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2023年1月29日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校  お話「ユダヤ人を救ったエステル」浅野 直樹 牧師



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【ライブ配信】2023年1月22日(日)10:30 顕現後第3主日礼拝 説 教 「 宣教の開始 」浅野 直樹 牧師



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【説教・音声版】2023年1月22日(日)10:30 顕現後第3主日礼拝 説 教 「 宣教の開始 」浅野 直樹 牧師


聖書箇所:マタイによる福音書4章12~23節

本日の福音書の日課には、イエスさまの宣教のはじまりについて記されていました。

イエスさまは、こう語っていかれました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。マルコによる福音書では、「神の国」となっています。どちらも同じ意味です。ご存知のように、ユダヤの人たちは、神さまの名前をみだりに唱えてはならないという戒めを厳格に守っていましたから、「神」という言葉の代わりに「天」という言葉を使っただけです。この「天の国」・「神の国」は、「国」とありますけれども、日本やアメリカ、中国など、どこかの特定の土地にある「国」を指すのではありません。むしろ、「神の支配」と言った方が良い、とも言われます。

もともとは、そういった意味です。よく「神の国運動」といった言い方がされますが、イエスさまがはじめられた、成された宣教とは、この神さまの国、神さまが支配される世界を宣べ伝えることにありました。これは、決して忘れてはならないことだと思います。ですから、後にイエスさまが成された具体的な事柄、例えば病を癒されたり、悪霊を追い出されたり、供食の奇跡をされたり、「山上の説教」に代表されるような教えを宣べられたりしたのは、この神の国・天の国のためだった訳です。

今日の日課の直後になりますが、4章23節以下に、このように記されています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた」。

ご存知のように、イエスさまの周りには、いつもこれらの人たち、病人、怪我人、悪霊に苦しんでいた人、罪人と言われる人たち、社会的弱者たちが取り巻いていました。医学・医療技術も発達していない2000年も前のことです。江戸時代よりも平安時代よりも、もっともっと昔のことです。医者や薬があったって、治せない、治らない。怪我をしたら仕事もできなくなる。収入がなくなる。親、兄弟、いろんな人々に傷つけられて、精神的に参ってしまった人たちは、悪霊憑きなどと言われ、余計に居場所がなくなってしまったかもしれない。

とにかく、今よりもはるかに「生きにくい」時代、世界です。しかも、それらの不幸は、お前たちの罪のせいだ、神さまから見捨てられたのだ、罰を受けたのだ、と責められる始末。救いなどない。希望など見出せない。それが、彼らの現実だった。

今日の日課の冒頭で、イエスさまはイザヤ書の言葉の実現のために、故郷のナザレを離れ、カファルナウムの町に来て住まわれたことが記されていました。それは、16節、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰に住む者に光が射し込んだ」と福音書記者マタイは理解したからです。そうです。ここにいる人々の現実は、「暗闇に住む民」「死の陰に住む者」だった。その人々のところに、光であるイエスさまが来てくださった。

ドゥッチョ作「ペテロとアンデレの召命」(1308年)



少なくともマタイはそう理解した。そう確信した。だから、これはマタイしか記していませんが、イザヤ書8章から9章の言葉が実現したのだ、とわざわざ書いたのです。イエスさまは、そんな光なのです。暗闇を、死の陰を照らす光なのです。そして、それが、それこそが、神の国、神の支配。神さまからも見捨てられていたと思っていた。神さまから嫌われていると思って来た。神さまに罰せられていると思い込んで来た。そう思わせされてきた。だから、病にかかったんだと。病が治らないんだと。怪我をしてしまったんだと。精神を病んでしまったんだと。

不幸に見舞われているんだと。もう諦めるしかない。絶望するしかない。ただ、何も期待しないで生きるしかない。それが、それだけが、この過酷な世界、運命を生きる知恵。そう思ってきた。しかし、違っていた。そこにイエスさまが来られた。神さまは決してあなた方を嫌ってもいないし、見捨ててもおられないし、むしろ立ち返って、神さまの御業を見ることを、体験することを求めておられるのだ。神さまはあなた方の只中にいてくださる。これが、その証拠だ。ほら、ここに神さまの力があるだろ。

ここに、神さまのみ業があるだろ。これこそが、あなた方を神さまが救ってくださる何よりの証拠ではないか。愛して、気遣ってくださっている証拠ではないか。そう、神の国は近づいたのだ。だから、私が来た。私が来て、病を癒し、悪霊を追い出し、福音を伝えているのだ。それが、イエス・キリスト。人々を照らす光。

先ほどは冒頭で、イエスさまの宣教とは、この神の国・天の国の訪れを知らせることであり、非常に重要なことだ、と言いましたが、日本の教会はそのことをあまり意識してこなかったのではないか、と指摘しておられる方がいらっしゃいます。ここでも度々お名前を出させていただいている古屋安雄という長年ICU(国際基督教大学)の教授とICU教会の牧師をされてこられた方です。この古屋先生が、ご著書『神の国とキリスト教』の中で、日本の教会の歴史を振り返りながら、日本でこの「神の国」ということを真剣に考え取り組んだのは、賀川豊彦くらいではなかったか、と言っておられます。

この賀川豊彦氏について詳しくお話しする時間はありませんが、身近な例で言えば、「生活協同組合」を作った人です。古屋先生も指摘されていますように、日本ではいわゆる「教会派」と「社会派」とが̶̶最近はあまり聞かなくなりましたが、かつては、特に日本基督教団では大 変な騒動でした̶̶長年対立して来たことが、日本における宣教の不振につながっている のではないか、というのです。

「教会派」とは、極端な言い方をすれば、社会の現状に無関心とまでは言いませんが、とにかく教会形成を第一に考えて、どちらかというと内向きな姿勢になっていると言われています。逆に、「社会派」の方は、これも極端な言い方になりますが、とにかく社会変革を考える、優先する。一頃では、そういった「社会派」と言われる教会での説教では社会問題ばかりを取り扱って、キリストの「キ」の字もでなかったと聞き及んでいます。

古屋先生は、そのどちらも違う、欠けている、「神の国」的でない、というのです。イエスさまの宣教とは、まさに社会の只中に切り込んでいくものでした。社会の現実の中で、暗闇に、死の陰に座り込まざるを得ない人々の只中で福音を宣べ伝え、神さまの御業を実現することでした。ですから、時に、そんな社会を作り上げていた主流派の人たちとぶつかることにもなった訳です。そういう意味では、社会変革とも言えるのかもしれません。

しかし、何でもかんでも社会を変えることが目的ではなかった訳です。あくまでも「神の国」の実現、神さまのご支配の実現をこそイエスさまは願い、働かれたのです。そこも見失ってはならない。ですから、古屋先生も、「宣教」の大切さを指摘しておられます。しかし、ただ「教会」を作っていくためだけの宣教ではありません。イエスさまがなさったように、神の国を宣教していくのです。それが、それこそが、日本においてキリスト教の不振を打開する術ではないか、と訴えておられる訳です。私自身は、大いに刺激を受けた思いが致しました。

ともかく、イエスさまは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣教されていきました。そして、このマタイ福音書は、その直後に、弟子の召命物語を記しています。当然、このイエスさまの宣教と弟子たちとが無縁ではないからでしょう。ここで今日考えたいことは、この漁師たちが、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネたちが、私たちが良く知っている使徒たちが、ごくごく普通の漁師だった、ということです。なんら特別な人ではなかった。イエスさまがまず宣教の業に加わらせるために弟子として選ばれたのは、普通の人です。

生涯を禁欲的に生き、厳格に自分を律し、正義のために殉じた、人としては罪から最も遠かったであろう洗礼者ヨハネではなかった。確かに、弟子の中にはパウロという特別な存在はいたと思いますが、その多くは普通の人だったと思います。私は、それが大切なのだと思うのです。

普通の人でなければ、宣教はできない。世の中の多くの人たちと同じように、親子関係に悩み、多くの傷を抱え、いつまでもトラウマに悩まされ、夫婦関係に悩み、子育てに悩み、子どもの行く末・進路に心傷め、職場に悩み、上司に不満を持ち、部下に腹を立て、物価高にオロオロし、老後の計画が狂ったと嘆き、政府の政策にいちゃもんをつける、そんなどこにでもいる普通の人、普通の私たちがイエスさまの弟子として、イエスさまの宣教を共に担うものとして、選ばれるのです。ただ違っていることは、世の中の人よりも、まだ信仰の世界に入っていない人よりも、ほんのわずか先にイエスさまを知ったということ。

イエスさまに声をかけられ、イエスさまと一緒の生活がはじまった、ということ。そういう意味では、他の人たちと何ら変わらない普通の人間だけど、その普通さの中にイエスさまが入ってこられ、その普通の出来事の中にイエスさまの御業を経験してきた、体験してきた、それだけが唯一の違いです。私たちだって、イエスさまの弟子だって、「普通」に夫婦喧嘩だってする。親子の諍いだってある。口は災いの元とばかりに後悔する。いろんなことに落ち込んだり、悩んだりの毎日。他人がどう評価しようと、私たちなりの暗闇を、死の陰を経験するのです。

でも、そこで光を感じた。イエスさまが助けてくださった。信仰を持っていて良かった。そう言える、そう感じられる日々、出来事がある。それだけの違い。それが良いのです。その普通さこそが、このイエスさまの宣教に用いられるのだと思うのです。だからこそ、イエスさまは、ただの、普通の漁師たちを弟子として選ばれた。そうではないでしょうか。

私たちは今日、もう一度心新たにして、宣教の志を立てたいと思う。それは、あえて誤解を恐れずに言えば、教会の、私たちルーテル教会、ルーテルむさしの教会のためだけではないはずです。そうではなくて、神の国のために、神の国がもっともっと広く世界を、この日本を包み込むためです。そのために、私たちは宣教する。普通人の私たちが宣教するのですから、そんな大したことはできません。

大それたことなど、はなから求められてもいないのかもしれません。普通の私たちが、普通の生活の中で味わった神さまの恵み、イエスさまの力、そのありがたさを証しすればいい。イエスさまから学べば、もっと生き方が楽になるかもしれないし、小さな良いことを積み重ねることができるようになるかもしれないし、社会が少しずつでも御心に叶うように、弱き人たちも報われるような世界になっていけるのではないか、そう共感し合えればいい。それも、神の国の宣教。そうではないでしょうか。

【ライブ配信】2023年1月15日(日)10:30 顕現後第2主日礼拝 説 教 「 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ 」浅野 直樹 牧師

※ライブ配信の音声不具合により、修正版をアップロードいたしました。↓


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【説教・音声版】2023年1月15日(日)10:30 顕現後第2主日礼拝 説 教 「 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ 」浅野 直樹 牧師



ヨハネによる福音書1章29~42節

本日は、顕現後第二主日となります。つまり、先週の主の洗礼主日から、いわゆる「顕現節」がはじまった、ということです。
この「顕現」とは、公に姿を現す、ということです。

ですので、イエスさまが最も早い段階で公に姿を現されたのが、あの東方の博士たちがイエスさまを訪ねた時だったと考えられますので、いわゆる顕現日には、そのことが記されていますマタイによる福音書の2章が取り上げられていました。1月6日です。

しかし、この洗礼の出来事も、イエスさまが公にご自身を現された出来事だと受け止められていますので、̶̶以前親しんできた日 課では、1月6日の直後の日曜日を「顕現主日」とし(聖書箇所もマタイ2章1節以下が日課)、そこから顕現節がはじまるようになっていました̶̶この洗礼日から顕現節がは じまるようにしたのではないか、と私自身は思っています。実は、この「顕現日」、エピファニーと言いますが、元々は東方教会の祝祭だったようで、イエスさまの洗礼を記念するものだったようなのです。
そういう意味では、本来の意図に戻った、と言えるのかもしれません。

ところで、今朝の日課、ヨハネ福音書1章29節以下を読まれて、先週と似ている、と思われた方も多いのではないでしょうか。先ほども言いましたように、先週の日課は、イエスさまの洗礼の出来事を取り上げたマタイ3章13節以下でしたが、聖霊が鳩のように天から降ったというところなど、非常によく似ていると思います。しかし、決定的に違っているところがあるのです。それは、このヨハネ福音書ではイエスさまは洗礼を受けておられない、ということです。

ある方は、直接的にはイエスさまが洗礼を受けられたとは記されていないが、この記述(マタイ福音書に似た)からもイエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことは明らかだ、と言っておられますが、少なくともこのヨハネ福音書が、イエスさまが洗礼を受けられたということを明確には記していないということは大きなことだと思うのです。言い方を変えますと、この洗礼者ヨハネがイエスさまに洗礼を授けた人とは記されていない、ということです。

皆さんの中にもそういった思いのある方もおられるかも知れませんが、時に洗礼を受けた人・事実よりも◯◯先生から洗礼を授かった、という意識の方が強く出てしまうことがありますが、少なくともここでは洗礼者ヨハネはイエスさまの洗礼者としては描かれていない、ということです。見方によっては上下関係・師弟関係にもなり得るようなことを極力避けている。少しの誤解も与えないようにしている。そんなふうにも思える。では、このヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネのことをどのように描こうとしているのだろうか。

「証しする者」です。あくまでもイエスさまを「証しする者」として、です。既に、このヨハネ福音書では洗礼者ヨハネのことをこのようにも記していたからです。1章6節、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」。

この「光」とは、もちろんイエスさまのことです。光であるイエスさまを証しするために洗礼者ヨハネは来た、神さまから遣わされた、と言います。そのヨハネが、今日の日課では、イエスさまのことをこのように証ししました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。非常に印象深い言葉ですし、イエスさまの本来のお姿を的確に捉えた言葉だとも思います。そういう意味では、ヨハネ福音書が語る洗礼者ヨハネの姿は、今まで見てきた、例えばマタイ福音書から見てきた、心揺れる……自分が待っていたメシアとは本当にイエスさまのことなのか、それとも別の誰かを待たなければならないのか、と心揺れる姿とは、非常に印象が違っているように思います。ともかく、ヨハネ福音書が描く洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたのでした。

では、そのように証しした洗礼者ヨハネは、イエスさまのことをどのように思い描いていたのか。実は、必ずしもそれらは明確ではないようです。ここでヨハネが語っている
「神の小羊」という姿、後の36節で自分の弟子たちに証言する中でも語られているものですが、この「神の小羊」という表現が他にはほとんど見られないからです。ですから、いろんなことが言われているようです。例えば、過越の祭りの時に屠られる小羊を表すのではないか、とか、あるいはイザヤ書53章に記されている物言わず連れていかれる小羊を指すのではないか、また、アブラハムが息子イサクを犠牲として捧げようとした時に神さまが用意して下さった身代わりの小羊を意味するのではないか、ヨハネの黙示録に登場する勝利の小羊を示しているのではないか、等々の意見があるようですが、私はやはりレビ記などに記されています犠牲の小羊を思い浮かべてしまいます。これも全く間違った的外れの見解ではないようですが、どれも決定打ではないようです。

先ほど、レビ記と言いました。創世記、出エジプト記と頑張って読んできても、レビ記で頓挫してしまうという、あのレビ記です。御多分に洩れず、私にとってもそうでした。頑張って読みはしましたが、全くもってつまらない、と思わせられたものです。そんなレビ記、つまらない祭儀規定が延々と続いていくようなレビ記ですが、神学校のある授業を受けて、捉え方が全く違ったものとなったのです。最初の神学校、聖契神学校というところでしたが、五書研究(モーセ五書と言われるもの)という科目があったのですが、その年はレビ記が題材として取り上げられていました。1章から、生臭い動物犠牲の話が延々と続きます。ちっとも面白くない。むしろ、グロテスクで気味が悪いくらいです。全く興味がわかない。しかし、その授業の中で言われたのは、イエスさまの十字架と無関係ではない、ということでした。むしろ、大いに関係するのだ、と。

先ほどは、洗礼者ヨハネはイエスさまのことを「神の小羊」だと証しした、と言いました。このレビ記に記されています動物犠牲の中にも、「小羊」では必ずしもありませんが、「羊」が登場してまいります。例えば、1章10節です。「羊または山羊を焼き尽くす捧げ物とする場合には」とあります。この動物犠牲を理解するために、ちょっと前の箇所を読んでみたいと思います。最初に出てくるのは「牛」です。2節にこうあるからです。「あなたたちのうちのだれかが、家畜の捧げ物を主にささげるときは、牛、または羊を捧げ物としなさい」とあります。時間の関係もあり、全部は読みません。重要と思われるところだけを読みたいと思います。3節「奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を捧げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」。

これを、先ほども言った「羊」にも同じようにします。続けて、このようにしていきます。「奉納者がそれを主の御前にある祭壇の北側で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。奉納者がその体を各部に分割すると、祭司は分割した各部を、頭と脂肪と共に、祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部をささげ、祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす捧げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである」。

『ヘントの祭壇画』1432年 :ヤン・ファン・エイク (1390年頃 –1441) 聖バーフ大聖堂



気分を悪くされた方がおられたら申し訳ないと思いますが、これが動物犠牲です。今紹介したのは「全焼の生贄」と言われるものですが、その他にも「和解の生贄」「贖罪の生贄」などがありますが、どれも共通しているところがあります。それは、捧げようとする動物の頭の上に自らの手を置く、ということです。これを必ずする。

これは何を意味するかというと、私の身代わりとなる、ということです。私が犠牲の動物の頭に手を置くことによって、もはや羊は羊ではなく、浅野直樹その人になる、ということです。そして、先ほど読んだ通り、そうしないと、「その人の罪を贖う儀式を行うもの」としては受け入れられない、ということです。そして、その身代わりとなった動物・羊を自らの手で屠る、殺すのです。祭司がするのではない。レビ人がするのではない。犠牲として捧げようとする人自身が手を下す。そういう意味では、この動物犠牲は重いのです。決して身軽な、簡単な儀式ではない。

なぜなら、罪の支払う報酬は死だからです。罪を償うためには、命をもって償わなければならない。それを、聖書は、神さまは要求する。後に、これらは儀式化してしまい、イエスさまも嘆かれるほどの強盗の巣にしてしまいましたが、本来は、罪の贖いとは、これほど重く、重要なことなのだ、ということを悟らせるためにあったのだと思うのです。それを、レビ記の学びで知った。

洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言しました。その「神の小羊」とレビ記の動物犠牲とが無縁でないとすれば、どうだろうか。私たちはあまりに簡単に、イエスさまは私たちの身代わりに十字架について下さった、と言ってしまってはいないだろうか。人任せに命を奪うことから遠ざかって、動物を食することにあまりに慣れてしまって、命の重さを忘れてしまったように、十字架の重さも忘れてしまってはいないだろうか。動物の命だって重いのです。目の前の動物の命を取ることなど簡単ではないし、簡単に奪い取ってはならないものです。

彼らだって生きている。小羊の命だって重い。なのに、小羊だって重いのに、神の子であるイエスさまが私たちのために、神の小羊となって下さったということは、どれほど重いことだろうか。私たちの身代わりに、私たちの全ての罪を背負い、殺されていく小羊となってくださるとは。しかも、イヤイヤでも渋々でもなく、それこそが神さまの御心として、ご自身の栄光として、受け止めてくださるとは。十字架は重い。しかし、その重さは私たちを押しつぶすための重さではなくて、むしろ私たちの重荷を打ち破るための、重荷から解放するための、救いの重さ、神さまの恵みの、温かさの、愛の重さ、なのです。

今日はもう話せませんが、ヨハネ福音書は、その洗礼者ヨハネの証言によって、イエスさまの弟子たちが生まれていったとも記しています。ヨハネは、ただただイエスさまを証しすることに徹した。十字架の恵みの重さを証しすることに徹した。

それは、私たちも学ぶべきことではないでしょうか。

【ライブ配信】2023年1月8日(日)10:30 主の洗礼 主日礼拝  説 教 「 天の声 」浅野 直樹 牧師



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聖書箇所:マタイによる福音書3章13~17節

本日は「主の洗礼」主日の礼拝ですので、イエスさまの洗礼の場面が日課として取り上げられていた訳ですが、その冒頭に出てくる言葉、「そのとき」とは、いったいどんな
「時」を指すのでしょうか。もうお分かりのように、直前に出てきます洗礼者ヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていた場面が、その「時」です。ご存知のように、当時行われていた洗礼とは、全身を水の中に沈める(浸ける)というものでした。「バプテスマ」という言葉の意味も、もともとはそういう意味です。では、そんなバプテスマ・洗礼にはどんな意図があったのか。ひとことで言えば「悔い改め」です。罪の「悔い改めのバプテスマ・洗礼」です。3章1節でこう記されているからです。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」。

あるいは、その後の5節では、「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」と記されている通りです。しかも、生半可な覚悟
では許されなかったようです。洗礼を受けにやってきたファリサイ派やサドカイ派の人たちに対して、こう言われているからです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と。

これは、大変厳しい言葉です。このように、人々に徹底的に罪の自覚を持たせて、真剣な悔い改めを求めていったのが、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼(バプテスマ)でした。そこに、その洗礼の現場に、イエスさまが来られたのです。罪の自覚に悩まされて、悔い改めを、赦しを求めてやってきた多くの人々の列に連なって、イエスさまは順番を待って、来られた…。このヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けるために。だから、ヨハネは困惑したのです。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られるのですか。』」と。

キリストの洗礼:アンドレア・デル・ヴェロッキオ (1435–1488) レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452–1519) ウフィツィ美術館



何週間か前、去年のことですが、待降節の中で何度かこの洗礼者ヨハネを取り上げた時がありました。ヨハネは神さまによって遣わされたイエスさまの先駆者だからです。しかし、そのヨハネでさえも、十二分にはイエスさまのことを理解できていなかったこともお話ししたと思います。11章にこうあるからです。2節以下、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」。自分が証しすべきメシアが本当にイエスさまなのかどうか、揺れる心の内が見事に描写されていると思います。そんな困惑は、実はすでに、この洗礼の時に芽生えていたようにも思うのです。なぜなら、洗礼者ヨハネが思い描いていた、待ち望んでいたメシアとは、このような方だったからです。

「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。洗礼者ヨハネが思い描いていたメシア・救い主とは、まさに終末の審判者メシアでした。神さまの厳正な正義のもとで人々を裁き、救いに至る者と滅びへと向かう者とを審判される、そんな自分なんか足元にも及ばないほどの遥かに優れた方だったのです。だからこそヨハネは、とんでもない、私こそがあなたから悔い改めの洗礼を受けるべき者です、というほどだった訳です。

そうです。これは何も、洗礼者ヨハネだけの特異な理解ではなかったはずです。神さまから遣わされるメシア・救い主とは、本来そういうもの。罪などない、少なくとも悔い改めの洗礼など全く必要としない、神さまの「聖」に与る存在。それがメシア。誰だって、そう思うはずです。現に、それが私たちの信仰でもある。ヘブライ人への手紙にもこうある通りです。「この大祭司は(これはイエスさまのことですが)、…罪を犯されなかったが、」。

そうです。私たちのメシア・イエスさまは罪を犯されなかったのです。罪の全くないお方です。そういう意味では、私たちとは根本的に違う。罪を犯さざるを得ない私たちとは違うのです。しかし、先ほどのヘブル書はこう語っていきます。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。

そうです。イエスさまは私たちとは違うのです。罪を犯されなかったのです。それにも関わらず、私たちと同じようになられたと語られている。だから、イエスさまは本来必要でもないのに、むしろ、私たちと同じになるために、悔い改めの洗礼を受けてくださった。それを拒もうとするヨハネを無理矢理に説き伏せるようにして、私たちと等しく赦しを必要とする罪人となってくださった。だからこそ、イエスさまは十字架の道を歩まれたのです。この洗礼の出来事自体が、既にその始まりを予告していると言っても良いのかもしれません。

イエスさまの洗礼は、ひとことで言えば「連帯」です。私たちと、しかも赦しを必要とする罪人である私たちと「連帯」するために、不必要な洗礼さえもあえて受けてくださいました。その「連帯」…、北森嘉蔵氏は「連帯保証人」とも表現しておられます。これは非常に面白い、また意味深長なご意見だと思っています。私は母親から口酸っぱく、いくら親しい仲だとしても、決して保証人・連帯保証人にはなるな、と言われてきました。ご承知のように、借金した人が返せなくなった場合は、肩代わりをしなければならないからです。これが、ある意味普通の感覚でしょう。なのに、イエスさまは、そもそも借金だらけの私たちと、しかもその借金を返すあてもないような私たちと、むしろ積極的に連帯してくださり、あまつさえ「連帯保証人」にさえなってくださっている。イエスさまの十字架を想う時、これはグッときてしまいます。

あるいは、ルターは結婚・婚姻関係と表現しています。現代では夫婦であっても財布は別々、といった感覚が主流になりつつあるのかもしれませんが、ルターの時代はもちろんそうではなく、夫婦とは全てのものを共有する存在でした。ですから、新妻である私たちの一切の負債を新郎であるイエスさまが自分のものとして丸ごと抱えてくださり、新郎であるイエスさまの豊かな富・祝福が、新妻である私たちにそのまま与えられる。そう表現したのです。いずれにしましても、この連帯は決してギブアンドテイクなどではありません。利害が一致するからではないのです。一方的にイエスさまが損をするだけです。ご自分の命を落とすほどに。それでも、イエスさまは私たちと連帯してくださる。私たちと共有したいと願ってくださっている。たとえ、悔い改めの洗礼であったとしても。それは、どれほど大きな恵みでしょうか。

しかも、それだけではないのです。洗礼を受けられた後、天からこのような声が聞こえてきたからです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。イエスさまは悔い改めの洗礼を受けられた後でも、いいえ、悔い改めの洗礼を受けてくださったからこそ、やはり「神さまの愛する子」なのです。私たちにとって連帯はありがたい。私たちのために罪人にまで降ってきてくださったことには感謝に堪えません。しかし、それでも、その上でも、イエスさまは神さまの愛する子、圧倒的な神さまの力を持つひとり子でもあられるのです。ですから、「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とあるのです。イエスさまは神さまの霊を一身に受けられた力ある方でもあられる。

今日、旧約の日課としてイザヤ書42章が取り上げられていたのは、先ほどの天からの声、後半の「わたしの心に適う者」がこのイザヤ書42章からの引用だと考えられているからです。ちなみに、前半の「これはわたしの愛する子」は、詩編2編7節からの引用だと考えられています。ところで、このイザヤ書42章は、「主の僕の歌」と言われるものの一つで、有名なイザヤ書53章に代表されますように、イエスさまのことが語られていると受け止められてきました。その中に、こんな言葉があります。42章7節、「見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために」。神の子、主の僕であるイエスさまはそんな方でもある。

先ほど代表的と言いましたイザヤ書53章に「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」と記されていますように、私たちの現実は「迷える羊」なのだと思うのです。神さまから迷い出てしまった憐れな羊。それが、見るべきものが見えずに、捕らわれて不自由とされ、闇の牢獄の中に住んでいる状態なのだとも思う。旧約聖書には、たびたび神さまから離れてしまった当時のイスラエルの民たちの姿が描かれていますが、そこでは不正が蔓延り、弱者が虐げられ、貧富の差が開き、無実の人の血が流されている現実がありました。

まさに、今の世界です。今の世界もまた、人々は神さまから離れてしまい、見るべきものが見えなくなり、自分の欲望に捕らわれ、気付かぬうちにも闇の牢獄の中に住んでしまっているような状態。格差が広がり、貧富の差が広がり、人としての尊厳が無視され、無実の人の血が多く流されている。

そんな世界に、私たちと連帯するために、連帯のみならず、力ある神の子として、私たちを正しき、あるべき道へ、姿へと引き戻すために、もう迷える羊とはしないために、イエスさまは生まれ、洗礼を受けられ、十字架に命を捨て、復活してくださった。それが、あの洗礼者ヨハネですら掴みきれなかった、困惑してしまったメシア、イエスさまの姿なのです。

私たちは幸いにして、そんなイエスさまと結び付けられるために洗礼の恵みに与ることができました。また、そんな恵みを一人でも多くの人々に味わって欲しくて、宣教の業に励んでいきます。この新たな一年、2023年も、そんな年でありたい、と思っています。

【説教】2023年1月1日(日)10:30 新年礼拝  説 教 「 新しい年のはじまりに 」浅野 直樹 牧師



聖書箇所:マタイによる福音書25章31~46節

「一年の計は元旦にあり」。
ご承知のように、教会の暦としてはすでに新しい年がはじまっている訳ですが(待降節からということになります)、やはり日本人の私たちとしては、この「元旦」というものが重い意味を持っているようにも思います。

しかも、今日は奇しくも何年かぶりに元旦と主日(日曜日)が重なりました。そんな思いで今朝の日課を読んでいますと、「おやっ」と違和感を感じたのは私だけでしょうか。今朝の福音書の日課は、いわゆる「終末(世界の終わり)」に関わる記事の一つだったからです。このめでたい一年のはじまりに、終わりについての記事が日課として与えられているとは、これいかに…。そう思わせられました。

しかし、よくよく考えてみれば、もっとものことなのかもしれません。なぜなら、何かをはじめるということは、その目的、ゴールがあるからです。別の言い方をすれば、ある目的、ゴールがあるからこそ、このようにはじめていこう、と「はじまり」についての心構えができるからです。そういう意味では、この一年のはじまりの元旦に、この一年の、あるいは、私たち自身の生涯の、世界の目的、ゴールを見つめ直す、ということは、有意義どころか、正しいことなのかもしれません。

先ほども言いましたように、今日の日課は、終末(世界の終わり)に関わる記事でした。その中でもここでは特に、審判について記されています。世界の終わりとは、審判の時でもあるからです。私は今、あえて「審判」といった言葉を使いました。通常は、「裁き」という言葉が使われるのかもしれませんが、しかし、この「裁き」といった言葉のニュアンスに、どうしても「処罰、刑罰」といったイメージがつきまとうからです。もちろん、刑罰といったニュアンスも確かにあります。今日の箇所でも、「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」とあるからです。

しかし、本来はジャッジ(判定)することなのです。正しいか、正しくないか、ルールに則っているか、ルール違反をしているか、その判定をする。だから、審判。その分けられた結果として、祝福か刑罰かがある。そういう意味では、確かに厳しいのですが、つまり、何が言いたいかといえば、処罰するために「裁き」「審判」が行われる、ということではない、ということです。罰するために、刑を執行するために、「裁き」があるのではない。そうではなくて、判定されるということです。

私たちの言動が、生き方が、あり方が、判定される。その結果として、分かれ道が生まれる。ですから、そもそも終末・「審判の時」というのは、恐ろしいだけの時ではないのです。むしろ、報われる時でもある。今まで誰も認めてくれなくても、誰からも感謝されなくても、評価されなくても、最後の最後には神さまがちゃんと見ていてくださり、正しい判断をしてくださり、私たちが頑張ってきた、取り組んできたことにもちゃんと報いてくださる。祝福を与えてくださる。それが、終末・審判の時なのです。

では、何がその分かれ道になるのか。今日の日課で言えば、「最も小さな者の一人」にしたか、しなかったか、ということです。この「最も小さな者」というのが、一体誰を、どんな人たちを指すのかは、色々と議論されているところですが、今日は詳しくお話はしません。皆さんめいめいが、自分にとっての「最も小さな者」とは一体誰のことなのかを考えて頂ければと思います。ともかく、そんな「最も小さな者の一人」にしたか、しなかったかが、ある意味決定的な分かれ道になる、というのです。

ここで注意したいことは、この「最も小さな者の一人」はイエスさまではない、ということです。後者、処罰されてしまう人たちだって、イエスさまだとはっきりと分かってさえいれば、何がしらのことをしたでしょう。むしろ、それが何らかの功績になると思って、人一倍に熱心にしたかもしれません。だから、彼らはこう言い張るのです。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」。

ここには、もし知っていたなら、きっとお世話をしたはずです、といった思いが隠されていると思います。そうです。そういう意味では、この「最も小さな者の一人」とは、イエスさまのことではなかった。しかし、イエスさまは続けてこう言われる。「はっきり言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と。あるいは、前者、祝福された人たちに対しても、こう言われていました。

「『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」。

この両者を見てはっきりしていることは、いずれにしても、この「最も小さな者」がイエスさまだとは、誰も思っていない、ということです。この人たちに何かをすることが、イエスさまに奉仕することになるとは、誰も思っていない。そういう意味では、この「最も小さな者」とイエスさまは別物です。しかし、それにも関わらず、イエスさまは、この人にしたことは私にしてくれたことだ、とおっしゃる。それほどまでに、イエスさまは、この「最も小さな者」を心に留めておられる、ということでしょう。この人の幸いを誰よりも願っている。

先ほどは、この「最も小さな者の一人」とは、一体誰のことなのか、詳しくは話さない、と言いました。めいめい考えてほしい、と。確かに、時間の都合上も詳しくは話せない。しかし、「最も小さい」ということは、誰かの、何らかの助けが必要な人だ、ということは確かでしょう。それは、財産家か、貧しい人か、健康な人か、病を患っている人か、あまり特定するのは意味がないのかもしれません。なぜなら、誰もが助けを必要としているからです。金持ちだって、健康な人だって、そうでしょう。つまり、普段は小さくなくても、逆に大きく見えても、誰もが小さくなる時がある、ということです。つまり、私たちも、です。私たちも小さくなる。小さな一人になる。

そんな私たちに、水一杯でも差し出してくれるなら、それはイエスさまに奉仕したことと同じなのだ、とおっしゃってくださるのです。もちろん、逆もそうです。私たちが、誰かに水一杯を、まことに小さな奉仕をする。それは、知らず知らずの内に、イエスさまに奉仕していることになる。それほどまでに、イエスさまは、私たちも含めて、この小さき者たちを、そういう意味では、世界中の全ての人たちを心に留めておられる。その一人一人の幸いを願っておられる。お互いに助け合うことを望んでおられる。そうではないか。

先ほどは、「小さな奉仕」と言いました。ある方も指摘されているように、ここに出てくるのは、それほど大したことではありません。皆さんも、全部とは言えなくとも、一つ二つは経験があるのではないでしょうか。実は、それが大事なのです。大それたことでは決してない。本当に小さな、わずかなこと。しかも、イエスさまは、「この最も小さな者の一人に」と言っておられる。一人です。たった一人でも良いのです。

なぜ私たちは、仕えることが、奉仕することができなくなるのか。こんなものは小さすぎて役に立たない、と思うからです。こんなことで、人が救えるのだろうか、と思うからです。その人の生活を改善できるのだろうか、と思うからです。もちろん、そうできたらいい。そういった社会が望ましい。しかし、ここで言われているのは、そうではない。水一杯でいい。一食分でいい。使わなくなった着物でいい。不安になっている人、孤独に陥っている人と、いっとき交わるだけでいい。その人の人生を丸ごと抱えるなんてできない。その人の問題を根本的に解決することなどできない。その人の生活を保証してやることもできない。

自分の生活を、家族を犠牲にしてまで助けることなどできない。無力さを感じながら、大した犠牲も払えない、生活を変えてまではできないと多少の後ろ暗さを覚えながら、こんなことをしたって結局は偽善でしかないのではないかと戸惑いながら、献金箱・募金箱に幾らかばかりのお金を投じるだけなのかもしれません。もちろん、それで十分だ、完璧だ、もうやり残したことはない、ということではないでしょうが、それでも、そんな小さなことでも、不十分で、申し訳なくって、役に立てているようには思えないようなごくごく小さなことでも、イエスさまは「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と受け止め、評価し、喜んでくださっているのです。

もちろん、私たちの信仰の基本は、「信仰義認」です。恵みによって、一方的な神さまの恵みによって救っていただけるのです。自らの力、善行で救いを勝ち取るのではない。もちろん、そう。しかし、私たちは今年、「一年の計は元旦にあり」という元旦に、この御言葉が与えられたのです。ならば、私たちはこの御言葉からこの一年をはじめていきたいと思う。

たとえ小さなことであったとしても、こんなこと役に立つのかと思えるようなことであったとしても、私たちの助けを必要としている人々に対して、小さな業を積み重ねていきたい。また、この私たちに対して、小さな業をしてくれた人々に感謝していきたい。そのようにして、ほんの少しでも、少しずつでも、イエスさまが望まれた世界、神の国の実現に繋げていきたい。そのための宣教にも励んでいきたい。

そう願っています。

【ライブ配信】2023年1月1日(日)10:30 新年礼拝  説 教 「 新しい年のはじまりに 」浅野 直樹 牧師


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【ライブ配信】2022年12月25日(日)10:30 主の降誕聖餐礼拝  説 教 「まことの光 」渡邉 進 牧師



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【説教・音声版】2022年12月25日(日)10:30 説 教 「まことの光 」渡邉 進 牧師



イザヤ 52:7~10、へブル 1:1~4、ヨハネ 1:1~14
( 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。)(Jn 1:1)

ヨハネには、他の福音書に見られるようなクリスマス物語はない。物語は一種の歴史です。多くの物語には歴史が隠されている。平家物語に代表される日本最高の文学作品に、歴史がある。そしてそれを通して、何事かを後世の人々に教えようとしている。それは人間の生きるこの現実の世界の露わな姿でもある。『諸行無常の響きあり』の中に、人間の生きた歴史、露わな姿としての、ありのままの姿を描いている。

しかしヨハネには、そのような意味での歴史はない。ヨハネはその代わり に、≪永遠≫を語る。ヨハネは、神の子が永遠からこの世に来たことを語る。永遠なんて、全く我々とは無関係だと思われるでしょう。何故ヨハネは永遠 などと言う、我々とはかけ離れた概念を用いて、イエス・キリストを語ろう とするのでしょうか? 歴史は繰り返す。

人間の世界は、≪平和≫を願い、求め、平和を築いても、一時的でしかない。いつまた戦争が始まるか分からない。だから神の子は永遠から来たのである。歴史に属してはいない。人間世界に属してはいない。しかしこの世に、この歴史に来たのである。

ヨハネの冒頭の言葉は、詩です。≪Poem≫である。決して韻を踏んではいないが、詩篇にあるような聖書的詩である。一つの思想を幾つかの並行を用いて発展的に述べている。
例えば、『 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。』(Jn1,3,4)

ヨハネの冒頭の言葉は、明らかに≪創世記≫のはじめ、≪天地創造≫を思い出させる。『初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。≪光あれ』、こうして光があった。』(Gn1:1)
なぜ、ヨハネが≪言≫と言う表現を使ったのか? それはこの≪天地創造≫の物語に起源がある。箴言8:22に、『主は、その道の初めにわたしを造られた。』とある。知恵が世のはじまり以前から存在していたという思想がある。≪知恵≫は、≪言≫と置き換えることができる。

ヨハネには、他の福音書に語られるようなイエス誕生の物語はない。この≪言≫が、イエスと言う人格に結びつく。つまり言がイエスと言う人間になった。
創世記では、≪天地創造≫の後に、≪堕罪物語≫が続く。それに相当するのが、ヨハネの語る≪暗闇≫である。≪天地創造≫は、人間創造で、完成を見ることが強調されている。『神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べが来あり、朝があった。』
(Gn1:31) 六日間に渡って、宇宙万物が創造され、その頂点の創造が、人間創造であった。これですべての創造が完成し、≪それは極めて良かった≫のである。しかし創造物語は、実はそれで終わりではない。まさにそれに続く、≪堕罪物語≫こそが本当に著者が語りたかったことである。何故、イエスがこの世に来なければならないのか? それこそが、ヨハネが語り真実の物語なのである。

創世記の語る≪堕罪≫は、ヨハネにおいて、≪暗闇≫である。そしてこれ こそがヨハネが語らねばならない言葉である。何故なら、人間は、光として こられたイエスを理解しなかったからである。『光は暗闇の中で輝いている。しかし暗闇は光を理解しなかった、』( Jn1:5 ) 英語の聖書を読むと、 “ Put it out ”と表現され、取り払おうとしなかったとの意味である。この表現の方が原文に近いように思う。何故なら、私たちの生きている世界は、暗闇が覆っているからである。取り巻かれている。それが私たちの生きている現実である。

更にヨハネは続ける、『その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。』 イエスこそがまことの光であることが宣言されている。しかしこの世はまがいものの光があり、偽の光がある。暗闇にいる私たちには、その分別がつかない。『言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。』(Jn1:10)

なぜ人々は、≪闇≫を好むのであろうか? それは正義に基づいた戦いを好むのである。自尊心を満たそうとすると言っても良い。人間にとってこの自尊心こそが必要である。自己満足ではない、利己主義とも違う。自尊心である。これが生きる矜持である。これが崩れると狂ってしまう。個人の自尊心、国としての自尊心がある。このためにしばしば愛を忘れ、戦わねばならなくなる。行き着くところは泥沼である。≪闇≫の中を生きるとは、このような沼地を歩いているようなものかもしれない。ここから這い出ることは容易ではない。

東方三博士の礼拝(1480-1482) レオナルド・ダ・ヴィンチ ウフィツィ美術館



『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。』(Gn1:4) 命こそ、光こそ、私たちが求めているものである。そしてそれがイエス・キリストにおいて実現したとヨハネは語る。それは≪まことの光≫であるから。私たちを照らし、導く光であるから。私たちが、平和に過ごすにはこれしかない。

クリスマスになるとどこからともなく、ソングが聞こえる。クリスマス・ソングである。John Lennon のクリスマス・ソングが好きである。題は、 “ Happy Christmas”と言う歌である。副題は“War is over ”である。この歌が発表された時、アメリカはちょうどベトナム戦争の最中であった。彼は早く戦争が終わるようにとの願いを込めてこの歌を作ったに違いない。クリスマス、それは誰でもが幸せに、楽しく過ごせる時である。昔は戦争している国同士が、クリスマス休戦をした時代もあった。もはやそれも可能ではなくなったのが今の時代である。昔より戦争が苛烈となり、凄惨になってきたのであろう。従って、人間の生きている現実は、ますます厳しさを増しているように思う。

『いかに美しいことか。山々を行き廻り、良い知らせを伝える者の足は、彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王と なられた、と。シオンに向かって呼ばわる。』(Is52:7) この言葉を新 約で、引用し、自らの働きにたとえた人物がいる。それはパウロである。

『ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことかと書いてある通りです。』(ローマ10:14,15) ここでパウロは、宣教の働きの尊さを語ると同時に、自らがその役を担っている誇りを率直に語っている。
宣教の働きとは、イエス・キリストを語ることである。聖書が語るイエス。キリストを語ることである。その働きに従事する者は、なんと麗しいことであろうか!

今年も、最後の主日を迎えた。2022年も後僅かで暮れようとしている。コロナも3年目を迎え、人々の心もだいぶ疲れ、早く収束を強く願ってい る。また今年は、ウクライナの、ロシアによる侵略戦争がはじまり、未だ解 決の見通しが立たない。多くの人は、これを世界第3次戦争と呼んでいる。

このような中を生きている私たち、お互いのために祈り、人の幸せを願う者 でありたい、バッハは、オルガン小曲集の第一曲目の中で、『古き年は過ぎ去りて』と言う、オルガン曲を残している。彼は、その中でこの一年を終えるに当たりこのように語る。『古き年は過ぎ去り、主イエス・キリストよ、かかる危機の中にありて、なお恵み深く我らを守り給いしことを感謝する。』と記している。まさに私たちは≪かかる危機の中を≫、生きてきた。最後に感謝を持って終えたい。

【ライブ配信】2022年12月4日(日)10:30 説 教 「 洗礼者ヨハネより後から来る方 」 浅野 直樹 牧師



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【ライブ配信】2022年11月20日(日)10:30 子ども祝福式礼拝(聖霊降臨後最終主日) 説 教 「楽園へ連れて行ってくださる方 」 浅野 直樹 牧師



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【説教・音声版】2022年11月20日(日)10:30 子ども祝福式礼拝(聖霊降臨後最終主日) 説 教 「楽園へ連れて行ってくださる方 」 浅野 直樹 牧師



聖書箇所:ルカによる福音書23章33~43節

早いもので、今年も残すところ後わずか、教会の暦としては最後の主日礼拝となりました。と言っても、どうも日本人の私たちにとっては、1月1日が「年の初め」と骨の髄まで染み込んでいますので、まだひと月以上も残っているではないかと、ピンと来ないのも正直なところですが…。

ま、しかし、この一年も色々なことがありました。相変わらず、新型コロナに翻弄された一年ともなってしまいました。しかし、やはり大きいのは、お分かりのように、ロシア軍によるウクライナ侵攻でしょう。2月にはじまったあの戦争が、予想外と言っても良いと思いますが、いまだに続いている。いいえ、終わりが全く見えて来ません。これは、今年一番の大ニュースでは済まないでしょう。戦後一番の大ニュースと言っても言い過ぎではないのかもしれない。なぜなら、戦後築かれた世界の常識が、あまりに呆気なく壊されてしまったからです。

今までも、代理戦争と言われるような武力衝突は何度もありました。しかし、国連安保理常任理事国の一角を担う大国が、堂々と直に隣国を武力をもって攻め込むなんて、一体誰が考えていたでしょうか。この21世紀になって、そんな割りの合わない戦争など起こさないと誰もが思っていたはずです。しかも、世界1、2位を争う核兵器大国が核兵器を持たない国を、核使用で脅すなんて…。これらをきっかけに、これまでも度々指摘はされて来ましたが、安保理が役に立たない、機能不全であるということが明らかになってしまった。国連は、この事態に何も対処できなかった。これほど大きな現状変更は、戦後なかったと思います。

先週は中央沿線地区の講壇交換として、八王子教会の坂本先生に来ていただきましたが、終末について、世界の終わりについて話されたと思います。これは、教会の暦の終わりに近づくと、毎年のことではありますが、しかし、先ほど言ったような状況からも、戦争や暴動、異常気象からくる天変地異、442年ぶりの皆既月食、天王星食に見られる天の著しい印など、今まで以上に現実感をもってお聞きになられたのではないでしょうか。それに対して(世界の終わりに対して)、今日の日課は、個・個々人の終わりについて、と言えるのかもしれません。

なぜなら、葬儀の式文にこうあるからです。これは、出棺の時に読まれるものですが、「十字架にかけられたひとりは言った。『イエスよ、あなたの御国においでになるときは、わたしを思いだしてください』。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」。

もちろん、この世界の終わり、「終末」についても無関心であってはならないでしょうが、しかし、それ以上に私たちは、自分の終わり、つまり「死」について関心を持たざるを得ないのだと思います。そんな私たちの終わり、「死」に何が待っているのだろうか。

磔刑:アンドレア・マンテーニャ (1431–1506) イタリア、ルーヴル美術館



「あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」とイエスさまは約束してくださっています。
ところで、今日の日課には…、イエスさまの十字架のシーンになる訳ですが、非常に興味深いことが記されていたと思います。それは、ここに3種類の人々、議員、兵士、犯罪人の一人が登場して来ますが、どれも、同じようなことをイエスさまに語りかけているからです。「自分を救ってみろ」と。実はここに、彼らの大きな躓きがあったように思うのです。

最初に言いましたように、今日は聖霊降臨後最終主日です。しかし、教会手帳を見てみますと、「永遠の王キリスト」とも記されています。ご存知のように、メシア・キリストという言葉は、元々は「油を注がれた者」という意味です。これは、預言者や祭司にも当てはまるものですが、その多くが王(様)を表しています。つまり、イエスさまを「王」とする理解です。今日の旧約の日課にもそのことが記されています。これは、メシア預言と言われるものの一つです。エレミヤ書23章5節「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え この国に正義と恵みの業を行う」。

本来メシアとは、王を連想させるものです。人々は、そのようなメシアを期待していました。そして、メシアとしての王とは、こんな人々の手に引き渡されて、惨めに罪人(ざいにん)として十字架刑に処せられるようなものではないはずです。だから、「降りて来い」「自分を救ってみろ」なのです。そうでなければ、王とは言えない。逆に言えば、イエスさまは十字架から降りられたらよかった。十字架から降りて、自分を救われて、ご自分が王であることを明らかにされたら良かった。そうすれば、少なくとも「自分を救ってみろ」と言っていた人々は恥入り、イエスさまの元にぬかずいたことでしょう。

しかし、イエスさまはそうされなかった。ある方はこう言っています。イエスさまは十字架から降りることも、ご自分を救うこともできたのに、そうされなかった、と。そうだと思います。あえて、人々の期待に応えられなかった。当時の人々のメシアの常識に挑まれていった。むしろ、十字架の王こそが、メシアなのだ、と。

どこぞの権力者・支配者の常識破りには辟易しますが、こんな常識破りなら、大歓迎です。どこの王が、支配者が、権力者が、自ら十字架に向かったでしょうか。自らを犠牲にして、人々を救おうとしたでしょうか。いつでも、どの時代でも、王とは、支配者とは、権力者とは、誰よりも、どんな手を使ってでも自分の命を助けるものです。何よりも、自分自身を救おうとするものです。自分は安全な場所にいながら、戦争を煽り立てて、人々を戦地へと送り込むようなものです。

以前、30万人の動員が行われた時、ある側近の息子に当局を装って、あなたにも招集がかかったと、いわゆるドッキリを仕掛けた報道がなされていましたが、自分が誰の息子か分かっているのか、と恫喝している様子が波紋を呼んでいました。そうです。力ある者たちは、上に立つ者たちは、権力者たちは、いつもそうなのです。口ではいいことを言っていても、自分の命が、自分の救いが、自分のことが最優先。それ以外のことは、二の次三の次でしかない。それが、王の姿。常識的な姿。しかし、イエスさまは違った。イエスさまは決して、自分を救われなかったのです。救えたのに、助かることができたのに、そうされなかったのです。

イエスさまは確かに王です。旧約聖書に預言されていたメシア、永遠の王キリストです。使徒書の日課、コロサイの信徒への手紙にも、こう書かれていました。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」。

そうです。イエスさまは単に王にとどまらない。「神の姿」でもあられる。なのに、なのに、この世界は全て御子、イエスさまのものなのに、イエスさまが好きにしていいものなのに、イエスさまはご自分を救おうともせず、自ら十字架の道を歩み、私たち普通の人間でも行きたくないような場所、避けてしまいたいような不浄な場所にも赴かれ、人々の罪を背負い、痛みを担い、病を知り、命を捨てられた。なぜか。人を救うためです。私たちを救うためです。人を、私たちを、この世界を救うためには、その方法しかなかったからです。

一般常識の王では人は救えない。常識を打ち破ってくださったイエスさまだからこそ、救われるのです。だから、こうも記されている。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」。

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との約束を頂いたのは、一緒に十字架につけられた罪人(ざいにん)の一人でした。そうです。彼はイエスさまとは違い、まさに十字架につけられるような罪人だったのです。それは、彼自身が認めているところです。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。この罪人が「今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と言っていただけた。もし、イエスさまがさっさと自分を救って十字架から降りてしまわれたら、彼にはこんなチャンスはなかったでしょう。しかし、イエスさまは十字架を降りられなかった。一緒に、罪人の彼と一緒に、十字架についてくださった。だからこそ、一緒に楽園にいる、との約束をいただくことができたのです。そして、彼は自分の最後を迎えることができたのです。

誰でも、自分の最後を考えることは、恐ろしいことです。不安にもなります。しかし、いいえ、だからこそ、私たちはなおも十字架の王、十字架のイエスさまを見上げる必要があるのではないでしょうか。私たちのために、救いを成し遂げてくださった真の王を見上げる必要が。そして、こう語ったらいい。自信がなくても、後ろ暗いことがあったとしても、罪悪感を持っていたとしても、こう語ったらいい。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。そうすれば、私たちの永遠の王はきっとこう答えてくださるでしょう。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。

2022年11月20日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校  お話「 エルサレム陥落(滅びた王国) 」浅野 直樹 牧師



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2022年10月30日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校 お話「 エリシャとナアマン 」浅野 直樹 牧師


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【説教テキスト・音声】2022年10月30日(日)10:30 宗教改革記念主日礼拝 説 教 「 御言葉を受け入れる自由 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章31~36節


※特別編集 1)聖書朗読 00:02~ 2)説教 06:48~ 3)派遣の歌 29:19~

悔い改めが先か、愛を知ることが先か。まだ若かった頃(20代半ばだったと思いますが)、神学らしき事をかじったばかりの若き神学生二人、家内と私とで熱く論争を戦わせていたテーマです。

キリスト者一代目である私は、自身の経験・体験から、また書物などを通して、まずは罪の自覚が生まれ、悔い改めへと導かれていき、福音に触れることによって神さまの愛を知っていく道筋がキリスト者としての基本的な筋道ではないか、と主張していました。対して、私よりも優秀な神学生であった家内は二代目ということもあり、生まれながらに教会に行っていて、神さまの愛も知らされて来ました。

だからなのか、そんな神さまの愛を、犠牲的な愛を自分事として知ったからこそ、罪の自覚が生まれるのだ(これも家内の体験でもあったのでしょう)と主張していた。

私からすると、全く逆方向と思えたのです。当時、結婚の約束をしていた私たちは、時折車を借りては愛知県の実家にいくことがあったのですが、道中私が眠気に襲われると、家内は決まってこの話題をふりました。すると、私が急に勢いづいて持論を展開するもんですから、眠気が吹っ飛ぶわけです。
よくも心えたものです。ともかく、今となってはどうでも良い議論だったと思います。どちらが先でも構わない。神さまの御業は多様である。いちいち目くじらを立てる必要もない。

そう思う。しかし、そんなことで眠気が吹っ飛んでしまうくらいに熱くなれたことにも意味があったのだと思っています。互いに、譲れないほどの大切な、ある意味自分にとって決定的な出来事・体験があった、ということです。

今日は宗教改革主日です。ですので、先ほどはそのために特別に定められた日課を読みました(ヨハネ8章31節以下です)。しかし、通常の日課、聖霊降臨後第21主日の日課も捨て難いと思いましたので、手短に触れたいとも思っています。皆さんもよくご存知の「徴税人ザアカイ」の物語(ルカ19章1節以下)です。イエスさまがエリサレムに向かわれる途中でエリコの町に寄られたとき、おそらくその町の住人であったザアカイが一目イエスさまを見たいと思うわけですが、背が低いがために、人混みの中では見ることができないでいました。

そこで、先回りして、いちじく桑の木の上に登って一目見ようとした。どんな興味関心でそうしたかは分かりませんが、ザアカイが期待したのは、それだけです。一目どんな人かと見ることだけ。それだけだった。なのに、木の上のザアカイをイエスさまは見つけられて、声をかけられた。しかも、今日はあなたのところに泊まることにしている、なんて言われてしまった。ザアカイはどう思っただろうか。私たちには、その詳細は分かりません。

しかし、ザアカイの中で何かが起こったことは事実です。彼はこう語っているからです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。ザアカイが貪欲な人物だったのか、金に汚い人だったのかは分かりません。しかし、彼は「徴税人の頭」でした。金を儲けることに一所懸命な人生であったことは間違いないでしょう。その彼が、変わった。金を、財産をいくらか手放しても良いと思えるほどに変えられた。そんなことが、このザアカイの身に起こったのは確か。それを、イエスさまはこう言われたのです。

「今日、救いがこの家を訪れた」と。このザアカイの変化は、私たちの考えるような「救いの出来事」とは違っているように思えるのかもしれません。彼は私たちの言うところの罪の自覚や悔い改め、福音の受容などをしているようには思えないかもしれない。しかし、イエスさまは、そんなザアカイに対して「救いが来た」と言われたのです。それが、彼の変化として示された。私たちは、そのことも覚えて良いのだと思います。

言わずと知れた宗教改革の立役者は、私たちルーテル教会の先達であるマルティン・ルターです。しかし、これもよく指摘されていますように、彼は宗教改革を起こそうとして何かを行ってきたのではありませんでした。むしろ、自分自身の救いへの関心が、結果的に多くの人々を巻き込み、歴史を大きく動かすことになっていったのです。

彼の父の名は、ハンス・ルダー。この父ハンスも世襲制が慣習であった当時としては、非常に珍しい一代で財を成した努力家、今で言えばスタートアッパー・起業家でした。そんな父ハンスのことを、徳善先生は著書で「上昇志向の生き方」の人と言っておられます。そんな父ハンスの長男として生まれ期待されていたルターにも、その影響は色濃くありました。ルターもまた努力の人でした。あの有名な落雷事件で修道院入りを果たしたルターについても、徳善先生はこのように書いておられます。「『修道院に入ったとき、私は「いかにして恵みの神を獲得するのか」という問いを抱いていた』と晩年のルター回顧している。なにものかを獲得したいと強い意志を抱き、自らの能力の限りを尽くし、なんとかしてこれを得ようと努力すること。

これは父ハンスの人生の大命題であり、生きる上での信条でもあった。父の望んだ人生の階段を上ることを止めたルターであったが、しかしやはり、別の人生の階段を上りはじめたのである」。そんな父から受け継いだ人生訓、また当時の神学の潮流も相まって、ルターは完璧な修道士になるべく努力に努力を積み重ねていったわけです。しかし、その結果はもうお分かりでしょう。努力をすればするほど、どうしようもない自分の傲慢さ、罪深さに気付かされ、救いの確信、心の平安を得ることができませんでした。後の学者が指摘していますように、ある意味、半ば精神疾患に陥っていたのかも知れません。

しかし、彼は、聖書から福音に、恵みに触れることになった。自分の力、努力で救いを勝ち取るのではなくて、神さまの一方的な恵みとして、イエス・キリストのゆえに、救いは私たちの前に差し出されているのだ、と気付かされた。それが、彼自身の救いの体験となり、また、それが宗教改革の原動力にもなっていったわけです。それは、その喜びを自分自身にだけにとどめておけなかったからでもあるでしょう。

今から500年以上も前のことです。「宗教改革」「宗教改革」と言われても、今日の私たちにとってはなかなか馴染まないのも正直なところだと思います。私自身、宗教改革期のルターの著作を改めて読みましたが、違和感を感じました。あまりに、当時の状況と現在の私たちの状況とが違うからです。違いすぎるからです。それでも、一人の人が、一人の悩める修道士が救われたという事実は重いと思います。闇の中に閉ざされてしまっていた一人の人に、救いという光が差し込んできた事実は重いと思います。その重い事実が、隔世の感を禁じ得ない現代に生きる私たちの心も熱くする。

そして、それが、たった一人の出来事で終わらなかったという事実も、大変重いのだ、と思うのです。もし、ルターが単に自身の研鑽から生じた神学の、学問の問題として、新たな神学を提唱したに過ぎなかったとしたら、もし、ルターが当時の教会の腐敗撲滅運動を展開しただけだとしたら、これほど民衆を動かす、世界を、歴史を動かす運動になっただろうか。一人の人の救いの出来事だったからこそ、一人の人の闇の中に光が差し込んできた出来事だったからこそ、同じように救いを求める、光を求める多くの人々に共感を、信頼を、希望を生んだのではなかったか。そう思う。それもまた、重い事実ではないだろうか。

2000年前であろうと、500年前であろうと、現代であろうと、世界が全く異なろうとも、人は救われるのです。罪理解が先か、愛が先か、救われるための道筋は正しいのか、そんなことはどうでもいい。いいえ、どうでもよい訳ではないかも知れませんが(それを正したのが宗教改革ですから)、

それよりももっと大切なことがあるはずです。それは、何かが起こる、ということです。その人の内に、何かを起こす力が、イエスさまにはある。イエスさまを語る聖書にはある。時代も文化も超えて、確かにある。その事実を、まず重く受け止めたいと思うのです。

その事実に気づかせ、問い直させてくれるのが、宗教改革を覚えて記念していく一つの意味ではないか、と思います。

【 Live配信 】2022年10月23日(日)10:30 聖霊降臨後第20主日礼拝 説 教 「 うぬぼれてはいけない 」 浅野 直樹 牧師



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2022年10月23日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校 お話「 エリヤとエリシャ 」浅野 直樹 牧師



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【説教・音声版】2022年10月23日(日)10:30 聖霊降臨後第20主日礼拝 説 教 「 うぬぼれてはいけない 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書18章9~14節



今日の日課のこのフレーズ、前にも聞いたことがあるな、とお思いになったかもしれません。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。そうです。ちょっと前になります。8月28日の日課に定められていました14章7節以下のところに、そのまま出てくる言葉です。14章11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。その時には、「謙遜のススメ」と題しまして話させていただきましたが、これらはどちらもルカ特有の記事でもありますので、ルカ自身が非常に関心を持っていたテーマだったのかもしれません。

ところで、今朝のこの言葉に、私自身はドキッとさせられました。9節「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても」…。私は、1学年1クラスしかない、非常に田舎の小さな学校に通っていました。その頃は、まだ今のように特殊学級といった制度も整っていませんでしたので、知的障害のある子とも一緒の教室で暮らしていきました。非常に重い症状で、ちょっとした会話も成立しない子です。時々、奇声を発したり、おかしな行動をすることもあった。ですので、男子を中心に、からかったり、馬鹿にしたり、侮辱したり、つまり虐める子たちがいたのです。私は、その様子を見ながら、腹立たしく思っていました。自分の小さな正義感から。そして、そういった虐めている子どもたち、クラスメイトたちを見下していたように思います。自分は何もその子を助けようともしなかったのに。この言葉を読んだ時、そんな時代のことが、ふっと蘇って来たのです。

「パリサイ人と取税人」バレント ファブリティウス(1624〜1673)



今日の箇所で言えば、この「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」というのは、イエスさまの譬え話に出てくる「ファリサイ派の人」のことでしょう。彼は、こんな祈りをしたと記されています。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。うわ~、いかにも…、という鼻につく祈りです。先ほども言いましたように、多少私たちにも後ろ暗いところがあったとしても、多少「うぬぼれ」があって、「他人を見下して」しまったような記憶があったとしても、こんな祈りはまずしないでしょう。確かに、そうだと思います。

そういう意味では、この人の祈りは私たちの祈りからはるかに遠い。確かに、そう。しかし、この言葉にも少し注目したいと思うのです。11節「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った」。「心の中で」祈った。実はイエスさまは、祈りについてこのように警告し、教えておられるからです。

マタイによる福音書6章5節~「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。

確かに、あのファリサイ派の人の祈りの内容自体は鼻につくものに違いない訳ですが、しかし、少なくともここで注意をされているような人前で見せびらかすような、偽善的な様子は見られないと思うのです。つまり、このファリサイ派の人の祈りは単純に傲慢で鼻持ちならない祈りだ、と言って済むような話ではない、ということです。彼は無自覚なのです。むしろ、彼にとっては至って真面目な祈りなのです。

私たちにとっては鼻につくような、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」という祈りの心もそうです。彼としては、真面目に、きちんと、神さまの戒めを守って生きたいだけなのです。そのために、少なからず努力もして来たでしょう。だから、その結果として、真面目に生きてこられたことを感謝している。ああはならずに済んだ、と感謝している。これも、あなたのおかげだと感謝している。そうです。嫌味でなく単純に感謝しているのです。そして、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」という祈りも、単純に自分の頑張りを認めてほしい、という願いでしょう。これも、私たちにも良く分かることではないか。彼は、律法の規定以上に頑張ったのです。単に基準に則って、可もなく不可もなく、といった生き方もできたかもしれない。しかし、それでは満足できなかった。より熱心に、神さまにお仕えすることを求めた。何もそこまでやらなくても、って周りから思われるほどに、彼は信仰に熱心なだけなのです。しかし、それが、イエスさまの目には、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」として映ってしまっているのです。自分にはそんな自覚はない。ただ一生懸命なだけ。真面目に、熱心に生きようとしているだけ。しかし、そこに、そんな人の姿に、イエスさまは鋭く切り込まれている。

実は、ここで「うぬぼれ」と訳されている言葉は、本来は「自分自身を頼りにする」という意味だというのです。つまり、私たちが普通に考える傲慢さを含むような「うぬぼれ」とは違う、ということです。根拠もないのに、ただうぬぼれて、人を見下しているのではない。そうではなくて、自分は正しいのだと自信を持っているということです。つまり、自分自身の手で救いを勝ち取ることができる、そういった自信。自分の人生に根拠づけられた自信。あるいは他者との比較による自信を持っている、ということです。「自分の力で何とかできる」「自分が頼り」。それが、この譬え話に出てくるファリサイ派の問題となる。

先ほどから言っていますように、この「自分自身を頼りにする」ということは、自信を持つということとも繋がっていくことでしょう。では、人はそんな自信をどのようにして獲得していくのでしょうか。一つは、自他共に認める圧倒的な優秀さでしょう。そんな自信を獲得するために、人は努力する。もう一つは、自分の方が優っているという比較による自信です。ある方は、人はそんな自信を獲得するために、常に自分よりも一段劣った存在を探し求めている、といったようなことを語っておられましたが、まさにその通りだと思います。あの人よりはマシだ、と。そんな自信の獲得によって、人は安心しようとする。ですから、ある意味、それは無自覚に起こることも多い。必ずしも自覚的に「うぬぼれて」「他人を見下して」いる訳ではないのです。そうではなくて、自信を得ようと、己自身を頼りにしようと、そんな自信からくる平安を得ようと、かえって無自覚的に、結果論的に「うぬぼれて」「他人を見下して」しまうことになってはいないだろうか。だから、悪びれもせずに、平気で、むしろ本人はいたって真面目に、側から見れば鼻につくような祈りさえもしてしまうようになってしまうのではないか、そう思うのですそれに対して徴税人の方はどうだったか。

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」。とても自信なんて持てません。他の人と比較のしようもありません。それほど、この自分が罪人だと分かっている。だから、もう周りの反応なんか気にしてなどいられないのです。彼は胸を打ちながら声に出して言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。周りに聞かれたって、どう思われたって関係ない。それよりも、ただ神さまの憐れみによりすがるしか、もう私には何も残されていない。そんな徴税人の気持ちが伝わってくるようです。そして、イエスさまは言われた。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と。「義」とされるとは、救われる、ということです。赦される、ということです。この徴税人の方が救われたのです。

ある方は、このようにも言いました。この徴税人の祈りは、私たちプロテスタント教会にとっての模範的な祈りとなった、と。そうかもしれません。この両者の祈りを比較した時に、私たちは単純に後者、この徴税人の祈りの方が私たちの祈りに近い、と思われたのではないでしょうか。そうです。私たちは前者のように、自信満々になど祈れません。むしろ、自信なさげに、後者のように、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」としか祈れない。確かに、そう思います。しかし、私はそれなりの牧師生活の中で、度々このような声にも出会って来ました。「私は本当に罪深い者です。救いに与れるような者ではありません」と。「そうですね。確かに、私たちは罪人で、自分の力で救いを手に入れることなどできない者です。ですから、イエスさまが来てくださり、そんな私たちを救うために十字架に死んでくださって、復活してくださったのではありませんか」。「しかし、私には、そんな恵みを受ける資格などありません」。

そう言って、一向に意見を変えようとしませんでした。私はそれを、弱さの中にある強さ・頑固さ、と呼んでいます。相手は未信者ではありません。求道中の人でもない。キリスト者です。キリスト者でありながら、そういったやりとりをして来ました。いいえ、実は、私自身がそういった思いに囚われていたのです。この徴税人の祈りのような思いに。しかし、果たして、イエスさまはそのことだけを望んでおられるのか。違う訳です。

「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であっ」た、というところまで含めて、この徴税人のようになって欲しい、と願われているのだと思うのです。なぜなら、「自分自身を頼り」にすることが問題だからです。自分自身を頼りにし、うぬぼれるのも、逆に、自分など相応しくないと恵みを拒否・拒絶するのも、どちらも同じだからです。結局は、どちらも、神さまを、イエスさまを頼りにしていない。単に、謙遜ぶることが求められているのではありません。最初に言いました14章でもそうでした。そうではなくて、私たちを引き上げてくださる、救い上げてくださる神さまを、己ではなくて神さまを頼りにする、その神さまの救いの御業にこそ自信をもつ、信頼を寄せる、絶対的な確信を持つことが重要だからです。たとえ自分には何も誇るものがなくても、自信を持てるものがなくとも、確信など持てなくても、ただ単純に神さまの憐れみによりすがった人が救われた、そのイエスさまの言葉を信じればいい。

そう語ってくださったイエスさまに信頼すればいい。そのことが、この私自身の身にも起こっているのだ、ということに自信を持てばいい。それで、いい。それが、私たちに求められている信仰の世界。そのことをもう一度、今朝確認していきたいと思います。