説教 「亀も兎も勝ちました」 渡辺純幸牧師

ルカによる福音書10:25-37

元総理大臣大平正芳氏は、生前自宅の開け放たれた一室で、一人の初老の男性と熱心に話をしていました。元総理はひたすら相手の話を一方的に聞いていたそうです。相手は政治にまったく関係のない人で、一人息子を亡くした人でした。26歳の長男を亡くされた経験のある、総理は一言も言わず、身動きせず相手の話を一時間近くひたすら聞いていました。そして、元総理が少し体を乗り出したそのとたん、その場の雰囲気ががらっと変わり、そこには明るい空気が流れたと、その会話を遠くからずっと見続けていた聖心女子大教授で、カトリックのシスターの鈴木秀子さんは記しています。(鈴木秀子著「愛と癒しの366日」より)

本日の聖書は、よき隣人となりえた大平元首相ではありませんが、この隣人の問題が扱われている、「よきサマリア人の物語」です。この物語は、律法学者がイエスに、「何をしたら永遠の命が受けられるか」の問いに端を発して展開されています。永遠の命は、それこそ私たち人間が誰も欲するものです。それは言い換えれば、死という大きな壁がいつも私たちの前に横たわっているからでしょう。それに対してイエスは、律法に関して誰よりもたけているその律法学者本人に、「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読むか」と聞き返したのでした。もちろん、彼は自信をもって、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、あなたの神を愛せよ」「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と明快な答えをイエスに返したのでした。彼の答えは、ユダヤの律法においては非の打ち所のない完璧なもので、イエスはそれを実行すればあなたのいう「永遠の命」が得られると言われました。ところが律法学者は、「わたしの隣人とはだれですか」と再度問うたのです。そこでイエスは、子供が聞いてもよく理解できる「よきサマリヤ人」の譬えを語られました。

この話の舞台は、エルサレムからエリコに向かう途中のそれも人通りの少ない道です。強盗がある人を襲って、瀕死の重傷を負わせて立ち去りました。一番最初にそこを通りかかったのは祭司です。そして、二番目にそこを通りかかったのはレビ人です。ご存じの通り祭司とは、エルサレムの神殿に仕える人です。死体に触れると体が汚れて、それが取れる七日の間は神殿で仕事をすることができません。強盗に襲われた人を見た瞬間、彼はいま自分はあの男とかかわることはできないとそのように思ったのでしょうか。通り過ぎたのでした。二番目のレビ人もやはり祭司職に属し、主に神殿や門の守衛、あるいは勤務のとき以外は一般の人々に律法を教える役割を果たしていました。このレビ人も通り過ぎていきました。そして、三番目に通りかかったのがサマリア人です。サマリア人がその場所を通りかかったとき、重傷を負って倒れている男を見て気の毒に思い、近寄って来て介抱し、できうる限りの世話をしたと言うのです。ご一緒に、「では、わたしの隣人とはだれですか」を考えてみたいと思います。

「もしもし亀よ亀さんよ……」の童謡は、歩みの遅い亀が、真面目に走った結果、途中で居眠りした兎よりも早く目的地に到達したというお話です。しかし、この話には続きがあります。悔しがった兎がもう一度競争しようと亀に言いました。亀は承知して走り出しました。そして兎が勝ちました。そこで亀は兎にもう一度、湖の向こうの木の下まで競争しようと提案したのでした。兎は承知しました。兎も亀も同時にスタートしました。ところがどうでしょう。亀はすいすいと一直線に湖を泳いで行きました。兎は湖の周りの長い距離を一生懸命走りました。そしてやっと目的地に着きました。そのとき二匹は考えました。「そうだ。お互いに助け合えばいいのだ」と同時に二匹が言いました。そこで山に登るときには兎が亀を背負い、湖や川を渡るときは亀が兎を背負うことになったと言うお話です。

さて、問題は、「この三人のうち誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」とのイエスの問いです。聖書には、この三人の行動について興味深い言葉が使われています。一番最初にそこを通りかかったのは祭司です。聖書では、その祭司は「この人を見ると、向う側を通っていった」とあります。そして、二番目にそこを通りかかったのはレビ人で、同じく「彼を見ると向う側を通って行った」と記しています。このように、強盗に襲われ瀕死の重傷を負うている人に対して、祭司、レビ人はどちらも、「見ると、向う側を通って行った」と記しております。つまり向う側とは、こちらに近寄るでもない、どこまで行っても交わらないことを意味する言葉であります。それも二人とも近くで目撃したのですが、いずれにしてもそこでは接点を持つことなく、先を急いだのでした。それに対して、サマリア人は、聖書によると、「その人を見て憐れに思い、近寄って……」来たのでした。

ところで、口語訳聖書では「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」とありました。この言葉は、新共同訳聖書で「隣人を自分のように愛しなさい」と改訳されています。この「自分のように」という中には、「自分自身を愛するように」という意味と、もうひとつ「自分が(神から)愛されたように」との二つの意味が含まれているのです。ですから、ここでの「隣人を自分のように愛しなさい」の中心は神であり、「神が自分を愛して下さったように、隣人を愛しなさい」となるのです。

すると、「向こう側を……」と、「近寄ってきて……」の本日の譬え話の行為、行動が大きな意味を持ってきます。ご存じのとおりサマリア人とは、かつて、アッシリアに連れられていった北イスラエル人の子孫、また強制的に近隣の住民と混血を強いられた民です。まさに、同じユダヤ人でありながらユダヤ人とは見なされず、罪人として、苦しみ、のたうっていた民です。その苦しみを通して、このサマリア人は、それこそ自分の痛みのように傷ついた者の痛みや辛さを、よく知っていたものだと言えるのではないでしょうか。つまり、自分たちにとって向こう側という平行線にあるものは、いつも能動的な生き方をして来た人々と言えるかも知れません。いつも健康に自信をもち、自分の言うことはいつも正しい、そのように思っている人々、自分の力と能力によってそれなりに実績を上げて来た人々なのかも知れません。

他方、近寄って来てたこのサマリア人は、ユダヤ人でありながら、いつもどこかで、蔑視され、苦しみを持って生きて来た人だったと言えましょう。しかし、サマリア人すべてがこれほど親切であった訳ではありません。サマリア人とユダヤ人とは互いに敵視していました。しかし少なくともこのサマリア人は、自分もいつか目の前に傷ついている人であったのでしょう。だからこそ、サマリア人は人ごとではなく、まさに自分の姿をその傷ついた人の中に見たのです。そして更に彼も「良きサマリア人」に助けられたに違いありません。このように、苦しいが故に、自分が愛されたときの喜びは大きかったに違いありません。その喜びに溢れた愛をもって人に関わるとき、それは、聖書にある「憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱」する姿となるのであります。本日のサマリア人は、更にそれで終わることなく、「翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」とまでなるのです。

しかし、ここで私たちは、このサマリア人の行為の中で、これほどまでに世話をし、面倒をみることのできる人は、ほとんどいないと言えないでしょうか。もしサマリア人の行為がありうるとすれば、それは親子の関係にのみ成り立つことかも知れません。私たちは、ろばに乗せて宿屋に連れていくくらいで終わりでしょう。さらに、それ以上のことをするとすれば、何か特別のことがそこに働いているからに他なりません。それこそが神の差し出される手なのであります。

そこでもう一度、「では、わたしの隣人とはだれですか」の問いが私たちに向けられてまいります。そしてその答えは、あの亀と兎の話の続きにあるようです。亀も兎も互いに力を合わせることの意味を知り、なくてはならない存在であることを知り、水の中では亀が背負い、陸の上では兎が亀を背負うという図式がありましたが、私たちも、自分も実は目の前に放置されているけがをした当事者であることを知り、その自分自身が、まず誰よりも神から愛されたものであること、また今も愛されていることを覚えることから始まるようです。そして同時に、隣人も神さまから愛されている掛け替えのない一人でもあるのです。大平元総理大臣は、名もない老人の言葉をじっと聞き続けました。同じ痛みを持った者のみが理解できる姿であったでしょう。互いに大切な関係にあることを、感謝をもってこの一週間を過ごしてまいりましょう。

(2004年7月18日 聖霊降臨後第7主日礼拝説教。渡辺純幸牧師は市ケ谷教会牧師で総会副議長)