【 テキスト・音声版 】2020年8月9日 説教「疑いは、信じる第一歩」小山 茂 牧師

聖霊降臨後第10 主日 礼拝


*Rembrandt Christ in the Storm on the Lake of Galilee -1633年

詩編85:9~14 ローマ10:5~15 マタイ14:22~33

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

序  対岸へ向かう弟子たち

直前の福音書は、皆さまよくご存じの「五千人の供食」です。主イエスは五千人にパンと魚を配る前に、お独りで静かに祈りたかったのでしょう。しかし、飼い主のいない羊のような群衆をご覧になって、彼らを深く憐れまれ食事を用意されました。その彼らを解散させて、一人で祈るため山に登られました。主は弟子たちを強いて舟に乗せ、先に対岸へ向かわせました。弟子たちの意向ではなく、主は逆風の海原に敢えて彼らを送り出されました。ガリラヤ湖の北側を東から西に向かう舟は、強い逆風に悩まされ、湖の中程で留め置かれました。彼らの中にかつてこの湖の漁師もいますが、夜が明けても対岸に着けません。夜通し船を操って、既に疲れ果てていました。主は山からその様子をご覧になり、湖の上を歩いて彼らの所に来られました。

主イエスは弟子たちに近づかれ、彼らは主を幽霊と見間違え、恐ろしさから叫び声を上げました、「幽霊だ!」主は彼らに声をかけられました、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」ペトロは一刻も早く主の許に行こうと、主の声に応えました、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらへ行かせてください。」主が言われました、「来なさい。」ペトロは舟を降りて、水の上を歩き出しました。主の傍まで来て主から目をそらし、大波に心を奪われました。すると身体が沈み出し、恐ろしさから叫び声を上げました。「主よ、助けてください!」伸ばされた主のみ手は、彼をしっかり掴まえました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られました。二人が舟に乗り込むと、風はぴたりと鎮まりました。

Christ on the sea of Galilee REMBRANDT Harmensz -National Galleryof Victoria, Melbourne Felton Bequest, 1928


《2.  ペトロの大胆な体験》

皆さまはペトロという人物を、どのようにご覧になりますか。彼が情熱的で直情型な性格に、私はどこか好感を覚えます。おっちょこちょいですが、自らの気持ちを素直に表現します。今朝のペトロの言葉に、彼の二面性が見られます。

⑴ 「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」それは主イエスの言葉に信頼して、水の上を歩かせて欲しい。自分ひとりでは心もとないが、主の言葉の力を借りて従いたい。それは、彼なりの信仰を口にしたものです。

⑵ 「主よ、助けてください。」彼にはいざとなった時、助けを求められる主がおられます。ペトロの心の内には確かな信仰と、弱い信仰が同居しています。彼が水の上を歩き始めたのは自分の力ではなく、主の力によるものです。「来なさい」と言われたので、ペトロは水の上を歩けたのです。
主に信頼しながら主から目を離し、強風に恐れを感じた途端、彼の身体は沈み始めます。主イエスに委ね切る難しさを、彼の慌てふためく姿に見られます。

神学者のカール・バルトはこの聖書箇所、ペトロの体験をキリストの眼差しから語りました。かなり長い説教を簡潔に紹介します。「ペトロはあえて勇敢に、もろもろの障碍にもかかわらず、イエスのみそば近くに行こうとした。他の者たちが服従はじっと待つことと考えていたのに、ペトロは服従とは何かを大胆に行うことと考えていた。彼がぜひそうしたいと思って、イエス自身が彼に命じるように仕向けたことから、私たちには分かる。ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。それは、一切のためらいと障碍にもかかわらず成される、喜ばしい大胆な
キリスト教的冒険である。彼は危機の時に自分がいかに神を疑ったか体験した後、自分自身を疑うことを学んだ。

この自分自身の力についての不確かさは、きっと大丈夫と考える確かさよりも、岩のように堅固な信仰の基礎となる。かくして、沈むペトロの姿は、私たちに信仰の敗北は神の祝福であると語る。このような敗北を体験する人は幸いである。」バルトはペトロの信仰の冒険を、喜ばしい大胆なものと肯定的に捉えます。私たちも同様の冒険を促され、やってみなさいと勧められているようです。ペトロの疑いはいずれ信仰の基盤とされ、そんな敗北を味わう人は幸いである、つまり祝福される者であると言います。私たちのもつ知識や常識を覆す、福音の逆転がここにあります。

 

 

《3.  信じること、疑うこと》

主イエスは、溺れかかったペトロを掴んで言われます、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」彼の信仰を薄いと言われますが、不信仰とは言われません。ペトロは信仰を失ったのではなく、恐れを感じて弱められたのです。彼に与えられた信仰は弟子といえども、からし種一粒の信仰は残されています。自らの弱さを隠さずに、「主よ、助けてください」と叫び声を上げたことで分かります。ペトロは信仰のヒーローではなく、「信仰の薄い者」たちの代表として登場します。彼のもつ強さと弱さは、キリスト者がこの世を生きる姿そのものです。主は筆頭弟子のペトロでさえ、
信仰の薄い者と言われます。彼は主イエスに「あなたはメシア、生ける神の子」《16:16》と信仰を告白し、主から天の国の鍵を授けられます。彼は模範的な信仰者としてではなく、薄い信仰の持ち主として、主が救いの介入をされた弟子のひとりです。私たちも弱さと疑いをもつ、「信仰の薄い者」のひとりではないでしょうか。

この後も復活されたイエスは、弟子たちに顕われますが、彼らは信じられません。約束通りガリラヤで再会した彼らは、主の御前にひれ伏します。それでも、彼らの中にまだ疑う者もいます。

主は彼らに、大宣教命令と言われる遺言を残されます。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。」弟子に限らず私たちも、主と真剣に向き合おうとすると疑いが出る、それが人間の性なのでしょう。主をよく知りたいと求めないなら、疑うことはありません。心を頑なにして聞く耳を持たないなら、疑うことはありません。主を心から信じたいから、心の内に葛藤が生まれ、疑ってしまうのです。つまり、疑いは主と向き合おうとする時、生まれてくるものです。

主と共に歩もうとする自らのうちに確信を求め、信じたいが信じ切れない自分がいます。疑うことは信仰につきものであり、信仰は祈りの内に生まれると、逆に考えてみたらどうでしょうか。信じることは、自分に確信を持つ人に、できることではありません。他者である主に依り頼むことから、見えてくることなのです。自らの信仰に疑いもつことは、必ずしも悪いことではありません。主イエスに真剣に向き合って、父の声を聴こうとするなら、神にどこか畏れを抱くものです。私たちの知恵や常識では、理解できない領域だからです。それが信じることへの第一歩になります。私たちは時計の振り子のように、信仰と疑いの間を揺れ動きます。主イエスは私たちの信仰と疑いに、寄り添って共に歩まれる方です。からし種一粒の信仰を与えられ、それを粘り強く成長させて、きっと実を結ばせてくれます。

「からし種の譬え」を思い起こしてください。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣をつくるほどの木になる。」《13:31~32》私たちの信仰が育てられる過程で、疑うことがあっても構わないのではないでしょうか。私たちが主を求めてどれほど疑っても、主はきっと私たちの信仰を育ててくださるからです。

 

《結び  疑いは信じる第一歩》

牧師を目指す神学生は3 年次に、7 か月間の宣教研修があります。その研修で私を指導された牧師は、神の存在を疑ったことは一度もないと言われました。私はその反対でしたから、その言葉は衝撃的なものでした。最初から素直に信じられる、その信仰は本当に幸いであり、羨ましくさえ思いました。

個人的なことで恐縮ですが、私の信仰の道程は、五反田ルーテル幼稚園から始まりました。そこで福山猛先生とハルヨ夫人、ご長女の尚美先生との出会いがありました。卒園して1 年半後に武蔵野市に引っ越して、ルーテル教会から遠ざかりました。それでも福山先生ご一家と便りを交わし、近所の教会やYMCA に行きました。30 歳を過ぎてどう生きるか迷った時、福山先生からむさしの教会を勧められました。当時は賀来先生とキスラー先生がいらして、私はユテコ会で市吉伸行兄や石垣通子姉や橋本直大兄と、様々な学びと交わりに与りました。

ユテコ会は使徒言行録20 章に登場する青年=エウティコに因んだグループ名でした。パウロの話を聴いていたエウティコが居眠りをして、3 階の窓から落ちて死んでしまい、パウロが生き返らせた物語です。会の名前からは、あまり熱心な求道者のグループには見えません。しかし、ユダヤ教の会堂を訪問したり、聖書研究を自分たちでしたりしていました。私の記憶にあるのは、福山猛先生・内海季秋先生・もうお独りは青山四郎先生でしたか、3 人の牧師の前で私が聖書研究をしたことです。老練な先生方の前で稚拙な発表になり、冷や汗と赤面したことを忘れません。私は35 歳で洗礼を受けて、

50 代に入って神学校に行き、50 代末に牧師とされました。そんな私ですから、信仰について立派なことは言えません。それでも偶然や運命ではなく、主から見守られ導かれて、私の50 代からの歩みは想定外になりました。
我家では私が初めてのキリスト者であり、妻は結婚してキリスト者になりました。私たちがキリスト者にされるには、自分だけの力では難しいのです。主イエスから執り成しをされ、多くの皆さまから祈られ、御言葉を解き明かされ、教会に居場所を見つけます。ヨハネ福音書の「イエスは真のぶどうの木」のように、私たちはぶどうの木につなげられ、教会という房に実を結ばれます。受洗の折にキスラー先生からいただいた、「ぶどうの木」の版画を今でも大切にしています。



私たちの信仰の道程には、疑うことが許されています。一番弟子のペトロでさえ、主イエスから「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られました。私たちが信仰に辿りつくまで、じたばた迷うことが許されています。主イエスは太っ腹なお方で、私たちが信じる最後まで、待ってくださいます。神は独り子イエスをこの世に遣わされ、私たちをひとり残らず救おうとされます。

神の御旨を深く知って、疑う者から信じる者へ変えられ、「あなたは神の子です」と告白させてください。今私たちは新型コロナウィスルという混沌の中にあります。弟子たちと同じように、ガリラヤ湖に船を漕ぎ出して、風と波に弄ばれる不安の中にいます。進むことも戻ることもできず、溺れそうにもがいています。決して順風満帆ではなく、逆風満帆の状況にあります。私たちはむさしの教会という船に乗って、主の御言葉をかけられています。主を幽霊と間違えた弟子たちに、さらに私たち一人ひとりに、主イエスから声が届きます。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」その神顕現の言葉は、ギリシア語で〔エゴゥ エイミィ〕と語られます。英語で言えば、I amです。旧約聖書の出エジプト3:14 を想い起します。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」イスラエルの指導者モーセが、自分が派遣される訳を問うた折、神が答えられました。神ご自身が、「わたしはある、誰が何と言おうとも、あなたの神として存在する」、と力強くモーセの背中を押されました。私たちは「主よ、助けてください」と叫んで、初めの一歩を踏み出して参りましょう。今朝の使徒書のローマの信徒への手紙10:13 でパウロが主イエスの約束を語ります、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」皆様とご一緒に祈りながら、主のみ名を求めて、信じる者にされていきましょう。



《祈り》

慈しみ深い主よ。弟子たちが乗った舟は、私たちの教会です。その舟は嵐に翻弄され、進むことも戻ることも困難の中にあります。私たちはあなたに「助けてください」と叫ぶことが許されています。弟子たち同様私たちをも、「来なさい」とお招きください。私たちが挫けそうな時、主はきっと近づいて来られ、勇気を出しなさいと励まされます。

この祈りを主イエス・キリストのお名前によって、御前にお捧げいたします。アーメン


*聖書台横の朝顔の鉢