「桜の樹」 鈴木元子

長い時代を経て受け継がれた家族制度が失われ、老後の身の置き場を考える時、一体何を求め、どこを目指して進めばよいのか戸惑います。中には目の前の楽しみを次々と追い求めて自分を満たしている人もいます。けれど、自分の行動が止まれば忽ち終わることではないでしょうか。

たとえ年老いても心身共に何事であれ、他人の為に役立つ存在である間は幸せです。それは形に見えるものばかりでなく、心の働きにも、他から反射して又自分に返ってくるものが、自分が自分を満足させることより結局本当の喜びではないかと思われるのです。

さて、心身共に健やかで他人の為に尽せる間は、生きる限り幸せは生まれるでしょう。けれど一たび身は老い心の働きも失われてしまった時、生きるのにどんな意味があるのでしょうか。ある時テレビで寝たきりの老婆を、勤めを退いて世話をする夫の姿が紹介されました。お婆さんはもう何も判りません。けれど夫は食べさせ、着替えさせ、抱き起こし、寝かせて涙ぐましいまでに労ります。「毎日さぞ大変でしょう」と他の人に言われてその夫は「いや、わたしには過ぎたばあさんですよ」と心から答えました。今は何一つとして自分の為に尽すことのない妻、けれどその妻は自分の愛を注ぐ唯一の対象として、夫にとってかけがいのない存在なのです。人は誰かの愛を受ける身である限り、たとえ自分に意識は無くとも、人を温めているのです。それは愛されることよりも更に、愛することが自分自身を温めることだからです。

ある女性が一本の桜の絵を描きました。春、花が咲き、夏、青々と葉が繁り、その葉は秋、紅に彩られ、やがて冬、木枯らしに散り、梢が裸になって空にかすんでしまいました。見る人が「桜の一生ですね」と言うと、「いいえ、死んだのではありません。ただ冬眠しているのです。幹は生きて、又新しい芽を吹くいとなみを絶え間なくしているのです。」画家はこう答えました。

私はこれを聞いた時、少し前に作った私の歌を思い浮かべました。

ゆるぎなき幹に托して散る命
桜は老いて 朽つる間のなく

老いの身に吹く芽なけれどひこばえの
生い栄えこそ 継ぐわが命

 

(むさしのだより 2003年 4月号より)