井戸端の戸(新・編集後記)たより編集委員会メンバー

編集室から

最近、外を見ると、緑が濃くなってきたことに気付いた。生命力を感じる。朝早く起き、散歩に出かけると、空気が美味しいと感じるようになった。風も気持ち良い。自分が気付かないうちに、自然はこんなにも活気づいていた。ちょっとした感動である。緑と言えば、人間の目に最もリラックスを与える色が緑らしい。緑を見ると、人は心身の疲労が取れやすくなるのだそうだ。こんなにも、瑞々しく緑が映えているのだ。疲れたり、仕事に行き詰ったなら、部屋に籠っているのではなくて、外に出て緑を楽しむのが一番である。そして、美味しい空気をお腹一杯吸って、気分を一新したい。今回、新たに秋久潤神学生が編集委員へ加わった。編集委員も新しい風の下、新たに取り組んでいきたい。(ス)

(編集委員:落合武四郎、野口玲子、高橋光男、萩森英一、根本慧子、冨里雪子、鈴木雄大、秋久潤)

(2012年5月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 広い視野から

ジェット旅客機は高いときは12000m位の高度を飛ぶ。この高度からの視界を電卓をつついて計算してみると、半径390kmほどである。羽田上空からだと琵琶湖、能登、佐渡、石巻、八丈島あたりまで見えることになり、大型台風も一望できる。さらにインターネットの気象衛星写真では常時世界中をみることもでき、グーグルマップの衛星・航空写真では主な町々の詳細を見ることも可能になった。我々の視野も物理的には随分と広くなった。もうバベルの塔なんかは必要ない。しかし本当に視野が広いかとなると何とも心もとないのだが。当編集もなるべく広い視野を持ちたいものである。パワーアップを図って今回から新スタッフに鈴木雄大神学生が加わっています。

(ハ)

(たより2011年9月号)

編集委員:落合武四郎、野口玲子、高橋光男、萩森英一、富里雪子、鈴木雄大

むさしのだより「井戸端の戸」 主にゆだねるとは

“主にゆだねる”とはどういうことか、私はいつも考えている。考えているのだからゆだねていないのかもしれない。

『ルターの祈り』(石居正己編訳、聖文舎、p45)でルターは次のように祈っている。

「ああ私のキリストよ。すべての私の能力は無であり、すべての私の賢さは盲目で、 とんでもない愚かさでしかなく、すべて私の敬虔も生活も地獄に落ちるにふさわ しいだけです。ですから私は、自分自身をあなたの恵みにゆだねます。どうかあなたのみ霊に従って私を支配してください。私が自分で自分を支配し、賢明であろうとするいっさいのことを空しくし、私の分別や理性をただもう全く愚かなものとしてください。そして私をあなたのふところの中に保ってください。アーメン」と。

(ど)
 (たより2011年7月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 バッハの「アリア」

4月24日(復活祭)の午後、第42回むさしの教会イースターコンサートが開催された。木漏れ日が差し込む満席の会堂で東京バッハアンサンブルにより冒頭バッハの「アリア」(管弦楽組曲第3番)が厳かに奏でられた。かねてバッハに魅せられた私は退職後、複数の合唱団で受難曲等を学び、歌い続けている。

1997年8月バッハの足跡を訪ねる12日間の演奏旅行に参加し、ケルン・アイゼナッハ・ライプチッヒ・ベルリンの諸教会に於いて、パイプオルガン前の聖歌隊席で、バッハのモテット、カンタータを演奏した時の感動は忘れ難い思い出となっている。バッハを生んだ私共のルター派教会で独自に、オラトリオなどの演奏会が出来ればと願っている。

(お)
 (たより2011年5月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 the face of God

Put out my hand, and touched the face of God.

―― John Gillespie Magee, Jr. “High Flight”より

 

これは第二次世界大戦時、戦闘機パイロットがテスト飛行で空のとても高いところまで飛んだときに詠んだ詩の最後の一文です。彼はこの詩を両親に送ったあと三ヵ月後に19歳で戦死しました。レーガン大統領は、チャレンジャーの事故の際にこの一文を引用しました。

私は英語のクラスでこの詩を読みましたが、人によってこの一文の感じ方が、恐怖、歓喜、畏怖、安寧、等と異なり興味深かったです。それは、その人の神様や死に対する感じ方によるように思いました。あなたはどのように感じますか?

(と)
(たより2010年11月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 ローベルト・シューマン生誕200年

ローベルト・シューマン生誕200年の今年5月、ベルリーンに二週間ほど滞在し、その間にライプツィヒのローベルトとクラーラの住まいを訪れる機会に恵まれた。猛反対するクラーラの父との裁判に勝ち、1840年にようやく結婚へと至った二人が44年まで住まった家。東西ドイツの壁崩壊後の1999年に初めて公開されたという。当時の面影が偲ばれ、ブラームス、ワーグナー、リストなど著名な作曲家や詩人や芸術家がこのサロンで出会い、講演や演奏会が催された記録があった。才能に溢れた芸術家達が競い合いながらも互いを認め合うことで自身が高められ、時代を超えて愛される尊い作品が残されたのだ。因みにブラームスを世に送り出したのはローベルト・シューマン。クラーラの名で出版されたシューマン全集版の真の編集者はブラームスといわれる。感謝。

(ノ)
 (たより2010年11月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 小惑星探査機はやぶさ

今年6月13日夜、小惑星探査機はやぶさが、地球に戻ってきた。60億キロメートル、7年の旅から。月以外の天体(小惑星イトカワ)への着陸と往復とは世界初の快挙。省エネ型のイオンエンジンと自動制御技術を世界にアッピールした。またカプセルを大気圏突入の高温から護る耐熱材料の優秀性も立証した。

燃料漏れ、姿勢制御装置の故障、通信途絶、エンジン故障などで帰還は一時絶望視された。それだけに帰還はとっても感動的になった。探査機本体は大気圏で燃え尽きてしまったが、イトカワの砂が入ってるかもしれないカプセルが回収された。

数々の試練があったから人びとの感動を呼び起こした。はやぶさの開発、運行の担当者の忍耐と何とかしようという熱意があったればこそ、感動は大きくなった。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙5:3-4)の言葉がふと思い浮かんだ。

(タ)
 (たより2010年 9月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 「ことだまのさきはうくに」

「困ったことは起らない。」「すべてが旨く行く。」「イヤなことは思い出さない。」早朝のラジオである精神科医の先生が,この三つを常々自分に言い聞かせていれば,鬱病患者の大半は高価な新薬を使うこともなく治ってしまうと話していた。またある統計で投薬の際先生の丁寧な説明があると60%の患者に効果があるが,説明ナシでは僅か15%であったとか。万葉集にも「ことだま(言葉)のさき(幸)はう(生む)くに」とこの国は言葉に動かされると書かれている。人間の活動の全てが言葉をベースにしていて、とここで思い出すのがヨハネ福音書の冒頭。アレッ、ちょっとはクリスチャンらしくなれたのかな。とにかく人も国も文明・文化も言葉、すなわちオシャベリが支えているとするか。

(ハ)
 (たより2010年 7月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 “傷だらけのキリスト”

2010年1月の一ヶ月は、私にとって嵐の中の一年のようだった。いろいろな事がどっと押し寄せた。私は思い出す。“傷だらけのキリスト”を。

2009年8月“徳善先生と行く・ルターとバッハの旅”の第一日目の訪問地は、ドイツから入ってすぐのフランスのコルマールだった。古い修道院を使った美術館にグリューネヴァルト作のその“傷だらけのキリスト”の磔刑図はあった。キリストは私たちのために死んで復活して下さったのだから、あなたは私のために死んで復活して下さったのだから、私は何を怯えることがあろうか。ルターは言っている「キリストに目を向けて彼にすがりなさい。そうすれば、あなたは強められ、慰められる。あなたがキリストをじっと見つめて彼を信じるなら、あなたに降りかかり、あなたを傷つけ挫けさせようとする悪はみな決して大きいものではない。」(『慰めと励ましの言葉』湯川郁子訳・教文館)

“傷だらけのキリスト”のその傷は私の傷なのかもしれません。

(ど)
 (たより2010年 5月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 主の風貌

ある方が舞台で観客の目が衣装にいくようでは、その芸はまだまだであるとおっしゃっていました。

勉強不足かもしれませんが、聖書にはイエス様の風貌についてはあまり書かれていないように思います。それはイエス様がなさったこと、おっしゃったことがあまりに強烈に心に焼き付いたため、その風貌や着ていたものは聖書を記した方たちの目には入らなかったからかもしれませんね。

(と)
 (たより2009年11月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 8月9日を覚えて

むさしの教会で初めて礼拝を守ることが許されたとき、大柴先生が「世界の民が互いに愛し合い、戦争の無い世界を来たらせてください」と祈られたことに深い感銘を受けた。その後も礼拝のたびに繰り返し唱えられるこの祈りの大切さを身にしみて感じている。64回目の終戦記念日を迎えた今夏、国の命令を信じ最年少で戦争に関った10代後半の若者達も80歳を越えている。決して思い出したくないほどの悲惨な経験であろうが、どうか後世に伝え残して欲しいと思う。未来へ向かう者は過去の事柄から学ばねばならないのだから。私事だが、原爆投下の瞬間に長崎市の中心地にいた父は勤務先の建物の中で、生後3週間目の弟を抱えた母と3歳の私は市内の自宅で、誰も被爆せずにすんだ。神様に導かれて生かされている幸せに心からの感謝を捧げると共に、平和な世界を守るために勇気と力をお与えくださいと、祈るばかりである。

(の)
 (たより2009年 9月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 庭のゴーヤ

ゴーヤの苗11本を植える。ウチの奥さんがもらってきたもの。ゴーヤが支えられるように麻ひもを2階から張る。ゴーヤは最初は遠慮がちに伸びていた。日がたつにつれ伸びは速くなる。枝分かれもする。これも伸びる。

6ないし7センチごとに一枚の葉を出す。そこに細いツルと花をつける。このツルがおもしろい。ぐんぐん伸びる。手近の物を探して、近くの植物の茎でも葉でも、触れた物に巻き付く。手当たり次第である。

ツルは先端に目があるように物を探る。ツルは細く傷つきやすいが、しっかりと巻き付く。他の植物に巻き付いた時は、そっと外して麻ひもに導く。ゴーヤの生命を感じる。

庭のゴーヤを見るたびに、大地がはぐくむ植物成長の神秘を思う。そこに神のみわざを実感するこの頃である。

(た)
 (たより2009年 7月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 とかくに人の世は

「身を立て名をあげ、やよ励めよ(小学唱歌)」
「令名(よい評判)は大いなる富にまさり(箴言22.1)」
「あなた方は世の光である(中略)燭台の上に置いて家の中全てを照らす(マタイ5.14)」
「全ての人に誉められるときあなたがたは不幸である(ルカ6.26)」
「おのれを低くして死に至るまで(ピリピ2.8)」 
「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になる(マタイ19.30)」
「いちばん上になりたい者はみなの僕になりなさい(マタイ20.27)」

一番目のは究極の親孝行を孔子が説いた言葉で立身出世奨励ではないとか。個々には納得できても、並べてみると駆け出し者にはコンガラカッテしまう。

「とかくに人の世は住みにくい(夏目漱石『草枕』)」 

世の中全て多面的にして矛盾に満ちている故、当編集室に入ってくる様々なものも先入観を無くして素直に受け入れるのが正道なのでしょうが、これが案外に難しくて・・・

(は)
 (たより2009年 5月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 時間管理

「この秋は行事が一杯あったわね。バザーの追い込みと重なって大変だったわよ。」
「そうだね。一つ一つの行事には意義があるけれど、10月は毎週のように何かあったからね。僕も催しを増やしてしまった張本人の一人だけど。」
「もっと自分達主体に、やる事を管理できないかしら。」
「ハイ。ところで、最近、金子由紀子という、フリーライターの主婦が書いた『わたし時間のつくり方』って本を読んだんだ。」
「題が魅力的ね。わたし時間欲しいわー。」
「時間管理術の本は多いけれど、この本は、『効率的に時間を使って成功者になろう』というのでなく、『やるべきことを減らし、今やっていることを確実にやる』ことを習慣にしましょうと言うんだ。」
「そうね、牧師館も無事に建ったし、教会は追い立てられる場でなくて、落ち着ける場にならなくちゃ。」
「神様との静かで深い《わたし時間》をもって、大事なことを一つずつ丁寧にやって行きたいね。」
「今日から待降節よ。良い1年を皆で作ってゆきましょう!」

(い)
 (たより2008年11月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 声

私の夫と面識のない友人より、「旦那さんはすごくいい人ね」といわれ、不思議に思い理由を尋ねました。彼女曰く、電話口で明るく親しげに応対されて、とてもよい印象をもったとのことでした。確かに彼は会ったことがない人でも、私の友人であれば、自分の知人であるかのように電話で親しげに話してくれます。声にこめられた親愛の情が相手にも伝わるのでしょう。そして、電話の場合、声の印象は、そのままその人の印象になるようです。

逆にその人の印象から、その人の声を想像するということがあります。小説など読むとき、なんとなく登場人物の声を想像したりしませんか。では、イエス様はどんなお声だったのでしょう。重々しくおごそかな声? 温かく包み込むような声? 力強く説得力のある声? 少しこもったような声? 意外に甲高い声だったり? 人々がそれぞれ想像するイエス様のお声は十人十音、異なっていることでしょう。時にそれは心地よかったり、厳しかったり、悲しげだったり、でもどんな時でも心に響く声なのだろうと思います。

(と)
 (たより2008年 9月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 5月のウィーン

5月12日から2週間、留学して40年が経過した想いを胸に、麗しの五月のウィーンを訪れた。金曜日に売り出される入場券を買い求め、18日(日)の三位一体主日にはハープスブルグ家ゆかりの宮廷音楽礼拝堂のミサに与ることが出来た。宮廷音楽礼拝堂ではウィーン少年合唱団が歌っている。少年達がソプラノとアルトを歌い、少年時代に在籍し、現在プロとして活躍している男性達が、テノールとバスを担当する。そしてオーケストラはウィーンフィルのメンバーが中心だ。全員神様へのご奉仕である。曲目はハイドン作曲の“オルガンソロ付き大ミサ曲”。すばらしい演奏に伴われたミサであった。この旅行にお供くださった、ウィーンへは初めてという70歳を過ぎた友人も、「素晴らしい演奏を拝聴しながら、心が洗われる思いがいたしました」と、述べられた。優れた作品が素晴らしい演奏によって醸しだされ、神様への感謝の心へと導かれてゆくという、音楽の原点を共に実感できた喜びに感動を覚えた。留学当時、かつてハイドンもモーツァルトもシューベルトも在籍したウィーン少年合唱団の総裁として、祝日のミサには特別に指揮をされた恩師グロスマン先生をお偲びし、感謝の気持ちで一杯になった。 

(の)
 (たより2008年 7月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 韓国訪問記

3月19日から6日間、韓国ローカル鉄道の旅というツアーに参加した。ソウルから韓国の西側を鉄道で木浦、さらに晋州まで列車で行き、釜山から帰国した。

駅構内、列車内、そして公共のトイレ等が清潔なのに感心。駅弁の幕の内はあまり美味しくなかったが、韓国の料理はどこでも美味しかった。前菜の数の多さとおかわり自由にビックリ。キムチはいつでも豊富で美味しいが最後の頃はいささか食傷気味となる。

最も良かったことは、現地ガイド姜さんであった。我々への接し方は心から尽くしてくれた。 姜さんの暖かみがジーンと感じられたのは釜山の空港で別れる時であった。彼女はクリスチャンで、毎日我々の旅行が好天に恵まれ、無事であるよう祈っていたとのこと。そして別れる時には涙をたたえて、さようならと握手したり、手を振っていた。姜さんのようなガイドに恵まれたので、韓国旅行は非常に思い出深かった。

(た)
 (たより2008年 5月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 外からの視点

「何事にも時があり,天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3:1)
「時は今天(あめ)が下知(したし)る皐月かな。」(明智光秀、本能寺の変直前の句会)

両者、字句だけからはよく似た意味とも思えるが、実際に書いた人の意図とか背景はまるで異なる。必要な事柄などがなんでも書いてあるものを世間でバイブルと呼ぶように聖書の中には多種多様のメッセージが書かれている。その中の特定のものだけを捉えて自己流の解釈を加えればどのような持論・自己主張も正当化できるかもしれない。あるテーマに対して正論は常に複数あり、どれを採るかはその人次第となってしまうであろうか。ひたすらに終末論を述べながらしばしば勧誘に訪れるさるグループのことなど思うにつけ、常に多くの人と交わり、出来るだけ広く見て聴くこと、今流に言えば広く情報を収集して外(時には国の外) からも見ることの大切さを思うが、これがナントモ難しい。

(は)
 (たより2008年 3月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 丸太!?

ある方の結婚式の日、初めて聖歌隊に加わってお祝いをさせて頂いた時のこと。聖壇から会衆のほうを見て、私は唖然としました。丸太に見えるのです。

ルターの卓上語録の「はじめての説教」の箇所で、「……ところで私がいま説教壇に立ったときは、一人の人間も見ないで、私の前に立っているのはただの丸太棒だと考えて、それに向かって神のみ言葉を語っている。」というくだりがあって(『世界の名著18ルター』中央公論社・昭和44年発行 541頁 塩谷饒訳) 、それを読んだ時、なんと失礼な! と思ったものでした。

しかし、丸太に見えるのです。私は唖然としました。

“あなたに見えているのが現実である”とルターは言いたかったのかもしれません。すなわち、私達はみな丸太である!?

(ど)
 (たより2008年11月号)

むさしのだより「井戸端の戸」 宇宙大のドラマ

ある冬の晩、ふと懐かしい雰囲気の喫茶店を見つけて入った。ゆったりした音楽に包まれ、心が癒されるようだった(ベートーベン「田園」第5楽章と後で分かった)。その夜、思いを巡らせた。この地球が滅びても、あの音楽の調べは永遠だ。さらに思った。僕らの生きている一瞬一瞬は過ぎ去るものだけれど、それらは宇宙という超大作ドラマの一つ一つの場面として不可欠であり永遠に記憶されるものではないか、と。

ヨブ記を最近読み返した。ヨブは自分を襲った悲惨の中で死を望むが、それ以上に理不尽に憤り、神の前に申し立てをしたいと切に願う。沈黙の神は最後の場面で登場し、ヨブの日常体験を遥かに超えた創造の業を見せつける。それは納得の行く直接的な答えというものではない。きっと如何なる答えも、ヨブの友人たちの答えのように、辻褄合わせであっても事の本質に迫るものではないだろう。僕らの悩み苦しみは其処だけ見つめても答えは見い出されない。が、それらは壮大なドラマの中のちっぽけな、しかし不可欠な要素としてある(そして実は神は細部まで配慮を行き届かせている)、それ気づけと言っているのかも知れない。

(い)
 (たより2007年9月号)