あいまいさの中に       賀来 周一

―あいまいな世界
 どのような素晴らしい発明や発見にも、偶然の思いつきや予想もしなかったことが絡んでいるように、世の中には、どうしてそうなったか分らない、けれども、とにもかくにもそうなってしまったということがあるものです。不確実さ、あるいは偶然といったことの隣り合わせにあるようなあいまいさは人の世には付きものです。
 しかしながら、案外そこに人が生きる真実が見えるから不思議と言わざるをえません。

―あいまいさを受容する
 心理学者ゴードン・オルポートは、人間の問題を扱う時には、あいまいさを受容することが大切だと言います。
 重篤の病人がいました。彼は、ある非常に高名な医師を信頼していて、その医師から診て貰えば病気は治ると信じていました、幸運にも、その医師の診察を受ける機会がやってきました。医師は病人を診察し、「モリブンドゥスmoribundus」と言ったのです。ところがそれを聞いた病人は急に元気を取り戻し、めきめき回復に向かったというのです。「モリブンドゥス」とは、ラテン語で死にかけているという意味でありました。
 また、幼児期時から指しゃぶりの絶えない男の子がいました。母親は心配のあまり精神科医師や心理カウンセラーを訪ね回りましたが一向によくなりません。この子が10才になった時のこと、突然指しゃぶりを止めたのです。母親は、びっくりして「どうしてお前は指しゃぶりをやめたの」と聞きました。彼は言いました。「10才の子どもは指しゃぶりなんかしないもんだ。」オルポートは、これらの現象をいろいろ詮索して、心理分析をし、納得できる答えを探そうとしても意味はない。こういうときは、起こったことは事実なのだから、それをそのまま受け入れなければならない。もし完全に証明できる答えを探してやっきになるなら、神経症になると言います。
 オルポートは、そのような現象は、人間の問題を扱うときには避けられないのであって、人間の世界の中に起こることにはあいまいさや不確実、偶然は付いて廻る。成熟した人間は、あいまいさと不確実さを受容することができると言います。

―あいまいさを見過ごさない
 現代人は、19世紀から20世紀にかけて急速に発展してきた、いわゆる科学の知に支配されてきました。端的に言えば、考えて分かる、目で見て実証できることがほんとうのことであって、考えて分からないもの、目で見て実証できないことはほんとうのことではない、という考え方に支配されてきました。
 しかし、人間は、考えて分かる、目で見て実証できることだけで、物事を処理し、結論づけて生きているわけではありません。なぜか、どうしてか分からないが、とにかくそうなってしまった。でもそのおかげで無事に生きている。偶然の出会いとしか思えないが、幸せがそこから生まれた。まったく予期しなかったのに思いがけなく助かった、などといった経験をお持ちの方は少なくないのではないでしょうか。
 信仰者としては、そのようなあいまいさを見過ごしにしたくありません。世の中には神だけがご存じで、神にしかお分かりにならないことがあるものです。信仰に生きるとは、あいまいであればこそ、神しかご存じでない<ほんとうのもの>を私たちのものとすることが許される世界に生きるということでしょう。

 
むさしの教会だより 2013年9月号