【 説教・音声版】2022年2月20日(日)10:30  顕現後第7主日礼拝  説教 「 敵を愛しなさい 」 浅野 直樹 牧師

顕現後第七主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書6章27~38節説教題

今朝の福音書の日課を読みますと、「敵を愛せよ」との御言葉を聞きますと、私はいつもコーリー・テン・ブームのことを思い出します。この方はオランダ人女性で、第二次世界大戦を生き延びた方です。この方の自伝『わたしの隠れ場』(もっとも私が最初に読んだときには、確か『神はわが隠れ家』といったタイトルだったように記憶していますが) が日本語に翻訳されていますが、私が15歳で教会に行くようになりまして、おそらく最初に読んだ信仰書だったと思います。少年だった私の心に強い印象を残しました。

彼女は、オランダで家族で時計店を営んでいました。時は、あのナチス・ドイツが台頭している時代です。隣国オランダにも逃げ込んでくるユダヤ人たちが多くいたのでしょ う。そんなユダヤ人たちを助ける活動もしていました。しかし、ヒトラー率いるドイツ軍はあっさりとオランダを占領してしまった。彼女たち一家も、強制収容所に入れられることになりました。そこでの生活は過酷を極め、結局彼女だけ助かることができましたが、両親・姉妹はその収容所で命を落とすことになりました。

山上の垂訓 ヘンレク・オルレク (1830–1890), Denmark


そんな生活・体験をしたコーリー・テン・ブームでしたが、戦争に敗れ、荒廃し、焼け野原になっているドイツ・ドイツ国民を憂いで、復興のためにも宣教することにしたのです。しかし、どこに行っても、あまり芳しい反応はありませんでした。人々は憔悴しきって虚に会場を後にするだけ。その日もそうだったようです。しかし、出口に向かう人々を分けるようにして一人の男性が彼女に近づいてくるのが分かりました。しかし、その人 は、自分が収容されていた強制収容所の元看守で、しかも当時最も恐れられていた一人 だったのです。彼はコーリーの前に立ち、こう言いました。自分は戦後イエス・キリストを信じて、自分が犯してきてしまった罪・過ちが赦されていることを信じている。

しか し、危害を加えてしまったあなたの口から直に赦しの言葉を聞きたいのだ、と。
彼女は当惑しました。つい先ほどまで、彼らを前にして罪の赦しを、福音を説いてきました。また、自らもそれを信じ、その必要性を心から感じたがゆえに、宣教活動にも踏み出したのです。しかし、今、自分の目の前に立っているこの人物は、自分の両親の、姉妹たちの、仲間たちの命を奪っていった張本人ではないか。そんな人物を前にして、赦せると言えるだろうか。実際、彼女は赦せなかったのです。

今日の御言葉は素晴らしい御言葉です。おそらく、誰もがこの御言葉に共感し、こう だったらいいのに、と思うのではないでしょうか。しかし、本当のところは、どうなんだろうか。私は、尊敬するある先輩牧師のひとことも忘れられません。自分はまだ愛さなければならないほどの敵に遭遇したことがない。そう語られた。それもまた、私の心に深く刻まれている言葉です。

以前、こんな内容のことがテレビで放送されていました。真珠湾攻撃で戦死したパイ ロットの元婚約者が、パールハーバーで行われた慰霊祭に出席したときのことです。この女性は、慰霊祭に出席していた遺族、元同僚の退役アメリカ兵を前にこう言ったのです。
「あなた方は、私の大切な人を奪ったことを、一体どう思っているのですか」。かなりきつい口調でそう言われた。私は、正直愕然としました。この人は一体、何を言っているのだろう、と。それは、私の常識では、この場合日本は加害者であり、被害者である人たちに対して大変失礼なことだと感じたからです。しかし、愛する者を奪われるということ は、そういうことなのでしょう。常識や正当性など通用しない。消えることのない傷、痛み…。

今、ウクライナ情勢が非常に緊迫していますが、偶然にロシア側からの視点としての解説を見て、ちょっと腑に落ちたところがありました。その方は、ロシア側の行動を正当化したり擁護するつもりはない、と前置きした上で、こうおっしゃったのです。あの大国ロシアは常に侵略されることを恐れているのだ、と。ナポレオン遠征からはじまり、ナチ ス・ドイツの侵攻によって多大な…、日本の比ではないほどの被害が出ているからです。人は大切なものを奪われた記憶をなかなか無くすことができない。日本がアジアの各地でしてきてしまったこともそうでしょう。もちろん、日本国内においても…。
先ほどの先輩牧師の指摘ではありませんが、「敵」という認識を軽く考えているなら、これほど理想的な言葉はありません。誰だって、そうなったら争いがなくなり平和になることは分かっている。しかし、いざ本当の意味で「敵」というものを突きつけられた時 に、私たちはどうするのか。やはり、これは理想論に過ぎず、敵は叩き潰すべき、ということになるのか。

今日の旧約聖書の日課は、ヨセフ物語の一部ですが、これも非常に興味深い物語だと思います。
ヤコブには12人の息子たちがいましたが、ヨセフはその11番目の子どもとして生まれました。しかも、彼の母はラケル。ヤコブが愛した女性です。ですので、特に溺愛したようです。それが、他の兄弟からすれば、面白くないわけです。ある日、ヨセフを殺してしまおうと計画しますが、結局はエジプトに奴隷として売られることになりました。エジプトでも、無実の罪で訴えられ、長く牢獄で暮らすことになります。もう、踏んだり蹴ったりです。この不幸の原因は兄たちにある、と恨んだことでしょう。

しかし、転機が訪れました。有名な夢の解き明かし、です。詳しくは話しませんが、結局、飢饉を言い当てたヨセフをファラオは気に入り、彼に国の運営を任せることにしたのです。その飢饉はエジプトに限らず、周辺の国々にも及びましたので、パレスチナに住んでいたヤコブ一族も食糧に困り、エジプトに買い付けにきます。そこで、ヨセフは兄たちと再会を果たすのですが、しばらくは素性を明かしませんでした。そして、兄たちに無理難題をふっかけたり、とにかく嫌がらせをしました。そう、私はそれを嫌がらせだと思っています。おそらく、ヨセフはネチネチと兄たちに復讐を果たそうとしたのでしょう。私なら、きっとそうするに違いないと思いますので、そう読み込んでいるだけかもしれませんが…。ともかく、兄たちが困っているのを、遠くから見ていた。そして、とうとう兄たちはこんなことを言うようになりました。

「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった」。これらの話を聞いていたヨセフは「泣いた」と記されています。おそらく、兄たちの様子を見て復讐心が徐々に溶けていったのでしょう。

ともかく、そういったことを経て、今日の日課、「和解」になっていきました。ここに、敵に復讐する、報復するといった私たちの姿が見てとれる気がするのです。では、何がヨセフを変えていったのか。先ほど触れましたように悔い改めの姿を見て、ということも一つはあると思います。反省する姿です。私たちは、赦す前に、ちゃんと反省してほしい、という気持ちがある。少なくともそれが最低条件だ、といった思いがある。しかし、それだけでは不十分だ、ということも、私たち自身経験してきているのではないでしょうか。頭では分かっている。理屈としてはそう思う。しかし、どうしようもなく私たちの心は
「赦せない」という思いに囚われてしまうからです。

ヨハネ、父親ヤコブとの再会「サロモン・デ・ブライ作 1655年」


では、どうするか。視点を変える、ということです。私たちから神さまへ、と。ヨセフはこのように言いました。「わたしはあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」。私 は、これは簡単に言える言葉ではなかったと思います。おそらく、まだ17~8歳くらいだったでしょう。奴隷として売られたのは。そこから十年以上も不遇の時を過ごしたはずです。辛くなかった訳がない。簡単に水に流せるような年月でもなかったはずです。しかし、ヨセフは自分ばかりを見なかった。自分の境遇、不幸ばかりを見なかった。神さまを見上げた。そして、そこに意味を見出すことができた。だからこその、兄たちとの和解でもあった。そう思うのです。

最初に紹介したコーリー・テン・ブームもそうです。先ほどは、彼女は赦せなかった、と言いました。そうです。彼女自身としては赦せないのです。とんでもないことです。しかし、そんな彼女に御言葉が迫った。赦しなさい、と。しかし、できない。どうしたか。その気持ち、思いのままに祈りました。そして、赦せるように変えられたのです。それ が、まだ少年だった私の心にひどく響いた。もし、単に彼女の力、努力だけで、その心の有り様だけで赦せたとしたら、私は何も感じなかったでしょう。あれから40年近く経ちますが、いまだに覚えているということもなかったと思います。

私たちには、とてもできないことです。だからこそ、神さまがしてくださる。少なくとも私たちは、この御言葉を単なる理想論、綺麗事にしてしまわないように注意したいと思うのです。もし、この言葉が浅野の言葉だとしたら、これは単なる綺麗事です。しかし、これはイエスさまが、イエス・キリストが語られた言葉なのです。敵に十字架につけられたイエスさまが、その敵を愛されたイエスさまが、敵が真に生きるようになるために命を捨てられたイエスさまが語られた言葉。そのことも、私たちは忘れてはいけないことだと思います。