説教 「復活の主の手とわき腹」  大柴 譲治牧師

ヨハネによる福音書 20:19-23

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「空間」と「時間」の突破としての復活

「空間」と「時間」を「人間の直観における形式」としたのは18世紀ドイツの哲学者であったインマヌエル・カントでした。「空間」と「時間」は人間の経験に先立って最初から存在し、その枠組みの中で人間の感性が捉えることができるすべての現象は起こると洞察したのです。

確かに私たちは、カントの言うように、「空間」と「時間」を前提として日常生活を生きています。「空間」と「時間」がすべてではないとしても、「空間」と「時間」の中で私たちは生きているということを知っています。その意味では「空間」と「時間」も創造主なる神さまの被造物の一つであると言ってよいのだと思います。創世記が示す「光あれ!」という天地創造の最初の言葉は、そこにおいて神が「空間」と「時間」を創造されたのだという理解も可能であるのかもしれません。

私たちは先週のイースターに主イエスの復活の出来事を祝いましたが、これまた神の新しい創造であると申し上げることができましょう。週の初めの日の朝早く、まだ闇が開け染めない中で「光あれ!」と神は宣言されたのです。死のただ中に生命が、悲しみのただ中に慰めが、そして絶望のただ中に希望が創造されました。闇のただ中に光が創造された出来事、それが復活でした。パウロ的に言えば、主のご復活において死が死を迎えたのです。主イエスの墓は空っぽなのです。

先週、イースターの週に、お二人の方の納骨式が行われました。墓地は私たちのこの地上の生涯の終着駅であるかのように見えます。墓の前では、依然として、圧倒的な力をもって死は私たちに君臨しているように見える。墓とは私たちの深い悲しみと痛みと絶望の場であるとも申せましょう。しかし私たちはその墓の前で、キリストの言葉を聞くのです。死の現実のただ中で、死を越えた生命の言葉を聞くのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)という言葉を。このキリストのみ言葉にこそ私たちに死の悲しみを乗り越えさせる力があるのです。

「空間」と「時間」の中に人間が認識可能なすべての出来事は起こるというカントの分析を最初に申し上げました。しかし「主の復活の出来事」とはこの「空間」と「時間」を超越しています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。鍵のかかった部屋の真ん中に主イエスは立たれたのです。そしてあの十字架の上に死んだはずの人間が今、目の前に立っている。それはありえないことです。「空間」と「時間」の突破がそこで起こっている。

これは理性ではなく、信仰において捉えなければわからない真実であると思います。「空間」も「時間」も神さまの被造物の一つであるとすれば、神さまは創造主なのですから、それらを超越したところにおられるのです。「天」とか「永遠」という言葉は、「空間」と「時間」を越えたところに神が存在しておられるということを指し示す言葉なのです。そして神はそれらを突破したり、それらに介入したりする自由をお持ちのはずです。復活とは私たちの「空間」と「時間」とに閉ざされた現実への神さまの介入なのです。

復活の主の手とわき腹

弟子たちの真ん中に立たれた復活の主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と言われました。恐れとおののきと混乱の中に置かれた弟子たちを治めるためにご自身の手とわき腹とをお見せになったのです。そこには十字架の釘跡とやりの跡が残っていました。すると不思議なことに、弟子たちはその主の手とわき腹を見て、「喜んだ」とある(20節)。十字架の周りで弟子たちは自分の弱さや裏切り、不従順ということを徹底的に知らされたはずです。主を見捨てて逃げたことに対する苦い後ろめたさ、これからの歩みに対する不安と絶望といった重たい思いの中に彼らは深く沈み込んでいたことでしょう。突如として現れたイエスの亡霊に自分たちは仕返しされる、呪われるとさえ思ったのではないか。十字架の釘跡と槍跡を示されるということは、自分たちの裏切りの一番深いところ、罪の一番痛いところを示されるということでもあったはずです。しかしそこにおいて起こったことは審きではなく赦しであり、呪いではなく祝福であり、恐れではなく大いなる喜びでありました。弟子たちは主の十字架がそのような恐れや絶望からの解放であったことを、主の手とわき腹とを示されることによって知ったのです。

それに続いて派遣が起こります。主イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われたのです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

復活の主イエスを信じる者は、人々の「罪」と関わるように聖霊を受けて派遣されてゆくのです。聖書で「罪」とは、何か悪い思いとか悪い行いを指しているのではありません。「罪」とは、「義」と同様に、神と人間との関係を表す関係概念なのです。神との破れた関係を「罪」と言い、神との正しい関係を「義」と言うのです。ですから、ここで罪と関わるようキリスト者が召されているというのは、人々を神との正しい関係に立ち返るように招いてゆくということを意味します。キリストの福音、主の十字架と復活はすべての人のために与えられているのです。そして神の聖霊(息、風)が私たちを押し出してゆくのです。飯能集会ではこのところずっと使徒言行録を読んでいますが、ペトロやパウロが中心となって描かれているのですが、その本当の主人公は使徒たちを突き動かしている神の聖霊であり、それは聖霊行伝であると言えましょう。使徒言行録は28章で終わっていますが、それは開かれたまま終わっているのであって、29章以下は私たちの人生において神の聖霊が働かれることによって書き足されてゆくのだと、神学校時代に私の恩師である間垣洋介先生が語られた言葉を思い起こします。

それにしても主の、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という言葉は何を意味しているのでしょうか。罪を赦すことと赦さずにおくことの両方が語られていますが、それは何を意味するのでしょうか。主イエスはペトロと教会に解く鍵とつなぐ鍵の両方を与えられました(マタイ16:19)。それは主のみ手の釘跡とわき腹の槍跡を示すことでもあります。十字架と復活とが私たち自身をさまざまな呪縛から解放するためのものであったことを示すことでした。手とわき腹を示すとは、キリスト・イエスご自身の私たち一人ひとりに対する深い愛を示すことでもあったのです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と語ってくださったお方は、私たちの悲しみや苦難の中で、「わたしがあなたを支え、わたしがあなたを守る。だから、わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはないのだ」と語ってくださるお方でもあるのです。

だれがそのようなキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょうか。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。だれも引き離すことはできないのです。主のみ手とわき腹に刻まれた十字架の傷跡は、私たちに注がれている愛の強さを示しています。それは、「空間」と「時間」を突破してご自身のすべてを十字架の上に注ぎだすほどに深く、高く、広く、強く、確かな愛なのです。私たちはこのような愛の中に新しい日々の歩みを踏み出してゆくことが許されている。このことを心から感謝いたしたいと思います。

お一人おひとりの新しい歩みの上に豊かな祝福がありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 4月 7日 復活後第一主日礼拝 説教)