マルコ 9:30―37
キリスト教の価値観はこの世の価値観とはまったく異なっています。本日のイエスさまの言葉もそうです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
弟子たちはだれが一番偉いかをめぐって議論していました。それはもしかしたら内輪もめというような様相を呈していたかもしれません。12人は仲よしグループではけっしてなかった。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネという二組の兄弟を中心としてはいたものの、その生まれ育った背景も、職業も(もっとも漁師が多かったことでしょうが)、性格も、能力も、考え方も、それぞれまったく異にする12人でした。共通点はただひとつ。それは彼らが一人残らずイエスさまによって呼び集められたという点だけでした。
だれが一番偉いか。これはリーダーシップの争いです。この問いかけは弱肉強食の競争社会を彷彿とさせます。この少しあとのマルコ10章では、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネとが(マタイでは彼らの母親が依頼したことになっています)、「栄光をお受けになるときに、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左にすわらせてください」とイエスに願い出ています。他の弟子たちは「これを聞いて腹を立てた」とありますから、実は彼らも内心は同じ気持ちを持っていて、おそらく「二人に出し抜かれた!くそっ、ひきょうな!」と思ったに違いありません。彼らはだれが一番偉いかについていつも争っていた。私たちには手にとるように弟子たちの心の動きがわかります。そこに私たち自身の姿が見えるからです。権力欲、栄誉欲、自尊心といった自分の欲望を満足させようとする人間の裸の姿が描かれている。社会的にも、物質的にも、精神的にも、私たちは少しでもよりよい立場を求めて行こうとする、「本能的」とも言うべき欲求を持っています。「弱肉強食」を英語では「ジャングルのルール」と呼びます。
だれが一番えらいか。ギリシャ語ではそこには「より大きいか、より強いか、より偉いか、より優れているか」という比較級が使われています。私は二年間のアメリカでの生活の中で強く感じたことのひとつに、アメリカ人にとってアメリカンドリームを実現することがいかに大切であるかということがありました。ビジネスにおいても、スポーツにおいても、あるいはエンターテイナメントにおいても、成功者となることを皆が求めている。成功イコールお金です。アメリカ体験をお持ちの方はお分かりだと思いますが、アメリカは一面極めて個人主義的な色彩の強い厳しい競争社会です。日本にも、アメリカと違ってもっと集団的な行動形態を持つ傾向はあったとしても、ビジネスの世界では(現在は教育の世界もそうであるのかもしれません)弱肉強食、すなわち、強いものだけが生き残って行く、弱いものは競争に破れて脱落して行く、そういう厳しい現実があることでしょう。私の子供たちが通っていたフィラデルフィアの小学校でも、年に二度ほど、学業の優秀な生徒だけを親と一緒に集めてごほうびに祝会を開くということがありました。その席で市の教育委員会から派遣されたゲストが、「皆さん、これからも(競争に)勝つように頑張ってください。」と挨拶したのには本当に驚かされました。しかし主はそのような人間の現実の中で、この世の価値観とはまったく異なった視点からすべてを見てゆくのです。主は弟子たち、すなわち私たちに命じます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」一番すばらしいことは一番ビリになることであり、一番下になって人に仕えてゆくことだというのです。
別の言い方をすれば、主は負けてゆく者、弱い者、小さい者、倒れてゆく者たちの中に勝利を見てゆかれると言ってよい。この弱肉強食の世界の中にあって、マザーテレサのように、一人ひとりの小さき者を大切にしてゆく愛を実践することによって世界を動かし、変えて行こうとする生き方へと、私たちを押し出して行かれるのではないかと思えてなりません。「このような小さき者の一人にしたことは私にしたことなのだ」とマタイ25章で主は語っておられます。主ご自身が、飢えている者、渇いている者、旅の途上にある者、裸の者、病気で苦しむ者、牢獄に囚われている者、そのような小さき者の一人となって下さったのです。十字架の死は最も小さき者の死であり、最も惨めな、痛ましい死でありました。主は私たちの飢え渇き、貧しさ、弱さ、罪、恥、病い、孤独、そのようなすべてを背負って十字架にかかられた。「わが神、わが神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか!」という叫びはそのような小さき者たちの叫びでありました。私たち自身も何度そのような叫びを私たちの人生の逆境の中で叫び続けてきたことでしょうか。
一昨日の飯能集会の中で、「歳老いた母の世話さえできない私は、とうていマザーテレサのようにはなれない」という声がありました。その方がたいへんなご苦労をされているということを私は感じ取りました。私たちはマザーテレサのようにならなくてよいのです。なる必要はないのです。マザーテレサはマザーテレサ、私は私なのです。生活の小さな一コマ一コマの中で、私たちは小さな仕え人となってゆけばよいのです。小事に忠実であることが大切であるとも言えましょう。「仕える」という言葉は「ディアコノス」という言葉です。「ディアコニア」という言葉を、岸千年先生はよくこのように説明されていました。それは「ディア」と「コノス」という二つの言葉からできている。「ディア」というのは、英語で言えば through, つまり「~を通って」という意味であり、「コノス」というのは dust, つまり「埃、塵」という意味である。だからディアコニア、仕えて行くというのは埃の中を通ることであり、どろをかぶってゆくということなのだ、と。食卓に仕えるというのは、特にご婦人の方たちは、もちろん男性の方もそうですが、日常的に行っている勤めでもありましょう。あるいは、落ち葉掃きという小さな業も文字どおり、埃をかぶってディアコニアを実践しているということになります。
人生の中でさまざまな苦しみや悲しみを体験している時、私たちはそのことの意味を神さまに問うことがあります。どうしてこのような苦しみを私は味わわなければならないのか。私たちの周囲を見回すと、そのような現実ばかりです。信徒や求道者の方々のお話しを聞けば聞くほど、そのような思いを強めています。また、旧約聖書のヨブも塵灰の中に座してその不幸を嘆いている。みんなディアコノスです。もっと言うならば、苦しみや悲しみを体験するときに私たちはディアコニアを経験していると言ってよいのではないか。それは私たちの苦しみや悲しみを背負って十字架へとかかってくださったお方の奉仕を私たちが受けているからです。最も低いところに降り立って下さったお方は私たちに仕えるために、その生命をそそぎ尽くすまでに徹底的に仕えるために来てくださいました。礼拝とは英語で service と言いますが、これは私たちが神にサービスするというよりも、神の私たちに対するサービスを覚えるという意味です。ドイツ語では「礼拝」は文字どおり「神の奉仕」と呼ばれています。
関西の方ではしんどいこと、辛いことを「えらい」と言いますが、一番しんどい人がやはり一番偉いのです。優秀の優、優しいという言葉は「人べんに憂い」と書きます。太宰治の言葉に、「人は心に憂い悲しみをたくさん持っていなければ、優しくもないし、優れてもいないのだ」というものがあるそうです。自分の憂い悲しみを他者のそれを受け止めて行く共鳴板として用いて行くとき、苦しみにも大切な意味があることが見えてくるのではないでしょうか。だれが一番えらいか。あの十字架の上で一番深い苦しみを味わったお方が、一番えらいし偉いのです。自ら泥と塵灰、埃をかぶる道を歩んで私たちの闇の一番底に降り立ってくださったお方が私たちの希望となり光となってくださったのです。あの十字架の上に人の憂いをとことん味わい尽くされたお方が一番優しく、一番優れておられたのです。そのお方のもとに私たちは新しい一週間を始めてまいりたいと思います。