「読書会ノート」 マルティン・ルター 『キリスト者の自由』

マルティン・ルター 『キリスト者の自由』

鈴木元子

 

「私達が義とされるのは、私達の善行によるのではなく、百パーセント神の憐みと恩恵によるのである。」

このお説教は誰の耳にも焼きついていることであろう。ならば私達はどうすればよいのか。遅きにすぎたけれど今ルターの『キリスト者の自由』をひもといて私達の進むべき道を探りもとめた。

「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出るすべての言で生きる。」(マタイ4:4)

他の何物にも代え難い神の言とは福音書の内に含まれるキリストの説教で、即ち、あなたのあらゆる生活も行為も神の前には無に等しく、むしろあなたの内にある全てのものと同様、永久に失われてしまうものだと告げたもう神の言を、身にしみて悟るのが先ず第一歩である。その絶望の淵に立つあなたに滅びから逃れ出ることができるようにと、神は御一人子イエスをあなたの前に立てこう告げたもう。(あなたは確固たる信仰をもってキリストに己を委ね、敢然と信頼せよ。その信仰によってあなたの罪は赦され、滅びから逃れ、義とされて、すべての誡めは充たされ、凡てのことから解き放たれるものとなる)と。

「この故にみ言とキリストをよく自己の内に形成し、この信仰を不断に鍛錬し強めてゆくことが、キリスト者の勤めるべき唯一の修行である。」

「神の言はただ一面だけではなく、罪人の誡めと恩恵の呼びかけを共に学ばねばならない。痛悔は誡めから生じ、これに応じて人間が心砕かれて謙虚になり、神の言の信仰を通して義とされ、また高くされるのである。」

「ここでパウロは、あらゆる行いが隣人に益することを目指すべき所以を説いて、(あなたがたはキリストと同じ思いを抱きなさい。イエス御自らは何の苦難も必要とされなかったにもかかわらず僕の姿をとり、あらゆる事を行い、私達の最善を思う外には何も顧みられなかった。この様な御父に対して私達もまた、私の隣人のために一人のキリストになろう。そこに自由な自発的な喜びに満ちた生活が発足するのである)と解き明かしている。」

それに続いて宣教に赴く異教の国々に対する深い配慮もまた示されている。

「・キリスト者自らの福音にとって無用であっても、他者の意思に従い、その益の為に行う奉仕はなすべきこと。
・この世の権力に服するのも、他者への自由な愛と配慮である。
・たとえ暴君が不当な要求をしたとしても、それが神に逆らうことでない限り何の損失になることでもない。」

これらはどの異教の国に於いても生かされるべき示唆であろう。他者への行き届いた思いやりと礼儀とは、その信仰の面にも向けられるべきであろうし、伝道は折伏すべきものでなく、教派の勢力を拡げる意図でもない。私達の享ける恩恵を一人でも多くに頒ちたい願いに基づくものである。平信徒に一番ふさわしい役割は、その自然体がみ言にかなって、接する人が知らぬ間に引き付けられていくことではないだろうか。

「あなたの天の父が完全であられるようにあなたも完全なものになりなさい。」(マタイ5・48)

人間の可能性をそこまで大きく許されているのかと圧倒される。肉体の殻を背負う間の到達は遠く及ばないとしても、永遠の生命に生きる信仰にある限り、私達の精進の行路が果てる日は無いであろう。

(2002年11月号)