聖霊降臨後第五主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書5章21~43節
今日の福音書の日課は、先週に引き続き、いわゆる「奇跡物語」と言われるものです。
ご存知のように、聖書にはこのような「奇跡物語」が多く記されていますが、しかし正直に言いまして、私たちはこのような奇跡物語を読むとき、素直になれないようにも思うのです。どこか抵抗感を持ってしまう。それは、単に「非科学的」ということだけにとどまらないでしょう。恐らく、私たちの誰もが、一度は「奇跡」を願ったことがあるのだと思います。先週の日課のように、「嵐を鎮める」ような超自然現象を願うことはあまりないかもしれませんが、こと病気の癒しについてはどうでしょうか。
奇跡的な病気の癒し…、自分の病気、愛する者の病気が奇跡的に癒されることを願ったことがあるのではないか。そう思うのです。しかし、奇跡は起こらなかった。そういった経験の積み重ねが、たとえ信仰者であっても奇跡を諦めることになっていってしまったのではないか。あるいは、奇跡が起きなかったのは自分の不信仰のせいだ、信仰が足りなかったからだ、と自分を責める結果になったことから、奇跡に背を向けるようになったのではないか。だから、「奇跡物語」に素直になれなくなった…、少なくとも自分とは縁のないこと、関係のないこととして通り過ぎようとしてしまっているのではないか。そうも思うのです。
確かに、無理からぬことです。私自身、そういった経験を積み重ねてきましたので、気持ちは分かる。しかし、では、この聖書の言葉は、「奇跡物語」は、現代人の私たちにとっては、躓きを与えるだけのものであって意味をなさないのか、と言えば、そうではないと思うのです。なぜなら、聖書は奇跡の事実を伝えたいだけではないからです。奇跡的に願いが叶ったということを伝えたいのではない。そのことが、今日の日課には鮮明に描かれているように思うからです。
今日の日課は、二つの奇跡物語で織りなされていることはお分かりだと思います。一つは12年間も婦人病で苦しんでいた女性の癒しの物語り。そして、もう一つがヤイロという人の12歳になる娘の復活物語り、です。どちらも、大変な奇跡物語です。信じられないような不思議なことが起こった。しかし、よくよく見ていきますと、そんな奇跡よりも重要な物語がそこにおさめられていることが分かると思います。
まず最初の女性。彼女は12年間もひどい婦人病で苦しんでいました。恐らく、それなりの資産家でもあったのでしょう。こう記されているからです。「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」。貧乏人ならそうそう医者にかかることはできません。しかし、この女性は、多くの医者に、恐らく評判を聞いては何人もの医者を招いていたのでしょう。しかし、良くなるどころか、苦しい治療に耐えても、かえって悪くなるばかりだったようです。そのため、全財産も使い果たしてしまった、という。母によく言われたものです。「健康が一番」だと。
そうでしょう。たとえ多くの財産を持っていたとしても、体調を崩して苦しい毎日を送るようならば、ちっとも幸せではありません。だから、この女性も、財産よりも健康をとった。私たちにも、よく分かることです。しかし、結果が出ない。もうお金も底をつき、八方塞がりです。そこで、どこからともなくイエスさまの評判を聞きつけたのでしょう。駄目元、だとも思ったのかもしれない。とにかく、イエスさまの衣にさえ触れれば治ると信じて、人混みに紛れて実行したのです。すると、癒されたことを体が感じた。単なる奇跡物語であれば、これで充分です。女性の願いは叶い、奇跡的に癒されたのですから。
しかし、聖書はこの先の出来事に注目させるのです。すると、突然イエスさまはこの女性を探し求められた、と。この女性としては願いが成就したので、そのまま行きと同じようにコソコソと隠れるようにして帰ることだってできたのかもしれません。最初は、そのつもりだったのかもしれない。しかし、こイエスさまの呼びかけに、知らん顔はできなかった。なぜなら、その体が奇跡を体験したからです。まさに、イエスさまこそがこの私を癒した、救い出して下さったことを身をもって体験したからです。だから、恐る恐るイエスさまの前に出てきた。
そして、イエスさまに事の顛末を全て打ち明けた。ここで、はじめて単なる魔術・奇術の類ではなくて、信仰になった。聖書は最初の奇跡よりも、このことを伝えたいのです。つまり、イエスさまとの出会いこそが、この人を真に救ったことを。
一方のヤイロは、この一連の出来事に気が気でなかったでしょう。内心、イライラして腹を立てていたのかもしれません。今は、そんな時じゃないだろう。こっちは、娘が今にも死にそうなのだ、と。その不安が的中してしまった。家から使いのものがやってきて、伝えます。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と。ある方は、この知らせを聞いて、きっとヤイロは「どうしたら良いのか」と問うようにイエスさまを見つめたのではないか、そのように言われますが、私はそうは思いません。ヤイロは「お嬢さんは亡くなった」と聞いて、後の言葉は耳に入ってこなかったのではないか。立っているのもやっとの状態で、周りの気配も全て消えてしまって、静寂に包まれていたのではないか。そう思う。茫然自失。我が子を失うとは、そういうことです。
ここでも、これが単なる奇跡物語ではないことが分かると思います。彼の希望通りの奇跡は起きなかった。病気の娘を奇跡的に癒していただける、といった希望は潰えてしまったからです。娘は死んでしまった。しかし、もちろんこの物語には続きがある。奇跡の続きが…。聖書には記されていませんが、茫然自失となり、意識が飛んでしまっているようなヤイロに向かって、イエスさまは何度も、「ヤイロ、ヤイロ」と呼びかけられたのかもしれません。そして、我に返ったヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語られたのでした。
私にとって、このヤイロの物語は特別です。私自身、12歳にもならない長男を亡くした経験があるからです。長男が死にそうになった時、また死んでしまった時、私はよくこのヤイロと自分とを重ねていました。そして、長男にも「タリタ・クム」とおっしゃってください。そうすれば、彼は復活するでしょう、と涙ながらに祈ったりもしました。本当に苦しかった。そんな辛い心のうちを絞り出すかのように祈りました。しかし、彼は死に、復活もしなかった。奇跡は起きませんでした。では、本当に奇跡は起きなかったのか。長男は病気が発覚する数ヶ月前、自ら志願して洗礼を受けました。
まだ、小学一年生でした。そして、イエスさまを信じて、永遠の命・天国の希望を持って、旅立って行きました。これを、「奇跡」と言わずして何と言うのでしょうか。そして、そんな彼を見送るしかなかった私たちは、辛かった、苦しかった、悲しかった、その痛みはなかなか癒えるものではありませんでしたが、彼が天国に行けたことを信じることができた、やがて再会することができることに胸躍らせることができた。そして、私たち以上に彼を愛しておられる神さまに、安心して彼を任せることができた。これを「奇跡」と言わずして何というのでしょうか。
しかも、それは、私たちの信仰が特に優れていたからではないのです。茫然自失…、何も考えられなくて、望みも失って、絶望の中にへたり込むしかなかった私、私たちに、イエスさまが何度も何度も呼びかけてくださり、語りかけて下さったからです。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。そのように、気づくところ気づかないと
ころで、いつもイエスさまが私たちの背中を支え続けてくださっていた。
奇跡はあります。私自身は、癒しの奇跡も否定するつもりはありません。しかし、もっと大きな奇跡は、イエスさまと出会えたことです。イエスさまを信じることができたことです。イエスさまに祈り、奇跡を願えるようになったことです。この奇跡は、いっときの癒しの奇跡よりも大きくて、決してなくならないのだと思うのです。その奇跡中の奇跡を体験した人こそが、この病気に苦しんだ女性と娘を亡くしたヤイロだと思います。