旧約

2014/12/24(水)クリスマスイブ音楽礼拝 説教「太初に言あり」      大柴 譲治

イザヤ43:1-7
ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 3 わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。 4 わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。 5 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。 6 北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。 7 彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。

ヨハネによる福音書1:1-14
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2 この言は、初めに神と共にあった。 3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

<はじめに>
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

<「太初に言葉ありき」>
 静かな夜です。耳を澄ますと天使たちの歌声、天上の教会の讃美の歌声が聞こえてくるようにも思われます。「天には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と。今年も皆さまとご一緒に、クリスマスイブの音楽礼拝に集うことができる幸いを心から感謝いたします。
 今宵、私たちに与えられているのはヨハネ福音書の冒頭の言葉です。この部分を、文語訳聖書の持つ格調高い言葉の響きで親しんでこられた方も少なくないと思われます。「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき。この言は太初(はじめ)に神とともに在り、萬(よろづ)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命(いのち)は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒(くらき)は之を悟(さと)らざりき。」
 この「はじめ」は「創造の初め」を意味すると共に、「時間と空間の初め」を意味し、「万物の初め」「万物の根源」を意味していると思われます。万物は「神の言」、「神の声」によって創造され、支えられ、守られ、導かれているというのです。「萬(よろづ)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし」なのです。どのような出来事が起ころうとも、太初からこの世に響き渡る神の言葉、神の御声が私たちを守り支え導くのです。たとえ「天地は滅ぶとも、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)。その言葉の意味は、「どのような時にも、わたしはあなたと共にいて、あなたを離れることはない」ということです。
 創世記を読みますと、神は天地万物の創造を「初め」に「言」をもって開始されたと告げられています。「初めに、神は天地を造られた。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記1:1-5)。
 「神光あれと 宣えば 光ありき」なのです。この「創造の初め」、「世界の初め」に発せられた「言」、ギリシャ語では「ロゴス」(「言葉」「法則」「理」「声」という意味があります)、ヘブル語では「ダーバール」(この語には「言葉」という意味と共に「出来事」という意味があります)という語ですが、この「光あれ」という「言」、「声」について今宵は思いを馳せたいと思います。
 暗闇の中で私たちは「光」を求めます。「光」があれば、たとえそれが小さな光であったとしても、私たちはちゃんと生きてゆくことができるのです。荒れ狂う海において灯台は船に正しい方向を指し示します。「クリスマス」は私たちの救い主イエス・キリストがこの地上にお生まれになったという「キリストの誕生日」をお祝いする特別な日です。キリストは、ベツレヘムのまぶねの中にお生まれになりました(ルカ福音書が報告)。(マタイ福音書によると)あのクリスマスツリーの一番上にあるようにベツレヘムの空の上にはひときわ大きな星が照り輝き、それを東の方で見た占星術の学者たちが黄金・乳香・没薬という宝物をもって「王としてお生まれになった方」をはるばると遠方から拝みにやってきたとされています。博士たちの旅は星を見上げての夜の旅でした。昼間は星が見えませんから、夜に足を進めなければなりませんでした。星を見上げ、足下を確認しての一歩一歩の手探りの旅でした。彼らにとってはこの闇夜に輝く星の光が自分たちにとっての「いのちの光」だったのです。このいのちの光が私たちの悲しみや苦しみの闇を照らしています。光は闇の中で今も確かに輝き続けているのです。私たちも人生における夜の旅を続けているように感じることが少なくありません。悲しみや苦しみが渦巻く夜の旅です。光の導きが必要になります。

<緩和ケア病棟のチャプレンとして思うこと>
 私は二年ほど前から、月に一〜二日、錦糸町にある賛育会病院という病院の緩和ケア(ホスピス)病棟のチャプレンを務めています。「ホスピス」というところは、ガンかエイズで余命半年という診断がなければ入ることのできない病棟です。積極的な延命治療は行わず、ペインコントロールを中心とした緩和ケアを行うところです。20床ほどの病棟に通常15人前後の患者さんが入っておられ、チャプレンである私はその患者さんやご家族の所を回って、お話を伺う役割を果たしています。「チャプレン」というのは病院や施設にある「チャペル付きの牧師あるいは聖職者」という意味の言葉です。
 ホスピス病棟で働いていますと、医療スタッフの献身的なケアに頭が下がると共に、私たちがすべからく死への存在であるということを身に沁みて感じるようになります。ある時にルターは「私たちは皆、死へと召喚されている」と説教で語りましたが、確かに私たちは皆死にゆくプロセスの中に置かれていると言えましょう。愛する者との別離の悲しみを思う時に私たちは胸がつぶれるような気持ちとなります。
 そのような私たち人間の現実の中に、今日私たちのための救い主がこの地上に降り立って下さったというよき音信が告げられているのです。このお方(イエス・キリスト)は、神に等しくあられたにもかかわらず、それに固執することなく、自分を捨て、無となって僕の姿を取り、天より降り、この地上を、死に至るまで、いかも十字架の死に至るまで、御父の御旨に従順に従われました。その謙遜さと従順さとによって私たちは救われたのです。この世の悲しみを担ってゆかれたキリストはやがて復活されますが、その手足には十字架の傷跡が残っていました。その聖痕を通してこの世の悲しみは癒されたのです。
 復活されたキリストの体に十字架の傷跡が残っておられたように、悲しみは悲しみを深めてゆくことを通してこそ、それを担う力が与えられてゆくのであると信じます。この一年も、皆さまにとっても様々な出来事が身近に起こった一年であったのではないかと拝察いたします。

<若松英輔、『魂にふれる〜大震災と、生きている死者』、トランスビュー、2012>
 若松英輔(わかまつえいすけ)という1968年生れの思想家であり評論家である方がおられます。慶應大学の仏文科の出身の方で、最近私はこの方がカトリックの立場に立っている方であるということを知りました。二年半ほど前に偶然書店で手にした『魂にふれる〜大震災と、生きている死者』という書物でその存在を知ったのですが、私にはとても心に響く文章を書く方のように感じられました。若松英輔さんはその書物の中でガンを10年患って亡くなってゆかれた配偶者について「魂にふれる」という文章を書いておられます。それはこのような書き出しで始まっています。(少し長くなりますが)引用させてください。

「魂にふれたことがある。錯覚だったのかも知れない。だが、そう思えないのは、ふれた私だけでなく、ふれられた相手もまた、何かを感じていたことがはっきりと分かったからである。2010年2月7日、10年の闘病のあと、妻が逝った。相手とは彼女のことである。
 亡くなる二ヶ月ほど前のことだった。がんは進行し、腹水だけでなく、胸水もたまりはじめていた。数キロにおよぶ腹水は、身体を強く圧迫し、胸水は呼吸を困難にする。がん細胞は通常細胞から栄養を奪いながら成長する。彼女のからだはやせ細り、骨格が露出し、マッサージをすることすらできなくなっていた。薄い、破れそうな紙にさわるように、彼女の体に手をおき、撫でることができる残された場所をさがしていたとき、何かにふれた。
 まるい何かであるように感じられた。まるい、とは円形ではない。柔らかな、しかし限りなく繊細な、肉体を包む何ものかである。魂は人間の内側にあるというのは、おそらく真実ではなく、それは一種の比喩に過ぎない。むしろ、魂がゆさぶられるという表現は、打ち消しがたい実体験から生まれたのだと思われる。外界の出来事に最初に接触するのは、皮膚ではなく、魂なのではないだろうか。肉体が魂を守っているのでない。魂が肉体を包んでいる。
 どれほどの時間がたったのか分からない。見つめあいながら、深い沈黙が続いて、『こういうこともあるんだね』と言葉を交わしたのを覚えている。彼女は少しおびえたようだったが、起こったことの真実を一層深く了解していたのは、おそらく、彼女の方だった。抱きしめる。何かを感じるのは抱きしめた方よりも、抱きしめられた方ではないか。魂にふれるときも、同じ現象が起こる。
 彼女は内心の不安を口にすれば、私が困惑すると思い、沈黙していたのだろう。病者は、介護者が思うよりもずっと、介護者をはじめ自分を生かしてくれる縁ある人々を思っている。あのとき、私たちは彼女の最期が遠くないことを知らされたのだと思う。私の理性はそれを拒み、はっきりと自覚したのは彼女の没後だが、それでも、あのとき、私は打ち消すことのできない経験に直面していることには気がついていた。
 彼女は、肉体の終わりをはっきりと感じながら、同時にそれに決して侵されることのない「自分」を感じていた。その日以降、不安におののきながら、またあるときは落ち着きはらって、そんなことを言うと、きっとあなたは怒るだろうけれど、と前置きしながら、死ぬのは、まったく怖くない、彼女は一度ならずそう語った。
  (中略)
 苦しむ者は、多く与える者である。支えるものは、恩恵を受ける者である。決して逆ではない。持てる者が与え、困窮する者は受ける、それは表面上のことにすぎない。
 自分でベッドから立つこともできなくなった妻から受け取ったことに比べれば、私が妻にできたことは、実に取るに足りない。震災下でも同じことが起こっている。被災地の外に暮らす者が、自分に何が援助できるかを模索するだけではなく、自分たちが被災者によって何を与えられているかを、真剣に考えなければならないところに私たちは立っている。
 ふれるだけで十分である。ふれ得ないなら、ただ思うだけで、何の不足もない。病者は、差し出された手にどんな思いが流れているかを、敏感に感じ取る。病者は、まなざしにすら無言の言葉を読みとっている。同情、共感、あるいはそれを超えた随伴か。病者が望んでいるのは、理解でも共感でもない。それが不可能なことは、当人が一番よく分かっている。
 黙って隣にいることは、厳しい忍耐を要し、ときに苦痛でもある。なぜなら、苦しむ病者を前に、あまりに非力な自分を痛感しなくてはならないからである。しかし病者は、その思いもくみ取っている。
 彼らが望んでいるのは、日々新しく協同の関係を結ぶことである。協同は、共感や理解を前提としない。だが互いに全身をなげうって、存在の奥から何かを呼び覚まそうとする営みである。病者は、介護者の不安やおののきまでも、協同を築く土壌にしようとする。それは、大地が朽ちたものを糧に不断のよみがえりを続けるのに似ている。
  (中略)
 亡骸を前にして私は慟哭する。なぜ彼女を奪うのかと、天を糾弾する暴言を吐く。そのとき、心配することは何もない。私はここにいる、そう言って私を抱きしめてくれていたのは彼女だった。妻はひとときも離れずに傍らにいる。だが、亡骸から眼を離すことができずにいる私は、横にいる『彼女』に気がつかない。」

 若松英輔さんはパートナーを亡くすという慟哭の中で、その声を聴いたのです。「心配することは何もない。私はここにいる」という「太初からの愛の声」を。最愛の配偶者を病いで失うという体験を通して、悲しむこと、悲しみを深めることは、生きている死者との共同作業なのだと語っておられるのです。そしてこのことは私もやはり確かなことだろうと思っています。「私たちが悲しむとき、悲愛の扉が開き、亡き人が訪れる。-— 死者は私たちに寄り添い、常に私たちの魂を見つめている。私たちが見失ったときでさえ、それを見つめつづけている。悲しみは、死者が近づく合図なのだ。-— 死者と協同し、共に今を生きるために」。
 先ほどお読みいただいたイザヤ書43章にあったように、神は私たちにこう告げています。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(2節と5節)。この太初の声を私たちは聴きながら、この言葉を光として仰ぎながら、ご一緒にクリスマスを過ごし、新しい年を迎えたいと思います。
 悲しみの中に置かれた方々の上に、メリークリスマス。お一人おひとりの上に、その独り子を賜るほどにこの世を愛して下さった天の父(「インマヌエルの神」)と主イエス・キリストが共にいて、慰めを与えてくださいますようにお祈りいたします。
 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき。この言は太初(はじめ)に神とともに在り、萬(よろづ)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命(いのち)は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒(くらき)は之を悟(さと)らざりき。」
 私たちの悲しみをすべて「理解」し、英語で「理解するunderstand」という語は「下に立つ」という意味の言葉ですが、下から支えて下さるお方、救い主イエス・キリストのお誕生をご一緒に言祝ぎたいと思います。天には栄光、地には平和がありますように! アーメン。

<おわりの祝福>
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

聖霊降臨後第七主日礼拝説教 「従順〜服従の第一歩」  大柴 譲治

詩編121、ルカによる福音書9:51-62

<はじめに>
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

<本日の主題詩編:121編>
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」

 毎週の主日礼拝には主題詩編が一つ定められています。教会手帳を見ますとその日の「主日聖書日課(ペリコーペ)」や「主日の祈り」と共に「讃美唱」が一つ選ばれていますが、讃美唱がその日の主題詩編なのです。本日の主題詩編は121編。今お読みした詩編です。詩編120-134編の15編は「巡礼の歌」と呼ばれ、121編も「都に上る歌」(都詣での歌)の一つです。ユダヤ人は過ぎ越しの祭りなどでエルサレムに巡礼する際に、巡礼団はこれらの詩編を歌いながら歩を進めてゆきました。この詩編121編は神への信頼を歌った詩編としてよく知られているものです。

 皆さんの中には山登りがお好きな方々もおられましょう。山々を見上げる時に私たちはその壮大な景色や大自然の美しさに圧倒され感動します。「わたしの助けはどこから来るのか。天地万物を造られた創造主なる神から必ず来るのだ」と詩人は歌います。Lift up my eyes! 「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す」のです(詩編19:2)。私は静岡で育ちましたから毎日どこかの時点で富士山の姿を探していました。大自然に目を向ける時、私たちはその壮大さの前に自分の小ささ、儚さ、空しさを感じます。しかしそれを造られた全能の創造主がこの小さな私に確かな助けを備えてくださる。私は作者のダイナミックな神への信頼を歌った詩に目を見開かれるような思いがいたします。この121編は「巡礼の歌」の一つと申しましたが、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」と言った時の「山々」とは「シオン」(エルサレム地方)の山々(丘)が意味されています。

<主ご自身の「覚悟」> 本日の福音書の日課には、新共同訳聖書では「弟子の覚悟」という小見出しがついていますが、むしろそこでは、十字架への歩みを決然として踏み出し始められた「主イエス・キリストご自身の覚悟」が強調されているように思われます。主がエルサレムに向かって十字架へと歩み出された。それは父なる神の御心への徹底した「従順」であり、「服従」でありました。「目を上げて、わたしは(シオンの)山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」と歌う詩編121編は、「神の都」と呼ばれたエルサレムのゴルゴダの丘に目を向けて、そこに向かってまっすぐに歩み始められたキリストご自身の祈りであり、思いでもあったのでしょう。

<「新しいエクソドス(出エジプト)」>
 本日の福音書はこう始まっています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9:51)。「天に上げられる時期」というのは「昇天」のことであり、主が「自分の地上での日々がいよいよ終わりに近づいている」ということを意識されたということです。「イエスはエルサレムに向かう決意を固められた」という表現では、「顏をしっかりと(ある方向に)据えて固定する/定める/向ける」という言葉が用いられています。まっすぐエルサレムに向かって顏を見据え、そこに向かって一直線に歩む主イエスの姿勢が強調されています。ペトロのキリスト告白、受難予告、山上の変貌と進む中で、主イエスが十字架への覚悟を決めて、それに顔を向けての具体的な歩みを決然と踏み出し始められたのです。

 山上の変貌の出来事の中で主は、律法を代表するモーセと預言者を代表するエリヤと共に「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期のこと(エクソドス)」をまばゆく輝く栄光の姿の中で話し合われました(9:31)。この「エクソドス」という語はルカだけが記録している言葉ですが、「エクス・ホドス」=「出てゆくための道」という語で「突破口」「脱出路」を意味します。Exodusという言葉に即『出エジプト記』を想起される方もおられましょう。それは英語聖書ではExodus(脱出路)と呼ばれているからです。ルカは、モーセとエリヤとイエスが「最期のこと(エクソドス)」を話し合うという表現で、エルサレムでの十字架の出来事が私たちにとっての「新しい出エジプト」であり、永遠の生命への突破口であり、脱出路であることをはっきりと明示しているのです。

 サマリア人の村で歓迎されないという出来事が続いて起こります。それは、ガリラヤからユダヤのエルサレムに「一直線」に向かう途上で起こった出来事でした。ユダヤ人とサマリア人は近親憎悪のような、なかなか難しい関係にありました。彼らはもともと同族でしたが、サマリア人はイスラエルの北王国が紀元前722年にアッシリアに滅ぼされた後にその地方の民族と混血し、宗教的にも民族的にも文化的にもその土地の影響を受けた人々でした。通常ユダヤ人たちはガリラヤからエルサレムに向かう時、サマリア地方を通ることは避けていたようです。いったんヨルダン川の東側に渡って南にくだっていたのです。
イエスさまはガリラヤ地方を「まっすぐに」通ってエルサレムを目指されました。それはエルサレムで起こる十字架の出来事が、ユダヤ人のみならずサマリア人を含め、すべての人の救いのためであったということを表しているのかもしれません。詩編121編の通り、主はまっすぐにシオンの山々に向かって目を上げておられます。「わが助けは神から来る。天地を造られた主のもとから」なのです。

<「弟子たちの『力あるメシア』理解」をいさめた主イエス>
 このサマリアでの出来事はまた、弟子たちのメシアについての無理解、誤ったメシア像の投影として読み取ることもできましょう。「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた」(9:54-55)。ここでヤコブとヨハネとは、イエスとその一行に対して物質的支援を拒絶するサマリア人を、「神の人」エリヤが天からの火をもってアハズヤ王の部下たちを滅ぼしたように(列王紀下1:10-11)、殺そうとしているのです。それは仇を受けた敵に対して復讐しようとする姿です。

 しかしこの部分(55節)には、ある写本とウルガタ(ラテン語訳聖書)を見ると次のような補足が付いています。「そして(イエスは)言われた、あなたがたは霊(プネウマ)の性質を知らないのか。人の子は人の命(プシュケー)を滅ぼすためではなく、救うために来たのだ」。 

 聖書註解者のウィリアム・バークレーは、このイエスの「寛容」に関して次のようなリンカーンの言葉を引いています。「アブラハム・リンカーンが敵に対して紳士的すぎると批判され、『彼らを抹殺することこそ義務だ』と促された時、彼はその批判に、かの偉大な答えをもって対決した。『友人にしようとしているわたしの敵を、どうして殺すことができようか』。誰かが徹底的に間違っていようとも、その人を、抹殺すべき敵とせず、愛によって回復されるべき迷える友と見なすべきである」(バークレー新約注解ルカ福音書、p146)。

 弟子たちがイエス・キリストに期待していたのは、敵を武力を持って蹴散らす「力あるメシア像」だったのです。天からの火で敵を滅ぼした神の人エリヤのようなメシア像です。しかし神が派遣したのは、無力なまま裏切られ、見捨てられ、十字架で殺されるメシアでした。力による支配を貫く軍馬に乗った「力強いメシア」ではなく、愛による支配を求めるロバの子に乗った「柔和なメシア」が、今やエルサレムに向かって顏を向け、「最期のこと」「新しい出エジプト」(エクソドス)を遂げるために進み出しているのです。神のなさることは人の目には実に不思議に見えます。神は十字架の上に死んだ御子イエスを三日目に死人の中から甦らされた。死のただ中に復活の命が与えられ、絶望の暗黒の中に希望の光が与えられたのです。新しいExodusです。シオンの山々に目をあげ、天地を造られた神の御心に従順に、服従の第一歩を踏み出された主イエス・キリスト。私たちの救いはこのお方から来るのです。

<自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、キリストに従う>
 神と等しい身分であられたキリストが、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたのです。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで「従順」でした(フィリピ2章)。主は言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9:23)。「自分を捨て、自分の十字架を背負って主に従う」とは、そのような御子ご自身の、神の御心に徹底して服従された「自己無化、へりくだり、従順」にならうということです。シオンの山々に向かって目を上げて、まっすぐに神の平和の都エルサレムを目指した主イエス。その玉座はゴルゴダの丘に立つ十字架であり、その冠は茨の冠であり、王なるキリストを迎えたのは侮蔑と嘲笑とにまみれた讃美でした。このキリストの従順、服従が私たちに救いの突破口(エクソドス)を開いてくれた。私たちの服従の第一歩は、それぞれの生活の持ち場において、このキリストに従って踏み出すことです。キリストにまねび、キリストにならいて、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、キリストに従うことです。私たちは本日、み言葉を通して、主が私たちによびかけてくださっておられ、その御声にどう服従してゆくかという、私たち自身の「主に服従する覚悟」を問われているのだと思います。

 最初に向こう側から私たちに向かって一つの声が発せられます。「わたしに従って来なさい」という主の呼びかけの声が。その声に私たちは服従してゆくのです。その従順の第一歩が私たち一人ひとりに求められている。私たち自身も、それぞれの持ち場で、具体的に、主のみ声に聴き従ってまいりたいと思います。
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」
 新しい一週間の上にも主が共にいまして、お一人おひとりを守り導いてくださいますようお祈りいたします。アーメン。

<おわりの祝福>
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。
(2013年7月14日主日礼拝説教)

説教「祝福と呪い、命と死」高村敏浩

申命記 11:18-28

はじめに

God is where God is supposed to be, in our choices, in our struggles, in our joys. Amen.

神様は、神様の居られるべきところに居られます。私たちの決断のうちに、私たちの困難のうちに、私たちの喜びのうちに。アーメン。

祝福と呪い、命と死

これがもうすでに、宣教研修に出る前の最後の説教の機会だということが信じられない気持ちです。今朝、私は、「祝福と呪い、命と死」と題して、旧約の日課である申命記11:18-28から説教していきます。モーセは、11:26-28で、次のように言います:「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に聞き従うならば、呪いを受ける」。モーセは、神に代わって、イスラエル人たちの前に祝福と呪い、命と死、神と他の神々とを置き、主の言葉への従順か不従順かによって、彼らがいずれかを選ぶようにと迫るのです。

私たちキリスト者の多くは、新約聖書を読みます。多分、旧約聖書を定期的に読んでいる人は少ないでしょう。さらに少数の人が、申命記を読んでいることでしょう。私たちは、申命記について何を知っているでしょうか。聖書の中の5番目の本で、モーセが書いたと言われる「モーセ五書」のひとつであるということを、あるいは知っているかもしれません。申命記について少ししか知らないようです。しかし、実際はそのようなことは全くなく、私たちは、思っている以上にこの本について知っています。それは、イエスが福音書においてよく引用するためです。イエスの語る最も偉大な掟は、そのいい例でしょう:「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、これは申命記6:5にあります(マタイ22:37)。また、荒れ野で誘惑を受けられたイエスは、悪魔に対して言いました:「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3;マタイ4:4);「あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6:16;マタイ4:7);「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(申命記6:13;マタイ4:10)。これらも全て、申命記にある言葉です。このようにイエスの引用が多いので、申命記は旧約聖書の代表、要約であると理解されています。

そのように言ったものの、今日の日課を見ると、モーセは祝福と呪い、命と死をイスラエル人たちの前に置いてどちらかを選ばせようとします。もしあなたが戒めに従うなら、もし従わず、他の神に従うのなら、この「もし」という言葉は、しかし、私たちの神との関係を条件付のものとしているように聞こえます。もし私たちがこれをすれば、神がお返しにそれをしてくださる。私たちは、あるいは神は、人間の業と神の祝福を売り買いしているのでしょうか。もしそうならば、これはどうも福音的ではありません。しかし、本当にそうなのでしょうか。そのことを見定めるために、モーセは、あるいはモーセの口を通して神は、その民に一体何を伝えようとしているのか、このことを探っていく必要があります。

申命記を要約すると、シナイ山でモーセの仲介によって結ばれた神とイスラエルの契約を更新する、新たにするという話です。そのため、十戒を含めて、その内容の多くが出エジプト記と重なっています。しかし、出エジプト記とは、その状況が違います。申命記は、シナイ山での契約の締結からさらに四十年後の話だからです。神によってエジプトの奴隷制から解放され、荒れ野で四十年間彷徨ったイスラエル人たちは、再び約束の地の境界線に立ちました。その土地に入るにあたって、モーセは、神とイスラエル人たちとの関係を明らかにしようとします。つまり、四十年前に結ばれた契約を確認し、それを更新しようとするのです。これが申命記の語られた状況であり、これが、ここで行われようとしていたことでした。

契約の更新は、決まった手順で行われます。もっとも有名な契約の更新の記述は、ヨシュア記にあります。モーセの後継者であったヨシュアは、死を前にして、全イスラエルの前で、神との契約の更新を行います。彼は、神の救いのみ業や数々の祝福を思い起こし、次のように言ってイスラエル人たちに神を選び仕えるようにと呼び掛けます:「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」(ヨシュア24:14-15)。

この話は、イスラエルにおける契約の更新をよく伝えてくれます。契約の参加者は、神が人間の歴史においてどのようなことを行ってくださったのかということを思い起こしながら、彼らにとって神が誰であるかということを確認します。それは、神とその民との関係であり、その関係に照らした、その民の自己理解です。申命記においてモーセは、ヨシュアの例よりも長く、細かいものの、基本的には同じことを行っています。そのため、申命記において繰り返されるメッセージは、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:4)というものです。この、神を愛しなさいという戒めは、律法、または神のすべての戒めを背骨のように支えます。つまり、律法を守ることは、私たちの神への愛そのものなのです。これを聴いて、もしかしたら、ルターの小教理問答を思い出す方がいるかもしれません。実に、ルターは、十戒に関する項目で、十戒の一つ一つについての解説を、「私たちは神を畏れ、愛するべきです」という言葉で始めるのです。

神への愛は、ただ単純に神へ愛情を持っているというだけではありません。モーセが、神を愛すると言う時、それは、神との正しい関係に生きること、神に誠実であることを意図していました。彼ら自身を完全に神に委ねる、神に忠実である、それが、モーセが愛という言葉で表そうとしたメッセージです。エジプトで、奇跡を以って、人間の力では不可能であった奴隷の立場からの解放を成し遂げ、荒れ野ではマナとウズラと水を与えてイスラエル人たちの命を保たれた方こそが、イスラエルの神である。それは、神が彼らの生命に責任を持ってくださるという約束の表明でした。神を、そしてその約束を信頼して生きていくこと、それは、神とイスラエルの契約における、イスラエルの果たしていく責任なのです。このようなことを踏まえたとき、モーセがイスラエル人たちに、またイエスがその弟子たちに、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛しなさい」と言ったとき、モーセは、イスラエル人たちが、神様へと彼ら自身を委ね切って、神の約束への信頼に留まることを意味したのです。このような理解に立つとき、先ほど読んだヨシュアの言葉、つまり、「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」という言葉は、申命記における契約の更新の本質を明らかにします。つまり、私たちは、その全存在をかけて、神を愛し、仕えるようにと、神に信頼し、神を神として覚えるようにと召されているのです。

今日の日課でモーセがイスラエル人たちの前に置いた祝福と呪いは、私たちが選ぶようにとされた命と死、神と他の神々です。しかし、誰があえて祝福よりも呪いを、命よりも死を、神よりも他の神々を選ぶでしょう。この素朴な疑問は、しかし、私たち人間の本質を暴くものです。私たちは呪いを、死を、そして他の神々を選んでしまうのです。どうしてでしょう。ローマの信徒への手紙には、興味深いことが書いてあります:「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。パウロの言葉は、私たちが望まない呪い、死、他の神々を選んでしまうことをよく言い表しています。パウロは、これを私たちの罪のゆえであると言います。それでは、罪とは、なんでしょう。罪は、私たちが神に従わず、私たち自身に従い、私たち自身を神と、神々とすることです。この罪の力は強大です。罪は私たちを神に背かせ、私たちの神との関係を壊します。モーセはイスラエル人たちに:「主があなたたちをお選びになって以来、あなたたちは背き続けてきた」(9:24)と言っています。しかし、次の言葉にこそ、罪の本質が表れています:「あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない」(12:8)。つまり、私たちは、自分が正しいと思うことを行っているのです。そして、それは、神が望むこと、神が正しいと見なすことではないのです。

イスラエル人たちは、神の民でした。そうでもなければ、エジプトから出て、四十年も荒れ野で彷徨うことはしなかったでしょう。蓄えもなく、水も食物も用意せずに荒れ野で四十年も生活するということは、私たちの想像を絶するほどに、すさまじいことです。このような人たちですから、イスラエル人たちは、神を喜ばせようと最善を尽くしたことでしょう。彼らが、神のために正しいと思うことをしたことでしょう。しかし、それこそが、彼らを神から引き離したのです。彼らが神のみ旨にかなうこと、神に喜ばれることと思ってすること、それこそが、意外にも彼らを神から引き離したのです。それが、「それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない」というモーセの言葉に込められた思いでした。この言葉は、私たちにも向けられています。私たちは、モーセの前に立つ、イスラエル人として、キリストの前に立つ、新しいイスラエルである教会として、この言葉を聴かなければなりません。

私たちは、私たちが正しいと思うことをすることによって、神のみ旨にかなうと思ってすることによって、神に背いています。祝福と呪いから選ぶようにと言われているのに、呪いを選んでいます。祝福を選ぶことができません。命を選ぶことができません。神を選ぶことができません。私たちがよいと思ってすることは、ことごとく神に背くことです。私たちは、無力です。私たちは、何もできないのです。

しかし、モーセは、イスラエルに言います:「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいる全ての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(7:6);「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(31:6)。もうすでに神が、彼らを選ばれたのです。そして、神は彼らをお見捨てにならないのです。モーセは強調します:「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民より数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」(7:7)。神が、イスラエルを、そして、私たちを、選ばれたのです。私たちの功績のゆえではなく、神の愛と懐の深さのゆえに、神は私たちを選ばれたのです。私たちは、イスラエル人たちのように、すでに神の宝、神のものとされています。それは、私たちは、自分をさえ、自分のものだと主張することはできないということでもあります。詩篇100篇は言います:「主は私たちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」(100:5)。私たちの羊飼いは受肉した神であるイエス・キリストです。

モーセは言います:「祝福を選びなさい」;「あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい」(5:33);「主の目にかなう正しいことを行ないなさい」(6:17)。神に従うとは、神に聴くということです。モーセは、みことばを「心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(11:18-20)と言います。徹底して、みことばを私たちの中心として生きろと言うのです。

それでも、私たちは、神に背きます。しかし、神は、そのことをご承知で私たちを選び、私たちを見捨てられないと約束されました。それは、つまり、神が、私たちの責任を取ってくださるということです。神が、私たちの責任を担ってくださるのです。この約束を信頼して、神に選ばれた者として、共に福音を生きていきましょう。神に信頼して、大胆に生きていきましょう。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

説教「日々新たにされて~2008年の初めに」大柴譲治

エレミヤ書 24:1- 7

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

年頭のご挨拶

新年あけましておめでとうございます。一年の初めに宮詣をもって始めることができることは大変幸いなことかと思います。

ただいま歌いました教会讃美歌の213番は、これはルーテル教会の方が作られた、日本の、メイドインジャパンの讃美歌でございまして、五、七、五、七、七となっていることにお気づきかと思います。

教会讃美歌213番(作詞:吉田康登、作曲:山田実)

1.朝露に 輝き咲ける 野の花は
さやかにたたう み神の栄え。

2.野の花は ソロモン王の さかえにも
まさるを見よと わが主のことば。

3.野の花を かく装います みこころは
われらの滅び み捨てたまわず。

4.草は枯れ 花は散れども みことばは
とこしえまでも いのちを与う。

5.み言の つきぬ命に 生ける人
いざほめうたえ 恵みの神を。

(元旦に)大変ふさわしいみ言葉であると思います。草は枯れ、花は散れども、主のみ言葉はとこしえまでも変わることはない。今日の使徒書の日課にもその言葉がございました(1ペトロ1:24-25)。

私たちは、さまざまな出来事に取り囲まれています。喜び事や悲しみ事や、様々な困難、あるいは行き詰まりが、私たちの内外を貫いて、私たちを圧倒するような形で押し寄せて来ることがあろうかと思います。「草は枯れ、花は散る」と。私はいったい何者なのか。本当に(自分は)傷ついた葦にすぎない。消えかかった灯心にすぎない。ロウソクの炎にすぎないではないかと。そう思わせることが人生の中にはあろうかと思います。しかし、そのような私たちに、主はその命のみ言葉を、万物が揺らぐとも決して揺らぐことがない命のみ言葉を備えてくださっている。そのことを覚えたいのでございます。

主を讃美する存在

詩篇の102編の19節にはこういう言葉があります。「後の世代のためにこの言葉は書き記されなければならない。『主を賛美するために民は創造された』」。主を讃美するために、私たち人間が創造されている、命を与えられているということ。主に向かって喜びの歌を歌う。そのためにこの命が与えられている、生かされていることを覚えたいのでございます。

「神は土の塵で人を創りその鼻に(生命の)息を吹き入れられた。すると人は生きるものとなった」。創世記の2章にそう書かれています。また、「人は神のかたち(似姿)に創られている」。創世記の1章にはそう書かれています。つまりそれは、私たちが神さまとの関係の中に生きるように、神さまに向かって生きるように、神さまを中心として生きるようにということ、最初からそういうふうに創造されているのだということを聖書は語っているのです。

そのことは、神さま側から見るならば、どのようなときにも、神が私たちと共にいてくださる「インマヌエルの神」である。「わたしはあなたを決して見捨てない。わたしは必ずあなたと共にいる。たとえ死の影の谷を行くときも、わたしはあなたと共にいる」と、神さまはこのように宣言してくださっているのだと思います。

いつも耳を澄ませば、向こう側から神さまの呼び声が届いてくる。響いてくる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。洗礼において、イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けた時に天が開いて、そのような天からの声が響く。聖霊がハトのように降る。私たち一人一人が洗礼において、そういう神さまの確かな是認の声を聞いている。だから、どんなに為ん方尽くれども望みを失わず(2コリント4:8-9)。どのような苦難が私を襲おうとも、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すということを、私たちは知っているのであります(ローマ5:3-4)。

耳を澄まして、向こう側から響いてくる私たちに向かっての神さまの声、「汝よ」と呼びかける、「わが愛する子よ」と呼びかけてくださるお方の声を聞きながら、この新しい一年を始めてまいりたいとそう思います。

イチジクの変貌~パウラス先生の愛

今日は、「イチジクのたとえ」がみ言葉で与えられています。

あるぶどう園に実を実らすことができないイチジクがあると。このイチジクとはおそらく私たち自身のことでありましょう。神の言葉をきちんと聞いていくことができない、それに従い、良い実を結ぶことができないでいるイスラエルの民。それは、私たち一人一人の姿を表していると思います。主人は園丁に言います。「もう3年もの間、このイチジクの木に実を探しに来ているのに、見つけた試しがない。だから切り倒せ。なぜ土地をふさがせておくのか」。

3年間というのは、ちょうど、イエス様の公の生涯、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ、というその福音の活動をなさっていた3年間と重なります。一つも実を結ぶことができないでいるそういう人間の姿。神さまの言葉を聞きながらも、良い愛の実を結ぶことができずにいる私たちの姿がそこにあります。

しかし園丁は、そのイチジク畑の主人である神さまに向かって、こう執り成しの言葉を語ってくれるのであります。「ご主人さま、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って肥しをやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめならば、切り倒してください。なんとか一生懸命世話をします。来年こそは実を実らせることができるように、懸命に努力をしますから、どうぞ忍耐をもって待ってください」と。私たちのために執り成しをしてくださるのは、イエスさまご自身であろうかと思います。「もしそれでもだめならば、切り倒してください」と言いながら、しかし私たちの代わりに切り倒されてくださったのもあの十字架の主イエス・キリスト、そのお方であったと思います。

私が神学生のときに、熊本教会でインターンをしていたときの話は何度か申し上げたことがあります。モード・パウラス先生というアメリカから来た婦人宣教師が慈愛園を始められました。今は総合社会福祉施設になっていますけれども。そこには子供ホーム、そして乳児院、老人ホーム、特別養護老人ホームなど、さまざまな施設があります。

そのパウラス先生は毎朝子どもホームで朝礼をしたそうです。その時の話を私はいつも思い起こす。私がインターンをしていた時、熊本教会でオルガニストをされていた伊豆永さんという男の方がおられました。もう70歳を越えておられた方です。この伊豆永さんは子供ホーム育ち。この伊豆永さんから聞いた話であります。

ある時、自分が小さかった頃、子供ホームの誰かが近所で盗みを働いたということが分かったそうです。パウラス先生が朝礼のときに、鞭を持って出てきた。そして子供たちにこういうふうに言った。「あなたたちの誰かが罪を犯しました。罪は罰せられなければなりません。だから、私はあなたたちに罰を与えます」と言って、その鞭を持って自分の腕を血がにじむほどたたき続けたのだと。忘れられないエピソードだったと伊豆永さんはおっしゃいました。

神さまの愛が本当に迫ってきた。罪に対する罰を私たちに負わせるのではなくて、その身代わりとして、独り子イエスさまを送ることによって、その罪の木を切り倒し、そして切り倒されたその切り株から新しい若枝が、救いの若枝が育って行ったのであります(イザヤ11:1-2)。

パウラス先生のこのエピソードは本当に私の胸を打ちました。真の愛こそが私たちを悔い改めの涙に導くのだということを教えてくれたエピソードであります。

ルターはキリスト者の生涯は日ごとの悔い改めであると言いました。毎日が悔い改めだと。昨日、悔い改めたからいいということではない。毎日新たに、神さまとの関係の中に、私たち自身が新しくされる必要がある、というのであります。悔い改め(メタノイア)というのは方向転換、神さまへの方向転換であるとも言われます。

でも、さらに言いたいのは、(メタノイアとは)方向を神さまの方に向けるだけではない。それだけでは足りないだろうと思います。主体の転換。「もはや生くるのは我にあらず。キリストが我のうちにありて生くるなり」と、パウロがガラテヤ書の2章の20節で言ったように、神さまが私の中にあって生きてくださる、そのような主体の転換がそこでは告げられているのだと私は思います。

無力さにおける脱皮~ロブスター

実を実らすことができないイチジクが、豊かなキリストの愛の実を実らすことができるイチジクへと変えられていく。今日のエレミヤ書の24章の言葉はまさにバビロン捕囚の中で失意のどん底にあるイスラエルの民が、神さまによって、良い実を結ぶ祝福されたイチジクの実に変えられるということが、宣言されている箇所でありました。

「エレミヤよ、何が見えるか」。「いちじくです。良い方のいちじくは非常に良いのですが、悪い方は非常に悪くて食べられません」。祖国を失ってバビロンへと連れて行かれるその途上で、もうボロボロになった、もう自分はどうしてこのような辛い体験をしなければいけないのか、と思っているただ中で語られた言葉であります。

「イスラエルの神、主はこう言われる。『このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る』」。

真心をもって神のもとへ戻る。これが神さまの恵みのみ業であります。このような生き方が私たちに備えられている。そのことを覚えたい、心に刻みたいと思います。

ロブスターは脱皮をするときに、大きく成長していくために脱皮を繰り返していかなければなりませんけれども、脱皮をするときには一番弱い姿をさらすと言われています。固い殻を脱ぐことも大変です。脱ぐことができなければ死んでしまう。しかし、ひとたびその固い古い殻を脱ぎさったあとは、24時間は柔らかい外皮のままで、敵に襲われたらひとたまりもないそうであります。しかし、その24時間で、大きく水を吸って、だんだん殻が固まっていって、一段大きく成長していく。

私たち人間の霊的な成長の姿というのも、それと同じではないかと私は思います。自分の弱さ、自分の破れ、自分の行き詰まりや、罪や恥といったもの、どうしようもないそういうものを、トコトン見つめて、そこから逃れず、そこに踏みとどまる。そのときに、私たちは新しい命を与えられるのだと思います。

「弱い時にこそ強い」(2コリント12:10)というみ言葉は、まさにそのような事柄を表しているのではないでしょうか。自分のどうしようもない弱さを見つめる。どうして自分はこんな人間でしかないのか。あの放蕩息子のたとえもそうですね(ルカ15章)。自分は息子失格だ。雇い人の一人にしてもらおうと思って父親のところへ戻っていく。そのような息子を、遠くから見染めて走り寄ってひしと抱きとめる、その父親の愛に触れたときに、放蕩息子は本当の意味で心の底から新たにされて、悔い改めの涙を流すことができたのだと思います。

キリストの愛に圧倒される思いを持って、それを私たちの中心に置いていただくこと。これが私たちの今日確認したい歩みであります。

2008年度の年間主題:Concentration

昨年一年間の教会の年間主題は「コミュニケーション」、心と心をつなげていくことの大切さを謳ったコミュニケーションという言葉でありました。

今年2008年は「コンセントレーション」、「集中」あるいは「専心」という言葉を一年間の主題として掲げたいと思います。Concentrationというのは、con(cum)というのは「何々と共に(with)」という接頭辞ですね。centrumというのは「中心」あるいは「核心」ということであります(center)。中心に向かって、中心と共に生きる、Concentrateする、そういう一年でありたいのであります。

私たちの命の中心は、私たち自身ではなくて「神さまのみ言葉」であり、その「生けるみ言葉」であるあの(ステンドグラスに描かれた)羊飼い「主イエス・キリスト」であります。「もはや生くるのは我にあらず。キリストが我のうちにありて生くるなり」(ガラテヤ2:20)。キリストが私たちの生命の中心にあって生きてくださる。その思いを日々深く覚えながら歩んでいきたい。コンセントレーション、日々キリストによって新たにされていく。(そのように)私たちはこの一年間を過ごしてゆきたいのでございます。

実を実らすことができないイチジクのために、十字架に命を捨ててくださることによって、このようなイチジクを、キリストの豊かな愛の実に与らせる良いイチジクへと造り変えてくださるこのキリストの愛のみ業を覚えたいと思います。

自分の弱さとか、破れとか、行き詰まりとか、罪とか恥を、私たちは怖れずに、その中に、そのただ中に降り立ってくださるキリストと共にご一緒に歩んでまいりましょう。「あなた方は朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1ペトロ2:22)。こう言われているからです。

「人はみな草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。そう使徒書の日課に書かれていた通り、キリストの命が私たちにおいて、私たちを通して満ち溢れていきますように。そしてこの暗い時代に、キリストの光が私たちを通して、輝きわたりますようにお祈りをいたしたいと思います。

祈り

ひとこと祈りましょう。

天のお父さま、

あなたのみ言葉をもって、一年を始めることができた幸いを覚えて感謝いたします。2007年がさまざまな出来事があったように、この新しい年もどのような年になるか、まったく先が見えない、そういう一年であろうかと思います。しかしながら、私たちはそのような中にあって、ただあなたのみ言葉に、生ける命のみ言葉である主イエス・キリストに依り頼んでまいります。どうぞ私たちの日々の生活をあなたが豊かに祝福をして、あなたの栄光を現わしてください。

主を讃美するために私たちが創造されているということを、そのことを深く味わい知る一年の歩みでありますように。

ここに集められた一人一人の上に、そしてまた今日来ることができずにいる兄弟姉妹方の上に、また特にご入院をされておられる方々の上に、看病に当たっておられる方々の上に、体調を崩されている方々の上に、どうぞあなたの慰めと癒しと救いのみ業を豊かに備えてくださいますように。

一人一人の心のうちにあります祈りに合わせまして、私たちのために十字架に架かり、死して甦ることによって、永遠の命にいたる門を開いてくださった主イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

「感謝の歌」アナウンス

どうぞおすわりください。それでは感謝の歌として教会讃美歌の49番、これもルーテル教会の讃美歌です。メイドインジャパンの讃美歌ですが、教会讃美歌の49番「新しい年を迎えて」をご一緒に歌いましょう(作詞:江口武憲、作曲:山田実)。

(2008年1月1日 元旦礼拝説教。 テープ起こし:山口好子姉)

説教 「敵を愛しなさい~和解の十字架」 大柴譲治

創世記45:3-15/ルカ福音書6:27-36

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

心を伝える四つの言葉

牧師として人生の最後に関わる仕事をしていますと、様々なことを考えさせられます。ターミナルケアにおいてもグリーフワークにおいても、良くも悪くも、最後に私たちに問われる大切なことは人間関係なのだということをしばしば思わされます。私たちを最後に支えるのは、やはり一言で言えば、「愛の絆」であり、「心のつながり」なのです。

一人でも本当の意味で、自分を理解してくれる親友がいれば(それを「魂の友」と呼んでもよいかもしれませんが)、私たちはその存在に支えられて生きてゆくことができるのです。その友との絆は、不思議なことですが、CS・ルイスが『悲しみを見つめて』という本の中で記しているように、死によっても断ち切られることはありません。対話は続く。それまでとは違ったかたちではありますが、確かに愛の関係は死を越えても続いてゆくのです。場合によっては、死を通して、それまで以上に強められるような関係があると思います。

今年の私たちの教会の年間主題は「コミュニケーション」。その主題に関して総会礼拝でも申し上げたことでもありますが、「愛」という字には真ん中に「心」という字が入っていて、「心を受ける」と書くとある人が言っていたのを聞いてハッとしたことがあります。厳密に言うと少し字が違うようにも思いますが、心を受け止め合うこと、心を伝え合うことが愛なのだと言われると「なるほど、確かにそうだ」と深いところでストンと腑に落ちるように思います。

前にも申し上げたことがありますが、心を伝えるための大切な言葉として四つの言葉があります。とても簡単な言葉ですが、基本的な言葉と言ってもよいでしょう。それは次のような言葉です。

(1)”I’m sorry.” (「ごめんね」「すまなかった」「申し訳ない」「お赦しください」)
(2)”I forgive you.” (「もういいよ」「あなたを赦します」)
(3)”Thank you.” (「ありがとう」)
(4)”I love you.” (「あなたが大好き」「あなたを大切に思っています」)

どれも味わい深い言葉ですが、なかなか素直に伝えることが難しい言葉でもあります。身近であればあるほど、そうかもしれません。しかしこれらはどうしても伝えておかなければならない言葉でもある。日本人は以心伝心と言って言葉にしなくても伝わると考えている節がありますが、そして確かにコミュニケーションにおいて言語的な部分は7%にすぎないということもあるかもしれませんが、自分の心を伝えることの大切さを思います。しかし、どうぞ今日、家に帰られたら、ぜひこの四つの言葉を一番身近にいるご主人か奥さまに語ってみてください。ご家族で話し合うことができたら素晴らしいと思います。

「死」は人生を統合し、完成させてゆくステージであると思いますが、その時に問題になることがこの四つの言葉なのです。和解の言葉です。時間切れになる前に、時間があるうちにぜひ自分の人生を振り返って、心の深いところにある悔いや苦い思いを一つひとつ検証しながら、和解をしておく必要があると思います。その意味では本日の礼拝に出られた方は究極のターミナルケアについて考えるみ言葉が与えられたと思っていただいてよいのだろうと思います。

敵を赦すことの困難さ

本日は特に、とりわけ二番目の”I forgive you.”と四番目の”I love you.”といういうことが主題であると言うことができましょう。イエスさまの福音書の「敵を愛しなさい」という言葉もそのような「敵を赦す」という観点から見てゆきたいのです。真の愛は寛容であり、情け深いからです。

そう聞きますと、私たちの中には絶望的な思いになる部分もあります。私たちは普段は敵と味方を区別して、その間に壁を作って自分を守りながら生きているようなところがあるからです。敵も味方もないということになると、どうすれば自分を守ればよいのでしょうか。敵を愛するということは、突き詰めていえば、敵に殺されてもいいということでもありましょう。十字架で殺されたイエスさまに習うということでもあるのです。私たちはどこかでこのイエスさまの「敵を愛せよ」という命令を割り引いて聞いているところがあります。そうしないとこの身がいくつあっても持たないということになるからです。「敵を愛するなんて無理なことさ」と私たちはどこかで諦めている。もしそうであれば「敵は本能寺にあり」で、私たち自身の中にある「キリストへの不服従」が問題なのです。

たとえばある方は、一つの問いに生涯真剣にこだわり続けられました。「私はどうしても主の祈りの中の『われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ』という一節が心から祈れないのです。どうすればよいでしょうか」。その背後にはどうしてもある人を赦すことができないという深い思いがありました。それは本当に正直な思いであると思います。

私たちの中にも深いところには同じような思いが沈殿しているのだと思います。「あの人だけは赦せない。あの行為/言葉だけは赦せない。」という胆汁のように苦い思いがあるのだろうと思います。赦すということは難しいことです。ですからペトロもイエスさまにこう問うたのです。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」すると主はペトロに言われました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と(マタイ18:21-22)。これは490回赦せばよいということではありません。何回赦したと数えているようでは本当の意味では赦していないからです。

人間はどこかで仕返し/復讐することを懸命に考えているように思います。怒りのエネルギーというものは本当にすさまじいと思います。怒っている人の目は本当にメラメラと燃えているように感じることがあります。「今に見ていろ、必ず見返してやるから」。「目には目を、歯には歯を」と言われている戒めも「同害報復法」といって、「目をやられたから、歯をおられたから命まで」とエスカレートしがちな人間の復讐心を抑えるためのものであることはご存知の方も少なくないことでしょう。「復讐するは我にあり」というローマ12:19の言葉を思い起こす方もおられるかもしれません。神が必ず裁いてくださるという思いをもって自分の怒りを収めようとしても、しかし収まりません。深く沈殿していた怒りが何かの拍子に思い起こされることがあります。

パウロはローマ書5章で「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と言っていますが、怒りのエネルギーを何とか、水力発電ではないですが、マイナスの方向ではなくて、プラスの方向に用いたいと思っても、それがいかに困難であるかは私たちの皆が知っているところです。『ロミオとジュリエット』にしても、『ウェストサイドストーリー』にしても、復讐がもたらす悲劇が後を断ちません。”I forgive you.”とはなかなか言えない言葉なのです。本日の旧約の日課に出てくるヨセフと兄弟との和解の場面が私たちの心を打つのは、その背後に深いドラマを感じるからでありましょう。

十字架による突破口~和解の十字架

神は全く私たちの思いを遙かに越えたかたちで人間の怒りの収め方を教えてくださった。それは真に驚くべき仕方であります。「神の復讐」は敵対するこの世のためにその独り子を賜るという仕方で実現したのです。それこそみ子イエス・キリストの十字架です。

主は十字架の上で、自分を十字架に架けた者たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。私は何度この部分を読み直しても、愕然とします。この言葉は人間には全くもって不可能な言葉であると思います。十字架上の七つの言葉はどれもそうですが、私たちの存在を根底から新たに作り直すほどの力がこもっています。

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と主は今日の日課で言われていますが、「敵を愛する」ということは単に自分が敵を赦すということに尽きるのではない。”I forgive you.”ということだけではないのです。敵のために「神に」対して、神の赦しを執り成すところまで射程に入っているのです。

これはイエスさまにしかできないことなのですが、この「神を見上げる」ということが実は重要なのです。敵を愛するということは敵に殺されるだけではない。自分を殺そうとする者を赦し、その者のために神の赦しを祈ることなのです。そして、キリストに従うということは、私たちもまたそのような生き方をするということです。

ルカは使徒言行録7章の終わりに最初の殉教者であるステファノが最後に主と同じ祈りを祈ったことを報告しています。その部分(7:54-8:1)を引用してみます。

人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

ここでサウロと出てくるのは後のパウロのことです。パウロは自分のことを1テモテ1:15で「罪人のかしら」(口語訳、新共同訳では「罪人の中で最たる者」)と呼んでいますが、その言葉は私たちにこのステファノの殺害の場面を思い起こさせます。

敵を愛するどころか、どうしても赦すことのできない怒りや恨みを抱えている私たちです。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をもお赦しください」と祈ることを口ごもってしまう私たちです。しかし、主はそのような敵を赦すことができない私たちのことを先刻ご承知の上で、十字架にかかってくださったのです。

それはエフェソ書2章が言う通りです。キリストは私たちの平和であり、「敵意という隔ての中垣」を十字架において取り壊し、敵意を滅ぼしてくださったのです。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(2:14-18)

ヨセフ物語

旧約聖書の日課としてヨセフ物語の最後の部分が与えられていることの重みを思います。ヨセフはご承知のようにヤコブの11番目の子どもで、兄弟たちから憎まれて、エジプトに奴隷として売り飛ばされた人物です。そしてエジプトにおいて夢を解き明かすことができるという特技を発揮して、ファラオの夢の意味を解き明かし、やがて宰相(今で言えば「農林大臣」というところか)にまで登りつめてゆくのです。そしてイスラエルの国が飢饉となり、父親のヤコブに派遣されたヨセフの兄たちがエジプトに助けを乞いに来ます。それをとうとう赦す場面が先ほど読んでいただいた創世記の45章です。

ヨセフの涙の背後には、長い間の苦しみがありました。兄たちに対する怒りや恨み、憎しみや敵意があった。しかしそれをヨセフは乗り越えることができたのです。どうやって乗り越えられたか。大きなところからそれをも救いのご計画の中で用いられた神の御心を知ることができたからです。ヨセフは神が自分を用いてその救いのみ業を実現してくださることを知ったのです。その時に敵対する兄弟を赦し、和解の涙を分かち合うことができたのです。

ヨセフは言っています。「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」(創世記45:7-8)。

神の大きなご計画を知る時、愛を知る時、私たちは自分の中の敵意や憎悪に支配されていた次元から突破することができるのです。目の前のことだけしか見えなかったところから、一歩退いたところから大きな視点から物事を見ることができる時、私たちは”I forgive you.””I love you.”と言うことができるようになる。絶対化していた自分の怒りや憎しみを相対化することができるのです。絶対者は神のみだからです。「汝の神のみを神とせよ」と十戒の最初の戒めは私たちに命じます。自分の怒りや憎しみを神とするのではない。十字架のキリストを私たちの神とするのです。

イエスさまは言われます。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」「友のために命を棄てる。これよりも大きな愛はない」と主は言われました。敵を友と呼んでくださり、十字架にかかることで敵を友としてくださった主。

主の祈りの「われらに罪を犯す者をわれらが赦すがごとく、われらの罪をも赦したまえ」という一節は、私たちを主の十字架の前へと連れ出す祈りなのです。私たちの罪を赦し、私たちにもう一度神との和解の関係をもたらすために十字架にかかってくださった主イエス・キリスト。このお方の中に私たちは、神の”I forgive you.””I love you.”という声を聴くのです。その独り子を賜るほど強い愛の力のゆえに、私たちはステファノのような者へと変えられてゆくのです。サウロがパウロに変えられたように変えられてゆくのです。そのように私たちの存在を根底から創造しトランスフォームする和解の十字架を覚えながら、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2007年2月11日 顕現節第六主日礼拝)

説教 「起きよ、光を放て」 大柴譲治

イザヤ書60:1-6/マタイ福音書2:1-12

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

2007年最初の主日礼拝にあたって

新年おめでとうございます。2007年の最初の日曜日、ご一緒に聖餐礼拝を守れることを感謝いたします。しかしこの一週間はいろいろなことがあって大変長く感じられた一週間でした。

毎年1月6日は顕現日、主の栄光が異邦人にも現わされたことを覚える日です。福音書の日課は東からの占星術の博士たちが黄金、乳香、没薬をもって拝みに来る場面です。そこではイエスさまが「ユダヤ人だけの王」ではなくて「全世界の王」であることが宣言されている。本日は主の栄光の顕現ということに焦点を当てて、み言葉に聴いて行きたいと思います。

主の栄光の顕現

イザヤ書60章の預言がイエスにおいて成就した。これは真に味わい深い光の到来宣言です。

起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で、  主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたを照らす光に向かい、
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。
息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。
そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、
おののきつつも心は晴れやかになる。
海からの宝があなたに送られ、国々の富は
あなたのもとに集まる。
らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、
あなたのもとに押し寄せる。
シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。
こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。  (イザヤ60:1-6)

二つの対極的な反応

この光に対して二種類の正反対な人間の反応があることに注意したいと思います。一方では喜びに満たされる人がおり、他方では恐れや不安に満たされる人がいる。ちょうど光が照るとその反対側に影ができるのと同じです。

東からの学者たちは喜びに満たされました。それゆえ黄金、乳香、没薬という三つの高価な献げ物を携えて、あのアブラハムのように行き先を知らないで出発したのです。ここで「三つの献げ物」が何を意味するかは諸説あります。「黄金」は王としてのイエス、「乳香」は神としてのイエス、「没薬」は人としてのイエスを意味すると説く立場もあります。それが占星術の商売道具であったとする説もあります。いずれにせよ、それが高価な宝物であったことは論を待ちません。しかもその旅は星に導かれての旅でした。暗闇の中で星と足下の両方を確認しながらの困難な旅です。懐中電灯もなければ、舗装された道路も街路灯もありません。また博士たちはおそらく高齢であったことでしょう。人からは「何と無茶な!無鉄砲なことをするな」と止められたり、「大人げない」と笑われたかもしれません。強盗に遭うかもしれない。

しかし、彼らにとってそれは大事なことでした。どこか遠い国の、自分には関係のない出来事ではなかった。馳せ参じるよう星の光が彼らに呼びかけていたのです。戻ってくることの適わない旅かもしれません。彼らは人生を賭けて旅立った。それは彼らがその星を見つけてそれほど大きな喜びに満たされたからです。10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とある通りです。この光を見出すこと、それは生きることの本当の目的と意味と方向性とを知るということなのです。彼らはこの光と出会って生きることの喜びを知りました。シメオンの讃歌と同じ喜びの調べがそこには感じられるように思います。

光を見て喜びに満たされた者がいた反面、恐れと不安に満たされた人たちもいました。領主ヘロデとエルサレムの人々がそうでした。エルサレムに辿り着いた博士たちから「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」という言葉を聞いた領主ヘロデやエルサレムの人々は、不安と恐れに囚われました。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)。その光によって自分たちの生活が脅かされると感じたのです。

この光は確かに人間の中に不安を引き起こすのです。ヨハネ福音書はそれを独特な言い方で表現しています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(3:19-21)。

光に対する反応が真っ二つに分かれると申し上げましたが、何が二つを分けるのでしょうか。何が喜びと恐れとに分けるのか。ヨハネ福音書はそれを「悪を行う者」と「真理を行う者」の違いであると見ていますので、何が悪を行う者と真理を行う者を分けるのかと問うこともできましょう。しかしそれほど簡単にシロかクロか分けることができるのでしょうか。私たちの中にはその両者が混在しているように思います。私たちはシロクロまだら、あるいは灰色の存在ではないのかとも思います。

杉谷克忠兄の最後のちらしと愛唱讃美歌『主にしたがいゆくは』

ここに一枚のチラシがあります。クリスマスのちらしです。これは1月3日に75歳で天の召しを受けられた杉谷さんが作って下さった地上での最後のチラシとなりました。伝道熱心な杉谷さんのことですから、天上でも伝道委員会に入って頑張ろうとしておられるかもしれません。そこにはこう記されています。「むさしの教会の輝くステンドグラス、響くクリスマスキャロル。クリスマスにはぜひ教会へ」。杉谷さんの熱い思いと祈りが込められたキャッチコピーです。

杉谷さんはこの場所に、このステンドグラスの前に多くの人を招くことを自分の使命/天職と考えていました。「(主キリストに仕える)武士の一分」という言葉で告別式で語らせていただいた通りです。このキリストに光の中にこそ私たちの大きな慰めと平安と喜びがある。そう信じておられたのです。

厳格な明治時代のキリスト者であるお祖母さまにローマ書5:1-11を繰り返し暗唱するよう鍛えられたと杉谷さんは証しされていました。「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」というあのパウロの言葉です。杉谷さんは幼い頃にご自分のお母さまを失うという悲しみを通し、また椎間板ヘルニアという痛みを通して、このみ言葉の力に支えられ生かされてきたのでありましょう。闇の暗さに苦しんだからこそ、キリストの光の中に大きな慰めと喜びを見出すことができたのだと思います。

私たちもまた苦しむこと、悩むこと、悲しむことを通してキリストにまで導かれる。ヘロデやエルサレムの人々は不安や恐れの中に自分を閉ざしました。その結果は悲惨なベツレヘム周辺の2歳以下の嬰児殺しです。人間の闇の深さに震撼させられます。しかし東からの博士たちは光に向かって心を開き、すべてを託しました。

光を見上げ、光に従う時、そこには大きな喜びが与えられてゆく。杉谷さんが愛唱讃美歌としてこどもさんびかの『主にしたがいゆくは』を歌っておられたことを思い起こします。今は天国にあって、あのよく響く声で聖徒の群れの聖歌隊に加わって大合唱をしておられるのではないでしょうか。

十字架という艱難を最後まで忍耐して背負うことを通して私たちに罪の赦しと神との和解と復活の希望を与えて下さったお方がいる。あのステンドグラスに描かれた私たちの羊飼いの愛の力が、私たちを清め、強め、私たちを恐れと不安の中にある者から喜びに生きる者へと造り変えて下さるのです。自分を捨て、自分の十字架を負って主に従う時に、私たちには大きなキリストの喜びの祝宴が約束されているのです。

主にしたがいゆくは いかによろこばしき
心の空  はれて  光はてるよ
みあとをふみつつ  共にすすまん
みあとをふみつつ  歌いてすすまん

主にしたがいゆくは いかにさいわいなる
あしき思い きえて 心はすむよ
みあとをふみつつ  共にすすまん
みあとをふみつつ  歌いてすすまん

主にしたがいゆくは いかに心づよき
おそれのかげきえて 力はますよ
みあとをふみつつ  共にすすまん
みあとをふみつつ  歌いてすすまん

本日私たちは聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「あなたの罪のゆるしのために流すわたしの血における新しい契約」と言って私たちにパンとブドウ酒を差し出して下さるお方がいる。私たちもまたこのお方の与えてくれる救いの光の中をご一緒に、歌いながら、主に従ってまいりたいと思います。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2007年1月7日 主の顕現主日聖餐礼拝)

説教「虹のコラボレーション」 大柴譲治牧師

創世記 9: 8-17

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

2006年度の年間主題:コラボレーション(協働)

本 日は総会礼拝で、今年の年間主題についてみ言葉に思い巡らせてゆく礼拝です。総会資料の34-35ページに書かせていただきましたが、今年は様々な賜物を 持った人々が協力して働いてゆくという意味でコラボレーション(協働)という主題を挙げさせていただきました。イメージとしては虹をイメージしていただき たいと思います。

特にこの教会堂が昨年の耐震補強工事とリフォームを経て、ノアの箱船を再現することができたことも併せ考えているのです が、箱船を降りたノアたちが見たものは神さまとの永遠の契約を表す大きな虹でした。この教会は、神との契約を思い起こすための場所でありますから、それは 虹を見上げる場所でもあると申し上げることができましょう。この礼拝堂の外壁にノアの箱船から出たつがいの動物たちが空を見上げている姿が描かれています が、それは虹を見上げているのです。虹は七色に輝いています。この七色のコラボレーションということを特に今年は覚えたいのです。

ノア契約の二つの特徴

創世記が記すノアの箱船の出来事の中で、「洪水」が人間に対する神の怒りと悲しみを表すしるしであったとすれば、「箱船」は神さまの守りと支えと導きとを表し、「虹」は人間に対する神の赦しと祝福、神の慰めと喜びとを表すしるしであったと理解することができましょう。

こ の虹のしるしが与えられる「ノアの契約」は、実は旧約聖書に出てくるそれ以外の様々な契約と大きく異なっている点がいくつかあります。第一は、アブラハム においても、モーセにおいても、他の契約はイスラエルの民の信仰の告白が片側で前提とされているのに、このノアとの契約についてはそれがないのです。ただ 神が一方的に、先行する恩寵として、契約のしるしを天に示してくださる、それが特徴的です。

第二に特徴的な点は、この永遠の契約のしるし が、すべての人が見上げることができるしるしであるという点です。否、人間だけではない。それは、この教会の外壁にあるように、すべての被造物が見上げる ことができるしるしです。ノアの契約は生きとし生けるものすべてと神が結ばれた永遠の契約だという点が、イスラエルの民を対象としたと他の旧約聖書に記さ れた契約とは異なっています。そしてそれゆえそれは、すべての民、すべての被造物のために与えられた主イエス・キリストの十字架における新しい契約を指し 示していると申し上げることができましょう。

虹は天と地とを結ぶ架け橋でもあります。永遠の世界とこの儚い地上の世界とがつながっていると いうことを表すしるしなのです。虹は、様々なこの世の混とんと不協和音と暴虐と不条理にも関わらず、天と地の間にはそれによっても揺らぐことのない和解が あり、調和があり、深い絆があるのだということを示すしるしなのです。

虹を仰ぐ時、私たちは不思議な力をそこから与えられることを知ってい ます。それは、どのような困難にあっても再び勇気を抱いて立ち上がってゆくことができるような力です。そしてそのような虹があることを指し示すために神さ まはキリストにおいて私たちを召し出してくださったのです。あのステンドグラスが虹色に輝いているように、「虹」は私たちに神のご臨在のしるしであり、神 による十字架の和解のみ業、十字架の赦しと解放のみ業を指し示しています。

教会讃美歌351番

「虹」についてぴった りの賛美歌があります。今年の主題賛美歌と呼んでもよいかと思います。それが先ほど「み言葉の歌」として歌った教会讃美歌351番です。「賛美歌は会衆に よる説教である」とルターは言いましたが、確かにその歌詞を深く味わってみるだけで、それが豐かな説教となっていることが分かります。もう一度歌詞を噛み しめてみたいと思います。

1.われを捉えたもう 神の深き愛よ
弱きわが命を 君に捧げなば
豐かにならん。

2.ひとりたどる道を 照らす主の光よ
小さきわが心に 光満ちあふれ
輝きまさん。

3.雨に悩む時も 虹は彼方にあり
神の誓いたもう きよき喜びの
あしたを待たん。

4.きみの十字架にぞ 我はすがりまつる。
塵に返る身にも 尽きぬ命をば     与えたまわん。

こ のような恵みを味わいながら、一人ひとりが異なる色合いを持ちながらも、七色の絵の具を混ぜると灰色になってしまいますが、そうなるのではなく、互いに反 発し合うのでもなく、赤橙黄緑青藍紫(せきとうおうりょくせいらんし)、赤色、オレンジ色、黄色、みどり色、青色、藍色、紫色という七色の輝きを一つに束 ね合わせてゆくことができればと思います。

虹は透明な光がプリズムを通る時に屈折することによって、波長によって屈折率が異なるために、重 なっていた色が分離して虹色に見える現象です。雨上がりの空に陽光が射すことによって太陽の反対側に虹が出現するのです。透明な光がかくも豐かな色彩を内 に含んでいることに驚かされます。神さまの恵みはかくも味わい深いのです。当たり前と思われる日常生活にこのような虹色の恵みの光が注がれていることこ そ、私たちが思い起こすべき事柄なのでありましょう。

虹のコラボレーション~「地上の虹」

「虹」は神さまとの永遠の 契約のしるしです。しかも不思議なことは、神さまご自身がその虹を見て「神と地上のすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約を心に留 める」(思い起こす)と15節と16節で二度も繰り返して語っていることです。そこに神の決意の強さが示されているのだと思います。

「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(9:16)

天 の父なる神はすべての人々の上に等しく虹の橋を架けてくださるお方であるのです。そのように、私たちが「虹のコラボレーション」ということを考える際に は、この大地も含め、すべての生きとし生けるものとの和解、ハーモニーということがその射程に入っています。敵を愛し、迫害する者のために祈ること、これ が私たちに求められている事柄です。つまり「和解のつとめ」です。分断され、バラバラになってつながらない心をつなげてゆく仕事です。

「互 いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」とヨハネ福音書15章は主の新しい戒めを記していますが、アガペーの愛の実現こそが私たちに命ぜられて いる務めです。その時、私たちは神さまのまなざしの中で「地の塩、世の光」として虹色に輝いているのでありましょう。その時、神さまご自身がその「虹」を 見て、ご自身が被造物と立てた永遠の契約を思い起こしてくださる。つまり、それは神さまが私たちを創造されたことを、創世記の1章で「よし」と祝福された ように、心から喜んでくださるのです。

『プロジェクトX(エックス)』という番組の主題歌に中島みゆきが歌う『地上の星』という曲がありましたが、神さまは私たち自身が「プロジェクトX(キリスト)」の「地上の虹」として輝くことを喜んでいてくださるのだと思います。

そのことを覚えながら「コラボレーション」を合言葉にしてこの一年の歩みを始めてまいりたいと思います。お一人おひとりの上に豐かな祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年1月29日 2006年度むさしの教会総会礼拝説教)

説教 「人生の午後の時間のために」 大柴譲治牧師

コヘレトの言葉12:1-14、3:1-17

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが皆さんの上に豊かにありますように。

教会暦の終わりに

本日は初めて市ケ谷教会の説教台に立たせていただきます。むさしの教会牧師の大柴譲治です。市ケ谷教会とむさしの教会はこの春以降、役員会レベルでの交流を重ね、9月11日には合同修養会を開催いたしました。そのような中で、今年6-8月に私が米国サンディエゴのホスピスで研修をした際に、渡辺純幸先生にはむさしの教会の主管者となっていただきました。その時の感謝を込めて、本日は私が説教者としてご奉仕させていただくことになりました。このような機会が与えられたことを感謝いたします。

さて、今日は聖霊降臨後の最終主日、つまり教会暦では一年の最後の日曜日となります。来週からアドベントで新しい一年が始まるのですが、今日は特別に主日の日課を離れましてコヘレトの言葉より語らせていただきます。題して「人生の午後の時間のために」。教会暦の終わりに信仰者として人生の終わりについて思いを馳せることはあながち場違いでもなかろうと思った次第です。そして自分の最後を預けるところ(教会)があるという信仰者はいざという時に強いと思います。

「人生の午後の時間」のために

この説教題にピンと来た方もおられましょう。93歳現役医師・日野原重明先生のご著書 『人生百年私の工夫』を思い出した方もおられるかもしれませんが、実はこれはフロイトの弟子であるユングが使った言葉です。人間の人生には午前の時間と午後の時間がある。午前は勉強や仕事、結婚や子育てなど一生懸命に活動をする期間であり、言うならばDoingの時間。それに対して人生の午後の時間はそれらが一段落して、DoingではなくてBeing 存在そのものの次元が課題となる時期。ユングは「人生の午後の時間とは魂の時間であって、魂を豊かにしてゆくことが問われる時間なのだ」と言うのです。折り返し点が何歳ぐらいなのかというのが気になりますが、ユングは当時の平均寿命に鑑みてだいたい40歳ぐらいを考えていたようです。日野原先生などは60歳ぐらいを考えておられるようです。インターネットで調べると次ような紹介文章と出会いました。

『人生百年私の工夫』(幻冬舎)

90歳現役医師「生き方上手」が贈る、しあわせの処方箋。

日本で今、百歳以上の長寿の方は一万四千人おられます。アメリカでは五万人を超えました。人生百年の時代を迎える指針。しかし、喜んでばかりもいられません。「人生百年」時代にふさわしい、長い時間を充実して過ごす知恵、「人生百年の計」が必要になってくるのではないでしょうか。生きることはたしかに苦しいけれども、生き方を工夫すれば、生きることを楽しみに変えていくことができます。老いること、病むこと、死ぬことも、逃れようのない苦しみではなく、どのようにして老いるか、どのようにして病むか、どのようにして死ぬかを工夫していけば、こちらも楽しみにしていけるはずだと考えます。

●クヨクヨしたときは、とにかく歩く。
●その週の疲れは、その週のうちにとる。
●静かな自然の中より、ストレスの多い都会に住む。
●子どもに見返りを求めず、生きがいを探す。
●20年後ああなりたい、と憧れるモデルを探す。

コヘレトの言葉

本日のみ言葉は旧約聖書コヘレトの言葉から選ばせていただきました。口語訳聖書では長く「伝道の書」として親しまれてきた書物です。12: 1の言葉はよく知られています。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに」。口語訳ではこうなっていました。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」。

私は学生時代、まだ牧師になろうとは全く考えていなかった20歳の頃に、それは私にとってはまさに「青春の蹉跌」とも呼ぶべき時代でもありましたが、その時期にこの「空の空、空の空、いっさいは空である」と唱える伝道の書と出会い、強烈な印象を持ちました。伝道の書全体をむさぼるように何度も繰り返し読んだ記憶があります。その時にはまだこの12章が何を言わんとしているのか分からなかったのですが、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」という12:1の言葉だけは心に残りました。

実はこの12章の1節の後半以降7節までは、老いてゆくことのリアルな描写がなされています。腰は曲がり目がかすみ(3節)、耳が遠くなり耳鳴りが始まり、朝早く目が覚め、声は低くしわがれる(4節の「門」とは耳のこと)。坂道が怖くなり、動きがにぶくなって足を引きずる(5節のアーモンドの白い花とは白髪、アビヨナとは食欲を増す薬味)。手は震え、病気がちになり、そして最後は「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(7節)、つまり死を迎えるのです。「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい」(8節)。ズンと落ち込んでゆく描写であります。特に2節は、私は4年前に網膜剥離になって手術を受けて以降、老眼が進む時期とも重なり、なかなか暗いところでは小さな字が読めなくなってきて苦労するようになるとこの描写は本当にその通りだと思わされています。

「空の空、いっさいは空である」という伝道の書の主題が最初から最後まで貫かれています。しかし、実はこの「空」という言葉はヘブル語で「ヘベル」という単語ですが、元は「息」あるいは「蒸気」であり、転じて、時間的な意味で過ぎ去ること、はかなさ、実存の「無価値、空虚、空しさ、不条理」という意味で使われる言葉です。兄に打ち殺されることではかない人生を終えた弟の名がアベルというのも偶然ではありません(「アベル」とは「ヘベル」という同じ言葉から由来する名前)。

私は学生時代にこの伝道の書を読んだ時、正直言って聖書の中にかくも仏教的な響きを持つ書物があるのかと大きな衝撃を受けました。考えてみれば仏教もユダヤ教もキリスト教もアジアに生まれた宗教です。コヘレトの言葉の「空」という言葉を仏教の説く実体のないという意味の「空」とすぐさま同じだと論じるのは乱暴でありましょうが、しかし相通じるものがあるのは事実でありましょう。生老病死という人生の苦しみと不条理とを突き詰めてゆくと「空の空、いっさいは空である」という言葉が疑いなく真実であるという気がしてまいります。伝道者は現実の無意味さ、空虚さをリアルに描写してまいります。知恵を求めることも、快楽を求めることも、権力を求めることも、いっさいは空に過ぎないと言うのです。

ただ一つだけ、この書物にはその主題とは異なった響きのする部分がある。それが、本日もう一つの箇所として選ばせていただいた3章です。「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。・・」そして3:11となります。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」。口語訳ではこうなっていてもっとインパクトがありました。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」。すべては空しいと言っておきながら、神のなされることは皆その時にかなって美しいと言うのです。これは最初理解に苦しみました。そしてそこから次第に見えてきたのは、信仰のまなざしにあってはすべてが空しい中にもただ一つだけ決して空しくはならないもの、美しいものがある。それこそが神のなされるみ業であり、それを信仰のまなざしをもって見上げながら生きることが私たちには求められているということでした。

私たちは生きることの辛さ、不条理というものを体験する時に、「いっさいは空である」という言葉が真実であることを知るのです。しかしそれと同時に、そのような空しい世界のただ中に「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」ということ、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」ということが見えてくる次元がある。ある時、突如としてそのような次元が開かれることがある。向こう側から与えられるようなかたちでそれは見えてくるのです。

信仰者の青春

他の旧約聖書同様、私はコヘレトの言葉は全体としてイエス・キリスを指し示していると読んでいます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。私たちの悲しみの一番深いところ、闇の一番深い底にまで降り立ってくださったお方がいる。それが聖書の伝える私たちの救い主イエス・キリストの姿です。

「いっさいは空」であり過ぎ去ってしまうこの世の出来事の中で、あのゴルゴダの丘の出来事、復活の出来事は決して過ぎ去ることのない出来事です。そしてこのお方を信じて生きる時に、私たちには自らの老いによっても揺るぐことのない青春の日々を見いだすことができる。人生においてキリストに出会う、キリストを通して神と出会うということ中にこそ私たちの人生に青春をもたらすものがあると思うのです。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とありましたが、それは逆で「創造主に心を留めることの中に青春の日々がある」のではないか。私たちのどん底に降り立ってくださったみ子なる神を心に留めることの中に私たちの真の青春があり、神の備えられた春の花咲く季節がある。それゆえ、このお方と出会う時に、私たちは老シメオンと同じように喜びに満ちた讃歌(ヌンク・ディミティス)を歌うことができるのです。「今わたしは主の救いを見ました。主よあなたはみ言葉の通り、僕を安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のためにお備えになられたもの。異邦人の心を開く光、み民イスラエルの栄光です。」(ルーテル礼拝式文より)

人生の午後の時間、魂を豊かにしてゆく時間の中で、私たちはキリストを仰ぎ見るように招かれています。その青春を謳歌するように招かれている。最後にサムエル・ウルマンという人のよく知られている「青春」という詩の最初の部分をご紹介して終わりにします。お一人おひとりの上に豊かな恵みがありますように。

「青春」   サムエル・ウルマン(作山宗久訳)

青春とは人生のある期間ではなく
心の持ち方をいう。
バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく
たくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気
やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うときはじめて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩、恐怖、失望により気力は地にはい精神は芥(あくた)になる。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には
驚異にひかれる心、おさな児のような未知への探求心
人生への興味の歓喜がある。
君にも我にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の
霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ
悲嘆の氷にとざされるとき
20歳だろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり
80歳であろうと人は青春の中にいる。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年11月21日 聖霊降臨後最終主日礼拝説教
市ケ谷ルーテル教会にて)

説教 「愛の実現」 大柴譲治牧師

ミカ書 4:1-5
エフェソ人への手紙 2:13-18
ヨハネによる福音書 15:9-12

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「人の心の中から」

最初に一つの言葉をご紹介いたします。「人の心から戦争が起こるのだから、平和の城壁を打ち立てるべきもまた人の心の中なのだ。」これはユネスコ憲章(1946年)前文の最初の言葉です。ユネスコ(UNESCO)とはフランスのパリに本部を置く国際連合教育科学文化機関の略称(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization )です。日本ユネスコ国内委員会のホームページには「戦争は人の心の中から生まれるものだから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という訳が載っていました。これは確かにその通りだと思います。イエスさまもおっしゃいました。すべて悪しきことは人の心の中から起こるのだと(マルコ7章20-21節)。敵は本能寺にあり!平和の敵は私たち自身の心の中にあるのです。だからっこそ、私たち自身の心の中に平和のとりでを築き、私たち自身が手を結び合ってゆかなければならないのです。

私は、フィラデルフィア神学校に留学中、他の留学生とその家族と一緒にマイケル・モラーというドイツ人の教授と一緒にニューヨークの国連本部を訪ねたことがありました。そこを訪れた方がこの中にもおられると思いますが、そこには先程読んでいただいたミカ書(同じ言葉がイザヤ書にもありますが)からの言葉が国連ビルの建物の礎石のところに刻まれています。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」この言葉が実はユネスコ憲章の「戦争は人の心の中から生まれるものだから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という言葉を生み出していったのではなかったかと思います。現在のパレスチナの現実を見る時に、本当に私たちは心が痛みます。

平和主日にあたって

8月の第一日曜日は毎年平和主日として礼拝を守っています。特に8月は日本にとっては、広島と長崎に原爆が投下された月であり、また15日には戦争が終わった敗戦記念日があります。私は今、「終戦」記念日とは言わず、あえて「敗戦」記念日と言わせていただきました。それは8月15日がアジアの諸国にとっては解放の記念日として祝われているからでもあります。私の妻は韓国ソウルの出身ですが、韓国では8月15日を光が回復された日と書いて「光復日(カンボクチョル)」と呼びます。それは解放の日であり、喜びの日なのです。私たちはそのことを思う時に複雑な苦いものが腹の底にわき上がってくるような思いがいたしますが、私たち自身と時代の愚かさと罪とをも射程に入れながら、平和を祈念する付きとして8月を覚え、平和のために祈りを合わせてゆきたいのです。

そして、平和を考える時、そして平和のために祈る時、そのような心の痛む思い、苦い思いこそ、私たちが忘れてはならないものなのではないか。そう思うのです。私は福山教会の牧師をしています時に、9年間、広島平和セミナーに関わり続けました。広島平和公園には「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という碑文が中心に据えられています。過ちを繰り返さないためにも私たちは過ちを忘れてはいけない。そう思います。過去に目を閉ざす者は未来に対しても目を閉ざす」(ヴァイツゼッカー)。平和を祈り続けるためには、大いなる逆説ですが、平和を奪われた時や平和を奪ってしまった時の辛く悲しい思い出を心に刻み続けなければならないのです。

私たちの中の人を赦すことのできない罪

「戦争は人の心の中から生まれるものだから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」。これは正しい認識です。誰もがそう思い、それを願っている。しかし、それが実現できない現実を私たちは持っています。私たちの心の底には、どうしてもあの人だけは赦せない、どうしてもあの事だけは赦せないという気持ちが重なり合って沈殿しています。それが何かのきっかけで撹拌される時にむくむくと昔の怒りがわき起こり、人が変わったようになってしまうのです。憎悪は人間をむしばむ病いです。そのそこには恐怖があります。

ラッシュ・ドージアという人は、自分を脅かす存在と出会った時に恐怖が人を二つの方向に押しやると見ています(『恐怖~心の闇に棲む幽霊』、角川春樹事務所、1999。『人はなぜ「憎む」のか』、河出書房新社、2003)。恐怖は人間の持つ最も基本的な情動の一つで、そこには「恐怖-逃走-パニック」反応と「恐怖-闘争-怒り」反応という二つの反応パターンが存する。恐怖の原因から逃げるかそれと闘うか二つに一つなのです。例えば蛇を見て立ちすくむというのは咄嗟の対応のために瞬間的に力を溜めているのです。敵意と憎悪というものは後者の反応です。攻撃は最大の防御でもあります。敵意と憎悪というものは自己を外敵の脅威から守ろうとする動物的な防衛本能であり、強力なエネルギーなのです。人間を「敵をつくりだす存在」という意味で「ホモ・ホスティリス(敵対人)」と定義する者もいるくらいです(サム・キーン『敵の顏-憎悪と戦争の心理学』柏書房)。

主の祈りの中の一節を思い起こします。「われらに罪を犯すものを我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ。」これが一番難しい祈りです。どうしても引っかかってしまう方は少なくないのではないでしょうか。実は、人間の心を深いところまで見通しておられたイエスさまのことですから、この祈りが私たちにとって具体的には祈ることが一番難しいと知っておられたと私は思っています。それは主が教えてくださった祈りだけあって、徹底的に打ち砕かれて謙遜にされた者でなければ祈ることができない祈りなのです。いや、この主の祈りを徹底的に祈り続けることによって私たちは打ち砕かれてゆくと言うべきなのかもしれません。私たちが罪を犯す者を赦すことができるためには、キリストの十字架を見上げる以外にはないのです。あの主の十字架は私の罪を赦すためのものであったということを。

「罪を犯す者を何回赦せばよいのですか。7回ですか」と問うた弟子たちに「7を70倍するまで赦しなさい」と答えられたイエスさまです(マタイ18:21-35)。気が遠くなるような数字ですが、これは490回ということではありません。まだ数えているようでは本当に赦したことにはならない。主は罪を犯す者を無限に赦せと言うのです。神さまに無限に赦されたからです。神さまに1万タラントン(1タラントンは6千デナリオン。=6千万デナリオン。およそ6千億円)の借金を赦された者が100デナリオン(労働者100日分の給与。1万タラントンの6千万分の一!およそ100万円)の借金を赦せない。それが私たちの姿です。み子の命を十字架の上で私たちの罪を赦す代価として支払ってくださった神さまの愛を私たちは知るべきなのです。

私たちはみ子の血潮によって支払われた代価の高価さを考える必要があります。「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださった。それはみ子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。キリストの愛、神の愛こそが世界を変えるのです。なぜなら、創造主なる神は愛をもってこの世界を造られたからです。

愛の実現

「戦争は人の心の中から生まれるものだから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」。人の外から入るものが人間を汚すのではない。人の心からこそ悪いものが出てくるのです。この悪い者を立ち切るために、主は十字架にかかってくださいました。私たちの中の敵意や憎しみという悪い思いは主の血潮によって雪よりも白く清めらたのです。

この地上では力による制圧が続いています。私たちは確かに力も大切であろうと思います。しかし、正義は常に勝つとも限らないし、また、力の一番強い者が義しいとも限らないのです。私たちはキリストの愛、十字架の愛の力を信じています。それは圧倒的な軍事力や支配力の中で全く無力に見えます。しかしローマ帝国もドイツ帝国も大日本帝国も滅んでしまいましたが、キリストのみ国は滅ぶことなく、ずっとこの地上にあり続けているのです。否、永遠のみ国に向かって存続し続けてゆくのです。なぜなら神の愛は不滅であり、神の愛の実現による以外に、この地上に平和はもたらされないのだですから。だからこそ私たちは、「み名があがめられますように。み国が来ますように。み心が天に行われるごとく、地にも行われますように」と主の祈りを絶えることなく祈り続けるのです。

遠藤周作『女の一生 第二部』より

よく引用させていただく話ですが、遠藤周作の作品の一つに『女の一生』という二巻ものの大作があります。その『第二部 サチ子の場合』の中で遠藤周作は、アウシュビッツ収容所に入れられてやがて一人の囚人の身代わりになって殺されてゆくコルベ神父の姿を印象的に描き出しています。コルベ神父自身は無力で、ボロボロになった姿をした囚人の一人なのですが、その収容所の現実の悲惨さの中で「ここは地獄だ」とつぶやく囚人の一人に対してこう語ったのです。「ヘンリック、ここはまだ地獄ではない。地獄とは愛のないところだ。でもまだここには愛がある」と。愛のないところが地獄なのです。ここにはまだ愛がある。神の愛が生きている。だから地獄ではない。コルベ神父はこう言って自分の僅かなパン切れを倒れている人に分かち合ってゆくのです。このように暴力が圧倒的に支配しているように見える世界の中で平和を実現するということは、そのような愛を実現してゆくことなのです。それは私たち人間の力ではできません。キリストの愛の力が私たちを捉え、私たちを変え、私たちを押し出してゆくのです。キリストのいますところ、そこに愛があります。

本日の福音書の日課の中で、主はこう言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」私たちがキリスト者であること、私たちがキリストの教会であることは、この愛(アガペー)の実現にあるのです。

聖餐式への招き

本日私たちは聖餐式に与ります。聖餐式は私たちを愛し拔いてくださった主の愛の行為です。ご一緒に本日の第二日課として与えられましたエフェソ書2章の言葉を覚えながら、聖餐式に与りたいと思います。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年8月3日 平和主日聖餐礼拝説教)

説教 「最高のハートフルプレゼント」 大柴 譲治

エゼキエル書 36:26

はじめ

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

心臓移植のドラマ

最近、1983年のクリスマスにカナダで観たテレビドラマを思い起こしました。St. Elsewhereというタイトルだったでしょうか、今で言えばER(救急救命室)とかシカゴホープとかいった社会派の病院ドラマでした。その中のあるエピソードを思い出したのです。

ドラマの主人公である一人の医師が若い青年患者の心臓移植手術を行います。心臓のドナー(提供者)は交通事故のために脳死状態になった一人の女性でした。運び込まれた心臓を用いててきぱきと処置が行われ、手術は無事成功します。

私はバンクーバーの近くの田舎町のルーテル教会で牧師となるためのインターン中でした。そこで車の免許を取った時、免許が送られてきたときのことです。事故で万が一脳死状態になった場合に自分は臓器移植のドナーになりたいという希望を持つ方はこのシール(確か丸い黄色いシールだったと思いますが)を免許の片隅にはっておいてくださいとあって、その事柄を扱うドライさにスッと血が引くような驚ろきを覚えたことを鮮明に記憶しています。心臓移植のことなど日本ではまだ話にも出ておりませんでしたから、ずいぶんアメリカは進んでいると思いました。

ドラマの話に戻ります。帰宅した主人公の医師を待ち受けていたのは警察官でした。彼の妻が交通事故にあって脳死状態となったこと。彼女は運転免許証にドナーシールをはっていたために、即座に臓器移植のためのドナーとなったこと。そのことを警察から告げられた医師は今日自分が行った心臓移植手術のドナーが実は、朝仕事に行くときに別れた自分の最愛の妻であったことを知って愕然とします。

彼は再び病院を訪れます。まだ麻酔で眠っている患者の傍らに彼は茫然自失の状態で座ります。病室には心臓の鼓動を伝えるモニターの音がこだましてゆきます。妻は死んだ。しかし妻の心臓は今も生きている。悲しみの中にも大きな余韻を残して、ドラマはそこでフェイドアウトしてゆきました。

それは私にとっては大変に印象的な場面でした。もう17年も経っているのですが、今でも私はその場面をはっきりと思い起こすことができます。愛する者の死と愛する者の一部分が他の人の中で生き続けてゆくということ。何という複雑な思いが残ることでしょう。

様々な議論を経て日本でもようやく1997年から臓器移植が始まりました。残された遺族に対するきちんとしたケアなどまだまだ課題が残っているように思いますが、インターネットで臓器移植を調べますと「命のリレー」というような標語で様々なサイトが検索できます。

最高のハートフルプレゼント

最近読んだあるクリスマスの物語に心を強く動かされたものがありますのでそれをご紹介させてください。これは実際にあった話です。

場面はアメリカカリフォルニア州。時は1980年の12月22日のことでした。心臓移植のために何ヶ月も待ち続けていた18歳の少年ダンにその夜、ドナーが現れたと病院から電話が入りました。彼はちょうどその時、クリスマスを家で過ごすために病院から実家に帰省していたのです。移植可能な時間は限られています。ハイウェイパトロールやセスナ機などの応援も得て、彼は病院に運ばれてゆきます。ようやく時間ぎりぎりに病院に到着します。何ヶ月も待ち続けた彼のために多くの人が祈りを捧げてきます。ラジオのニュースキャスターまでも彼のために祈るようアナウンスしてくれています。そのような中で移植手術は行われてゆきました。手術は成功し、ダンは快復に向かいます。

やがて応援してくれた人々からの手紙が続々と彼の元に届く。その中にはエゼキエル書の36章26節の言葉もありました。「わたしはお前たちに新しい心(ハート)を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心(ハート)を与える」。

手術に成功した彼は、本当に多くの人が自分のために祈り、支援をしてくれたことを知ります。彼のもとに激励と祝福の手紙が続々と届きます。やがてダンは一つの手紙を読んで胸が詰まります。改めてそれが最高のクリスマスプレゼントであったことを知るのです。その手紙にはこう書かれていました。

「親愛なるダンへ。私たちはあなたに会ったこともありませんが、主人も私も、あなたとご家族に大きな親しみを覚えています。それは、あなたに心臓を提供したのが、私たちのひとり息子のロイドだからです。あなたがロイドの心臓をもらってくださったことを知り、ひとり息子を失った私たちの悲しみはずっとたえやすいものとなりました。

愛をこめて。
ポール&バーバラ・チェンバース」

(『とっておきのクリスマスの話』、フォレストブックス、1997より)

神の独り子の誕生

これ以上の贈り物はないと思われます。「友のため命を捨てる、これ以上の愛はない」とイエスさまもおっしゃいました。

チェンバース夫妻のひとり息子は死ぬことによって別の少年に命を与えました。このことは私たちにクリスマスを祝うべき本当の理由を示しています。神の独り子イエス・キリストも、あの十字架の上に死ぬことによって私たち一人一人にご自分のハートをプレゼントしてくださった。それも永遠の命を生きるためのハートをくださったのです。これは最高のハートフルプレゼントです。私たちは独り子を賜るほどに私たちを愛してくださっている神さま。その神さまに私たちは感謝の祈りを捧げたいと思います。

悲しむ者の上に慰めがありますように。メリークリスマス。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年12月24日 クリスマスイブ音楽礼拝)

説教 「人からの問い、神からの答え」 賀来周一

宣教75周年記念説教集『祝宴への招き』

むさしの教会は2000年10月8日に宣教75周年を祝いました。それを記念して出版された歴代牧師7人による教会暦に沿った説教集です。


待降節

マラキ書 3章 1~ 4節

 

アドベント(待降節)の季節を教会が迎えるようになると、毎日曜日、朗読されるペリコーペ(聖書日課)の旧約聖書も、キリスト来臨の預言を伝える個所が読まれるようになる。

今日は待降節第2主日、主の降誕を迎える日も近い。旧約聖書の個所は、マラキ書。旧約の最後にある預言書だ。旧約の諸文書の中では、年代的に一番新しい。学者達の調査によると紀元前500年頃ということだ。キリスト誕生よりもずっと前ということになる。預言者マラキは、旧約の一番しんがりに立って、アブラハム以来の自らの歴史をふりかえっている。静かに目をつむる。そうだ。いろいろのことがあったっけ。‥‥‥出エジプトのこと‥‥、シナイ山のこと‥‥、カナンの地‥‥、ダビデ‥‥、ソロモン‥‥、そしてバビロン捕囚‥‥、そして、解放‥‥、かぎりなく、旧約の歴史が絵巻物のように繰り広げられる。いま、その歴史の一番端に立ってマラキが見たもの、それは自分たちの歴史の歩みを素直に受け止めることが出来ない神の民イスラエルの姿だった。

当時の歴史的背景をちょっとばかり振り返ってみよう。538年、もちろん紀元前のことだが、イスラエルはバビロン捕囚から故国へ帰還する。やがて、エズラやネヘミヤによってエルサレムの神殿の再興がはかられる。けれども、ペルシャの支配は続き、信仰的にはさまざまの宗教的習俗が巷に流行し、この世的には良いことは少しもなく、悪いことばかりが続くようで、こころ定まる日はなかった。

マラキはこうした民たちの思いを、神に対する問いとして受け止めた。神から愛された民だというのに、神の愛は一体どうなったのか。そんな神に対して彼らは問う。「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」と。せっかくの神への礼拝の捧げ物が喜んで受け入れられないのを嘆いて、「なぜ神は受け入れないのか」と言い、あるいはまた、悪いことをしているのに、あたかも主の前に善人のように見えるのを腹立たしく思い、「裁きを行う神はどこにあるか」と問う。

民たちは、問いつつも、その問いに対する答えを自分なりに作り上げてしまう。きっと神に問い掛けたところで何の役に立つかと思ったに違いない。問いだけあって、答えがないと思われるときには、問うた本人が、答えを出さねばならぬ。イスラエルもそうであった。

「神に仕えることはつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか」(マラキ3:14)

神への問いが、むなしく帰ってくると思われるときには、「神に仕えることはつまらない」と答えるのが、一番手っ取り早くて、納得のいく答えにちがいなかった。

長い長い歴史の振り返りの最後に、希望に至る答えではなく、諦めの答え、しかも不信仰こそが、今納得のいく答えであることを発見するのは、マラキにとって、堪え難いことだった。

彼は、自らの名にふさわしく「わが使者」がやがて来るとの信仰を民たちの諦めにぶっつける(註 マラキという言葉はわが使者という意味である)。ある学者によると、マラキとは預言者名ではなくて、本の題名であるともいわれる。

そう‥‥、使者がやってくる。ずっと向こう側から、かなたから、使者がやってくるとマラキは言うのだ。それは、自分たちの側で用意した諦めの答えとは、ちがう。その使者がやってくるとすべてが一転する。

「見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると万軍の主が言われる。その来る日にはだれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである」(マラキ3:1-2)

自らの歴史の振り返りが、神への問いで終わり、その答えが諦めの中で受け止められようとするとき、一切は逆転する。

真実が明らかにされ、諦めが希望に変る。「あなたがたの喜ぶ契約の使者が来る」からである。マラキは、この使者を指さす。ちょうど、バプテスマのヨハネが、キリストを指さしたと同じように、来るべきお方を指さす。

クリスマスの主は、こうして、民たちの「神に仕えることはつまらない」との答えに対して「喜び」の答えとして来たりたもうのである。しかも、あのつまらない飼い葉桶の中にである。

(1982年12月)

説教 「主の民すべてが」 石居 正己

民数記 11:24ー30

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

75年の時の経過に想う

武蔵野教会の伝道75年記念の機会にお招き頂いたことを感謝します。こうして先生方のいわば揃い踏みの時には、必ず共にいて下さった青山四郎先生の姿を見ることができなくなったのは、寂しいことです。私自身が当時青山先生が牧しておられたこの教会にお世話になったのは、1949年神学校に入学した時からです。従ってそれからもう50年以上を経過したことになります。この間に多くの心に親しい人々をみ国に送るようになってしまいましたが、それでもなお多くの、その当時からの方々がいてくださるのは、たいへん心強いことであります。

しかし、75年というのは今日では一人の人の人生の長さとしても、それくらいは不思議でないのですから、一つの通過点にすぎません。まだまだ将来のことを思って進んでゆかなくてはならないのです。私は現在京都と奈良の間に住んでいますが、先だって奈良の薬師寺を訪ねる機会がありました。薬師寺には二つの五重の塔が建っていることで有名ですが、長い間片方の塔しか残っていませんでした。それが昭和の何年頃ですか、新しい塔が建てられて一対の塔が復元しました。もう残り少ない宮大工の棟梁が苦労して建てたといいます。しかし、出来上がって見ると、本来二つの塔は同じ大きさで向き合っているはずなのに、新しいものは少し大きく見える。実際一メートル何十センチか高くなっているそうで、見た目にもそれと分かる位です。人々がそれを指摘すると、棟梁は木材は歳を経ると縮むので、百年はど経ったらちょうど良くなるように計算してあると答えたそうです。私たちも目前のことだけでなく、長い見通し、広い展望をもって教会の歩みを考えて行きたいと思います。

主の民すべてが預言者に

歴史の一こま一こまと共に、それを形作るその時々のひとりひとりの働きも大切です。今日の旧約の日課の箇所、民数記11章には、出エジプトの民を導いたモーセが人々の嘆きや反発に悩まされたことが記されています。神さまの約束に導かれて新しい歩みを踏み出した人々でしたが、目前の食料や渇きなど生活の心配はつい不平や不満を呼び起こしました。そこで神さまは長老たちにも霊を与えて、モーセと共に民の重荷を負うことができるようにしてくださいました。長老たちは、ずっと続いたわけではなかったかもしれませんが、少なくとも一時的には、モーセと同じように主のみ言葉を預かって伝える、いわゆる預言状態になったのです。その素晴らしい出来事の場に、まだ宿営の中にいて神の幕屋に集っていなかった二人の長老にまでも、同じ賜物が与えられました。同じ場所に居合わせず、同じ体験をしたわけでない人たちを区別しようとしたのか、モーセ大事と思ったからか、ヨシュアはその人たちが預言するのを止めさせてくださいとモーセに願いました。しかし神さまの働きを、人間の側の体験で制約することはできません。モーセはむしろ、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと思っていると、答えました。多くの人が、そして理想的にはすべての民が、みことばを受け、伝え、それによって歩もうとすることが大事です。それはちょうどルターが、福音が伝えられるのに、説教や聖礼典と共に、兄弟相互の会話や慰めを挙げていることにも通じると言えるでしょう。そしてそのように神のことばが語り合われ、伝え合われるところに、主の民があるのです。

ヘルマスの幻~「エクレシア(教会)」

二世紀の初め、ローマで活躍したヘルマスという人がいました。解放奴隷であって、商人として成功したのですが、迫害によって全財産を失い、しかしかえって家族全員と共に悔い改めて主を信じるようになったと伝えられています。彼は「ヘルマスの牧者」という黙示文学に属する文書を残しましたが、ある地方では一時期、聖書と同じように大切にされた書物です。その中にしるされた幻の中にこういうものがあります。

ヘルマスがある時に、一人の老婦人に出合います。ひどく歳をとっていて、やっと椅子で身を支えているような状態でしたが、ヘルマスに対して手にした一冊の小さな書物を読み聞かせます。彼はそれに心を刺され、また力づけられました。一年はど経って、彼はまた同じ婦人に出会います。彼女は幾分若く見え、手にした書物を書き写すように貸してくれます。さらに一年経って、彼は一段と若々しく元気に満ちた彼女に出会います。だんだん歳をとって行くのでなく、反対に次第に若くなったように見えるのです。あれはいったい、誰なのかと尋ねると、「エクレシア」一教会だと告げられます。つまり教会の象徴です。手にしていて、ヘルマスに語ってくれた言葉は聖書にほかなりません。すべてに先立って創造されたのだから大変な老齢だというわけです。しかもこれに向き合うヘルマスが、神の言葉を受けて、自分の信仰がかき立てられてくると、その婦人もまたそれに応じて若々しく生気に満ちたものとして現れるのです。

それが私たちと教会の関係であります。教会は私たちが見たり、注文をっけたり、あるいはひたすら依存的になったりする対象としてあるだけでなく、実に自分もその一員であって、それを生気に満ちたものとするもしないも、自分のみことばへの態度が大きく関わっているということになります。75年の歴史を土台に、いよいよ生気に満ちた教会となってゆくように、私たち自身も加わってゆかなくてはなりません。そして、福音が互いに語り伝えられるようにしたいのです。

聖餐への招き~母モニカの言葉

今日の礼拝で、私たちは聖餐に与かりますが、アウグスティヌスの母モニカは亡くなる前に「主の祭壇の前で私を覚えなさい」と言い残したといわれます。私たちが聖餐において主イエスに出会い、主ご自身を受け取るのなら、主に連なっているはずの多くの先達たちにも、間接的に出会います。そして私たち自身に主のいのちを受けて、新しい一歩を踏み出して行きたいと思います。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年10月8日 聖霊降臨後第17・宣教75周年記念主日礼拝)

説教 「愛、平和、喜び」 徳善義和

宣教75周年記念説教集『祝宴への招き』

むさしの教会は2000年10月8日に宣教75周年を祝いました。それを記念して出版された歴代牧師7人による教会暦に沿った説教集です。


平和主日

ミカ書 4章 1~ 5節

 旧東ドイツ、共産党の支配のつづいていた時代のことである。1980年代の初め、ヨーロッパは東西両陣営の、核弾頭中距離ミサイルの配備で緊張がつづいていた。配備されるのはそれぞれ東ドイツと西ドイツ、射程距離から言っても照準が互いに自分たちに向けられることになるのは明らかだった。

 その頃の東ドイツの教会は、1945年共産党政府ができてからの、陰に陽にの嫌がらせや弾圧のせいで、かつてほぼ100パーセントのプロテスタントだった状態から、人口の50パーセントを割る状態にまでなっていた。その教会が、ミカ4章3節の「剣を鋤に」を標語にして、平和を訴えつづけていた。シールやワッペンもあった。シールを車のバックウィンドーに張っていた人は、交通法規をたてまえに、警察によってはがされた。自分のジャンパーの背中にそれを大きく書いて歩いていた、キリスト者の青年は、別件で逮捕、拘留された。

 同じく東ドイツのライプツィヒ。バッハで有名なトマス教会から200メートル、市中心部のニコライ教会ではずっと長いこと、さほどの人が集まらなくても、毎週月曜夕に「平和の祈り」の礼拝が持たれていた。これが1989年秋、そこに人が集まり始めた。遂には聖壇の上にまで人が座るほどになったのである。人々はそこで平和のために祈り、平和について語りあった。政府も警察も軍もこれに目をつけて、監視し始めたが、この平和の祈りはうねりのように、ベルリン、ドレスデンなど大小の町にも広がっていった。機動隊が外で監視する中で守られた礼拝はあくまでも平和の祈りに徹することを強調するために、あるときは灯したロウソクを手に、あるときはバラの花を手に散会したとも言う。

 高まりは10月から11月にかけて最高頂。警察や軍の対応も厳しさを増した。10月後半からは一触即発、弾圧寸前の状態にまで至った。後で分かったことだが、第一線には発砲の許可まで出ていたという。ニコライ教会から、ゲンバントハウスオーケストラとオペラ劇場の間の広場に出て、平和の行進をしようとする信徒たち、市民たちにあわや実力による介入という事態にまで及んだ。その時、軍や警察と市民との間に割ってはいったのが、オーケストラの指揮者マズール(その夫人の父は日本聖公会司祭)や知識人たち。これで流血の惨事を免れただけでなく、やがてベルリンの壁崩壊(11月9日夜)という、歴史の大きな転換、変革をもたらしたのだった。文字通り、平和のないところに「平和を作る」運動と戦いだった。「平和の祈り」の果たした役割は無視できないのである。

 平和主日のための福音書の日課には、「平和」の文字はない。しかし、平和がどこに根拠をもつかがはっきり示されている。

 愛は働き、動くのだから、愛には方向がある。父なる神の愛からキリストの愛、そこから私たち互いの愛である。この愛のあるところ、この愛が働きつづけるところ、喜びが満たされる。この愛と喜びとの間に見えてくるものこそ、平和である。

 この根拠を得て、平和の祈りも可能になる。さらに平和の祈りは平和の努力ともなろう。神の愛、キリストの愛に心動かされ、心開かれて、隣人に心を開き、赦しを求め、また赦しあうことができるようにもなる。平和は抽象ではない。平和は私たちの祈りにおいてまず具体化し、ひとりひとり、また、心を合わせての、一歩一歩の平和の努力において具体化する。平和のために祈らなければならない。

(1996年8月4日 平和主日)

説教 「平和の君の来臨」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ

を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)


1968年 降誕祭

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。」(イザヤ9:2-7)

その名は平和の君ととなえられる。平和ということばは、平安とも訳されて、聖書の基本的な観念のひとつである。それは単に国と国との間に戦いのないことではない。神と人との間、人と人との間、人の心の中、人と自然の間に充実した平安をもち、人が人として本来の姿をかちうることなのである。そして、そのような平安をもたらしてくださる方が私たちに与えられたと告げられる。

平和でなくする力は、政治や外交、経済などの問題だけではない。われわれ自身の考え方、生き方に平安の充実がなくてはならない。一方においては、互いの間の競争がある。正しさや純粋さを求めることの中に、より正しい、より純粋なことを誇って、他を批判してゆこうとする。これが正しいのだというと、さらにもっと正しい、もっと尖鋭なことがほこられる。いざというときはということが、いつでもになり、それに向って行くことにされる。そのうちに、ありのままの人間の姿や望みとのずれが生じてくる。平穏に日常の生活を楽しみたいという気持ちは、押しやられて、無理な姿勢がとられることになる。

他方、そうした進展には無関係に、ひたすら自分の貪欲のままにふるまおうとするむきがでてくる。自分のありのままの望みとは、しかしいったいどういうことなのだろうか。スピードやセックスやといろいろな刺激の中に欲望をみたしていても、当座は充実感を得られたとしても、みたされない空虚感が絶えずつきまとっている。そして、不断の刺激を求めてやがて自分自身の分裂をさえ招く。しかも自分の欲のままに生きようとするとき、必然的にほかの人たちの迷惑をかえりみない。

われわれの平和となり、平和の君としてわれわれに与えられた方は、われわれの問題の根を解決し天よりの平安を贈られる。私たちは、いろいろな面での危機的様相を見ていたとしても、その中にあって、真のクリスマスを祝わなくてはならない。もっと事態が悪くならないか、恐るべきさまが現出するのではないかというような不安によって、クリスマスの喜びをこわしてはならない。天より来る喜びの讃歌に声を合わせてゆかなくてはならない。

しかし、同時に私たちは「人為的」なクリスマスの喜びに耽溺してはならない。今がどんな時代かなど忘れてしまおう。少くともきょうはクリスマスだ。もし私たちが、そういう感じでクリスマスに一とき酔おうとするのであれば、それはもう信仰において迎えるクリスマスではなくて、精神病理学の対象でしかない。

平和の君としてこられた主は、そのみ国を肩に負われる王でありたもう。「まつりごとはその肩にあり」とイザヤは言う。おそらく王たる権威を示す布を肩にかけているという姿を画いたのであったろう。しかし、ルターが説いているように、その支配される国を、主はご自身が背負われるような王でありたもう。けぶれる灯心を消すことなく、傷ついたあしを折ることのない主でありたもう。ひとりひとりをだいじに、そのみ手の中に抱き、いやし、慰め、平安を与えてくださる王として、キリストは来てくださった。さっそうとその支配を顕示されるのではないか、だれをもその平安の中に確しかに保たれる。彼はおとろえず、落胆せず、ついに道を地に確立する。

私たちは決してたしかでない。確信もなく、不安で、困惑しがちである。性急に結果を見たがり、ちょっとしたことで失望する。しかし、神がイエス・キリストによって、最も確かな救いのみ手をのばされる。私たちは自分の生き方に確信がもてず、信仰に自信がない。それでも、神は私たちの外から、私たちに対して、ひとりのみどりごを与えられた。私たちが彼にならって、自分の道をひとりきびしく歩み進むようにとではなく、私たちの罪を赦し、私たちの中に住み、力を与え、道を確立したもう救主として与えられた。

自ら神の下にあることを拒み、神なき世界をつくり出そうとする人間に、神はイエスをつかわし、ご自分と和解なさしめたもう。神との敵対関係だけではなく、人間同志の敵意のへだてを取り除かれた。それだけでなく、預言者はおおかみは小羊と共にやどり、乳のみ子は毒蛇のほらにたわむれる、自然との調和をも、救い主によって与えられることを預言している。どこかにある平和郷の夢ではない。平和をもたらす方によって起される姿なのである。

私たちは、この平和の君のみ手の中に平安を与えられ、私たちもまた「平和をつくり出す人」とされる。完全な、充実した、みちあふれる平安を受ける。私たちの中に、新しい価値と力とが見出されるようになる。金も力も名声も、私たちが第一の関心事とした事どもが色を失って、低い次元におとされてしまう。反対に、私たちが、余分なことのようにあつかい、余力のあるときにだけ少しばかりなすことのように考えていたことが、すなわち神への信仰や隣人への愛や親切などが、宇宙へ向かう巨大なロケットのように私たちのただなかに突き立っていることに気づかせられる。自己主張ではなくて、人々をたてるための権威をもち、み国を肩に背負われる方が来てくださったからである。あのみどりごが、われわれに与えられたからである。

わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地が
わたしの前にながくとどまるように、
あなたの子孫と、あなたの名は、
ながくとどまる と主は言われる。
新月ごとに、安息日ごとに
すべての人はわが前に来て礼拝する と主は言われる。
(イザヤ66:22-23)

(降誕祭)

説教 「主のみ手の中にある者」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ

を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版

です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。

s.d.g.(大柴記)


▼全聖徒主日▲

「主のみ手の中にある者」   石居正己

「まことに主はその民を愛される。すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。」(申命記33:1-3)

夏の旅行の写真を整理してみると、いろいろな墓地を訪れていることに気づいて興味深く感じた。その中にある多くのところが観光バスなどで、特に見るべき、記念すべき所として、見学したところでさえある。

砂漠の中に、何千年かの神秘をひめて立っている壮大なピラミッドは、そこで働いた無数の人たちの運命をのみこんで、王と王妃のための墓石として残っている。しかもいろいろな人たちによってあらされて、暗い空虚な部屋が空しくとり残されているだけである。墓室から外に通じる小さい穴があって、石をつみ上げてつくったのに、よくもまあこうした細工がなされたものだと思わせられる。それは、遺骸をはなれた魂が、帰ってくる時の通路として考えられたのである。

ローマの地下には、初代教会の信徒たちの墓であるカタコンベが残されている。せまい岩穴の両側にきざみこまれたたなに、彼らの信仰を示すさまざまなシンボルがきざまれている。

ナチスの迫害のもとで倒れた信徒たちの墓。コペンハーゲンのポプラ並木に囲まれた平和な墓地。香港のキリスト教連合会の墓地には、入口に供物をささげたり、爆竹をならしたりなどしてはならないと、こまかい注意書きがしてあったほか、墓石のひとつひとつに故人の写真をやきつけた陶器がうめこまれていて、興味深い。

人間が生きるところには、また死がある。人間の生活、人間の歴史、人間の社会には、つねに死と墓とが共存している。

北欧の田舎にあった中世からの教会には、その地下が墓地となっていて、三階になった墓地の一階は、すでに古い時代の人々の、無数の遺骸が、ちりぢりの骨となって散乱していると教えられた。その同じ場所で、聖日の度に、いまも変らず生ける神への礼拝が行われている。人間のうつり変りをこえて、永遠の神のもとにある望みと確信が、そこには生きている。

申命記33章は、信仰の偉人モーセの遺言である。モーセは、ピスガの山の頂から、約束の地を望み見ることを許されただけで、自らその地に入ることはできず、召されていった。モーセの墓は、「今日まで知る人はない」と聖書がしるしている。

しかし、このモーセの死にあたっての言葉は、いろいろな意味で注目に値いする。彼は、約束の地に自ら。入れなかったことをなげいたり、自分は一足先に天に行くのだ、というような感慨を述べたててはいない。彼が言うのは、主がこられるということ、主がその民を愛せられるということ、すべて聖別された者が主のみ手の中にあるということである。

人々を残して、モーセはひとり神のみもとに行くとはいわず、この現実の中に、神がこられると言う。死と墓の現実は、いつの時代にも人間からはなれない。嘆きと悲しみとをもたらさずにいない。神の存在から、最もはなれた状態であり、最も遠い現実である。しかも、その死の中に、墓の中に、死と墓に飾られた人生へ、主がこられると、モーセはいう。かっては、祈りに?えて助けを与えられた神が、今や沈黙し、自分は淋しく死んでゆくのだ等とはいわない。

主は、われわれにむかってこられ、その民を愛せられる。どのように無名の、とるに足らない者であっても、神に愛される生命の持ち主である。神が生命を与え、キリストが代って死なれた人間である。

神は、死の虚無性の中に、愛の光をもたらされる。人生の遂に完成しえなかった歩みの果てに、赦しと復活の命を約束される。律法をもたらしたモーセが、今一歩進めて言うことの出来なかった望みの約束は、われわれのさきがけとして死を克服された主キリストによって確かにされた。

私たちの死に対する恐れのひとつは、死んだのちはどうなるかわからないということにある。モーセはその遺言の中に、すべて主に聖別される者は、み手の中にあり、主の足もとに坐して教をうけ、みことばを聞き、生かされるとのべている。

たしかに、私たちは死後の状態について、いろいろないいあらわしを、聖書からもうける。ある個所では、眠っているといわれ、またある所ではパラダイスにある、主のもとにあるといわれる。御座のもとにあって嘆き、訴える魂としてえがかれている個所もある。

しかし、それらすべてを通してたしかなことは、復活の栄光が待っているということである。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」(ルカ20:38)。そして、主は「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」(ヨハネ14:19)といわれる。

そこには、人間の生と死というあり方の変化が、左右することの出来ない神との交わりがある。天にのぼろうと、陰府にひそもうと、神の前からのがれることはできない(詩編139:8)。死も生も、現在のものも将来のものも、どんなものも、「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:39)。

モーセは、その死に際しても、うしろをかえりみ、なつかしむのではなくて、先の方を、かなたから主が来りたもうのを見た。わたしたちもまた、生命の主がわたしたちの中に来られるように、その主のみ手の中に、死ぬときといわず、今から、しっかりと抱きとられていることができるように、祈り求めてゆきたい。

(1966年 全聖徒主日)

◎以上5編の説教は『武蔵野教会だより説教集1967』より復刻