神はどこにいますか? 賀来 周一

熊本でこのような大地震が起こるとは、「まさか」と誰しもが思ったにちがいない。己の責任によらない不慮の出来事は人生につきものとはいえ、天災や不慮の事故、突然の病気は、常に「まさか」のこととして起こる。こういう「まさか」が起こると、しばしば「神はいるのか」、「こんな不幸をもたらす神は信じない」、「祟りだ」、「神の怒りだ」、「運命だ」などという言葉が巷間を駆け巡る。
 東日本大震災の直後、福島県のある教会から応援の依頼があった。教会には保育園が併設されていた。園児の家はほとんど被災している。漸く残った少人数の園児のために保育がなされているが、保育者も被災していて皆どうしてよいか分からない。応援に来て貰えないかとの依頼であった。阪神淡路大震災の時は、まだ体力があって、西宮の教会に泊まり込み、24時間対応の電話相談所を開設したこともあったが、今の体力では難しいと判断し「何としてでも行きたいけれども、年も年だし、瓦礫の片付けなどもできない。かえって足手まといになって迷惑を掛けるから」と返事をしたが「先生、いるだけでいいから」ということであった。その声の調子からして深刻な事態がありありと分かる依頼であった。急遽、他の先生に事情を話し、その先生に行って貰えることになり、ひとまず安堵の胸を降ろしたのだった。事態が危機を孕む時には「共にいるだけ」がもっとも重要な援助となることを知らされた経験であった。

 ドイツのルーテル教会の牧師であったフリドリヒ・ブルームハルトは、「神は上から眺めておいでになるだけの方ではない。神は地上の神であって、人間がもっとも困難とする場をご自身の働き場とされる。だから地上のことがイヤになったからといって,そこから目をそらしてはならない。世の中がイヤになればなるほど、そこに神の働き場を見る」と言う。ノーベル平和賞を受けたエリ・ヴィーゼルというユダヤ系アメリカ人作家がいる。彼の母と妹はガス室送りとなって殺された経験を持つ人である。彼の作品にユダヤ人強制収容所での出来事を記した『夜』がある。二人の大人と一人の子どもが絞首刑に処せられる。二人の大人はロープに吊されると程なく息絶えた。しかし、子どもは軽いので30分もロープが首に巻き付いたまま苦しんだのだった。その情景を描写しながら、彼はこう言う。「わたしの背後で『一体、神はどこにおられるのだ』と尋ねる声が聞こえた。・・・・・わたしは、わたしのこころの中に、ある声を聞いた。『ここに、この絞首台に吊るされておられる』」

 聖書の神は、<共に苦しむ神>であると言われる。ヴィーゼルはユダヤ教徒だから、当然この声の後ろにイザヤ書53章の苦難の僕の姿が思い浮かべたにちがいない。苦難の僕が新約に引き継がれると、それは十字架のキリストとして一層鮮やかに描き出される。十字架の上でキリストは、こう言われた。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。ここに、苦しみをご自身に引き受けて、共に苦しんでくださる神が「おられる」ことを知る出来事を見るのではないだろうか。

むさしの便り 5月号より