たより巻頭言「永遠を思う心」 大柴 譲治

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレト3:11)

 早いもので今年ももう師走。光陰矢の如し、である。年齢と共に時の流れが加速度を増してきたようにも感じられる。人生の午後の時間は魂を豊かにするためにあると言ったのはユングだった。魂を豊かにするために時を用いたいと思う。

 大先輩の牧師・山内六郎先生が『永遠のふるさと』という小さな本の中でこう語るのを読んで深く心に響いた。要約する。

 胎児が母胎で過ごす期間はわずか10ヶ月余。その短い期間のためにはただへその緒さえあれば事足りる。しかしその後は何十年かの比較的長い地上生活が待っている。そのためには目とか耳とか手とか足とかいう五官の働きが必要となる。10ヶ月の胎内生活のためには必要なくとも次のもっと長期に渡る地上の生活のためにはこうした器官が準備されてゆかねばならない。それと同様、この地上に何十年か生きるだけのためには直接なくてもよいものが人間には用意されている。なぜ人は70年か80年しか地上に生きながらえないのに永遠を思う心を与えられているのか。不滅の真善美を慕い求めるのか。聖なるものを追求して限られた存在のかなたに不朽の命を模索するのか。宗教とか信仰とか食べるためには直接なくてもよいものをなぜ求めてやまないのか。水が欲しいと思うのはそこに水があるからである。人間の心にこうした要求のあることは、そこに永遠の次なる世界があることを示唆するのではないか。もし宗教とか信仰とかは全く無用のものだと言う人があるならば、それは胎内の生活にはへその緒だけあればそれで事足りるというに等しいのではないか。限られた地上の生命の制約を受けながら、人はとにもかくにも永遠の生命を思慕してやまない。

 最近、お二人の教会員が天に召された。今年は七名の教会員が天に移られたことになる。人はこの地上の生涯で一体何人の人と出会うのであろうか。「人の一生は出会いと別れにある。無感動な出会いもあれば、感動し、共鳴する出会いもある。どちらの場合でも出会いは人間性を築く上での大きな要因となる」。これは河野通祐兄の言葉である。私たちは永遠のふるさとを目指しつつ、かけがえのない今を悔いのないように大切にして生きたい。一期一会の人生である。クリスマスを待ち望みつつ、人間存在と出会いの不思議さに思いを馳せる。