説教 「勧めの言葉」 大柴譲治

フィリピ 4:2-9

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「旅」の楽しみ

フィリピ書の連続説教ということで9月から少しずつパウロの手紙を読んでまいりました。今年もあと一ヶ月半。光陰矢の如しで、時間の経つことの速さに驚かされます。次第に加速度が付いてきているようにも感じられます。そのような中で、心をこめて毎日の一瞬一瞬を過ごすことの大切さを覚えます。「旅」の楽しみ方には、目的地に到着するということだけでなく、その途上でのプロセスの変化を楽しむということの中にもあるのだと思います。

ではご一緒に本文を見てまいりましょう。

2-7節~主の和解の喜び

パウロはここで最初に二人の婦人、エポディアとシンティケ(口語訳ではユウオデヤとスントケ)という二人の女性の名前を挙げています。この二人はここに登場するだけでよく知られていませんが、パウロにとっては同労者として重要な人物でありました。彼女たちは、フィリピで改宗した紫布の商人リディア(ルデヤ)のような「神をあがめる婦人」(使徒16:14、40)であったかもしれませんし、テサロニケで改宗した「マケドニア(ギリシャ)の貴婦人」(使徒17:4、12)のような人であったかもしれません。

その二人にパウロは「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めています。二人は何か(福音宣教のやり方で)対立していたのでしょうか。私たちは意見が対立するとなかなか自分を絶対化してしまいがちです。しかしパウロは言う。「主において同じ思いを抱きなさい」と。主イエスのことを思う時に私たちは自分を相対化することができ、同じ思いを抱くことができるのです。共にキリストのことを思う。キリストがいつも私たちの中心におられることを忘れない。これが重要なことなのです。

続いてパウロは「真実の協力者(シジゴス/仲間)」に呼びかけています。「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください」。その人の名前が記されていないのは、パウロとその人の間でも、フィリピの教会員の間でも、それだけでそれが誰か明らかだったのでしょう。あるいはその人が「シジゴ」という名であった可能性もあります。

パウロはここで対立する二人の婦人をとりなす役目を彼に期待しています。私たちは心がつながらずにいる人を結び合わせる「和解の使者」なのです。二人が主において同じ思いを抱くためには、第三者が仲介者として必要があるとパウロは考えています。これはなかなか現実的で的確なアドバイスです。

エポディアとシンティケは「命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれた」のだとパウロは語ります。ここで「命の書」とは旧約聖書(出32:32、詩編69:29など)やヨハネ黙示録(3:5)にしばしば用いられていますが、それは3:20の「国籍は天にある」という言葉とも関連して、住民登録者の名前が記されたものと考えてよいでしょう。それは「神によって救われる者たちの名前が記された書物」という意味で、具体的には受洗者の名前が記された教籍簿のようなものと捉えてよいのではないかと思われます。

4節の「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」という言葉は、「喜びの手紙」と呼ばれたこのフィリピ書の中心主題です。そして「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」とパウロは続けます。ここで「広い心」とは寛容な心、柔和な心のことです。「主における喜び」とは、通常の喜びとは異なり、周囲の状況に左右されることのない喜びでありましょう。それは「為ん方つくれども希望を失わず」という主に信頼する喜びです。現実にパウロはこの手紙を明日をも分からぬ獄中で書いています。それは主イエスとつながる喜びであり、主と共に生きる喜びであり、主が与えてくださる喜びなのです。「国籍は天にあり」と3:20でパウロは言いますが、その通り、それはこの世の喜びではなく、天から与えられる天国的な喜びです。「天国的な喜び」ということを考える時、私はイエスさまの山上の説教の祝福の言葉を思い起こします。

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 (マタイ5:3-12)

主が与えてくださる喜びとは、この世の喜びとは全く異なり、このような天からの祝福に与る喜びなのです。先週私たちは召天者記念主日を守りましたが、天の喜びは、時間と空間を超えていますので、死によっても奪われることも揺れ動くこともない喜びです。

パウロは「あなたがたの広い心がすべて人に知られるようになさい」と言いながら次の言葉を続けます。「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(5b-6節)。

主はすぐ近くにおられる! これは、1コリント16:22の「マラナ・タ(主よ来りませ)」と同じく、主の再臨が近いことを待ち望む言葉です。パウロは獄中にあって主のご臨在を強く感じています。それは目に見ることも手で触れることもできないことですが、強く心に迫ってくる事実なのです。インマヌエル! 神われらと共にいます! このことをパウロは苦しみや悲しみを深く味わう中で感じているのだと思います。自分の痛みが主の十字架の痛みにつながっているとパウロは信じている。そしてそれが復活の命につながってゆくと信じているのです。

「どんなことでも、思い煩うのをやめなさい」という言葉は、主の「野の花、空の鳥を見なさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし天の父は彼らをも豐かに養ってくださるのだ」という言葉を思い起こします。「何を着ようか、何を食べようか思い煩うな。必要なものはすべて与えられるのだから。だから明日のことを思い煩うな。今日一日の苦労はその日だけで十分である」。

7節の「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」という言葉は、毎週説教の終わりに牧師が唱える締めの言葉でもあります。「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように」。神の与えてくださる平和/平安(シャローム)は人知を遥かに越えているのです。

8-9節

8節の言葉も深い意味を持って響いてきます。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」

これはなかなか難しいことです。これらのことが分かるためには、私たちの中に開かれた柔軟なバランスの取れた心、捕らわれない、自由で度量のある心を持たなければなりません。広い心を持たなければならない。客観的で確固とした価値観を持つ必要があります。そうでなければ何が真実であり、何が気高く、何が正しく、何が清く、何が愛すべきことであり、何が名誉で何が徳や称賛に値することであるか認識することはできない(分からない)からであります。それは「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守る」時に可能となるのだと思います。

そしてこれは、文化や習慣の違い、さらには宗教の違いさえも超えて、私たちに他者との対話の次元を開いてゆく言葉であると思います。パウロは9節で「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」と語っていますが、キリストによって自由な喜びの人とされたパウロです。パウロを模範としなさい。パウロに倣いなさいと言うのです。平和の神が共にいることを、パウロと同じように体験することができるのだと言うのです。私はこの言葉は、キリストと出会いキリストの光に照らされることによって打ち砕かれ自由になったパウロが語ることができた言葉であると思います。

信仰の詩人八木重吉の詩を最後に読んで終わりにします。私の中ではパウロの勧めの言葉と重なり響いてくる詩でもあります。

神の愚は人の賢きにまさる
己れを虚しうし神をひとにみせよう
自分がすきとほって背中の神を人にあらわそう

お一人おひとりの上に神さまの豐かな恵みがありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年11月12日 聖霊降臨後第23主日礼拝 説教)