【 説教・音声版 】2022年2月27日(日)10:30  主の変容主日礼拝  説教 「 栄光の主は何を語り合った? 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書9章28~36節



皆さんもここ数日、落ち着かない日々を過ごされたのではないでしょうか。もちろん、ロシア軍によるウクライナ侵攻です。
ここ杉並の上空は航空機の航路になっているのか、時々飛行機のエンジン音が聞こえてきます。金曜日もそうでした。何機も通っていく音が聞こえた。その度に、警報が鳴るような錯覚を覚えました。ニュース等でウクライナの現状を見聞きしたからでしょう。警報だけじゃない。爆発音が現実に響いてくる。報道では映し出されていなくても、確実に何人もの人々が、ミサイル攻撃によって、銃撃によって、命を落としていることでしょう。画面に写し出されたシェルターに避難していた一人の少女の姿に胸が痛みました。彼女は涙を流しながらこう語った。「死にたくない」と。「早く全部終わってほしい」と。十歳にもならないであろう幼い子どもが、そう語った…。

先週の説教の中で、私なりにロシア側の言い分が多少なりとも理解できた、といった話をしました。私を含めて多くの日本人が意識していない、知識としても乏しいロシアの歴史を踏まえた解説を聞いたからです。あのナポレオンによるロシア遠征からナチス・ドイツによるソ連侵攻まで、たびたび侵略されたという歴史認識が国民感情としてあるといいます。特に、いわゆる第二次世界大戦(ロシアではドイツから祖国を守った戦いという認識から「大祖国戦争」と言われているそうです)の対ドイツ戦が凄惨を極めたといいま す。関連して亡くなった方が2700万人もいた、という。第二次世界大戦、太平洋戦争による日本の死者数は、民間もあわせて、広島、長崎の原爆被害者も含めて、およそ300万人だと言われます。それからすると、どれほどの痛手を負ったか、想像すらできません。およそ私たち日本人の知らないところです。

そういったことから、大国ロシアは実は侵略を恐れている国なのだ、と解説されていました。だからこそ、ロシア側からの言い分としては、ウクライナのNATO加盟は絶対に阻止すべきこと。その理屈も分からない訳ではない。しかし、正直、このような大々的な軍事侵攻になるとは、思ってもいませんでした。今は2020年代です。かつてとは違い国際的なリスクはあまりに高い。

損得勘定だけを考えても、交渉の材料、あるいは一部地域はあったとしても、ここまでとは思いもしなかった。多くの専門家たちも、そう語っています。ある専門家は、このような事態に 陥ったことについて、このようなことを言っておられました。今までのプーチン大統領とは明らかに違う、と。普段は合理的な思考をする人物のようですが、今回は明らかに感情的になっていると言います。あるいは、他の方は、かつてのソビエト連邦の、いいえ、帝政ロシアの栄光を取り戻そうとしているのではないか、いった解説すらしておられまし た。確かに、会見等で写し出される大統領府は、まるで宮殿のようです。ロシアの栄光、そこに君臨する自身の栄光を求めていると言われても、あながち否定できないような気も致します。

あるいは先日、ある新聞記事を読みました。ジェンダー・ギャップの少ない国のことです。通説では、ジェンダー・ギャップ(性別による格差)が少ない社会ほど、出生率が高くなると言われているようです。子育てによる女性の過度の負担が減るからでしょう。しかし、ある国では、ジェンダー・ギャップが少なくなっているにも関わらず、出生率が減ってきていると言います。それは、女性たちが子どもを生まない、といった選択をするからです。そんな選択をしたある女性のインタビュー記事が載っていました。自分のキャリアを優先したいからだ、と。その是非を問うつもりはありません。

むしろ、国や社会システムの維持のために出産を奨励すること自体に私自身は違和感を感じますし、何人たりとも出産を強要されたり、圧力を受けることは良くない、と思っています。しかし、これは男性目線になってしまうかもしれませんが、子どもという存在自体が、自分らしく生きるための足枷でしかない、と考えているならば、それは大変残念なことだと思うのです。これは、そういった国々に限らないでしょう。子育てに限らず、そういった感覚は多くの人々が持っているのかもしれません。何よりも優先すべきは、この「自分」なのだ、と。

「自己実現」、「自分らしく」…。もちろん、悪い訳じゃない。しかし、それらは一体何を意味するんだろうか。もしそれらが、他者を顧みることをせず、自分だけのことになり、むしろ他者の犠牲の上に成り立つようなものならば、それは本当に求めるべき価値あるものになるのだろうか。極端な言い方をすれば、それらは己の栄光を求めることにもなると思いますが、果たして、それは本当の意味での栄光になるのでしょうか。

今日の福音書の日課は、よく知られた「変貌の山」の出来事です。イエスさまのお姿が眩いばかりに光を放つお姿に変容されたのです。そのことをルカ福音書はこのように表現しました。「栄光に輝くイエス」と。この光放つ変容の姿は、栄光の姿だ、と言います。神の子としての栄光の姿です。そのことを、イエスさまはここではっきりとお示しになったのです。

イエス・キリストは神の子です。光り輝く栄光の主です。この方にできないことなど、何もありません。まさに、歴史上においても、現代においても、この方以上に栄光に相応しい方はいないのです。この栄光のイエスさまなら、「自己実現」することも、「自分らしく」生きることも、造作もないことです。その栄光の主は、モーセとエリヤと一体何を語り合ったのか。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた」とルカ福音書は語っています。これは、他の福音書には記されていないことです。ルカだけの記事です。ルカだけが、ここで話し合われていたことは、イエスさまの最後、つまり十字架刑による死についてだった、と報告しています。眩いばかりに光り輝く栄光の主が話されていたことは、ご自分の死についてだった。

キリストの変容:ジョヴァンニ・ベリーニ (1430年頃 –1516) カポディモンテ美術館


今日の日課の出だしで、「この話をしてから八日ほどたったとき」と記されています が、「この話」とは、21節以下のいわゆる「受難予告」であることが分かると思います。

「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。』」。

イエスさまは何のために苦しみを受けられたのか。長老、祭司長、律法学者たちから排斥されたのか。十字架で死ななければならなかったのか。私たちは、知っています。私たちを救うためです。罪人を救うためです。敵さえも救うためです。この自己犠牲の愛に、私たちは救い主の姿を見たのです。光り輝く栄光の主は、そんな自己犠牲の主でもある。だから、ご自分の最後についても、話し合われたのです。そして、このイエスさまを信じる者たちにも、イエスさまに従おうとする弟子たちにも、そんな自己犠牲を求めておられるのだ、と思うのです。もちろん、強いられてではありません。圧力を受けて、でもありません。自ら望んで、です。

ここ数日間、私自身は非常な無力感に苛まれていました。もちろん、ウクライナ危機のためにも祈ってきましたので、その祈りが聞かれなかったという失望感があったのだと思います。しかし、それよりも、この信仰が実際の現実に一体どれほどの力があるのか、といった思いがあったことも否めないところです。もちろん、私自身に何かができる訳ではありませんが、しかし、世界は何一つ変わらないのだ、と落胆致しました。これは、度々私を襲う誘惑でもあります。改めて自分の不信仰ぶりに打ちのめされて、悔い改めているところです。

今は、一日も早い平和的な解決、戦闘の終結を願っています。と同時に、これも多くの専門家が指摘していますように、アジア諸国もこの様子をじっと窺っているとの分析も気になります。そう遠くない将来、安全保障のために、自国民保護のために、敵対行為に対抗するためにこれしか方法がないと、一見正しそうに思える理屈をつけては危険な状態にならないとも限らない。そんな状況の中にあって、私たちは改めてイエスさまの栄光のお姿を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。自分・自分たちのために、ではなく、誰かのために、といった自己犠牲的栄光のお姿を…。

今日の使徒書の日課には、こんな言葉も記されていました。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」。私たちもまた、あの輝かしい主の栄光に与かる者と変えられるのだ、と言います。しかし、その栄光とは、ご自分の最後について話し合われた「十字架の栄光」であるはずです。

私たちが鏡のように映し出すその栄光とはそんな姿ではないでしょうか?