たより巻頭言「太初の声」 大柴 譲治

「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」(ヨハネ1:1、文語訳聖書)

おもしろい本と出会った。題して『声の力~歌・語り・子ども』(岩波書店、2002)。臨床心理家の河合隼雄、詩人の谷川俊太郎、童話作家の阪田寛夫、声楽家の池田直樹らが小樽市で語った声が記されている。その「声そのものに力がある」という指摘にはハッとさせられ、また深く頷かされもした。

私たちはともすれば書かれた文字に対して信を置きやすい。しかし、文字が発明される遙か前から声は存在した。太初に言ありきという時、言は声だったのだ。胎内の赤ちゃんも四ヶ月ほどで耳は聞え始めるという。「胎教」もそれを前提とする。いかにも胎児にとっては母親の穏やかで優しい言葉かけや規則正しい心臓の鼓動、モーツァルトなどの音楽は天国的に響くであろう。幼児は母親の童謡を聞きながら安心してスヤスヤと寝入るし、飽きもせず何度も何度も同じ絵本を読んで欲しいと母親にせがみ、目を輝かせながらそれに聴き入る。また、臨終の床でも聴覚は最後まで残ると言われている。最後の最後まで家族の言葉かけが大切になるゆえんである。そこには確かに「声の力」と呼ぶべきものが働いている。

他方、「声の力」に言及するならば「声の力のなさ」にも言及したくなる。現代社会は空しい饒舌に充ちていて声が力を失った時代でもある。テレビ然り、ラジオ然り、インターネット然り、日常生活然り。私たちは空しい言葉の多さに辟易する。現代は誰も声に信を置かなくなった時代であろう。それにも関わらず私たちの魂は真実の言、真実の声を求めている。それはどこにあるのか。天空に耳を澄ませてみる。ピタゴラスは天空はハーモニーに充ちていると言った。それが私に聞こえるか。

けだし私たちは太初から真実の声を求めて生きるよう創造されたのだ。自分に向けて発せられた声を全身全霊をもって受け止め、それに応答してゆく。赤ちゃんの姿はそれを示している。人間は最初から「我」と「汝」という呼びかけの中に呼応し合う対話的存在として造られている。創世記によると、創造の主は「光あれ」という声によって天地創造を始めた。太初に声ありき。「汝よ、我が愛を受け止めよ」という声が向こう側から響いてくる。永遠の汝たる神は、太初から常に変わらずこの今も、時空を超えたところから私たちの魂に向かって呼びかけている。その声に耳を傾けたい。