説教 「あなたが主役」 小泉 潤牧師

ルカによる福音書 10:25-37

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

愛の冷える時代に

大変な時代を迎えました。技術革新が次々と行われて行く中で人間にとって良いことも悪いことも体験していきます。技術の進歩によって私自身も心臓の手術を受けることが出来、生命が助かりました。一方人間と機械が結びあうこととなり人としての会話がなくなり冷たい時代になったように思います。

少し以前までは駅で切符を買うときは「阿佐ヶ谷まで下さい」と言い、改札口を通るときは駅員さんに「ご苦労さま」と言葉をかけたのですが今ではそんな風景はありません。人と人との間の関係がうすれてきている時代といえましょう。聖書には終末が近づくと愛が冷えてくるといっていますが、そんな時代が到来したのかもしれません。

 どうすれば生き生きと今を生きられるか

人々は心の飢えを感じ、語る相手を、生きる希望を求めています。何かを求めている、というたしかな手応えを感じています。どうすれば今を生き生きと生きられるのですか?何をすればいいのでしょうか?しかしこの問いはイエスの時の律法学者たちの問いでもありました。イエスは「何をしたら永遠の生命を得ることができるのですか」というむつかしい問いにこたえて、やさしい答えをたとえ話で示されます。生き生きといきたいなら「愛に生きよ」とおっしゃるのです。そしてこの善きサマリヤ人のたとえを語られます。

原文に入る前にキリスト教の二大教理について少し話しておきましょう。

ルカによる福音書は15章の放蕩息子の例えを用いて神さまと自分との関係を教えます。即ち父なる神は愛であってどんなに放蕩に身を持ち崩した人でも悔い改めて帰ってくるなら受け入れて下さる方だといいます。そして、神の中にひとは本当の居場所があるのだと示します。次にこの10章の善きサマリア人の例えを通じて人と人の関係の在り方を教えます。神さまとの関係の中におかれた人は隣人との愛に生きるようになる、そのことによって人は喜びと希望を持つようになるのだ、と教えます。

二つの分かり易い例えをもってキリスト教の真理を分かり易く示します。今日のキリスト教はともすると聖書の福音をむつかしく語りすぎているのではないか。教師として大いに反省する必要があります。

数年前、ドイツのノイエルケローデという障害者の村を訪れた時、その村の入り口にあった礼拝堂の内側にあった壁画を思い起こします。知恵遅れの子どもたちに聖書の福音をどう告げるか。一方に羊を守る羊飼いイエスの姿を壁一杯に描き、一方に傷ついた旅人をいやすサマリヤ人の絵がありました。イエスはどういう方であり、福音とは何かを無言のうちに両面の絵が語りかけていました。

たとえの登場人物

さて、譬えそのものに入りましょう。

エルサレムからエリコに下る道は現代も又、荒涼たる荒れ地であります。それはまさに現代という砂漠におきかえられます。そこにさまざまな人々が登場します。

(このむさしの教会の前身でもあった)鷺宮の神学校でクリスマスにはよく劇をしましたが、私たちのクラスでこの善きサマリア人をオペラで演じました。登場人物は強盗、強盗にあった旅人、祭司、レビ人、サマリア人、宿屋の主人、ロバ、等です。私たちはこの人生においてそれぞれの役を時に応じて演じます。時には人を傷つけてしまう強盗、身ぐるみはがれてしまう被害者、見て見ぬ振りをして通り過ぎる祭司、レビ人、そして人から頼まれて御世話する宿屋の主人、またキリストのおともをしてついていくロバとして、時には傷ついた人を運ぶこともあります。けれど本当にこのドラマの中の主役となる善きサマリア人になれるだろうか。

聖書を見るとこのサマリア人はユダヤの地では嫌われていた人たちでありました。しかしこのサマリア人が「敵」であるユダヤの旅人に対してとった態度は徹底していました。33-34節ではオリーブ油をぬり、ぶどう酒をそそぎ、ロバにのせ宿屋に運び、一緒に泊まり、翌日には部屋代を支払い、あとをたのみ支払いが不足していたら帰りに払う、とあります。愛とはことばや観念ではなく、実行であり、具体的な行為であります。イエスはこのような行為に生きよ、と語られるのです。

宿屋としての教会

この物語から二つの点を特に学びたい。

一つは教会とは何か、ということです。それは宿屋であるということです。現代という荒野で傷ついた人たちをしばし癒し、慰める場が教会なのです。善きサマリア人であるイエスがつれてこられ、運んでこられる旅人を受け入れる場が教会なのです。教会は逃れの場、癒しの場、として地域のコミュニティーとなってこそ、その使命を果たしていくといえるのです。

(私の牧している)京都教会でも幾人かのホームレスの方々に開かれることによって本来の教会の姿に近づいたように思えます。愛が生命をうみだしていくのです。この武蔵野教会も伝統的にディアコニアキャンプを続けてこたれたことを聞いています。他者と、障害を負う者と関わり、目前の課題に取り組んでいくとき、教会は生命を持ち始めるのです。

あなたが主役

第二はこのドラマの主役はだれか、を考えてみたい。それは勿論、善きサマリア人であります。そしてこのサマリア人とはイエスさまのことです。イエスさまだけがこのように徹底した愛を示されます。

私たちは「主役はイエスさましかおられない、私にはとても(主役を)演じられない」と言ってきた。しかしそれは「逃げ」ではないか。ルター教会の「恩寵のみ」の教義の前に私たちは「善行」の教義を遠ざけてきたのではないか。

私たちはここで演出家としてのイエスさまのことばを聞きたい。「あなたならできる」「あなたが主役」とこのサマリア人の役をわたしたちに与えて下さる。イエスと共に歩むときイエスが私たちの中に入ってきて下さり、エリコへの道すじでこのサマリア人の役を演じることができるのです。

たそがれの人生というこの一回限りの舞台で、よきサマリア人の役を演じて幕をとじることができる者は幸いであります。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年 7月22日 聖霊降臨後第7主日 礼拝説教)

なお、説教者の小泉潤牧師は現在、日本福音ルーテル京都教会牧師であると共に、日本福音ルーテル教会の総会議長をも務めておられる。