説教 「二人または三人の集まるところには」 大柴 譲治

マタイ福音書 18:15-20

「無関心」な時代

「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」とマザーテレサは言いました。現代は「無関心の時代」と呼ばれます。人と人との関係が稀薄になり、互いに関わり合いを持つことをほとんどしなくなった孤立化と孤独化の時代、関係の成立しにくい時代です。見知らぬ人同志が挨拶するということもほとんどありません。現代の大都会の東京では、人と人との出会いや交わり、関わりといったものが困難になっているように感じます。もしかしたら、携帯電話やインターネットなどのコミュニケーションツールの普及は、そのような交わりの稀薄さと寂しさの中で必死にバランスを取ろうとする現代人の必死の思いを表しているのかもしれません。家族を含めて、人とのコミュニケーションが稀薄になっている現代に、あるいは濃密な人間関係を嫌うこの「無関心な時代」に、本日のみ言葉はどう響くのでしょうか。

私たちにおいて「御心」がなるということ

本日の日課では、「罪」が中心的な事柄であるように見えますが、実は「キリスト者の真正の交わり」あるいは「教会の真実の姿」というものが一番の課題です。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。「一人の兄弟(姉妹)を得ること」こそ第一目的なのです。ここでは私たちは無関心でいることはできない。罪を犯す兄弟(姉妹)に対して傍観者であること、無関係であることはできない。もっと言えば、私たちはここで他者の罪に積極的に関わってゆくよう主に呼び出されているのです。

ここでの「罪」は原語では複数形ですから、個々の罪、諸々の罪という意味でしょう。それ以上具体的には語られていません。「あなたに対して罪を犯したら」と訳される箇所では、「あなたに対して」という言葉がない有力な写本があります。そこでは「あなたの兄弟が罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい」となる。私やあなたに対して罪を犯すかどうかが問題ではない。罪とはその人自身の滅びに関わる事柄です。先週学びましたが、 節には次のような主の言葉がありました。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。小さな者が一人も滅びないことが重要なのです。そして、「そうならないようにあなたがたはその者に関わってゆきなさい」と私たちは召されている。主の祈りで「御心が天におけるごとく、地にも行われますように」と祈りますが、主は神さまの「小さな者が一人も滅びないように」という御心が「私たちを通して」この世で行われてゆくことを望んでおられるのです。一人の兄弟(姉妹)も失われてはならない。私たちの主は、失われた一匹の羊をどこまでも大切に追い求められる方です。私たちはここで真剣に罪を問題とし、徹底的に隣人に関わってゆきなさいと命じられている。先に「愛の反対は無関心である」というマザーテレサの言葉を引きましたが、一人の兄弟(姉妹)の命に関して、私たちは無関心であってはならないのです。

「罪」と「罪人」

では「罪」とは何か。パウロは「罪のリスト」をその手紙の中に記しています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(ガラテヤ5:19-21。1コリント6:9ー10にはもっと厳しい言葉もある。なお、エフェソ5・3ー5も参照)。そして、それらの「諸々の罪」は根源的なただ一つの「罪」を、すなわち私たちが神との関係において逸脱しているという「罪」を表していましょう。聖書は神との関係の破れを「罪」と言うからです。

このような「罪のリスト」を自分には無関係なこととして聞き得る人がいるでしょうか。私たちの多くはそこでは自分のことが語られていると思うのではないか。中でも「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」といったものは、表だってではなくても、私たちのただ中に確かに存在します。神の前には自らを誇ることはできないという点で私たちは皆、五十歩百歩です。神の前には私もあなたも罪人なのです。「義人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)。

主は言われました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイ7:1ー5)。

そのように見てきますと、いったい誰が他者の罪を譴責し断罪することができるのか。誰にもできない。しかし主は、そのような私たちの罪の現実をよくご存じでした。よく知った上で私たちを招いておられる。「兄弟が罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とは、「交わりへの招き」の言葉です。譴責や断罪への招きではない。

神の前で罪を犯し続ける私たち。その意味で、この罪を犯した兄弟に対する忠告と告白は一方通行ではない。相互通行なのです。お互いに罪を犯し合う他ない私たちが、共に「罪人」として十字架の前に首を垂れて赦しを願う。それが私たちが「一人の兄弟(姉妹)を得る」ということです。そこでは主が私たちを赦しにおいて兄弟(姉妹)として結びつけてくださるのです。

教会の真実の姿

「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。兄弟(姉妹)の苦しみと悩みとは天の父との交わりの中で癒され、解放され、喜びへと変えられてゆかねばならないのです。兄弟(姉妹)は、私と同様に、キリストの十字架の苦難と赦しとに与らなければならない。だから、私たちは相互に無関心であってはならない。罪人の次元で相互に関わり合うよう召されている。主の「新しい戒め」はこうでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34、15:12)。「愛」の反対は「憎しみ」ではなく、「無関心」なのです。

罪を犯した兄弟(姉妹)と二人きりで向かい合うことが第一段階であるとすれば、第二段階はそこに一人または二人が加わって向かい合うことが求められています。それでもダメな場合は、第三段階として教会全体が関わることになる。これらの言葉の背後には、「一人の小さき者も罪に滅びてはならない。失われてはならないのだ!」という断固たる主の決意があります。なんとかして一人を滅びから救おうとされている。熱い愛がある。

本日の日課で語られていることは「真実の教会の姿」です。「信仰者の交わりの持つ真正の姿」と言ってもよい。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と主は語る。二人が向かい合う時、そこにはキリストが共にいます。キリストのリアルプレゼンス(現臨)がある。換言すれば、一人の信仰者を通して他の者に生けるキリストご自身が働きかけられるのです。一人の兄弟(姉妹)が私の罪を忠告するとき、そこではキリストが忠告しておられる。そして一人の兄弟(姉妹)に罪を告白するとき、私はそこでキリストに向かって告白している。ボンヘッファーは『共に生きる生活』の中で言いました。「自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いのである」。罪の告白と赦しの宣言は、一人の兄弟(姉妹)を通して、キリストご自身が共にいて、私たちに贈り与えてくださる恵みの出来事なのです。「あなたはわたしの大切な宝なのだから、滅びてはならない。あなたは失われてはならない」。

私たちは自分で自分の罪を解決することはできません。自分で自分を支えることはできない。そうすれば真理を欺くことになる。罪はキリストご自身によって解決していただかなければならない。そしてキリストは具体的な一人の兄弟(姉妹)を通して私に関わってくださるのです。私たちにこのような交わりが贈り与えられているということは自明のことではありません。神さまの恵みであり恩寵です。互いに神の赦しのみ言葉をもって支え合い、正し合い、祈り合い、導き合う。それがキリスト者の交わりの真実の姿であり、教会の真正な姿なのです。

本日の日課には、すべての信徒が他の信徒に対して、罪の次元に関わり合うことで、「とりなしの祈りを献げること」と「神のみ言葉を取り次いでゆくこと」という二つの役割を持っていることが示されています。それはルターが語った「全信徒祭司性」ということでもあります。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という主の言葉は、深い慰めと希望とに満ちています。「わたしはけっしてあなたがたを見捨てない。二人三人で互いに支え合い、祈り合いなさい。私が共にいてあなたがたを守る。罪に苦しむあなたのためにわたしは助け手を遣わす。互いに罪を告白し合いなさい。そして互いにわたしの赦しを分かち合いなさい。そこではわたし自身があなたの罪の告白を聞き、あなたの罪を赦す」。

そのような主の交わりへの招きの言葉を味わいながら、ご一緒に新しい一週間を過ごして参りましょう。お一人おひとりの上に神さまの恵みが満ちあふれますように。 アーメン。

(1999年 9月26日  聖霊降臨後第18主日礼拝)