【説教・音声版】2022年12月18日(日)10:30  待降節第4主日礼拝 説 教 「その名はインマヌエル 」 浅野 直樹 牧師 


聖書箇所:マタイによる福音書1章18~25節

本日は待降節第四主日ですが、今年はこのように待降節をちゃんと4回持てましたことに、私自身はなんだか少しスッキリしたような心持ちになっております。ご承知のように、私たち日本の教会においては、もちろんさまざまな事情があるのでしょうが、大概が待降節第四主日をクリスマス礼拝として祝っており、なんだかモヤモヤとした(例えば、今日は紫? それとも白?)感があったからです。

そんな第四主日に与えられました日課は、マタイ1章18節以下でした。もちろん、私たちも良く知っているクリスマスの物語ですが、ある方が指摘されていますように、ちょっと地味な物語と言えるのかもしれません。クリスマスといえば、たいていがルカ福音書が選ばれる。受胎告知から、家畜小屋での誕生、無数の天使たちによる大ハレルヤ、そして羊飼いたちの訪問と、クリスマスの物語が目白押しだからです。事実調べてみますと、私がこのむさしの教会に赴任してから2回だけしか、̶̶2016年12月11日と、2019年12月15日̶̶この箇所が取り上げられていませんでした。

そう、確かに、地味かもしれない。しかし、忘れてならないのは、「インマヌエル」(神われらと共にいましたもう)という聖書を貫くメッセージが登場してくるのが、この箇所、もう一つのクリスマスの物語だ、ということです。今年も色々とありました。例年以上に、と言っても良いのかもしれません。もちろん、2月にはじまったロシア軍によるウクライナ侵攻です。多くの人命を奪い、人生を奪い、生活を奪い、破壊を尽くしながらも、いまだに出口が見えないでいます。7月に起こった安倍元首相襲撃事件にも驚かされました。まさか、この日本で、と思わせられたものです。その事件をきっかけに明るみに出てきた旧統一教会問題も、おさまる気配がありません。そして、記憶に新しいのが、保育園での園児虐待のニュースです。1歳児に、です。そのあまりの内容に、言葉が出ませんでした。

その他にも、国土の3分の1が水没したと言われるパキスタンの水害をはじめとした、世界各地で起こった異常気象。旱魃と貧困で食糧難に喘ぐ人たち。皆さんも、幾度も心を痛めてこられたのではないでしょうか。そんな中で私自身が強く感じさせられたのが、人の罪です。罪の世界の現実です。そして、私自身もまた、そんな罪人の一人でしかない、ということでした。

ウクライナでの戦争は、プーチン大統領一人がはじめた戦争だ、と言われました。その歴史観、世界観が大きな要因になっている、と。しかし、いくらそういった解説を聞いても、ちっとも理解できませんでした。たとえそうだとしても、多くの人の命を奪う戦争の正当な理由になるのか。たかがそんなことで、本当に戦争という決断ができるのだろうか、と。いまだに、私自身はプーチン大統領を強く非難しています。失脚さえも強く願っている。祈ってさえ、いる。しかし、果たして私自身はどうなのか、とも問われるのです。今はもちろん、「違う」「間違っている」と言える。確信を持つことができる。しかし、それは、幸にして、彼とは全く違った価値観・倫理観の中で生まれ育って来れたからです。

もし、私自身、あのプーチンと同じ環境・境遇の中に生きてきたとしたら…。自分は果たして今のような判断ができただろうか。少なくとも、あのプーチンの戦争の支持者にも一切なっていなかったと本当に言えるのだろうか。
元首相を襲った犯人についてもそうです。彼は決してしてはならないことをしてしまった。しっかりと法律に則って、刑に服してもらいたい。単なる同情は禁物だとも思います。一方で、私自身、彼と何が違うのか。ただ正義漢ぶって彼を糾弾できるのだろうか。もし、同じ境遇に立たされたなら…。

親御さんたちの怒りももっともです。大切な我が子を預けた先で、あのような虐待が行われているなんて。罰せられて当然。決して彼女たちを庇うつもりもない。しかし、彼女たちの気持ちが分からなくもないのです。事実、私自身、ちっとも泣き止まなかった我が子を腹立たしさに任せて怒鳴り散らしてしまったこともあったからです。そんなふうに思い通りにならない我が子にイラついたのは、一度や二度ではなかった。たまたまなんとかブレーキが働いて虐待にならなかっただけ。虐待の心は、私の中にもあった。

被災して、貧困で、弾圧で、困っている・苦しんでいる人々を見て、心を痛めます。しかし、私は変わらずご飯を食べて、便利な電化製品に囲まれて、快適な生活を送っている。おかしいじゃないか。そう心の中でうめくのです。
何が言いたいのか。人の罪です。罪の世界の現実です。残念ながら人は罪を犯す。大きな罪を犯してしまうことだって、ある。その人たちと私たちとでは本当に違うのか、ということです。そういう人たちが異常なだけで、悪魔的な人たちであって、私たちとは無縁・無関係だと本当に言えるのだろうか、ということです。もちろん、私たちにも罪の自覚はある。全く罪のない善人だと誇れる人はいないでしょう。

しかし、罪というものが、それほど深刻なものなのだ、という自覚があるだろうか、ということです。私が言いたいことは、誰も彼もが罪を犯すのだから、自分たちだっていつそうなるか分からないのだから、罪を犯す人に対してもっとおおらかに寛容であっても良いのではないか、ということではないのです。そうではない。罪は罪。裁かれなければならない。してしまったことの報いは償われなければならないのです。罪は、やはり重いのです。私たちにとっての、この世界にとっての、最大の課題である。

先ほども言いましたように、「インマヌエル」(神われらと共にいましたもう)はクリスマスのみならず、聖書全体を貫く大切なメッセージです。そのために、この「インマヌエル」を実現するために、イエスさまは来られました。貧しい家畜小屋の中に、人の赤子の姿となって。そのイエスさまがどんな存在か、ということが、今日の日課の天使のお告げとしてこのように記されていたわけです。

「主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」。イエスさまは、ご「自分の民を罪から救」われるのです。そのために、処女マリアは聖霊によってイエスさまを身籠ったのです。ダビデの系譜に連なるヨセフの妻として。だからこそ、神さまはこの出来事に介入された。婚約者であるマリアの身籠りを知って、苦闘し、ついには内密に別れることを決心したヨセフに、働きかけられた。恐れないで、妻マリアを迎えなさい、と。

受胎告知 (1430〜1432):フラ・アンジェリコ(1395–1455) プラド美術館


どうしてか。どうしても、この世界にイエスさまが生まれなければならなかったからです。イエスさまがお生まれになって、この世界を、ご自分の民たちを、罪から救わなければならなかったからです。それこそが、神さまが望まれたことだったからです。だから、イエスさまは生まれた。まさに奇跡的にお生まれになった。そして、このイエスさまによって「インマヌエル」(神は我々と共におられる)が実現した。それが、私たちが祝う、また待ち望んでいるクリスマスです。

では、どのようにしてイエスさまは私たちを、この世界を罪から救ってくださるのでしょうか。まずは、「赦し」です。罪を赦すことによって、です。先ほども言いましたように、私たちの誰もが罪の根を持っているのです。ある人たちは、たまたまそれが表面化し、事件化しているに過ぎない。それらの人たちと私たちとは、決して無縁ではいられないのです。私たちも、状況が状況ならば、環境が環境ならば、躊躇せず同じことをしてしまっていたかもしれない。私たちの中にも、しっかりと罪人(ざいにん)と裁いている者たちの根があるのです。だから、赦されるしかない。この罪を、罪の根を、まだ実際には犯していないとしても、その根源を赦していただくしかない。

だから、イエスさまは来てくださった。私たちの世界に、神の子でありながら、私たちと同じ無力な一人の赤子として来てくださった。そして、私たちのこの世界を生き、この世界の罪の悩みを知り、憐れみ、罪の贖いとしての十字架への道をひたすら歩いてくださった。だから、私たちはクリスマスを祝うだけではありません。イエスさまの受難も、復活も、心から感謝して受け止めるのです。

しかし、それだけでしょうか。もし罪を赦すことだけが目的であるならば、「ご自分の民の罪を赦すため」と言えば良かった。しかし、そうではないのです。ご「自分の民を罪から救う」ためなのです。なぜ私たちは、同じ罪の根を持ちながら、罪を犯さずに踏みとどまることができたのか。「インマヌエル」、神さまが、イエスさまが共にいてくださったからです。子どもが泣き騒ぎ、イライラを募らせながらも、なぜ踏みとどまることができたのか。「そうしてはいけない」と神さまが語りかけてくださったからです。

夫婦であっても、所詮赤の他人です。もう一緒には暮らしていけない、といった思いだって起こることがある。では、なぜ乗り越えてくることができたのか。自分の心の欲するままにしなかったのか。相手を傷つけることを神さまは望んでおられない、と気付かされたからです。他人に対して、兄弟姉妹に対して腹を立てることがあったとしても、なぜ忍耐することができたのか。神さまが愛し合うことを、赦し合うことを願っておられるのだから、と祈ることができたからです。

なぜ自分の生活を多少でも切り詰めて、困っている人々を援助したいと思えたのか。神さまがその思いを与えてくださったからです。忍耐し、赦そうとし、和解を願い、自分の気持ちを打ち捨て、出来ることだけでもしていこうと曲がりなりにでもやってこれたのはなぜか。イエスさまを、イエスさまを私たちのためにお送りくださった父なる神さまを知ることができたからです。この出会いがなければ、私の、私たちの人生はどうなっていたことか…。

もちろん、不十分です。反省の多い毎日です。成長しないな、と思わせられるような日々です。それでも、イエスさまをお送りくださった、イエスさまがお生まれくださったからこそ、私たちは赦しだけでもなく、罪からの救いを感じながら、受け止めながら、歩めていけるようになれたのではないでしょうか。

人の罪という大きな現実がある。罪の世界という逃れようのない課題もある。だからこそ、私たちにはクリスマスが必要です。私たちを罪からお救いくださる救い主の誕生が、どうしても必要なのです。その新たな世界を切り開いてくださったクリスマス。心から「おめでとう」と祝っていきたいと思います。