たより巻頭言「沈黙に耳を澄ませて」 大柴 譲治

「沈黙は言葉がなくても存在し得る。けれど、沈黙なくして言葉は存在し得ない。もし言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深みを失ってしまうであろう。」(マックス・ピカート)

「忙しい」とは「心を亡ぼす」と書く。多忙さの中で自分を見失ってしまうと心は不在になる。逆に言えば、どんなに多忙でも自分を見失わなければ「忙しさ」とは無縁であるということになるか。飄々と生きている人を見ると、確かに「物理的な忙しさ」と「精神的なそれ」とは別次元の事柄であると感じる。

車のハンドルにも「遊び」がある。遊びの部分がなければ直接路面のデコボコが伝わってきて運転は不安定になってしまうであろう。「遊び」とは「機械などで、急激な力の及ぶのを防ぐため、部品の結合にゆとりをもたすこと」。現代は情報過多、スピードの時代である。そのような中でどのように正しく自分の心を運転してゆくか、これが課題である。言い換えると、日々の生活の中でどのように「心のゆとり/余裕/遊び」を保つかということになろうか。「礼拝に集う」ということは、時間的にも空間的にも生活の中に「遊び」を持つということでもある。それはホッと息をつける「安息」の場である。その意味で、むさしの教会の礼拝堂はなかなか味わい深いと思う。

学生時代、後輩に名前をもじられて「常時大暇」と言われたことがあった。なかなか気に入っている。自分で自分を笑うことができるのも心に余裕あればこそ。笑いは心のバロメーターであり、笑えなくなったら辛い。私たちが自然な笑顔に出会うとホッとするのは、そこに遊び心を感じて共感するからであろう。和顔施には確かに慰めの力がある。

揺れ動く自分を落ち着かせるための言葉や声をどれだけ持っているか。必ずしも自分の中にでなくともよい。自己の内と外に耳を傾け、向こう側から響いてくるものに耳を澄ませる。それは沈黙とのダイアローグ。そう考えると学生時代に読んだマックス・ピカートの冒頭の言葉が重みを持ってくる(『沈黙の世界』)。

4/2-4と八ヶ岳山麓にある三位一体ベネディクト修道院に滞在した。千五百年の伝統を持つ修道会である。日に六度の詩編を中心とした祈りの時に参加した。初日はチャペルに響く時計の秒針の音が妙に気になった。二日目には、すべてがそれに沿って進行していることに気づくと、その音は聞こえなくなった。クロノス(時間)の流れの中にカイロス(神の時/永遠の今)を感じた不思議な体験であった。乱れた心を静ませる沈黙の声。それは詩編を通して響いてきた永遠の汝からの声のようでもあった。修道士たちのホスピタリティーの中に洗足のキリストを感じ、大切なものに思いを馳せることのできた三日間に感謝したい。

「古代では、一つ一つの言葉の間に沈黙が横たわっていた。言葉は沈黙を呼吸し、沈黙を語っていた。一つ一つの言葉は、打ち込まれた杭のようであった」(ピカート)

(2008年5月号)