も角【不寛容な時代】を私たちはいやがうえにも生きていると言えないだろうか? マリアは、イエスの言葉に耳を傾けた。弟子たちに交じって。男勝りと言われようが構わなかった。それこそが今なすべき最も重要なことと考えたのである。平和な、何も起こらない時代ならいざ知らず、今日のように、いつ分断が起こるかわからない時代に生きていて、私たちのなすべきことは一つしかない。み言葉に聞くことである。
それではなぜ、み言葉に耳を傾けるのであろうか? み言葉を聞くとき、重要なのは、それが神の言葉であると言うことである。私たちの、敬虔さ、感情、また経験でさえない。格言のような知恵以上のものである。聖書が、イエス・キリストを啓示する神の言葉であるからである。私たちの救いの源は、神の言葉だけである。それ故、言葉への集中が、キリスト者であるために、必然的結果なのである。私たちは、聖書に耳を傾ける。それは、救いを見出すためである。私たちの人生に於ける救いではなく、イエス・キリストにおける救いを見出すためである。

【聖書は単なる道徳的ガイダンスではない、むしろ神の言葉を含んでいる。それは単なる信仰の情報ではない、信仰を生み出す。喚起すると言って良い。
信仰を知らない人に、信仰を失ってしまった人に、また未だに迷っている人に信仰を届けるのである。だから私たちは、聖霊の働きを祈りながら聖書に耳を傾ける。】(Mcgrath)
今日の旧約聖書の日課を読みましょう。イサク誕生の約束が記されている。アブラハムと神との約束は、二つあった。一つは土地であった。もう一つは、子孫の繫栄である。しかしアブラハムには、なかなか子供が生まれなかった。そこでサラは、自分のつかえめハガルに子を授かることを提案する。しかしイシマエルは、約束の子ではなかった。再び神は、アブラハムにイサク誕生の知らせを伝える。その記事が、18 章である。【主はマムレの樫の木のそばでアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。ふと目を上げると三人の人が近くに立っていた。それを見ると、アブラハムは彼らを迎えようと天幕の入り口から走り出て、地にひれ伏して、言った。】(18:1~3) アブラハムは、3 人の客人を、もてなした。最高のもてなしであった。当時の習慣に従ったまでなのか、あるいは神の使いであると知ってか、それは定かではない。いずれにしても、随分と厚いもてなしをした。

明らかに彼らは神の使いであった。彼らは妻のサラに告げた。【わたしたちは来年の今ごろ、、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。】(18:10) それを聞いてサラは笑った。そんな約束、聞くに堪えないというのでしょうか? あるいはあまりにも現実離れしているので、チャンチャラおかしいというのでしょうか? いずれにしても、神の約束を聞くには、全く相応しくない態度です。

否彼らには、すでに約束の信仰は失っていた。ただ残っていたのは、微かなこの世的に生じた処世術であった。それが彼らの信仰であった。
ルターの言葉を聞こう。【私たちは、神の約束に、我々の心をしっかりと留め、そこに信仰の土台を築く以上のことはできない。聖書は、そのような我々を導いて、キリストへと連れて行ってくれる。しかしまず人間としてのキリストへである。神としてのキリストへではない。何故なら、知者たちは、賢い者は、この世の高みからまずはじめようとする。しかし私たちは、最低の地点から、無の地点から、はじめねばならない。】そして箴言の言葉を引用する。

【蜂蜜を食べ過ぎればうまさは失われる。名誉を追い求めれば名誉は失われる。】(25:27)聖書を聞くものは、常に謙虚な姿勢ではじめねばならないというのとである。

【 Live配信 】2022年7月17日(日)10:30  聖霊降臨後第6主日礼拝 「 おもてなし 」 渡邉 進 牧師



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【 Live配信 】2022年7月3日(日)10:30  聖霊降臨後第4主日礼拝 「 二人で働く 」浅野 直樹 牧師



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【説教・音声版 】2022年7月3日(日)10:30  聖霊降臨後第4主日礼拝 「 二人で働く 」浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書10章1~11節、16~20節



 

今日の日課は、福音宣教に弟子たちが派遣されたといった内容だったと思います。
と、その前に、今日の旧約の日課に非常に興味深いことが記されていましたので、そのことにも少し触れていきたいと思っています。こう記されていたからです。イザヤ書66章12節後半から。「あなたたちは乳房に養われ 抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める」。一般的に私たちが信じている神さまは「父なる神さま」といった理解が強いように思いますが̶̶事実、イエスさま もそう語っておられますし、聖書にも多くそのように記されていますので、そのこと自体は決して間違ってはいませんが̶̶、数は決して多くはありませんが、先ほどの箇所のよ うに聖書にはこのように母性的な神さまのお姿も描き出されているわけです。

遠藤周作は日本的なキリスト教理解に貢献したと言われていますが、それは当時のカトリック教会の厳父的な信仰理解に耐えられず、より日本的な母性的信仰理解を求めたからだ、と考えられてもいます。現代においては、「カミナリおやじ」的な父親像はすっかり鳴りを潜めていますが、少なくとも私たちが信じる神さまは、今日の箇所にありますように、幼い我が子を膝に乗せ、愛情豊かに愛おしむ「お母さん」の姿も併せ持っておられるということを忘れないでいたい、と思います。

福音書に戻りますが、今日の箇所でまず目につくのは「72人」という数です。これは、別の翻訳によると70人とも記されるものですが、それは、それぞれが翻訳に使う底本(写本のことですが)に違いがあるからです。これには色々な解釈があり、72(あるいは70)という数字は、当時考えられていた世界の民族の数だとか、あるいは、モーセを補佐した指導者たちが72人(70人)いたからだ、などの説があるようですが、それらを踏まえて、ある方はこのように言っています。「いずれにせよ、そこに浮かび上がってくるのは、世界全体の中に遣わされて行く神の民の姿です」。先ほども言いましたように、全世界の民族が72であり、神の民イスラエルを代表する人たちが72人なわけですから、「世界全体の中に遣わされて行く神の民の姿」が表されているのだ、ということです。

そうかも知れません。しかし、私はこの数を見て、単純に「意外と多いな」と思いました。なぜなら、私たちが常に意識している弟子たちは、あの12弟子だからです。その他にも女性の弟子たちがかなり同行していたようですが、私たちはどうも、イエスさまとこの12人の弟子たちだけが旅をしていた、と思ってしまっているところがあるように思うからです。しかし、実際にはもっと多くの人がいたのです。しかも、私たちはこの72人の人たちの名前すら知らない。先週は、「弟子」とはキリスト者の一部の人たちだけを指すのではなくて、私たち全てが「弟子」であるといった話をしたかと思いますが、ここでもまさにそういった印象を受けるのです。

私たちがよく知っている12弟子、ペトロもヨハネもヤコブも含まれているあの12弟子は、ルカによるとすでに9章のところで宣教に遣わされていました。今度の72人は、それ以外の名も無い「弟子」たちだったと言っても良いと思います。そんな弟子たちも、あの12弟子と同じように、同じ権威を頂いて宣教に遣わされていく。そのことも、私たちは忘れてはいけないのではないか。しかも、イエスさまはこうおっしゃるのです。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に願いなさい」と。これは、あの12弟子を派遣した時にはない言葉です。収穫は多い。しかし、働き手が少ない。だから、収穫の主に願いなさい、とおっしゃる。それは、新たな働き手を送ってください、との祈りだけなのだろうか。この自分も一人の働き手としてください、との祈りも込められているのではないだろうか。

私たちの教会は大きな課題を抱えています。ご存知のように、牧師のなり手が少ないということです。昨年、今年と神学校の卒業生はいませんでした。三浦さんが卒業される再来年は複数の牧師の誕生を期待することができますが、その後はあまり続かない様子です。ですから、「働き手を送ってください」との祈りは喫緊の課題でしょう。しかし、奇しくも、72人という数はコロナ前の私たちの礼拝の人数と近い訳ですから、皆さんの中からも「働き手の一人としてください」と祈る方が与えられることも願っています。それは、必ずしも「牧師になる」ことを意味しない、と思います。信徒のままで、皆さんの出来る範囲でいい、と思う。それでも、祈っていただきたい。なぜなら、「収穫は多いが、働き手が少ない」とイエスさまが語っておられるからです。

そんな派遣される72人は、一体何をするのか。もちろん、宣教です。では、具体的には何をすれば良いのか。「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」と記されている。ここを読みますと、一気にハードルが高くなったように思えてきます。先ほどは、牧師が「出来る範囲でいい」と言ったではないか。だから、「ならば…」と祈ってみたのに、求められていることがこんなこととは。この私に、果たして病人を癒せるだろうか。無理に決まっている。そう思われるかも知れません。もちろん、牧師だって病人を癒すことなどできない。確かに、そう。しかし、こうも思う。

「病気」といっても、色々な病気がある。医者でしか治せない病気もあれば、そうでもない病気もあるではないか、と。
先日、ある新聞記事を読みました。それは、子どもたちの幸福度が、何ヵ国だったかはっきりとした数字は忘れてしまいましたが、確か30数カ国のうちでワースト2位だったというのです。下から2番目。今の子どもたちは、全然自分が幸せだと感じていないらしい。正直、ショックでした。色々と考え込んでしまった。物質的に豊かだから、かえって幸福感が湧かないのではないか、とも考えた。しかし、調査した国の中には、日本と同様に物質的な豊かさを持った国々も多くあるはずです。なのに、この違いはなんだろうか。もし、これが事実だとしたら、原因は一つ二つではなく、国自体が病んでいるのかも知れない、そう思いました。

確かに、牧師としていろんな悩みを聞く機会があります。「病気」としか思えないようなこともあります。若い頃は、それこそ「癒さなければ」と無理をして、かえって失敗してしまったことも多々ありました。今は、相手の話を聞いて、意見を求められれば、一つの参考にしてと自分の体験談を話して、相手のために祈ることくらいです。それでも、「助けられた」と言ってくださる方が少なからずいてくださいます。一人一人にできる癒しの業があるのかも知れません。そんな「癒しの業」とももちろん関係する訳ですが、最も大切なことは「神の国はあなたがたに近づいた」と告げることです。このことを考える上でも、今朝の使徒書の日課、ガラテヤ書6章7節以下の言葉も非常に大切になってくるのではないでしょうか。なぜなら、「神の国」とは「神さまの御支配」を意味するからです。つまり、神さまとの関係性を無視しては、決して成り立たない、ということです。

ご存知のように、このガラテヤの教会はパウロが生み出した教会の一つですが、パウロが不在の間にユダヤの律法主義が入り込んでしまい、混乱を起こしていました。パウロはそれを正すためにこの書簡を送った訳ですが、ここでパウロが非常に強調しているのは福音の重要さ、です。律法主義とは、一言でいってしまえば、己の力で救いを勝ち取る、ということでしょう。それに対して福音とは、神さまの恵みにただ身を任せる、ということです。幼子のように。出来のいい熱心は子どもは、父親の高い期待に応えたいと強く願い、あらん限りの努力をするものです。

それもまた、正しい生き方なのかも知れない。しかし、人はそうとばかりに生きられない。それに、そういった子どもは、親の愛情を勘違いすることも多いのです。自分に何か価値がなければ、愛してはもらえないのだ、と。そのままの、ありのままの自分では受け入れてはもらえないのだ、と。期待に応えなければ、そういった自分でなければ愛される資格がないのだ、と。しかし、親は、いいえ、少なくとも私たちが信じる神さまはそうは思っておられないはずです。私たちが信じる神さまは、我が子を膝に乗せ、愛おしまれる方だからです。子どもが何をしたか、どんな能力があるか、ではない。その存在自体が愛おしい。確かに、期待はされている。しかし、期待に応えなければ愛されないのではありません。その存在自体を愛し、愛おしんでおられるからこそ期待しておられるのです。愛の中に生きていって欲しい、と。だから、やはり律法主義は間違っている、と言わざるを得ない。

知らず知らずの内に、幸福感を抱けない病人を生み出していってしまうかも知れないからです。しかし、私たちは、福音を知っている。イエスさまの十字架と復活のみ業を、その意味を知っている。それは、この言葉に示されている通りです。「あなたたちは乳房に養われ 抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める」。
その神の国が近づいたことを、私たちは告げるのです。神さまの愛の御支配が、あなたのすぐそばに来ているのだ、と。それでも、私たちは、勇気が出ないのかも知れません。

この私たちに一体何ができると言うのか、と。しかし、この言葉も忘れないでいたいと思います。「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」。二人ずつ、です。決して一人ではない。励まし合える仲間がいる。そして、私たちの後からイエスさまご自身が来てくださるというのです。そうです。人を救われるのは、私たちの後から来られるイエスさまです。私たちではない。私たちはただ、イエスさまより先に、神の国が近づいたことを伝えればいい。自分のできる範囲で。自分もまた味わったものとして。それだけでいい。ならば私たちも、「働き手の一人としてください」と祈れるのではないでしょうか。

【 Live配信 】2022年6月12日(日)10:30  三位一体(聖霊降臨後第1)主日礼拝 「信じることは信頼すること」浅野 直樹 牧師



Youtubeでご覧になる方は以下をクリックしてください。

2022年7月9日(土)第27回 日本福音ルーテル教会東教区宣教フォーラム 『日本の伝統に生きる私たち』Vol.3



ポスター A4(PDF)版はこちらからご覧ください。

1)主題:「日本の昔話から読み解く日本人の文化意識とキリスト教」

会場:ルーテルむさしの教会
主催:第27回ルーテル東教区宣教フォーラム委員会
日時:2022年7月9日 9:45〜

【開会の祈り】– 浅野 直樹Jr.牧師 9:45〜10:00
【第1部】– 主題講演 10:00〜11:30

「日本の昔ばなしから読み解く、日本人の文化意識とキリスト教」

◉講演者
立石 展大(たていし のぶあつ)高千穂大学教授
日本文学・伝承文学 日本と中国の民間説話比較

【軽食休憩】– 11:30〜12:00
【第2部】– シンポジウム 12:00〜13:55

「日本の伝統に生きる私たち」の文化意識と信仰心

◉司 会
上村 敏文  ルーテル学院大学准教授 日本文化論・比較文化論
◉パネリスト
菅原  建  浄土真宗大谷派證誠山浅草厳念寺住職
松谷 信司  キリスト新聞社 編集長
立石 展大 高千穂大学教授

【閉会の祈り】– 浅野 直樹Jr.牧師  13:55〜14:15

2)ご参加⽅法 

どなたでもご視聴できます。
↑上記ポスターまたは、↓下記YouTubeバナーをクリックしてお⼊りください。
(申し込みは必要ありません)



◉会場参加(むさしの教会)ご希望の場合は
以下の方法でお申し込みください。


①下記メールアドレスから申し込む ※氏名/所属教会を送信
お問い合せ:senkyoforum@gmail.com

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