「ウィーンの思い出(3)ウィーンに到着して」 野口玲子

60歳を過ぎた未亡人のお宅の一部屋を借りての下宿住まいとなりました。ウィーン旧市街を取り囲むように巡らすリング通り〈環状通り〉から直角に西駅に向かうマリアヒルファー通りを程なく左に入った坂道の上に位置するテオバルト小路13番地、部屋番号13。築50年以上のマンションの3階〈日本での5階になります=欧米では1階は地上階、そして地上階の上に中2階があるので3階がやっと1階です)で、私にと与えられた部屋は約20・。小さなバルコニー付きで、石炭を焚いて温める化粧タイル張りの暖炉が備えられ、ベッド、4脚の応接セット、姿見のついた鏡台、ロッカー箪笥、石炭を備えておく木製の大きな箱。そこへアップライトピアノを借りて置きました。音楽の都ウィーンでこんなおんぼろピアノに出会うとは、とちょっとびっくり。窓やバルコニーの出入口は、15・位の幅の二重扉になっていて、冬の厳しい寒さへの覚悟を余儀なくされましたが、防音という点では完璧です。この家も第二次世界大戦の被害を受けたそうです。家賃は月額800シリング〈約1万1千円=これらの条件を満たす当時の東京での下宿代よりはずっと安い〉。水道光熱費代は半分私持ち。玄関から直ぐの部屋で、玄関脇にある来客用のトイレは私専用。しかし洗面所、お風呂、お台所はすべて共用なので、小母さんの迷惑や邪魔にならないように、様子を見ながら使わせていただくことになります。

因みにこの部屋には、私が入る数年前に、指揮者の岩城宏之氏が短期間住まわれ、半年ほど前には、エチオピア国王ハイレシェラセの姪御さんが留学生として生活しておられたそうです。小母さんはこのお二人について殆ど語られませんでしたが、小さな写真が机の抽斗から出てきたことを覚えています。

この小母さんは昔オペレッタを歌ったこともあったそうで、戦後直ぐに病死されたご主人は法律家。弟さんはウィーン・フィルのヴィオラ奏者。しかしたった一人の身内のこの弟さんとは絶交状態とか。冗談を言っては大笑いする、少し太めで大柄な陽気な小母さんです。恵まれた少女時代から一変、二つの世界大戦を経て、独り暮らしの現在までには苦労もあったことでしょうが、前向きに明るく逞しく生き抜く力強さが感じられました。言葉の不自由な障害者の指導に携わったこともあったそうで、聞き易い(発声の良い)声で鮮明な発音で話す、おしゃべりさんです。

しかし誰もがこのような美しい話し方をするわけではありません。あるとき、旧制高校からドイツ語を第一外国語として学んだ父へ、小母さんと私が楽しくおしゃべりしている様子をカセット・テープに録音して送ったことがありました。その後すっかり忘れていましたが、父が亡くなった後、弟たちと片付けていた父の書斎の本棚の上に積まれたクッキー缶の中から、ウィーンから送った私の手紙の束と共にこのテープが出てきたのです。父の思いに涙しながら聞いたこのテープから流れる(私のドイツ語には赤面ですが)小母さんの声の美しさ、訛りのない明瞭な発音、品位あるドイツ語には改めて驚きました。詩と音楽の融合であるドイツ・リートを専門に学ぶ私の留学の第一目的は、「生きた言葉で歌えるようになりたい!」でしたから、理想的な環境で毎日おしゃべりしながら学べたことは、何という幸運なめぐり合わせでしょう。このように神さまに導かれて、ウィーンでの下宿生活が始まって行きました。

(むさしのだより2006年 5月号より)