説教 「一粒の麦」  賀来周一牧師

ヨハネによる福音書 12:20-26

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

犬養道子『人間の大地』から

おそらく、ここにいらっしゃいます方々の中で、犬養道子さんが書かれました『人間の大地』という本をお読みになった方は大勢いらっしゃると思います。アジア・アフリカのさまざまな飢えであるとか難民問題について書かれた本ですが、この中で、タイにあります難民キャンプ、カンボジアとかラオスからタイにやってまいりました難民たちを収容します難民キャンプの中での出来事が書かれております。その中に、子供たちの生活ぶりが書かれています。子供たちが大勢収容されておりまして、その子供たちにボランティアたちが絵を描かせますと、自分の父親が逆さまに木から吊り下げられていて、下から火であぶられている絵でありますとか、あるいは、自分の母親が銃剣でお腹を刺されている絵でありますとか、そういう悲惨な絵を描くということが書かれておりまして、そういう子供たちの中に、アメリカ人のボランティアたちが働いているわけです。

ひとりのすっかり気力を失ってしまった子供がひとりいまして、手足もすっかり細くなってしまい、お腹だけがやけに膨れている子供がおりまして、おそらく親も兄弟も全部どこかで死んだか途中で生き別れたか、とにかく一言も口をきかずにただジーッと空を見つめたままの子供がいたのですね。流動食も受けつけないし、薬も飲まない。ただ死を待つばかりであったというのです。そこの一人のアメリカ人のボランティアの青年でピーターと呼ばれる青年がやってまいりまして、その子の世話を自分がしようといって引き受けるわけです。ピーターはその子を抱いて大地に座り込むんですね。そして、二日二晩、自分のトイレに行く時間だけははずして、あとはズーッと抱き続けるんですね。三日目、この子に反応がでます。この子が笑うようになったというのですね。犬養道子さんはその時の様子をこういうふうに書いています。「自分を大切に思ってくれる人がいた。自分は誰にとってもどうでもいい存在ではなかった。この意識と認識とが無表情の石のように閉ざした子供の顔と心を開いたのだ」と書いておられるのです。

この子供にとってピーターというアメリカ人の青年は、おそらく数多く働いているボランティアの中のひとりにすぎないのですね。そして、難民キャンプの中ではたえずボランティアたちは忙しく立ち働いているわけです。おそらくは、手が回るはずもない、どうせ何もかばってくれるはずはない、そういうひとりの青年でありました。そういうふうに見ても差しつかえのない立場にいるんです。ピーターにとっても同じことであります。この子は数多い同じような境遇の中にいる子供のひとりであります。いずれは、その辺りでばたばたと死んで行く子供のひとりででしかない。もし、このピーターが行ってその子供をかき抱かなければ、お互いに気づかずに、一方は忙しく立ち働きですね、一方は人知れず死んで行く。そしてそのことが少しも難民キャンプでは不自然ではない。そのままでも、ピーターはよいボランティアであり得るし、その子供はやむを得ず死んで行く。そのような状況の中でしか生きることができなかったひとりの子供です。そうした中で、青年がその子供をかき抱くことによって、その子に笑顔が戻って来るのですね。いったいそれは何だろうかということを思うのであります。

「一粒の麦」とは何か

聖書の中でのイエスとの出会い、それも同じようなことが言えるかも知れないと思うのです。聖書の今日の箇所を読みますと、お祭りでギリシャ人が宮に上ってきたと書いてあります。おそらくは、異邦人であって、このいわばユダヤ人たちと同じ信仰を持とうとして、改宗したを改宗者たちの群れであったと思われます。おそらくは、そのままイエスに出会うことなく過ぎたとしても奇特な信仰者でありうるそういう存在であります。けれども、聖書はイエスとの出会いが起こることによってそのままでは過ぎない何かが起こった、ということを教えている。その内容をイエスはここでギリシャ人に対して、「わたしは一粒の麦だ」ということをおっしゃるのですね。もちろん、この一粒の麦というのはイエスご自身のことを指しているということは確かなことです。しかも、イエスご自身は、自ら一粒の麦として死ぬということは十字架にかかって自分は死ぬ、自らの、やがて受け止めるべき自分の定めをここで、しっかとギリシャ人たちに指し示し給うたわけであります。けれども、この一粒の麦ということの中には、それをギリシャ人に向かってイエスがおっしゃったということを考えますともっと深い意味があるように思うのであります。

「一粒の麦」というのは、これは「どうでもいい存在」なんですね。イエスと出会うなどということは、もしイエスが一粒の麦であるといたしますと、これは、どうでもよいことかも知れない、ということを暗に示しています。

あの難民キャンプの中で大勢の子供とボランティアという関係があった。ある意味ではその中で起こる出会いはどうでもよいことかも知れないのです。それはそれで、それぞれ成立をするんです。ボランティアである青年ピーターは難民のためにミルクを配り、とうもろこしの粉を配るのです。そして忙しく立ち働くことで自分はボランティアの働きをしていると思うこともできる。はるばるアメリカからやって来てタイの難民キャンプで苦労している自分を見れば、「ああ、自分はよいことをしている」ということで済むのです。あるいは、飢え死にをする子供は大勢いる子供の中のひとりですから、自分が死ぬということは、難民キャンプの中では、人から見る時には「やむを得ないことだ」として受け止めることもできるのです。「かわいそうだけれども、こういう状況では仕方がない」そういうふうにしか思うことができないところに生きている子供であります。それはそれでそれぞれに成立するところを生きている。ある意味では、青年にとっても子供は「一粒の麦」です。子供にとって青年もまた「一粒の麦」です。その他大勢の中のひとりなんです。

ギリシャ人だってそうです。自分たちは改宗者として敬虔な祈りを捧げている、それですむのです。イエスというお方を見て、通り過ぎることだってできる。ある意味ではどうでもよいところをギリシャ人たちは歩いているんです。イエスご自身はだからギリシャ人に向かって「わたしは一粒の麦だ」とこうおっしゃる。ギリシャ人から見てイエスは、まことに一粒の麦です。大勢の中のひとつなんです。見えないかも知れない、そこをイエスはあえて自分を「一粒の麦」として立ち向かっていらっしゃるんですね。その「一粒の麦が死んで」ということの中に、その「どうでもよいところを一歩踏み込むことによって全く違った世界が広がる」ということを、「死ぬ」という言葉の中にイエスは表現していらっしゃるんです。一歩踏み込むということは、どうでもよいところを突き抜けるということであります。

ギリシャ人たちはピリポのところへ来て「イエスにお目にかかりたい」と言っています。ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポはイエスのところへ行ってと、大変に手間暇をかけているわけです。一粒の麦である、あるいはどうでもよいかも知れない、そのイエスのところに手間暇をかけてギリシャ人たちは行っている。それは一歩の踏み込みであります。それは自分の中にあるあの「どうでもよい」とする、「このままでもよい」とするあの部分を殺すことであります。いわば自分の中の一粒の麦を殺すことであります。その時、一粒の麦はなくてならぬ食べ物に変身をするのです。一粒の麦が死んで多くの実を結ぶとイエスはおっしゃるんです。イエスが一粒の麦として死に給うということと同時に、わたしの中にある一粒の麦を殺すということがここではまたギリシャ人たちに求められているということを学び取ることができるように思うのであります。それは「どうでもよい」部分に一歩、わたくしどもがもう一歩踏み込むということであります。

出会いにおけるもう一歩の踏み込み

わたくしの大変好きな話がひとつありまして、何便かお話し申し上げたことがあるかも知れませんが、ドイツ軍が第二次世界大戦中にあるフランス領に攻め込むのです。そうしますと、連合軍の兵士がひとつの村に逃げ込んで来るのです。そこにナチスのドイツ軍が攻め寄って来ます。そして村を取り囲んで、「お前たちの村に連合軍の兵士が逃げ込んだろう。もしその連合軍の兵士を出さないと村を焼き払って全部皆殺しにするぞ」と言うわけです。そこで村の長たちは村の司祭のところに相談に行くんです。すると司祭は祈るのです。一生懸命祈って聖書を読むんですね。一生懸命聖書を読んで、「あー、もうこれは大勢の人の命が助かるためにはひとりの人が犠牲になることは仕方がない」と思うのですね。そしてナチスのドイツ軍に隠れていた連合軍の兵士を引き渡す。そのことによって村びと全部が助かるんですね。その晩、その司祭は夢を見ます。夢の中にイエス様が出て来る。そしてイエス様は司祭に何とおっしゃったかというと、「もし、お前があの兵士のところのに行って、あの兵士を話しをしたならば、お前はもっと違ったことをしたはずだ」という言葉をおっしゃるんです。司祭が一生懸命に司祭として祈って、司祭として聖書を読んで、そして決断をしたこと、それはそれなりに済むことなんです。大勢の人の代わりにひとりの人が捕らえられて死刑にされるかも知れないということは、大勢の人の命に引き換えれば取るに足りないことかも知れない。そう納得できることなんです。そして、ひとりの兵士は村びとたちにとっては、ある意味では、「一粒の麦」なのです。けれども、その夜見た夢の中ではイエスはそのことを赦さなかった。イエスはその司祭に向かって「どうしてお前はあの兵士を話をしなかったか?」と言うのです。

それは、もう一歩の踏み込みなのです。ギリシャ人たちが手間暇かけてイエスと出会うあのイエスの出会いの踏み込みであります。いわば司祭は、自分にとってどうでもよかったあの兵士との話というあの部分に一歩踏み込んで、自分の中のあのどうでもよい一粒の麦を殺すならば、全く違った世界がそこから展開をする。そのことをじつは夢の中で見るんですね。その時に、自分の中で殺した一粒の麦はじつはわたしのために死んでくださったキリストであったことに変わって行くに違いない。

わたくしどもの中にも、どうでもよい一粒の麦がたくさんあると思うんです。その一粒の麦は、一粒の麦ですから目にとまらないかも知れない。どうでもよいと思うことかも知れない。そこをほったらかしておいてもちゃんと自分は自分として生きていけるかも知れないのです。ギリシャ人たちが敬虔な信仰者であったように、そのことは残り続けるのです。けれども、一歩の踏み込みがあることによって、その一歩の踏み込みとはどうでもよい部分を自分の中で殺すことによって、じつはその部分はキリストご自身であることを知るのです。

わたくしどもの中にあります一粒の麦、どうでもよいと自分が思っている部分こそ、じつはキリストご自身に他ならない。そのキリストご自身がここでは、わたしのために死んでいてくださる、ということをまざまざと知るのです。そのことをじつは今日、ここでイエス様はわたくしどもに教えていてくださるように思うのです。

今日、「一粒の麦」とご自身をたとえ給うキリストご自身がじつはギリシャ人に向かって話し給うということを思う時、わたくしどもは自分の中の一粒の麦とは何かということをあらためて思わずにはおれません。

祈り

お祈りいたします。

父なる御神様。わたくしどもは、キリストご自身がまさしく一粒の麦であって、わたくしどものために死んでくださったことをあらためて生活の直中に見い出すべく、みことばを通して教えられています。主に向かって今一度、眼を上げて一粒の麦でいますキリストご自身を鋭く見る目がまたわたくしどもの信仰への踏み出しの一歩であることを知ることができますように。キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(1988年3月20日 四旬節第5主日礼拝説教
テープ起こし by 後藤直紀神学生、文責 by 大柴譲治)