「<なまけクリスチャンの悟り方>No.11. 現世と終末」 NOBU市吉

なまけクリスチャンの悟り方 ~ No. 11 現世と終末NOBU市吉

いずれの宗教・宗派も、何らかの現世観(この世をどう見るか)と終末観(または来世観。来るべき世をどう描くか)を持っている。非常に単純化するなら、宗教の価値観は、

     価値観 = 現世価値観 + 終末価値観

と2つの項の和として表わすことができる。

より詳しく見れば、現世価値は、「現世価値=現在価値+未来価値」と分解される。現在価値は「今の富・楽」であり、未来価値は「将来の富・楽」である。(アリとキリギリスの喩えで、アリが未来価値を見つめながら日々働いたのに対し、キリギリスは現在価値しか見なかった。ただし、未来価値を偏重すると、貯めるばかりで、今を生きない人生になってしまう恐れもある。)現世における「未来」が現在と連続した未来であるのに対し、「終末」は現在と断絶した未来である。

徳善義和牧師によると、キリスト教の終末論は、「黙示論的終末論」、「現在的終末論」、「現在的未来的終末論」の3つの類型に分類される(「終末からの展望」ルーテル学院、2000年)。黙示論的終末論は、終末に起こることを表象(象徴)をもって語り、現在的終末論は「終末は今既に到来している」と言う(救いは既に成就している)。現在的未来的終末論は、終末は「既に来ている」が、「未だ来ていない」と言う(キリストの故に既に義とされているが、終わりの日に本当に完成される)。ルターの終末論は、現在的未来的終末論と言えるとのことである。

(政治に喩えれば、黙示論的終末論(現世と断絶した理想を直接的に実現しようとする場合)は「革命派」であり、現在的終末論は「保守派」、現在的未来的終末論は「改良派」と言えよう。)

非宗教では来世は想定されないので、終末価値をゼロと見る。逆に、オウム真理教などのカルト宗教は現世価値を否定する。彼らは、現世価値観で生きていると恐ろしい終末が待っている、終末価値観に生きよと主張する。この世にあって現世価値を否定して生きようとすると出家が必要となる。ちなみに、現世の享楽的な面を否定する宗教が、来世を禁欲的でなく享楽的に描くことは興味深い。時として、カルトの出家集団は、世俗社会の持つ節度(未来価値尊重)を失い、享楽的な終末を先取りし、結果として、現在価値偏重と外形上似てしまうことがある。

私たちは世紀末を越えたが、これからの数十年、地球環境や世界的政治社会の変動が、終末的な様相を呈してくる可能性が十分にある。そして、カルト的宗教が「この世は悪である。世の終わりが迫っている。我らを信じ世を捨てよ」と再び誘惑するかも知れない。その時、「たとえ明日が世の終わりと知っていても、私は今日りんごの木を植える」という有名な言葉は、「明日が終末であっても、私は現在的未来的終末論に生きる」という具体的な意味を持ち、偽預言者から私たちたちを守る信仰の砦となろう。そこには、「終末は神の領域であり、誰も確定的なことを言えない」という前提があり、「この世に居る限り、私は世に仕えて生きる」という決意とがある。

なぜ世に仕えるのか? それは、世界は完全でないとしても、神が創造され、初めにおいて「とても良い」と言われたものだからである。そして、私たちは、どこかの精神世界からこの世に降りてきた存在ではなく、この世の塵から生まれ、世を愛する神の息を吹き込まれた被造物だからである。私たちはこの世の悪を「彼らの悪」として裁き捨てることはできず、「我らのもの」として内側から語らねばならない。不完全な部分は神が私たちを用いてより完全にして行くのである。

私たちは、現世価値のみでなく、終末価値のみでもなく、両方の項のバランスの中に生きることを運命づけられている。それは不徹底というより、この世に生きることの本質なのである。

(むさしのだより2005年 5月号より)