マルコ

説教 「古い革袋を破る新しいぶどう酒の力」 大柴 譲治牧師

マルコ 2:18-22

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

断食問答

本日の福音書の日課は断食問答です。そこでは目に見えるかたちの禁欲と敬虔が問題になっています。「なぜ洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は断食をしているのに、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。これは人々にとって重要な問いかけでした。目に見えるかた(律法)というものにこだわる部分が私たちの中には確かにあります。

断食というものは本来はざんげや悲しみを表すしるしとして行われていました(例えば、レビ記16:29の「苦行」は断食を指す)。律法に規定された断食もある一方で、民族的な不幸を忘れないようにする記念日にも断食をしたようです(ゼカリア7:3以下、8:19)。疫病の流行や戦争、干ばつに際しても公の断食が行われました。個人的にも喪中のしるし、悔い改めの表現、祈祷の準備、誓約の成就などのために断食が行われていたようです。さらに、宗教的に規定された断食日として週に二度、月曜日と木曜日が定められていました。敬虔な教師について訓練と指導を受ける者たちは、皆その教師から一定の時に、週に二日、夜が始まるまでの間、食物を控えることで、神と人の前にへりくだることを奨励されていたようです。そのように身を正して断食をするということはユダヤ人にとっては当然のことでもあったのです。

ところがイエスの弟子たちは違っていた。洗礼者ヨハネの弟子も神の国の到来の備えとして悔い改めの断食を行っていたのですが、イエスの弟子たちは断食をしませんでした。どうして断食しないのか。なぜ律法を大切にしないのか。イエスの弟子たちは自由で開放的であり、禁欲的な雰囲気を全く感じさせなかったのでありましょう。それはユダヤ教社会の中にあっては際立っていたと思われます。

マタイ福音書11:19にはイエスさまが「見ろ、大食漢で大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だ」と人々に揶揄された様子が記されています。洗礼者ヨハネから洗礼を受けてヨハネの弟子であったイエスがヨハネと袂を分かったのも、そこには禁欲に対する立場の違いがあったという説明をある新約学者から聞いたことがあります。イエスさまとその弟子たちとは断食や禁欲的な行いを重んじず、律法を無視しているので敬虔な信仰者とは言えないという批判がこのことの背景にはありました。

イエスの答え~祝宴の招き

しかしそれは「時」の理解が異るゆえだということがイエスさまの明快な答えから分かります。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。洗礼者ヨハネは終わりの時に備えて断食したが、イエスとその弟子は婚宴の喜びのただ中にあったから断食する必要はない。それは神の救いが既に到来しているのだという「時」理解です。キリスト以前とキリスト以降では決定的に事柄は異っています。新しい時代が到来したのです。

ここで主はご自身を「花婿」と呼んでおられます。花婿と共にある婚宴の席では誰も断食などしない。それは場違いなことだからです。イエスと共にあるということ、それは喜びの宴に共に与るということですから、この言葉は私たちに対する祝宴への招きの言葉でもあります。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2コリント6:2)なのです!

古い革袋を破く新しいぶどう酒の力

主は言われます。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」と語られる主の言葉はその通りですが、そのことは私たちにとって何を意味するのでしょうか。ここのところが本日のみ言葉の中心であり、核心であると思います。

これは主の教えの革新的な新しさを伝える比喩でありましょう。まだ一度も洗ったことのない新しい織りたての布切れでもし何度も洗った古い布切れの服に継を当てたとすれば、洗った途端にひどく縮まってしまい服を破ってしまうことになります。また、まだ醗酵中の強い新しいぶどう酒を古い革袋に入れてしまうと、その醗酵する力でその袋を破いてしまうことになります。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる必要があるのです。

主の教えが持つ新鮮さは聴く者たちの心を強く動かしたに違いありません。そこには、これまで当たり前だと思っていた土台自体をもう一度根本的に問い直すような力強い響きがあり、人々の「常識」をグラグラ揺さぶったと思われます。それはちょうど、新しい布切れで古い服に継ぎ当てするようなものであり、古い革袋に新しいぶどう酒を入れるようなものだったに違いありません。主の教えはこれまでのものとは質的に完全に異る、新しい次元に属していました。それは古い革袋を破るほどの生命力を持っているのです。

このことを私たち自身に当てはめてよく考えてみる必要がありましょう。私たち自身はどうなのかということです。新しいぶどう酒である主のみ言葉を私という革袋の中に入れると、その醗酵する力によって革袋は破けてしまうのではないか。そう思わされるのです。私自身が主の新しいぶどう酒を入れるフレッシュな革袋となるためには、一度徹底的に裂かれる必要があるのではないか。古い革袋のままで安住することはできないのではないか。主ご自身が十字架の上で肉を裂かれ血を流されたように、私自身にも「裂かれる」ということが起こらなければならないのではないか。それが私にとっての十字架を背負うということなのではないか。この一週間はそのような思いでこのみ言葉と格闘してまいりました。礼拝を通して、また聖餐式を通して、古い革袋を破く新しいぶどう酒の力を私たちはいただいているのだと思います。

さらに言うならば、私たちはどこかで古い革袋で生きることに行き詰まり、破れた革袋を引きずりながらこの礼拝に集っているのかもしれません。古い革袋を破く力をもったこの新しいぶどう酒は、もう一度私たちという革袋を新たに創り直す力をも持っています。破れた器をその力によって新しく再生させてくださる。主イエスの周囲に集まった人々はそのような再生の力、復活の力をいただいて新たにされていったのではなかったか。私たちもこの礼拝に集うことを通して新しい革袋へと変容(トランスフォーム)されてゆくのではないか。パウロは言っています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)。私たちの人生においてもキリストと出会うことで「新しい時」は既に始まっているのです。

「パートタイム宗教」

先週、久しぶりに新宿の紀伊国屋書店に行きました。そこでユング心理学者・河合隼雄さんの『心の扉を開く』という本を見つけました(岩波書店、2006)。様々な書物を紹介している本ですが、その中にネイティブアメリカンとの出会いを紹介している部分があって心に響きました。彼らには『宗教』(religion)という言葉はないということでした。毎日の生活そのものがすべてスピリチュアルだから、取り立てて『宗教』という言葉は必要ないのだそうです。そして一人のネイティブアメリカンがこう言ったというのです。「白人たちはパートタイム宗教をしている」と。この言葉に私はハッとさせられました。私自身が「サンデークリスチャン」「サンデー牧師」と言われたように思ったからです。

私たちはともすれば聖と俗を分けたり、スピリチュアルなものとそうでないものを分けたりすることに熱心です。断食するかしないか、安息日を守るか守らないか、礼拝に出席するかしないか、等々。私たちのそのような姿は「パートタイム宗教」でしかないのではないか。普段の、当たり前の日常生活そのものが大きなもの(神)とつながることによってスピリチュアルなものであるということを私たちはどこかで忘れてしまっているのではないか。否、どこかで私たちは自分に都合の良いように割り引いて考えているのではないか。そう思わされてハッとしたのです。

パートタイムではなく、フルタイムでキリストを信じるということがどのようなことであるのかを考えてゆく必要がありましょう。それは四六時中そのことを考え続けなければいけないということではなくて、要所要所でそのことを思い起こすようにということなのではないか。いや、このように考えることも自分の側に都合の良いように引き寄せていることなのかもしれません。

「今日は死ぬのにはもってこいの日」

6/1-3に参加したリチャード・グローヴス師のセミナー『尊厳ある生き方、死への道のり』でもネイティブアメリカンの言葉を聞きました。「今日は死ぬのにはもってこいの日だ(Today is a good day to die)」という言い方があるそうです。このような思いで、自分を超えた大きな大自然の命とつながっていることを意識しながら毎日を過ごすこと、一瞬一瞬を過ごすこと、そのことが大切なのです。

そしてそのためにこそキリストが私たちの所に来てくださった。どうあがいてもパートタイムクリスチャンでしかない私たちを救い主として支え、守り、導くために、主はこの地上に降り立ち、あの十字架にかかり、三日目に死人の中からよみがえってくださった。主はパートタイムの救い主ではない。フルタイムの羊飼いです。このお方は古い革袋を新しいぶどう酒で満たすことによって新しい革袋へと再創造してくださるお方です。このお方のゆえに、私たちは自らのパートタイム性を誇りたいと思います。なぜなら私たちは、弱い時にこそ主のみ力によって強いからです。

それゆえ私たちはネイティブアメリカンに習って言いたいと思います。「今日はキリストにおいて死ぬのにはもってこいの日だ。そしてキリストにおいてよみがえるのにもってこいの日だ」と。共に主にあるこの命を喜び祝いましょう!

私たちを主と共に生きること、あることの喜びへと招いてくださるお方が、お一人おひとりと共にいてくださいますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年6月18日 聖霊降臨後第二主日礼拝 説教)

説教「全世界に出てゆきなさい」 大柴 譲治牧師

マルコ 16:9-18

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

弟子たちをとがめる復活の主

イースターおめでとうございます。イースターの光の中で今朝もご一緒に礼拝を守れますことを感謝いたします。

本日の福音書には、復活された主がマグダラのマリアに現れ、二人の弟子に現れ、そして十一弟子にも現れたということが記されています。

深い嘆き悲しみの中ではしばしば他者の言葉が耳に入らないということが起こります。この時の十一弟子も自分を支えるだけで精一杯でした。「今私はよみがえった主と出会った!」と語るマグダラのマリアと二人の弟子たちの喜びの声を信じる者は誰もいませんでした。彼らは師を失って絶望的な思いに捕らわれていた。そこには主を見捨てて逃げてしまったことに対して後ろめたい複雑な気持ちもあったでしょう。これからどうすればよいのか全く分からない、出口の見えない状況です。イエスがよみがえったなどということはとうてい信じることはできませんでした。

ところが今度は主ご自身が十一弟子に現れ、彼らをしかりつけるのです。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」(14節)

弟子たちが信じられないのも無理もないと思いますが、私はこの部分を、復活の主ご自身が私たちの頑なな心を打ち砕いてくださり、信じない者から信じる者へと変えてくださるというように読みたいと思います。ボンヤリしていたのを急に頬をピシャッとたたかれてハッとするようなものです。とがめられることで信じる者へと変えられるのであれば、私たちも喜んで復活の主にとがめられたいものだと思います。主はいつも向こう側から私たちの側に近づいてくださり、私たちの思いもかけぬ仕方で私たちに働きかけてくださるのです。

食事における復活の主のリアリティー

賀来先生も先週触れておられましたが、マルコにもルカにもヨハネにも、復活の主が食事を通して弟子たちにご自身を示されたことが記されています。これは重要なことです。主の食卓を通して私たちが復活の主のリアリティーを感じ、変えられてゆくということが示されているのです。そこでは聖餐式が指し示されていましょう。

来週はヨハネ福音書21章が日課として与えられていますが、そこでは復活された主が弟子たちのために炭火をおこして魚を焼かれるという場面が記されています。炭火と焼き魚の匂いという極めて具体的な事柄の中に復活の主はリアリティーをもって立っておられるのです。

一緒に食事をすることは初代教会にとって大切なことでした。彼らは迫害の中に置かれていました。大きな悲しみと嘆きの中で、自らの無力さと不信仰をかみしめる中で、聖餐を分かち合うことを通して教会は復活のキリストのご臨在を感じ、慰めと励ましを受け取っていったのです。それは私たちもまた同じであります。

私たちは聖餐式を毎月第一日曜日とクリスマスやイースター等の大きな祝祭日にしか守りませんけれども、ほとんど毎週、礼拝後には昼食(愛餐会)を分かち合っています。これはボランティアで準備にあたってくださっておられる方々の「ビタミン愛」のたくさん入った美味しいお食事で、そのご奉仕に感謝いたします。今日もヘルシーサラダご飯をいただきます。10年前の増改築で、設計者の故河野通祐さんや建築委員長のN.Kさんらが中心になって大きくて使いやすい台所を作ってくださったことは、聖書的で教会的な先見の明があったのだと思います。それは現在のむさしの教会の交わりに大きな恵みをもたらしてくれました。

聖餐式や愛餐会を共にすることの中で復活の主がリアリティーをもって私たちに迫り、様々な悩みの内に置かれている私たちを祝福し、慰め、新たな力をもって導いてくださる。復活を信じることができずにいる者が食卓の交わりを通して変えられてゆくのです。

食べるということ

私たちは植物と違って、体内で光合成を行うことができないので、生きるためには外部から栄養を補給する以外にありません。食べ物はそれ自体が命を持った生きものです。その命をいただいて私たちは生きるのです。いや、正確に言うなら、生かされているのです。私たちのために死んでくれるものがなければ、私たちは片時も生きることができないのです。そして食物を料理してくれる人がいるおかげで私たちは生きてゆくことができるのです。

「おかげさまで」という美しい日本語があります。食べ物となってくれたもののおかげさまで、それを美味しく料理してくださる方のおかげさまで、私たちは生かされている。食事をする前に私たちは手を合わせて「いただきます」と感謝して食べ始めますが、それは私たちがそのような大きな命の連関の中に置かれているということを意味しています。

そしてもしかすると、私たちが他の命を食べなければ生きてゆくことができないということが「原罪」ということなのかもしれません。そう思う時、原罪の克服が私たちを生かすための生命のパンとして自らを十字架の上に差し出された御子イエス・キリストによって成し遂げられているということの重さにハッとさせられます。

「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒20:35)という言葉通り、主はご自身のすべてを与え尽くされました。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。これはあなたの罪の赦しのために流されるわたしの血における新しい契約」と言ってパンとぶどう酒を差し出してくださるお方がいる。弟子たちはその食事のただ中で復活の主のご臨在を感じ、復活の主と出会ったのです。そしてそこで揺らぐことのない喜びに満たされて、それを携えて世界へと派遣されてゆくのです。ここにこそ私たちを生かす本当の命のパンがあり、真の命の泉があるということを全世界に告げ知らせるために。

三つの体験

先週私は三つの印象的な出来事を体験しました。イースターの翌日、17日(月)でしたが、ご自宅でA.N兄の病床洗礼式を行いました。それはNご夫妻と私たち夫婦の四人だけの小さな洗礼・聖餐式でした。37年間、奥様が祈り続けてきたことがかなえられたのです。一年半ほど前、大学病院で外科医として働いておられたN兄は突然大動脈瘤破裂を患い、手術を受けて九死に一生を得られました。それからはご家族が献身的に介護してこられました。風邪や肺炎などによる熱で緊急に入院されたことも幾度かありました。受洗に至るまでは賀来先生やキスラー先生、石居先生、また多くの信徒の方々の祈りが背後にあった。受洗の時にも、水分補給のために奥様がかつお節でだしをとったスープを点滴されておられました。心のこもったビタミン愛のスープでした。

20日(木)にはこの春に按手を受けて東京教会の協力牧師になられた関野和寛先生の牧師館を訪問し、夕食をご馳走になってまいりました。「主の最後の晩餐を意識して食卓とイスを買いました」ということでしたが、本当に大きな木のテーブルでした。共に食べることの大切さをかみしめたひとときでした。サラダや大根の煮付け、地鶏の焼きものや手作りの味噌うどんなど心のこもったもてなしは、なかなか味わい深いものがありました。

もう一つは昨夜(22日)のことです。水曜日に89歳で亡くなられたA.Hさんのお母様のお通夜に私は妻と一緒に教会を代表して参列させていただきました。真言宗のご葬儀でしたが、最後の部分でお坊さまの説法が入るというなかなか味わい深い式でした。お坊さまは「私たちが誕生したときにへその緒を切ってくれたのはお産婆さんやお医者さんだった。私たちにとって大事なことはいつも他人がしてくださる。その恩を覚え、その功徳に報いることが大切なのだ」というお話をなさいました。それを聴きながら思ったことは「親の恩の深さ」ということです。特に母親の作ってくれた味は誰にとっても忘れられないものです。子育ての際に親は、限界を持ちながらも精いっぱいの祈りを込めて、子供たちに豊かなものを与えようとします。そして多くの場合、私たちは親の恩には報いることができないのです。親の世代から受けた恩は、次の世代に返してゆくしかありません。

復活の主の派遣

復活の主が食事の席で弟子たちにご自身を示されたということは、私たちは主の復活からの命をいただいて生かされてゆくのだということを意味しています。私たちは復活の主から命のバトンを手渡されているのです。復活の光の中で、このお方が与えてくださった命の糧のおかげで今私たちは生かされているのです。

復活の主は弟子たちに言われました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15節)。「全世界」とは、どこか遠いところに向かって出発しなさいということではないでしょう。私たちの置かれている今ここでの、日常生活のことです。復活の主につながる今日のこの命を大切に生きることを求めているのです。復活の主が常に人生の同伴者として私たちの食卓にいてくださる。そのことをご一緒に味わいながら、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豐かにありますようお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年4月23日 復活後第一主日礼拝)

説教「仕えるために」 伊藤 早奈牧師

マルコ 10:32-45

祈り

天の神様、今朝もこのように私たち一人一人があなたによって、この礼拝へと招かれ、あなたを賛美し共に祈ることが許されましたことを感謝いたします。あなたによって与えられた今があることを、そして今ある出会いの中でみ言葉に聴くことを許されましたを感謝いたします。これから語られますあなたからのみ言葉、この語る者を通し、ここにおられるお一人お一人へと、神様あなたがお語りください。

仕えるために

今日、皆様とご一緒にお読みいたしました聖書の箇所の中の10章45節においてイエス様は弟子たちに言われます。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

弟子たちへ語られた言葉は、主イエスと共に歩き、共に旅をしていた弟子たちへだけ語られた言葉なのでしょうか?

今を生きて、現在この聖書のみ言葉から聴いている私たちには何も関係もなく、何も語られていないのでしょうか?

聖書のみ言葉は生きています。私たちが生きているこの時代のただ中においても主からのみ言葉は生きて働いておられます。だから私たちは聖書のみ言葉から今このときに聴くことができるのです。

今、私たちは四旬節という季節を迎え、一人一人が心を、十字架へと一歩一歩向かう主イエスへと向けています。

いったい何のために。どうして。

今という現代に生きている私たちには関係のない昔のことなのに。といろいろな思いの中におられる方も少なくないでしょう。

聖書において主イエスが言われる「人に仕える」とはどういうことなのでしょうか?人に仕えられるためにではなく仕えるために来た。という主イエスはいったいどのような方だったのでしょうか?

聖書のみ言葉から聴いていきたいと思います。

私たち一人一人のために、ご自分の命を身代金として、ささげられるのは主イエスその方お一人しかいません。

身代金?と突然言われても、私たちにはピンとこないかもしれません。身代金とは罪の束縛から私たちを解放してくださるあがない品ということです。何が私たちを束縛している罪なのか。

聖書において、主は進まれています。それはエルサレムへと向かう道です。エルサレムへ向かう道それは十字架へと向かう道に他なりませんでした。イエス様を慕うたくさんの人が一緒でした。その中にはイエス様が選ばれた弟子の十二人も含まれてました。その途中、イエス様はその一行の先頭に立って行かれます。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れます。

今までイエス様はどこにおられたのでしょうか。そんな疑問もおかまいなく十字架へと向かうその先を示されるかのように主イエスは先に立ちます。

先に何があるのか、どこへ進むのか。今を生きている私たちにもわかりません。

わからないことに対して私たちは恐れるだけです。予想もしない事態に私たちは、ただただ驚くだけです。何かわからないものへの不安、恐れ。明日何が起こるだろうか。これからどうなっていくのだろうか。

そのような不安や恐れに縛られ、与えられている「今」というこの瞬間さえも生きることを忘れてしまうのです。

命が与えられていることを恨むようなこと、それは神様から離れることです。神様から離れること、そのことは罪と言われるものではないでしょうか。

人に暴力を振ったり、他人の命を傷つけたり、法律を犯すようなことも罪の一つです。しかし私たちが神様から離れてしまうこと、例えば不安や恐れでいっぱいになってそれらのことに縛られてしまったり、自分自身を無視してしまったり。

小さなことと思えるようなことでも、私たちが神様を忘れ孤独や恐れ、不安に包まれ何も見えなくなってしまうとき、それは神様から離れること、つまり罪という束縛に縛られるときなのです。

そのような状態にあったとしても私たち一人一人の先頭には主イエスがおられます。そして、主イエスの進まれる方向はただ一つなのです。それは命である神へなのです。

勝手に主イエスは行ってしまうのではなく、一人一人と共に歩かれるのです。確かに、私たちが向かう命の道を示すために主イエスは先頭を行かれるのです。その道を私が進むことは、どんなことが起ころうとしているかを主イエスはご存じなのです。ご存じである主イエスが共に歩まれるのです。

私たちのためにご自分の命をもささげられる方はどういう方なのでしょうか。

主イエスは言われます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、来た。」と。

主イエスは来られます。私たちが生きている今というただ中へ。

お参りに来なさいと言われるのではなく、主イエスの方から私たちのこの隣へ来て下さるのです。

そして、その主イエスが、私たち一人一人に仕えてくださるのです。

仕えるとはどういうことなのでしょうか。

「仕える」という言葉には「もてなす」と言う意味もあります。そして食事の準備をするという意味もあります。

人をもてなすとき、私たちはもてなす相手が喜ぶ最高のサービスを提供しようとします。相手を喜ばす以上に相手が喜ぶのが、自分にとっても嬉しいこととなるのです。そして、もてなす相手を何よりも一番信頼して自分の家に、そして心に迎え入れるのです。主イエスも同じなのです。一人一人を信頼して迎えられるのです。

人を信じるということを、私に教えてくれたドラマの台詞があります。見た方も少なくないと思いますが、この前の金曜日の夜、放送された,全盲聾の方福島智さんが奥様に言われた言葉です。

「君が何かができるから、ぼくは君に傍にいてほしいんじゃない、君の存在がぼくにとって重要なんだ。」

主イエスも一人一人に言われています。

「あなたの存在が私にとって大切です。そのようなあなたのところへ私は仕えるために来た。」

イザヤ書53:1-12

最後にイザヤ書53章1-12節をお読みいたします。

(1)わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
(2)乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
(3)彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
(4)彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
(5)彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
(6)わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
(7)苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
(8)捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
(9)彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。
(10)病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

(11)彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
(12)それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。

(2006年3月12日 四旬節第二主日礼拝説教)

説教「闇の底までさしこむ真の光」 崔 大凡神学生

マルコ 9: 2- 9

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

変容の出来事の意味

むさしの教会の主日礼拝で説教の機会が与えられたことを心から感謝しています。今日は変容主日です。毎年のこのころ私たちは、山の上でイエス様の姿が変わって白く輝いた出来事を、それぞれの福音書をとおして読みます。私たちのルーテル教会には、必ず毎年変容主日が回ってきますので、多くの方にとってこの箇所はなじみのある箇所であると思います。

私は説教の準備のために今日の聖書箇所を確認したとき、少し戸惑いを感じました。まだ実習中の神学生に与えられた、ただ一回の説教ですから、もうちょっと説教しやすい箇所だったら良かったなという気持ちがあったのです。伝道のために、まだイエス様を信じていない現代の人々にイエス様のことを伝えるとき、私が思う一番難しいところの一つは、今の時代を生きる人々にとって非現実的な出来事、現代の私たちが持っている科学的認識では、納得しにくいことをどう説明するかではないかと思います。今日の聖書日課に書いてある変容の出来事は、私たちにとって非現実的な、非日常的な出来事です。この変容の出来事を私たちがどう受けとめるか、変容の出来事は何の意味を持つのかについて考えることは、私たちの信仰においても大きな課題であると思います。そして、変容の出来事が持つ意味について考えることは、イエス・キリストとは誰なのかに繋がるのです。結局変容の出来事とは、イエス・キリストは誰なのかを私たちに教えて、見せる出来事なのです。

「光あれ」

イエス様の姿は白く輝きました。それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどであったと聖書は伝えています。イエス様が身にまとっていたのは、人間では造れない光なのです。「光」とは、キリスト教の大きな象徴性を持つテーマであります。創世記で神は天地を創造し、「光あれ」と言われます。それで天地を照らす光が創造されたのです。また、ヨハネによる福音書でも光について伝えています。「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:4~5)

このほかにも聖書の中には「光」という言葉がたくさん出てきます。聖書がいう光は、神が創造した神の栄光そのものであって、キリストを象徴するものであります。今日の聖書日課で、神の栄光である光はイエス様をとおして現れます。この変容の出来事は神の栄光、イエス様の神の子としての本質が、限られた瞬間と空間の中で、限られた人に見えた事件なのです。

「六日の後」

「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られた」この文章の中に、変容の出来事の時間、場所、それにかかわる人たちが記されています。

「六日の後」という時間の背景は何を象徴するでしょうか。イエス様は9章1節で「ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なないものがいる」と言われました。そのイエス様の話があって、六日が過ぎたところなのです。創世記では神は六日間、天地と地上の生き物を創造し、七日目に安息なされました。六日が過ぎて七日目に神の創造が完成されたのです。ここでは「神の国が力にあふれて現れる」というイエス様の予告から六日が過ぎ、七日目にイエス様の変容が起きたのです。この出来事は、神の国の到来、終末、あるいはイエス様の復活の先取りであると考えられます。

高い山は、人々からは離れた所であって、天には近い所です。モーセが神の啓示を受けた場所も山でありますし、アブラハムがイサクを捧げようとしたとき、神の声を聞いた場所も山でした。高い山は神の顕現の場所です。モーセの時代にも、神様は雲の中にいてイスラエル民を導きました。イエス様は人々から離れた所、しかしイエス様ご自身が共にいる場所、神様の声が雲の中から聞こえる、その高い山にペトロ、ヤコブ、ヨハネ3人の弟子を呼びかけるのです。

他にも弟子たちはたくさんいるのに、なぜこの3人でしょうか。弟子たちの中でこの3人が特に優秀な人、目立つ人だったでしょうか。その選びの基準はイエス様しか分からないことです。しかし、イエス様は弟子を集めるときも優秀な人を探して自分の弟子にしたのではなく、見近いところでご自分と出会った人を呼びかけ、自分に従った人を弟子にしました。私の個人的な考えでは、弟子たちの中で一番積極的に、熱い思いを持ってイエス様に従おうとした3人を、イエス様は特別に呼びかけたのではないかと思います。変容の出来事は短い瞬間で終わります。その後は、また何もなかったような日常に戻りが、この世に従うのではなく、誰よりもイエス様に従おうとする人、だれよりも神を見ようとする人は、限られた環境、短い瞬間であっても、神の栄光に輝くイエス様の姿を見ることが出来るのだと示しているのではないかと思います。

イエス様の姿が輝く中で、神様から律法を預かったモーセ、そして預言者の父であるエリヤが現れます。実に、この非現実、非日常的な光景を目の前にした弟子たちは非常に恐れていたと、どう言えばいいのか分からなかったと聖書は伝えています。その中でペトロが言います。「先生、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロの素直な気持ち、そして自分なりに尊い方に対する尊敬を表したいペトロの姿が良く伝わってきます。ペトロは自分が見ている素晴らしい光景がすぐ消えるとは思わなかったでしょう。その状態がいつまでも続いて欲しかったから、モーセとエリヤもいつまでもいて欲しかったから、とりあえず仮小屋を三つ建てると言ったかもしれません。この神秘的な光景の中で、神の国はもう到来したと、これでこの世も変わるのだと思っていたかもしれません。しかし、モーセとエリヤは消え、輝かしい光も消えます。ペトロの仮小屋は本当にいるべき居場所ではなかったようです。「これは私の愛する子。これに聞け。」と天からの声があって、弟子たちの目の前に残ったのはイエス様だけです。

神の栄光は確かに目に見えたのですが、時間は止まらず、未来に向かって進まなければならないのです。山を下りながら、イエス様は弟子たちに言います。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはならない」この世の光、神の子イエス・キリストには計画があったのです。その計画はペトロの願いとは相反する、人の考えを超えた計画です。今日の変容主日を最後にして神の栄光が現れることを記念する顕現主日は終わります。来週からは四旬節が始まります。イエス様はこの後、栄光の光を隠して、受難の十字架に向かって進みます。そして、人々から苦しみと恥を受け、十字架の上で死にます。それはペトロの願い、神の国が力にあふれて現れるのを待ち望んでいる私たちの期待とはあまりにも違うものです。しかし、受難の時は必要だったのです。イエス様は神の光が一部の場所、一部の人々に示されるだけではなく、闇のどん底まで光が届くように、自ら呪いの底、絶望の底である十字架に進みました。それはペトロ、ヤコブ、ヨハネ3人だけではなく、闇の世界に住むすべての人に光を届けるためでした。光が曲がることなく、いつもまっすぐに進むように、イエス様も何の迷いもなく、避けることもなく、十字架に向かってまっすぐに進んだのです。

神は光をとおして、混沌に満ちた世界を照らし地上に秩序を与え、虚無に向かう世界に希望を与えます。しかし、ヨハネによる福音書に「暗闇は光を理解しなかった」と書いてあるとおりに、闇の中に住んでいる私たちは光を理解しないときがあります。3人の弟子もそうでした。彼らは高い山で栄光に輝くイエス様の姿を見て、神の声を聞いても、後でイエス様を裏切ってしまいます。それは私たちの姿でもあります。私たちもそれぞれの人生の中で、イエス様が与えた道から背き、闇の世界に進むのです。

私たちが光を本当に喜ぶときはいつでしょうか。太陽が輝く晴れた真昼?もちろんそのようなときも光の豊かさを喜びますが、何も見えない暗闇の只中に光が差し込んだとき、絶望のどん底にかすかな光が届いたとき、私たちはもっとも光を喜ぶのではないかと思います。深い闇であるからこそ光はもっとも輝きます。イエス様は弟子たちの裏切りさえも担いました。それは私たちの裏切りでもあります。イエス様は人々の愚かさ、憎しみ、罪の重い十字架を持って、この世の一番暗い所まで進みます。光は、イエス様の受難の中に隠された形で、この世の闇、私たちの一番暗い所まで差し込むのです。

まっすぐな光

高い山で輝いたイエス様の光は私たちに何の意味を与えるでしょうか。前が見えない暗闇の中を歩むものにとって、光を探し求めることと、光を認めないことは大きく違います。光を探さずに、どこに向かっているのか分からないままさまようのは虚無そのものです。どうせ後で死ぬことしか知らないものには、その歩みも無意味です。しかし、前が見えなくてもいつか光を見るときが来ると信じるものにとって、光は苦難と絶望を打ち勝つ力となるのです。光は私たちに方向を示し、希望を与えるのです。実に私たちの周りには、キリストによって新しい人生を歩む人がいます。キリスト者は主の輝く光を見て、その光によって自分の姿、自分の人生も変えていくのです。パウロはコリントの信徒への手紙・3章18節でこう言っています。「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に創りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

モーセは神様の御顔を前から見ることは出来ず、後姿だけを見たと出エジプトは伝えています。私たちの信仰の先祖たちは主の輝く顔を見ることを長い間、待ち望んでいました。それは、私たちがいつも礼拝の最後に聞く祝福の祈りの中でも現れています。「主があなたを祝福しあなたを守られるように。主が御顔を持ってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。主が御顔をあなたに向けあなたに平安を賜るように。」律法を神からイスラエルの民に運んだモーセ、そして主の日が来る前に遣わされた預言者エリヤの時代を経ることは、それぞれ必要な過程だったでしょう。しかし、その約束の実現はイエス・キリストによって現れるのです。

私たちが主の栄光の御顔を見るために求められることは何でしょうか。私たちが命の光を見るためには何が必要でしょうか。私は、主イエス・キリストに向かうまっすぐな心、光を捜し求めるであると思います。イエス様の計画をはっきり理解していなかった、後でイエス様を裏切ってしまう弟子であっても、輝く主の姿を見ることは出来ました。また、今日の旧約の日課に出てくるエリシャは、自分の主人であるエリヤが天に取り去られるため、自分から離れようとするとき、何度もこう言っています。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。私はあなたを離れません。」こうしたエリシャのエリヤに対するまっすぐな心は、彼が求めていたエリヤの霊を受け継ぐことを可能にしたのです。

私たちは神様がなさることをその瞬間、正しく理解することはなかなか出来ないのです。神様が私たちに示してくださった言葉や出来事を完全に理解しているとも言えません。神様のなさることはまさに私たちの認識を超えるものです。そしてそれは私たちに非現実的に感じられるのです。しかし、私たちの認識が足りなくても、神様の御言葉に従うことは、私たちを栄光の光、命の光へと導くのです。イエス様の変容を見た3人の弟子のように、その瞬間分からないことがあっても、それぞれの人生を送りながら少しずつ分かってくうかもしれません。大事なのは、私たちのそれぞれの暗い所にまっすぐに差し込むイエス様の光をまっすぐに受け入れ、そして従うことです。「これは私の愛する子。これに聞け。」と神様が言われたように、私たちの従うべき基準はイエス様の御言葉です。その御言葉をとおして、私たちの人生の中で私たちに向けられる命の光を感じることが出来ますように。

祈り

愛する天の父なる神様、絶望の中、寂しさ、苦難、恐れの中にいる私たち、深い罪の中を歩む私たちが、あなたの命の光を見てそれに従うことが出来るように。私たちがその光を見るまで足を止めることがなく、歩み続け捜し求めますように、私たちに必要な力をお与えください。この世の光、神の御子イエス・キリストの御名によって祈ります。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年2月26日 主の変容主日礼拝説教)

説教「友を思うとりなしの信仰」 大柴 譲治牧師

マルコ 2: 1-12

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

病人の苦しみ

主イエスのもとには大勢の病人が連れてこられました。病いを癒されたいと願う人が跡を断たなかったのです。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」。

ここに重度の中風に苦しむ人がいました。「中風」とは、主として脳や脊髄などの疾患のために腕や足などがマヒして半身不随となってしまう病気を指しています。脳梗塞などで自分の思う通りに身体が動かなくなること、喋ることができなくなることが、本人にとっても家族にとっても、どれほど辛いことであるかを私たちは知っています。彼自身目の前が真っ暗になるような絶望的な気持ちを味わい続けてきたことでしょう。

病人は様々な次元で苦しみを体験します。肉体的な痛みはもちろんのこと、自分のそれまで頑張ってきた大切な仕事ができなくなるという喪失感や自信を失うという社会的な痛みもありましょう。また、医療費や生活費をどうすればよいのかという経済的な不安や痛みもをありましょう。その苦しみを誰にも分かってもらえないという泣きたいような孤独や精神的な痛みもあるかもしれません。そして死に対する不安や恐怖、あるいはこれは神の罰かもしれないという霊的な痛みを持つ場合もありましょう。病気は私たちに様々な次元で終わることのない痛みをもたらすのです。中風の男の望みもまたそのような痛みのかたまりから開放されることでした。

『友達』

家族でしょうか、友人でしょうか、彼には自分のために必死になってくれる者たちが四人いました。五人は強い絆で結ばれていたのです。イエスの評判を聞いた四人は中風の人を何とか癒してもらおうとイエスの前に連れ出そうとしました。しかし余りに人が多かったためイエスに近づくことができず、一計を案じます。「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」。なかなか大胆な行為です。彼らの必死さと熱い思いとがダイレクトに伝わってきます。人の家の屋根を壊すのですからよほどの覚悟がないとできません。私はこの場面を読むたびに、本当によい友を彼は持っているなあと感心すると同時に少しうらやましい気持ちにもなります。

ビートたけしの『友達』という詩を思い起こします。

友 達

困った時、助けてくれたり
自分の事のように心配して
相談に乗ってくれる
そんな友人が欲しい
馬鹿野郎、
友達が欲しかったら
困った時助けてやり
相談に乗り
心配してやる事だ
そして相手に何も期待しない事
それが友人を作る秘訣だ

(ビートたけし、詩集『僕は馬鹿になった』、祥伝社)

確かにその通りだと思います。中風の友を寝床ごと屋根から吊り降ろす場面と重ねるなら、それは彼自身が同じように友が困った時に助けてやり、相談に乗り、親身になって心配したからでありましょう。そのような深い関わりを他人に対してしたからこそ、その五人は強い友情の絆で結ばれていたと思います。

四人の「信仰」を見て

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」とマルコは記しています。「信仰を見て」とありますが、イエスが見たのは彼ら四人の「屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろす」という具体的な行為でした。その行為の背後には二つの深い思いがありましょう。大切なこの中風の友人を何とかして救いたいという友に対する必死の思いと、イエスの前にさえ連れ出せば必ず何とかしてくれるだろうというイエスに対する熱い思いです。その二つの思いが彼らをして屋根をはがしてまでイエスの前に病人をつり降ろすという大胆な行為に走らせるのです。

実際これは大変な作業でした。屋根に穴をあけるだけでも大変ですが、屋根の上に病人の床を運び上げて、それを床ごと吊り降ろすのです。足場を確保するだけでも大変です。平行箇所を比べてみると興味深い相違があることに気づかされます。マタイはただ「人々が中風の人を床に乗せたまま、イエスのところに連れてきた」としか記しておらず、屋根はがしは言及されていません(9:2)。ルカでは「男たちが」「瓦をはがし」という表現となっています(ルカ5:19)。マルコだけは「四人の男が」とその人数まで記しています。マルコにとってはこの四人という人数が、床の四隅を支えたということでしょうか、よほど印象に残ったのでしょう。いずれにせよイエスさまご自身、彼らの大胆な行動を見てその熱意と絆の強さとに心動かされたに違いありません。

「絆」としての「信仰」

中風の人は自分のために四人が力を合わせてそこまでしてくれることを心底ありがたく、また申し訳なく感じたことでしょう。聖書の中にはしばしばこのような強い絆が記されていて私たちの心に残ります。たとえば、自分の大事な部下を癒すために「足を運ぶには及びません。ただお言葉をください」とイエスに願い出た百卒長の姿や(マタイ8:5-13)、放蕩息子のたとえにおける父と息子の絆の強さ(ルカ15:11-24)、愛する兄弟ラザロを亡くして嘆くマルタの嘆き(ヨハネ11章)や「子犬も食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言って悪霊で苦しむ娘のためにイエスの前にひざまずくカナンの婦人の姿(マタイ15:21-28)など、即座に私たちはいくつもの強い絆を思い起こすことができます。そしてその絆の強さに主は目を留め、それを喜び、祝福してくださるのです。

私たちが自分自身のことを振り返ってみて考えてみると、私たちにもまた大切な絆がいくつもあることに気づかされます。実は聖書の言う「信仰」とは、そのような「絆」のことであり、「つながり」のことなのです。神と私との絆、関係を「信仰」と呼んでいるのです。ここで主イエスが「その人たちの信仰を見て」と記されているのは、「その人たちの絆の強さを見て」という意味なのです。

それはその作業を見てブツブツと心の中でつぶやく律法学者たちとは雲泥の違いです。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」。マザーテレサは「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」と言いましたが、無関心、無関係、無感覚、これこそ「罪」なのです。「友のために命を捨てる、これよりも大きな愛はない」と主イエスはヨハネ15章で語っておられますが、中風の男を屋根をはがしてまでイエスの前に連れ出そうとする熱い思い。友のために命を賭けるほどの愛がそこには感じられます。

十字架~キリストの絆

たった一人でいい。たった一人でも自分のことを本気で思ってくれる人がいてくれれば、私たちは大きな力に満たされてゆくのです。四人とはうらやましいと先に申し上げましたが、しかしよく考えてみると、私たちが気がつかないところで、私たちには四人どころではなく、四方八方から私たちの倒れた無力な姿(「床」というのはそのような姿を意味しましょう)を支えてくれる大勢の友が備えられてきたのだということ、屋根をはいで床をつり降ろしてくれる存在がいたのだということを今日のエピソードは示しているのではないかと思います。

確かに私たちが赤ちゃんの時はそうでした。何もできない私たちを親や家族が守り支えてくれたのです。私たちは一人ではない。自分が立ち上がれない時、歩けない時に、キリストの元に連れ出してくれるそのような友が与えられてきた。そして実は友の姿を通して、キリストご自身が私たちを背負ってきてくださったのです。瓦をはぎ屋根に穴を開け床を吊り降ろしてまで、私たちを大切にし、神さまのみ前に連れ出そうとしてくださっているのです。そのような主との太い絆が私たちには与えられている。主の十字架とはまさにそのような絆としての出来事なのです。

「恩寵」としての出会い

出会いとは恩寵であり奇跡でありますが、なかなか私たちはそのことに気づかないでいる。しかし知らないところで私たちは出会いに恵まれてきました。だからこそ今、この場所に導かれてきているのだと思います。カトリック教会では守護天使の存在を信じていますが、今日のエピソードは私たちにそのような守護天使的な存在がいるのだという神の見えない恵みの事実を示しているのではないか、私にはそう思えてならないのです。

昨日は神崎神学生と淳子さんの結婚式が神学校のチャペルで行われました。私が司式をし、江藤先生が説教を語り、康子姉がオルガンを弾いてくださいました。チャペルは私自身神学生時代に結婚式を挙げていただいた場所でもありますので、昨日の結婚式は私にとっても感銘深いものがありました。23年も前のことです。恥ずかしながら、その時には分からなかったのですが、実に多くの人たちに助けられ支えられていたのだということが次第に分かるようになってきました。歳を重ねなければ見えないことが確かにあるのだと思います。そこから振り返ってみる時、あの時自分自身は身動きとれない状態であったにも関わらず、そのような私を、屋根をはがして穴を開け、床を吊り降ろしてくれた人々がいたからこそ、自分はキリストのみ前に立つことができたのだというようなことを実感として感じるのです。絆の中で神の前に導かれるのです。人と人との出会いというものはそのようなものなのでありましょう。

今日はインターンを終えたばかりの小山神学生も礼拝に集っておられます。インターンということも同じでありましょう。私は自分が身動きとれない状態にある時、出会った一人ひとりが私をキリストのみ前につり降ろしてくださったように思います。だからこそ私自身は牧師になることができたのだと思いますし、それを20年間続けることができたのだと思うのです。

これは皆さんお一人おひとりにとっても同様でありましょう。今私たちがここに生かされているのは、これまで多くの人々の無数の熱い絆があったからですし、背後の祈りに支えられたからであり、友を思うとりなしの信仰があったからなのだと思うのです。そしてそれは、今も生きて働いておられるキリストのみ業であると信じます。キリストご自身が私たちを神の前につり下ろすために十字架にかかってくださった。十字架こそが、「友のために命を捨てる、これより大きな愛はない」というキリストと私たちとの強い絆なのです。そのことを覚えつつ、新しい一週間の歩みを初めてまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの恵みが豊かにありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年2月12日 顕現節第6主日礼拝説教)

説教「人間をとる漁師」 大柴 譲治牧師

マルコによる福音書 1:14-20

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

四人の漁師の召命の出来事

イエスさまの言葉はいつも私たちをハッとさせます。大切なものを気づかせてくれるからです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。イエスさまからこう言われたペトロとその兄弟アンデレはさぞかし驚いたことでしょう。でもそこには彼らが今まで聞いたことのないような新鮮な、そして権威ある響きがあったのだと思います。魂に響く何かがあった。だからこそ、主の力ある言葉が彼らを捉え、彼らをイエスに従う者に変えていったのでありましょう。

この言葉は彼らの人生に目的を与え、彼らの人生を方向づけました。以前『北北西に進路を取れ』という映画がありましたが、神に向かってキリストの後を歩む、そのような進路が彼らには定められたのです。むさしの教会はノアの箱船をかたどって作られていますが、人生を航海にたとえるならば、私たちには目的地と正しい方向とを指し示す羅針盤が必要です。そして地図(海路図)が必要です。その上で今自分がどこにいるのかを知らなければなりません。弟子たちに目的地と正しい方向とが指し示された、それが本日の福音書の日課に示されている出来事です。私たちにとっては聖書こそが人生の海路図であり、今このように礼拝に集うということを通して自分が今どこにいるかを知らされてゆくのだと思います。

彼らはガリラヤ湖の一介の漁師でした。しかもこの招きの言葉が語られた場面は、彼らが湖で網を打っている漁の最中でした。彼らが仕事中であることを「御覧になって」主はこう呼びかけられたのです。マルコはその後に短くこう記しています。「二人はすぐに網を捨てて従った」(18節)。マルコらしい不要なものを感じさせない凛とした文章です。「すぐに」という言葉が読む私たちを驚かせます。それは彼らが即座に、じかに、まっすぐイエスに従ったということです。

ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが呼ばれたのもやはり仕事中でした。漁が終わったところなのでしょう。舟の中で網の手入れをしている最中です。イエスさまは彼らにもペトロたちと同じ言葉で呼びかけられたに違いありません。「わたしに付いて来なさい、人間をとる漁師にしよう」。主はいつも私たちに一番心に響く言葉で呼びかけられるのです。今回も「すぐに」という言葉が記されていますが、ここではイエスさまが彼らを見るとすぐに彼らをお呼びになったとある。すると、「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(20節)とあります。呼びかけられた彼ら自身もそうでありましょうが、一緒に働いていたゼベダイも雇人たちもずいぶんと驚いたことでしょう。

この短い文章の中に「すぐに」という言葉が二度も使われて強調されているということが気になります。この言葉は先ほど申し上げたように「瞬時に」とか「まっすぐに」とも訳せる言葉ですが、四人は即座に主イエスの呼びかけに従ったことが強調されているのです。それだけではない。イエスさまも彼らを見ると「すぐに」招いたことが強調されている。つまり、呼びかける側も呼びかけられる側も、両側から即座にということが言われているのです。一刻の猶予もない、事は緊急を要するという具合で記されています。

四人の弟子たちの召命の出来事は、主が洗礼者ヨハネの逮捕後に、その働きを継承するかのように、ガリラヤで福音宣教を開始したことの直後に置かれています。今日の福音書の日課の最初の部分にマルコはこう記しています。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(1:14-15)。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい!」 時は既に充ちたのだ。神の国がどんどん近づいてきて、もうすぐそこにある。もう時間はないのだという切迫感を感じます。そのような切迫感の中で主は弟子たちを招き、4人は「あなたがたを人間をとる漁師にしよう」という言葉に直ちに応答して、日常生活のただ中で、イエスに従い始たのです。

日常生活のただ中でキリストに従う

このことは何を意味しているのでしょうか。仕事をするという日常生活の中から特別な次元のために呼び出されてゆく。私たちにとっても、彼ら同様に、「網を捨て、父を雇人たちと一緒に舟に残して」、つまり、日常生活をそこで一旦打ち切って、すべてを置いて、イエスの招きに即座に従わなければならない時があるということでしょうか。「決断は一瞬である」と私の先輩牧師である石橋幸男先生はいつもおっしゃっておられました。イエスさまの呼びかけを私たちは決して逃してはならないということなのでしょうか。

様々なことを思い巡らせることができますが、ここで大切なことは二つあるように思います。それらは表裏一体の関係にあります。一つは、どのような時と場にあっても、主イエスの呼びかけを聴き取り、その声に従うということの大切さです。「信仰」とは、キリストとの関係に生きるということですから、それは当然なことでもあります。

そこから二つ目も出てきます。キリストに従うということは日常生活を捨てることではない。出家することではない。信仰を携えて日常生活に戻ってゆくことなのです。ペトロたちも網を捨ててイエスに従ったはずですが、1:29ではペトロの家でイエスさまがペトロのしゅうとめの熱を癒すというみ業を行っていることが記されています。また、復活のイエスさまによって漁に出るように促されていたりもします(ヨハネ21:1-14)。網を捨てたペトロたち、舟と家族とを後にしてイエスに従った彼らは、もう一度イエスに従うことの中で網を拾い、家族のもとに戻ってゆくことになるのです。信仰とは、キリストに従うことの中で日常生活のすべてを大切にしてゆくということです。家族を大切にし、仕事を大切にし、地域のつながりを大切にしてゆく。

信じること、キリストとの関係に生きることを縦糸とすると、日常生活を生きることは横糸です。縦糸と横糸を織りなしてゆくこと、これが信仰生活です。神様との関係を垂直方向の次元だと考えると、日常生活を生きることは水平方向の次元であると考えてもよいかもしれません。垂直と水平をクロスさせて生きる、これが私たちの招かれているキリストに従う人生なのです。

そのことをよく表しているイエスさまの言葉があります。「野の花、空の鳥を見なさい。蒔きもせず紡ぎもしない。しかし天の父は彼らをも豐かに養っていてください。あなたがたはましてそうではないか。だから何を食べようか、何を飮もうか、何を着ようかと思い悩むな。天の父はこれらのものが皆あなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすればこれらのものは皆加えて与えられる。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」(マタイ6:25-34)。

主イエスに従うということは神の国と神の義とを求めるということなのです。そしてそれは日常生活を捨てることではない。別の世界に入ることではない。明日のことを思い煩わず、天の父が備えてくださるもの(天からのマナ)によって満たされて生きることなのです。日常生活のただ中で永遠なるものにつながって生きるということです。呼びかける者の側からも呼びかけられる者の側からもそれが「すぐに」起こるということを、いや同時に起こることを今日の箇所は私たちに告げているのです。

「人間をとる漁師」~I・Kさんとの出会い

「人間をとる漁師」というのは、何もプロの牧師や伝道者のことだけを指しているのではありません。キリストと出会った者は皆、そのように呼びかけられているのです。

「人間をとる漁師」ということでは、忘れることのできない一つの出会いを思い起こします。神学校を卒業してすぐ私は、広島県の福山という広島県第二の都市、人口37万人の町の小さなルーテル教会の牧師となりました。メンバーが30人ほどで、礼拝出席の平均が12人ほどの小さな群れでした。福山は日本鋼管の城下町とも呼ぶべき町でした。もともと福山、尾道、三原と人口10万人の町が三つ並んでいたのですが、日本鋼管が福山にきてから福山は三倍にも人口が増加したのです。

そこで私はI・Kさんという一人の車いすのご婦人と出会いました。Iさんは当時、福山で車いす協会の会長をなされていて、凛とした雰囲気を持つ笑顔のとても素敵なご婦人でしたが、その背後にたいへん辛い人生を持っていた方でした。幸せな家庭生活を送っていたのに突然、スモン病という病気のためにすべてを奪われた方でした。お腹の具合が悪いため病院でキノホルムという整腸剤を処方され、その薬害によってスモン病が発症したのです。Iさんには幼い二人の息子さんがおられたのですが、病気のために離縁させられます。何年も何年も、針のむしろに座らされるような激痛を伴う闘病生活の中で、神戸にあるカトリック病院に入院している時に一人のカトリック神父と出会い、キリストを信じて洗礼を受けられた方です。病いのために身体の自由を奪われて車いすの生活を始めた後に、印鑑業を営むご主人と出会い、再婚して福山に移ってこられました。

Iさんとの出会いは、1987年、宣教師のジェリー・リビングストン先生が中心となって、アメリカからお招きしたレスリー・レムキという盲目で肢体不自由、そして精神発達遅滞という三重の苦しみを持つ天才ピアニストのコンサートを急きょ福山で行うということになり、協力を求めて社会福祉協議会を訪ねた時に出会いました。快く協力を申し出てくださったIさんと私は、さらに協力を求めて文字通り福山を中心とした備後地方を車で東に西に走り回ることになりました。その時にIさんが私が運転する軽トラックの助手席に乗りながら笑顔でおっしゃられた言葉が忘れられません。「先生、大変ですが、本当に生きてるって実感がしますね」。そのコンサートを通して、またその後Iさんのお宅で家庭集会を始めたことがきっかけで、やがてIさんは福山ルーテル教会に転入されることになりました。Iさんはその後しばらしくして胃ガンを発病し、1990年7月に55歳で神さまのみもとに召されて行かれました。

I・Kさんは、自分に背負わされた十字架にも関わらず、否、十字架を背負えばこそでしょう、人々の背負っている苦しみや悩みを思いやることができた。そして困っている人の悩みを自分のことのように受け止め、一緒に背負おうとされたのだと思います。私にとっては忘れることのできないご生涯でした。

また、Iさんを通して私たち夫婦は多くの出会いを与えられました。例えば、岡山の長島というところにある邑久光明園というハンセン氏病の療養所にIさんのペンフレンドを訪ねたこともありました。「人間回復の橋」が1988年5月に完成した直後です。Iさんは周囲にいる人の心を開く不思議な力をもっておられました。太陽のような輝きと温かさをもっておられたのです。キリスト教なんか大嫌いだと言っておられたご主人も結局、奥様の死を通して、「教会は天国に一番近いところだから、あなたも洗礼を受けて礼拝に通ってくださいね」という遺言の通りに洗礼を受けてゆかれました。

社協でボランティアをしておられたIさんの友人MさんもIさんとの出会いを通して大きく変えられた方でした。Mさんは自らマザーテレサのところにゆくような行動力の持ち主でしたが、洗礼を受け、るうてるホームで働かれた後、今では福山教会の中心メンバーとして働いておられます。私自身もIさんとの出会いを通して大きく育てられたように思います。I・Kさんこそ「人間をすなどる漁師」だったのです。

漁師であるペトロを「あなたを人間をとる漁師にする」と言われたイエスさまは、大工には「あなたを人間を建てる大工にしよう」と言い、教師には「あなたを人間を育てる教師にしよう」と言い、医者には「あなたを人間を癒す医者にしよう」と、主婦には「あなたを人間をおいしく味付けする主婦とする」と言ってくださるのだと思います。一人ひとりが生きて輝くように私たちを神さまに向かって、神さまの光の中へと召し出してくださるのです。

このような人生の大きな目標を見出すことができる者は幸いであります。イエスさまと出会うことによって、私たちの日常生活のすべてが神さまの光の中で輝いているということに気づかされる者は幸いであります。主に従うことの中で私たちは笑顔の中に本当にかけがえのない今を生きてるという実感を持つことができるのだと思います。

主は言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」「わたしに従ってきなさい。わたしがあなたがたを人間をとる漁師として輝かせよう。」

主がお一人おひとりの上に臨まれて、神さまの恵みの光が注がれ、私たちの命が輝くことができますようにお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年1月22日 顕現節第三主日礼拝説教)

説教 「弟子たちの沈黙」 後藤直紀神学生

マルコによる福音書 9:30-37

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「人の心の中から」

わたくしたちが普段生活をしておりまして、いやだなあと思うことが多くあります。会話の中で、いやなことを思い出すような言葉を耳にして気が重くなることや、あまりふれたくない話題が持ち上がって「ああやだなあ」と思わされることがあります。わたしたちは皆悩み事や抱えている問題があります。せめて教会に来るときぐらい、いやなことを忘れたいとお思いになって礼拝にこられる方もいらっしゃるかも知れません。あるいは、避けて通るわけにはいかない現実問題を抱えて、この現実に対処していくための力を与えられたく、礼拝にいらっしゃる方もおられるかと思います。見たくないものから目をそらす、あるいは恐いものを避けて通る、これはわたしたちの自然の在り様であります。今日の聖書の箇所でも、イエスが言われたことを理解できず、恐れるあまりそのイエスの言葉の意味を質問できないでいる、深くつっこめないでいる、そういう弟子たちの姿が映し出されています。イエスはこう言われました。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」。今まですべてうまく行っていた主イエスの宣教活動、いやしの業、それらの栄光に満ちたメシアが、やがて無残にも殺される運命にあるなどと弟子たちは考えられなかったのであります。弟子たちはこの言葉が分からない、怖くて尋ねられなかったとあります。「まさか主よ、本当にあなたは死ぬのですか」そう尋ねることを恐れた弟子たちは、自分たちには信じられない事柄、理解できない事柄から目をそらし、沈黙するしかないのでありました。

さて、カファルナウムまでの道すがら、さっきまで沈黙していた弟子たちは口を開き始めます。歩きながら弟子たちは互いに論じ合っていたわけですけれども、しかし弟子たちの言葉はここでは一言も並べられておりません。けれども、その議論は相当激しく行われたものと思います。そのやかましい議論の声はイエスの耳にも聞こえてきたはずだからであります。家に着いてから、イエスが弟子たちに問います。「途中で何を議論していたのか」。弟子たちは黙っています。彼らが何も言えなかったのは、自分たちの中で誰が一番偉いかを論じ合っていたからであります。それはあたかも、イエスが言われていた「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」という言葉を自分たちの意識から振払うかのごとく、自分たちの事柄に没頭していたのであります。当然彼らは自分たちが話していたことをイエスに知らせることはできません。誰が一番偉いかと論じ合っていた、そのような自分たちの姿を、イエスに知られたくないと思ったからであります。見たくないものから眼をそらし、そして知られたくないことについては沈黙を守る。誰が一番偉いかということについてはあれほど熱く語っていたにもかかわらず、イエスにそのような自分たちの恥ずかしい姿を知られたくないと、ここでも弟子たちはただ沈黙するだけなのであります。

見たくないものから目をそらし、そして知られたくないことを口にしない弟子たちの姿が、わたしたちの姿と同じなのかも知れません。自分の理解を越えた事柄に遭遇して何も言えなくなってしまう沈黙、また、恐れるあまり主に何も問いかけられない沈黙、あるいは、誰が一番偉いかという自分たちの世界に没頭していて主のことなど忘れてしまっているその主に対する沈黙、そして主からの呼びかけに対して心を閉ざさざるを得ない沈黙、そのような弟子たちの姿がここで見えてくるのであります。けれども、そのような弟子たちの沈黙に対して、イエスは自分も沈黙して弟子たちに相対する、そのようなお方ではありません。その弟子たちの沈黙の中に、主の声が響き渡るのであります。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。

弟子たちが論じ合っていた誰が一番偉いかという事柄は「競争の世界」であります。上へ上へと昇り詰めようとする世界、そして誰が一番で誰が二番か、それを決定させる世界です。イエスは弟子たちが競争の世界に生きていることを知っています。イエスは彼らの一番偉くなりたいという欲求を認めたうえで、「一番偉くなりたいと思うなら一番あとになりなさい、一番ビリになりなさい」と言葉をかけているのです。一番あとになること、これは解放の言葉であります。一番になるために走っているゴールを目指すその競争において、「走らず、歩きなさい」とイエスは声をかけ給うているからであります。みんなが走っているのにひとり歩けばビリになるのは当たり前です。過酷な競争社会にあって、あえて自分はビリになる、急がずただゆっくり歩きなさいと弟子たちを促しているのであります。

ゆっくり歩いていると普段目に留めないものが見えてくる、そういうことがよくあるかと思います。ここでイエスは一人の子供を弟子たちの真ん中に立たせます。今の世の中では子供は大事にされていますが、当時のイスラエルは厳格な男性中心の社会であり、子供といえば、非人格的といいましょうか、一人の人格として認められていない存在でありましたから、社会的に取るに足らない者であった子供に目を留めて、自分のもとに引き寄せるなどという行為はおおよそ信じられないものでありました。子供は女性たちと共にいるものであり、男性が子供にかまっていようものなら「何遊んでいるんだ」と非難されてしまう、そういう社会だったのであります。イエスは「すべての人に仕える者になりなさい」と言葉をかけています。「すべての人」そこには子供も含まれています。普段目にも留めない子供の手をとって、弟子たちの真ん中に立たせ、イエスはその子供を抱き上げます。それはあたかも、普段見ようともしないものに目を向けなさい、そう言っているかのようであります。イエスは言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。「わたしの名のために」という表現は「イエスの名において」あるいは「イエスの御名によって」という意味です。取るに足らない小さな者をイエスキリストの名において受け入れる、本来は目にも留めない存在に仕えていく、そうイエスは弟子たちに語りかけ給うのであります。これは競争社会の中で一緒に競争をしていたら決して見えてこないことであります。子供にかまっていて、もたもたしていては一番になれないからです。走って競争している中、ひとり歩き始めて、そして普段は目を留めない子供を見つけ、手を差し伸べる。イエスはこう言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。その子供を受け入れる者はイエスを受け入れている、つまり、競争して一番上に昇り詰めようと走っている足を止め、自分が今手を差し伸べている、その先にはイエスがおられるということです。イエスはそのような子供と自分を同じ位置に置いています。自分を取るに足らない者とみなしている、つまり、イエスは自分と子供はひとつである、あなたが受け入れるその子供はわたしなのである、そう言っているのであります。「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる」。あえてその取るに足らない小さな者に目を留め、受け入れ、そして仕えなさいとイエスは語られています。子供がいるそこにイエスがおられる、普段目を留めないところにイエスがおられる、一番になろうとしている競争社会の中で走っている足をゆっくりにし、そこに見えてくるイエスにふれる…今までの生き方では見えて来なかったイエスにわたしたちは気づかされるのであります。

人の生き方を、イエスはよく見ておられたと思います。上に昇ろう昇ろうとする生き方、一番になろうとする生き方。それは人間にとって本質的な生き方ではない、そうイエスは言っているのではないでしょうか。上に昇ろう昇ろうとし、一番になろうとするところに行き詰まりがある、見えるものが見えて来なくなる、一番偉くなろうとしているその時、小さいものが見えて来なくなる、いや自分自身さえも見えなくなってしまっている…イエスはそう教えているように思います。

今日の聖書の箇所において、イエス自身、神の子であるのにこれから一切の栄光を捨てて、十字架の道を、神の栄光から下へ下っていく道を歩もうとしていました。一方弟子たちは一番偉い者へと自分が上へ上へと昇り詰める道を求めていました。一番偉い者になろうとするその道にはイエスはいない、上へ上へと昇り詰めた頂上にはイエスはいない。むしろ、十字架の道に、すべての人のあとになって一番ビリになっているそこにイエスはおられる。十字架につけられ、激しい痛みと苦しみの中で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言って息を引き取った、その人間存在のもっと低く、悲しいところにイエスはおられるのであります。

現実にわたくしたちが抱えます問題をもう見たくない、現実として受け止めたくないと思う気持ち、そして見たくないものから目をそらす、あるいは恐いものを避けて通る、そのような姿がわたしたちの自然の在り様であると最初に述べましたが、今日の弟子たちの沈黙の中に語られたイエスの言葉は、そのようなわたしたちの現実の姿に対して、わたしたちが目を留めないところにこそイエスがおられ給うということを教えています。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」。弟子たちはそこから目をそらし沈黙せざるを得なかった、誰が一番偉いかと論じ合っていたその恥ずかしい姿を知られまいとして黙ることしかできなかった。けれども、イエスが語られる真実の言葉の中にこそ、イエスがおられ給う。そして「競争の世界」の一番うしろの取るに足らない小さな者の姿の中にイエスがおられ給う。イエスの名において子供の一人を受け入れる者はイエスを受け入れる。そして、イエスを受け入れる者は神を受け入れる。普段目を留めないところにイエスがおられ、そこに神がおられる。これこそ、弟子たちの沈黙の中に、そしてわたしたちの沈黙の中に響いているイエスの言葉なのであります。

祈り

祈りましょう。

愛しまする天のお父様。わたしたちは問題を避けて通るために、あるいは避けて通るわけにはいかない現実問題に直面して、ただただあなたの力にすがるようにして今ここに集うています。主よ、わたしたちが沈黙するしかできない状況にあってもなお、あなたが声をかけてくださり、普段目を留めないところに御子イエスがおられ、あなたがおられることを信じることができますように。そしてどうぞ、わたしたちの直面しています現実問題を乗り越えて行く力を与えてくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年9月28日 聖霊降臨後第16主日礼拝説教)

説教 「イエスの衣に触れられたなら」 後藤直紀神学生

マルコによる福音書5:21-43

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

必死の思い

湖のほとり、イエスのもとには群衆が押し寄せています。イエスは各地でいろいろな病気にかかっている人々をいやし、神の福音を宣べ伝えていました。群衆の中、一人の男性の存在がひときわ人目につきます。ヤイロという名の会堂長であります。裕福で社会的地位のある会堂長ヤイロは、必死の思いでイエスのもとへと来ました。病にある彼の幼い娘が死に直面しているのであります。娘に手を置いていやしてほしいとヤイロがイエスに頼みますと、イエスは彼と共に、その娘がいる家へと向かいます。

群衆にもまれながら進み行くイエス。イエスの頭の中には、死ぬか生きるかの状態にある娘の姿が映っていたに違いありません。その瞬間、イエスは特別な感覚を身体に感じました。自分の身体から「力」が出て行ったことを感じたのです。たくさんの群衆、人々と肩と肩とが触れあう状態にあったイエス。・・・ 彼は「誰かがわたしに触れた」と言いました。イエスに触れたのは、一人の女性でありました。この女性は十二年もの間、出血が止まらない病気に苦しみ、その上その病のゆえに社会から「汚れた者」と見なされていました。彼女は汚れた者、罪人として扱われ、社会的にも見放されていたのです。彼女は群衆の中に紛れ込み、イエスの後ろの方に近づいて来て、そっとイエスに触れました。イエスの素肌ではなく服に触れました。服に少し触れただけなのに、イエスは誰かが自分に触れたのを感じ取ります。自分の中から「力」が出て行ったことに気づいて、それで、誰かが自分に触れたのを知ったのであります。

自分に触れた者を捜そうと辺りを見回すイエス。イエスは会堂長の娘のもとへ行く足を止め、立ち止まっていたことでしょう。イエスに触れた女性は、自分の病がいやされたことを身体に感じて恐れをいだきました。十二年もの間、苦しみ続けてきた病を一瞬にしていやすお方を前にして、この女性はただ恐れたのでありました。彼女は震えながら、イエスの前に進み出ます。そして、自分が十二年間病気で苦しんできたこと、この病のゆえに社会的に孤独な生き方を余儀無くされたこと、すがる思いでイエスのもとへ来て、イエスの衣に触れることさえできれば、いやされると信じたこと、そして実際にイエスの服にふれたことなどを、すべてありのままイエスに話したのです。イエスはじっと彼女の話に耳を傾け、すべてを聞いたのち、彼女に言いました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」。

「あなたの信仰があなたを救った」

「信仰」が彼女を救った。そうイエスは告げています。しかし、彼女の病を実際にいやしたのは、イエスのもとから出た「力」ではなかったでしょうか。イエスのいやしの業は、神の子としての「神の力」をもってなされました。しかし、イエスは彼女に対して「わたしの力があなたを救った」とか「わたしのもつ神の力があなたをいやした」とは言いません。イエスはあくまで、相手の「信仰」がいやし(救い)を受けさせたのだ、そう告げるのであります。自分の身体から「力」が出て行ったことを感じたイエスは、服に触れた者を捜しつつ、群衆の中にひときわ光る彼女の「信仰」を見つけようとしました。

人間の手には負えない病、全財産を費やしても治らない病気、自分の力でいくらがんばってもどうしようもできない現実、いつかは何とかなると信じても実際にはなかなかよくならない現実。・・・ そのような現実に生きていたその女性は、まさに自分の十字架を背負って生きて来た、そう言ってもいいかと思います。

自分の十字架とは、自分が経験している現実の苦しみや悲しみ、痛み、寂しさ、孤独など、自分には受け入れがたいこと、自分ではどうしようもできないこと、自分では変えられないことを意味します。その自分の十字架を背負って生きる、現実の苦しみや悲しみを生きる。・・・ その彼女の背負っていた十字架はあまりにも重すぎるものでした。

信仰~神の憐れみのみ業

イエスの衣に触れた女性は十二年もの間、病に苦しみました。おそらく大きな痛みをともなう病気だったのでしょう。そして病気の痛みと共に、社会的にも「汚れた者」としてつま弾きにされて孤独に苦しんでいました。十二年もの間、治らない病気・・・。普通だったら諦めてしまうことでしょう。十二年、その長過ぎる年月は彼女を諦めへとは導きませんでした。多くの医者にかかって、全財産を使い果たすほど、病気を治そうと彼女はがんばりました。

苦しみと孤独の中に生きていた彼女、病気のために全財産を使い果たしたこの女性は、人々の目から見れば「汚れ」と「罪」以外は何も持っていませんでした。その女性のうちに沸き上がった思い、それは、「病気がいやされたい。けれど、もう自分には何も残っていない。ただ、この手がイエスの衣に触れたなら、いやされる」そういう思いでありました。その彼女のうちに秘めた思い、「この病は自分の力ではどうにもならない。けれども、イエスの衣にでも触れたなら、いやされる」その彼女の思いを、イエスは信仰と呼んだのです。

この信仰は、病気を治そうと医者にかかり全財産を使い果たしてしまった彼女のうちに神が与えてくださったものと言えましょう。人はすべてを失った時に、神の憐れみを求める。今や何も持っていないこの女性の心のうちに神が働いてくださり、信仰を興してくださった。イエスの衣に触れたなら、いやされる」という信仰を与えてくださった。まさにイエスの衣に手を触れることによって、この十二年間出血の止まらない女性は「主よ、憐れんでください」そう告白したのです。すべてを失って、もう自分ではどうしようもないとき、ただ「主よ、憐れんでください」と告白する、イエスの衣へと手を伸ばす。・・・ そしてイエスは、自分の衣に触れるその女性の手から、彼女の味わって来た苦しみ、悲しみ、痛み、寂しさ、孤独、それらすべてを感じ取ったのだと思うのです。そしてイエスはその彼女の味わって来た苦しみ、悲しみ、痛み、寂しさ、孤独をすべて受け止めてくださったのです。

自分の病気が一瞬にしていやされ、この女性は恐れを抱き、ふるえながらイエスの前に進み出て、今まで重かったその口を開き、イエスに語り始めました。すべてをありのままに話すこの女性に対して、イエスはじっと彼女の話に耳を傾け、彼女の語るすべてを聞いて、すべてを受けとめたのち、イエスは彼女に言いました。「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。このイエスの言葉は、「その信仰を大切にして安心して生きるように」という励ましの言葉に聞こえてきます。彼女は、病がいやされたとともに、社会的な差別からも解放されて、再び社会の中の一員として生きるようにされました。このイエスの言葉によって、彼女はその信仰を大切にして安心して生きるようになったとわたしは思います。

わたしたちもまた

わたしたちもイエスにすがる思いで、礼拝の場であるこの会堂に辿り着きます。そしてイエスの衣に触れようと手を伸ばすような思いで礼拝に与ります。この礼拝において、イエスは今ここで、会衆席に座るわたしたちを見向わし、わたしたちの信仰を見い出し、わたしたちに、その信仰を大切にして安心して生きるよう呼びかけています。

わたしたちの現実の苦しみ、そして痛みは取り去られないかも知れません。「イエスの衣に触れることさえできれば」という、わたしたちの心の叫びも、この苦しい現実からの解放をもたらさないかも知れません。しかし、イエスの言葉「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」という、この言葉を信じて、信仰によってこの救いが実現することを信じて、これからもイエスにすがり続けて歩んで行きましょう。祈りましょう。

祈り

愛しまする、天のお父様。あなたは、群衆の中に小さく光る、信仰をちゃんと見て取ってくださいます。わたしたちに与えられた、あなたを信じる思いを、あなたにすがる思いを、しっかりと感じ取ってくださいます。あなたの憐れみ、慰めを心から感謝いたします。これからも、あなたにすがって生きることをゆるしてくださいますように。わたしたち一人ひとりに、信仰を大切にして生きるようにと、励ましてくださるあなたに今週もわたしたちが捕らえられて、生きることができますように。自分ではどうしようもできない現実、自分の力では変えられない現実を生きる勇気を与えてくださいますように。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年7月27日 聖霊降臨後第7主日礼拝説教)

説教 「新しい言葉を語る」  大柴譲治牧師

マルコによる福音書 16:09ー18

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「事実」と「真実」

イースターおめでとうございます。主はここにいまさず!主の墓が空っぽであったことをマルコ福音書16章は告げています。しかし、お気づきになられたでしょうか。実は、本日の日課である9節から20節までは「結び一」と題され[](括弧)に入っています。つまり、この部分は後の時代に付加されたと考えられる部分なのです。マルコ福音書は本来は8節、墓が空っぽであった報告で終わっていた。そこに、復活の主のマグダラのマリアと二人の弟子たちへの自己顕現、11弟子の全世界への派遣、昇天といったことが加えられていったのです。このことは何を意味しているのでしょうか。本日は17節の「新しい言葉を語る」という言葉を心に留めながらみ言葉に聞いてまいりたいと思います。

なぜ9節以下が付加されたのか。それは教会が「空の墓」以外の、それ以上の結びを必要としたということを意味しています。16章が8節で終わるとそこにはどうしても話が途中で終わったという印象が残ります。ふさわしい結びとは言えない。比喩的に捉えるなら、私たちの人生にもやはり結びが必要ということにもなりましょう。「主の墓が空っぽだった」という事実だけでは終わることができないのです。

遠藤周作は「事実」と「真実」を区別しつつ次のように語っています。「空っぽの墓というのは歴史的な事実であり、歴史学はそこまでしか証明できない。しかし復活とは、たとえ事実とは言えなくとも、弟子たちの心の中にキリストがよみがえったという信仰的な真実である」。復活のキリストを科学的に証明することはできません。それは人間の理性によって把捉可能な範囲を超えています。この中にはパウロのように直接復活のキリストと出会った人もいるかもしれませんが、私たちの多くは間接的に復活の主と出会っている。つまり、信仰の先達との出会いを通して復活のキリストを信じる者へと変えられてきたという経験を持っていると思います。

理性には限界があって、そのような限界を超えるものを思惟しないということを明確にしたのが哲学者のカントでした(『純粋理性批判』)。理性の働きは疑うということなのです。神の受肉にしても十字架にしても復活にしても、私たちは理解できないことをただ信じるのです。その意味では8節の「空の墓」から9節以降の「復活のキリストの自己顕現」にジャンプする、その間にある深淵こそが大切になります。初代教会はそのところを強調したかった。そして理性で把握できない「結び」、信仰によってしか受け入れられない真の「結び」を明示したのです。それはそれまでに一度も語られたことのない全く「新しい言葉」でした。

「使徒の中の使徒」マグダラのマリア

マルコとヨハネ福音書には、復活の主が最初にご自身を表されたのがマグダラのマリアであったということが記されています。マタイ福音書では、復活の主が「おはよう」と言ってご自身を示されたのはマグダラのマリアともう一人のマリアだったと記しています。ヨハネ福音書では、主イエスが「婦人よ、なぜ泣いているのか?」とマグダラのマリアに問い掛けると、彼女は復活の主に気づいて「ラボニ(先生)」と呼びかけていると記しています。

マグダラのマリアは、本日の日課でもルカ8:2でも、「七つの霊を追い出していただいた婦人」と説明されています。彼女はガリラヤ湖西岸のマグダラ村(ティベリアスの北5キロの地点)出身の女性で、現代で言えばおそらく統合失調症(分裂病)かてんかん、または躁うつ病と診断されるような精神的な疾患でひどく(「七つの霊」!)苦しんでいたのを主によって癒された婦人でした。

当時十字架刑の場合には、埋葬はおろかその者のために悲しむことも禁じられていたようです。「処刑された者の死を悼んで公然と泣いた人々は(婦人や子供も含めて)同様に処刑された」とある註解者は説明しています(ドロテー・ゼレ、『聖書の中の女性たち』、同朋舍出版、1994、P278)。男性の弟子たちが恐れおびえてどこかに隠れていたまさにその時に、マグダラのマリアはそのような危険を冒してイエスの墓に出向いている。マリアはイエスをすべてを尽くして仕えたのです。その意味で、アウグスティヌスはマグダラのマリアのことを「使徒の中の使徒」と称賛しています。マリア自身もイエスの十字架の死に深い悲しみを味わっていたことでしょうが、その悲しみの中にじっと踏み留まり続けたのです。現実においては多くの場合、女性は男性よりも大胆に、悲しみや絶望の深みに踏み留まる勇気と忍耐、そして精神的な強さを示すことができるように思います。

復活を信じられない心のかたくなさ

復活の主の最初の証言者となったマリアはイエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行ってこのことを知らせました。しかし彼らは、「イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(10節)。男たちの心はかたくなだったのです。続いて、復活の主は二人の弟子たちにご自身を示されますが(ルカ24:13-35も参照)、それでも他の弟子たちは主の復活を信じようとしません。それは無理もありません。復活とは本来人間の思いや理性や期待を越えたところにあって、それまで一度も人間が聞いたことのないような「ありえない」出来事だったからです。

14節には「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」とありますが、「不信仰とかたくなな心」というのはまさに私たちの現実を表していましょう。ヨハネ福音書20章に出てくる疑いのトマスではないですが、私たちのかたくなさを外側から打ち砕き、信じない者から信じる者へと変えてくださるのは復活の主ご自身の働きであります。

そして主を信じる者は全世界に派遣されていきます。「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』」(15節)。「全世界」というのはどこか遠いところを指しているのではなく、私たちの現実の身近にある日常生活のことを指していましょう。この新しい「結び」は全世界のためでもあったのです。

不信仰即信仰

16節の「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」という言い方は、事柄としてはその通りであると思います。しかし、この言葉を私たちが聞くとき、私たちは自分が本当に信じているだろうか、滅びに定められているのではないだろうかと不安になるのではないでしょうか。自分の信仰に自信を持っている人はおそらく私たちの中にはいないでしょう。いつも迷ってばかりいる自分、いつも壁にぶつかったり、確信が持てずに疑ってばかりいる自分の弱さと不信仰とを私たちは知っているのです。しかしイエスさまは、十分にそれらを知った上で弟子たち(私たち)に臨まれている。復活の主が向こう側から近づき、ご自身を示してくださる時に、信じることができずにいた者が信じる者へと変えられてゆくのです。

私たちの側の心のかたくなさが打ち砕かれるというのは自分の決断如何によるのではありません。人間の心の高慢さ、かたくなさが打ち砕かれるのは100%、神さまの側からの恵みのみ業です。2コリント12章でパウロは「自分の弱さを誇ろう」と言っています。まことに不思議なことなのですが、私たちの弱さの中にこそキリストの強さ、キリストの愛の力が働くというのです。誇る者は主を誇る。そこから考えますとき、復活の主が私たちに向かって「世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられるときには、逆説的な言い方ですが、私たちは私たちの弱さにおいて働くキリストの力を宣べ伝えるよう召されているのだと思います。そこでは弱い者がそのままで用いられてゆくと宣言されていると言ってもよいでしょう。

17-18 節には信じる者には次のようなしるしが伴うと告げられています。「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」。私たちは悪霊を追い出すこともできなければ、新しい言葉を語ることも、手で蛇をつかむことも、毒を飲んで害を受けずにいることも、病人に手を置いて治すこともできないでいます。困難の中に置かれると自分が復活のキリストを信じて洗礼を受けたことをも忘れてオロオロしてしまう以外にない。しかし聖書は語ります。信仰を授かった者は弱いときにこそ強いのだと。

パウロのこの言葉を注意して理解したいと思います。弱さの後に強くなるというのではありません。弱いときにこそ強い、弱さのただ中で強いとパウロは言う。弱いということと強いということが信仰においては同時に起こるということです。これは不思議な同時性です。「義人にして同時に罪人」とルターは言いましたが、「弱さ即強さ」「不信仰即信仰」なのです。弱さを誇ることが福音を誇るということ、弱さを恥じないということが福音を恥としないということなのです。復活を信じることができなかった者がそのままで同時に復活を信じる者へと変えられてゆく。これが「わが恵み汝に足れり」と言ってくださり、私たちの弱さの中に完全に働くキリストの力なのです。

「悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」とありますが、この言葉(福音、復活の主キリストを信じる信仰)の新しさとは、信仰においてはそのような弱さと強さが同時に起こるということ、弱いままで強いというそのような存在の新しさを新しい言葉でもって伝えてゆくということにあるのではないでしょうか。復活のキリストが私たちと共にいてくださるというキリストのリアリティーが私たちを弱いままで強くしてくださるのだと信じます。それが「安心してジタバタして死んでゆける」ということなのではないか。マルコ福音書に16:9以下が付け加えられていったのも、そのような私たちの弱さに働くキリストの力を明確に示すためだったのではないかと思えてなりません。そしてそのことは私たちが自らの人生において、日常生活において、日ごとに味わってゆくべきことなのです。

悲しみや病いや行き詰まりの中にある者たちに、復活の主イエスご自身が私たちを通して新しい言葉を語ってくださいますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年4月27日 復活後第一主日礼拝説教)

説教 「歓声が罵声に変わっても」  松岡俊一郎牧師

マルコによる福音書 11:1ー11

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

人間の期待

私たちは願いや期待がかなえられるとき、喜びや満足を感じます。そしてそのときが幸せなことと思います。しかし、私たちの願いや期待がかなえられたら、その次の瞬間、私たちには新たな願いや希望、期待が生まれてきます。思いや欲望は際限なく膨らんでいき、その意味で完全に満たされる幸せはいつになってもつかむことが出来ません。いつも不足があり、不満足があり、幸せの一歩手前だからです。それでは完全な幸せはいったいどこにあるのでしょうか。

今日は枝の主日、棕櫚主日です。福音書の日課が示すイエス様がエルサレムに入られたときの記事に目を留めたいと思います。

イエス様の一行がエルサレムに近づかれたとき、イエス様は二人の弟子に「向こうの村に行きなさい。村にはいるとすぐ、誰も乗ったことのない子ロバのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れてきなさい。もし誰かが『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と、言われました。弟子達が行くと、はたしてその通りになりました。そしてそのロバを連れていき、ロバの背に自分たちの服をかけ、イエス様に乗っていただいたのです。

このようにしてエルサレムに入って来られたイエス様を、人々は歓声もって迎えました。ある者は自分の服を道に敷き、ある者は棕櫚の葉を振りかざしながら、喜びと興奮をもって迎えたのです。それは彼らがイエス様に、ローマの支配から自分たちを自由にする革命家としての働きを期待したからでした。イスラエルは旧約聖書に繰り返し解放されると預言が書かれているにもかかわらず、ユダヤ民族は選ばれた民と約束されているにもかかわらず、長い間様々な国によって支配し続けられていたからです。その苦悩のゆえに、少しでも力のある人、特別な人を見つけだすと、この人こそ自分たちを、支配者と闘い苦悩から救い出してくれると信じたのです。しかしそれにしても変です。もし強い革命家を期待するならば、英雄であるならば、どうしてロバ、それも子供のロバなのでしょうか。民衆はそのことには、気づきません。そんなことはどうでもいいのです。彼らにとって大切なことは、自分たちを解放してくれる、自分たちの期待に応えてくれるそれだけで充分なのです。そのための歓迎であり、そのための歓声なのです。

ロバに乗った王

この場所オリーブ山沿いのベトファゲ、ここはエルサレムの城壁のすぐ脇です。何も今更乗り物を必要とする場所ではありません。しかしイエス様はあえて重い荷物を黙々と耐えながら運ぶロバを選ばれます。世の権力者達が勇ましい軍馬を求め、これ見よがしに華麗さを表す白馬を求めるのとは対照的に、イエス様は小さく、弱々しく、時には愚かとさえ思われるロバを求められます。イエス様がロバを求められた理由は、ゼカリア書9:9-10に書かれている平和の君としての姿を証しするためでした。

「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」

救い主が平和の君として人々の所に来られる。それも人がイメージする優雅さや力強さをもってではなく、柔和で、弱い姿で、貧しい姿をとってこられるのです。神様は戦車や、軍馬、弓などの闘いの道具を用いた力で人々を支配されるのではなく、悩む者、悲しむ者、弱い者、貧しい者、虐げられた者、苦しむ者と共に生き、それらを引き受ける愛をもって支配されるからです。ここにイエス様がロバに乗って来られた意味があるのです。

イエス様には自分を革命家として歓迎してもらう気持ちは更々ありませんでした。イエス様が望まれたことはご自身によって神様の本当の愛の支配が始まり、これこそが人にとって真実の救いであり、これを信じることが完全な幸せの始まりであることを証ししたかったからでした。力はその瞬間、あるいはその時代にはすべてのものを制圧し、支配します。しかし、次の瞬間、次の時代には新たな力が起こり、今までの支配と栄華は見る影もないのです。私たちは今日の戦争においてそのことをまざまざと見せつけられています。まさにそれは私たちの欲望の姿でもあります。

愛による支配は、弱く、その瞬間瞬間は全く力をもたないように思えます。しかし、愛による支配こそが、時代を超えて、普遍的に人々を救いと喜びへと導くのです。人の心に本当に必要なもの、人を人として生かすもの、人と人との間に平和をもたらすもの、それが愛だからです。民衆はそれに気が付きません。歴史の中で、次々に列国に支配されながらも、力のむなしさを目にしながらも、新たな力にすがろうとしたのです。イエス様にも力による解放を期待したのです。

歓声が罵声に変わっても

しかしこの人々の期待は裏切られます。イエス様はそのような方としてはおいでにならなかったからです。そして彼らは自分たちの期待がかなえられないと知ったとたんに失望し、態度を翻し、イエス様を歓迎するその叫びは、十字架につけよとの罵声に変わっていくのです。ここに人の身勝手さを嘆かざるを得ません。

私たちは最近この瞬間をも目の当たりにしました。現在のイラク戦争のなかでアメリカがバクダットを陥落したと言う報道をつい先日目にしましたが、あれほどフセイン大統領を賛美し、彼のためなら死ぬと豪語していた国民が、一夜明けたらフセインを罵りアメリカを賞賛しているのです。確かにフセインの恐怖政治によって自由な発言が出来なかった、もし批判でもしようものなら処刑されてしまうという状態で、フセイン賛美以外の言葉が発せられなかったと言われていますからイラクの民衆をそのことで避難するつもりはありませんが、あの変わり様には人の心、人の本質のようなものを見せつけられました。

今日の日課においてイエス様がエルサレムに入場されるとき、人々はホサナと叫びつつ、イエス様を歓迎しました。しかし、イエス様が捕らえられ裁判にかけられた途端に、人々の声は「十字架につけよ」との声に変わっていくのです。まことに嘆かわしい人の姿であり、私たちの姿です。

しかし、歓声が罵声と変わるこの瞬間こそが、実は人々にとって救いの時であったのです。イエス様の願いは、ご自身が神の子として力をふるい、栄光を得るためではありませんでした。使徒書の日課が「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」と語るとおりです。

イエス様の十字架は人の罪の故に他なりませんでした。本来人は神様から愛され、人も神様を愛すべきであったにもかかわらず、人は神を神と思わず、自分自身を神とすることによって、その本来あるべき健全な関係を壊してしまったのです。つまり罪の責任は私たち人にあるのです。しかしイエス様は、人の罪、私たちの罪を糾弾することはされませんでした。罪の責任を私たちに求めることをなさいませんでした。それでは神様に対して罪を犯した人間にはその関係を回復する力がないからです。人の力では救いが実現しないからです。むしろイエス様はご自身を十字架にかけ、罪の赦しの犠牲の子羊として捧げ、人々がもう一度心から神様を信頼し深く結ばれ、そこから真実の喜びと平和を得ることを心から願われて、そのためには、どんなに人々の期待を裏切ろうとも、罵声を浴びようとも、身をもって救いの実現のためにささげられるのです。このイエス様の深い愛と真実があるからこそ、私たちも救いを得ることが出来るのです。イエス様の十字架の死による罪の赦しこそ、私たちにまことの平安と幸せをもたらすものです。

今週、私たちは受難週を過ごし、次週の日曜日には復活祭を迎えます。私たちもイエス様の十字架に込められたこの真実に気づき、求め続けたいと思います。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年4月13日 枝の主日礼拝説教)

説教 「わたしの杯が飲めるか」  大柴譲治牧師

マルコによる福音書 10:32ー45

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

長渕剛『乾杯』

先日(3月7日)、ルーテル学院大学・神学校の卒業式に参加しました。夜、中近東文化センターの地下三階にあるホールで謝恩会が開かれ出席いたしました。三鷹教会員の中村克孝先生が学生たちのリクエストにより長渕剛の『乾杯』を歌ってくださいました。中村先生はその曲を私が神学生の頃から歌っておられましたから、もう20年以上も卒業式で歌い続けてこられたことになります。3月は卒業式や新しい旅立ちの時でもあり、それにふさわしくもまた味わい深い歌詞ですので少しだけご紹介しましょう。

かたい絆に 思いをよせて 語り尽くせぬ 青春の日々
時には傷つき 時には喜び 肩をたたきあった あの日
あれから どれくらいたったのだろう
沈む夕陽を いくつ数えたろう
故郷の友は 今でも君の 心の中にいますか

乾杯! 今君は人生の 大きな 大きな 舞台に立ち
遥か長い道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ!

(『乾杯』 作詞・作曲:長渕剛)

本日は「わたしの杯が飲めるか」というイエスさまの言葉に焦点を当ててみ言葉に思いを馳せたいと思います。今はレント(四旬節)、主の十字架の歩みを覚える期間です。先取りして言えば、イエスさまは私たちと祝福の杯を交わすために十字架へと歩んでくださったということに思いを馳せてゆきたいのです。主は私たちの人生を祝福するため、「乾杯! 今君は人生の 大きな 大きな 舞台に立ち 遥か長い道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ!」という切なる祈りをもって十字架の道を歩まれたということを覚えたいのです。

「誰が一番偉いか」

時は主イエスの三度目の、そして最後の受難予告の直後。このエピソードはいかに弟子たちが主イエスについて無理解であったかということをよく示すエピソードでもあります。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とイエスは語りますが、ヤコブとヨハネに限らず、イエスの周囲にいた弟子たちのすべては自らの期待するメシア像をイエスに投影して疑わないでいます。彼らの期待するメシア像とは、あの父祖ダビデのように、力をもって彼らをローマ帝国の縄目から解放し、統一イスラエル王国を再建してくれるようなスーパースターです。イスカリオテのユダの視点から描かれた映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』というロックオペラを思い起こします。彼らはそのような力あるスーパースターであるメシアを求めた。十字架の上に無力な恥をさらすようなメシアではないのです。そしてヤコブとヨハネとはそのスーパースターの力に充ちた一番弟子・二番弟子たる地位を求めたのです。

「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」「何をしてほしいのか」「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。実はこの野望はヤコブとヨハネ二人だけのものではありませんでした。この出来事の直前の、マルコ9:33ー37にも12弟子が誰が一番偉いかをイエスに隠れて議論していたと記されています。誰が一番偉いか。実は私たちは私たちの日常生活の中で大問題だということを知っています。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」。これは福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の言葉ですが、天を見上げることの乏しい私たち人間は、誰が誰の上で誰が誰の下であるということに必死になっているようなところがあります。しかし、本当の私たちの生命の輝きはそのようなところにはないことを主は明らかにしているのです。そのようなことはあなたがたの命のためには大きな問題ではない。問題は、私の杯を、キリストの杯を飲めるかということなのだ。換言すれば、私たちの命(人生)は主から与えられる杯にかかっているということです。そこに私たちの本当の生命が輝く場所が備えられていると聖書は告げているのです。

共に主の杯を飲んだヤコブとヨハネ

右と左に座らせてくださいと願い出たヤコブとヨハネに(彼らはマルコ3:17では「ボアネルゲス(雷の子ら)」と呼ばれています)、イエスは問いかけます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と。彼らは喜んで「できます」と答えました。おそらく彼らは主が差し出してくださる杯こそめでたい祝福の杯と思い、栄光の杯と思ったのでしょう。しかしそれは全く違っていました。分かっていなかったのです。それは栄光の杯ではなく、主が最後まで飲み干された苦い苦しみの杯であり、十字架の杯だった。

その杯は、主イエスご自身も父なる神に「取り除いてください」と祈らずにはおれないような苦い苦しみの杯でした。主は逮捕される直前、ゲッセマネの園でもだえ苦しむ中でこう祈られます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。そして主はその杯を最後まで飲み干してゆかれたのです。

「できます」と答えた雷の子らにイエスは言います。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」と。

主が言われた通り、また二人が答えた通り、ヨハネとヤコブとは、互いにずいぶん異なった形ではありますが、主イエスと同じ杯を飲み同じ洗礼を受けることになってゆきます。ヨハネは長生きしてエフェソに行った。W・バークレーによれば、ヨハネはほとんど百年も生きて、長寿と栄誉のうちに安らかに死んだことになっています。「晩年にはヨハネは主の愛の誡以外はすべて忘れてしまったのである」(『イエスの弟子たち』、p52-53、新教新書)。それに対して、ヤコブの一生は短かった。イエスが預言した通り、ヤコブはやがて剣で斬り殺されてゆくことになることが使徒言行録12:2には記されています。そうした違いはあっても、双方共にキリストの杯を飮んだのです。バークレーはこう記しています。「ローマの貨幣に雄牛が祭壇と鋤に向かっている姿を、次の言葉と共に刻んだのがある、『両方のために備えなさい』と。雄牛は祭壇の劇的な犠牲のために備えられなければならない、あるいはまた鋤をつかう長い繰り返しの一生のために備えなければならない。英雄的な一瞬のために死ぬキリスト者、キリストへの忠誠の長い生涯を歩むキリスト者、双方ともキリストの杯を飮むのである。一方が他方に勝るのではなく、彼らの双方が主の杯を飮んだのである。キリスト者もまたその双方のために備えなければならない」と(同p161)。

苦しみの杯

主イエスが私たちに差し出してくださったキリストの杯とはどのような杯なのでしょうか。それは何を意味しているのでしょうか。ここで第一に言わなければならないことは、それが「苦しみの杯」であったということです。それは十字架の苦難の杯でした。生きるということには大変に悲しく辛い側面があります。ある方は病気との苦しい戦いの中で苦い杯を飲んでおられるかもしれませんし、ある方は人間関係の中で苦しみの杯をなめておられるかもしれません。また、ある人は仕事の上や大きな壁にぶつかって苦難の中に置かれているかもしれません。愛する者を失った悲しみに圧倒されている方もおられることでしょう。20世紀を振り返ってみるときに、それは戦争の世紀であったと言われます。20世紀には6千万人もの尊い命が戦争によって奪われました。様々な苦難の中で無念の思いでこの世を去ってゆかなければならなかった人々の多さに気が遠くなる思いがいたします。主イエスは、そのような人間の苦難と死を背負って十字架にかかられたのです。「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか!?」この十字架上での叫びは私たちの心を刺し貫きます。

しかし、主はご自身のためにその杯を飲んだのではありませんでした。最後の晩餐で主はパンを割いて弟子たちに与えた後、今度は杯をとり、同じようにして言われました。「取って飲みなさい。これは、罪のゆるしのため、あなたがたと多くの人々のために流すわたしの血における新しい契約である」と。その苦しみの杯は私たちすべての人間のためだったのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。私たちを虚無と罪と死の縄目から解放するためにその十字架の死という苦い杯を飲み干されました。私のためにこの杯をキリストは飲み給うた。私を救い、私を生かすために。神の怒りの杯を、ご自身の血潮によって神の祝福の杯へと変えてくださるために。

杯をどう飲むか

私たちは自分の人生の主人は私たち自身であると思っています。しかしそうではない。その証拠に私たちは私たちに与えられる自分の杯を選ぶことはできないのです。そしてそれを飲まずにいることもできない。私たちにできることは私たちに与えられる杯を「どう飲むか」なのです。嫌々逃げ腰で飲むか、「然り」と言って前向きに飲むか。これはいやだ、あっちがいいとは言えない。その意味では「杯」とは私たち自身の人生を、私たち自身の存在そのものを指していると考えられましょう。それをどのように飲むかがここで問われている。私たちは自分の杯を飲み、自分の重荷を担う以外にはない。ある人は若くして難病のために短い生涯を終えてゆきます。ある子供たちは戦火とひもじさの中で空しく死んでゆきます。ある人は物質的には有り余るものに取り囲まれながら、だれとも心を通わせることなく、孤独で孤立した人生を送っています。しかし私たちは、「悪法も法なり」と言って毒杯を仰いだソクラテスのように、与えられた杯を「然り」と言って飲み干す以外にはないのです。「裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」と言って苦難を真正面から受け止めたヨブのようにそれを飲み干す以外にはない。

キリストの与えてくださる祝福の杯

「キリストの杯」に関して第二に言うべきこと、それは、「その杯は、苦しみの杯であると同時に、祝福の杯でもあった」ということです。十字架の苦難を通して復活の勝利に至る道が備えられていたのです。キリストの与えてくださる杯を飲むことを通して、聖餐式で私たちが体験するように、私たちは時間と空間とを越えた神の永遠の命に与ることができる。「わたしの杯が飲めるか」という主イエスの言葉はキリストの祝宴への招きなのです。復活の主イエスと出会い、聖霊降臨を受けた弟子たちは、死をも恐れず、このキリストの福音を全世界に宣べ伝えてゆきました。その途上でヤコブは若くして斬り殺され、ヨハネは100歳まで生きたとしても、等しくその杯を飲んだのです。

第三は、それは「キリストご自身が与えてくださる祝福の杯である」ということです。「乾杯! 今君は人生の大きな、大きな舞台に立ち、遥か長い道のりを歩き始めた、君に幸せあれ!」という長渕剛の曲を最初にご紹介しましたが、私が私としてこの人生を生きてゆく上で、たとえどのようなことが私を襲おうとも、嵐の中で難破したとしても、無念さの途上で病いや突然の事故で命を終えることになったとしても、キリストはその杯を私たちに向かって高く上げてくださるのです。私たちはそのキリストの祝福の杯、祝福の乾杯を受けて生きてゆくことができる。キリストの命をいただいて生きることができる。もはや生きるにしても死ぬにしても私たちは主のものであるのです。私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ(ローマ14:8)。

あたりまえの幸せに乾杯!

悪性の骨肉腫のために闘病生活の中で右脚を失いつつ、肺転移によって32歳の若さで亡くなった井村和清医師の『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ~若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』(祥伝社、1980)という本を以前にも一度ご紹介したことがあります。その中に「あたりまえ」と題される詩がありますのでご紹介させてください。亡くなる直前に子供たちに宛てて書かれた詩です。

あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる
お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる
空気をむねいっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる
みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ

(S54.1.1.新年の贈り物)

キリストが差し出してくださる杯を飲むか飲まないか。ここでは自分が主体ではなく、キリストご自身が主体です。神が与えてくださる杯。それは、キリストご自身が十字架の上で最後の一滴まで飲み干された苦難の杯であり、復活の主が与えてくださる祝福の杯です。「わたしを苦しめる者を前にしてもあなたは私に食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」(詩篇23:5)、そのような杯です。苦難の中に隠されたあたりまえの幸せ。そのような人間のあたりまえの幸せをご自身の杯を高く持ち上げることで祝福してくださる十字架の主イエスの姿を覚えつつ、新しい一週間を過ごして参りましょう。そう思う時私には、十字架にかかられた主の姿が、私たちに祝福あれと杯を高く持ち上げている主の姿にも見えてくるのです。主の杯に乾杯!

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年3月16日 四旬節第二主日 礼拝説教)

説教「孤独における試練」 大柴譲治牧師

マルコによる福音書 1:12-13

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

福音書記者マルコの意図

教会暦では、先週の聖灰水曜日より四旬節/レントに入りました。典礼色は悔い改めを現す紫色。紫は王の色でもあります。私たちのために十字架への歩みを始 められた王、主イエス・キリストを覚えて40日間を過ごす期節です(日曜日を除く)。四旬節の第一主日に与えられた福音書の日課は、荒野の誘惑の出来事を 記しています。その「40日」は四旬節の40日にも通じています。私たちはこのレントの期節を自らを吟味し、罪を告白しつつ、主の十字架に思いを向けて過 ごしてゆくのです。なぜ主イエスが十字架にかかられたのかに思いを馳せながら。

本日の日課には、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け た後、主イエスは「神の霊」によって荒野へと押し出され、そこで40日間、サタンより誘惑/試練を受けられたことが記されています。マタイ福音書とルカ福 音書が誘惑の内容に詳しく立ち入っていることと対照的に、マルコ福音書はその誘惑/試練の内容には全く触れていません。マルコはただ淡々と、短いけれども 決然とした筆致で、イエスのヨルダン川での受洗、荒れ野での試練、ガリラヤでの宣教開始について記している。そこには事柄だけが「一息」で語られていると いう印象を持ちます。福音書記者マルコにとってはそれらの出来事はワンセットなのです。よって、本日の誘惑/試練の出来事はその前後の脈絡(受洗と宣教開 始と)から切り離されてはならないでしょう。

12節の「それから」という接頭辞は「すぐさま」とも訳せる言葉ですが、誘惑/試練がイエス の受洗と密接な関わりを持っているということを告げています。受洗時に霊が鳩のようにイエスに降ってきた。その霊がイエスをすぐさま荒野へと追いやってゆ くのです。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という天からの促しが主イエスを荒野へと押し出してゆく。マルコ福音書は誘惑/試練の内容に ついては沈黙していますが、それはおそらくイエスの父への信頼を突き崩そうとする誘惑/試練であったと思われます。

私たちも洗礼を受けた ときに神さまからの霊をいただきました。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という神さまからの根源的な存在の肯定を、「然り」をいただい ているのです。その神さまからの「然り」という促しを得て私たちもまた、イエスさま同様、私たち自身も人生においては、神の霊によって荒野へと押し出さ れ、悪の力(サタン)から苦しく辛い誘惑/試練を受けるということが確かにあると思います。本日は私たち自身にとって荒野の誘惑/試練が何を意味している のかということを問いたいと思います。

現代の荒野としての現代人の孤独

12節には「それから、“霊”はイエスを荒 れ野に送り出した」とある。受洗時に天から鳩のように降ってきた神の聖霊がこの文章の主語になっているように、聖霊こそがこの場面における主人公であり主 体です。それは使徒言行録(使徒行伝)において聖霊が主役であるのと同じです。

聖霊がイエスを荒れ野に「送り出し」た。ここで「送り出 す」と訳されている言葉は「押し出した」とか「追いやった」という強い意味を持つ言葉です。口語訳では「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやっ た」となっていた。霊が強くイエスを荒れ野へと押し出してゆく。我々の人生にも自分が決断するのではなく、知らないうちに後ろからから押し出されるように 困難に踏み入ってゆく時がある。そしてそこで重荷を担わされることがあります。私は時折、その背後には聖霊の押し出しがあるのかもしれないと思わされるこ とがあります。

実は聖書の「荒野」というギリシャ語には、それ以外に「孤独な、人里離れた、寂しい」という意味もあります。従って、「荒 野における試練」とは「孤独における試練」と訳することもできないことはない。現代の荒野は現代人の孤独はだと思います。そのような孤独の中で、私たちは 悪(サタン)の誘惑/試練を受けるのです。それは神を信じることのできない者として、愛を信じることができない者として、虚無と絶望と滅びへと落ちてゆく ように私たちをいざなう誘惑です。

インドのカルカッタで貧しい者の中で最も貧しい者のためにその生涯をささげたマザーテレサの言葉に次の ような言葉があります。「人間にとって最大の悲惨は、あなたは誰からももはや必要とされていないと感じることです。それこそが、人間にとってもっともむご い、さびしい、つらいことです。『あなたはもう必要ではない』 そのとき人は倒れます」と。

誰からも必要とされていないと感じること、そ のことの辛さを私たちは体験的に知っています。私たちは何か人の役に立ちたいという願望を心の深いところに持っています。なぜでしょうか。誰からも必要と されていないと感じたくないからです。こんな自分でも誰かが自分を必要としてくれている。そう思いたいのです。しかし何かができるから、何か人の役に立て るから誰かが自分を必要としてくれているというDoingの次元、行為の次元における考え方は、何もできなくなったときには役に立ちません。病気になった ときや次第に老いて体が動かなくなってきたときには人の役に立たない、誰からも必要とされていないということになり、とても辛くなってしまうのではないで しょうか。

しかしそうではない。私たちが何ができようができまいが関係なしに、私たち自身の存在そのもの、Beingそのものの次元こそ が大切なのです。マザーテレサはインドのカルカッタで。道端で倒れて死にかかっている人たちの中に最も小さい者の中におられる主イエス・キリストを見、そ れらの人々をリヤカーに乗せて死を待つ人のホームに連れてきて最後を看取ったのです。マザーは最初にそのホームに来た人に二つの質問をしました。最も基本 的な質問です。マザーは最初にその人の名前とその人の信仰を問うたのです。それまで一度も名前で呼ばれたことのないような人々をその人固有の名前で呼び、 亡くなった時にはその人の信仰に沿って葬儀を行ったそうです。ヒンズー教ならヒンズー教の、仏教なら仏教の葬儀を行ったそうです。名前と信仰という二つは 人間にとって最も大切なもの、中心的なものの二つです。誰からも必要とされていないと感じて道端に打ち捨てられた人々を、マザーはその愛の中で看取ってゆ くのです。自分にはできないことなのでそれはとてもまぶしく感じます。

そのようにマザーテレサは一人ひとりの命そのもの、存在そのものこ そ大切なものとして豊かに愛を注いだのです。キリストがそうしてくださったように、最も小さきものの一人の中にいるキリストに仕えたのです。マザーたちの 温かいまなざしとほほ笑みの中で感謝しながらこの世の生を終えることができた者はどれほど深い慰めと安堵とを得たことであったことでしょうか。死の床で私 たちを支えるものは愛であり、愛だけが私たちの孤独を癒してくれるのです。私たちは創造の最初から「神の愛のかたち」に、相互に愛を分かち合い、愛を与え 合うような人格的応答関係の中に造られています。

「人間にとって最大の悲惨は、あなたは誰からももはや必要とされていないと感じることで す。それこそが、人間にとってもっともむごい、さびしい、つらいことです。『あなたはもう必要ではない』 そのとき人は倒れます。」このマザーテレサの言 葉には実践に裏打ちされた強い説得力があります。私たちはそのことをよくわかる。「自分は誰にも必要ではないのではないか」という深い孤独な苦しみは、私 たち自身の心を深く刺し貫きます。それは私たち自身も自分の人生の途上でそのような思いに恐れおののいた経験をどこかで持っているからではないかと私は思 います。しかしそのような現代の愛の乏しい荒野へと聖霊が主イエスを追いやったように、キリストを主と信じる私たちをも愛を生きるようにと追いやってゆく のです。

荒野に虹をかけるために

本日の旧約と使徒書の日課が共に神とノアとの間の契約について告げているというこ とに戸惑いを覚える方もおられるでしょう。いつもは旧約の日課と福音書の日課は深い内的なつながりを持っているのですが、本日の個所においてはなぜ荒野の 誘惑/試練とノアの契約の虹とがつながるのかすぐには理解できません。

神はノアに言います。「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これは わたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」(創世記9:13)と。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて 肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(16節)というのです。本日の福音書の日課に「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受 けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とありますが、おそらくこの「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」という 言葉には、神との全被造物との間のノア契約が思い起こされているのでしょう。すなわちそれは荒野に虹が架かっている状態です。マザーテレサが愛の乏しいカ ルカッタという現代の荒野に愛をもたらして虹のように輝いて生きたように、イエスは荒野の虹として生きたのです。そしてまたそのようなお方につながってい る私たちもまた、小さないのちそのものを大切にし、希望の乏しい場所、愛の渇く場所に神の契約のしるしである虹を架けるような働きを求められているのかも しれないと思います。

孤独における試練

私たち現代人の孤独な病いは真実の「愛」というものを信じることができなく なったところにあるのではないかと思われます。家庭や学校や職場や社会において人間関係が崩れているのです。バベルの塔が崩された後、人間が大地に散らさ れて言葉が通じなくなった時のように、互いに心が通じ合わなくなっているという現実がある。人間は昔も今も孤独の中で孤立して苦しんでいるのではないかと 思われます。あまりに愛のない出来事が多い。否、愛を否定する酷いテロや戦争や凶悪な犯罪が毎日のように起こり、人々の命がまるで虫けらのようにいとも簡 単に殺されてゆく。どこに愛があるのか。神はどこにいて何をしているのか。どこにも神の愛がないではないかと私たちは絶望的な気持ちになります。

しかし、実は愛が信じられなくなるということは現代人の特徴に限られるわけではありません。聖書の中ではアダムとエバの最初から愛を信じることができなく なった孤独な人間の悲惨が描かれています。アダムとエバから生まれた最初の子供カインは弟殺しの殺人者となってゆきます。愛どころではない。怒りと不信、 そして偽りが人間を支配しているのです。人間が神の愛を裏切り、愛を捨てて出口のない絶望の闇に生きるということは、聖書を貫くモチーフです。

今、婦人会いとすぎではヨブ記を読み始めていますが、実はヨブの苦しみも苦難の中で神の愛を信じることができなくなったところにあるというふうにも言えま しょう。苦難とは私たちを神の愛から引き離そうとするサタンの誘惑であるとも言えるのかもしれません。神の愛が信じられなくなること。それがサタンの目的 です。しかし同時に苦難の中で私たちは救いを求め、この教会に導かれてきたという側面もあります。苦難は滅びへの誘惑であると同時に救いへと通じる試練で もあるのです。苦難とは、ちょうどコインに裏と表があるように、サタンの側から見れば誘惑ですが、神の側から見れば試練ということになりましょうか。主イ エスは受洗後すぐに「霊」に導かれてそのような誘惑/試練の中へと押し出されてゆきました。私たちもまた誘惑/試練の中に追いやられてゆきます。孤独の中 で愛が信じられなくなることこそ、私たちにとっては荒野の誘惑/試練ではないかと思うのです。

私たちは人の愛が信じられなくて神の愛が信 じられるのだろうかと私は最近思うことがあります。確かに人間の有限の愛と神の無限の愛とは比較することができません。人間の愛には私たちは裏切られるこ とがありますし、私たち自身のうちに何があるかということを知る者は、自分の愛のなさに気づかされ、自分の愛を信じることができないために、人の愛を信じ られなくなるようにも思います。しかし、そのような中でマザーテレサの行為は確かに虹色に輝いている。愛は抽象概念ではありません。具体的なものです。神 の愛は具体的な人間を通して与えられるのではないでしょうか。人の愛の中に神の愛が働くと言ってもよい。

私は先日、テレビで映画『スー パーマン』を演じたクリストファー・リーブが、落馬事故のために頚椎を損傷し、首より下が完全にマヒしてしまうという中で、必死にリハビリに打ち込んでい るドキュメンタリーを観て感銘を受けました。頚椎損傷後5年も過ぎてから指先や足が動かせるようになった人は、彼の他にいないということでした。人は彼の ことをこう言うそうです。「彼は昔スーパーマンを演じたが、今はスーパーマンになった」と。また、最近はやはり映画俳優のマイケル・J・フォックスが、 『バックトウザフューチャー』で有名ですが、彼が若くしてかかったパーキンソン病との戦いの中で書いた自伝『ラッキーマン』を読み始めています。3/4の 朝日新聞に一面に広告が載っていたのに目が止まったからです。そこにはラインホルト・ニーバーの祈りとして有名な次のような祈りが掲載されていました。 「神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、時文に変えられることは変える勇気と、そしてそのちがいがわかるだけの知恵をお与えください。」 『ラッキーマン』という本の題名は、マイケル・J・フォックス自身がこのような病いを与えられた自分を何とラッキーな男であるかと考えているところから取 られています。

困難な誘惑/試練の中にあっても、再び勇気を抱いてこのように見回せば本当に多くの隠れた虹が輝いていることにも気づかさ れます。孤独な荒野にも神の契約のしるし、愛のしるしが与えられている。十字架への孤独な苦難の歩みを始められた主イエス・キリストにこそ、私たちのため の神からの虹が輝いていることを覚えつつ新しい一週間を過ごしてまいりましょう。お一人おひとりの上に神さまの守りが豊かにありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年3月9日 四旬節第1主日礼拝説教)

説教 「隠された主の姿」  石居正己牧師

マルコによる福音書 9: 2- 9

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

角を生やしたモーセ

旧約聖書に於いて、神はモーセと、人が友と語るように、顔と顔を合わせて語られたといいます。ローマに残されているルネッサンスの巨匠ミケランジェロのモーセ像は、神の示しのもとでイスラエルの民を荒れ野で導いた、たくましい指導者としての姿を写し出していますが、面白いことにその頭には二本の角が生えています。出エジプト記には、彼がシナイ山で神さまと出会って十戒を受けて帰ったとき、その顔の皮膚が光を放っていたと記されています。その「光」という言葉と「角」という言葉は同じ綴りであるので、中世のラテン語の聖書は角と訳していました。そして角がモーセの特徴として描かれていたのです。宗教改革のときルターは「光」と訳したのですが、その聖書でさえ版によっては挿絵に角を生やしたモーセが描かれている場合があります。私たちもいたずらに角を出すのではなく、輝かしい顔をしてゆきたいと願います。

聖書はもう一つの面では、神が「あなたはわたしの顔をみることはできない。人はわたしの顔を見て、なお生きていることはできないから」と言われたことを伝えているのですが、神はいつも人をはるかに越えて栄光のうちにおられることを示し、それにも関わらずモーセは神との親しい交わりの中に入れられて、その栄光を反映することが許されたことを語っているのでしょう。

超越と内在

主イエスは人間のうちにおいでになり、私たちの間に宿られました。神の救いのみわざを私たちのうちに示すためです。しかし一方では神のみ子としての栄光を保っておられました。今日の日課は、弟子たちと山に登って神に祈っておられた主が、栄光の姿に変わったという「変容」の出来事を記しています。「栄光」という言葉も分かりにくい言葉の一つですが、神の本来のみ姿の輝きというような意味で聖書は用いています。

いつの時代にも、主イエスの人間性重視の側面と、神のみ子としての神秘的な面を大事に考える傾向とがあります。あの「ナザレからなんのよいものが出よう」と言われたような時には、その神としての力が示されることが必要でありました。しかしイエスさまは神さまだからと、何の疑問も抱かず認めたり、棚上げしてしまおうとした時には、逆に本当に人間のうちに来られたことを強調することが求められました。クリスマスが主の人間としての誕生を覚える時として守られるようになったのも、その人性を確保するという面があったと言います。ルターも、幼子としてのイエスさまは、おおよそ赤ん坊のすることはなんでもやってのけられたのだと、強調しています。そして現代人である私たちは、人間の考えの及ぶ範囲で受け止めようとし、史実性を重視しようとしますから、いっそう変容の出来事に現れるような超越的な側面をしっかり見なくてはならないのです。

私たちは、余所行きの顔は一応整えていますが、「うちではどうもだらしがない」などと言われるようなこともないではありません。しかしイエスさまの場合は、むしろ身近かな内弟子たちだけの中で栄光の姿を示されました。しかもそれはペトロが「あなたはメシア」と告白し、主ご自身の死と復活について語りはじめられたばかりの時でした。主が神に面して祈っておられたとき、弟子たちには、そのみ姿が変わって現れたのです。そして旧約における最大の預言者で、預言者の代表とされたエリヤと、律法を受けたあのモーセが共に現れて、主イエスと語り合っていたのです。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

マルコは記していませんが、ルカはその語り合いの内容が、イエスがエルサレムで遂げようとする「最期」についてであったと、言っています。そこで用いられている最期という言葉は脱出、出エジプトについて用いられた言葉です。罪と死と悪魔の力からの新しい出エジプトが主イエスの果たそうとされた出来事でした。ペトロはもう無我夢中で三つの仮小屋を建てて、いつまでもその姿を留めておきたいと願いましたが、雲が彼らの姿を覆ってしまいました。しかし、雲は聖書において神の臨在のしるしでもあります。そしてその雲の中から、したがって神ご自身の呼びかけとしてのみことばがありました。「これは私の愛する子。これに聞け。」人々が主イエスに向かうように、主に聞くように呼びかけられたのです。それはただ耳でその言葉を聞きなさいとか、分からないことを尋ねなさいとかいうだけのことではありません。主に聞き従うことが求められています。ペトロはのちに、それは巧みな作り話や神話を用いているのではない、「わたしたちは、キリストの威光を目撃し」、天からの声を聞いたと強調して語っています(2ペトロ1:18)。

いわば天的な、霊的な世界と、私たちが現実に見聞きする経験の領域を貫いてあるのは主イエスの出来事、ことにその死と復活の出来事であり、このお方にこそ聞けと告げられているのです。主の変容の出来事は、確かに一面では受難の前に、神がみ子の真実のみ姿を明らかにし、このお方こそが聞き従うべき主であることを示したのです。しかし、それは主のみ姿のことだけではありません。モーセは神さまに出会い、その顔が光に輝いたけれども、次第にその光は失せて行きました。そのさまを人に見られまいと顔に覆いをかけたのです。しかし私たちは主に向き直ることによって覆いを除かれ、「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられてゆく」とパウロは言っています(2コリント3:18)。雲に覆われ、隠された主の姿は、私たちの隠された、しかし次第にあらわとなるべき姿を示しています。

インドの人の顔は人生を背負った顔だというようなことを言った人がありました。私たちは、何の変哲もない顔、あるいは打ちひしがれた情けない顔をしているかもしれませんが、しかし人生の顔どころか、はるかにそれにも増して、神の栄光に照らしだされたもう一つの顔を持つことが許されています。主に向き直ることによって、私たちも主が備えてくださった罪と死と悪魔の力からの脱出に与かることができます。喜びと望みに溢れた輝かしい顔を持つようにされることを、確かに自分のこととして行きましょう。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年3月2日 主の変容主日聖餐礼拝説教。石居正己牧師は元むさしの教会牧師でルーテル学院大学名誉教授。)

説教 「とりなしの信仰」  大柴譲治牧師

マルコによる福音書 2:1-12

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

病人を運んだ四人

世の中には一人ではできないことがあります。どうしても他の人と力を合わせないとできないことがある。本日の福音書の日課には一人の病人のために四人の人が、家族でしょうか仲間でしょうか、一生懸命力を合わせる場面が報告されています。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」 本日はこの部分から、特に「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」という5節に焦点を当てて二つの点に注目したい。第一は四人のとりなしの信仰に、第二は「あなたの罪は赦される」という言い方に注目したいと思います。

第一:とりなしの信仰

「その人たちの信仰を見て」とありますが、それは「屋根まではがして一人の病人をイエスの前に連れ出そうとした四人の信仰を主イエスが見て」ということです。「中風」とは「脳卒中発作の後などに現れる手足のマヒや半身不随のこと」を意味します。その病人は四人にとってはとても大切な人であったのだと思います。だから四人は一生懸命でした。屋根まではがしてつり下ろすというのは一大事です。彼ら四人の熱く必死な思いが伝わってきます。イエスさまの前に連れてゆきさえすればこの人は癒される! 彼らはそう信じたのです。ワラにもすがるような思いだったかもしれませんが、彼らはただそう信じた。私はその五人のつながりの強さに目を見張るような思いがいたします。

一人の人間のために必死になってとりなす者たち。その真摯さが主イエスの胸を打ち、また私たちの胸を打つのです。このことの目撃者たちも胸を打たれたがゆえにこれを言い伝えていったに違いありません。このマルコ福音書の記事の背後には実際にこの出来事を目撃したペトロの熱い思いがあるという註解者もいます。いずれにしても彼らの熱意は感動的で多くの人の胸に刻まれたのです。

四人はその病人をほっておけなかった。どうしても主イエスのみ前に連れてゆきたいと考えたのです。そこには私たち自身が他者のためにとりなしてゆく姿が示されているとも言える。苦しむ者、悲しむ者、大きな壁にぶつかっている者、絶望している者を主イエスの前に連れて出るというとりなしの働きが私たち自身にも求められています。実は、私たちが今ここで礼拝を守っているということは、私たちを主のもとにとりなしてくれた人、導いてくれた人がいたからでもあります。私は最近、人と人との出会いの中にこそ主イエスが働かれるのだということを強く思わされています。我と汝という人格的な出会いの延長線上に「永遠の汝」たる神が垣間見えるのです。

出会いの不思議

人と人との出会いというものは本当に不思議なものです。自分が自分であるということも確かに不思議なことですが、出会いというものはさらに神秘的です。現在地球上には60億人という人間が存在する。これは地球始まって以来の超過密の人口密度です。はっきりとした数字は分かりませんが、一説によると人類始まって以来およそ300億人の人間が生まれたと言われています(セドリック・ミムス、『ひとが死ぬとき』、青土社、2001、p13)。確率から言えば、私が私である確率は300億分の一ということになります。

人はいったい一生の間に何人の人間と出会うことができるのでしょうか。しばらく前に「友だち百人できたかな。ピッカピッカの一年生」というCMがありました。今でも放映しているかもしれません。ラフな計算ですが、一日一人の人と出会うと仮定して一年で400人弱、人生100年で計算しても一生にせいぜい四万人の人と出会うだけということになります。この数字を大きいと見るか小さいと見るかは人によって意見が分かれるでしょう。もっと多くの人と出会う方もおられましょうし、もっと少ない方もおられましょう。出会った人数の量よりも出会いの質が大切と考える人も多いことでしょう。(インターネット時代を迎えて出会いのチャンスが格段に広がったという現実は、これまでとは全く異なった時代が到来したとも申せましょう。)

言いたいことは、私たちが人生の中で出会うことができる人間はまことに少ないということです。出会うことができない人間の方がはるかに多い。あれほど人の多い新宿や銀座に行っても自分が知っている人と出会うことはほとんどありません。生涯に4万人と出会うとして、1億2千万の日本人のうち1億1996万人とは出会うことができないのです。世界の60億人のうち59億9996万人とは出会えない。300億人でしたら・・・。そう考えてくると、私たちに与えられた個々の出会いというものがどれほどかけがえがないものであるかということが分かります。

しかもその中でも、家族として出会う、親友として出会うのはごく少ない人数に限られています。出会いというものはすべて本当に神秘的です。それは「恩寵」と呼ばなければならない。出会いの背後には確かに天の配剤があるのだと思います。一人の中風の人を屋根をはいでまでイエスの前に連れ出した四人のとりなしの必死さを目の当たりにするとき、改めて私たちに既に与えられている一つひとつのつながりを大切にしたいと思います。

特に牧師としてそのことを思うのはご葬儀に関わるときです。かけがえのない愛する者の死が私たちの心を引き裂きます。涙が流れ落ちて止まらなくなる。時間はピタッと停止してしまい、心にはポッカリと大きな穴が空いてしまう。この人なしにこれから生きてゆくことはほとんど不可能なことのように思えてくるのです。しかし逆に言えば、この人生のただ中でそれほどまでに互いに大きな存在、大切な存在として互いに出会うことが許されたということ。本当に大きな恩寵であると言わねばなりません。愛する者との別離は私たちの中に終わることのない深い悲しみをもたらしますが、しかしそのように深く心と心とが、魂と魂とがつながるような出会いが与えられているということこそ恵みなのです。

私たちは主イエスから自分のように隣人を愛しなさいと命じられています。先の四人が必死になって病人をイエスのもとに連れてきたように、私たちもまた悲しみや苦しみの中にある者たちをイエスのもとにまで連れてきたいと思います。自分自身の非力さを思いますが、しかしその人のために倦むことなくとりなしの祈りを祈り続けるということも大切です。その人を覚えて祈るということはその人を愛するという一つの表現だと思います。真実の愛とはとりなす愛です。愛はその人にとって一番良いものを得させようとするからです。とりなしには、中風の人をイエスの前に吊り下ろした者のような直接的な形もありましょうし、陰で祈り続けるという間接的な形もありましょう。とりなしにはいろいろな形があるのです。しかし主イエスにとりなすということを通して私たちの心と心とは深い次元においてつなげられてゆく。中風が癒された者は大きな喜びに捉えられたと思います。肉体が癒されただけではない。彼は自分のために必死に働いてくれる者の存在を、愛してくれる者の存在を知ったからです。主イエスはそのような四人のとりなしの愛の中に神のみ業を見たのです。真実の愛だけが私たちを生かし、私たちを支えます。

第二:罪の赦しということ

さて次に、「あなたの罪は赦される」というもう一つのポイントを見てみたいと思います。このイエスさまの言い方は、病気と罪、赦しと癒しの関係を私たちに示しています。

注意しておきたいことがあります。その人の肉体が癒されたのは、「子よ、あなたの罪は赦される」という最初の言葉が語られた時ではありませんでした。このときには目に見える形での「奇跡」(癒し)は起きませんでした。起こったのはその次の時点です。律法学者たちが腹の中で考えていることを見抜き主は言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」するとその人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。では最初の「子よ、あなたの罪は赦される」という言葉は何を意味しているのでしょうか。実はここで、肉体の癒しよりももっと大切な次元を主イエスは問題としているのです。それが「罪の赦し」の次元なのです。聖書における「罪」とは関係概念であり、個々に犯した罪を意味するというよりもむしろ、神と人との破れた関係を意味しています。神との「我と汝」という人格的な応答関係に生きる!これこそが主イエスが問題としたことなのです。これこそが肉体の癒しよりもさらに大切な、より根源的な次元の事柄なのです。

「あなたの罪は赦される」という言い方で主は、「あなたと神との破れた関係は修復された」「神はあなたと共にいます(インマヌエル)」「神はあなたを決して見捨てない」ということを宣言しておられる。それは病気が癒されるよりももっと大切な次元の事柄です。存在そのものの癒しと言ってもよい。病いの時も、悲しみの時も、死の時にも、神がわたしと共におられる!「死の陰の谷をゆく時にも災いを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」と詩篇23編は告白しています。この信仰的な認識こそがすべてなのです。病人をイエスのもとに連れてきた四人は、自らの思いをはるかに越える形で、病いの癒しだけでなく存在そのものが丸ごと癒されるということのために、主イエスの救いのみ業に仕える者として用いられたのでした。主は私たちをもそのようなとりなしのご用のために用いてくださるのです。

本日は聖餐式に与ります。主がわれらと共におられる! 十字架の上で主イエスは罪人の一人に言われました。「今日、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいる」と。苦しみ悲しみ死の時にも主が共におられる。そこに神の国があり、神のパラダイスがあります。インマヌエルの神の恵みの食卓にご一緒に与りたいと思います。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年2月9日 顕現悦第6主日聖餐礼拝説教)

説教 「待ちわびる心」  徳弘浩隆牧師

マルコによる福音書 11: 1-11

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

今日からアドベント・待降節に入りました。教会のカレンダーでは、一足早く新しい年が始まります。「去年は、皆様にとってどんな年でしたか?」というと少し気が早い感じもしますが、一年を振り返って、新しい出発をしたいものです。

待降節、キリストの降臨を待つ期間が始まります。「待つ」と言うことを、共に味わいながら、この新しい年を始めてまいりたいと思います。

このアドベントという言葉は、「来臨」を意味する言葉です。主イエス・キリストが受肉して来臨されること、つまりクリスマスを迎える心の準備をする。そして、実は「再臨」:キリストが再びこられ、最後の審判と救いの成就があるといわれているとき、これら二つのことを思い描きながら、その準備をする、そんな大切な期間とされてきました。

教会でいわれるジョークですが、こんな話を聞いたことがあります。

「やがて天国に行けば、私の愛する主人にもう一度会えるんですよねぇ」とご主人を先に亡くされた方が期待を込めて、待ち遠しい、楽しみにしている面持ちで牧師に尋ねた。すると牧師はこたえた、「ええ、もちろんですとも。でも、あなたが愛さなかった人とも再会するコトになりますね」と。天国での出来事を楽しみにする反面、今のままでよいのだろうかと、考えさせられる、決して笑ってばかりいられないお話です。

「キリストの来臨を待つ」、そのことが今日の福音のテーマであろうと思いますが、どのような心構えで待てばよいのでしょうか。そんな事を、今日の聖書からご一緒に聞いてまいりたいと思います。

「待つ」という言葉から、いろいろな言葉を思い浮かべてみました。パソコンでざっと検索しても、「待ち構える、待ち受ける、待ち合わせる、待ち伏せる、待ちかねる、待ちくたびれる、待ちほうける、待ちわびる…」と出てきます

そして、「待ち受け画面」なる言葉もインターネットで検索すると出てきます。若者たちが、携帯電話の待ち受け画面をそれぞれの思い出の写真やキャラクターのかわいいイラストなどで飾り、楽しんでいるもので、趣向を凝らしているものです。メーカーや業者もこれをビジネスチャンスとして、競っていろいろなサービスを提供しています。電話がかかると相手の電話番号だけでなくて、それぞれ、その人の顔写真や、その人の声やタレントの声で呼びかけてくれる、また好きな音楽がかかる、そんなものも普通になっています。私のある同僚は、奥さんからかかってくると、怪獣映画の「ゴジラのテーマ」がなるようになっていて、「ああ、奥さんからだ」と周りにいてもわかるのです。

こんな風に、「待つ」と言うことを、とても楽しんでいる様子が伺えると思います。

逆に、「待つ」と言うことが、どんどん苦手になってきている、そんな風潮も感じます。それは、社会は便利になってきて、「待たなくてもいい社会」になってきたからです。

私は今、教会事務局で新聞を作りの仕事もしていますが、昔と違ってパソコンで編集をし、原稿はFAXやフロッピーでもなく、ほとんどメイルでやり取りするようになりました。先日、締め切りぎりぎりに送られてきた原稿がわれわれが今使っているパソコン・Windowsではなくて、Macintoshの形式のフロッピーで郵送されてきました。もう時間がなくて困ってしまいましたが、原稿を送り返してもらうのでもなく、そのフロッピーを読み取るソフトを買いに秋葉原に走るわけでもなく(昔ならそうしていましたが)解決しました。インターネットで検索し、そのソフトを見つけ、クレジットカードの番号をいれ、インターネットでそのソフトを買い、自分のパソコンに転送しインストールし、電源を入れなおすと、もう自分のパソコンはMacのフロッピーが読み書きできるパソコンに早変わりわりしている、待つことなく、走ることなく、5分ほどの事で解決です。4-5年前なら考えられなかったことです。ニュースでも、時間まで待ってわざわざテレビの前に座ってスイッチを入れる、それを見逃すと1時間くらい待たないと次のニュースはない、そんな時代ではなくなりました。インターネットやケーブルテレビ、衛星放送などでいつでもニュースを「取り出す」事ができるようになったのです。「オン・デマンド」といいますが「こちらの要求に合わせて」、NHKでもTBSでもさっきのニュース番組を映像付きでインターネットで見ることができます。

そんな便利さのせいで「待つ」と言うことが下手になった、苦手になったと、私自身反省を込めてしみじみと感じているのです。どうも、最近妻に言われるには、「最近あなたは気が短くなった、怒りっぽくなった」とのことです。つい先日車を運転していて、生まれて始めてスピード違反をとられてしまい、少し元気をなくしているところです。すこし、ゆっくりと、気長に待つことも考えねばと思わされています。

「待つ」事の楽しさと、それが下手になったことを見てみました。さて、われわれは、どんな心構えでキリストを待てばよいのでしょうか。

今日の聖書を見て見ましょう。旧約のイザヤの言葉が身に迫ってきます。「ただ漫然と待つ」のでもなく、「神の助けを待たず、自分の力で何とかしようともがき苦しむ」、そのどちらでもない。そんな祈りの言葉が記されています。

「どうか、天を裂いて降って下さい」、天を見上げて助けを待つだけではなく、ダイナミックな、ぎりぎりの祈りの言葉として心に飛び込んできました。この、神に直談判するような心、その祈りのとおりに、天から降りて来られた方。私たちを救うために、すべてを与え、命を投げ出す覚悟で、私たちの只中に来られた方、それがイエス・キリストです。

新約聖書の日課では、イエス・キリストのエルサレム入城の場面が語られています。平和の象徴ロバに乗って、旧約聖書の預言のとおりにロバにまたがってエルサレムに入ってこられます。人々は王様を迎えるように自分の衣服を道に敷き、棕櫚の葉を敷き、またそれを振って大歓迎する、そんな人々の姿が伝えられています。

これらのように「願い、迎える、」それが待降節の本当の姿だと教えています。こんな風に私たちの只中にこられ、私たちを愛し、その命さえ投げ出された方。この方に出会うことによって、私たちは赦され、救われ、変えられていくのです。そして、そんな変えられた私たちの集う教会の働きにより、地域は変えられていくのです。

「待つ」という言葉から、いろいろなことを見てみましたが、「待ちわびる」そんな言葉が心に残りました。その意味は「待ちくたびれて気力を失う」ということだとそうです。そのくらい待つこと、一生懸命やりつつも、人間の限界をいやというほど知らされて、天を見上げ、謙虚に、神様からの救いを待つこと。そしてこのままでは解決はないと絶望するような心持、そんな気持ちで神様に直談判するような心持で解決を願う、そんな時をすごしたいと思うのです。  最近こんな本を手にしました。「世界がもし百年の物語だったら」という、インターネットを駆け巡り、そして絵本になって有名になった「100人の村」の、新しいバージョンです。これもなかなか面白い本でした。地球の誕生を46年億前として、その歴史を100年に換算してみたらという本です。「私たちはどこから来て、どこへ行くのでしょう」とあとがきにもある、そんな人生の根本問題を考えさせてくれる、面白い本でした。

この本によると、100年にたとえると、人類の歴史はちょうど99年目に始まる。それも最後の一ヶ月、99年目の12月1日に人類は誕生したことになるそうです。文化、国家、社会の形成は12月31日の午後9時過ぎの事。そして、ようやく11時過ぎに宗教が生まれた。キリストが生まれたのは10時59分となっています。年末も押し迫った、最後の最後という感じですね。

神様の、また聖書の歴史と、この宇宙・地球の科学的に推定された年齢からくる歴史を、どう重ねて考えるべきかは難しいところはあるかもしれません。しかし、そこから見えてきたことはこうです。「人類の歴史はそんなに短いのか」とがっかりすると言うこと。そしてその反面、「神様が天地創造されて、人類を創造するまでにさまざまな準備をされた時間は途方もない長さがあった」のだということ。99年目の12月1日までかけて準備して、ようやく愛する人類を創り住まわせたのに、人間は神様を裏切り、罪を犯し、罪にまみれた社会と歴史を創ってしまった。なんと無念なことでしょう。今までの準備や期待や願いをすべて失ってしまい、途方にくれる、絶望するような神様のお気持ちがあったのではと思うのです。

それまで待ち続けた神様の思い、そしてその人間を救うために愛する独り子をお送りになるその思い、それは、今私たちがクリスマスを待つ思いをはるかに超えて大きなものなのです。

「待つ」のではなく、「待たれ続けていた」、これが実は今日示された大きな福音です。そんな大きな神様の愛に応えるべく、「待ち望む」、そんな日々を送りたいものです。

皆様の上に、神様の大きな祝福をお祈りいたします。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年12月1日 待降節第一主日礼拝説教)

徳弘浩隆牧師は現在、宣教・広報室長として日本福音ルーテル教会事務局に勤務。むさしの教会メンバー。

説教 「それは 愛」 大柴 譲治

申命記6:1-9、マルコ福音書12:28-34

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

愛の掟

本日は最も重要な掟についての教えです。(1)「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(2)「隣人を自分のように愛しなさい。」 福音書ではこの二つは常にセットで出てきます。

しかし、「何が重要であるか知ること」と「それを実際に生きること」は別ということを私たちは知っています。愛の大切さを知るということと愛を生きることは別の事柄なのです。私たちはマザーテレサの生き方に感動します。同時に私たちは、情けなくも、そう生き得ないでいる自分の現実の姿をも知っているのです。そのような私たちにこの愛の掟は何を語りかけてくるのでしょうか。

全身全霊の愛

申命記6章4~5節は告げています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。これは最初の言葉を取って「シェマー(聞け)」とも呼ばれている重要な箇所です。イエスさまも、「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記 章 節の戒めと共に、これを最も大切な戒め(=律法の神髄)として挙げられました。

それにしても「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という戒めはすごい戒めです。あなたの全身全霊で神さまを愛しなさいというのだから半端ではない。このような言葉の前で私たちは困惑を覚え、どこか後ろめたさや恥かしさを感じるのではないか。自分を顧みても全身全霊で神さまを愛しているとは決して言えないからです。聖書には眠っている私たちに鋭くメスを入れて覚醒させるようなところがあります。そこには「本当にお前は全身全霊でわたしを愛しているのか」という神さまの声が聞こえてくるかのようです。

「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めにしても同じです。私たちはこの戒めを聞くとルカ 章にある「よきサマリア人のたとえ」を思い起こします。自分が強盗に襲われて傷つき倒れている旅人の側を無情にも通り過ぎていった祭司かレビ人であるかのように感じるのです。自分はなかなかサマリア人にはなれないと沈んだ気持ちになる。愛しなさいと命じられればられるほどそれができない自分の姿に悲しくなる。そのような堂々巡りを私たちはどこかでしているのではないでしょうか。そしてその閉ざされた円環から抜け出ることができないでいる。

それは 愛

ここでもう一度、大切な掟に戻りたいと思います。(1)「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(2)「隣人を自分のように愛しなさい。」

注意深く言う必要がありますが、この二つの掟は第一義的には私たちに愛することを求めているのではないと私は思います。もっと深いものを指し示しているのではないか。それは人間の愛についてではなくて、もっと深いところにある神さまの愛を私たちに伝えている言葉ではないか。そう思うのです。そこに宣言されているのは神さまの愛です。その独り子を賜るほどの愛、わが子のために命を捨てる親の愛がある。心と魂と力を尽くして愛してくださったのは私たちではなく、神さまの方なのです。私たちのためにその独り子を賜るほどに、自分以上に愛してくださったのは神さまなのです。そのように深く熱い神の愛を私たちはそこに見てゆくべきなのです。そしてその強烈な愛を知ったときに私たちの中では何かが変わるのです。自分の力ではなく、神さまの愛の力によって私たちは変えられてゆくのです。

親子愛

10月末、マレーシアに一週間行っていた間に新聞がたまっていました。帰国してそれらに目を通す中で、一つの記事に心を打たれました。10月29日の第一面の「編集手帳」(読売版「天声人語」)です。この日は『巨人6年ぶり日本一』と題する記事がトップを飾っています。そこには次のような言葉が記されていました。

斎藤強君は中学一年の時から不登校になる。まじめで、ちょっとしたつまずきでも自分を厳しく責めた。自殺を図ったのは二十歳の春だった◆ガソリンをかぶった。精神科医の忠告で彼の行動を見守っていた父親は、その瞬間、息子を抱きしめた。自らもガソリンにまみれて叫ぶ。「強、火をつけろ」。抱き合い、二人は声をあげて泣き続けた◆一緒に死んでくれるほど、父親にとって自分はかけがえのない存在なのか。あの時生まれて初めて、自分は生きる価値があるのだと実感できた。強君は後にこの精神科医、森下一さんにそう告白する◆森下さんは十八年前、姫路市に診療所を開設、不登校の子どもたちに積極的に取り組んできた。彼らのためにフリースクールと全寮制の高校も作り、一昨年、吉川英治文化賞を受賞した◆この間にかかわってきた症例は三千を超える。その豊富な体験から生まれた近著『「不登校児」が教えてくれたもの』(グラフ社)には、立ち直りのきっかけを求めて苦闘する多くの家族が登場する◆不登校は親への猜疑心に根差している。だから、子どもは心と身体で丸ごと受け止めてやろう。親子は、人生の大事、人間の深みにおいて出会った時、初めて真の親子になれる。森下さんはそう結論する。

心に響く言葉です。命がけで自分を愛してくれる親と出会う。この時に自分の生の価値を見出すことができると言うのです。そこにたどりつくまでの親と子の苦しい道のりを忘れることはできません。強君の例によれば中学一年生、つまり13歳から自殺を図った20歳までの7年間は親と子にとってどれほどつらい年月であったでしょうか。また18年間に3千ケースもの不登校の親子にコツコツと関わってきた一人の精神科医の忍耐強い、暖かい愛情に満ちた関わりに私たちは心を打たれるのです。私たちの心を捉えて離さないもの、それは愛です。本物の愛です。「友のため命を捨てる、これより大きな愛はない」と主イエスは言われました(ヨハネ 章 節)。そこには子どものために命を捨てるほど大きな親の愛があります。そしてそれは私の中では神さまの愛と重なります。

子ども祝福式によせて~「うるさい親ほどあったかい」

今日は礼拝で先ほど小児祝福式が行われました。親としてまた人生の先輩として私たちは子どもたちの上に神さまの祝福が豊かにあるように祈ります。私たちは子どもたちが悲しみや苦しみに会わないように祈るのではありません。悲しみや苦しみに出会ったときにも、それを乗り越えてゆけるように祈るのです。そのためにはキリストを信じる信仰がどうしても必要となります。子どもに対する信仰の継承、信仰の養育というものは大切な親の務めであり教会の務めです。私たちがどれほどそのようなプログラムを真剣に考えてきたか、振り返ってみる必要があるかも知れません。夏の修養会でも青年が少ない、子どもたちがいないということがむさしの教会の課題としていくつも出ていました。

十戒の第四戒に「あなたの父母を敬え」という戒めがあります。これは子どもに対して父母を敬えと教えるだけではなく、親に対して子どもに正しく神を指し示せと教える戒めです。申命記の日課は語ります。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(6~9節)と。これは徹底した信仰教育です。実際に後世の信仰深いユダヤ人は自分の服のどこかにこのみ言葉を記したものをつけてきたと言われています。子どもたちに繰り返し教えることが求められています。先程私たちは小児祝福式を行いましたが、教会の子どもたちを大切に次の世代として育ててゆく、私たちにはそういう責任があるのです。子どもたちは大人の背中を見て育つものなのでしょう。子どもには親や周りの大人がどのような生き方をしているかということを鋭く見抜く力があります。力弱く純粋であるがゆえに動物的な直観が働くのでしょう。

以前に「うるさい親ほどあったかい」というテレビのコマーシャルがありました。「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」というマザーテレサの言葉もあります。み子を賜るほどに熱い愛を示してくださった神さまは(十戒などの中でも)「わたしは熱情の神だ」(口語訳聖書では「ねたむ神」)ともおっしゃっておられます。熱い熱い思いをもって私たちに “I love you!” と呼びかけ続けてくださっているのです。

(1)「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(2)「隣人を自分のように愛しなさい。」

私たちも熱い熱意をもって子どもたちのために祈り、接してゆきたいのです。うるさい親ほどあったかい。昔の家族のように互いにちょっかいを出し合ってゆきたいと思います。そして共に神の愛を分かち合いたいのです。多くの愛が冷えている現代には神の熱い愛が必要なのです。私たちを本当の意味で生かすもの、それは愛なのですから。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年11月12日 聖霊降臨後第22主日・小児祝福・礼拝)

説教 「無一文へのすすめ」 賀来 周一

マルコによる福音書10:17ー22

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

究極の問いかけ

十字架の死への旅立ちをされる主の足下にひとりの男が駆け寄りました。

「善き主よ、永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」

「それはあなたがよく知っているように、十の戒めにきまっている。それになぜあなたは私のことを『善い』と言うのかね。善いお方は神のほかだれもいないのだ」

「十の戒めはよく知っています。子供のころから守ってきましたから」

「そうか。あなたには欠けているものが一つあるんだよ。もっているものをすっかり売り払って、貧しい人にあげなさい。それから私についてきなさい。」

イエスとこの男の出会いは、人が究極的になにを求めており、それにたいしてキリストを信じる者には何が与えられるのかということをよく表しています。

彼は申しました「永遠の命のためになにをすればよいか」と。まことにまじめな問いです。彼は究極の救いをイエスに求めているのです。彼は小さい頃からユダヤ人に課せられた十の戒めをこれこそ最高の善い事と信じてせっせと守ってきました。善いとされる行いを積み重ねるなら、きっと究極の救いである永遠の命を手にすることができると思ったのです。イエスはそのモデルでした。それで「善い先生」と呼びかけたのです。

これに対し「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」とイエスは言われました。究極の善は神にのみあるのであって、人間にはないということです。創世記を見ると創造のはじめエデンの園には命の木と善悪を知るの木が植えられていたことを思い出されるでしょう。命の付与と善悪の基準は人間の手にはないということです。

ところが人は創世記3章に書かれているように、神になりたいという誘惑に負けて善悪を知るの木の実を食べてしまいます。以来人は善悪を神のように判断できると思うようになってしまいました。その結果、私たちの善悪の判断が混乱をすることとなったのです。なにが善で、なにが悪なのか、私たちはその基準をもつことができなくなってしまったのです。私たちは、この世界のなかで善が善とならず、悪が悪たりえないことを否応なく知らされます。ときとしては善が滅び、悪が栄えるということすら珍しいことではありません。にもかかわらず人は相変わらず、善を通して究極の救いである永遠の命を得ようとするのです。それほどまでに人はエデンの園で手に入れた神の立場に執着しているのでしょう。この男もその立場に立ち続けていることになります。だから「なに(どのような善いこと)をすれば・・・」と言うのです。

永遠の命とは

永遠の命については、「小さな福音書」として知られるヨハネ福音書3章16節が有名です。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」とあります。キリストを信じる者はだれでも永遠の命を得ることができるということです。キリストを信じると長生きをするということではありません。永遠の命を与えられるとは、キリストを信じる者の究極の救いの姿です。

その永遠の命とはいったいどのようなことを意味するかをよく表す言葉を思い出します。それは「明日が世界の終わりでも、私は今日林檎の木を植える」というルターが言ったとされる言葉です。永遠の命を与えられた者のみに可能な生きざまがここにあると言うことができるでしょう。明日、すべてが無くなってしまうことが分かっているのに、なお林檎の木を植えることができるとすれば、永遠に生きる命を信じる以外にありません。キリストを信じる者はそれができるというわけです。

男が求めたこともこれと同じ生きざまだったと言えるでしょう。ただそれを男はこれまで以上に善を行うことによって得ようとしました。イエスに向かって「これ以上なにをすればよいのですか」と言った彼のなかによく表れています。彼は善ということにかけては、これ以上することがないほどに渾身を尽くしたのです。

無一文へのすすめ

この男に向かって主は言われました。

「あなたに欠けたものがひとつある」

「欠けている、それならなにを加えれば・・・」と男は瞬間思ったでしょう。

イエスの次の言葉は男の予想を裏切ります。

「持ち物を売り払って、貧しい人に施しなさい。それからわたしに従いなさい」

「ええっ」と度肝を抜かれた男は、

「それはできない相談だ」と思いました。

「善い事と思って、せっかくこれまでせっせと積み上げたものをどうして・・・」

イエスがこの男に求められたのは、なにもかも失ってしまえということに他なりません。彼がこれまでしてきたことといえば、自分のしてきたことに次から次へと増し加えることでした。今やその反対のことをせよと命じられたわけです。すべてを失って見よ、ということです。つまり無一文になれというわけです。自分の側になにもないのです。そこに自分の身をおいて見よ、そこでなにが見えるかということに他なりません。

人はすべてを失うような体験をすると、仕方がないことだ、なるようにしかならない、どうしてこんなことにとあれこれ思い悩みます。ときには人を恨み、己を傷つけ、会社が悪い、学校が悪い、親が悪いと恨み辛みのなかにもだえることもあるでしょう。イエスはすべてを失うことに積極的になれと言っているのです。言い換えるなら、無一文になったとき、それは自分が進んで無一文になることを選び取ったのだ、そう思いなさいということです。そうすると、そこでしか見えないものがあるのです。それをイエスはこの男に見せようとされたのでした。

ルターは詩編の講解書のなかで「人はすべて頼るものがなくなった時、キリスト以外に行くところはなくなる」という意味のことを書いています。さらに「キリストは私のために死んでくださったという信仰がなければ、福音的ではない」とも言います。

男は、このことをこそ知るべきでした。しかし彼は思い至りませんでした。まだ自分のすべてを失うに至っていなかったからです。そのため今や十字架上で彼のために死のうとされるキリストの姿が見えず、自分自身のほうが見えたのでしょう。

もしこの男が一切を失って、無一文であることを選び取ったならキリスト以外に行くところがないことを知るにちがいありません。そうなれば今彼の前に立つお方がだれであり、男のこれからの命は、彼に代わって死んでくださったキリストの命と取り換えっこした命であると知ったはずです。そうなれば彼は、それこそ明日が世界の終わりでも、私は今日林檎の木を植える」ことができる生きざまをイエスに従う者として表したことでしょう。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年10月22日 聖霊降臨後第19主日礼拝)

説教 「エッファタ!」 大柴 譲治

マルコによる福音書 7:31ー37

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

メシアのしるし

本日の福音書の日課ではイザヤ書の預言がイエスにおいて成就したことが語られています。「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ35章4~6節)

しかしそのことに民衆は気づかない。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と讃美しつつ、それを旧約の預言の成就、神の到来と救いのしるしとしては明確に認識していないのです。

実は、マルコ福音書が記す主イエスの奇跡はすべて、メシアのしるしとして記されています。1章から10章までは各章に奇跡が最低一つは記されているのです。

1章・(1)汚れた霊につかれた者の癒し、(2)多くの病人の癒し、(3)重い皮膚病を患っている人の癒し。
2章・中風の人の癒し。
3章・手の萎えた人の癒し。
4章・突風を静める。
5章・(1)悪霊に取り憑かれたゲラサ人の癒し、(2)ヤイロの娘と、(3)イエスの服に触れる女性の癒し。
6章・(1)5千人の給食とガリラヤ湖上歩行、(2)ゲネサレトでの病人の癒し。
7章・(1)「食卓の下の子犬も子どものパンくずはいただきます」と言った信仰深いシリア・フェニキアの婦人の幼い娘の癒し。(2)本日の日課に記された癒し。
8章・(1)4千人の給食、(2)ベトサイダでの盲人の癒し。
9章・汚れた霊に取り憑かれた子の癒し。
10章・盲人バルティマイの癒し。

興味深いのは11章以降、エルサレムに迎え入れられて以降は、主はぱったりと奇跡を行わなくなるということです。そしてまったく無力なまま十字架につけられてゆくのです。

マルコ8章12節には、天からのしるしを求めるファリサイ人に対して主イエスが次のように心深く嘆いたとあります。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」

「天からのしるし」というのは「神ご自身がイエスが約束されていたメシアであるということを確証してくださるような決定的なしるし」ということでありましょう。どれほどイエスが奇跡を行おうとも、人々はそれを「メシアのしるし」としては見ようとしなかったのでした。そこには人間のかたくなさが表われています。彼らは見ても見なかったのです。彼らはそれを認めたくなかったからだとマルコは記している。

なぜ認めたくなかったのか。自分の地位や名誉を失いたくなかったためでありましょう。イエスの存在は彼らには驚異に思えたのです。イエスは思い上がった人々には痛烈な批判の矛先を向けて行きます。マルコはまだ控え目なのですが、マタイやルカになるとさらに厳しい言葉を記録している。マタイなどは次のような言葉まで記しています。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は使者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23章27節)。主は思い上がった偽善者たちに対してはたいへんに厳しかった。

反面、打ち砕かれた者、悲しむ者、弱い者、小さき者に対する主のまなざしは限りなく暖かく優しい。この両極がイエスさまの中には同居しているのです。

さらに、本日の最初に記された地名にも言及しておきたいと思います。「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」とある。これは地図を見るとはっきりするのですが、まず北に上ってから大きく南に下り、そして再び北に上ってガリラヤ湖に戻られたという経路です。日本の地形に当てはめて言えば、「小田原から出て東京を越え、信濃川の谷を通過して琵琶湖に至るというようなものである」(NTD)となりましょうか。おそらくこの記事は、イエスの使信が異邦世界にも開かれていることを伸べるために、ガリラヤを囲むすべての外地をここに網羅したと考えられます。先週の日課であった異邦人の女性との出会いも、異邦人に対してもイエスの憐れみが豊かに注がれているということをユダヤ人に対して示していたのです。既に「救いの時」はイエスにおいて始まっているのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

「エッファタ」!

「エッファタ!」と語られたイエスさまのみ業にもう一度戻りたいと思います。それはメシアのしるしとして行われた出来事ですが、私たちにとってはどのような意味を持つのでしょうか。

マルコは記します。「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」。

耳が聞こえなかった人の耳が開かれ、口がきけない人の口が開かれた。「エッファタ(開け)!」というアラム語で語られた呼びかけの言葉は、自分一人の孤立した世界に置かれていた者をキリストへとつながる場へと呼び出した言葉であり、そのことによってその者を他者との豊かなコミュニケーションへと招いてゆく言葉であったと思います。

ここにキリストと出会う喜びがある。ある意味で自分自身の内なる律法主義にがんじがらめになっていた私たちを、主は「エッファタ」と言って、自由へと解放してくださったのです。「あなたは孤立している必要はない。自分の中に閉じこもっている必要はない。私があなたを神さまに向かって開く。自由になりなさい。神さまのいのちの息吹を受けなさい」。主は天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言って息を吐きかける。そこでは神の息吹によって新しい人間の創造が行われていると言ってよい。「主なる神は、土の塵(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2章7節)というみ言葉を想起します。

「これは私が誇りにしている息子だ」

一昨日よりシドニーオリンピックが始まりました。毎日その人間ドラマを楽しみにしている方も多いことでしょう。先週の月曜日から水曜日まで私は、武蔵嵐山の国立婦人教育会館で開かれたルーテル学院大学の工藤信夫先生の牧会事例研究に参加しました。その中で工藤先生が、バルセロナオリンピックでの陸上競技でのエピソードを紹介してくださいました。

それはこういうものでした。一人のランナーが競技中に肉離れか何かで倒れます。金メダルの有力候補であったようです。すると、警備員の制止を必死になって振り切って、一人の男性がそのランナーのところにかけよってゆく。そして彼を抱きかかえながらこう大声で叫んだというのです。「見てくれ。これはおれの息子だ。彼はベストを尽くした。そんな息子をおれは誇りに思う!」と。

私はこのエピソードを聞いて本当に心動かされました。惨めさと悔しい気持ちで一杯であったであろうその息子にとっては、実にありがたい父親の言葉だったと思います。たとえその時にはそれが分からなかったとしても、やがてそのことの深い意味が分かったに違いない。父親はボロボロになった息子をそのようにかばうことによって守ろうとしたのです。家族というものはそのような強い絆で結ばれており、親には子どもを守る責任があるのだということを私はもう一度教えられたように思いました。

耳が聞こえず、言葉を話すこともできない一人の男性を群衆からただ一人連れ出し、指をその両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられた主イエス。マルコ8章23節にも主は盲人の目に唾をつけて病手をその人の上に置いて癒されたということが記されています。私は母犬が傷ついた子犬をぺろぺろとなめて癒す姿がそこに重なります。人間の最も弱いところ、傷ついたところを主がそのようなかたちでかばい、癒してくださる。それはゴール寸前で倒れた息子の傷ついた心を、「この息子はベストを尽くした。それを本当に誇りに思う」と皆に向かって叫ぶことで、そのような深い愛を示すことで癒そうとした一人の真摯な父親の姿と重なるように思うのです。

主イエスの洗礼の時に、霊が鳩のように降る中で天から響いた声があります。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」(マルコ1章11節)。「エッファタ」という主イエスの声は、このような小さな破れの多い私たちにも関わらず、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを誇りに思っている」と告げてくださっているのではないか。そしてその愛と促しとによって私たちに本当に内的な自尊心を与えられ、閉じこもっていたところから解放され、他者とつながってゆく自由を与えられのではないかと思います。

「エッファタ!」。私たちの傷つき閉ざされた心は、あのキリストの十字架と復活とによって神の愛に向かって開かれたのです。十字架上から「I love you」と言ってくださるお方が、私たちの耳と口と目と心とを神さまに向かって開いてくださった。そしてそこにおいて私たちは、神の家族としての共同体を形成してゆく力を与えられるのです。

苦しみや悲しみの中にある者たちの上に、自分を愛することができずに深いところで傷つき、孤立し、苦しんでいる者たちの上に、神さまのあわれみのみ業が豊かにありますように。キリストの「エッファタ!」という力強い声が私たちの殻を打ち砕き、神のいのちの息吹が私たちを新しく造り変えてくださいますように。

お一人おひとりの上に祝福をお祈りします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年9月17日 聖霊降臨後第14主日礼拝)

説教 「湖上を歩く幽霊」 大柴 譲治

マルコによる福音書 6:45ー52

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

高価な恵み

本日は私たちに示された神さまの高価な犠牲、高価な恵みに思いを巡らせたいと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16 )。

個人的な思い出から

私は牧師の息子として名古屋の恵教会に生まれました。小さな時から牧師館で育ってきたわけです。5歳の時に父は静岡教会に移りましたが、そこでは隣りの宣教師館に住んでいるハイランド宣教師の子供たちと毎日のように一緒に遊びました。9歳半で父が全国レベルの開拓伝道のために岡山に移ったときにも、そこにはアメリカからのエリクソン宣教師とその家族がいて、その子供と遊びながら育ってきたわけです。

しかし、いつの間にか宣教師の子供たちは私の周りからいなくなってゆき、子供心に寂しい思いがいたしました。彼らの多くは、小学校は日本人と共に地元の小学校に行っても、中学に入ると東京のアメリカンスクールや神戸のカナディアンアカデミーなど、学校の寄宿舎に入るために親元を離れていったのです。中には小学校から親元を離れた子供たちもいたように記憶しています。夏休みなどは親元に帰省していましたが、子供心にも大変だなあと思いました。三人の子の親となった今、そのことを振り返ってみますと、宣教師の家族がいかに高価な犠牲を払って日本伝道のために尽くしてくださったかということを思います。

小泉潤総会議長

先週、小泉潤総会議長のもと、二年に一度の全国総会が東京教会で開かれました。ご承知のように小泉先生はカリスマ的な伝道者です。先日、戦前にルーテル神学校で学ばれた教会員の平林司さんからも小泉潤先生のお父様・小泉昂(のぼる)先生について伺いました。(福山猛先生は『日本福音ルーテル教会史』に昂先生についてこう記しています。「資性きわめて直情径行で説の妥協をゆるさず、よく論談し個性の強い信念の人であったと共に、また綿密な実行家でもあった。児童教育に深い関心を持ち、また教会礼拝学にも一見識をもっていた」。)大阪教会の牧師であった昂先生は戦争中、ご病気のため41歳の若さで亡くなられました。闇米を食べることを潔しとしなかったためともお聞きしています。後に残された武子夫人のご苦労は並大抵のものではなかったと思います。夫人は熊本の慈愛園に身を寄せ5人の子供たちを立派に育てられました。そのようなご両親の信仰を目の当たりにする中で、人を生かすのはキリストの福音しかないと小泉潤先生は伝道者となられた。

皆さんの中にも、小泉一家が一家総出の伝道ファミリーであることをご存じの方も多いのではないかと思います。小泉先生は直感的に行動するために後から困難に直面するということもありますが、その行動力と暖かさと、人を用いてゆくカリスマはずば抜けていると感じます。その背後にはお母様の涙と熱い祈りとがあったのです。

SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)日本宣教百年

今回の総会では二日目の夜に新しく、宣教の夕べという時間がありました。その中では、今日ここにも出席されているフィンランドからの青年グループ Aktio が、先程のようにパントマイムで力強く福音のメッセージを披露してくださいました。

総会時に小さなリーフレットが手渡されました。1900年にフィンランド福音宣教協会は一組の宣教師家族と 歳の少女宣教師を日本に派遣しました。その宣教初期の頃の困難さが短くもよくまとめられていますので是非お読みください。フィンランドと関連が深い大岡山教会信徒の鈴木重義さんがまとめられたものです。私はそれに目を通して強く心を動かされました。

1900年といえば、フィンランドはまだロシア領だったそうです。「その頃フィンランドは、ロシアの支配下で、政治、経済、その他のあらゆる面で厳しい圧力を受けており、多くの国民は貧しい暮らしを強いられていました。そのような中で、フィンランド人であることの誇りは一層強まり、不屈の精神からその誇りの一つである福音を、どんな犠牲を払ってでも日本へ伝えようと決心したのです」(リーフレット5頁)。

フィンランド独立は1917年の2月。ですから、1904年2月より1905年9月までの日露戦争中は、ロシアのパスポートを持っていた宣教師たちは大変に苦労しました。

フィンランドからの最初の宣教師家族は25歳のウェルロース牧師一家と17歳のクルヴィネンさんでした。ウェルロース夫妻には4歳、3歳、1歳の三人の娘さんがおられたのですが、一行はフィンランドからイギリスに渡り、地中海から完成して 年のスエズ運河を通ってインド洋に入るというコースを通り、76日間にわたる困難な船旅の末にようやく長崎に到着しました。1900年の12月13日のことです。大変な長旅でした。ウェルロース夫人は厳しい長旅の中で船酔いに悩まされ続け、幼いこどもたちの世話にも疲れ果てて、すっかり身体が弱ってしまいます。日本の建て付けの悪い家では冬のすきま風が容赦なく吹き込み、三ヶ月目には一番下の赤ちゃんが風邪がもとで亡くなってしまいます。そして残された一家は深い心の痛手の中で健康を害し、1902年の初めには帰国することになったのです。たった一年余の滞在でした。しかしそれはご夫妻にとっては長く辛い一年であったことでしょう。

「日本宣教の最初の犠牲は、このような悲しいしかたで払われたのです」と鈴木さんは記します。「その後百年経った今年、長崎教会の浜田牧師の尽力で、これまでいくら探しても見つからないでいた亡くなったクッリッキちゃんのお墓が発見され、フィンランドから百年記念旅行に来ていた訪問団の方たちが、お墓の前で礼拝を守ることができたのです。百年ぶりに響いたフィンランド語の歌声は、神さまのふしぎな導きをたたえる感謝の歌になりました。その後、コルピネン牧師は来日二ヶ月で天に召され、カリコスキ宣教師の三女ピルヨちゃんも急病で亡くなり、お二人の遺骨は東京・多摩の教会墓地に葬られて、永く記念されています。百年という永い年月にわたる宣教活動は、このほかにも生涯のある時期を日本にささげられた宣教師やご家族の方々によって支えられてきたことを忘れることはできません」(8頁)。

皆さんの中にも子どもを亡くされた方もおられましょう。子どもが病気になったときの親の気持ちは何とも言えないものです。慣れない異国の地で子どもが病気になり、必死になって看病しても言葉のギャップから医者とのコミュニケーションもうまくいかない。ついに幼いわが子を亡くし、自らもボロボロになったご夫妻は、親として自らを責め続けたのではなかったか。ウェルロース宣教師夫妻に与えられた日本宣教の夢と希望とはそのような形で完全に打ち砕かれてゆくのです。 しかし、人間の無力と絶望と敗北の中に神の力は働く。十字架の勝利とはそのような勝利です。そのような中で、フィンランドからは宣教師が派遣され続けてゆきます。このリーフレットの中にはこの百年で派遣されてきた 人の宣教師のお名前が記されています。そこには現在私たちの教会で働いて下さっているヨハンナ・ハリュラさんのお名前もあります。

湖上を歩く幽霊

本日は福音書の日課には湖の上を歩く主イエス・キリストの姿が記されています。これは何を意味しているのでしょうか。船は教会を表しますから、荒波にもまれる船とは厳しい迫害の下にあって沈没しそうになっている初代教会の姿を指していましょう。聖書の中で「海」はしばしば「悪の世界」を意味します。逆風の中で船が苦労している(しかも夕方から明け方近くまで!)のを見た主は湖の上を歩いて船に近づいてゆきます。

「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」(48節)。「そばを通り過ぎようとされた」というのは不思議な表現です。そこでは主なる神に「あなたの栄光を見せてください」と願うモーセに神はその背中を見せられたということが想起されているのでしょうか(出エジプト33:18-23)。それとも主に見捨てられたように思った初代教会の思いが表れているのでしょうか。

湖上を歩くイエスを弟子たちは幽霊だと思い叫びます。自分たちを死の海へと引きずり込もうとする死神に見えたのかもしれない。いずれにしても弟子たちは恐怖の中でイエスの姿を認めることができないでいます。人間の味わう絶望の中でも主の姿を見出すことができない絶望ほど闇の深いものはありません。義人ヨブの苦しみも、愛するわが子を失ったウェルロース宣教師ご夫妻の苦しみも、その苦しみがさらに辛くなるのはそこに主の姿が見えてこないからです。そこには湖上を歩く幽霊しか見えない。

しかし聖書は告げています。そのような弟子たちに、そしてそのような私たちに、キリストご自身が呼びかけてくださることを。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」このキリストの声が嵐を静めるのです。これは主が私たちに与えてくださる平安が、人生の中で味わう苦しみや悲しみ、絶望の海の中にあっても、私たちを強く支えてくださるということを意味しています。私たちが頼るべきはあのお方、私たちの羊飼いなる主イエス・キリストしかないのです。

洗礼を受けてクリスチャンになれば苦しみや悲しみがなくなるというわけではありません。嵐がなくなるわけではない。しかし私たちはその嵐の海のただ中で、絶望のただ中で、それに耐え、それを乗り越えてゆく力を、苦難を背負い、十字架にかかってくださったあのお方の、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」というみ声から得るのです。

日本宣教のために高価な犠牲を払い続けてきてくれた宣教師や信仰の先輩たちの熱い思いを、私たちもまた受け止めてゆきたいと思います。キリストを信じる者はキリストのゆえに嵐を恐れなくてよい。たとえ恐怖の中で幽霊しか見えないようになったとしても、そのような私たちに主は呼びかけてくださる。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。主は私たちの怖れを、嵐のただ中にあっても平安へと変えてくださるのです。ここに私たちの足場があり、礎がある。慰めがあり、喜びがあり、希望がある。

本日のフィンランドからの青年グループのパントマイムメッセージをも、主からの力強い呼びかけとして受け止めてゆきたいと思います。「神はその独り子をお与えになった程に、世を愛された。」

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年8月27日 聖霊降臨後第11主日礼拝)

説教 「本当の安息とは」 大柴 譲治

マルコによる福音書 2:23ー28

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「本当の安息」とは

「安息」という日本語はなかなか意味深長で「安らかな息」と書きます。そのような安息の時や場が私たちの日常生活にはどうしても必要です。しかしそれが見出せず、自分を失ってしまうということがしばしば起こる。

本日は主が与えてくださる本当の安息とは何かということに焦点を当てながら、み言葉に耳を傾けてゆきたいと思います。

「自分で自分をほめてあげたい」

先日、箱根で開かれた東教区の常議員会でのことです。田園調布教会の杉本洋一先生が「自分を自分でほめてあげたい」と言われました。その言葉に私はハッと小さな驚きを覚え、そしてホッとしました。

「自分で自分をほめてあげたい」。暖かい響きをもった言葉です。教会に来る方はまじめな方が多く、どちらかというと自分の罪や弱さにばかり眼が行ってしまうことが多いようです。だから、なかなか自分で自分をほめることができずに深刻になって苦しんでしまう。そのような中で杉本先生の言葉はとても新鮮でユーモラスに響く言葉でもあります。そうか!自分で自分をほめてもいいんだ。そう思うと私も気持ちがホッと楽になりました。これこそ「安息」、「安らかな息」ということではないかと思います。

風を感じるために

先日の飯能集会で「風は思いのままに吹く」(ヨハネ3・8)というみ言葉が話題になりました。ニコデモ同様、私たちも自分の中に「律法主義」といったものを持っていますが、そこからどうすれば解放されるのかという話になったのです。

「風は思いのままに吹く」と主イエスが言うときの「風」とは「聖霊」のことです。旧約(ヘブル語)でも新約(ギリシャ語)でも「風」と「霊」と「息」とは同じ言葉です。「安息日」と言うときの「安息」とは、神さまからの柔らかな風を感じることであり安らかな息を感じることなのです。

「どうすれば風を感じることができますか」。飯能集会で岩間さんが質問されました。しばらく考えて私がお答えできたことは、風を感じるためには少なくとも自分の中に閉じこもっていてはダメではないかということでした。窓を開けなければ部屋に新しい風は入ってこない。風を感じるためには心の窓を開く必要がある。かちこちに固くなっていては風は自分の中を吹き抜けてゆかない。

では、具体的にはどうすれば心を開くことができるのか。よい映画やよい音楽やよい本や、感動する出来事や人物に出会ったときに私たちは新しい風を感じるように思います。

風に身を任せる幸せは、おそらくグライダーやスカイダイビングなどで味わうことができるのだろうと思います。そこで私たちは重力から解放されて自由になる。風に乗る爽快感があると想像します。和田みどりさんが以前のむさしのだよりにスカイダイビングが自分の夢だと語っておられました。「風に乗って鳥のように自由に大空を飛んでみたい」。そう願わない人がいるでしょうか。私たちは心の奥底にそのような願いを秘めています。私たちの現実は束縛ばかりだからです。

『翼をください』

『翼をください』という歌があります。娘によると小学校6年の音楽の教科書にも出てくるそうです。昨年のサッカー世界大会の日本代表の応援歌にもなりました。一度礼拝の中で讃美歌として歌いたいとも思っています。

それは次のような歌詞です。

いま私の 願いごとが かなうならば 翼がほしい
この背中に 鳥のように 白い翼 つけてください

この大空に 翼をひろげ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ 翼はためかせ 行きたい

いま富とか 名誉ならば いらないけれど 翼がほしい
子供の時 夢見たこと 今も同じ 夢に見ている

この大空に 翼をひろげ 飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ 翼はためかせ 行きたい

(山上路夫作詞、村井邦彦作曲)

この曲が私たちの心を打つのは、私たちの現実が悲しみや不自由に取り囲まれているからです。私たちは時折窒息しそうになる。ですから、「自由になりたい!重荷や束縛から解放されたい」という気持ちはよく分かるのです。これは一つの神への祈りでもあります。

レーナさんの自由さ

昨日、この場所でレーナ・マリアさんの証し会がありました。生まれたときから両腕がなく片足も不自由というレーナさん。その力強い歌声とユーモアを交えた証しに私たちは深い感銘を覚えました。30人もの方が新来会者カードにお名前を書いてくださったという事実にもそれは表れています。むさしの教会75周年の企画にまことにふさわしい内容のビッグイベントでした。八幡さん、杉谷さんをはじめ、労をとってくださった伝道委員会の皆さんに感謝したいと思います。

しかしレーナさんの何が私たちの心を打つのか。その歌や話を聞きながら私が強く思ったことは、彼女の自由さということでした。レーナさんは魂の自由ということを知っていて、それを讃美と証しで分かち合っている。「私には神さまに与えられた特別な使命があり目的があります。そしてすべての人にはそれぞれ二つとして同じもののないユニークで特別な目的があるのです」と語るレーナさんの顔はまぶしく輝いている。今自由な自分として生かされている。その喜びは主イエス・キリストを信じる信仰から来るのだとレーナさんは語ります。

そのレーナさんを障害者と見ているのは、いや、そう見させているのは、私たち自身の中にある歪みであり不自由さなのではないか。そう私は思います。「悲しみのない自由な空へ、翼はためかせ行きたい」と歌う時の私たちの不自由さは、実は私たち自身の中にある「かたくなさ」「罪」から来るのではないか。神から切り離された生を送っている私自身の、私たち自身の律法的で不自由なあり方が示されている。その束縛から私たちを解放するためにあのキリストは十字架にかかってくださったのです。レーナさんの自由さはそのことを私たちに伝えています。

「安息日の主」

本日の福音書にある安息日論争を読むと、律法にこだわって大切なことを見失ってしまう人間の愚かさというものを強く感じます。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という主イエスの言葉は、人間を律法主義から解放する解放宣言です。律法は人間を守り生かすために与えられたのであってその逆ではない。たいへんに明快な言葉です。

「だから、人の子は安息日の主でもある」という主の言葉は、安息日の上に立つ主の権威を表していましょう。私たちに本当の魂の安息を与えることのできるお方がその権威をもって語っておられるのです。

「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない!」 この言葉を聞いて私たちは「ああ、そうだったのか!」とハッとします。白い翼がそこに与えられていることを感じる。キリストはご自身の権威によって私たちを大空に翼を広げて翔ぶことのできる者としてくださるのです。律法の呪いと束縛の中から私たちを解放し、信仰による本当の自由、本当の喜び、本当の慰め、本当の安息を与えてくださる。それが私たちの救い主イエス・キリストです。

パウロもルターも自らの内なる律法主義と対決して苦しみました。そしてキリストによって解放された。だからパウロは、「割礼の有無など問題ではない。キリスト・イエスを信じる信仰こそが大切だ!」と叫ぶことができた。ルターも律法によらず信仰によって人は義とされるのだというパウロ的な福音理解を再発見した。キリストによって解放されたからです。

キリストによる白い翼

パウロは本日の使徒書の日課でこう語ります。

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(2コリント4・8-9)のだと。

それは私たちがキリストの力により頼んでいるからです。シリアスな状況にも関わらず、自分が自分がという力みはなくなっている。自分が空っぽになって、上からの風を全身に感じて生きる自由さを感じます。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6・15)とパウロが言うとき、確かに彼はキリストの自由な風に吹かれて生きていると言える。

人が安息日のためにあるのではなく安息日が人のためにあるのだと私たちに向かって大声で宣言してくださるお方。このお方の十字架が私たちを律法主義から解放する。罪と死の束縛から私たちを愛と自由の人生へと解放するのです。キリストの愛が私たちの心の窓を開け、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」というようにしなやかで柔らかな生き方へと新しく造り変えてくださるのです。

復活の主はご自身の息を弟子たちに吹きかけられました。神のいのちの息によって私たちは様々な囚われから解放されてゆきます。本日のみ言葉から私たちはそのようなダイナミックで自由なキリストの新しい風=霊=息吹を全身に感じ取ってゆきたいと思います。その風の中にこそ私たちのための本当の「安息」が備えられているからです。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福と導きとがありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年6月25日 聖霊降臨後第二主日礼拝)