説教 「私が地の塩、世の光?!」 大柴 譲治

マタイ福音書 5:13-16

「自尊感情」

1月25日付けの朝日新聞の天声人語を目にされた方もおられることでしょう。そこにはこうありました。

■「自尊感情」という言葉が、このところ目につく。自尊心と似ているが、もっぱら少年の犯罪や「問題行動」をめぐって使われる。

■長野県の「テレクラ問題に関する懇話会」が年明けにまとめた報告書には、こんなくだりがある。〈最近の青少年は、自分がかけがえのない存在であるという自尊感情に欠けている〉。政府の青少年問題審議会が昨年出した中間報告にも登場する。いわく、他人を思いやる気持ちは、「自分自身に価値を見いだす自尊の感情」に根ざすものなのに、子どもらは豊かさの陰でゆとりを奪われ、それを身につける機会に恵まれてこなかった。

■お役所言葉というわけではない。長野県の担当者によれば、日々子どもに接する先生たちが使うようになったという。「援助交際」の流行や神戸の児童殺傷事件以降、少年の「心の闇」をなんとかのぞこうとしてきた大人社会が、かろうじてすがったキーワードの一つのようでもある。神戸の14歳は〈透明な存在であるボク〉と書いていた。

■かつて、「自分探し」が若者のテーマだった。「どこかに本当の自分がある」と信じることが、まだできたのだ。そんな小さなよりどころすら持てない少年がいまはいる。彼らに無邪気に「自己の確立」を要求しても、解決になるだろうか。ふと、マイナスに見えることをプラスに逆転してしまう妙案はないかと夢想する。(以下略)

自分がかけがえのない存在であるという感覚、「自尊感情」、正しい意味での「自己愛」の重要性を指摘する文章です。「自己愛」と「利己愛」とは別物です。これがないと人を愛せない。神も愛せない。実は、神を愛することと自分を愛すること、そして隣人を愛することは、区別はできても分離はできない、「三位一体」的な関係にあるのだと私は考えています。どの一つを否定しても他の二つは成立しない関係にある。自分を愛することができなければ神も隣人も愛することはできないのです。では、どうすれば「自尊感情」が持てるのか。そのようなことを心に留めつつ、本日のみ言葉に耳を傾けてまいりたいと思います。

私が地の塩、世の光?!

本日の日課を読む時私たちは、どこか穴があったら入りたくなってしまうのではないでしょうか。この私が地の塩、世の光?!これは驚くべき主の言葉です。なぜなら、私たちの多くはそのような自己理解は持っていないからです。「お言葉ですが、とんでもない」と恥ずかしくなる。「悩みや悔いばかりがあって、全く頼り無く、自己を確立することもできずにいる私が地の塩、世の光であるはずがない」。おそらく、これが私たちの多くが持つ自己理解であり、自己認識でありましょう。口に出さなくても私たちはどこかで、「自分はなんてダメな人間か」「なんて情けない存在なのだろう」と思っている。何かに失敗したり、体調が悪くなったりすると特にそう感じます。だからこそ、日曜日毎に私たちは神のみ言葉を聞いて、そこから生きることの赦しをいただかないと生きられない。そう思うのです。

私たちは私たちの魂の深いところ、奥底で、ありのままの自分を受け入れ、赦し、愛してくれる人格的な存在を求めているのです。神を求めている。ソクラテスはそれを「肉体の牢獄に捕らえられている魂が天上のイデアの世界に帰りたがっている」と言いましたし、精神分析ではそれを「グレートマザー」と呼んだり、充たされないナルシシズムの問題と分析したりするのかも知れません。しかし、聖書は違った見方をしています。聖書は宣言します。人はみな「神のかたち(似姿、イメージ)」に造られているのだと。「神は愛(アガペー)」ですから、人は神の愛のかたちに造られている。人間は神との愛の関係に生きるように最初から方向付けられているのです。同時に、人が男と女、夫と妻とに創造されていると言われるのは、夫婦がやはりアガペーの愛をもって愛し合うよう最初から定められていることを示します。結婚は人間が作り出したものではなく、神の設定されたものであるというのが聖書の理解です。

では、「アガペーの愛」とは何か。ギリシャ語では「エロース」も「フィリア」も「価値あるものに向かう愛」です。真善美という価値に向かう愛です。それに対して「アガペー」とは「価値なきものに向かう愛」であり、もっと言えば、「価値なきところに価値を創造してゆく愛」であります。

私たちが神の愛のイメージに造られているということは、私たちは神の愛なしには生き得ないということを意味します。私たちは神に向かって造られている。神との愛の関係に生きる時、本当の意味で私が私として生きることができる。神との正しい関係に生きるときにはじめて私は自分を大切にすることができる。「自尊感情」を持つことができるようになる。神のアガペーの愛が私たちの中にかけがえのない価値を創造してくださるからです。そしてそのような神のアガペーを十字架の上に示してくださったお方が、今日、私たちを「地の塩、世の光」だと宣言しておられるのです。

主イエスは直接法で「あなたがたは地の塩、世の光である」と語っておられる。それは「もしそうであったらよかったのに」という仮定法でもないし、「そうであってほしい」という希求法でもない。「何がどうあろうとあなたがたは地の塩であり、世の光なのだ」という断言なのです。イエスさまの目にはこの「私」が地の塩、世の光に見えている。しかし、どうして私が地の塩、世の光なのか。いったい、イエスさまは何をおっしゃりたいのでしょうか。

主の信頼と愛

「あなたがたは地の塩、世の光」という言葉は、イエスさまが私たちをとことん信じておられるということを示す言葉なのでしょうか。どこまでも裏切り続けるふがいない弟子達をも主は決してお見捨てにならなかったように、裏切られても裏切られても主は私たちをどこまでも信じ続けると告げておられるのでしょうか。

そうかもしれません。私たちをどこまでも信じてくださるお方がいる。私たちをどこまでも見捨てることのないお方がおられる。「あなたがたは地の塩であり、世の光である」という主の言葉の中には、私たちに対する、私に対する主の限り無く深いあわれみのまなざし、愛のまなざしを感じます。そこに「あなたはあなたのままで存在してよいのだ」という私たちに対する主の無限の赦し、無限の肯定を感じます。

イザヤは次のように告げています。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。(中略)わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」(イザヤ43:1ー4)。

イザヤはここで、私という存在に向かっての神の大いなる「然り」を告げているのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」という言葉は、「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださった。それはみ子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである」(ヨハネ3:16)という言葉と重なります。神の目に私たちはかけがえなく貴いものとして写っている。正しい意味での「自尊感情」を得ることができずに苦しんでいる私たち人間のために神はその独り子の生命を捧げてくださった。「あなたがたは地の塩、世の光」という言葉は、私たちの存在に命を与えるために十字架についてご自身を捨ててくださったお方の実存から切り離すことはできません。

ご自身の血潮によって私たちを悪の腐敗から守ってくださったお方。ご自身の苦しみと愛とによって私たちの闇を照らしてくださったお方。あの十字架の上に私たちを購い、私たちのために地の塩、世の光となってくださったお方。そのようなお方の血潮こそが、私たちの中に生きることの意味を創造し、かけがえのない価値を与えてくれているのです。そして主は私たちが「地の塩、世の光」であると言われている。この主の暖かなまなざしの中にこそ、「私」を「私」とする本当の愛がある。神の愛が私たちの中に自分を大切にする心を与えてくれるのです。そして独り子を賜るほどに私たちを愛してくださった神のアガペーの愛を知る時、私たちの中には神と自己と隣人に対する愛が生まれてゆくのです。神のアガペーの愛は常に価値創造的なのです。キリストの十字架による贖い以外には私たちが本当に歩むべき道はないのです。

「あなたがたは地の塩、世の光」という言葉は、同時に私たちに対する派遣命令でもありましょう。主が十字架の愛に生きたように、私たちもまたアガペーの愛に生きるようにと命じています。自尊感情を得ることができずに苦しむ人々に対して、キリストの愛をもたらすようにと私たちを派遣してゆく言葉なのです。「ふと、マイナスに見えることをプラスに逆転してしまう妙案はないかと夢想する」と天声人語は語りますが、そのような妙案は私の「中」にはありません。自尊感情は自分の中だけでは育たない。他者との「愛の関係」の中にしか育たない。乳幼児の発達を観察する発達精神分析学者たちが洞察しているように、「自尊感情」とは自分を愛してくれる人との出会いの中で育まれるものであるからです。その意味で、「あなたがたは地の塩、世の光」と言ってくださるお方との関係の中にこそ、正しい意味での自尊感情が与えられてゆくと私たちは信じるのです。

本年度のテーマ~コラボレーション

本日は総会礼拝です。今年のテーマは牧師報告に書かせていただきましたが、Collaboration (共同作業)です。教会員通信名簿の表紙には指揮者が聖歌隊を指揮する絵の下にコラボレーションとカットが入っています。私たちは神さまのオーケストラであると誰かが言っていましたが、オーケストラも聖歌隊の合唱も、一人ではその喜びが表せません。皆で一緒に演奏したり合唱したりする中で音楽が生きてくるのです。コラボレーションのイメージとしてまことにふさわしいものを事務局の橋本兄は考えてくださいました。「あなたがたは地の塩であり、世の光である」とおっしゃってくださるイエスさまのそのみ言葉は、私たちのコラボレーションの中で明らかになってゆくのです。昨年一年間、キリストのセレブレーションに与ることができた私たちは、今年は協同作業、コラボレーションの中に神さまの豊かな恵みを味わいたいと思います。

お一人おひとりの上に、またこの教会の歩みの上に豊かな祝福がありますように。アーメン。

(1999年1月31日)