(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)
むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、
日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。
ヨハネによる福音書 15:26-16:4a
新約聖書では聖霊は、「霊」や「み霊」と言う表現でも出てくる。これをおおよそのところだが、数えてみると、マタイでは11回、マルコでは10回とほぼ並行している。しかし並行していいはずのルカでは24回も出てくるし、同じ著者の使徒言行録ではなんと52回も出てくるのは当然と言えば当然の気もするものの、両者合わせて抜きんでていると言ってよい。これらは主として、聖霊の働きについての言及である。これに対してヨハネでは18回出てくるものの、そのうち16回はイエスのおことばの中で、聖霊について教えておられる場合である。無味乾燥な数字からも見えてくるものがあろう。聖霊降臨日の聖書日課では、使徒2:1-21を読んで、聖霊の働きの頂点でも、原点でもあるできごとについて聞き、ヨハネ15:26以下によって、イエスのおことばに即して「聖霊とはなにか」を学ぶのである。
イエスは聖霊を「弁護者」と呼ばれる。傍らに立つ者である。助け、導き、弁護し、支える方である。弟子たちは決してひとりで立ち、ひとりで行くのではない。常に傍らに立つ方がいてくださるのである。お遍路さんがひとりで巡礼していても「同行二人」(どうぎょうににんと読む)と背に記すという。私は、イエスの言われる聖霊こそ、私にとって、言葉の真の意味で「同行二人」なのだと信じる。しかもこの同行は、助け、助けられ、支え、支えられるような、相互の関係ではない。いわば、傍らに立ち、同行する聖霊が常に一方的に助け、支え、導き、弁護するのである。イエスの約束にしたがって、私たちひとりひとりにこの同行が与えられている。
この聖霊は「真理の霊」である。同行して、真理を示す。これには「真理/真実」と重ねてかいておくとよいような意味合いが込められている。イエスが「私について証しをする」と言っておられるのだから、「キリストであるイエスの真理/真実」を明らかにするわけである。キリストはどのような方であり、なにをなさったか、なにをなさるかを告げるのである。聖霊の助け、弁護、証言はこの点に集中する。この点に尽きると言ってよい。徹頭徹尾キリストを証言するのである。
使徒たちは、この聖霊という同行者の助けを得て初めて、キリストを証しすることが可能とされる。使徒2:1以下はその決定的な出発点、原点についての記録である。それまで部屋に閉じこもっていた彼らが、人々の前で語りだすのである。使徒たちひとりひとり、それぞれの心に刻まれたイエスのことば、働きを、救い主キリストのことば、教えとして語り始める。それぞれユニークに語りながら、多様さの中で豊かに、唯ひとりのキリストについて証言する。この導きが今もなお、神のできごとを人間が人間の言葉で語り伝えること(説教や証しなど)を可能にしているのである。
しかし、聖霊に導かれる使徒たちのキリスト証言は迫害の状況ももたらす。歴史の中でも起こりつづけることである。そのただ中でも聖霊の助けがキリスト証言に留まらせる。1934年ヒットラーの支配と、教会制覇が始まったころ、これに反対して立ったドイツの「告白教会」が出した「バルメン宣言」と呼ばれる文書の一項を思い起こす。「聖書において我々に証しされているイエス・キリストは、我々が聞くべき、また我々が生と死において信頼し、服従すべき、神の唯一のみこと場である」。
(1997年 5月18日 聖霊降臨日)