説教 「本当の自分を生きる」 大柴譲治牧師 (田園調布教会にて)

ルカによる福音書 18:31-43

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

初めの挨拶

本日は田園調布教会の礼拝に出席できますことを心から嬉しく思い、神さまに感謝しています。実は、この講壇交換の話は昨年の2月に実現するはずでした。ところが講壇交換の直前に私が右目の網膜剥離手術のため緊急入院となり、一年先送りになったという経過があります。各方面にご迷惑とご心配をおかけしました。私の右目はほぼ元通りに回復し、このように今朝この場に立てますことを感謝しています。意図したわけではないのですが、今日の福音書の日課には目の見えぬ人がイエスさまに癒される話が出てきます。個人的には、そこにも神さまの不思議なみ業を見る思いがいたします。

本日はキリストに目を開かれるということが私たちにとってどのような意味を持つのかについて焦点を当てながら、本日はみ言葉に思いめぐらしてゆきたいと思います。

メシアのしるし

本日の福音書の日課の後半部分にあるその盲人の癒しは、前半部分にあるイエスさまの三度目の受難と復活予告の直後に置かれています。それはメシアであるイエスさまの十字架と復活という救いの出来事と密接な関わりを持っている奇跡だということが分かります。実は旧約聖書の中では、メシアが現れる時には必ず、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、目の見えない人の目が見えるようになるということが預言されている。例えば、イザヤ28:18ー19には次のようにあります。「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る」。

興味深いことは盲人が見えるようになるということはメシアのしるしとして預言されているのですが、旧約聖書の中では一度も行われたことのない奇跡です。それがナザレのイエスにおいて行われた!人々はイエスの中に旧約聖書の中に預言されていたメシアの到来を見たのです。

道端からの旅立ち

もう一度日課に戻りたいと思います。一人の盲人がいます。彼は「道端に座って物乞いをしていた」とある。当時は一般的にユダヤの町の門のところに物乞いのために指定された場所があったようです。「道端」という言葉はそれまでのその盲人の生涯を表しています。見えない世界で彼が生きてゆくためには道端に座り続ける以外にはなかった。道端に座り続ける人生です。

道端に座って物乞いをする盲人とその前を施しをしながら通り過ぎてゆく人々。彼らの人生は決して交わることはありませんでした。しかしそんな彼の前を、エルサレムの十字架をめざして歩むイエスさまが通りかかりました。 全身を耳にして盲人はそのことを知ります。そして声の限り、見えないイエスさまに向かって叫び始めました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。先に行く人々が叱りつけ黙らせようとしますが、彼はますます大きな声で、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けます。闇の中で必死になってイエスさまに呼びかける一人の盲人。悩みの中で主に呼びかける盲人の気持ちを私たちは容易に想像することができます。私たちもまたそのような闇の中で主に向かって叫んだことがあるからです。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください!」と。

私はこの場面を読むと、必ず思い起こす詩編があります。詩編130編です。これは都もうでの詩編の一つでしたから、イエスさまたちも過越の祭をエルサレムの都で祝うために巡礼の詩編を歌いながらエルサレムに向かっていたのではなかったかと想像します。エリコの盲人がイエスさまに向かって必死に「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫ぶ姿は、私の中では詩編130編冒頭の、「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」という一人の信仰者の叫びとピッタリと重なるのです。

遂に盲人の叫びは聴かれます。盲人の目が開かれ、彼は見えるようになった!これこそ旧約聖書の時代から預言されていたメシアのしるしでした。彼はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従いました。道端に座って物乞いをするという生き方から、道の上をイエスに従って歩み出す生き方へと変えられた。イエスさまのご生涯は私たちの人生と交わっているのです。

イエスさまは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられます。彼が近づくと、お尋ねになられた。「何をしてほしいのか」と。「何をして欲しいのか」という問いかけは、盲人に対してきちんと向かい合ってくださるイエスさまからまっすぐに発せられています。「あなたの魂から出た叫びをわたしは確かに聴き取った。わたしに何をしてほしいのか」。彼はそれまで、これほど真剣になって自分と向かい合ってくれた人物を知らなかったことでしょう。これほど暖かく真実な言葉を聞いたことはなかったと思われます。

「何をしてほしいのか。」「主よ、目が見えるようになりたいのです。」 この一言に盲人の味わってきた悲哀のすべてが表れています。「主よ!見えるようになりたいのです!!」 盲人の見えない目からは涙が溢れ出ていたかもしれません。主は深い憐れみをもってその魂の叫び声を聴き取っていたに違いありません。真剣に、真実に自分と向かい合ってくれる者を持つ者は幸いであると言わねばなりません。

イエスさまは告げます。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と。これは創世記の天地創造の際の神さまの一番最初の言葉・「光あれ!」を想起させます。「あなたの闇の中に光あれ!。闇に閉ざされたあなたの目よ、開かれよ。神の本当の世界が見えるようになれ!」それはイエスさまによる光の創造でした。

「あなたの信仰があなたを救った」

不思議なのはイエスさまの「あなたの信仰があなたを救った」という最後の言葉です。それは、「わたしがこれを行ったのではない。あなた自身がこの結果をもたらしたのだ」とでも言っているかのような言葉です。

盲人はイエスさまに憐れみを叫び、見えるようになることを求めました。盲人はイエスさまの中に自分の救い主メシアを信じたのです。私たちは「信仰」を通してのみ本当のことが見えるようになるのだと告げられている。「信仰」とは、ルターの言葉を借りるならば、私たち人間の業ではない。「信仰」とは私たちにおける神のみ業なのです。神が私たちにおいて働かれる。それが信仰です。「あなたの信仰があなたを救った」とは「あなたの中に働く神の救いのみ業があなたを救ったのだ」ということでしょう。

神さまの憐れみにひたすらすがることが許されている。イエスさまは盲人の信仰を明らかにされました。ここ以外にも「あなたの信仰があなたを救った」という箇所はいくつもでてきます。例えば、奇跡においてはそれを引き起こした「信仰」が明確にされ、それが中心的な事柄として位置づけられる必要があったのです。信仰を離れては奇跡は奇跡ではなくなるからです。盲人にとって一番大切なことは目が見えるようになったことではない。目は見えても見えなくてもよい。一番大切なことはイエスをキリストと信じたことなのです。キリストを信じて目が見えるようになったその盲人は幸いであったと思われます。しかしキリストを信じて目が見えるようにならなくても幸いなのです。信仰の目が開かれるときに、私たちは一番大切なことが見えるようになる。

実はこれは、福音書の中に繰り返し語られているイエスさまの言葉です。ルカ福音書では4度繰り返されています。本日の箇所以外に三箇所です。

(1) 7:50 イエスの足を涙で洗い、髪の毛で拭った罪深い女に対して。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

(2) 8:48 12年間出血の止まらなかった女性が後ろからイエスの衣に触れて癒された時。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

(3)17:19 重い皮膚病を患っている10人が癒されたが、イエスのもとに戻ってきたのは一人のサマリア人だけだった。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

そして本日の箇所です。そこに共通しているのは、深い悲しみと苦しみに耐え続けてきた登場人物たちです。主ははらわたがよじれるほどの深い憐れみをもって彼らの苦しみをご自身の中心で受け止められたのだと思います。その闇の中で彼らがどれほど深く神の憐れみに寄りすがろうとしてきたか、イエスさまは瞬時に分かったのです。彼らは神から見捨てられた者、救いからもれた呪われた者として当時のユダヤ教の社会の中では見られていた。そのような無力で惨めな小さき者たちの闇に輝く光をイエスは明らかにするのです。「あなたの信仰があなたを救った」。彼らは自分の力に頼ることができないことを知っていた。神の憐れみに頼る以外に生きるすべはない。イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と宣言することで、彼らが決して神に見捨てられているのではないということを宣言し、神のあわれみの深さを告げているのだと思います。

彼らは主イエスと出会うことによって神の憐れみを知り、その中で本当の自分自身を見出したとも言えましょう。自分が自分であることの真のアイデンティティー(自己同一性)をイエスから与えられたのです。私たちにとって主イエスと出会うということはそのようなことなのです。イエスと出会った盲人の人生が道端から道の上へと変えられる。本当の自分を生きる。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と語られたお方による以外には、神に至る道はない。本当の自分を生きる道はないのだと。そのことを今日の福音書の日課は私たちに告げているのではないでしょうか。

十字架への道を主に従って歩む

さらに言うならば、イエスの進んでゆく先には十字架が立っています。エルサレムに救いを成し遂げるためにメシアは進んでゆく。マルコ福音書の平行箇所は明確に記します。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」(マルコ10:52)と。イエスの道は、人々の期待するところとは全く異なって、十字架への道であり、無力さと恥と裏切りと孤独と死への道なのです。これ以上の悲惨な結末はないというべき道なのです。しかしそこに命の喜びがある。「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った」とある。私たちにもそのような喜びの中にキリストに従う道が唱えられているのだと信じます。それは具体的には、一人ひとり異なる道でありましょう。主は言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と。ここに私たちの神から与えられた本当の使命(ミッション)がある。このミッションを果たすことが私たちにとって本当の自分を生きることになるのだと聖書は告げているのです。

ここにお集まりの皆さまお一人おひとりの上に、神さまの豊かな祝福がありますようお祈りいたします。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年 3月11日 四旬節第2主日礼拝、田園調布教会にて)